マインドフルネス Part.25
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。 そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。 当スレで採用するマインドフルネス瞑想の定義については、Wikipediaをご参照ください。 マインドフルネス - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/ マインドフルネス 『マインドフルネス(英: mindfulness)は、今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる。 マインドフルネスの語義として、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。』 マインドフルネス瞑想は、その源流となった仏教瞑想を越えて、広い範囲でマインドフルネスの名称が冠される状況であり、宗教、健康法、心理学の各分野に今や広い裾野を持っています。 当スレが話題の対象とする「マインドフルネス瞑想」は上記定義のものですが、それ以外のマインドフルネスを冠する技法や、 瞑想一般の話題、呼吸法、マインドフルネス状態を喚起する瞑想以外の方法についても、禁止ではありません。 単発IDであっても過剰な発言量にならないよう程々に情報交換しましょう。 また、感情的なレスのやり取りは周りにも迷惑ですので控えてください。 前スレ マインドフルネス Part.24 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1570453260/ マインドフルネス系の人たちが標榜する科学も、宗教的立場のひとつでしかないよ。 ピンと来ないかもしれないので言葉を補うと、 マインドフルネスは科学的で、仏教系・ヨガ系は宗教なのだ、なんなら迷信なのだ、 みたいな態度は宗教的独善の態度と何にも変わらないということ。 科学が前提としている意識についての認識も、別にそれが正しいとは証明されて いないわけだから、もしそれを信じているなら実は信仰でしかない。 しかもそれは迷信だ。 マウントとか言われると、なるほどそう感じるのかと困惑してしまうのだが、 迷信に気づいてそれをうち捨てることに価値と利益があるってことね。 科学というか観測事実を言ってるだけだからね これからも条件が絞り込まれていくだろうし 学説も変わってくるだろうし 「やっぱ科学だからいいんだよw」みたいなのは信仰でしかない 特殊な脳波が出ても野狐になったら駄目だよ 仏教だからとか科学だからとか、どっちも権威主義になったらくだらない話だよ 宗教と科学が対立概念であった時代は、もう終わったんじゃないかな。 ただし、知っていく人と知らないまま流されていく人とでもの凄い格差が 拡がっていく気がする。 経済格差だけでなく、いろんな側面において。 マインドフルネスでもティクナットハンさんでも悲しみや嫌悪感が出てくる時点では 自然現象みたいに解釈していたけど、 スマナサーラさんは悲しみや嫌悪感が出てきた時点でアウトみたいな言い方なんだよな 目に見えない心の話だけにどう解釈すればいいか考えてしまう 「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」 自分から悟りの世界へ近づいて行こうとするのは迷いである。悟りの世界のほうからの働きかけがあってはじめて心身脱落し、悟りの世界に溶け込むことができる。 悲しみや嫌悪感が出たときそれを消そうとするのも悲しみや嫌悪感と同じ主観に過ぎないのでただ自然現象だと受け流せばいいと言えるだろうけど 本当にただの自然現象に過ぎないとみなせたら主観が消えていき悲しみや嫌悪感は出なくなるので悲しみや嫌悪感が出たらアウトとも言えるかと 嫌悪感が自然現象なら なぜ釈尊はそれを否定したのかね? >>41 生存の原因が過去世からの行為で 行為の原因が思いに有ると見たからだろうね 宗教だとか科学だとかどうしてカテゴライズして対立軸をつくるかね そうじゃなくて、議論のどっち側にもマインドフルネスがいない宗教論争なら他でやれってだけの話だろ 相応部経典>4 六処篇 「第九 無為相応[アサンカタ・サンユッタ] 第一品 第一 念身 366.サーヴァッティ因。 比丘たちよ、無為と無為に行く道を説こう。それを聞きなさい。 比丘たちよ、何が無為か。 貪りが尽き、瞋りが尽き、癡かさが尽きること。 比丘たちよ、これが無為と言われる。 比丘たちよ、何が無為に行く道か。 身体を念じること。 比丘たちよ、これが無為に行く道と言われる。 (中略) 第二 止観 367.比丘たちよ、無為と無為に行く道を説こう。それを聞きなさい。 比丘たちよ、何が無為か。 貪りが尽き、瞋りが尽き、癡かさが尽きること。 比丘たちよ、これが無為と言われる。 比丘たちよ、何が無為に行く道か。 サマタとヴィパッサナー。 比丘たちよ、これが無為に行く道と言われる。 (後略) https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429& ;id=27636288 無為とは早い話が涅槃のことで瞋りとは怒りや嫌悪のこと。 貪りと瞋りと癡かさ、つまり貪瞋痴の三毒が尽きた(滅した)のが涅槃(安らぎ)なのだから、涅槃に至りたいのなら当然怒りや嫌悪は制御できるようにならんといかんわけです。 その方法として身体を念じたり止観を行じたりしなさいとブッダは説いてくださってるわけですな。 インドの伝説的ヨガマスター直伝「ネガティブ思考を克服する5つのステップ」が深すぎる&効果絶大!! 今を生き抜く“最強のヒント”とは!? https://www.excite.co.jp/news/article-amp/Tocana_201708_post_13931/ >>41 人は実に生まれながらに、口中に生じた斧をもっている。人は悪口を言っては、その斧で自分自身を斬(き)る。 (「ウダーナヴァルガ」) https://youtu.be/9EFfIXcu87E 悪口を言うのは脳科学的にも良くないとか最近は言われてますよね。最近の話ですけど。 経験則で言うと嫌な事があってその事を考えたりしてるとドンドン嫌な気分になりますよね。まあ、だから目を背けて生きろって事でもなく。 >>45 > 涅槃に至りたいのなら当然怒りや嫌悪は制御できるようにならんといかんわけです。 経典コピペして間違った結論を断定してる 涅槃にはそれらがないからといって抑制すれば良いというものではないよ 制御できるようにならんといかんのと抑制するのはまた別だと思う むしろ喜びに浸らないことが怒りを消すし、好きを消すことで嫌いも消える という瞑想の実際を仏陀はどこかで説いてるだろう それをちゃんと試して確かめた人ならば 「怒りや嫌悪をを制御」なんて言葉はそこに出してこないと思う 制御出来るようにならんといかん、なんて言ったら あたかも怒りや嫌悪を抑制したら涅槃に至るみたいだがそうじゃない もちろん、かといって怒りや嫌悪に任せていたなら涅槃には至らないが 逆なように見えて逆ではない全く違うことだ 似て非なるものだ わからないことを経典から推論するのは止めた方がいい 言葉の使い方を自分の言葉の使い方でしか解釈できない言葉の概念に執着してる人 ある人に怒りを感じたとして、その人はあなたを怒らせたことで得をしているわけではない 怒りを感じる=マイナスポイント、怒らせる=プラスポイント、みたいなゲーム的世界観を思い描いても仕方がない 個別の怒りや嫌悪に振り回されることをやめて、怒りや嫌悪を生じさせるような世界観を手放すべき ところで、「滅」と漢訳されたことばの言語は「ニローダ」といいます。 辞典でも確認したように「滅」という漢字にはたしかに「消える、滅びる」というニュアンスが強く表れていますが、原語のニローダはそうではないのです。 インド語(サンスクリット、パーリ語)のニローダは「制御する、抑制する、コントロールする」を意味することばであって、「消滅する」を第一義とはしていません。 漢字の「滅」とは大きく異なるのです。 もちろん、コントロールし続けた結果として最終的に消滅させてしまう可能性まで否定するものではありませんが、ニローダが漢字の「滅」とは異なり、「消滅する」を第一義としていないという点は、是非とも確認しておいていただきたいのです。 中村: そのように説くこともございます。これはやっぱり人間の根本的な迷いですね。 その迷いに基づく欲求というものに対してどう対処したらいいか、ということが問題になるわけですが、人間が生きている限り煩悩とか欲求を無くすことはできないわけなんです。 けれど、それを野放しにしておいてはいけない、それを制するということを説くわけです。 これを漢訳仏典では「滅」と訳しておりますが、これがさっきお話にでました「四諦」―四つの真理のうちの第三になるわけですね。 その根本的な煩悩を滅する、と訳されておりますが、これは言語で申しますと、「ニローダ」という言葉が使ってあるんです。 「ニローダ」というのは、「堰き止める」という意味なんです。 奈良: 「滅する」というと、無くしてしまう。ゼロにするということで、従いまして欲望を滅する、と言われますと、欲望をゼロにしてしまうことだ、と。 そうしますと、本能的なものをゼロになんかできっこないではないか、と。 こういう考えがすぐ出てくるんですが、そうではなくて、それを制すること、抑えることでございますね。 中村: ええ。放っておきますと、人間の煩悩というのはどっちへどう現れて動かしてくるかわからないでしょう。 それを間違ったことをしないように制するというのがニローダなんです。 これインドの文献にもいろいろ出てまいりますがね。 例えば文学書なんか見ますと、美しい女官たちを後宮の中に閉じ込めておくこと、これもニローダと言うんですね。 たとえば、ニローダという語です。 日本で古来もっとも知られ、読まれていた般若心経の漢訳では「滅」。 この漢訳語でニローダは誤解をされたようです。 チベット訳では「制する」。 つまり、チベット人は「滅す」ことではなく「制する」という意味に解しています。 また、原始仏教聖典の中の古い詩によれば、ニローダとは「制する」とハッキリ書かれているようですから、せっかくホームヨーガ提唱40周年を記念して、『ヨーガ・スートラ』を世に送り出すなら...と、トコトンこだわり妥協しなかった経緯はそこにあります。 パタンジャリは究極の心の平安を『ヨーガ・スートラ』という一冊にまとめました。 お釈迦さまも思考と感情の産物である欲望の消滅を目指したものの、欲望を力ずくで抑え込む苦行や、思考と感情を停止状態に持ち込むことが、最終的な解脱をもたらすものではない...ということに気づかれたとか。 ですから、お釈迦さまの瞑想は思考停止を目指すのではなく、徹底的に思考するものだったようです。 https://blog.goo.ne.jp/homeyoga/e/13b56cf85e94bd2f53fd06af23dd8a58 >ですから、お釈迦さまの瞑想は思考停止を目指すのではなく、徹底的に思考するものだったようです。 まあここは、サマタ瞑想なら思考停止を目指すでもいいのではないかと思う。 仏教のサマタの最終境地は想受滅定で滅が制御にせよ滅にせよ思考停止させる禅定ですし。 制御 抑制の問題はかなり難しいテーマだね 実体験上では何も抑制しなくても観察さえできてれば というよりも抑制しようとしている間も自分に負けて流される間も観察してるのは所詮自分で自分をコネクリ回してる陽炎のような思考の動きに過ぎない でもすっごく覚悟を決めて出家とかそれに類する状態に自分を追い込むなら抑制制御で飛躍的に瞑想は早く進むだろうね っていうか出家やそれに類する態度自体が抑制制御に他ならないもんね でもどっちかっていうと 抑制 制御 と聞いて また自分は怒ってしまった また貪ってしまった ああ 自分はなんて駄目なんだ っていう思考回路になりがちな方がやっかい ちょっとちょっと その落ち込んでる今の美味しい状態を観察するんだよ 抑制制御が本物になるのは観察を極めた結果だからーーーー 極めたは言い過ぎか 無我の体験を超えるごとにの方が適正 怒りや嫌悪を対象にコントロールするわけではないからなぁ サマタだって「怒りよ静まれ怒りよ静まれ」と集中して念じるわけではない 怒りを観られた瞬間、怒りは消える 怒りとは自分の中から生まれるものですから、解決方法は「毒そのもの」を抜くことしかありません。 ヴィパッサナー瞑想法(お釈迦さまが教えた、悟りに至る瞑想法)でいう、「今の瞬間の自分に気づくこと」です。 それが世の中でいちばん科学的な、怒りの毒を抜く方法なのです。 ですから、怒りが生まれたら「あっ、怒りだ。怒りだ。これは怒りの感情だ」とすぐ自分を観てください。 怒りそのものを観察し、勉強してみてください。 「今この瞬間、私は気持ちが悪い。これは怒りの感情だ。ということは今、私は怒っているんた」と、外に向いてる自分の目を、すぐに内に向けてください。 最初は、「人が何かを言うと、すぐに怒ってしまう」というところまでは仕方がありません。 でも、それからも延々と人の言葉に振り回されるのではなく、怒った瞬間に「これは怒りだ。怒りだ」と観てください。 そうすると、怒りは生まれたその瞬間で消えてしまうはずです。 消えてしまったら、心は次の瞬間を感じようとすることができます。 怒りが消えると、すごく気持ちがいいのですよ。 たとえば頭が痛いときに鎮痛剤を飲めば、痛みは消えて、霧が晴れたように気持ちよくなるでしょう? それと同じで、怒りが消えたら、すごく気持ちがよくなるし、元気になれるのです。 すぐに幸福を感じられるでしょう。 (スリランカ初期仏教長老アムボムッレ・スマナサーラ『怒らないこと』) > 抑制しようとしている間も自分に負けて流される間も観察してるのは > 所詮自分で自分をコネクリ回してる陽炎のような思考の動きに過ぎない そう、そのような「観察」では抑制、制御をしようとする、という話だね サマタ習得中ならそうなるだろう 観察者は浮かんでは消えるようなものではない 浮かんでは消えるような観察では苦は抜けない ありのまま評価せず観察のマインドフルネスには未だならない サマタがうまくいくにはどうしたら? という話なら、まあそれで全然いいんだけど アサンカタとか無為とかいう言葉を「解釈」しないほうがいいよね >>64 >アサンカタとか無為とかいう言葉を「解釈」しないほうがいいよね では比丘たちよ、いかなるものが無為なのでしょうか。 比丘たちよ、貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽。 比丘たちよ、これが無為といわれるのです。 (無為相応) https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnpv/dn33/dn33c12.htm スッタニパータ 1037 アジタよ。そなたが質問したことを、 わたしはそなたに語ろう。 識別作用が止滅することによって、Viññāṇassa nirodhena, 名称と形態とが残りなく滅びた処に、Yattha nāmañca rūpañca, asesaṃ uparujjhati; それ(名称と形態)が滅びる。etthetaṃ uparujjhati’’. しかし、ブッダゴーサの縁起の捉え方は、ある意味で厳密であり、他の部派とは異なっていた。 他の部派の多くが縁起を無為法(条件によって作り上げられたのではない、永遠不滅の法)として捉えていたのに対し、 ブッダゴーサは、縁起を『無碍解道』が説くところに従い「輪廻的生存における結果でありまた条件である縁起支」として、すなわち無常なる現象として捉えている。 縁起を永遠不滅の無為法とか理法としては考えない。 ブッダは、永遠不滅の無為法である縁起を認識して仏となったのではなく、条件によって生じ滅する無常なる縁起支を観察・認識して仏となった、とする。 (ブッダゴーサが無為法とするのは、涅槃のみである。) http://www.dia.janis.or.jp/ ~soga/bdghosa.html 比丘たちよ、私は無為を、また無為へ導く道を教示しましょう。それを聞いて下さい。 では比丘たちよ、いかなるものが無為なのでしょうか。比丘たちよ、貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽。比丘たちよ、これが無為といわれるのです。 では比丘たちよ、いかなるものが無為へ導く道なのでしょうか。止Samathoです。 比丘たちよ、これが無為へ導く道といわれるのです。 比丘たちよ、このように、私によってあなたがたへ無為が教示され、無為へ導く道が教示されました。 比丘たちよ、およそ弟子たちの利益者にして憐愍者である師によって、憐愍をもってなされるべきこと。それは、私により、あなたがたへなされました。 比丘たちよ、(禅定するに最適な)これらの樹下、これらの空屋があります。 比丘たちよ、あなた方は禅定をなしなさい。放逸となるなかれ。後に後悔することなかれ。 これが、あなたがたへの、我々からの教誡です。 https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn43/sn43c01.htm このようにサマタでも無為に到ることができます。 不放逸ではだめですが(サマタに限らず不放逸では無為には到れない)。 数息観はサマタかビパッサナーか分からないけど、やり方は簡単だけどもいざやるとなると難しいな。 呼吸と共に10まで数えている内に雑念が入ったら振り出しに戻るルールを厳格に守るといつまで経っても10までいかない😭 >>74 諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教 しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう 諸々の悪しきことをせず、もろもろの善いことを実行しなさい。 そして、自ずからその意(こころ)を浄めていくこと。これが諸佛の教えである。 この七仏通誡も簡単だけど高度なんだよね 会話が成立しなくてもいいから自分の言いたいことを言って満足していくスタイル >>74 そういうやり方の数息観があるのは知ってるけど… 数に集中して数える能力を身に付けても何の役にも立たなくない? >>74 初めてやってみたときに 凄くビックリしたりおかしかったり感心したりしなかったかな? 俺はもの凄く驚いたし嬉し恥ずかしって感覚が湧き起こったよ あれ?自分のことなのに自分で制御できない 今まで何十年って生きてきて初めての発見 疑念 と同時に新しく自分という存在のあり様を知った新鮮さ 加えてただの1分も止めておけないという情けなさというか気恥ずかしい感じ 全てはそこから始まった 瞑想に挑戦しつつ同時に自分という不思議 一番面白い謎解きクイズにもなり得る 挑戦しがいがあるよ >>74 数が10いかないのなら30秒とか1分 欲を言えば3分黙っていられるまで続ければいいと思う そこまでいけたら鼻先を通る空気の感覚でも良いし お腹 胸が動く感覚や気体が通っていく感覚を感じることにスイッチしてもいいと思う 俺は集中目的 サマタの時は吐くごとに体が溶けていくというか力を抜いていく そういう感じでやってたかな 首の後ろにお化けがいそうで硬直してる時もあったけどw >>78 平安末期に比叡山一の名僧とか智慧第一の法然房と呼ばれた法然でさえ禅定の時に心が定まらず、嘆き、 山を降りて法相宗(唯識)、三論宗(中観)、華厳宗、真言宗の門を潜りそれぞれの師範からその機根を絶賛されてもなおこのように語っています。 「凡夫の心は、物にしたがひてうつりやすし、たとえば猿の枝につたふがごとし。 まことに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし。 いかでか悪業煩悩のきづなをたたんや。 悪業煩悩のきづなをたたずば、なんぞ生死繋縛の身を解脱することをえんや。 かなしきかな、かなしきかな。いかがせん、いかがせん。 ここに我等ごときはすでに戒・定・慧の三学の器にあらず。 この三学のほかに我が心に相応する法門ありや」 それほどに禅定の時の雑念(法然はそれを猿に喩えた)は御することが難しいということです。 その後法然は7000巻に及ぶ漢訳一切経(パーリの一切経の10倍以上)を5回も読破しましたが、救われることはありませんでした。 結局法然は聖道門(自力)を諦め浄土門(他力)にシフトしようやく心の平安を得たとされます。 まあ我々在家信者は法然よりももっと気楽にやって良いとも思いますが。 >>79 それは知ってるわw 想念を静めるのが目的だったら上手く数えられたかどうかなんか関係なくて、極点な話 いち、いち、いち でもいいわけ 数えることそのものじゃなく、上手く数えられるかを観っぱなしの数息観だったら、数えるのが上手くなるだけじゃないかってこと >>81 法然さんにそんなエピソードがあったんだね それは面白い話です 貴重なお話ありがとう 怒りの制御にからめて思い起こすのは、忍辱波羅蜜。 忍辱の元来の意味とは、反応を選択する力であり、不善に流されず善を 選び取る力のこと、という話を聞いたことがある。 単に嫌なことを堪え忍ぶだけ、という消極的な我慢のことではなかったらしい。 ニローダの滅とは、そうした修道の先にあるものなのかな。 ただし善とはいっても、解脱を思考する場合には、単なる欲界善 にとどまらず、主に離欲のことを言っているのかも知れないが。 数息観なんか一ヶ月でガンギマリレベルまで習得できるだろ そうしたらもうひとつのことに意識を向け続けるのは止めるんだよ 法然はお念仏やりつづけたけれど、それは手放さなきゃ駄目だ あの時代の人では致し方ないが… 親鸞はそのポイントを上手く捉えた 今みたいにメソッドの伝わってなかった時代にそれを見抜いて 歎異抄という素晴らしい要諦にまとめた親鸞は天才だよ 掲示板だと話の文脈がぶつ切りなうえ、判断材料が文字と言葉だけなので 背景事情も確認できないから、即断で画面の向こうの名無しについて何か を断定できるほどのことは分からないと思う。 色んな専門板を巡回してるけど1レス辺りの行数が断トツで突き抜けてるのはマインドフルネスのスレなんだよね 頭が言葉で溢れてしまうタチの人たちが集まるのはマインドフルネス瞑想にとって本望だよね 例えば、もし宇宙飛行士が中世にタイムスリップしたとして、 世の中の人に宇宙から見た地球について説明しようと思ったら かなり難しいと思う。 宇宙からみた景色そのものには言葉は要らないし、シンプル だとしても。 瞑想について語る時も同様で、、禅の領域を完全にないものと して無視するなら話は別だが、かなり慎重に意図の伝達する 条件を考慮して話さないと、かなりの高確率で誤解されるの ではなかろうか。 説明自体は巧くできても、コミュニケーション上の配慮に欠けると マウントだと思われるリスクがあるし、説得力のある個性を備えた うえで話さないと、常識より上の話をしてしまったら、常識より かなり下に見られるリスクもある。 ほんとうに難しい。(と感ずる >>82 出来る様になってから次の瞑想に移るっていうだけでも重要じゃない? 特に色界四禅は瞑想というよりも自己催眠に近いし 自分で自分を制御するのって大事かもよ 四禅がありのままの定義でしょ、テーラワーダ的に話をするならば で ありのままの観察するのに何で制御とかいう話になるんだw >>82 心がスーッとなるブッダの呼吸法の著者高田明和氏は数息観よりも無と一体になれる無の呼吸を勧めていました。 一つ二つ三つと数える数息観とは違い、むーむーむーと一回の呼吸毎にむーと唱えながら禅定をする、と。 元々は禅において有名な趙州狗子の公案を体得するためにその無の呼吸が指導されていたそうです。 高田氏曰く、数息観よりも精神統一には効果的だと思います、とのことです。 自分はそれを読んでもなお数息観でやってますけどね。 理由はむーむーむーだと単調で返って気が散って雑念が湧いてくるから、あくまで自分はの話ね。 >>94 四禅は観ではなく止の瞑想。 四禅に入る前には五蓋の制御は必要とされますね。 歎異抄をまとめたのは親鸞の弟子の唯円。 親鸞が書いたのは教行信証など。 >>94 ありのままに観じたその先が有るんだよ 念じるという事は意識して心に変化を加えるという事だろ? 〜念処経(サティパッターナ・スッタ) あるとき、わたしは、このように聞いた。 ある日のこと、仏陀は、クル国に存在する、 カンマーサッダンマの町に、止まられていた。 そして、比丘衆に対して、このように説かれた。 「比丘衆よ、涅槃に至る、一乗の道がある。 その道は、四つの念じる処、四念処観である。 そして、この四つの念処とは、如何なるものか。 第一に、身に対して、不浄であると念じること。 第二に、受に対して、不快であると念じること。 第三に、心に対して、無常であると念じること。 第四に、法に対して、無我であると念じること。」〜 >>98 四禅と四念処がごっちゃになってますよ。 また四法があって四禅という。 比丘が欲・悪・不善の法を除き、覚(=尋・vitakka)あり観(=伺・vicāra)あり、離より生じる喜びと安楽ある初禅に入る。 内に信仰ある心統一であって、覚・観が止み、定より生じる喜びと安楽ある第二禅に入る。 喜びを離れて捨を修し、念が強くなって、自ら身の安楽を知り、諸々の聖者が求める憶念・捨・楽ある第三禅に入る。 苦楽の行を離れて先の憂喜を滅し、不苦不楽・捨・念清浄ある第四禅に入る。 『長阿含経』卷六 「衆集経」第五 いかにも、その私は、比丘たちよ。諸々の欲望からすでに離れ、諸々の不善のものから離れ、概観的思考(尋)を伴い、精緻な考察(伺)を伴い、離から生ずる喜びと安らぎの第一禅を成就して住した。 [その私は]思考と考察が静まり、内心が静まって心が一点に向かっている[禅定]、思考と考察のない禅定から生ずる喜びと安らぎの第二禅を成就して住した。 [その私は]喜びに染まらず、無関心(捨)に住し、また思念、正知を持ち、また身をもって安らぎを感受した。およそ聖者たちが説くこと、すなわち、無関心にして思念を持ち安楽に住する、という第三禅を成就して住した。 [その私は]安楽を捨て、苦を捨てて、もう前もって心の喜びと憂いを滅して、苦が無く、楽が無く、無関心によって思念がまったく清らかな第四禅を成就して住した。 中部経典19経『双考経 (二種の思い) 』 >>98 受が不快なら人はなぜ風俗に行くのか? なぜわざわざ高いお金を払ってまで不快な思いをしに行くのか? >>99 四禅の先に四念処が有るという意味で出したんだけど? http://way-to-buddha.blogspot.com/2011/05/blog-post_3479.html 四念処を正しく行うためには、色界の禅定である初禅(第一禅)には、到達している必要がある。 しかし四念処を行う中で、初禅(第一禅)には、自動的に到達するのである。 そいうことから四念処により、色界の禅定に達成することができ、色界の禅定との関係が深いといえる。 >>100 通常は不快だと感じないから敢えて不快だと念じる事で快楽への欲求を打ち消すっていうテクニックの話でしょ? それに快と不快は表裏一体だから快だけを得て不快を得ない法は無い筈だよ 横から失礼します>>100 >>98 の意訳がよくないと思います。 受の部分の訳は短く読むのに時間が掛からないと思うのでそのリンクを貼ると https://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/139239bcd9a0fef59914a6e407c83529 要するに快の場合も不快の場合もそのどちらでもない場合もしっかりと観じて、 それら生滅する感覚は苦であるので無我(非我)である、ただの現象である、と絶え間なく知覚して日常を送りなさい、というお経。 風俗に行って快楽を得てもその快楽の滅もしっかりと観察して、感受の無常、苦(思い通りにならないこと)、無我(非我)を観じてそね快楽という受への執着を離れなさいという教え。 >>98 想像で言ってるだけなんだね 違います > ありのままに観じたその先が有るんだよ > > 念じるという事は意識して心に変化を加えるという事だろ? >>101 >>94 と話がイマイチ繋がっていません。 それにその引用文にも四禅の先に四念処があるとは書いてませんよ。 四念処を行う中で四禅の初禅に自動的に達することができるとあり、先ではなく同時です。 四禅の先にあるのは四念処よりも無色界の四禅、更にそれらを超えた想受滅定です一般的には。 >>105 つまり四念処を正しく行う為には色界第一禅に到達してる必要が有るが 色界第一禅に到達する為には四念処を正しく行う必要が有るって事かな? という事は何度も反復して確認する必要が有ると? 四念処は、どれもその様にうまく知覚できる状態を探すと そこはうまく自我の落ちたところから俯瞰しているポイントなので そこから見ている状態を維持するのであって 余計なものを作りながら生きてる状態から離れるということ いわば本来持ってるバランスの取れた人間の状態に戻るということ 無駄に思い込みや考えを働かせようとして生きるのを止めれば、 慈悲と観察を維持していれば生きるのに必要十二分な洞察が生じてくる しかも実はそれは人間自然にやってる 人間の生命活動の殆どは意識せずにやってることだ そして、洞察が現れたらそれに反したことは出来なくなるもんで それはコントロールするというよりも コントロールしようという無駄な余計な取るに足りない事から離れるということ だよ やってみたらそうなるでしょうに >>110 この経文からだと文字通り人が日常思わないイメージを加えるのが念じるという事だと読めるよ? >第一に、身に対して、不浄であると念じること。 >第二に、受に対して、不快であると念じること。 >第三に、心に対して、無常であると念じること。 >第四に、法に対して、無我であると念じること。 念じるは sati であって、 そのような想像をして概念を植え付けることではないですよね? 大体が、制御しようとするから無常が苦になるんだよ 形あるもの、永続的なもの、制御可能なものと思うことが無明だろ 念は通俗的には「念じる」だけど 四念処だと「今まで感じてきたと思っていたのと違う姿としてそれらを見てごらん」 という意味も含まれる それは同時に禅定に入ってからは自然にそう見えるという有様でもある そのような感覚として気づくということ 思い込もうとかそういうことではなく、世界の見え方が変わってるから と同時に、その様にいつでも気づきが得られるならば苦を滅し続けることになる ここの念がサティでしょ ここにも境地的な飛躍はあって世界はガラッと変わるよ これはいくら言葉で解釈しても駄目 実際にやってみたら全然違うことを指してるとわかる 苦を制御するのではなくて、身口意を制御するんでしょ? 禅支でいったら尋や伺は制御だし、三学でいったら戒は制御だと思う。 でも、それは別に苦や欲や怒りを制御しているわけではない。 それらは、身口意を制御していくなかで、結果的に問題でなくなってくる。 ・・・気がする。 >>112 じゃあ念じるを気をつけるに変えて読んでみたら? 気をつけるというのは既成概念として成立してないと無理だと思うけど それならわざわざ経典に残す必要無いんじゃない? 別の経典で想いに依って思いを打ち消せみたいな表記も有ったから やっぱりこの場合の念じるは意識して想う事だと考えるよ 第一に、身に対して、不浄であると気をつけること。 第二に、受に対して、不快であると気をつけること。 第三に、心に対して、無常であると気をつけること。 第四に、法に対して、無我であると気をつけること。 既成概念と違うから説いているわけだろうな やらなきゃわかんないことを、自分の既成概念で理解しようとすることが不毛 >>118 そこは後で原典と解説を確かめてみようと思います。 >>119 と被りますが、無我等の洞察は慧なので、実践上は正念の延長線上に 自然とでてくるものだと思うんですね。 (三学=戒律→禅定→智慧) >>111 My Libraryの仏典訳はコンパクトで仏典の内容紹介には良いですが、意訳が過ぎる場合がありあまり鵜呑みにしない方が良いです。 My Libraryで概要を知ったら、ちゃんとした訳当たった方がよろしいかと。 特に原文のパーリ語が書いてあるものだと訳者のドグマも入ることがないので良いですよ。 このサイトとか https://komyojikyozo.web.fc2.com/top.html 大念処経だと https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn22/dn22c00.html 更にその中から例えば話題になっている【受随観】 https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn22/dn22c04.htm 比丘たちよ、ここに比丘が、あるいは、楽なる受を感受して、『私は楽なる感受を感受する』と了知します。 原文は了知するpajānātiであって念ずるではありません。 ここで念satiは380-10に出てきます。 智のため、念のために依止しないまま住するかぎり、あるいは彼には『受が存在する』という念が現起しますが、しかし彼は〔すでに智と念に依止しているため〕世における何ものをも執受しません。 ※え‐じ【依▽止】 の解説 仏語。力や徳のあるものに依存し、それを頼みとすること。 >>121 ありがとうございます ガラケーなんで文節毎に対訳されてるサイトは表記が見づらいので 通して訳されてるサイトから引用してます >>116 その通りで制御するのは行為(カルマ )であり煩悩であって、それらを制御するための道が八正道などの道諦で、その道諦よって滅諦に到れるということですね。 >>114 禅定に入れば自然とそう見えるのならば釈迦は2人の仙人からそれぞれ無所有処と非想非非想処を学び習得した時点でほぼ梵行は完成していて、 その後苦行林に行く必要もなかったはずですがね。 >>120 有りました この文脈でも意図的に沸き起こった悪い思いに反対の想いを念じる事で解消するテクニックが説かれていますが 今日やって今日出来る事ではないと思われます 思いと想いを使い分けてる事からもこれはこうした技術の事だろうと考えられます 考想息止経(ヴィタッカサンターナ・スッタ) 仏教 第一章 あるとき、わたしは、このように聞いた。 ある日のこと、仏陀は、サーヴァッティの、 ジェータ林にある、アナータピンディカ園で、 集まって来た、比丘衆に、このように説かれた。 「増上心、すなわち、善き心を求める者が、 時に応じて、意を注ぐべき、五つの法がある。 それでは、この五つの法とは、如何なるものか。」 「第一の法は、悪い思いが、生じたときに、 それに対し、善い想いを、念じることである。 心から善いと思えると、悪い思いが消えていく。」 「例えば、彼を殺したいと、思ったときは、 反対に、彼を愛したいと、念じるべきである。 慈愛が善いと想えると、心の瞋恚が消えていく。」 以下略 >>124 そう、正にそこ そこで無我ということが重要になる ちなみにゴータマ少年は十三歳で初禅に入ってるし 出家するまで十五年の間に苦を見るようになった 比丘たちよ、増上心(禅定)を実践した比丘たちによって、時々に作意されるべき五つの相があります。 いかなる五つか。 比丘たちよ、ここに、およそ相によって相を作意する比丘に、欲を伴い、瞋恚を伴い、また愚痴を伴う悪しき不善の尋思が生じた〔ならば〕、比丘たちよ、その比丘によって、その相より別の、善を伴った相が作意されるべきです。 その相より別の、善を伴った相を作意する彼には、およそ欲を伴い、瞋恚を伴い、また愚痴を伴う悪しき不善の尋思、それらが捨断され、それらが消失します。 それらの捨断により、内なる心が住立し、静まり、専一となり、統一されます。 https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn02/mn02c22.files/sheet001.htm また別サイトでの中部20経の訳 https://w.atwiki.jp/waikei2008/pages/20.amp この経は思考のコントロール法のお経ですね。 >>126 はい、で菩提樹の木の下で成道してもその後も修行者であり続けた。 本当に三毒が完全に滅尽し生存の素因(煩悩)を断ち切ったのなら、それらは二度と芽生えてこないのだから修行者であり続ける必要もなかったんですけどね。 初禅に入らなかったら仏陀の言われる苦がなんなのかなんて いくら経典読んでもわからんよw 経典頭に詰め込んでも無駄だから坐ったほうが良い >>131 さらにまた、修行僧たちよ。ここで一人の修行僧が次のように語ったとしよう、 ───〈これこれの住所に(修行僧の)集つどいがあって、長老や尊長も住している。わたしはこのことをその集いからまのあたり直接に聞いた。まのあたりうけたまわった。 ───これが理法である。これが戒律である。これが師の教えである〉と。 修行僧らよ。その修行僧の語ったことは、喜んで受け取らるべきではないし、また排斥さるべきでもない。 喜んで受け取ることもなく、また排斥することもなく、それらの文句を正しく良く理解して、(ひとつずつ)経典にひき合せ、戒律に参照吟味すべきである。 それらの文句を、(ひとつずつ)経典にひき合せ、戒律に参照吟味してみて、経典(の文句)にも合致せず、戒律(の文句)にも一致しないときには、この結論に到達すべきである、 ───〈たしかに、これはかの尊師の説かれたことばではなくて、この集いの誤解したことである〉と。 修行僧らよ。それ故に、お前たちはこれを放棄すべきである。 しかし、もしもその文句を、(ひとつずつ)経典にひき合せ、戒律に参照吟味してみて、経典(の文句)に合致し、戒律(の文句)に一致するならば、結論としてこのように決定すべきである、 ───〈たしかに、これはかの尊師の説かれたことばであり、この集いが正しく理解したことである〉と。 (パーリ大般涅槃経) http://www.dia.janis.or.jp/ ~soga/excha236.html 邪見に陥らないようにするためにも経典と引き合わせること、と尊師も説かれています。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる