最初の疑問を書き直しますね

慈悲の瞑想を「慈悲の実践」と言っているなら、わからなくはないです
あくまで自分の中の、瞑想の中の実践ということであって、他人様に施しをするという事ではないですから

でもその慈悲の瞑想を自慰的だといって批難している人たちがいます
根拠にしているのは「慈悲の実践」と称して寺のある田舎村の村人を助けることを
ワークとしている比丘の発言なんですね
物理的な人助けに展開していかない慈悲の瞑想なんて…と言っています

しかし仏陀は偈を読むことすら生業としてはならないとしました
お百姓さんは畑を耕すことを生業とし、仏陀たちは心を耕すことを生業としている、とも
そのことに対して布施があるのです

お布施を頂いて、瞑想修行をし、ワークとして信仰の篤い村人を人助けする
それってw村人が尊いお方たちとみなしてくれているお約束の中で成り立ってることでしょう?w

世間ではボランティアは無償で人助けをしていますよ

お布施をもらってそれをやって感謝されている、それを根拠に
仏陀の説いた慈悲の瞑想だけをする事には意味がないみたいな言い方をする事に
とても違和感があるんです
そ彼らのやっているワーク「慈悲の実践」は本当に慈悲なんでしょうか?

とても違和感があります