マインドフルネス Part14
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
当スレで採用するマインドフルネス瞑想の定義については、Wikipediaをご参照ください。
マインドフルネス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/マインドフルネス
『マインドフルネス(英: mindfulness)は、今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる。
マインドフルネスの語義として、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。』
マインドフルネス瞑想は、その源流となった仏教瞑想を越えて、広い範囲でマインドフルネスの名称が冠される状況であり、宗教、健康法、心理学の各分野に今や広い裾野を持っています。
当スレが話題の対象とする「マインドフルネス瞑想」は上記定義のものですが、それ以外のマインドフルネスを冠する技法や、
瞑想一般の話題、呼吸法、マインドフルネス状態を喚起する瞑想以外の方法についても、禁止ではありません。
過剰な発言量にならないよう程々に情報交換しましょう。
前スレ
マインドフルネス Part13
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1531719048/ 頭でっかちになった皆さんに送ります。ふと故郷が恋しくなるこの季節、初恋のあの子はどうしているだろうか?ああ、幕妄想、そして知行合一。少しずつでも座りましょう。その先の光を信じて。それでは歌って貰いましょう。ビートルズで『知床旅情』 観察する主体が、あるともないとも言えないもので、名付けようもないものだというのが、
一神教の神は名前を呼ぶことも出来ないというのと共通するなら
洋の東西を問わず、真理をみる人間は同じものをみているわけで
なかなかに興味深い
まぁ、戯れ言… >>1
乙です
>>2
知床といえばうちに知床のゆるキャラ知床戦隊ラウフィッシャーの人形があるよ
個人的には絶妙のキモかわいさなので皆さん画像検索して癒されてや ゴータマには悟りを目指す大義があった
大義があるから我欲を捨て去ることが出来た
つまり、悟りが目的というのは何か変な話なんだよ それは王子として産まれて生きた
経験があって産まれた大義ですか? 彼のこの上なく崇高な精神が王としてなすべきことを見出した
全ての衆生の内面にはカーストを支えている宗教的な思い込みが深く根付いている
まず自分がそこから脱することで救おうとした
それは大義でしょう
社会制度の歪みを内面から解き、脱した
だから解脱でしょ
悟りを目指して、一体何から誰を救いますか? どちらかといえば衆生である我々が、何から自由になる目的で瞑想をするのか
どのような義があり脱私できるのか
小さな義、例えば社会の一員として人生を全うするであるとか
女房子供を幸せにしたいとか
親に、恩人に、会社に報いたいということとか
それに応じて瞑想をすればいいんじゃじゃないですか
それは小さな悟りと言えるかもしれないですよね
ストレスを解消したくて瞑想をしているうちにそういった脱私的な目的を見出してくる事もあります
けどそこで仏教でいう悟りとはこうだ、それを目指せ、輪廻だ、ステージだ、
とか古めかしい異文化のピンとこないことを言われたら、はーそんなの自分には要らないや、となります
それではお釈迦様の説いたこととは違ってくるのではないですか?
だから、悟っていようがいまいが、悟りを目指さないマインドフルネスという
選択をする、許容していくということは広く見て釈迦の教えにも
自然に繋がっていることだと感じますがね 有名なお釈迦様のことだから気にならなくなってるのかもしれないけど
伝聞でしか知らない他人のことをそれだけ想像で語って自分の主張にまで繋げたら普通はキモいひとって言われても仕方ないことですよね 逆質問は「答えられない」という意思表示です、対話拒否なわけです
ならこちらも答える必要もありませんし、論点が違いますよね
私は結論は譲ってますから、前提がおかしいと考えるならなおさら無視していいんですよ
自分が悟ることに、自分の中以外に現世的な価値がないなら
それは我欲では?という問から逃げられないと思います
しかし、社会生活を営み、そこで生じるストレスを軽減するために瞑想をすることには
大なり小なり義があり脱私があります
それを目的にしているのが矛盾でしょうか?
釈迦の説いたことを一字一句なぞっても、釈迦以後のインド社会の実現にしかならないのでは
その社会の延長に弥勒菩薩が現れますか? マインドフルネスのスレに書き込まないといけないことなのかな
ここじゃなくて仏教や悟りのスレに書きこんだほうがいいんじゃない?
そういうスレいっぱいあるんだし しません
彼らは彼らで信じたいことを信じればいい
自由ですよ
それを阻害する権利はわたしにはないから
わたしは悟りを目指さないマインドフルネスにも価値があるという話をしています また、釈迦が極めて崇高な清らかな精神を持った理想の王であったことは
皇族も仏教を学んできたことからも、日本では認められているのではないでしょうか? 物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、事物が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。
不死(しなない)の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。
最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きるほうがすぐれている。 マインドフルネスは悟りを目指すべきという方も悟りを目指さなくていいという方もどちらもそんなに主張しなくていい気はするけど 子どもや家畜のことに気を奪われて心がそれに執著している人を、死はさらって行く。___眠っている村を大洪水が押し流すように。
子も救うことができない。父も親戚もまた救うことができない。死に捉えられた者を、親族も救い得る能力がない。
心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。 805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。
806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。 >>21
なるほど、あなたが言いたいこと最初から言ったらこちらも誤解しなかったかもね
> 引用してる人
真理は常に現世的に具体的なものだと思う
いま、洪水が止められなくとも、治水をすれば将来の人々を救える
そうだよね
必ずしも家族を救わなくともそこには利他の心がある
如何に脱私するかという話を平易にしているのだが、あなたは理解していないな まあ、俺みたいなどこの馬の骨かわからん奴の長い駄文なんか全部読んでられないもんね
今日はおしゃべりしすぎた これから瞑想やってみようと思うんだけど、呼吸に集中するのとロウソクの火に集中するのどっちがおすすめ? 法華経の自我偈と観世音菩薩普門品偈を読むのは鬱にいいと聞いた
もちろん般若心経も良いらしい
詳しくは
般若心経 鬱
で検索 断然呼吸
だって何も持ち歩く必要ないし
何か間違えても火事にならないし
他人に目撃されても変じゃない >>27
うーん そうですねー とりあえずどちらもやってみて興味が持続する方を選べば良いと思いますよ
ロウソクを選ぶ場合は火を観察するのではなく 火を見ている自分を観て下さいね 火に集中してしまうとただの精神統一になってしまうので 頑張って下さいね おお 釈尊の話題が出ているではないですか! 乗り遅れた...
私は人間 ゴーダマ シッダルダに親近感を覚えます きっと不安で何かしっくりこなくて 言葉でハッキリとは説明できない何かを解決したかったんではないかなと想像します
確かな何かを求めて彷徨い歩いてもがいていたんだろうなと 偉い先生から色々学んでも一向にしっくりこない 気持ち悪さが解消できない 納得できない
妥協なくやるだけやった後 完全に諦めた瞬間に自我を完全に放棄したんだろうな なーんてロマンチックに想像しますね
悩みの深さ 真剣さは敵わないでしょうが少しは問題を共有している気がして励みになりますね 励みになります?
あなたはいつも上から「頑張って下さい」と人を見下す悟った覚者様じゃないんですか?
もう精進する必要なんてないでしょう 「頑張って下さい」が他人を見下す表現だとは思わないけどある状態に達したという慢心は生じてるのかもしれないね
達した自分という観念を少しでも作るとその分だけまた後戻りになるんだよね そんなに邪険にすることないさ
覚者さんでもマインドフルネス否定しない人なら俺は歓迎 >>31
ロウソクを見ている自分を観察とは、浮かんでくる雑念の観察でしょうか?それとも自分の体の感覚などでしょうか?質問ばかりすみません。 自分は断然呼吸派。危険性うんぬんじゃなくて兎に角簡単。それに呼吸法とか数息観にも繋がるから。でも両方ってのもアリだと思うし事故が起きない工夫でもしとけば良いだけ。人には向き不向きもあるし。 >>31
火を観察するのではなく火を見ている自分を観るのが正しいってのははじめて聞いたんだけど、どういう理屈でそうなるの? 火(視覚)だけを観察するのはサマタ、六根全てを観察するのはヴィパッサナー、定義があいまいなのがマインドフルネス 自分のことは脇に置いてひたすら火を集中して見るサマタ瞑想(集中瞑想)と火を見ているその自分の状態を観察するマインドフルネスがごっちゃになってるな ろうそくの火の揺らぎをぼんやりと眺めてると段々と無意識に突入できる気がする
街の灯りでもそうなる気がするブルーライトヨコハマー
紙に書いた文字をひたすら見続けるのもアジカン、リライトするのもアジカン
催眠術でも凝視法って言うのがあって、それでトランス状態に入る方法はある >>36
>>38
原則として観察系の瞑想は自分を観察するんです 一瞬一瞬自分の状態が移り変わっていきますが その一瞬一瞬に「自分の興味(意識)」が何に向かっているかを観察します
例えばロウソクを見るとき 自分自身の目 ロウソクの二つが存在しますが 漫画の集中線(?)をつけるとしたら目の方になります 日常生活ではもちろんロウソク側に付きます
もっと厳密にいうと集中線は自分自身全体だとか自分の中心である胸だとかお腹だとか眉間だとか色々議論はありますが とにかく集中線をつける場所が通常とは違うという意味です 悟れば、修行はしない。悟れないバカが、修行している、のだ。
修行しているバカの言う、ことを信用しないことである。 釈迦は一生修行してた
むしろ悟りなんて人生の始めの方ですませておくべき
そこから本当の修行が始まる ポッタン師はお利口さんだね
>>42
キャンドルの飾り付け見る時、普通は一つ一つの火をじっと見ることはしない
恋人や家族連れできてキャンドルきれいだねと、自分の幸福感を見てる
そゆこと? 定義が曖昧なんじゃなくて、マインドフルネスはサマタもヴィパッサナーもやるよ マインドフルネスはファンタジー
マインドフルネスはノスタルジー
マインドフルネスはメルヘン 悟った後も悟後の修行と言って午後の紅茶を毎日3L飲むと言う修行が待っている
これを怠るとカルト教祖みたいになる
はっきり言って午後の紅茶の売り上げの殆どは真面目な修行者による物 >>47
そうですね 瞑想しているという意識がないのでさらっと見ていると思います ですが必ずロウソクまたは灯としての群 集合として一瞬 それは0.1秒か0.5秒かわかりませんが意識をそちらに向けています
そして次の瞬間にはすっぱり意識から外れて親しい人の表情に意識が向かい また次の瞬間には自分の胸の辺りで ほわっとした嬉しいような反応に意識が向いて 自分は今楽しい気持ちと感じていると思います
もちろん料理や時計やその他諸々 一瞬で これから時計を見るぞ!と意識することなく勝手に意識が向かい 勝手に体が動いているんです 全部観察すると
見ている(ロウソク) 見ている(表情) 感じている(楽しい気持ち) 見ている(時計) という感じになると思います その中から自分の気持ちに限定して観察するのもわかりやすくて良いと思いますよ >>51
マインドフルな状態ですね
以前、自分は結構強い感情の伴うガツッと壁になる思考が働いてしまうことがあったのですが
観察でそれが取れてきてから一日中マインドフルが保ちやすくなってきたようです ちょっと違う話でもあるんですが
始めたのがマインドフルネスでもヴィパッサナーでもなかったのでうまく説明できなかったのです
自分はサボりサボりてすが数年間自律訓練法をやっていたので
「評価や反応をせず云々〜」はある程度出来ていたみたいで
そのマインドフルな状態は受動的集中(受動的受容)と同じなんでは?と思っていたのですが
学術論文探してみたら同じと書かれていました
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33073/rsr014-03-takahashi1.pdf
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpm/57/8/57_836/_article/-char/ja/
なのでマインドフルが一応わかったということにします
自律訓練法では体調のいい時はマインドフルな感じでも、体調など悪い時に出てくることの多い
強い感情のくっついた思考は特に観察するということをしなかったんですよね
それでなかなか消せなかった
観察をすることを知ったらホイホイ消せて、自律状態=マインドフル状態を保ちやすくなりました
そうしてみると、マインドフル状態を妨げる意識下にある感情+思考の石ころ〜大岩に気づいて
そいつをちゃんと観察してやって消す、あるいは解きほぐす
という繰り返しなのかなぁ
あと自律訓練法スレにも書いたのだけど
自律状態で現れる温感などは受動的受容で観察すると強まる
不安とか怒り悲しみみたいなものは観察すると消える
本当に面白いものですね >>53
へぇー 色んな入り口があるんですね 勉強になりました
マインドフルな状態を妨げる というのは逃げ出したい直視できないようなものがあって観察するのを拒否してしまうということでしょうか?
それとも気づいたら想念 雑念 思考だけになってしまうということでしょうか?
基本的には観察だけで良いんでしょうけど 私なんかは自分がどんなもので構成されているのか知りたくて やっていくうち わかっていくうちにどんどん面白くなって 掘り起こし 解きほぐし そして自分を許し認めるということも貴方と同じようにやっていましたよ
消そうとはしなかったです 消えていったという感じでしたね >>42
二点あって
一点目は、元の質問が息か火かって聞いてたんだから観察系ではなく集中系じゃないのだろうか?それでも集中の対象は「自分」なの?
二点目は、観察系としても、観察系の対象は六門すべて(五感+想念)だと思うんだけど、何故に眼門の対象を意門にわざわざ割り当て直すのか?それって事実おきざりじゃね?
ってとこですね
普通のマインドフルネス瞑想のアドバイスとしてはちょっと異色な気がしたもので、バックグラウンドが気になったのですわ 元の質問は集中瞑想を想定しての質問だろうね
でもここはマインドフルネスのスレだし観察瞑想としてのアドバイスをしちゃったんだと思う
観察の対象は基本は自分では選ばないけどアーナパーナ(呼吸の瞑想)を集中としてやる場合、観察としてやる場合などあるし、あと歩く瞑想とか行為を選んでするやり方、
それから観る対象を心や身体などに絞ってやるやり方、心随感や身随感などもあるから、そのへん考慮してアドバイスしたんじゃないかなあ、たぶんだけど
マインドフルネスをおしえるなら基本的なやり方をおしえたほうがよかった気はするけど、質問者が何かを見るやり方をしたかったみたいだしどうなんだろう >>56
自律訓練法は些細なストレスやなんかにはとても効果を感じてました
ほぼほぼマインドフルと言って良い状態になるし
そこでは何も新たな問題は作り出してないと思われます
しばらく肉体的に疼痛も続いていて、体調悪化とか嫌なことが立て続けに起こったりして凹んだ時に、
言い換えれば運が悪い時に、理由求めたりしまっています「何でこうなった?」と
そういう時に数パターンの強い感情を伴った特定の思考、妄想、想念に陥っていたんです
「あの時の〜」とか「あの人が〜」とか、その場その時その日と関係ないことです
イヤな感覚を伴います
それらが出てきた時の対処がわからなかったので出っぱなしにしていたんですね
坐禅ではそうするとか聞きかじっていたので生兵法です
ずぼらなたちですし、坐禅のような完成された姿勢を取ってませんですから
出てきたら受け流せず流されてしまってダメな感じになる
それは無駄なので止めてしまいます
本当はそれでも何回かリセットして繰り返し、キッチリ短い時間で止めれば幾分楽になるし
マメにそれを昼夜やればよいのはわかってるのですが
疲れているとつい流されるままに妄想をやってしまうことがある
(つまり、一旦はマインドフルな感じにはなるんですが妄想が浮かんできて流される感じです)
それで、外的な事情が色々重なった時に絶望感を感じてきまして
もうちょっと自分に合ったナチュラルな方法はないかなと言うことで観察する方法に出会ったんです
消すというか、観察する、ですね正確には
ほぼ、それまでにやっていたことに観察を加えただけです
「あの時の〜」みたいな妄想が出てきたり、その時の嫌な感じが出てきた時に妄想はガッツリ持続しますから
まずそこで観察してみることにしました
自律状態(マインドフル)→呼吸観察→妄想を観察→薄れていくのを観察→消えてしまったら呼吸観察です
ひとつ消えていくと他のが現れてくることもありましたけど
観察して消えていかないということもなく、消えていきました (つづき)
観察ということを始めてから、観察を拒否したことは下のリストの※の時一度だけですが
慈悲の瞑想を5分位やって再度観察したら大丈夫でした
どんなものが構成していて〜、というのは答になるのかわかりませんが
記憶、それにまつわる感情、ならザックリ大体わかる程度です
・自律訓練法だけのとき
・一通り観察し終えて、強い感情が現れなくなった
・※その後、強くないけれど恐怖感狂気感に支配された時があってなくなった
その区切りでマインドフルに入るのが早まった感じです
実際のところ、全く評価が入っていないともいい切れないですし
一日中保てているとも言えないです
けど始める前は「おいおい一日中そんな事出来るかよ無理だろ」と思っていたので、かなり近づいてきたと思います >>57
なるほど サマタ瞑想をしようと思うんだけどって意味だったんですね それならば私の勘違いでした マインドフルネスについての場所なので てっきり呼吸を観察するか 対象を置いて 見ている 見ている 自分は見ている という自分を観察する という意味かと思ってしまいました
> 二点目は、観察系としても、観察系の対象は六門すべて(五感+想念)だと思うんだけど、何故に眼門の対象を意門にわざわざ割り当て直すのか?それって事実おきざりじゃね?
> ってとこですね
難しい言葉が一杯出てきますね... 調べたんですが上座部の用語ですよね? 意門の意味がよく掴めません 中心って意味ですかね? 観察中になんで自分自身全体を意識する必要がある??って意味でしょうか? >>57
>>58
すみません。自分が思ってるものと別ものみたいですね。
ネットで調べたのは何かに集中し雑念が浮かんだら客観的に観察し、また集中を対象に戻すやり方でしたので。
スレ違いすみませんでした。 自律訓練法も実践しているし効果も否定しないけど、マインドフルネスとは違うのでは
マインドフルネスはあるものをあるがままにただ観察、レッテルも貼らないし何より意識状態が
醒めてる
自律訓練法は半覚醒に近い感じで、定型の言語公式をくりかえし、あるがままの実際の状態とは関係なく
その状態にもって行くために受動的集中をおこなう。
受動的注意集中をことさら強調するのは、能動的に注意集中すると、温感や重感を十分に
感じられない場合に焦りが生じて抵抗を生むから、あえて受動的にぼんやりと定型文を繰り返す。
言ってみれば催眠暗示に近い。非定形言語公式で暗示をかけることも応用として出来る(「いぼがころり」など)。
半覚醒だから消去動作が必須でそれをしないとだるさが残る。
マインドフルネスは常にきづきがあるからむしろしっかり覚醒している。
気づきにより思考や感情、それが生み出した身体反応との同一化がはなれるから、それが
去っていく現象も起こる(無常)。
何でもかんでもゴタ混ぜにするのはどうかと。
双方の長所を明確にしたうえで、メソッドとしては厳密に線引きすべきだと思うな
両者とも 間違い
両者とも実践してるけど、同一時間にまぜこぜるのはお互いの効果が薄れると思うな >>64
いや、学術論文に同じと書かれてるのでリンク先見てみて下さい
> 近年普及している「マインドフルネス」
という概念の中核的特徴も,
「体験をそのまま
観察し,評価や反応をしないこと」5)であり,
> これは自律訓練法における「受動的受容」と同じものである.
などとしているんだ
あと、64さんに肝心なところを指摘してもらいましたが
今は自律状態にすぐに入るし消去しなくてもダルいということがなくなってしまった
力を入れたからと言って自律状態=マインドフル状態が切れるわけでもなくなった
なので、自分は論文中の記述で間違いないと思います >>65
そうですか
自律状態に入るのにどのくらいかかりますか? >>62
上座部っていうか仏教用語ですね
六門ってのは人の持ってる6つの感覚器官です。六根の方がよく言うかも。
眼耳鼻舌身意
意門とは6番目の門で、意は意識だけど感覚器官として扱われて意門
要するに「自分が考えていることを知覚する感覚(機能)」ですからね
たぶん…ヒトだけが強力に異常に発達させた感覚なんじゃないかな
ヒト以外の動物は、反応するのは五感だけで、自分が考えた内容に対して幸福を覚えたり恐怖することはほぼ無いかと >>63
そういう感じでやるやり方もあるし別ものってほど別ものではないですよ
マインドフルネスの基本は特に何かに集中はせず自分に生じてる思いや感覚を常に客観的に観察するやり方ですね
ただ何かひとつのことをしながらマインドフルネスをする場合はしてる何かに集中しないとできませんから、あなたの言ってるようなやり方にもなります >>66
うーん、仮説、と書いてあるところをいくつか読んだけどさ、共通項を拾い上げて同一といっている
だけという印象だなぁ
少なくともゴエンカさんのところでは特定の感覚をピックアップするような言語公式は使わないよ
他のところでもそうでしょう
>>67
眼を瞑って両手両足が重たい、と思うだけですぐに入れる 自律訓練法はサマタ的なところからヴィパッサナー的なところに変わる部分で
練習が進んでいくと言って良いのかなと思うのですが、どうでしょう?
まず公式(落ち着いている、足が重い、手が重いなどなど)をとなえる
雑念が出ても公式に集中する
そのうち、手足の重温感などを「受動的集中(受動的受容)」によって感じる
これがスムースに出来るようになると、言語で唱えなくても体感が出てくることに
受動的集中(受容)で気づく様になる
日によって雑念が湧くようならば公式を用いる
>>70
それでも観察して効果感じませんか? >>71
効果を感じてるので10年以上ほぼ毎日やってます >>72
自律状態で観察をした場合、という質問です 2本目の論文からでは仮説ではなくいい切ってますし
他の論文でも同じものとして扱っているようですけどね・・・
これも全くそのとおりだと思いますけど
https://core.ac.uk/download/pdf/60527949.pdf
さまざまな心理療法に共通する要素と考えられるものに「マインドフルネス」と「アクセプタンス」
があり,マインドフルネスは自分の体験にじっくり注意を向けること,アクセプタンスは自分の体
験を受け入れること,といったような意味であるこの二つは別々のものではなく,不可分に結びつ
いているものと考えられる(徳田,2009b)。リラクセーション技法を行う際に重視される「受動的
注意集中」(自分の中に起こることに関心を持ちつつ,あるがままにそれを眺めるような注意の向け
方)について言えば,「注意集中」の側面がマインドフルネスに,「受動的」の側面がアクセプタンス
に対応している。 自律訓練法とは別にゴエンカさんの10日合宿にも参加しましたけど、
徹頭徹尾あるがままの身体感覚を見るものなので、
自律訓練法のように「気持ちが落ち着いている」「両手が重たい」「心拍が落ち着いている」などは
言わないですね
実際やっているときには、気持ちが落ち着いていないときもあり、そのときはただそれを観る、
体が軽く感じることもあり、そのときはただそれを観る、どきどきすることもあり、ただそれを観るというやり方でした
私は自己催眠によるリラックス状態の誘導はサマタだと思っているので否定はしませんが、
これをあるがままの気づき、観察であるマインドフルネスと一緒にするのは無理があると思います。
意識状態から考えても 74は自分です
この論文だと用語として同一に扱っています
> “ 受動的注意(mindfulness)”
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sobim/35/3/35_181/_pdf/-char/ja
>>75
なるほど、それでは自分が勘違いしているのかもしれませんが
自律状態で観察をしていくということはなさったことはありませんか?
また、開眼状態で自律状態に入れますか? なるほど、確かに電車で開眼して自律訓練法を行い自律状態に入ることもあるし、
そのときはクリアなので、マインドフルな状態かもしれないですね
>>53さんもマインドフルとは言ってもマインドフルネス瞑想とは言ってないので私の論点が
ずれていたかもしれないです。 ああ、そういうことでしたかw わたしの言葉遣いが紛らわしかったですね ただ自律状態=そのままマインドフルかは議論の余地があるように感じますが
近いときもあれば違うということもあります
深く自律訓練法おこなった後は消去動作しないと立ち上がれないしだるさもありますが、
普通に歩行瞑想したときにそんなことはないですからね
まあ自律状態と呼ぶ状態自体にグラデーションがありそうですけど 私が参考にした佐々木雄二氏はバイクに乗りながら自律訓練法をしたとのことで、
これなんかはマインドフルネス瞑想に近いといえそうですね
>>53さんは自律訓練法中に思考の観察をしたところ消えたというのはいずれにせよ興味深いことです
私は心身のリラックスが出来たらそこで終了していたので
仏教的に言えば自律訓練法で定にはいり、観に移ったということなのかもしれないですね
まあ、見えない精神状態の定義づけは困難であり、心理学と仏教の相互研究も始まったばかりなので
統合した見解がでるまでの過程状況なのだと思います そうですね、自分の自律訓練法は「黙想訓練」まではやっていません
つまり標準公式だけをひたすらやってきました
思考と情動が沈静化、体感を感じている、広く無地のスクリーンを眺めている意識状態
と言った感じです
とりあえずはこの状態が安定して閉眼で10〜30秒ぐらいで得られていた状況で
心の中にあるものの観察をはじめましたところ、前述のように非常に大きな効果を感じていますよ
動きを伴うマインドフルネスは特に練習したことはありませんが
一瞬一瞬の体感や意識の変化は観察できます
今日は、起きている時間の半分以上はやっていたと思います >>68
ほーなるほど 有難うございます 勉強になりました 無宗派 無宗教なもので専門用語はからっきしです...
> 眼門の対象を意門にわざわざ割り当て直すのか?
見ている対象物を 自分が考えていることを知覚する感覚にわざわざ割り当て直すのか
ごめんなさい お手上げです 何度も読み返してみたんですが難し過ぎて 単にサマタだとそれはおかしいでしょ?って話かとも思ったんですが ごめんなさいね >>80
> 私が参考にした佐々木雄二氏はバイクに乗りながら自律訓練法をしたとのことで、
> これなんかはマインドフルネス瞑想に近いといえそうですね
ええ、その話を思い出していました
スポーツ選手や飛行機パイロットのパフォーマンスの為に
それは瞬時に自律状態に入る練習をすると、・・・ルーテの本だったかな
どなたか学者さんの書いた本で読みました
> >>53さんは自律訓練法中に思考の観察をしたところ消えたというのはいずれにせよ興味深いことです
ええ、正確には自律状態が得られたら、呼吸の観察に移ります
強いものが出てきた時に、それをやって妄想・想念を観察しました
自分はグナラタナ師の「マインドフルネス」を読んで、自律状態が使えると思いました
内容は詳しく覚えてないのですがw なんか唐突に自律訓練法の話になってるけど文脈が追えないのだが… >>27=>>36=>>63
でいいのかな?
であれば火でいいと思う
どちらでも同じようなもんだけど火のほうが一点に集中しやすいかなと
オヌヌメはローソク。意識がブレたらブレてもいいけどローソク勿体ないから まあバッターと捕手が同じかどうかみたいな話であれば同じではないな確かに マインドフルネスは用語の定義があいまい、メソッドもあいまい、目的もあいまい、全てがあいまい。
自律訓練と同じ?ヴィパッサナーと同じ?禅と同じ?
いやいや、あいまいなだけですから。 あいまいでええやん
あいまいはべつにわるいことじゃない >>82
観察系のアドバイスだとして何が違和感あったかと言うと
眼門を何故わざわざ意門に?って言ったのは、物を見たときに見たことではなく、「自分を観るべき」という判断を加えて「自分」という想念に注意を振り向けていることですね
あまり私は聞いたことの無いアドバイスだったもので
もしかして医療関係だとそういうアドバイスするのかしらん?と今思いましたが 自分の想念に注意を向けるって話じゃなく見ている自分の状態を観察するって言ってるのでは
もちろん想念も含まれるだろうけど、集中して見ている場合は想念はそれほど湧かないだろうし、見ているときに生じる様々な心身の状態を観察するのはマインドフルネスとしては普通かと 自律訓練法でも数息観でも逆複式呼吸でも得られるものはほぼ同じだよ
呼吸集中でも同じ >>90
ああ 凄くわかりやすい それで意味がわかりました うーん そうですねー 私に丁寧に方法を教えてくれた方にまずコツとして教えてもらったのが最初です
仏教に縁がある方だと思いますので 例えばだいねんじゅうきょう(?)の呼吸を観察する項目にも 全身を感じながら(不正確な記憶でごめんなさい)のような記述が数行あります
そしてそのあとヨーガにもそのような記述を見つけました 私も最初はわざわざ呼吸を観察しているのになんで わざとらしく意識して全身にまで広げたりするんだろ? と疑問だらけでした
ですが実際にやってみると観察の深さといいますか 没入具合が全く異なることに気づきました 全身が観察されながら全身を観察している 言葉にするとそんなイメージです
考えてみると実際の現実は視覚を意識しようと聴覚を意識しようと全身で常に何かが起こっていますので限定する方がフィクションなんだという結論に達しました 昨日10年以上前の本を参考に自律訓練法をやってみたけど金縛りかって感じに腕が上がらなかった。まあ金縛りの経験はないけど。手術直後の動けなかったときの感覚に似てる。 >>94
そうですね、大念処経とあと出入息念経でも身体の方に注意をおく行法はありますね
ただそれは注意の対象として身体を選ぶという話で、観察をしている主体である「自分」に注意を向けるという話とは違います
(ヨーガのプラナヤーマがどういう意識の向け方をしているのかは知りませんが…)
そもそも仏教系では自己は幻想って考え方なので、「自分」そのものは瞑想のときの対象にならないんです
…ってな話をしてると無我だ真我だ主張したい人が出てくるので止めます(^_^;)
とりあえず「自分」に注意を向けるタイプの瞑想があることは理解しました アナパナはラリー・ローゼンバーグの『呼吸による癒し』でしか知らないけど、第二の四考察(感受に関する組)と
第三の四考察(心に関する組)で
自分の心や感受に注意を向けてるんじゃないだろか >>101
最初っから意門の対象に注意を向けるのは全然アリだけど、
五感で感受してからそれを観てる自己に注意を向けるってのは仏教系では無くない?
それ普通にやるよ?ってなら自分の不見識なわけですが… 映画を観ている2時間、映画だけじゃもったいないので気づいていたいと思うんだけど、
手動瞑想しながらってありかな?
話しながら手動瞑想もよいとのことだけど 全身を観察するからって主体に注意を向けるってことにはならないんじゃ
そもそも主体は主体だから観察しようにも観察できないでしょ
観察できてるときには対象になってそれはもう心の中に生まれたもので主体じゃなくなるから
五感が受け取ったら悟りでもしてない限り微妙に心や体にも反応がでるからそれを観るってことでしょたぶん
五感だけで心もカラダも反応せずに済ませられてるならもう悟ってるんじゃないかな
そもそも火を見て火だって認識することすら心が動いてるし
目の感受だけだと赤い何かだよね、赤ですらないけど
文字見たら文字じゃなくただの線か模様だし
ヴィパッサナーやっていけばそうなっていくわけだけど >>96
へぇ!そうなんですか? 仏教では私をないものとして瞑想するんですね ということは世間ではどちらかというとそちらの方が一般的なんでしょうね
私の教わったところでは寧ろ私を突き詰めなさい 確かな私と言えるものを徹底的に探しなさい という趣旨で一瞬でも自分自身という感覚をボヤけさせてはいけないという方法でした
自分自身の考え 自分自身の体 自分自身の感情といった感じで
本当に幅が広いですね まあ私とか自分自身とかいうのもどういう意味で言ってるかいろいろあるしねえ >>105
続き
もちろん 自分自身は見つかったけれど それは視覚 聴覚 〜から得た刺激と記憶や想像 それらが発生した瞬間に現れる一見連続しているかのように見える一時的な現象 という ベタベタなオチですよ
自我が強化されたり目指すべき自分の姿が見つかった!的なものではないのでご安心下さい >>106
本当にそうですね 言語 記号の限界を感じます 感覚さえ伝えられるテレパシーがあればなー.... あー、そうか
何言ってんのかよくわかんなかったけど、観察してる主体を観察するみたいに受けとってるってことなのか
そうじゃなくて、自分をみるというのはアナパナにあるのと同じく感受や心をみるということでしょう
つまり形としては(主体)が感受や心を観察する >>103
電車に乗りながらってのが紹介されてる位だし良いんじゃないですか?自分も夕方はTV見ながら瞑想しますし、1番大切なことは自分の修行法を信じる事!信じ抜く事!駄目になりそうなときそれがタンデスダイジ〜 >>105
> へぇ!そうなんですか? 仏教では私をないものとして瞑想するんですね
いやそんな事は無いですw
単に「自分」ってのを瞑想中に対象として選ばないのはそういうバックグラウンドがあるってだけで
「私をないものとして瞑想」なんて…ちょっと難しいですよね
(わざと自分を消しにかかるのは死人禅くらいかなあ…そもそもあれは禅なのか?…)
>>107
> もちろん 自分自身は見つかったけれど それは視覚 聴覚 〜から得た刺激と記憶や想像 それらが発生した瞬間に現れる一見連続しているかのように見える一時的な現象 という ベタベタなオチですよ
それならたどり着く先は仏教系の瞑想やった時と同じ発見ですねえ
>>31 の「ロウソクを選ぶ場合は火を観察するのではなく 火を見ている自分を観て下さいね」ってのを読んだ時は、えっなにそれ珍しいって思いましたけど、
結局同じところに帰着するなら、手法のバリエーションなのか… >>103
勿体ないですよー せっかくの映画なんですから映画を楽しんじゃいましょうよ 胸にでも手を当ててドキドキワクワクとか
怖い映画だったら体に力が入っていく感覚とか
日常生活とはまた違った自分の反応があるかもしれないですよ 「あ ドキドキしている」 とか 「あ 体がカチコチ」とか観察しながら見ると臨場感が倍になるかもしれませんよw ロウソクに集中してると、そこから自分の観察が始まるってことでしょ?
わからないなら、わからないのだから言葉で追求することではないのでは
とりあえず観えるものを観ておけば良いのであって
何かを見ようとするというのもおかしなことでは
自分に感得出来ないことを言葉で理解しようとするのは妨げになりますよ 結局何をどうしたいのか全然分からん。
テレビを観ながら、映画を観ながら手を動かすとか、リハビリか何かですか? 脳が反応してる感じが分かるので割りと好きです
ホラー映画見ながら座禅すると痛みを感じない感覚に似てますかね?
まあ、色んな状況で試して自分に合った方法を探すのは良い事だと思います 瞑想の世界では無常だから無我だと言葉だけで答えを知っていても仕方がない 言葉にすれば 消えちゃう関係 なら 言葉を消せばいいや って思ってた 恐れてた だけどあれ?なんか違うかも ブッダの時代から歩行瞑想があったのに、最近になって手動瞑想を初める理由って何? サマタだと話や映画は振り払うべき邪魔になる
ヴィパッサナーになっていれば内容がよく頭に入るだろうな
だから、各々の手動瞑想がサマタなのか、ヴィパッサナーになってるかの
判断材料にはなるんじゃないか
それ以外の効果はやったことないからわからない >>114
> ロウソクに集中してると、そこから自分の観察が始まるってことでしょ?
え、そういう話の流れだった?…
初心者の人が集中するなら火と息どっちって質問して、
その質問への答えとして、火じゃなくて自分を観ろってアドバイスとして出たんだと思ったけど?
> とりあえず観えるものを観ておけば良いのであって
> 何かを見ようとするというのもおかしなことでは
私が知ってる観瞑想もまさにそう
観察系は注意を向ける先を選ばない(選べない)
といっても最初の質問は集中系っぽかった訳だけど とりあえず足が無い人にはぴったりだね、手動瞑想は。 やってないけど、手動瞑想は場所をとらないってのはメリットかもしらん
少なくとも我が家は歩行瞑想には向かないっす(片付け大事 好きな妖怪ランキング第1位はぶっちぎりでテケテケですね。足がない(列車に轢かれて切断された)女性ですね……JKとして語られる事が多いです。元になった事件としてレイプされた事を苦に列車に身を投げた女性の話があげられます。
2番目に好きなのは手長足長ですね。これは正確には手長と足長って感じです。まあ2人1組です。手長は手だけ長くて足長は足だけ長い感じです。このままじゃ生活できねーよって事でとりあえず足長が手長を背負って助け合って暮らしてる妖怪です。
第3位は難しいんですけど……たんころりんですかね?なんか顔が好きです。小学生の頃から好きです。テケテケも小学生の頃から好きなんですけど手長足長は最近好きになったばかりなので実質的には第2位です。 >>104
> 全身を観察するからって主体に注意を向けるってことにはならないんじゃ
> そもそも主体は主体だから観察しようにも観察できないでしょ
> 観察できてるときには対象になってそれはもう心の中に生まれたもので主体じゃなくなるから
???
横だけど>>96氏は
-
身体の方に注意をおく行法は(ry
注意の対象として身体を選ぶという話で、
観察をしている主体である「自分」に注意を向けるという話とは違います
-
と言ってるので「自分」は身体ではない(ついでにいうと心でもない)という前提でレスしてるように読めるけど…
「観察をしている主体」である「自分」が
「観察対象たる客体」である「自分」に注意を向ける事になってしまうでしょ
「観察」ってそもそも成立しないでしょ
と言ってるんか…?もっとも
> 観察できてるときには対象になってそれはもう心の中に生まれたもので主体じゃなくなるから
「観察できてるときには」といってるからできる前提なんだよね?
つまり何が言いたいの?
> 五感が受け取ったら悟りでもしてない限り微妙に心や体にも反応がでるからそれを観るってことでしょたぶん
つまり↑がいいたいんか
> 五感だけで心もカラダも反応せずに済ませられてるならもう悟ってるんじゃないかな
五根が反応するから感受があるんじゃないのか?
しらんけど普通に考えたらそうなります
> 目の感受だけだと赤い何かだよね、赤ですらないけど
赤ではなくて何なんですか?黄とか橙とか言うなよ?
> 文字見たら文字じゃなくただの線か模様だし
> ヴィパッサナーやっていけばそうなっていくわけだけど
知らない文字見たらだれでもそうなる
とかいう話ではないわな…
ヴィパッサナーでなくてもそうなります たぶん最低でも名色分離智を実際に体験してないと、通じる話と通じない話があると思われる やってる瞑想にも拠るのでは
>>120
仏陀の時代から瞑想があったのに千年もたってから只管打坐といい始めたのはなぜ? >>124
> 観察系は注意を向ける先を選ばない(選べない)
> といっても最初の質問は集中系っぽかった訳だけど
選ばないというか、そもそも見てないでしょw
>>27
>「呼吸に集中する」のと
>「ロウソクの火に集中する」の
>どっちがおすすめ? >>120
手の方が気づきやすいしいつでもできるからじゃない?
現代人は電車やバスなどの通勤時間が長いしそういうときでもできる ヴィパッサナー(マインドフルネス)をやっていってどのようになっていくかは、
ウ・ジョーティカ師の自由への旅が無料でPDF配布されてて、そこにいろいろ詳しく書かれているからそれ読んでみたらいい
http://myanmarbuddhism.info/2013/01/10/22/
パオセヤドーのサイトにも詳しい解説ある
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/3paauk.htm
概要的なことや基本的なことはここで聞くより文献読んで実践して確認するのが手っ取り早い 大昔は足に対して手は今ほど活躍してなかったと思うんだよね
今のようにいろいろな道具も使わないし文字だって書かないし
現代人は手は使うけど足はあまり使わないし気づきの訓練としては歩行瞑想より手動瞑想のほうが合ってるのかもしれない >>134
これ>>1のテンプレに入れてもいいと思うんだよね
マインドフルネスとヴィパッサナーは違うなんて言われちゃうかもしれないけど 公共交通機関などで通勤通学中に瞑想するのはおススメですよ まあ人によるんでしょうが私の場合はそれでだいぶん進みました
まず自分の家のようにホッとしてしまってダラけることが少ない
次に他人の目があったり自分のテリトリー外なので無意識に何かを感じ取ろうという適度(微妙)な緊張感が働きやすい
それから音や景色が次々とやって来るため その刺激に対する自分の反応を受け身で観察することができる
通常はテリトリー外だと外の世界の対象物に注意が向けられがちですが 工夫してそれを自分に向けられればかなり観察が進みます
そして最大の利点は 早くこの繰り返しで意味のない 納得できない世界から脱出だ 通勤通学なんて糞食らえだ! という負のパワーが瞑想に活かせることですw >>130
只管打坐は間違い。
達磨大師が二入四行という四念処のようなものを説いていたけど、
いつのまにか失なわれ、黙照禅と看話禅に分裂した。 現代人は部屋がせまいし、あんまり歩かないから手動瞑想が向いてるのか。
それなら部屋をかたずけて、しっかり歩いた方が瞑想より効果あるんじゃないか?
目と手と脳を酷使して、神経過敏になったから瞑想しようってんなら、本末転倒だろう。 何の効果を狙ってるのかわかりませんが、それよりこっちの方がいいと思うものがあるならそれをしたらいいんじゃないでしょうか
両方かあるいは片方をやってみて効果があったとかなかったとか自分に結果が出るまでは結論は保留でいいと思います 自分はこう思うので実際に効果が出ていようが手動瞑想やめろと
タイの寺院へ行って言ってくればいい
変な人が来たとしか思われないだろうけど 仏教を勉強したことによる自我の強化という本末転倒ぶり 誰も手動瞑想やめろと言ってない。
他人の自我を妄想するのはその人の自我。
君ら妄想しすぎ。
部屋を掃除して作務をする、しっかり歩いて瞑想するのは昔ながらの正統的な修行。
坐る瞑想より効果があるとする人もいる。
現代人は、ストレス満載の生活しながら瞑想するより、ストレスの無い生活を目指した方がいいと思う。という主張。 手動瞑想をやってる人が歩行瞑想をやっていないという思い込みは何なのか
タイの寺院では手動瞑想も歩行瞑想もやっているし
プラユキさんとこでも両方を指導してるでしょ >>144
そうなるとますます手動瞑想の意義が不明でしょ。
何故手を動かす必要があるのか。
何故足じゃダメなのか。 足はダメだなんて誰もいってないから歩行瞑想もされてるのでは
というか、なんでそこまで手動瞑想を否定するのか
俺はやってないけど、Twitterを見てると手動瞑想によって観る人への転換をなしたという人もいるし
思いという苦しみから逃れられたという人もいる >>146
俺は家の仕事もあるし、筋トレや趣味もある。
ヴィパッサナーやらなきゃいけないし、サマタもしたい。
慈悲の瞑想も歩行瞑想もやってるから忙しい。
手動瞑想になにか特別な意義があるのかどうか。
無ければ取り入れる必要は無いし。すっきりする。
どうなの? やめろとまでは言ってないけど本末転倒って批判してるし、足じゃダメなのかってまだしつこく問いかけてるじゃんw
歩けない場所だっていっぱいあるんだし手は手のよさがいくらでもあるでしょ
あなたも逆に、何故足を動かす必要あるのか、何故手じゃダメなのか、なんて言われたら、それぞれの良さくらい考えられるだろし自分でやってみりゃいいのにって思わない?w >>147
誰もあなたにやれなんて言ってないでしょ
手動瞑想の効果について知りたければご自分でプラユキさんの著作を読むなりなんなりしてください
必要ないと思ったら読まなくてもよいし
ご自由にどうぞ >>147
>ストレスの無い生活を目指した方がいいと思う。
ストレスとしっかり向き合う態度がマインドフルネス
この世はネガティヴばかりだと、狼狽えるな騒ぐなということ
肚で坐れということ
>慈悲の瞑想も歩行瞑想もやってるから忙しい
忙しいと言っている時点で誤謬
以上、2つの同一野狐禅グループ呆けさまへ そもそもヒマラヤ聖者のヨガは5000年前からあったのに
釈迦が現れたのは何故?ヒマラヤヨガで事足りてない?
仏教とかマインドフルネスとか全部亜流でしょ
ババジみたいに1000年以上生きた大聖人いますか
20世紀にラーマクリシュナやヴィヴェカーナンダみたいな聖者は現れましたか
なんで仏教やるのかって思わない?
ヒマラヤヨガが本当の本物 >>132
> 現代人は電車やバスなどの通勤時間が長いしそういうときでもできる
いやー、通勤電車のなかで手動瞑想はどうだろうか?
かなり目立つのでは?… >>152
> ババジみたいに1000年以上生きた大聖人いますか
伝説がお好きであれば空海さんとかw 狭い部屋で歩いたり、手だけ動かしたり
只管打坐どころか禅が間違いですし
そういったインドア文化が現代の病理に繋がってます
釈迦はヨガに学んでアウトドアだったのに
仏教は悪魔的インドア文化に取り込まれてしまった
正解はヒマラヤで瞑想、これ最高でしょう
>>154
空海の生まれ変わりとされるあの方は本物の聖者ですよ マジレスされてしまいました
同じ理屈でこうも言えるんじゃないの?と言いたかっただけ
悪ふざけに見えたらごめんね インドだったら外で生きられるほどの
体の強さがあれば
とても自由に生きることができるけど
短命な修行者がほとんどだと思うよ
日本人からみればインド人は
エゴの塊だ
修行者はその最たる者だと思うよ
日本だって昔は雲水とか
寺を訪ねて外で寝起きしながら
時折寺に籠ったりするだけで
ほとんど外を歩いて寝起きして
座ったり滝に打たれたり
してたと思うけどな
外で寝起きして食い物もらって
なんでも食べるような
生き方してみたら
精神的な弱さも肉体的な弱さも
吹き飛ばす気持ちないと
成り立たないのすぐわかるよ
今は社会生活してる人が
簡単に読み物として
何でも読むことが出来るし
情報として知ることも出来るからね
簡単に混ぜ合わせてしまってるのは
気づいた方がいいと思うよ 横からすいません
ここの人たちは、一体何を見ていたいの?
目的と手段の論点を整理して話してもらうと有り難いのでが。
(おらは凄いだろーだけじゃね) ここの人たちもみな同じではないよ
あなたもここの人たちでしょう 野狐禅グループ呆けみたいな前のめり言い張りは、もうウンザリなのよ 的なね。あくまでも
案外教訓になるのじゃないのかな
そういう心性は誰でも持っているのじゃないのかな?(もちろん私自身にも)
マインドフルネスみたいに心のひだに分け入ろうとすると待っているポッカリ空いている落とし穴のような
苦いですが気をつけてね
と言いたかっただけです 月を指す指ですな
その人の状態に合ったメソッドをやれば良い訳で
その人の状態に次第で、メソッドは正解にも間違いにもなるかと
大事なのはサティ(気付き)であって
サティが起これば、歩行瞑想でも手動瞑想でも良いんよ
方法にとらわれているのは、ある意味月を見ず指にとらわれている状態と同じでないのかい
メソッドなんて導入口なんよ ただ、脳はとことん自分に都合よく補整するから、
深い境地の師(便宜的な表現だけど)を見つけて、たまに対峙する方が良いかな
そういう深い境地の人達は手取り足取り教えたりなんかしないよ
でも、相手の状態や境地を把握して、自分で気づかせるような仕向け方してくる >>165
正師に出会えるかが鍵で、それまで生きてきた自分の責任範囲ではあるのでしょうね。
とは言っても、クリシュナムルティの言ったように、月見に唯一正しい固定した一本道があるわけではないとも思いますが >>166
>月見に唯一正しい固定した一本道があるわけではないとも思いますが
同意
というか、私の言いたいことってそういう方向性なんよ
道や入り口は一つじゃない >>167
あなたのおっしゃりたいことは理解しているつもりですよ。
文面を伸ばすために、ちょっとずらしているだけで。
不快だったら謝ります。
ごめんなさい >>168
私の書き方も悪かったですね。
こちらこそ、ごめんなさい。
そして、ありがとうございました! >>169
いえいえ、こちらこそ。
またいずれお邪魔しますね。
頑張って下さい。 おい!手動瞑想のメリット、意義、早く。
誰も理解してないのか?
プラユキさんの本を俺は持ってない。「悟らなくたっていいじゃないか」を読んだけどゴミだった。 >>151
ストレスの無い、静かな環境を選ぶのは修行者としては当然。
イケダハヤトさんみたいに田舎に引っ越す人もいる。
あ、あの人は修行者じゃないか。
寝る前、30分から1時間だけ、瞑想に専念できる時間がある。
そこでどうゆう瞑想をチョイスするかは重要だろうよ。
全部ごちゃまぜにはできんし。 歩行瞑想と大して変わらないだろ
それでも知りたけれやればわかるだろ
わからないなら大人しく歩行瞑想やっていればいい
マナー悪いからNG入れるわ 色々な瞑想があるけど、やってれば気付きが起こり、物事の視点にも変化が出てくるよね。
色々なことをより多面体で見られるようになり、色々なことを受容して尊重できるようになってくる。 理論的なことは詳しくないんですが、「観察」と「気づき」って違いませんか?
たとえば、ボディスキャン(観察)をしていても、今ここにある感覚(気づき)を
忘れていることがあります。
熱心に顕微鏡で対象に集中(観察)していながら、我を忘れているというか…
観察=ヴィパッサナーと簡単に思っていたけれど、未熟者の悲しさ
あ、今ここにある感覚を忘れていた、思い出した!というのが結構あります。
手動瞑想は、それを取り戻すのによい方法化と思います。
どんなときも今ここにある感覚(気づき)が大事だと思いますが、如何でしょうか? >>177
その気付きってのは自己想起を意味してます? >>172
やっぱり、またまたお邪魔しまーす。
ごめんなさいね。
やっぱり、あなたとは徹底的に話しあった方がいいようですね(掛かったわね)
「悟らなくたっていいじゃないか」のゴミだったのはどこかな?
p.144
したがって、「気づきの目」というのも、それが固定的な観察主体として、プロセスから離れて存在する、というわけではないんですね。「観察する気づき」も、あくまでプロセスの中に生じる現象であり、
が自分を非難するゴミだとピンときたのかな?
プロセスの現象が観えないあなた
固定的なものを想定して飛ぶしかないあなた
人に押し付けるのは、もう辞めれば
反論どうぞ >>177
そうですね なかなか高度な難しい議論かもしれないですね ボディスキャンをきちんと出来ている限りは正しい方法という考えや気持ちも必要ないんだと思います 感覚を感じている限りは(暫定的)な今 瞬間に紛れもなく留まっていると思いますよ
ただ工場などでの繰り返し作業 半分眠っていてもビックリするぐらい正確に早く作業できるのと同じようにボディスキャンができる人がいるとしたら それはマズイかもしれません
瞑想が進んだ先には観察している 気づいているというわざとらしい意識さえも無くただ自分を観ている状態に近づいていきます(という人が多いと思います)
ただ方便 テクニックとして早く効率よく段階を進める小技 方法論の話ともリンクしていますので難しいところです 観察主体は、生まれてもいないから永遠に死なない本当の意識ってか
でなければ、0.1秒も呼吸に気づけるわけがないってか >>180
書いていることに私は同意です。
ただ観ているだけの状態、分かります。
私が書いた視点の変化とかは、どちらかというと、
そこより少し日常の意識側のところで起こる変化の話しです。 >>172
プラユキさんのファンじゃないし著書は持ってないんですけど『実践瞑想の学校』って奴のプラユキさんの章だとセトロニン云々、アルファ波云々って書いてます。
これを簡略化したのがサーチインサイドユアセルフのムーヴメント瞑想って解釈で良いんですかね?あれは凄い効果ですよね。
>>174
上半身だけ鍛えて下半身を鍛えないとどうなるか?その逆も然り……手長足長好きで良かったー、日々是好日、好きな宗教家はひろさちや。 並行しててごめんなさいね
私、一応以下を取り上げてるつもりなんだけど
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観察してるから気づくんだと思ってる
歩行中でも手動中でも、頭のてっぺんからつま先まで
けど、神経を尖らせてピリピリした状態ではないんだ
観察は能動的ではない
簡単に言うと、集中して雑念払うことが出来たら
思考と感情のざわめきが収まるよね
そうすると観察状態になって、気付きが得られるよね
ボディスキャン出来るという人はそれはわかってきてるところだと察するけど
色んなものが取れていくと妨げるものが減ってオールウェイズ全身と心の観察に近づいていく
非常に大雑把な話で悪いけど
あと、いいとこばっかじゃなくてダメなとこも言っとくと
自分は動作瞑想やらないから日常動作してる時は観察は途切れがちになる 俺はやっぱり手動瞑想要らないわ。歩行瞑想で十分。眠くならないし。血行が良くなりそうだし。
>>179
「悟りは多義的」
「師匠を人格で選べ」
「悟りに興味がない」
など。
悟りが完成してないのに慈悲行とか笑える。 なぜID:vQSAlGNaは手動瞑想を自分にすすめられていると思いこんでしまったのか >>182
ああ!そういう意味ですかw また勘違いしてしまったw
なるほど.... そうですねー うーん これを言ってしまうと元も子もないんですが 簡単に言いますとずっとボディスキャンをするんです 起きている間 できれば睡眠中も
車に轢かれそうになっても怒られている最中でも最愛の人が亡くなるのを見ている間も褒められて嬉しいと感じている間もずっとです というぐらいの気持ちでってことですよ もちろん
私はそうしていました 私の場合は体のある一部 よく人間の中心などと言われる部位に常に意識を集中させて尚且つ見ている 感じている 動いている なるべく実際にその瞬間に起こっている自分の変化を観続けるようにしました
最初は難しかったです ギクシャクします ですが慣れて来ると本を読んでいる自分を観察しながら内容も頭に入るようになりました そこまでくると もう今から瞑想開始 今日の瞑想のノルマ終了という価値観は無くなります >>186
Youにはダンシング瞑想を勧めよう。ニューヨークを目指したまえ >>188
おおおそうなんだ、知りませんでした
なるほどそれなら目立たずに通勤時間くまなく使えますね
なるほど >>185
>集中して雑念払うことが出来たら
思考と感情のざわめきが収まるよね
そうすると観察状態になって、気付きが得られるよね
あなたはわかっているね
だからサマタとヴィパッサナーは対立するものじゃないんだけど
ここの一部のアホはあなたみたいに実践していないからそれがわからない >>189
言わんとすること分かりますよ。
瞑想と日常が別れることのない状態や価値観、在り方...
段々そうなっていくんですよね。
私の場合は、ちょっと取り組むようになって、サティ経験した辺りをターゲットに書いてました。
でも、大局的な話しになるとほぼあなたに同意な感じになると思いますよ。 >>178
「自己想起」ということなのかな?よくわからないですが、観察しているつもりでも、我を忘れている
ことってあるじゃないですか。たとえば、先日の「火の観察」でも、
火を観ている今ここの自分に気づいているか、気づいておらずただ火に集中しているか。
ボディスキャンのときに気づいていないことが多いんですよね。
>>180
おっしゃるとおり、なんというか、ボディスキャンは順序良くしているんですが、
工場の作業のように、心は今ここにない。ぶっちゃけると、未来や過去の別のことを考えていることが
おおいです。
もちろんそれに気づいたときは、呼吸に戻るなどして今ここを思い出すんですが。
それで、自分は、顕微鏡でアメーバを見るように対象を観察はしていても「観察していること」に気づいていない
みたいな、それがマインドフルではないなぁなんて思うのです。
ややこしいですねすみません 要するに自分は集中が足りないだけなんだと思います。
それもあって、アーナパーナや手動瞑想を取り入れようと思います。 >>186
>悟りが完成してないのに慈悲行とか笑える。
悟りが完成していないと慈悲はないのですか?
では、あなたにとって慈悲行は何ですか? そろそろ、野狐禅グループ呆けのプラユキ師ディスりが始まると思ってたのよ >>194
>工場の作業のように、心は今ここにない。ぶっちゃけると、未来や過去の別のことを考えていることが
おおいです。
スレ違いだったらゴメンネ。
観察が慣れてくると、感覚と観察以外に余裕ができてきて
そこで考え事ができるよね。
自分はこれを、瞑想の失敗じゃなく 心がこなれてきてリソースが
余るようになったと見たんだ。
念というか、心に振り向けるエネルギー全体が増えている感じがするんだよね。
それを全部観察に向けるんじゃなくて、スポーツとか仕事とかで
より多面的にフェイント作戦やお客さんや成果物に注意を向けられるようになると思うんだ。
自分の感情のめんどうをみるだけじゃなくて 外にも良い変化をもたらせるんじゃって
宗教的瞑想だと、こういうの否定されるでしょ?
マインドフルネスなら よりよい人生に生かしたいって思うんだ >>195
あなたの言われるたことは本当に重要な根幹的なことだと思うのです まず私たちは瞑想をわざとらしく初めてわざとらく実行するんです そのわざとらしさの強さ 執念の強さ
それは例えばもう生きるのはウンザリだ とか 真実はどうなんだ とか 生き生きと生きたいとか色々あると思います もしそういう何かが思い当たればそれを思い出してみるのも良いかもしれませんよ 私の場合は絶望から逃げたいということでした
そして小手先の強力なテクニックが色々あります 私は体の特定部位に意識を常に置いておくという方法でしたし ヴィパサナではラベリングを使う方法もあります 最近は誰かの役にたつかもしれないと思って色々試しています
一つは座って瞑想するとき雑念が多すぎる場合に首を横に7度ぐらい捻る方法 もう一つは手にゴルフボール程度の重さのものを握っておく方法です 自分なりに何かしら工夫するのもゲームみたいで面白いですよ >>195
人間は無意識に1日6万だかそん位の考え事をしてるらしい。無駄な奴。それをDMN(デフォルトモードネットワーク)と呼ぶ訳で……まあその存在を知ってから加速度的に成長を実感出来たかな。
DMNをどうにかすれば、その分本来考えたいことも考えれるし何も考えなきゃ脳も休まるしだからマインドフルネスでビジネスの生産効率が上がるってのは当たり前っちゃ当たり前なんだよね。年間で30万ドルくらい生産効率が上がったって研究もあるし。
DMNをどうにかするならやっぱりムービング瞑想がベターなのかな?モンキーマインドも集中力は上がるかな。それかマインドフルネスに限らず呼吸に集中するとか……ためしてガッテンで紹介されてた奴でも良さそう
>>197
じゃあ私は『オリジナル瞑想グループクリエイティブシットダウン』を作るんですか?で、誰を批判するんですか? みんな自分に合うと思う瞑想やったらいいじゃない
知らない瞑想があってどんなのだろうと思うならやってみたらいいじゃない >>悟りが完成してないのに慈悲行とか笑える。
私もこれには釈然としませんね。
どういうことか説明していただきたいですね。 >>196
慈悲喜捨。
七覚支も捨で完成する。
まず自分が解脱して、衆生を解脱せしめるのが本当の慈悲。
ブッダもラーフラを出家させた。
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi112.html 慈悲喜捨は心の状態だから悟ってなくてもその人の心の状態に応じてそれなりにあるでしょ
あと本当の慈悲って言ってるけどそれと慈悲行とはまた違うと思うけどね
悟ってないのに慈悲行が笑えるなんて言っちゃったら凡夫が慈悲の瞑想することも意味ないことになる スマナサーラのリンク引っ張ってくる人っていつも騒ぎを起こしてるね あっちのスレッドで、さんざん叩かれたからじゃないの?どっちもどっちだと思うけど。 本当に瞑想に取り組んで、これでいいのか確かめながら進んでいたら
ID:vQSAlGNaみたいな傲慢なことは言えない
色んなレベルで勘違いしまくってるこの人 修行始めたばかりの人なんじゃないのかなあ
そういうときって気分も高揚してるし自分のやってること正当化して、それにそぐわないとみえることには排他的になるしね
あるいはある程度やってるけど一定以上進展がみられないので心に落ち着きがなくなってるか
そういうときは自分が得た知識や境地にしがみつきたくなるし
いずれにせよ他人のあれこれが気になってるときはこころの状態としてよくないよね
そういうときこそマインドフルでいるか、他人のことは放っておいて自分の実践しないと 仏教を勉強したことによる自我の強化という本末転倒ぶり 慈経にも、慈悲行を行えとは説かれてない。
慈悲の念を育てろと、そうすると解脱するからと。
ブッダも解脱して、梵天勧請されてからやっと、
心の清い人なら真理が理解できるかもしれない、と思って仏法を説き始めた。
まず解脱が先。慈悲は後からついてくる。 >>210
あなたが引用しているスマ長老が慈悲喜捨の心を育てましょうと言い、その心から行われる菩薩行は自分の修行と言ってるけどね
あなたからすると慈悲心の菩薩行しても修行にはならないってことになるのかな
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi5.html 慈悲の瞑想して功徳を積めば解脱に近づく。
解脱すれば、智慧も慈悲も完成する。
だいたい慈悲慈悲言ってるやつは気持悪い。
善い事は黙って自然にやるもんだ。 俺様が慈悲をかけてやる、的なイメージなんだろうなこの人の慈悲の瞑想は
レス読んでるとそんな印象を強く受ける
自分の持ってる慈悲の瞑想のイメージとだいぶ違うかな >>186の悟りが多義的だというのはおかしいというのはどうなんだろ
「悟らなくたって、いいじゃない」でいうと15、16ページの部分だと思うけど、阿羅漢とブッダの悟りは同じものではないという例と
同一の宗派内でも高名な僧侶同士が悟りの内容に関して意見を異にするという例がひかれている
これだけでも悟りという言葉で示されている状態がすべての人にとって同じではないということは言えるのでは >>217
マインドフルネスの失敗事例をヴィパッサナーしてます 解脱は確かに重要かも知れないけど、それはプロセスの最後に出てくるものであって、
マインドフルネスの初心者に解脱を目指せと言っても、何がなんだか分からないと思う。
違った概念的な目的として捉えてしまって変な努力をして、ますます遠ざかるってことはあり得るよ。 釈尊が"解脱した"と現代まで伝わっているから、多くの人々がゴールを"解脱"に定めるけど、釈尊はゴールなんて定めてなかったと思うんだな いや、目標にしていたのだろうけど、
同時に「教義は時代によりけりで変えていいよ」とおっしゃられた(ことになってる)んだから、
釈尊が成し遂げた"解脱"と、私たちが求める"解脱"は違うものなのかも…
私が仏教にシンパシーを感じるのは、宗教のくせに無謬性を信用してないからだな
だからこそ、現代まで生き延びたのは素晴らしい
流派が乱立した弊害はあるのだろうけど > 釈尊が成し遂げた"解脱"と、私たちが求める"解脱"は違うものなのかも…
それは思うね 経典第一主義者の方々の気に障るかもしれないから、一言付け加えるけども、釈尊をないがしろにしてる訳ではないのです
彼の懐の深さと、それを連綿と受け継ごうと努力してきたすべての仏教者に、敬意を抱いています >>198
念のエネルギーの総量が増えて観察範囲が増えたならうれしいですね
私が参考にしている本に、「対象のない気づき」に心を休ませるという
瞑想法があり、非常に役立っています。簡単すぎて、瞑想ではないように思えるが、
それも瞑想なのだと。それも宗教的瞑想ですが、確かに外に良い変化をもたらせるように思います。
マインドフルに外に向かうわけですからね
>>199
わざとらしさを思い出す。いわれてみれば、ふっと自分で自分のもっていたストーリーを客観視できたとき、
ワザトラシカッタなぁ、と思うことがあります。
でも普段は巻き込まれてますね。
ゲームみたいに気長に気づきを育てていきたい。
テクニックも探していこう
>>200
そうですね。
思考は山のように現れる、客観視することによってストーリーから離れられれば
いいと思います 目指すところは色々あるでしょうが私のハッキリとした「目的」は「違和感」が無くなることですね
何も具体的な問題が無くても自分の中心は存在しないとわかっても それでもせわしなく歩き回る蟻のように常に意識は何かを求めて彷徨っています 本当に落ち着きがない
手放すのは恐ろしいけど この状態が死ぬまで続くのかと考えるとそれも受け入れることはできない はぁーって感じです 手元をみることを忘れて、やたらと解脱にばかりこだわる心性というのは
現世での出世競争への敗北感から一発逆転の夢をみているみたいなものなのかもしれない
宝くじが当たることを夢みている人とそんなに違わないかも 超能力的な何かだったらヨガやった方が良いんじゃないの この何とも言えないすっきりしない感じさえ無くなるなら、仏教でもヨーガでも何でもいいや
超能力なんてすっきりしないモノが増えるだけなら願い下げです マインドフルネスをすると頭がスッキリする、やってる時は感覚だけに集中できる。ただ、マインドフルネスしてない時は普通に悩んだり頭がモヤモヤする。
ムーヴメント瞑想なんかだと24時間常に瞑想する事も出来るけど、それだと何の為に生きているのかすら曖昧になる。 あるがままに観察する、気づくというのは反面受け入れるということじゃないですかね
だとすると特定の状態を望むのは、拒否や抵抗をすることになる
受け入れるといっても同一化するのではなく、ただ気づくこと
しかし、この強い不安感は手ごわい >>232
> 消えるまでマインドフルネスやればいいべ
そうなんだけど消すものなのかも分からんのよコレ
私も要するに悟り追及タイプの一人ってことなんだろうけど…
人生順風満帆だろうが何だろうが、決して消えない違和感
なんか騙されて配置された駒のような、一番肝腎の事を分かってない感じというか
結構多いんじゃないのかね?そういうひと ウ・ジョーティカ師のPDFに書いてある、問いを生きればいいのだと
瞑想、マインドフルネスをやっていれば人生が答えてくれると
観察して消えるものならば大した意味はないと思うし
必要な意味は発見すると思う >>235
実存的不安とか、そういう類の違和感かな?
むしろそういう「感じ」があるからこそ仏教、瞑想に興味持てたんじゃない?
世間一般の人は無意識のうちに見ないようにしてるんじゃないかな
だからそういう人たちに言葉にして出しちゃうと、うわこいつメンヘラ?みたいに思われる
にしても、ヴィクトール・フランクルもウ・ジョーティカも似たような答えなんだね 観察対象をただ見つめる等の瞑想法と、大乗仏教の菩薩信仰はどうつながるのだろうか
どうも理論的関連性がわからない
菩薩信仰も外部に超越的な他者を認めるということだよね
ダライラマも高次の生命と言っていた
道元にしろ白隠にしろ大乗仏典は信じていた。信じて物理的介入をお願いできるのならお願いしたいんだが、、、 >>238
味気なく言ってしまうと 方法論的には途中までは全く別の方法と言えると思います 現代人は科学的 論理的 理性的な方面にかなり寄っていますから一般的には難しい方法なんだと思いますよ
まずは代表的な大乗仏典を現代語訳で繰り返し読んでみる方法があります 相性によっては一気に意識の拡張が起こって何らかの変化が起こる可能性もあります
超越的な存在にすがる 全てを明け渡す方の話であれば文字通り見返り取引を期待せず全てを明け渡しましょう
これはこれでかなり難しいと思いますよ... 大乗で言われてる超越的なものは全体を存在させているものでしょ
観察でいうなら自分がどうして何によって観察できているのか考えてみたらいいと思う
自分がどうして主体として在ると思えてるのか、どうして対象を観察できているのか
観察しているとき自分が観察しているのか何かに観察させられているのか
自分が生きているのか、自分が生きていると思っていたけど実は何かに生かされていたのかと同じこと
対象を観察することによって、対象とすることができるものは自分ではないとわかり、対象とならない自分が明確になってくる
自分が生きているわけでもなく生かされていた自分がいたわけでもなく内と外とその分別がなくなる
そのとき大乗で言われている超越的なものは何だとも表すことができない自分そのものを表現していたものだとわかる Mindfulness means paying attention in a particular way:
on purpose, in the present moment, and nonjudgmentally.
(from "Whenever You Go, There You Are" - Jon Kabat-Zinn)
このマインドフルネスの定義の「nonjudgmentally」(判断なしに)が
実は非常に大切な部分です
この「判断なしに」というのは「受容的態度」のことです
実は慢性疼痛でも不安障害でもストレスによる問題でも
「受容的態度で観察すれば症状は自然と消えていく」のです
そんな馬鹿なと思われるかも知れませんが消えていきます
どうしても不快な症状は避けたり否定したり取り除こうとします
ところがそういった心の態度が、却って症状を大きくしているのです
「受容的態度」とは、不快な症状(身体、思考、感情)が存在することを
素直に認めて、そこに存在することを愛情を持って許すことです
例えば最初のうちは呼吸を観察する瞑想をします
雑念(不快な症状)が生じたら呼吸に戻りますが
その際には、ただ戻るのではなく、存在を認めて存在を許してあげて
その居場所を確保してあげて、そこに置いたままにして戻るのです
そうやって、何度も受動的態度で接することに慣らしていきます
不快な症状を観察しても思考や感情がエスカレートしない状態になってから
今度は不快な症状に注意を向けた観察を、同じく受容的態度で行います
(続く) やがて症状には強弱があることを経験します(無常)
症状は変化することが分かってきます(無常)
症状はあるときとないときがあるのを経験します(無常、無我)
症状は恒常的に存在するものではないことが分かってきます(無常、無我)
症状(思考、感情)と自分は別な物であり、コントロールできる物ではない
ということが分かってきます(非我)
やがて冷静に少し離れて観ることができるようになります
しだいに症状が弱くなっていきます
症状が現れても慌てたり動揺することがなくなります(無執着)
そしていつの間にか症状が消えていきます
たとえ症状が残っていても、とらわれることがなくなります(無執着)
受容的態度で観察すると、身体、感情、思考を通して
「無常、無我、非我」の経験と確認を何度も繰り返すことになります
その中で自然と「無常、無我、非我」を悟っていくのです
そして、やがては執着(とらわれ)がなくなることで
症状が消える、或は症状から解放されるのです
不快な症状(身体、思考、感情)はもちろん健康な人にもありますが
特に慢性疼痛、不安障害、パニック障害などの心の問題で悩んでいる人は
症状が大きいからこそ、今まで思考の中で勝手に描いていた事実と
実際の事実とのギャップを、かなりはっきりと経験することになります
その分「ああ、そうだったのか!!」という驚きは衝撃的なものになります
ですから、むしろ健康な人よりも早く悟りに達するのではないかと思います
健康な人はそこまでのコペルニクス的転回を経験できないので
飽きてしまったり、些末な技法の違いにとらわれ迷いが生じたり
瞑想に集中できないため、悟りへの道がより難しくなっていると思います
不快な症状も無常であり無我だから常に消滅を繰り返しています
そのことが分かれば、とらわれることはなくなります
とらわれがなくなれば、やがては消えていくのです 「受容的態度」についてとても参考になりますので
英文ですが引用しておきます
Each of us experiences pleasant feelings and painful
feelings. One of the core practices of mindfulness is to
take care of our painful emotions. Many of us run away
from ourselves, from our pain. Usually when we have
pain, we don’t want to face it because we don’t know
how to take care of it. We also think that if we are
powerful, we shouldn’t feel pain. So we try to cover it
up with other things. Rather than changing the peg and
helping positive seeds arise from our store
consciousness, we try to escape our feelings through
unmindful consumption. We turn on the television, pick
up a book, or talk on the phone. We try to do
something to ignore the pain, fear, sorrow, or despair
we feel. But while consuming things that help us
temporarily forget our pain, we bring more elements of
distress into our bodies and minds. We bring in the
elements of craving, fear, and worries. This makes the
situation worse every day.
(続く) (続き)
Instead, we can go home to ourselves. We can use the
energy of mindfulness to recognize the pain inside and
hold it tenderly, like a mother holding her baby.
Mindfulness is the mother. Your pain, your sorrow,
your despair, is your baby. There is no fighting. The
energy of mindfulness does the work of recognizing,
embracing, and bringing relief. When a mother hears her
baby crying, she puts aside what she’s doing, goes
immediately to pick up her baby, and holds the baby
tenderly. She may not know what is wrong with the
baby at first, but the fact that she’s holding him
tenderly like this already brings relief to the baby. You
may not know what is causing your pain, your despair,
your depression, your fear, but if you know how to
hold that pain with the energy of mindfulness, you
immediately get relief, because the energy of
mindfulness begins to penetrate the energy of pain, of
sorrow.
(from "The Art of Power" - Thich Nhat Hanh) >>242
訂正
×不快な症状も無常であり無我だから常に消滅を繰り返しています
○不快な症状も無常であり無我だから常に生滅を繰り返しています >>241
慢性疼痛を長年患っている患者だけど、マインドフルネスですべての患者が治るとは思えない
自分が治らないからだけどね
どれだけ心がマインドフルネスに満たされて幸福感に包まれても、痛いものは痛い
痛みが軽くもなりはしない
治る患者もいるのでしょうけどそこは診断的治療で選別がされるだけであって、すべての慢性疼痛がマインドの問題なのではない おっ?
なんかイタチっポイ流れになってたけど宗教板っぽくなってきたな
>>238
ミトラ教スレでも覗いてミロ >>241
ご紹介ありがとうございます カバット ジンさんの文献なんですね 凄いです ポイントが全部書いてある 変に知識がなくて追い込まれている人ほど解決に近いことも書いてあるし 不思議 衝撃的だということも書いてますね
後は対峙したくない問題を正視する上手い方法があればより完全になるんだろうけど やっぱり勇気しかないんだろうか.... 意識的に正視しようとすることはないよ
対処できるようになれば現れてくる >>246
マインドフルネスは幸福感で対処するのとは違うよ >>250
そうだね
でも慢性疼痛への偏見を跳ね除けるためには"幸福感"や"充足感"という単語を使うのが分かりやすいと思ったのです
満たされていても痛いものは痛いんだよ
慢性疼痛を心の問題で片付けようとするのは西洋医学の怠慢だ 「楽になった気がするぞ」「ほんとだー!!!」
などと 頭が弱いほうが、楽な場面も多々あるわけだが
気休めといって かしこい人にはむつかしいのじゃ 俺は慢性疼痛じゃないからそのことについては言えないけど
足を組んで座ってる時に痺れてきて痛みを感じるようになった時に
痛みに注意して気をつけていると、痛いことは痛いけど、痛みは体の問題だという感じになってくる
観察している視点の痛みではないというか
完全な切り分けなんかは出来ないけどね
痛みで頭がいっぱいになることはない
マインドフルネスは満たされることによって痛みにたいして対処するのではなく
痛みは痛みとしてそこにあるけど、それによってパニックにならないという手法なんじゃないだろか >>249
なるほど 少しづつ進んでいくうちに対処できるようになって その時点辺りからキツめの問題が露わになるって感じですね たぶん
過去の明らかに自覚できている明確な問題 例えば親の虐待とかイジメとかレイプとか その他色々あるでしょうけど それが少しでも現れた時点で辛すぎて辞めてしまう人もいるって聞いたもので その場合は焦って早く進もうとし過ぎたってことか 腕の良い医者ほど「最後は患者さんの治る意思次第」などと言ったりするもんだ
自分のケアを怠って西洋医学を頼り、そいつ怠慢というのは逆恨みというものだ
自分の疼痛は歯肉炎、頭痛、関節炎がガッツンガッツンだったけど治った
10年ぐらい断続的に続いたものもあれば、頭痛は365日休みなかったけど
他にはアトピー、ウツ、副鼻腔炎、慢性の下痢、呼吸器、肝臓の辺りの痛み、
など色々あって心身ともに物凄く辛かったけれど
今は体感上はほぼなくなってしまった
食事にも気をつけたけど、それは意識的と言うよりマインドフル的な気付きによることが多かった
現代の医学に比べて、人間の神経システムというのは驚くべきものだと思う
信じられない人は信じないだろうけど、全く本当の話
>>252
カシコイ妄想から離れてバカにならないと無理だね
今すぐ頭を取れー!最高ですかー!ってのもあながち間違ってない >>254
そういうPTSDに近い心理的問題が既に顕になってる人のことではなくて
わりと平穏なんだけど、何だか違和感があったりもやもやする人の場合だよ>>249は
どちらにしても、やることは基本的には同じだと思うが
PTSD様の状態だと、まずサマタで思考と情動をおとなしくする事を根気強く
根気強くやらないと対処できないと思う >>251
ちょっと誤解を招く表現かもしれないけど
幸福感とか充足感とか、んー
そう満足りた心?至福感みたいなものは痛みの抑制とはガチ関わりあるね
セロトニンやらエンドルフィンやらなんやかやも最終的にはアナンダミドとか2AGとかに帰着するね 被害者的な意識から抜け出せるかどうか、という意味では共通した問題とも言えるね >>246
お気を悪くされたなら申し訳ありません
痛みが無くなると受け取られたかもしれませんが
マインドフルネスは医学的治療ではないので
痛みそのものがなくなることはないです
ただそうした痛みと、それに伴う感情や思考は別だということです
「このまま痛みが続いていくのはたまらない」
「この痛みがあるばかりに思うようにいかない」
「何で自分ばかりこのような目に会わなければならないのか」
こうした悲しみや、絶望感、怒りというものは
肉体的な痛みとは違うものです
仏陀は「一の矢」を受けることを問題にはしませんでした
この場合肉体的痛みは「一の矢」のダメージです
「痛い」と思うのは当然のことなのです
問題なのはその後に続く思考や感情です
これを「二の矢」のダメージと譬えました
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70525.html
「二の矢」を受けないために仏陀は人々に説いたのです
それは執着(とらわれ)を無くす方法です
その具体的な方法が四念処です
いわゆるマインドフルネス瞑想もこの四念処を基にしています
あくまでも「二の矢」を受けないことを目的としているのです
肉体的痛み(一の矢)に対する「とらわれを無くす」ことで
肉体的痛みに対する「心の痛み」(二の矢)を消していくものです
もちろん私が述べているのはマインドフルネスについての
基本的な考え方についてです
マインドフルネス瞑想ですべての疼痛患者が救われる
と言っているわけではないです >>241
ちょっと待った。
「on purpose」とあるね。
これは「意図的」といった意味。
意図的に判断なしにというのが矛盾しているわけね。
マインドフルネスは、定義自体が破綻していることに気づかないとなりません。 矛盾してるかな
最初は自動的に判断してしまってることに気づくところから始まるでしょ
気づかないならずっと自動的に判断することが続くんだから >>246
参考までに
> 慢性疼痛を長年患っている患者だけど、マインドフルネスですべての患者が治るとは思えない
> 自分が治らないからだけどね
何を読んでどれくらいやったの?
> どれだけ心がマインドフルネスに満たされて幸福感に包まれても、痛いものは痛い
> 痛みが軽くもなりはしない
本当かな
思い込みで書いてない? >>260
目の前で亀を虐めている子供達を見て 「怒り」「悲しみ」「恐怖」は味わうように感じてもよいけど
「どこの悪ガキだ きっと親もろくでもないに違いない」とか
「もしかして竜宮城関係のドッキリ?」などとは考えてはいけませんってことですよw >>260
いや、全然矛盾してないでしょ
だって普通に出来るもの
是非の判断を意図的に行わないこと、出来るっしょ
難しく考えすぎでは? 気づきながら手動瞑想をやっていると、思いの中に埋もれてた所からrealの世界にズームしてくるみたいな感覚が出てくる >>242
これを思い出した
1977年のある夜、29歳の時、長期間に渡り自殺を考えるほどの抑鬱に悩まされた後、トールは「内なる変革」を経験した
という[8]。その夜、トールは眠りから覚め、「ほとんど耐えられないほどの」鬱に苦しんでいたが、
その時、人生を変えるような至福を味わった[12]。この時のことを思い出して本人が語る様子は
以下の通りである。
私は、もうそれ以上自分自身と生きることが出来なかった。そして、答えのない疑問が生じた。
自分と生きることが出来ないこの「私」は、一体誰なんだ? 自分とは何だ? 私は虚空へと
吸い込まれるように感じた。その時は、一体何が起こったのか知らなかったが、満たされない
過去と恐ろしい未来との間に生きている、思考が作り出した自我が、その重苦しさ、その抱える問題と共に、
崩壊したのだ。翌朝、目が覚めてみると、すべてが実に穏やかだった。この平安は、自我がそこに無かったために
現れたのだ。ただ存在の感覚のみ、あるいは「在ること」、ただ観察し見守っているだけだ >>260
Mindfulness means paying attention in a particular way:
on purpose, in the present moment, and nonjudgmentally.
(from "Whenever You Go, There You Are" - Jon Kabat-Zinn)
マインドフルネスの意味は特別な方法で注意を払うことです
その特別な方法とは
・意図的に
・今の瞬間に
・判断をせずに
ほっておくとこのようなこと(左の大人)になるので
https://files.allas.se/uploads/sites/20/2016/10/Mindfullness-Heidi-Forbes-%C3%96ste.jpg
先ず「意図的に」注意を払うことが必要です
そしてどこに注意を払うのかというと
過去でも未来でもない「今の瞬間に」です
「判断をせずに」というのは、注意を払う際の態度のことです
具体的にどういう態度かについてはすでに書きました
何も矛盾していません >>186
>「師匠を人格で選べ」
日本寺和田終わっとるがな >>259
「一の矢」「二の矢」という表現はとても分かりやすいですね
自分は激痛の発生から数年かけて紆余曲折あり「二の矢」の害からは離れることができました
まだ手法としてのマインドフルネスに出会う前でしたけど、類する体験を得られたお陰で
マインドフルネスが「二の矢」に効くのはその通りだと思います
でもそれをもって「慢性疼痛の症状が消える」と世の中に広められることは大迷惑なのです
「一の矢」まで消えるひとも確かにいるのかもしれません
でもそれはひとつの部分です
「一の矢」はマインドフルネスで消えてくれるものではありませんから 身体が悪い人には慈悲の瞑想が有効だよ。
しっかりやれば身体が軽くなる。軽くなれば動きやすくなる。
一日中動いてると血行が良くなって、健康になる。 >>270
なぜ大迷惑なのか補足をしますと、医学の進歩を妨げるからです
慢性疼痛と表現されると軽症のように思われるかもしれませんが、そこには私のように一日の大半を寝たきりで過ごさねばならない障害者も含まれます
具体的な病名でいえば、慢性疲労症候群や脳脊髄液減少症やそれに類する患者です
慢性疼痛をストレスや不安障害と一緒にまとめて「症状が消える」だなんて軽々しく表現しないでいただきたい 自分の生活史への固着から出てきた言葉でした
瞑想に戻ります 対人恐怖とか、不安障害には慈悲の瞑想が覿面に効くね。
思春期以来の長年の悩みだった対人恐怖が3ヶ月でなくなった。
コンビニのレジすら手が震えるくらい重症だったけど、今は知らない人とでも世間話できるくらいになったわ。
瞑想を知って最初の数年は観察瞑想だけだったけど、それだけでは俺みたいな重度の対人恐怖は乗り越えられなかった。
不安のエネルギーが大きすぎて、サティを入れても逃げちゃうんだよね。
たぶんだけど、慈悲の瞑想は不安の元になってる潜在意識にある怒りや恐怖をダイレクトに浄化するような気がするよ。
ヴィパサッナーやマインドフルネスは、何年もかけて意識の上に一旦引き上げてから浄化するのだと思う。 身体的な障害(脳性の麻痺なんだけど)を瞑想で治せたりしないんですかね?と言うか個人的には「ただの麻痺なんだから脳から上手く信号を出せれば秒で治るはず」みたいに考えてるんですけど。
ボディスキャンとかなんその法とか慈愛の瞑想はやってるけど……結局のところこの瞑想で治しましたって先達が居れば嬉しいんですけど >>276
早ければ来年実用化されるという脳再生の治療法の方が期待できるんじゃない? 病気を治すことはしないけど、
逆に気持ちの落ち込みは人を殺すから
そこから人を救うのがマインドフルネス 悟ってしまえば、解脱してしまえば、脳性麻痺でもなんでも、
病気だろうが何だろうが、笑ってしまう、下らない、鼻糞みたいな事に感じられるだろうね。
治る病気も治らない病気もあるだろうけど。 マインドフルネスはメタ認知を育てるだろ
だから過去の思い込みや考え方のクセ、生活習慣から抜け出せる
それに伴って体の機能も充全に働くことになる
幸福感などもその一部だろう
全てではないだろうが病気が治ったっておかしくはない 良寛は江戸後期の曹洞宗のお坊さんである。「手まり上人」と称されるほど、子供好きだった。エピソードにも事欠かない。
托鉢の最中に、泥棒に間違えられ、生き埋めにされかかったことがある。このとき、良寛は一言も弁解せずになされるがままにしていた。
穴埋めにされる寸前、良寛を知る人が通りかかり、良寛であることを告げたため助かった。
「どうして濡れ衣だと言わなかったのか」という問いに、「これまた因縁」と答えたとか。 悟ったような人はあらゆる苦しみに対して心構えが出来てるはずだよね
そんなことがなければ客観的な評価として悟ったとは思われない
トートロジーだ
「そんなわけはある」
俺たちが実際にそんなことができるか?そんなことはわからない
それとは別の話だ >>284
私はまだ途中ですが途中の状態でもわかったことがあります 心構えが無くなったので 事前に備えられなくなるんです 具体的にイベントが起こった時に初めて反応するようになります
またイベントでどんなことが起こっても なかなか記憶に強く残らないんです
羨ましく思う自分 恐怖する自分 喜ぶ自分 悲しむ自分 拘る自分があるきっかけを起点として維持できなくなって弱まってしまう
味気ないような気もするけれど 厄介ごとがない 感じられないという楽な感覚ですよ だから明日事故で足がなくなっても 不便になって困ったなー 痛いなーとは思うでしょうけど それ以外の思考 感情は沸き起こらない 起こせないと思います 心構えという言葉が良くなかったのかな
けれど、腕を失うくらいのことは受け入れられるだろう
というその境地は他人から見たら立派な心構えですよ >>275
慈悲の瞑想、真剣にやられたんでしょうね
自分も不安障害あったけど同じ様な感じでよくなったよ
瞑想、慈悲の瞑想というのは思い込みを外してくれるものだと思うんだけど
これを真剣にやってると自分中心の見方から離れられるようになりますよね
瞑想だけでなく、普段も今まで決めつけて見ていた物事が違って見えてきたりして >>286
ああ なるほど 境地 状態的な意味だったんですね 言葉に拘って御免なさい
>>287
慈悲の瞑想は知ってはいたんですがすっごく抵抗があってというか人工的 作為的 偽善的だと思い込んでいてやったことが無かったんですが ああ なるほど とか自分の変化の兆しがわかった時のことなど 教えてくれませんか?
実際に言葉を口にしたり心の中で唱えるというのは非常に強力な方法ですよね 最初は素直に口が気持ちが強張って上手く唱えられないのに 言葉を繰り返す間に強張りがなくなって気持ちも変わっていく的な感じなのでしょうか? >>288
抵抗あるなら世界平和でも良いんですよ
普遍的に倫理的に正しいとされていて、自分が好ましいと思える究極の世界観に入り込むことです
究極ですから、現実的でなくていい
世界に向けて宣言するわけではないから偽善でも構わないんです
現実と思い込んで見ていることから距離を取るということが重要です 慈悲の瞑想って時間はどれくらいやるもの?
あの文章一回唱えるだけ?それても何回も繰り返すの? 慈悲の瞑想は日本語的に美しくなく唱えてて楽しくないので日課には出来なかった。
開経偈→懺悔文→三帰礼文→般若心経→大悲心陀羅尼→妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈→舎利礼文→普回向→ 四弘誓願文
この流れで読経すると心が落ち着くし利他心も意識するようになる>自分
余裕がある時には別の時間に修証義を読みます。 変化の兆しというというか、今まで世界を見ていたフィルターのようなもの
あらゆることに結びつけて考えていたような思い込み
それ自体が見えてくるのが大きいかなぁ
現実と思って見ていた世界自体が思い込みでできていたんだなという
一時的に慈悲の瞑想という今までと違った思い込みに摩り替わるだけだ、とも言うことも出来るけど
違った角度から世界を見るとまるで違った姿に見える体験が出来れば良いと思います
また倫理的に正しいとされている事に、仮にも同一化するわけだから
本心を人に咎められるという心配がない
つまり、意識が拡大していくことに不安が出てこないわけです
とはいえまだまだLSDやったり大麻やったり悟ったりという次元では拡大してないと思いますがねw
瞑想でバッドに入らないという表現だとわかりやすいかな
>>290
正式なやり方は知りません
自分は感覚的に心からそう思ってる気がしたらそれでよしとしてますけど
大体5分くらいかなぁ
つべの動画で女性が
「慈悲の瞑想がうまくいきません」と質問していて
スマナサーラ氏が若干キレてるのがありますw
「最初からうまくいくわけないでしょ」と
何度も繰り返して出来上がっていくものだとのことです >>292
なるほど! これは意外なお答えだと勝手に感心していますw バットトリップでない アッパー系のトリップなんですね てっきり嫌いな人と対峙した時に感情と理想がぶつかって矛盾に苦しみながら唱え切って克服!みたいな展開になるもんだと...
意識の拡張 転換って意味合いがあるんだなー
スマナサーラ長老 ズバズバ言うので面白いです でも女性の言うことも良くわかる 私も嫌いなアイツも幸せになれって願うのか!うぉー!って絶対なってしまいそうです
貴重な実体験を教えて頂きありがとうございました 自分は慈悲の瞑想は唱える時は大体は仏壇の前で唱えます。
線香を上げてりんを鳴らしてから既に暗記している慈悲の瞑想を暗唱します。
でも>>291に書いた通りで既に日課にはなっていません、暗唱できるほどには唱えていたのですが。
ただし四弘誓願文の後、座布団から立つ前に「生きとし生けるものが幸せになりますように」と唱え、それから立つことは多いです。 >>290
ただ唱えるだけじゃなくて、ある人の幸せを祈るならその人が幸せになってる状態をイメージをして、そのイメージをきちんとイメージできるまで、何度もやるのがいいと思うよ >>293
アッパーではないです、ダウナーで落ち着いた感じですよ
自分がありがたい慈悲の世界に包まれたような感じですね
ちなみに、自分は口には出してないです >>292
そういや上の方で自律訓練法だかマインドフルネスだかでバッド入りかけて慈悲の瞑想で回避したとか言う人いたな。
(個人的には捨ができてれば良くって慈悲の瞑想あんまり関係無いんじゃないかなーとか思わなくもないけど)
サマタはバッド入りやすいのかなーという気がしないでもないけど慈悲の瞑想は例外なんかね?…つうかそもそもサマタとは別物なのでは?
やってないのでなんともいえんが、いわゆる慈・悲・愛・利他・無私の心の状態ってことだよな多分 【創価学会は朝鮮族支配のカルトです】
オウムに人材と資金提供していたようです。
犯罪教団のお手本であり創価学会は、現世利益を看板にしてし、おびただしい数の出版物を半強制的に買わせる異常に気持ち悪い卑劣鬼畜外道ドブネズミです。
創価学会は、批判者や脱会者に対し、脅迫、尾行、見張り、嫌がらせ、怪電話、怪文書、暴行、傷害、盗聴等々、あらゆる犯罪的手段を用いて攻撃します。
創価学会を私物化した池田大作の野望は、日本の国家機構を乗っ取り、絶対支配者となる ということです。
同時に、創価学会は、司法界、官僚、警察、マスコミ界等へ、池田大作私兵を送り込む作業を長年にわたり組織的に続けています。
創価学会の会員は何かにつけ込まれ、無理矢理入信されられた方がほとんどです。
つまり、被害者なわけで救い出すチャンスはあると思います。
皆様とともに、どうしたら彼らを救い出すことができるかどうかを話し合ってみたいと思います。
池田大作先生を信じ、崇拝したところで、幸せが訪れるでしょうか?
創価学会は撲滅するべきです
創価学会被害者の会 浪速建設 岸本晃(キシモトアキラ)
Ta- チベット仏教にも慈悲の瞑想がある
まずはボディスキャンをしながら自分に身体や心があることの素晴らしさ、慈悲を向けていく方法
あとは有名な「トンレン法」
あと「相対的菩提心」と「絶対的菩提心」を育む
大事なのはまず自分自身を大事にすることだそうな テーラワーダの場合はブッダゴーサの清浄道論から理論的に取っていて、
慈悲をあたえる対象の順番、対象にしないほうがいい相手などが明確に決まってる。
特に亡くなった人は禁じられていて、亡くなってるので慈悲は届かない。
ある僧が、昔の師匠に慈悲を送っていたが禅定に入れなかった、調べてみたら亡くなっていたと
のことだった、とか。でもこれは伝説じゃないかなぁ
ゴエンカさんのところでは、スマナサーラさんのところとは全然文言が違っていて、
自分が知ってか知らずか迷惑をかけた人に許しを請うとか、逆に許すとか。
慈悲を呼びおこせれば自分の言葉で文言を作ってよいといわれた。あと、なくなった人相手でも、メッターは届いて
相手を幸福にすると言われた。合宿最後にやってたけど、みんな結構泣いていた
チベット仏教のトンレンも、亡くなった人を対象にしても良いといっていた
IMSのシャロン・シャロンサルツバーグも亡くなった人でも良いと
清浄道論に厳密にするのは、どうもシステマティックだし、ちょっと時代や文化の縛りが多いのかなと思う >>296
アッパーまではいかないんですね ダウナーで落ち着いた感じなのかー
>>297
サマタは何をイメージするかでまるっきり心身の状態は変わると思いますよ 人間の不思議 いい加減さが体験で嫌と言うほど理解できました
神の声を聞いたり宇宙人と交信したり妖精が見えたり イメージだけの力で全身が筋肉痛になったり 言葉が喋れなくなったり面白さで言えば一番面白い方法だと思いますw
だから白く輝く暖かい光とか 世界が暖色で包まれて争いの無いイメージとか自分が受け入れやすいピンとくるイメージだと意識が拡張 転換されるんでしょうね 慈悲の瞑想ってカバットジンのとこでもやってるんだよね >>299
>>300
なるほど三種類ぐらいあるわけね
寺和田のあのクソダサ慈悲瞑想は一体誰が考えたんだ?オリジナルは何?
と思って軽くググってみたら
寺和田協会のサイトによると慈経がベースになってる臭いな?
ワンフレーズしか同じジャネーww
と思ったら何?
清浄道論から採ってるだと?
どう関連してんだお…
清浄道論でも読むか スマさんの教えている慈悲の瞑想に抵抗があるなら、
IMSのシャロン・サルツバーグの「リアルハピネス28日間瞑想プログラム」という本が
おすすめです。慈悲の瞑想(ラビングカインドネス)で躓きそうなことについて注意点も含めて
一章を割いて詳しく説明してます。
この本には、ウィスコンシン大学でのfMRIでの実験結果、慈悲の瞑想(ラビングカインドネス)が脳にポジティブな変化をもたらし、
免疫系がワクチンに反応して多くの抗体を作り出しADHDの症状軽減も期待できるなど書かれています。
ちなみに、そのウィスコンシン大学ではカバットジンとチームを組んで研究を行い、また、チベット僧も
参加していますが、そのチベット僧が書いた「今、ここを生きる」という本が超おススメです
なにしろマインドフルネスの意義と慈悲の理論的関連性や、科学的根拠も非常に詳しく書かれてるし、
日本でも山下良道さんが高く評価しています(一方庵のリトリートでもフライヤーをおいていた)。
また、グーグルでマインドフルネスプログラムを開発したチャディー・メン・タン博士は、一冊しか時間がなければ「今、ここを生きる」がいいだろうと評価してます >>296
> >>293
> アッパーではないです、ダウナーで落ち着いた感じですよ
> 自分がありがたい慈悲の世界に包まれたような感じですね
> ちなみに、自分は口には出してないです
ん?アッパーなのでは?
と思ったらそれは喜の状態なのか…
慈と喜の区別がいまいち付き難い…と思ってたら
清浄道論によると喜は文字通りの喜悦感ということらしいな…
捨になるとそういうこともないようだがこのへん大乗と解釈の違いがありそうだな >>272
>>241
>実は慢性疼痛でも不安障害でもストレスによる問題でも
>「受容的態度で観察すれば症状は自然と消えていく」のです
確かに慢性疼痛を並べて「症状が消える」という書き方だと
疼痛の場合は「痛みそのものが消える」という意味に受け取られますね
「(疼痛の場合は緩和されていく)」とでも加えるべきでした
真意は>>259で述べた通りですが
仏教(マインドフルネス)で問題にしているのは「二の矢」です
「一の矢」が消えるわけではありません
慢性疼痛で「一の矢」が無くならないのと同じで
不安障害でもパニック障害でもストレスによる問題でも
どの場合でも厳密には「一の矢」は無くなりません
ですから、私が「不快な症状」と書いたのは「二の矢」のことで
「症状が消える」というのは「二の矢が消える」という意味なのですが
言葉足らずでした
そもそもマインドフルネス低減法は
カバットジンが大学の医療センターに従事する中で
医学的治療を受けても効果が無かったり
治る見込みの無い慢性疼痛患者をどうにかして救いたい
という思いの中から生まれたものです
その方法として瞑想を取り入れた理由は
疼痛患者は、恐れや絶望感などのネガティブな思考や感情のために
実際よりも痛みを大きくして、苦しんでいることに思い至ったからです
そして実際に疼痛緩和の効果が認められたため、それをきっかけに
マインドフルネスが注目されるようになりました
繰り返しますが、ある一定の疼痛緩和の効果はあります
ただしマインドフルネスはあくまでも
医学では対処できない領域を補完するものですし
ましてや、それに取って代わるものではありませんから
それによって疼痛治療に関する医学的研究が止まってしまって
医学の進歩が妨げられるというようなことは無いと思います >>248
いえ、私の文章です
カバットジンの引用は英文のマインドフルネスの定義だけです ウィキペディアの慈悲の瞑想のとこ見てて思ったんだけど、
先にマインドフルネスは四念処派生と言ってた人がいたけど、
四梵行派生なのでは?
ラーフラ教誡経によると(抜粋)
慈・悲・喜・捨の瞑想(四梵行)を深めなさい。
というのも、
慈の瞑想を深めれば、どんな瞋恚も消えてしまうからです。
悲の瞑想を深めれば、どんな残虐性も消えてしまうからです。
喜の瞑想を深めれば、どんな不満も消えてしまうからです。
捨の瞑想を深めれば、どんな怒りも消えてしまうからです。
てなってて…
四念処は
身念処(不浄観)
受念処(苦)
心念処(無常)
法念処(無我)
て書いてあるけど…
不浄観、苦、無我はマインドフルネスではカットしてるでしょ?多分
無常はなんとなくわかりそうなもんだけど…
無常と無我と苦は同じ意味だから…
なんて考えないよね?マインドフルネスは?
(知らんけど) 四念処はヴィパッサナーで、慈悲喜捨の瞑想はサマタじゃないの?
両方ひっくるめてマインドフルネスと言ってるのかも知れないけど。 慈悲喜捨の瞑想は基本的にはサマタと言われることが多いけどそれで変化していく心の状態を観察していけばヴィパッサナーにもなるとも言われてるよ サマタは始めたばかりの最初は能動的に何かに集中しようとしてるだけだけど
やってるうちに能動から受動に意識変化が起きるようになるでしょう
慣れてくると、サマタ始めるとすぐに受動的なセルフモニタリング状態になるでしょう
そこで気づいている状態がヴィパッサナー
一日中その状態になってきたらマインドフルネスですよ
だから、慈悲の瞑想を唱えながらヴィパッサナーになってるというのは当然あること
だけど、そうしようと頑張ると間違えるから、やるのはサマタでいい
能動的/受動的というのも便宜上の表現だけど
ちゃんとやってる人はわかるはずなので説明も要らない話だし
何言ってんだかよくわからなければ、八割くらい忘れてもらって瞑想を続けてもらえばいいと思いますよ 私の場合、慈悲の瞑想やってるときは忙しくて、観察は無理ですけどね。
とにかく限界まで慈悲の念に集中します。 藤田一生さんがエックハルトトールの本を読んで大変面白かったって言ってた
あの人のやってることって完全にマインドフルネスだと思うけど、
現代マインドフルネスの潮流とは全然ちがうところからきてるよね
この数年のブームよりちょっと早かった
思考と距離を置くために「いま」を使って、四念処と同じ観察を結果的にしてるって感じだけど
そうなると社会や世界が人間にとってどうなるかまで語っちゃうのはすごいと思う
仏教の文脈と完全に切り離してあそこまで語れるのはたいしたもんだと どの辺が面白かったと言ってるのかよくわからん
最後の一行? >>320
> 仏教の文脈と完全に切り離してあそこまで語れるのはたいしたもんだと
禅ではどーたらこーたらみたいな話してたような気もするけど気のせいかな…
困ったときのウィキペディアによると
影響を受けたもの(抜粋)
老子道徳経,
〜
聖書,
エピクテトス,
〜
ジャラール・ウッディーン・ルーミー,
(↑スーフィズム)
〜
トマス・ア・ケンピス,
マイスター・エックハルト,
〜
臨済義玄,
エマーソン,
クリシュナムルティ,
ラマナ・マハルシ
とある…
なるほど老子-臨在か
あと真偽は判らんがマイスター・エックハルト
エックハルト・トールは源氏名…じゃなかった通名か。
マイスター・エックハルトの話は出てなかったような気もするけどやっぱそうだよな〜ドイツ人だし。
表立って表明はしてないけどユニタリアニズム-ネオプラトニズム-シャンカラみたいな流れになるよなやっぱり 個人的な解釈だけど慈悲の瞑想とかのフレーズは適当で良いと思うんですよね。少なくとも本とかサイトごとにチョイチョイ違ったりしててそれでも全部それなりに効果ある訳ですからね。大切なのは気持ちじゃないかと……。
まあ、全体的な流れはどれも同じですしそこは大事なんでしょうけど……
とりあえず明日>>304の本どっちか買ってみようと思います。今、ここを生きる。が気になるかな。 そう、慈悲の瞑想の語句や唱え方は自分にとって完全な満足な状態をあらわす言葉を使うといい
幸せになりますようにでも苦や悩みがなくなるでも悟りに導かれるでも安心でもなんでもいいし
自分にとってリアリティがあってイメージや実感しやすい言葉を使うのがいい
そうでないと自分にとって大して意味のない語句をただ繰り返すだけになってしまう
マントラと変わらなくなってしまう とくに慈悲の瞑想するとき以外でも日常24時間、何かに接するときはそれに慈悲の念を持つといい実践になるよ
人は常に自分や誰かに接しているし
いまでも自分やネットを通した誰かと接しているから自分やその誰かの幸せだったり、苦や悩みがなくなることを祈れるし 急に寒くなって、昨日の晩は体冷やしちゃったからすこーしメンタル来てるw
こういうときこそ慈悲の瞑想やる気になるね
きっとみんな寒いし、ホームレスの人とか野良猫とか風邪ひいちゃうからね
まず私が幸せでありますように!ZZzzz 目的によってはすごく大事かもしれないことを思い出しました! 私は観察時に自分の皮膚の内側で起こることを全部観察しよう 特に何か変化が起こる瞬間を見逃さないぞ という感じでもっと短く もっと瞬時に もっともっと瞬時に というより同時に とやっていたんです
それでも一応の決着はついたんですが
決着がついた後に色々調べてみると 変化が起こった 消えた 変化が起こった 消えた とやった方が簡単というか そちらで決着がつく人の方が多いということを知りました
認識の瞬間を突き詰めるのか認識の生滅を突き詰めるかの違いで結局同じことなんですが 後者の方が効率が良いらしいです 恐らく普通の生活で瞑想を役立てたい人でも大いに意味があると想像します
みんな知ってる当たり前の事だったらすいません 禁止じゃないけど程々にって1に書いてあるから元々じゃね まあ仏教に結び付けた話を禁止にしたらほとんど話す事は無くなるね ほとんどの皆さんは、『カーラーマ経』を知っていますね。
ブッダは信じないことについて語っている。これはとても大切なこと。
ダンマ(理法)をよく理解することが、とても重要なのです。
仏教徒でさえ、時には自分の観念に合うように、教えを誤って解釈してしまう。
ウ・ジョーティカ 慈悲の瞑想はマインドフルネスと併用されてること多いしな 言葉で知ったことと、語った人の伝えたかったことの違いは必ずあるからね カーラーマ経を信じないという事は、自分で確かめた事を信じないということですね。
統合失調症ですか? それぞれを切り離して考えれないのか?例えば、そう言う教えの宗教があったとしてそこを信じないからと言って自分で確かめたことを信じないという事にはならない。
よりもさっき本屋わずで在庫検索してきたけど2冊ともなかった。読んでポジティブに生きれるようになりたいとか思ってたから残念。今、別の本屋さんに向かってる。 ヨンゲイさんのはアマゾンにあるよ
チベット仏教だから大乗系だね
どちらかというと只管打坐に近い 優れた映画や小説に触れても慈悲が起こるな
黒澤明の「赤ひげ」とか登場人物に対する慈悲があふれて涙チョチョぎれるわ 仏教の「信」は確信とか自信という意味。真理を確かめる事で生まれる。
他宗教の信はよく分からない概念を無理矢理信じる「盲信」。 お釈迦様がこう言ったから正しい、というのも盲信になることはある
必ずしも真意を理解してるとは言い難いからね >>344
信は先ずは仏典を信じて実践するという事だよ >>346
いきなり仏典を信じてしまったら、カーラーマ経の教えに反するでしょう。
経典にあるからといって信じてはいけないと説かれてます。
釈尊最後の言葉も自灯明、法灯明ですから、自分を信じる、真理を信じるというべきでしょう。
仏灯明、仏典灯明とは説かれていませんから。 >>338
>>347
君は毎日ここに来て誰かの、何かの悪口を言って去っていく
それが八正道に基づいた行動かな >>348
そろそろ5ch止めようと思ってるんですけど、仏教の事になるとついついw
某スマ師もそうですが、そんなに悪口だと思ってないんです、自分では。
申し訳ない。そろそろ本当に止めます。 >>349
良いじゃないですか 仏教の戒律があるのかもしれないけど それが本当の気持ち 反応でしょ? それを観察しましょうよw 言った方も言われた方もそれを観察すれば良いんだから
なーんて言ったら仏教者の人には怒られるのかもしれないけど 観察してるならいいけど観察してないならまずいでしょ
自我が肥大することを勧めるのもよくない >>347が誰かの悪口になるのがよくわからないのだけど 慈悲の瞑想についてだけれど、他者の実際の苦しみや困窮を考えて胸が痛んでしまうことがある
清浄道論に基づくととても愛している人に慈悲を念じると、相手が心配になって憂いが生じるので
最初は避けるようになどと書いてあったり、要するに心を悲しませるような気持ちになってはいけないようだ
また、「異性」と「死者」は絶対に念じてはいけないと。
色々ハードルが高く感じる 現実の人との付き合いに
その感情を使うことで
とても大切な経験をすることができる
と思うけど
求道者として生きるので
そういうものは要らない
と言うことなんですかね 卑近な喩え話ですが、仕事場や帰りによる店が素晴らしく整理整頓された空間で
そこで過ごすことは心地よいなぁ、と感じる
部屋に帰ってきてそこまで整理整頓されてないと、心地よく感じない
すると、自然と整理整頓してしまうようになるし、それは努力した気にはならない
またそのギャップが大きいほど実行力が上がるわけですよね
想像して貰えればわかると思いますが、きれいな空間も居心地がよくなければ効果はない
同じ様に、慈悲の瞑想が心地よい空間であれば
現実の自分の生活空間の中で慈悲の空間に近づくように自然と行動するようになるでしょう
つまり、義務感から何かをするのではなく、やりたいからそうするわけです
そこに慈悲の心が働くようになる
ということだと思います
慈悲の瞑想などは究極の世界観であって、現実の外側にあるわけです
神話や聖書なんかもそういうものですよね
そういったものが人間の精神的な活動の源泉になるんだと思います
慈悲の実践は十分出来てないかもしれませんが、以前に比べたら自然と人を思いやるようになったし
苛ついたり他人を責める気持ちはかなり減ったなー、という実感から
そんなふうに思ってます 慈悲の瞑想は自分の心の状態を良くするのが第一だからある意味機械的にポジティブに良いほうにだけ念じるもんだと思うよ
よい人はもっとよく、ふつうの人も今よりよく、苦や悩んでる人も今よりよく、ただただその人がよくなっていくように念じる
よくなっていくなら、今がどうであろうと、いいことだしね 胸が痛むような場合もあるのはわかるのてすが
そこに祈りを向けてしまうと結果的には慈悲の実践を制限してしまうことになると思います
現実的な実践において慈悲は作為的であることで却って迷惑と思われることもあります
全く見返りを求めずに自分がしたいからすることでないとうまくいかない
それだから、現実的にはためらう事があるわけですよね 自灯明、法灯明の意味は、四念処をすること
「それ故に、この世で自らを洲とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、
法を洲とし、法を拠り所として、他のものを拠り所とせずにあれ。
では、修行僧が自らを洲とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、
法を洲とし、法を拠り所として、他のものを拠り所としないでいるという
ことは、どうして起こるのであるか?
アーナンダよ、ここに、修行僧は身体について、身体を観じ(観察し)、
熱心に、よく気を付けて(懈怠なく)、念じていて(憶念し忘れず)、
世間に於ける貪欲と憂いとを除くべきである(排除しなければならない)。
感受について、感受を観察し、熱心に、よく気を付けて、念じていて、
世間に於ける貪欲と憂いとを除くべきである。
心について、心を観察し、熱心に、よく気を付けて、念じていて、
世間に於ける貪欲と憂いとを除くべきである。
諸々の事象について、諸々の事象を観察し、熱心に、よく気を付けて、
念じていて、世間に於ける貪欲と憂いとを除くべきである。
アーナンダよ、このようににして、修行僧は、自らを洲とし、自らを頼り
として、他人を頼りとせず、法を洲とし、法を拠り所として、他のものを
拠り所としないでいるのである。」
(「大パリニッパーナ経」中村元訳) オイオイオイ
悲を念ずれば哀憐の情が
つまり辛さ切なさ侘しさが
胸に余るが当然至極じゃないか
悩み苦しみが〜♪ってありありと感じちゃうわけでしょ
エモっちゃ駄目とか何言ってんだ
糞と味噌の区別がつかんのか
捨に拘るなら止めれば良いだろ
糞本は焼いて捨てましょう
タブなら叩き割りましょう 大変慈悲深いお方なんですね、きっと救世主様なのでしょう
生きとし生けるもの全て個別事例に即してエモっててください
止めませんよ エモるって何?
ベンチがアホやから瞑想でけへん
とええ年したおっさんが人のせいにすることかな?
自分の感情の原因を人のせいにすることかな? まず慈悲の瞑想は「祈り」じゃなくて「実践、修行」だということです。
そしていろんな感情が出て来る場合があると思いますが、それはまだ自我が影響しているんでしょうね。
実践、修行が進めば薄くなっていく、無くなっていくものだと思います。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/06/16/050000 慈悲は自力という認識が普通なのではと思ってるんだけど、もしかしたら本当は他力だったりするんだろうか >>361
テーラワーダの瞑想法は慈悲の瞑想に限らず、怒りや悲しみなどの感情を徹頭徹尾排除させる
方針だと思います。慈悲の瞑想でも慎重に自分に悲しみを引き起こす要因を排除しながらおこなう。
一方、大乗や金剛乗では、怒りや悲しみを拒否せず受け入れ、変容させることがテクニックに取り入れられていると思います。
たとえばチベット仏教では、慈悲の瞑想でもトンレンと言って、まず対象の苦しみをありありと感じ、
「心が張り裂けそうな」気持ちを呼び起こす。それを開かれた心としてとらえ、相手の苦しみを黒い煙と観想して
鼻から吸い込み、自分の持っている福徳や菩提心、平和を白い光として相手に吐く息とともに与える。
同じ慈悲の瞑想といっても、悲しみを変容させるテクニックなので、テーラワーダの悲しみを念頭から拒否する方法論とは
また違う方法論と思われます。否定的な感情を排除するテーラワーダの方針も重要ですが、
否定的な感情を瞑想の対象として利用する「孔雀は食べた毒を羽根に変える」というチベット仏教の考え方だと思います。
あくまで結果ですが、実践の結果難病が回復するケースも多いそうです。 また怒りについても、ベトナムのティクナットハン師は追い出すものではなく、泥がなければ蓮は咲かないとして、
「世話をするもの」と捉えているのが興味深いです
「How to let anger out?」
https://www.youtube.com/watch?v=WTF9xgqLIvI(日本語自動翻訳機能で観てください)
>>365
自我が薄くなる→万法に証せられるということじゃないでしょうか
上のトンレンは、弟子が「他者の苦しみを吸い込んで自分の体調が悪くなったらどうするのですか」と
問うと、師が「瞑想の効果が出たと喜びなさい」といったそうです。
実際は体調が悪くなるどころか難病が快方に向かったりするケースが上がっているそうで、それだけ
自我が薄くなり、他力(ダンマ)に任せられるということなんでしょうかね だから、「慈悲の瞑想」一つをみても、テーラワーダと大乗の方法論の違いがあわられていると思います。
テーラワーダのほうは怒り悲しみは排除の姿勢ですね。
だからこそ刺激を少なくするための出家が強調される
大乗のほうは怒りや悲しみを利用するので、煩悩多き一般衆生とのコミットメントが強く、衆生救済の色合いが濃いのだと思います 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘(びく))は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 >>366>>368
怒りや悲しみを余計に増やさないよう気をつけているとは思いますが
四念処だと、怒りや悲しみは、ただ、そこにあるのを見る
出現して維持されて消えていくのを観察する方向の気がします。
そうすると「感覚は感覚にすぎない、わたしのものでもなく、
わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない」という感じが
出てくるという感じに説明していたと思いました。
無理やり思い込むことで上記の感じを出していると排除する感じになりますが
四念処参考に感覚のサティパッターナしているときは、排除するような感覚でやると
違う方向に進んでしまう気がしたので。
慈悲を入れて怒りとかを消したりする指導もしていますし、また、最終的には阿羅漢の
肉体的な苦しみはあっても精神的な苦しみがないところを指したいのかなというのは
思いますが。 >>368=>>355
勉強になります
それでいくとわたしのは折衷形ということになるのかなw
それでも時々、慈悲の瞑想の時に大変気の毒な人などのことが浮き出てくることもあります
その悲しみは消えていくまで観察してそれから続きをやります
けど、排除した方がやりやすいのかなぁ でも思うのですが、サマタである程度安定した状態を作り出すことが出来ないと
あれやこれや悲しみを持ち込んできても消えていかないと思うんですよね
サマタ出来てないとなんだかわからない妄想状態になりません? テーラワーダ的には、「さっさと悟っちゃえよ。そしたら感情なんか出てこないから。」って話だと思います。 >>370
>>371
おっしゃるとおりテーラワーダも大乗も悲しみや怒りは観察の対象としているところは同じかと思います
今されているやり方が一番善い方法なのかなと思います
ただ清浄道論における慈悲の瞑想については事前に周到に悲しみ怒りを遠ざけるようとても細かい指示がある
「瞑想中に立ち現れる感覚に過ぎない」と観察で対処するのではなく、そもそも生起しないようにしている
自然に起こる感情との格闘になりそうな気がする
海外のマインドフルネスでは清浄道論が語るような瞑想対象の取捨選択はないようですが、
みなさんはどうされているのかと思い話題にさせてもらいました 言ってることは全部同じでどこに重きをおいて説明してるかの違いに見えるけどな
言葉は事実、現象、そのものではないから 怒り悲しみとか排除する流派なんかあるのか…
プラユキ師が指摘しているように、特定の感情の回避は抑圧やらシャドウの問題を抱えるだけになるような気がするが… <西郷どん>天璋院・北川景子の“美”に視聴者うっとり 山岡鉄舟の迫力、幾島の再登場も話題
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180923-00000029-mantan-ent
この大河に出てきた山岡鉄舟って人は使者とか交渉人として弁が立つだてじゃなくて禅の方でもなかなかの大家なんだよ
肝が座ってるから勢いに乗っている西郷隆盛とも互角に対談交渉できたのかもしれん >>377
清浄道論にもとづくテーラワーダの慈悲の瞑想の場合はそうですね
ちなみにプラユキさんは慈悲の瞑想はやっておらず、観察によって怒りや悲しみの受容をする一般的な
観瞑想で対処していると思います。その際も、「怒り」「悲しみ」とラベリングするマハーシ式にはかえって心のバランスをくずす人が
多く相談に来ると批判的なようです
「絶対に慈しみを念じてはいけない2種類は異性と死者です。男性が女性を念じる、もしくは女性が男性を念じると、慈しみの変わりに愛欲が生じることがある。
愛欲は慈しみ最も近い敵なのです。」サヤドー・ヤウェイヌエ
http://www.j-theravada.net/qa/gimon28.html
「死別の人には慈悲の瞑想はいたしません。してはならないと、仏典に明確に指導してあります。
死は悲しみを作る対象です。悲しみは暗いこころです。暗い心は怒りの感情です。
慈悲の瞑想という建て前で怒りを実践しています。決して良い結果にはなりません。」 慈悲の捉え方の問題も大きいだろうな
目覚めた立場からすれば色んなことが一大事に感じるかもしれないけど そんなもの取り敢えず横に置いておいて実践に励んで早くこっちに来て欲しい
修行なんて短期集中でやればすぐ終わるんだから そうすれば思い悩むことはないのだから と考えるのも自然なこと
また一方 取り敢えず横に置いておけない人をどう導けば良いのであろうかと考えると できる限り心 感情が浮き沈みしない 安定した落ち着きのある状態に留まって 少しずつでも進んで欲しいと願うと思う
喜んだり悲しんだりに夢中になっている人には 難しいね 夢中でも良いから自分を観なさい 飽きるまでとことんやってみなさいと言うだろうか 喜びや楽しさがどれぐらい続くか観察しなさいとでも説くだろうか ただ願うだろうか テーラワーダ仏教 (3)すべては自ら確かめよ
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi12.html
人々の耳に伝えられるもの、例えば秘伝や呪文じゅもん、神の啓示などに頼ってはいけない、
世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない、
古くからの言い伝え、伝説、風説などに頼ってはいけない、
自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない、
経験によらず頭のなかの理性(思弁)だけで考えることに頼ってはいけない、
理屈や理論に合っているからといってそれに頼ってはいけない、
人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼ってはいけない、
自分の見方に(見けん)に合っているからというようなことだけで納得してはいけない、
説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない、
説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない、 >>380
慈悲の瞑想は生きとし生ける者が対象で
死者への供養はまた別 清浄道論自体ブッダの説じゃないし、スマさんのやってるところだって歴史は大乗より浅い
そこのやり方ばかりきにするのもどうかと 慈悲の瞑想と慈悲の実践のボランティア
どちらが実際に人を救うのか? 慈悲の瞑想をやりながら、ボランティア活動をすることは可能だから
二者択一ではないね
両方やればいいし、直接的な目的が違うね あたかも慈悲の瞑想は他人を救わないような言い方は、それを意図してなくても
我欲のために瞑想しているような罪悪感を抱かせようと悪意を投げているのと全く同じだ
君に悪意がないなら、実践しない怠慢な質問だろう
それが他人に迷惑をかける事を理解してくれないか
ここは聖職者に質問する場ではないのだから、お互いの実践ありきでなければ
有意義な話は成り立たない
悪意の釣りか本気の愚者なのかわからない愚問を我々凡夫に投げることは控えて欲しい
本当に知りたかったらやってみるなり、テーラワーダでもどこでも説明しているところをまず探してほしい
その上で答えるが
慈悲の瞑想は直接的には自分自身の心の浄化だと言っていいだろう
間接的には自覚せずに誰かを救う可能性は多々ある
そういう性質のものだ なんでそんなに怒っているのか理解できないが
慈悲の瞑想は自分のためにやるものなの?
それが「慈悲」なの? 慈悲の瞑想は自分のためにやるものなの?
それが「慈悲」なの? 慈悲の発するところが他力にあるとするなら
自分も他者も生きとし生けるものも
ひとしく慈悲の念が向けられるのは当然かなと思う 慈悲を発するのは自分でしょ
他力とか言い出したら全部他力
この書き込みも他力
全部他力 >>393
その自分というのは自我からということ? 慈悲が向けられるのは道元いうところの おんいのち なのではと 自我が抜けきれたらそうなるのかな
そこまでの実感はまだありませんが
自分の心の鏡みたいなものとしてやってますよ
嫌いな人間とかが浮き出てきますからね 俺もそんな実感はないけど、山下良道が慈悲はエゴの下に隠れていて、ピッチャー交代しないと本当の慈悲ではないと言っていた 熊が幸せでありますようにと思えば、食べられる鮭は可哀想になるし、
マタギが幸せでありますようにと思えば、撃たれる熊が可哀想になる。
なにか達観した境地に行かなければ、慈悲には矛盾が生じる。 >>388
なにこの人ヤな感じ すごく傷ついた
慈悲慈悲っていばっちゃって 優しくない
「そういう性質のものだ」だってさ 何様なの 慈悲は感情的な問題とは別なんだろうな
感情は仏教では浮かんでは消える無常なものでしかないわけだし 花は無心に蝶を招き
蝶は無心に花を尋ね
花は蝶を招くに心なし
蝶は花を尋ねるに心なし
花開く時蝶来たり
蝶来たる時花開く
吾もまた人を知らず
人もまた吾を知らず
知らずとも帝則に従う
by良寛 誰でも自分自身に対してよりよくなっていって欲しいと思ってるしやさしく接したいと思ってる
自他を区別しなくなっていけば他人に対してもそのように思えてくる
慈悲とはそういうもの
だから悟れば(自他がなくなれば)慈悲は現われているし、
慈悲の瞑想していけば自分という我見とか他人が善いとか悪いとかいう分別などはなくなっていき、誰にも元々備わっている慈悲が自然と顕わになってくる 愚人おもはくは、「利他をさきとせば、自(ミズカラ)が利はぶかれぬべし。」と。しかにはあらざるなり。利行は一法なり、あまねく自他を利するなり。
http://www.dogen-shobogenzo.com/sisyobo5.html >>388
言い切るのはおかしいですよね、自分も気持ち悪く思うので訂正します
「そういう性質のものだろう」 慈悲の瞑想は直接的には自分自身のため
というのは訂正しないんだ 自分はそう思ってるよ
俺は瞑想が直接的に他人様のためになるような神通力は持ってないと思うし 大ラーフラ教誡経(Mah?r?-hu-lov?da-sutta)
ラーフラ、慈の瞑想を深めなさい。というのも、慈の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな瞋恚も消えてしまうからです。
ラーフラ、悲の瞑想を深めなさい。というのも、悲の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな残虐性も消えてしまうからです。
ラーフラ、喜の瞑想を深めなさい。というのも、喜の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな不満も消えてしまうからです。
ラーフラ、捨の瞑想を深めなさい。というのも、捨の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな怒りも消えてしまうからです。 修行者ってエゴの塊だと思うけどな
お釈迦さんだって元から世のため人のため
なんて思っていたら王子やめる意味ないし
家業をついで家族のためにも民のためにも尽くせばいいだけじゃん >>400
あまりにも儚く虚しく侘しいのでおっちゃんちょっと涅槃に入りたくなったお >>412
そうですよね 他人のことなど爪の先ほども考えていなかったと思います 自分の抱えている問題以外は全く興味は無かったでしょうね そもそも人間というひとつの動物に過ぎない存在が本当の意味で他人の為だけにしかならない行動ができるものか。
それ考えたら自他がどうの修行者がどうのどうでも良くね? 慈悲の瞑想は修行の上で土台となる態度を作る瞑想であって
言葉通り何もかも実行せよという事ではないでしょ
そもそもここは仏道を極めるスレではなく、マインドフルネスのスレだからね
自分の心理的な問題の解決のために>>411の釈迦の言葉に従ってやってみる
というだけのことで、それ以上は割とどうでも良いよ >>341
県内最大級の本屋さんにもどっちも無かったです。けどネット通販って苦手なんですよね。
とりあえず先週は気になる自己啓発本があったのでそれを買いました。まあ、今週読み終わるけど……そしたら行きつけの本屋さんで『今、ここを生きる』を注文して取り寄せて貰おうと思います。
>>349
別に5chをやめる必要は無いんじゃないですかね?と言うか、5ch自体を止めても別のコミュニティで同じようにならないとも限らないし……5chをやってる人でもそんなにカッとならない人も居るし。
とんぢんちって分かりますよね?恥ずかしながら私はYouTubeで、幸福の科学の人が作った歌でその存在を知りました。情報を得られる(タダで)って意味ではインターネットって凄い便利ですよね。
まあ、何かの本でもインターネットは心が疲れる的な事を書いてましたしあんまり触れないようにするのも良いかも……デジタルデトックスする日を作るとか?
>>366
それが本当ならまずはそれを試してみたいですけどね……詳しく書いてある本でおすすめとかあります?
>>385
>>386の通りだと思いますけどね……心の底まで慈悲の念が染み渡ったら自然と行動してるんでしょうね。
>>391
慈悲の瞑想と慈愛の瞑想は別物?よくわかんないですけど 少なくとも慈悲の瞑想が進めば人に優しく接せれる訳で……。まあ、瞑想全般的にそうかな?
>>400
家有猫与鼠 家に猫と鼠あり
総是一蒙皮 総て是れ一に皮をまとう
猫飽白昼眠 猫は飽きて白昼眠り
鼠飢玄夜啼 鼠は飢えて夜になく
猫児有何能 猫児は何のあたうるか
覘生ロウ中機 生をうかがいしばし機に中る
鼠子有何失 鼠子に何の失あるか
穿器也太非 器を穿つことまた非太し
器穿而可補 器穿つも補うこと可なり
逝者不復帰 逝きした者は復し帰らず
若問罪軽重 若し罪の軽重を問うなら
秤可傾猫児 秤は猫児に傾くべし
悪いのは鼠だ!何故なら私は猫好きだから!
>>402
そうさ 悲しみをやさしさに自分らしさを力に迷いながらでもいい 歩き出してもう一回
>>410
シャクティパッド >>400
そこでおっちゃんは一つの結論に達したんだ
食べる物はそら豆オンリーとね 四諦・八正道(戒定慧)も無常・苦・無我も全部
縁起の法から導いて説かれたものです
「これ有るに縁りてかれ有り、これ生ずるに縁りてかれ生ず
これ無きに縁りてかれ無く、これ滅するに縁りてかれ滅す」
これを時間的に表現すれば無常になり
空間的に表現すれば無我になります
自分の存在は他に影響を与え
自分も他の影響を受けています
自分は他のお陰で存在できています
自分独りで存在できる物は何もないのです
仏陀は四念処の心構えについて
師匠と弟子二人組の曲芸師の譬えを用いて
「自分を気遣うことは、他を気遣うことであり
他を気遣うことは、自分を気遣うことである
四念処はそのように行うべきである」と説いてます
(念処相応 SN 47.19 Sedaka Sutta)
SN 47.19 Sedaka Sutta: The Bamboo Acrobat
https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn47/sn47.019.olen.html
"Protection Through Satipatthana" by Nyanaponika Thera
https://www.accesstoinsight.org/lib/authors/nyanaponika/bl034.html
自分を気遣うこと(自制)は、他を害さないことになり
結果的に他を守ることになります
また他を気遣うこと(慈悲)は、他から害されないことになり
結果的に自分を守ることになるのです
いくら瞑想を続けていても
他を蔑み高慢で独善的になっては意味が無いのです
そもそも縁起の法を理解していれば当然のことなのですが
瞑想するうちに勘違いしていく危険性があるのでしょう
だから仏陀はわざわざ諭したのです
すべては縁起の法なのです
四諦・八正道(戒定慧)も無常・苦・無我も
その中に全部含まれているのです 煩悩即菩提だから、高慢をやらかすことによって、自我の恐ろしさに気づき、無我の方に気持ちが向くって事も、あるかも知れないけどね。 慈悲の瞑想については目標設定なんだから
実行度なんて問題にしなくていいでしょうって、どしてわかんないのかな
現実に完全に実践するってことはですよ
全ての衆生を救わなければ実践したことにはならない!
とかいうことになりますよね?
ありえないでしょうそれは
お釈迦様だって全ての衆生を救ったわけではないのだから
そんなことを議論する意味はないんですよ、全く
いや、実際に生きとし生けるもの全てを救ってみせたならそりゃあ大変なことだけど
前人未到でしょう?
弥勒菩薩認定されますよねwそんな人は
それは読んでいるあなたかもしれないわけだけど
強制されるものではない みんなが極端な話をしているよ、と指摘してるんだけど? そもそも誰も強制してないような…
目標設定だから実行度なんて云々〜がどっから出て来たのかよくわからんが取り敢えず…
> 現実に完全に(慈悲の瞑想を?)実践するってことはですよ
> 全ての衆生を救わなければ実践したことにはならない!
> とかいうことになりますよね?
とかいうことになりますよね?というけれど、
「全ての衆生を救わなければ実践したことにはならない!」
って>>423が決めた事でしょ??
だからそんなことを前提とした議論にそもそも意味はないんですよ、全く。
…てな返しでいいのだろうか??そもそも 慈悲の実践はある程度出来てる、と言った途端に、それじゃあ出来てないと
理屈の上では幾らでも言える
結局、実践できてるかどうかは極論にならざるを得ないわけで
本当に慈悲の瞑想は人を救うのか?
と問うのはそういう意味になるでしょう 逆の言い方すれば、呪いで人は殺せるか?みたいな話? 慈悲の瞑想は自分の修行。心を浄化する修行。直接他人をどうこうするものじゃない。
心が浄化されれば、他人に対して良い影響を与えるということはありえる。 >>427>>429
ちがいます
>>428>>430
そういう事ですね
だから、「慈悲の瞑想をすることの意義」と
「どれだけ慈悲の実践ができているのか」ということとをゴッチャにしてしまうのはナンセンスだと思う
という結論を最初に書いてるわけですが
そこをゴッチャにしてる人結構居ますよね?
みんなではないけど、その人たちに
そんな心配しなくていいと思いますよ、と言いたいわけです まあ実践して俺は 私はこんな感じに変化したよ 指導している生徒はこんな感じに変わっていくことが多いよ って話以外は無意味 無価
また落とし穴 盲点など気を付けないといけないような点に関しても大いに価値を感じる
それ以外は.... 目覚めた者同士が行法 メソッドを作り上げる段階で議論するのは価値があるとは思うけど
仏教系はこれだから.... 宗派が果てし無く分派していくのも納得だわ どんな感じに変化したかということなら
当然だけど、慈悲の心で人に接するようになったのはもちろん感じるけれど
それ以上に人が優しく感じられてくるよね
大げさに表現するならば自分が慈悲の世界に住まわせてもらってるような
それ以前の自分の心が酷かっただけかもしれないけれどね
ほんと、サマタ、ヴィパッサナーとは別立てで続ける価値はあると思う >>431
> だから、「慈悲の瞑想をすることの意義」と
> 「どれだけ慈悲の実践ができているのか」ということとをゴッチャにしてしまうのはナンセンスだと思う
> という結論を最初に書いてるわけですが
> そこをゴッチャにしてる人結構居ますよね?
遡ってみたけどどのレスかよくわからんかったw
> そんな心配しなくていいと思いますよ、と言いたいわけです
それをはじめに言えよw >>433
そうですか 相手の優しさも感じ取れるようになるんですね 全く環境 外形的なものは変わっていないのに自身の内面の変化がそうさせるって感じなんですね
一方 相手の悲しみ 苦しさ彷徨っている状態をなんとかしてあげたい 楽にしてあげたいという感覚は湧き起こってきませんか?
自分のことを全部片付けた後 残るのはそれだけのような気がします まあボタンをかけ間違えると某仏教系新興宗教になっちゃうので気を付けないといけないですけどねw なるよ
他人の苦しみを解くのは時には大変なことだよ
けど、俺はそんな話をしてるわけじゃないんだ
むしろ、そんな話より自分一人何とかできるようにするには
という話をしてる
慈悲の瞑想やったら人助けしなきゃならないのか、、、
とか、そんな重荷になる話はしたくない 地でも水でもなく 火でも空気でも虚空でもない
感覚器官でもなければ これらすべての集合体でもない
これらは移ろいやすく はかないものだが
自己は 熟睡状態によって証明されるように不変である
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する
階級制度でも人生規範でもなく 慣習でも法でもない
集中 瞑想 ヨーガ その他の修行のどれも必要ない
「私が」「私の」という観念は自己でないものから生じる
その誤りは捨て去るべきである
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する
教師も聖典も存在しない 生徒も教えも存在しない
あなたも私も存在しない この経験世界は存在しない
真の自己の悟りに差別性はない
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する
自己は遍在し 真理と一体であり 他に依らない
実体のない現象界はすべて自己ではない
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する
「唯一」という観念さえ生じない
それ以外の「2つ目」が考えられようか
絶対でも相対でもなく 無も有もない
絶対不二一元を本質とする
ならば すべてのウパニシャッドによって確立された「それ」を
どうやって言い表すことができようか >>436
いいんです いいんです 気にしないで下さいw
したい したくない するべきって話ではなく勝手にそうなる それしか残らないって話なんで
お陰で色んな書き込みを分析すると 慈悲の瞑想は相性が合えばかなりのパワーがあることがわかりました
特にヘビーなある種の症状にも劇的に効く場合がある 観察の補助瞑想として有用ですね
本当に良い話聞きました やっぱり1人の道では体験にも限界がある そういう意味では集団でメソッドを共有しているってのは偉大だ 柿食えど 寺の鐘 鳴らず
近所の禅寺の鐘が鳴らなくなったのはいつ頃からだろう
昔は朝六時に鳴ってたと思うのだけど
越してきた人からクレームが付いたのかなぁ 朝っぱらからでかい太鼓
思いっきり叩けて楽しかったなあ
地域住民が文句言い出したらやめるしかないだろうねえ・・・ 慈悲の瞑想の利益について
「一人は朝昼晩、釜百個に入れてあるご飯を炊いて布施をする。
一人は朝昼晩、牛の乳を搾る間に慈しみを念じる。」
で、「より大きな利益を生む」のは後者だとか。
あと、仕事でどこかに行く前には、一週間くらい前から目的地の守り神や仕事相手に慈悲を送ると
仕事がうまく運ぶとか、仏陀が荒れてる人に慈悲を送ったらあってもないのに心が落ち着いたとか、
的国王に慈悲のエネルギーを送ったらとたんに反省したとか、採用担当者に慈しみを送ったら採用されたとか
不思議な話がたくさんあるようだ ただこの「利益」というのが何のことか良くわからないんだけど
功徳のようなものかね
自他の区別のない世界にうまれた「利益」はきっと自他共に良いものなんだろう 前スレで「悟らなきゃ人は救えない」という人がいたけど
頭でっかちにならずに人助けに動くことは単純に布施行だよな
救うことは出来なくても苦痛を軽減させることはできる
一方で行動なき慈悲の瞑想に意義がないとはいえない 結局のところ 実際の行動 実践しか意味を成さないんですよ きっと
目覚めた人達が長年かけて作り上げた方法 色々な失敗や工夫を積み重ねて今の形になっていると思う
方法や体験の差異はあっても大筋で同じ境地に落ち着くと思います 私は宗教を持たないけれど 方法も仏教系とは見かけの違いが結構あったけれど ウ ジョーティカさんのPDFを後から読んで体験 段階が本当に似通っていて笑ってしまうほどでしたから
だから仏教系の指導者は本当に「人助けのプロ」だと確信しています 現代は本当に恵まれた時代です 昔は命をかけて教えを求めてもたどり着く前に死んでしまうこともあったでしょうから インターネット すげぇ です ・心を千々に乱れさせて長時間瞑想するより、短時間の深い瞑想をするほうがよろしい。
・瞑想でめざすものは、考えるという行為を超越することです。何かを考えているかぎり、普通の意識レベルに留まります。
・心があまりにも落ち着かなくて深く瞑想できなくても、それを悪いことだとは思わないで下さい。
・瞑想をするのに、瞑想の成果にこだわってはなりません。
・リラックスして自然に瞑想しなさい。瞑想しようと努力している限り、瞑想のしようがありません。ちょうど眠ろうとすればするほど眠れないのと同じです。
・至福に浸ることは難しいことではありません。それを難しいことだと思うことが、あなたをそこから引き離します。
https://gamp.ameblo.jp/zen-is-right-here/entry-12224089778.html 仏教の瞑想ではリラックス禁止だけどね。
至福に浸ることも禁止。
心が乱れていても、一日中気づきを保つべき。 >>451
只管打坐はリラックスokですよ
至福があってもなくても良し
心が乱れてたら乱れてたで良し
その様な意識の移り変わりそのものが整った様子の連続です
坐禅中は何がどうあっても素直に頷けるようになれば良いのです 確か沢木興道老師が、
「敵中に一人で乗り込んで、大立ち回りするような坐禅をせないかん。」
とおっしゃってたと思います。
「侍が、真剣を持って構えるように坐禅をする」とも。 意図的に戦ったり緊張を強いたりでは坐禅になってません
沢木老師のは間違った坐禅の代表ですね いや、しっかり目覚めていて、最大限に気づきを保つという意味でおっしゃたと思いますが。
戦う、緊張とは違うと思います。
ヴィパッサナーと同じだと思います。 緊張していたらリラックス、散漫になっていたら気を取り直す
中道に
「リラックス禁止」はないだろ〜 人によってリラックスの定義が違う
明晰な気づきがただ常にあるならそれでいい
ぼんやりしてるならそういう心身に同化して気づきを見失っている そう
気づきがあればいい
肩の力を抜いて腰骨を立てて頭を背骨に乗せればちょうどよいリラックスと緊張が保てる
>>450
ヨガナンダ師の瞑想も同じ
でも、申し訳ないがヨガナンダ師の言葉は貼らないでほしいな
あなたは知らないかもしれないが前にあれまくって禁止になった
今スレのテンプレから外れてるけど
好きだし尊敬もしてるけど、あなたもヨガナンダ師の話題で荒れるのは本意ではないでしょう
クリヤヨーガやバクティ、善いものだとしてもマインドフルネスのスレ趣向とはちょっと外れてる 禅の方で好きなのは板橋興宗師や松原泰道師だな
本読むだけで癒されるわ 短時間で深い瞑想できるのは相当な熟練者だけだね
自分はまだ、座ってもヴィパッサナーできる意識状態(定)になるのに1時間以上かかるよ ブッダも魔、煩悩との戦いに決っして降伏しない覚悟で瞑想したでしょう。
鈴木正三の仁王禅もあるし、臨済は殺仏殺祖と言った。
白隠は、眠くなると太股に針を刺した禅師の話を聞いて、心を奮い立たせた。
道元もかなりハードコアだし。
仏教の瞑想は自分との戦い、煩悩との戦いでもある。
マインドフルネスは知らないけど。
リラックスしていいのは修行を完成した人だけ。
ダンマパダ
「わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。
それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、
またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。」
「たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、
妄執(渇愛)の根源となる潜勢力をほろぼさないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。」 そこまでの覚悟を持てとか
誰彼かまわず話すとは思わないけどな
出家して人間社会での生活をやめたことを前提として
出家した弟子に対して言ってることだと思うけどな
その時代ならお釈迦さん本人と親しくならないと
その教えに触れることは出来ないけど
今は誰でもクリックで読めるからね 最初はサマタはダラダラやるほうが定に入りにくいんだよね
頭が働いてしまうからね
サマタは短い時間で繰り返し繰り返しやったほうがいい
10回もやらないで定に入る瞬間がわかるから
それがわかってくると何時でも1回ですぐに入れるようになってくる
ここが出来てないと、マインドフルネス、最大限の気づき、ヴィパッサナーを続けることが
なんか苦行みたいになってくる
本末転倒じゃないのかな
お釈迦様はじめ、ステージの高い悟りにいる人の瞑想については
自分は体験していない事だから、こうだ、ということは避けたい
しかし、俺程度のステージの低い人でもヴィパッサナーをしていくことは恐怖感に負けないことでもあるよ 誤解招くような表現だったと思うので補足
10回もやらないで、というのは初めてやって10回ではないよ >>465
素早く定に入るコツある?
自分は思考にサティを入れ続けて自然に治まるのを待ってる感じで、1時間くらいでようやく入るんだが >>467
呼吸法を使う
慣れれば一息でセルフモニタリングモードに入れる >>467
呼吸法でもいい
自分はまず一点集中のサマタ(より具体的方法は何でも良い)を毎日何回かやった
ヴィパッサナー出来てるなら、何度もやってれば1分かからずにふっと入る瞬間わかるはず >>469
>10回もやらないで定に入る瞬間がわかるから
それがわかってくると何時でも1回ですぐに入れるようになってくる
>1分かからずにふっと入る瞬間わかる
本当にそうでしょうか?
人の心身は複合的有機的なもので、いきなりの
呼吸限定一点集中で1分定は相当高度だと思います。(他に合わせて何かやってませんか?)
ヨーガでもアーサナ、プラーナヤーマ、続いてプラチャーハラ(制感)を十分やってようやくダーラナです。
禅でも調身・調息・調心の相乗効果で総動員してやっとです(集中を狙ってませんが)
あくまでも私見です。 心身が自分でないことを体験として一度でも本当に理解したらよほど感情が働いてるとき以外はすぐに定に入れる
心身とその活動がどうであろうと、それは自分ではないと自分から離せばいいだけだから
でも心身が自分だと無意識に思ってしまっている内はそれができない
そもそも定は努力で入るものじゃない、心身は自分でないという智慧で入るもの
その智慧が生じてないうちは努力と時間でそれに似た状態に持って行くしかない
何度も繰り返してるうちに心身は自分ではなかったという理解が起こってくる >>470
横からなんですがヨガのプラティヤハーラ(制感)って具体的にどんなやりかたをするんでしょうか?
スートラ読んだりネットで調べてもいまいち分かりにくいんですよね >>472
内観を充実させた後、五感が外に向かうのを止めます。境をなくし従順します。 諸感官が、それぞれの対象と結びつかない結果、まるで心自体の模造品になった状態
(ヨーガスートラ) >>471
結構大変ではありませんでしたか? 曲がりなりにも心と体を否定的というか これまでの実感を覆すので相当副反応といいますか拒否反応のようなものが出て 色々と心身がジタバタしませんでしたか? >>471
離人症、もしくは離人体験が頻度に起こるというか
定の状態にスイッチが入るような何か条件付けられているのでしょうか?
それはコントロールされているのでしょうか? >>472
いいのですかね?
どこまで伝えられるかわからないですけど 観察してる自分とは別に身体が呼吸してるという体験を瞑想中に一度だけしたけどそれっきりだなあ 呼吸瞑想にはストレス軽減や集中力増加などの効果がないことが証明されたみたいですね、
やはり、マインドフルネス、常に体や心の状態を認識するような瞑想がいいみたいです。 >>484
検索すれば分かるよ。
呼吸瞑想 意味なし で。 >>484
バカには気をつけてね
検索で出てきた情報は全て正しいわけではないよ 何よりも最初に気づかなければいけないのは、この世界はすべてマーヤ(幻想)であるという気づきです。
マーヤとは幻想であり、そして、存在しないものの事を言います。それは幻の様に実体のない存在です。
実は私達が生きていると思っている、名称と形態で表されるこの現象世界そのものがマーヤです。
ですから本当はこの世界のどこにも実体はありません。
そして、同時にそれは私達自身にも言えます。
私達は本当の意味では生きてもいなければ、死んでもいません。そもそも存在しないんです。
普段、思い、考え、泣き、怒り、喜んでいる・・・・この私という存在自体が実はマーヤであり、ほんとうはまったくの偽りの存在だとしたら・・・ 教師も聖典も存在しない 生徒も教えも存在しない
あなたも私も存在しない この経験世界は存在しない
真の自己の悟りに差別性はない
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する
覚醒状態も夢眠状態も熟睡状態もなく
これらに支配されることもない
これらは無明であり 無明を超えた第4の境地が真の自己である
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する
自己は遍在し 真理と一体であり 他に依らない
実体のない現象界はすべて自己ではない
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する なんか大げさな話になってて冷や汗なんだが^^;
高度そうに思うかもしれないけど、そんなことないですよ
そもそも人間普通に生きてても結構頻繁に瞬間だけプチ定に入ってるのではないでしょうか
すぐに紛れて感情や思考に支配されたような感じになってしまうだけで
逆に自分からしたら、入門から思考に「サティを入れ」続けて1時間かけてヴィパッサナーになるとか
何それハードル高くね?って思うんですけどね >>477
そうですね それがわかるまでは様々な拒否反応はありました
心身が自分だと思ってる人間にとって、心身が自分でないと理解することは自分が死ぬことと同じですから
しかし少しずつでも心身への執着をなくしていけば誰でもそうなれると思います
>>478
むしろ心身が自分であるという条件を外すという理屈です
生まれてきたときから作り上げてきた心身が自分であるという条件に気づけるとそれが一瞬で崩れます
むしろ心身が自分だと無意識にコントロールしてるのが人間なのでコントロールを離れて本来の自然な状態、心身でもなんでもない自分に戻るだけです
心身は常に変化する実体ないもので、自分の付属物であっても自分ではないというだけです 瞑想15分くらいで飽きてしまうんだけど、毎日やってると集中力ついてくる? >>491
やっぱりありますよね 私も結構というか かなりありました 私の場合は崖から自分で飛び降りて下はマグマで死体さえ残らないようなイメージのサマタだったんで明らかな拒否反応がたくさんありました
サマタは観察系の瞑想の下準備としては凄く有効だと後から知ったんですけど 今から思えばもっと緩やかというか安全な方法は無かったのかなと思います
きっと純粋な停止(意識さえも)よりもアナパナのような停止と観察が混じった方法の方が一般的には良いのだろうと想像します >>480
それはないだろ
もう少し、聞きたかったのに。 >>492
それは難しい問題ですね 瞑想の動機は強いものですか? やり続ける人にはそれなりの執念執着がある場合が殆どだと思います まずそれが一つ
もう一つは方法とタイミングが合っていないというのもあり得ます 夏休みの宿題でも最初に全部やってしまう人 毎日少しづつやる人 最後にまとめてやる人 色々あるように集中できるタイミングは違います
方法も形式が整った方法を好む人もいれば 起きている間ずっと動作 思考 感情 意識の向う方向を出来るだけ観察して形式的な方法を取らない人もいます
動機 方法 タイミングを色々とご自身で考えたり調べたりして工夫してみては如何でしょうか?また短時間でも続けていればいずれ集中力 興味が加速する瞬間がきっと訪れます
進めば進むほど余計なものが削ぎ落とされて集中力が増していくイメージで良いと思います >>495
ありがとうございます。
いまちょうど無職期間なので、こまめにやってみます。 みんな適当な事言ってるね。
サマタ、禅定は一つの対象に意識を縛りつけることによって、俗世間では得られない強烈な喜び、幸福感に包まれ、
普通はニミッタと呼ばれる光が見えて、その光と一体になる状態だよ。
五蓋を取り除いて初めて入れる。
http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta3.html 禅定も色界、無色界があるしそこまでニミッタを重視するのはパオ派くらいでしょ >>492
数息観やんなよ15分も必要ないよ
そのかわり続けなきゃだめだよ パオ派じゃなくてもニミッタ、光は見えるのが普通。
禅宗でも光が見えるが、誰も言わない。魔境だと思われてるから。
山下良道の「光の中のマインドフルネス」に書いてある。
色界禅定もけっこう大変だが、無色界禅定はもっと難しい。
心が物質を超越して、無限の空間に行っちゃうらしいから。
身体も感覚も認識できない、ヴィパッサナーもできない。 山下さんはパオ修行した人でしょ
本当に星の光みたいなニミッタなんてそうそう見えない
そうならないとニミッタではないということが多いけど本家パオセヤドーの話でもそうなる以前の煙のようなものでもニミッタと言ってたりするし実際は色々なんだよ
パオ以外でもニミッタの話はするけどパオみたいに重視はしてない
そもそもニミッタは心の状態の現れでしかないからね 知識ばっかりの人より体験で語ってくれる人の方が参考になる なんか言っても自分の知識に沿わなかったら適当とか抜かしやがるし、慢が丸出しなんだよ そもそもニミッタは頭の中で作り上げた映像で観念に過ぎない
ニミッタは目を開けた瞑想でも見える人がいるがこれは実際に目に映っている目の前の映像を妄想が上回っちゃってるんだね お釈迦様はニミッタなんて一言も言ってない
お釈迦様が亡くなられてから千年たった5世紀頃に上座部の一部の妄想が見えた人が作りあげたんじゃなかったかな 定と言ったら一般に禅定のことを言うんですね
なるほど、それなら「定」という言葉を使ったのは誤りでした
どうもすみません
俺が言ってるのは、ぴたっと止まったみたいな状態のことです
表現難しいけど
普段起きてるようなブチ定に気づいてそこに留まる、みたいな感じ
それが出来てれば、観察は捗るよという話でしかありません
高級な話じゃなくて、初級編の話のつもりでした ぼやっとした白い光なら何度か見てるけど星は見ないなー
ある時、それと同じくらいの黒いのが見えた、はっきり真っ黒で楕円形
真っ黒の中になんか白いのがあって、背景は真っ白
あれなんだコレ?変なの見えてるぞ?
と思ってそのままじっとしていたら
黒が段々スライドして無くなった
真ん中の白いのはそのままぴたっと動かず、背景の白の中に消えた
あれは何だったんでしょう?
まあ、幻覚には違いないんだけど 定といっても禅定とは限らないですよ
その手前の近行定という言い方もあるし、集中状態、安定した状態に入ることを定というのは別におかしくないです
マインドフルネスするには近行定で十分という説もありますし、観察するのにまずそういう状態になるのを定に入るというのはおかしな表現ではないと思います ニミッタは心が作った幻覚じゃない。
静かな場所で耳に集中すると、ノイズみたいな音が聞こえるでしょ?
あれと同じで、目も微弱な光を常に感じてる。
集中状態になるとそれが倍増されて見えるわけ。
だから禅定に入ると光が見えるのが普通。極度に集中してるわけだから。
普通は白い光。色んな色の細かいツブが見えたりもする。自分の場合。
禅定が深くなってくると、呼吸が止まってくるから、集中の対象を視覚、光に移行しなきゃいけなくなる。
だからむしろ光は禅定にとって必要不可欠。 ニミッタは外部の光とは関係ないと思うけど
外部と関係ない似相かなんかじゃなかったっけ
まあニミッタかどうかは別にして真っ暗な中目隠しして瞑想してても集中してくると明るくなってくるし光くらいは出てくるよねいくらでも
それでも目はごく微量な光を感じてると言われればそうかもしれないけど、外部の光と関係してると思ったことはないなあ >>496
あくまでも私が実感したコツですが 良かったら常に体にエネルギーが充満したような感覚でやってみて下さい
漫画のドラゴンボールの気のように なおかつ漫画のようには体の外に気が漏れ出ないように
実際に気があるとかないとかいう話ではなくて注意 集中ためのイメージです >>500
君は毎日来ちゃ叩かれている
考えたことあるかなそのへん
原因は仏教を純粋に修行のためではなく、自分の不安をカバーする拠り所としているから
不安を紛らわせるために自己防御や意見非難に使っている
だから八正道を強調しても八正道からはずれている
そこらへんを観察しないと サマタも色々あるんですね.... 私も一度だけバチッと青い線ののようなスパークが現れてビックリして仰け反ったことがあったけど あれもニミッタだったのか?
>>512
凄く興味があります 呼吸が止まる段階で止まるのを抑止するのは何故ですか? サマタのイメージは心身の完全停止 意識もなく呼吸もない仮の死亡だと思っていたんですが 仏教では違うんでしょうか? それはサマタではなくサマディでは
もしかして同じ言葉なの? >>511
> 定といっても禅定とは限らないですよ
そうですよね、どこかで読んだことあるんですよ
けど、禅定と読む人も居るだろうと気付かないといけませんでしたね私は >>517
サマタもいろいろ段階があって、あんまり深すぎるとヴィパッサナーできないから、
最高でも第四禅定で止める。第四禅定では呼吸はほぼ止まっているらしい。
自分はそこを今練習中。
完全停止だとやりすぎ。
>>516
やっぱり八正道を知り極めてる人は言うことが違うねぇ。 瞑想を力業(ちからわざ)みたいな言い方する人でしょ
練習という言い方もアレだし、瞑想してるつもりだけど実際にやっているのは
特定の状態をイメージした自己催眠なのでは 瞑想に必要なのは五力。
五力の中に精進がある。
精進を力業だと思う人もいるかも知れない。
自分の経験上、精進が強すぎた事はあまりない。足らなかった事は多すぎる。
これは仏教での話ね。マインドフルネスは知らない。 >>517
心身の完全停止は滅尽定
滅尽定の仮死状態が涅槃であるという説もある
仮死状態ではなく本当の死でかつ解脱した者の死を完全なる涅槃に入るともいう
完全なる涅槃に入ることをパーリ語でパリニッバーナという 滅尽定と想受滅定は同じという説もあるが
想受滅定では色(肉体)は活動しているが色の六根六入六識はあっても想や受が働かないので識別作用も働かないとされる
色が動いているかいないかで滅尽定と想受滅定は違うのかもしれない 526.525.それは仏教ではない。単なる科学である。心理学である。 >>520
なるほど ヴィパサナまでを一連の瞑想と考えているという意味なんですね そりゃそうですよね
>>525
>>526
私は何度も呼吸停止までやってしまいましたが本当に体がカチコチで想念や五感が表層上は全く働いていなくて次の日には呻いてしまうほどの痛みに襲われたりと散々でした
でも面白いことに次の日が仕事の場合はプラスマイナス3分程度の誤差で寝ないといけない時間には意識が戻るというw
おい 俺 しっかり仕事のこと気にしてるじゃねえか 体内時計どんだけ正確なんだよ と思ったものでした
成果といえば想念 頭の中のおしゃべりが全く年々もなくなる事ぐらいでしたけれど >>528
その呼吸停止というのはどのくらいの時間続くのですか?
呼吸が停止していると思ってるのではなく本当に物理的に呼吸してないのでしょうか?
その間どのような意識状態なのですか? 普段と同じように意識はあるのですか?
想念や五感が働いてないとして、自分がいまどのような状態になっているかなど、わかっているのですか? 確かにサマタだけひたすらやってると呼吸止まるけど
けど、それだけだとバネのように戻ってきちゃいませんか?
初禅まで達すると戻らないのかな 呼吸瞑想ってさ、結局何も考えずにボーッとしてるのと同じなんだよね。体の内部、意識、感覚に集中しないと瞑想効果は得られない。 数息観、随息観、アーナパーナサティ。
呼吸瞑想はサマタにもヴィパッサナーにも使える。
一番伝統的で王道。 >>479
レスありがとうございます、ちょっと抽象的といいますかこう
アーサナやプラーナヤーマは具体的にハウツーがあって理解して練習できるのですがプラティヤハーラはとりとめないというか、、、、
いまいちわからないんですよね 答えてもらえなかった(´・ω・`)
初禅通過したと公言してる人は一人しか居ないのに サマタで呼吸が止まるのは、まず身体を完全に止めるから身体はほとんど酸素を消費しなくなる。
次に喜と楽が無くなる四禅になると、心も安定して酸素を使わなくなる。 呼吸の完全停止は滅尽定で起きる。
滅尽定に入るためには、悟りを完成させて阿羅漢になり、九つの禅定を全て習得して、初めて入れる。
究極の中の究極の禅定。 子猫はみんな私の子。父性が炸裂、数十匹の子猫たちの親役をかって出たオスの元保護猫(アメリカ)
http://karapaia.com/archives/52265469.html >>529
あまり興味を持たれる必要はないとは思いますが話のネタ的に聞いて下さい 一度だけビデオカメラを借りて頭に黒い布を被って撮影しました
実際にお腹や胸が止まって見えるのは40分中15分前後だったと思います もう昔のことで記憶が曖昧ですけどね
夢を見ずに寝ているのと全く同じで何の感覚も意識もありません 睡眠と違うのは姿勢が固まったまま全く変化がなかったことと 翌日の朝に体が酷いことになってることが数度あったことです
それ以外は耳元で大きな声で呼ばれたり肩を叩かれたりしてもなかなか覚めません 公園で一度警官に救急車を呼ばれかけましたw ITやらガジェットやら芸能やら不動産やら都市情報の専門スレをウォッチしてるけど、瞑想スレのココが一番書き込みが多いのはどういうことなんだい?
みんな他所よりこだわりが強いじゃないか… >>544
ありがとうございます
それはマハーシ長老が書いている涅槃に到達したときの説明と同じですね
その状態に入る前に入っている時間を設定するとその時間通りに戻るのも説明と同じです
すごいですね
ただ次の日に痛くなるような説明はないですね
それから先はより早くより長く入れるように練習するらしいですよ
ヴィパッサナーの解説本として有名なミャンマーの瞑想という本に書いてあります
その状態を知って何か変わりましたか?
経験する前とした後で変わったことはありますか? >>547
へぇーそうなんですか? 私は仏教系ではないんですけどやっぱり結局同じような感じになるんですね 同じ人間だから当然なのかもしれないけれど だからこそ仏教があれだけ形式化できるんでしょうね
私は世界をかなり悲観的 否定的 虚無的に捉えていたんです ですが心の底では生きたいと当然思っていたので(たぶん)そのギャップが体に負担として現れたんだと思います
幻聴もよく聴こえて相当面白い体験もしました これが魔境か 凄い!って感じでした まあとにかく強引に無理をして無に逃げ込もうとしていたというのが本当のところだと思います
一番の変化は心の中の独り言が全く無くなったということでした それ以外は暗闇が怖くなくなったり 数度 短時間ですが花を見たら花だけなるような体験をしました ですが結論としてはあんまり大した経験ではないという感想です
観察系の瞑想で智慧の意味が初めてわかった時に サマタなんかせずに最初から観察瞑想すれば良かった...と思ったのが正直なところです >>548
> 一番の変化は心の中の独り言が全く無くなったということでした それ以外は暗闇が怖くなくなったり 数度 短時間ですが花を見たら花だけなるような体験をしました ですが結論としてはあんまり大した経験ではないという感想です
> 観察系の瞑想で智慧の意味が初めてわかった時に サマタなんかせずに最初から観察瞑想すれば良かった...と思ったのが正直なところです
わかります >>549
おお!同士ですか!
本当に観察系の瞑想は凄いですよね! 同士といいますか、そんなマグマに飛び込むほどの事はしてませんがw
わかりますよ
それはサマタしかしてなかった時期が長かったので観察瞑想をした時に
革命的というか、大変な驚きでしたねー >>548
詳しくありがとうございます
自由への旅を見返してましたが同じような涅槃の記述がありますね
ただ涅槃に似た状態もあるらしいので調べずに確信は持たないほうがいいのかもしれません
体の痛みについては自分も原因不明の筋肉痛が出たことはあります
自分は横になってる状態で涅槃に入れたかなと思えたことがありましたが、それで起きたときそうなったのでひょっとしたら姿勢の問題かもしれないなと思いました
ちゃんとした座った状態で入ったら平気なのかなあ、へんな姿勢で入るとカラダに負担が出るのかなあと
わかりませんが
ところで意識は熟睡と同じだという話ですが、死ぬことに関してはどういう考察ですか?
その状態は死んだあとと同じなのでしょうか? 死ぬことの恐怖、自分がなくなることの恐怖はありますか?
死後はどうなるとお考えですか? お腹の悪い菌叢が壊れるとダイオフといって溜め込んだ毒物や金属なんかが放出されて
体中が筋肉も節々も痛むことがあって、筋肉痛みたいでもありますよ
それとは違うのかな >>553
へえダイオフ検索しましたがそういうのがあるんですね
筋肉痛というかコリの酷いのというか上半身の左半分が初めての症状でした
そのときは関係あるのかないのか血便まで出たんですよね
ダイオフも様々な症状があるみたいなのでそうなのかもしれないなと思いました
カラダの再生でも起きたんですかね >>554
風邪で熱出た時にもなったりしますよね
温度でも、免疫反応でも、食べ物でも、運動でも、神経的な作用でも状態が変わるんだと思います
肺呼吸よりもより意識しづらいけれど、割と意識と結びついてそうでもあります
腸は体の免疫の半分以上を担う器官だし、瞑想で免疫が強くなるとも言われてます
腸が体の本体だという人も居るくらいですし、大量の菌を寄生させてる器官でもあります
便秘だったり、お腹下ってるとメンタル的にも悪かったりしますよね
第二の脳なんて言われ方もします
だから、ひょっとしたら瞑想って腸で考える、ってことなんじゃないか?なんてことも思い浮かびますね 菌も住みやすい温度があって、ちょっと上がると悪い菌死んだり
風呂の温度だと雑菌の大半は死ぬでしょう
また、虫垂は今まで無駄な器官と思われてて切り取られたりしてましたが
肉体のDNA的に有用な菌を選択的に貯蔵しておく器官だとも言われるようになってます
わからない部分も多く、ただの管なのに非常に複雑な器官なんですよね
ですから、何がどうなって血便が出たか、は私には説明できないです
説明になってない上に無駄に長くてすみません(汗)
そんな複雑なバランスが崩れると、色々起きてきます
現代病の殆どは小腸内にカンジダ菌が増えすぎることで起こるとも言われてますし
脳の物理的な先天性疾患がある場合以外、殆どの精神異常は腸由来のものではないでしょうか
個人的にはサマタだけの間は自分も躁鬱的な状態が長くありました
何か、ほんの少し違う、けど瞑想で手が届きそうな気がするので続けてました
しかし、観察系の瞑想を加えてからそれが激変して解消されてしまったんです
本当に驚きです
なので、瞑想が何らかの割と強い作用を腸にしてるんじゃないか?と考えてます 連投すみません
最後のところは、精神疾患は腸由来であるならば説明が付くように感じている
という、主観に基づく推論です
長々すみませんm(_ _)m >>552
私の感想では 涅槃なんて大げさな.... よくわからないけど心の独り言が全く無くなったことで観察が物凄くしやすかったんだな なるほどって感じでした
結局サマタで目覚めが起きないっていうことは 死に切れていない 結局消滅する気なんて本心ではサラサラない 又はまだ人生でやりたいことが残っているってことだと自分自身でわかったんです
それに私は色々見解を持つことをなるべく放棄しています 死についてもこの瞬間死ぬとしたら自分の本当の反応はどんなだろうと追及するぐらいです 本も岩波のスッタニパータの最古の章を読んだぐらいでほとんど読んだことがありません
サマタ中にまさにこれは前世の記憶だろ!なーんてヴィジョンも同じものを繰り返し見ましたが ははーん これは魔境だろ?転生なんてあるかどうか知りようもないし 無視!って感じでした
死については臨場感を出すのが難しいです 東北の震災で多く出回ったご遺体の写真を集めて自分の死を想像したり がけ崩れで暗闇で体を挟まれて意識がハッキリしたまま死んでいったりと 色々恐怖を呼び起こす工夫をしますが
理性がフィクションだと知っているので難しいですね 瞑想したら妄想が無くなる。無心になると思ってる人いるけどそれは勘違い。
妄想が無くなるのは悟りの瞬間だけ。悟りの瞬間以降はまた妄想が出てくる。
涅槃に入っている時以外は、妄想は誰にでもある。
妄想が無い。無心になったということは、妄想を観れてない。気づきが足りないという事。 >>559
どうしてそう決めつけるのでしょうか?
自分がそうだから、他の人もそうあるべきと
そうあって欲しいと
人を自身の我執に引き摺り込んで混迷させて溜飲を下げないで
人を具にしないで >>560
自分で確かめてみればいいじゃない。
妄想が無くせるかどうか。どんな時に無くなるか。妄想とは何か。 ID:UdM6q2+n
すげえ!涅槃に到達したんだ? >>555
腸が大事なのはありますね
自分も胃腸をよくしようと菜食や断食など試しましたが、そういうのはもちろん効果ありますが不思議と瞑想でも同じような効果でますね
カラダもストレッチなどしなくても瞑想でやわらかくなったりするので不思議だなと思います >>558
ヴィジョンはいろいろ出ますね、自分も幻覚か何か判断しようがないので放っとしています
死が考えられなくなるのもわかります、死の概念がなくなって想像しても実感できないですよね
ただ死後、肉体を失ってどうなるか、肉体を失うかそれらが完全に停止したとき、何がどのようであるのかちょっとわからないのでお聞きしました
ありがとうございました >>561
ID:UdM6q2+n とは、明日で切り替わってしまうのかな?
自演アカウントも準備してあるのかな?
堂々と統一して欲しいのだけれど このスレ、毎朝進歩してるから凄いですよね
昨日は第三禅到達者、今朝は何と涅槃到達者の登場ですから
明日あたり最終解脱者登場でしょうか? >>561
ヘラヘラなんて統一ハンドネームはどう? >>567
誰の発言か、ではなく発言の中身をよく見ましょう。 >>570
解脱者は輪廻から解脱した者で梵我一如となりアートマンがもとのブラフマンと合一することでも解脱者となれる
涅槃は仏教やジャイナ教の概念 >>569
ねぇ、ヘラヘラ
しつこい「妄想」絡みはあまり私の範疇じゃないんだけどね
キッツイのに振ろうか?
今ネットサーフィン中なのかな?
文体変えてこれ貼れば凄いって尊敬されっかなとか妄想しながら
それともインターネットカフェで賛助者募ってるのかな? >>567
お前はメーテルなんて自己愛性人格障害バリバリのHNやめて
連投糞BBAにすれば? >>573
いい案ね
そうさせてもらうわ
うん、確かにこっちの方がしっくりくる
ありがとう >>575
前に見たよ
大きな間違いがひとつあると思うけどね
それ以外は概ね良い説明だと思う
涅槃到達者なら一発で指摘できるんじゃないの? まあ 慈悲の瞑想もサマタもマインドフルネス瞑想の周辺に位置する話題ということで というより本当に楽になろうと思ったら重要で相補的なものだということですね
特に観察を始めたばかりの人で自分を観察するという感覚がわからない すぐに妄想 連想が出てきて観察が続かない人 心に問題を抱えていて自分を見つめるのが難しい人など
人の数だけハードルの違いはあるとは思いますが色んな人の体験をヒントにして挑戦してみる価値はあると思います 価値を実感することができれば本格的に先生を探したり特定の宗派に学んだりという展開も当然あり得ると思います
とにかく これは自分が求めていたものかも? と心に引っかかりが出来てゆっくりでも やっぱお釈迦さんてすごいな
あれだけ何度も「執着を捨てなさい」
と言ってた意味がわかった気がする
風が吹いただけで人は簡単に死ぬんだよな メーテルさんは私と似たところがあるw
>>579
そうですよ。我々なんて大自然の前には塵か芥ほどのものでしかありません。
地球の歴史の中では当然起こりうるほどのわずかな「身じろぎ」程度のことで、
多数の生命が奪われたり、瓦礫の山ができてしまうのですから。
人間は100年以上の長いスパンで物事はなかなか考えられない存在です。
人類の歴史は数十万年はあるというのにです。
「災害は忘れたことにやってくる」
今ある安寧や平和はほんの一時の偶然なのかもしれませんよね。
人間の意識が少し変わればたちまちまた弱肉強食の戦乱の世が始まってしまう可能性は大いにあります。
人類はその中でも成長を続けようと努力しているのですが、なかなかうまくはいっていないようですね。。 >>579
自然の驚異が人間を成長させる
対・猛烈台風建築が充実してくるよ
普通の人々に、避難のコツやカンも付いてくる
自然に勝利する日は来ないかもしれないけど
人間は負けたり諦めたりしないと思うのよ(*´з`)
執着と違う話でごめんね。 この不安感どうしたらいいんだろう
観察すれば落ち着くところに落ち着くのかな 建築技術や、気象予測の装置なんか「物」の進化は後戻りしない
人類の財産。次の世代にちゃんと残せる。
次世代はその土台の上から始められる。
仏教2500年、あいかわらず便利に悟れないねへ 自然には勝てない。不安感は無くならない。解脱するしかないね。 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬる時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候
良寛 今この身が、命があることに最大限感謝しましょう。
我々が生きていられているのはたまたまです。 >>586
日曜の夜とか不安な気分になりやすいですね。
ヴィパッサナー瞑想を頑張ってたら
その不安感も無視できるようになりますよ
頑張ってください。 >>587
心のことで個人ができることは
積み上げた前提を便利に使うことじゃなく
積み上げた前提を壊して
更地にすることのほうが大事なんじゃないかな
前提を全てとっぱらって、なお残るものとか・・・ 台風が襲ってきてから不安感を持つことには何ら意味はないからな
なるようにしかならない
ちゃんと観察してればそんなもの出てこない
解脱なんかしなくても出来ることだけど? >>591
いやいや無視なんかしちゃダメでしょう
その不安感もあるべくしてある感情なのに回避したら全く逆効果だよ
どんなネガティブな感覚や感情も、ちゃんと見ない限り残り続ける、逃げれば逃げれる程でかくなって、正体もわからない違和感ばかりが募る
自分の心を観察していてわかりませんか?
サマタなら回避や無視もあり得る話だけど、ヴィパッサナーの話で、人にアドバイスするなら自分がちゃんと身に付けてからして下さいね >>587
環境的には物凄く整っていますよ その中でも日本は一神教の概念も弱いし 物や地位を手に入れても幸せとは何か違う というところまできていますのである意味凄く環境が整っています
世界中の導師 先生ともメールやチャットで相談できます 私もそうしました 私は無料でかなり丁寧に何度も指導して頂きました
私の感覚ではスポーツの一流選手になったり中小企業程度の社長になる労力 苦労に比べると 遥かに簡単だという感想です
中学 高校で朝練があるようなクラブ活動をやり通せる気力があるなら誰でも出来ると思います
どうか遠い現実感のない絵空事とは思わないで欲しいんです
既に雑念や妄想を完全に排除して >>591
ありがとうございます
あなたのメッターがどれほど今私をほっとさせてくれたか
私もあなたのように人に有形無形のメッターを送れるようになりたいです
ありがとう >>595
> 既に雑念や妄想を完全に排除して
勝手に挿入された.... こんなことってあるんですね
>>594
本当にそうですよね この なんていうのか
「この瞑想は本当に単純に自分を観察するだけなんだな 意味がやっとわかった(汗)」ってところまでが結構苦労されるみたいですね 早く簡単に理解できる良い方法があれば良いんだけどな... マスターとか言うと、また禅定とかいい出す人がいそうなのだけど
禅定までいかなくても、日常の状態よりも思考も感情も落ち着いた状態ということです 何か、決死の覚悟でサマタするとか、第三禅定まで行ったとかいう話に流れていったけど
マインドフルネスがそんな大げさな話であるわけがないでしょうw
それほどの覚悟があってサマタをやっていても、尚、観察をすることに絶大な効果があったという話であって
1〜3分ぐらいの短いサマタを繰り返し練習していれば、しっかりした状態に入れるようになりますよ 人間が抱える根本的な不安感、恐怖感、自然への恐れ。
そんなものが「落ちついて観察すればOK」な訳ないでしょう。
ちょっとサマタを練習して、「人間死ぬ時には死ぬんだ」という覚悟ができる?
生温いですね。マインドヌルネスです。
お釈迦さまは「のこぎりで首を切られても、怒りの感情を起こしてはいけない」とおっしゃってますよ。
怒りを観察しましょうではないです。怒りが起きた時点でアウトです。
これは仏教では、不還果に達するまでは、無我を完全に悟らない限りは不可能です。 >>601
自分がそう思うならそうすればいいと思いますよ
ただ、特定の感情や感覚を回避したり抑圧したりするのは後々大変なことになる可能性が高いので個人的にはお勧めしませんけどね
瞑想会などでよくいるんですよね、観察したくらいじゃ悟れないとか言ってサマタに偏りすぎて心身のバランスを崩しちゃう人 バラモンが二つのことがら(=止と観)について彼岸に達した(=完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。 戒律を守るだけでは、サマタだけでは、ヴィパッサナーだけでは悟れない。
命を捨てる覚悟で、病気になろうが、貧乏になろうが、死ぬまでに必ず悟るという気持ちで、頭燃を払うつもりで、修行しなければ悟れない。
悟らない限りは、人間が持つ根本的な不満、不安、恐れは取り除けない。 >>603
そうだそうだ。スマタぐらいでいいんじゃないか。
>観察したくらいじゃ悟れないとか言ってサマタに偏りすぎて心身のバランスを崩しちゃう人 23時過ぎ傘ささずにプラプラ銭湯に行ったら台風で客が来なくて仕舞うところだった
静かに風呂入れて良かったよ
それからコンビニ寄ったらこっちも客が居ない
ルートのトラックが来なくて商品棚ガラガラ、、、
飛んでくるものに気をつけてれば、体飛ばされるほどでなし
何も怖いことなんかないと思うが
みんな>>601みたくブルってたんだね >>601
うーん 全然落ち着いて観察しなくて良いんですよ 例えば暗闇でナイフを持った人が近づいてきても 全身が硬直したり毛が逆立ったり鼓動が早くなったりは勝手にしますよね
それを落ち着いていられる時点で そういう場面に関しての観察はあまり収穫が無いんです 職業軍人とかヤクザ屋さんとかはそうかもしれません
一方そんな人でも異性に告白する時にはすっごくドキドキするかもしれない そういう時にはドギマギしながらも観察するんです 「鼓動 早い」と
それにノコギリで体を切られる時点で何の感情も真の意味で沸き起こらない場合には もはや瞑想なんて必要ないと思いますよ だって既に解脱を遥かに超えた境地でしょう
ノコギリで体を切られる寸前まで 自分が解脱以上の状態にいることに気がついていなかっただけですよ 無駄に修行をしていたわけです 用心することと無駄に不安や恐怖に駆られることは全く違うんだがなぁ 長嶋一茂さんも毎日死の瞑想してるみたいでそれから好きになりました。「今日はライオンに殺されてきて」とか何かの番組で言ってたかな。何だったか思い出せないけど。
ブンシャカムニムニも虫の死骸とかを見たら死の瞑想を思い出してくれって言ってましたよね。昔はそこら辺の寺でも普通に死体を放置してそれが土に還る様を観察したらしいです。まあ死姦とかの問題で廃止になったそうですが。 ひとりでど根性路線の瞑想?をやってりゃいいじゃない 執着がなくなっていけば適切に観察できてくるし、観察ができてくるとそのときには執着もなくなってきている >>613
それをどこまで続けるかですよ。問題は。
もう二度とこの世には戻らない不還果までやれば安心ですが、
悟らないでいる限りは、死に変わり、生れ変わり、苦しみは終わりません。
今生でした修行も、中途半端に終われば、結局無駄になります。 執着という原因があれば苦しみという結果が待っているでしょう?
自我に対する執着が残っている限りは、例え肉体が死んだとしても、苦しみが待っているはずです。
来世で苦しむはずです。因果法則から言えば。 ノーベル賞取ったな
オプジーボの人だね
まさに人類の救世主的研究だ >>614
問題にしてるのはあなたなのだからあなたが続けたいだけ続けたらいい
修行も瞑想も観察もそれぞれの人が自分がしたいだけしたらいいだけのこと ブッダが説いた因果律は、悟らない限りは理解できませんが、何となく分かるでしょう?
善因善果、悪因悪果、因果応報。
苦しみたくないのなら、ブッダの教えを学ぶべきだと思います。 不還果になれば二度とこの世に戻らない
これ確かめられたんですか?
信じるか信じないかという話なら私は信じてますよ
しかし、自分で確かめてないので他人様に対して断言することはありません
ですから、確かめたのですか?とお尋ねしたのです 私が確かめても私にしか分からないから、他人にとっては何の意味も無いです。
この世に対して一切の執着が断たれれば、この世に生まれ変わる事はないでしょう。 またこの世に生まれてきたいんで、そういう話はどうでもいいっす >>622
それなら、釈迦の残した言葉も無駄ということになりますね カーラーマ経
テーラワーダ仏教 (3)すべては自ら確かめよ
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi12.html
人々の耳に伝えられるもの、例えば秘伝や呪文じゅもん、神の啓示などに頼ってはいけない、
世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない、
古くからの言い伝え、伝説、風説などに頼ってはいけない、
自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない、
経験によらず頭のなかの理性(思弁)だけで考えることに頼ってはいけない、
理屈や理論に合っているからといってそれに頼ってはいけない、
人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼ってはいけない、
自分の見方に(見けん)に合っているからというようなことだけで納得してはいけない、
説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない、
説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない、 ブッダがおっしゃるには、人間に生まれる確率は爪に乗せた土ぐらいの量で、
畜生、餓鬼、地獄に生まれる確率は大地の土ぐらいらしいです。
人間の数よりも圧倒的にその他の衆生の方が多いらしいです。
自分としてはもう一回人間やれって言われてもイヤですけどね・・・ >>622
なるほど、メーテルさんがツィッターで嘆いている「独りよがりの小乗」て、このことか。 >>624
ブッダは、如来である、一切智者であると宣言しておられるので、
私が確かめた、発見したことを、あなた達も確かめてみなさい、という立場だと思いますよ。 死ぬまで大して時間もないのだから悟りたいならこんなとこで話してる時間も惜しんでさっさと修行したらいいのに 毎朝やってきて、どこかから引っ張ってきた言葉を
自分の言葉として語り、他人に押し付けてる人だろ?この人ID:mXBHBGg7
それで、他人の体験については認められない、否定してくる
仏典に書いてあることを根拠にマウンティングし続ける
修行の全く進んでいない妄想男だよ、性根が汚い >>626
そうです、その様に語れば何も問題はないのです
何故、毎日そうされないのですか?
>>628
あなたが信じている、確かめた、という話なら良いでしょう
しかし、あなたの話は大抵は確かめておらず信じていることを、ご自分の言葉として語られている
根本的にそれは違うということがおわかりにならないのかな? >>629
↓だそうです
166 :神も仏も名無しさん[] 投稿日:2018/09/29(土) 12:38:25.39 ID:UdM6q2+n
>>164
まずしっかり、今生で解脱すると誓願して、五戒をしっかり守り、慈悲の瞑想をして、
四念処をやれば普通に悟れます。本気なら。
預流果なら5、6年でいけると思います。 何に生まれ変わろうがどうでもいいな
そんなファンタジーの世界 私が確かめたかどうかをどうやって確かめたんでしょうかw >>635
ことごとく文脈が読めていないからです
つまりあなたは体験していないことを語っていることが多いのです 5日間位タブレット壊れててネットに触れれなくて、そしたらなんか瞑想が捗った気がする。少なくとも今まで出来なかったことが出来るようになった。
これからも極力ネットに触れず、週に1日くらいはネットしない日を作ろうかな? まあ、最高の休息法って本読んでから極力ネットを控えてますけど。けど、動画サイトでアイカツは見たいな。1日1話。 まあ正直ネットでの議論も、持論の押し付けになると大抵背景には「不安」や「怒り」が
あるんだよな
本人に気づかないレベルに巧妙に姿を隠して変えて
それを助長するわけだから 書き込む前に、「ちょっとまて、これ書き込まなかったらなにか大変なことでも起きるのか?」と
自問して、ちょっと離れて瞑想してみる
それがなかなかつらい
つらいだけに瞑想して観る価値がある
ひとつ執着がぺりぺりとはがれるわけだ。その痛み。
書き込みだけじゃなく、普段の他者非難の衝動、必要のない間食、飲酒、自慰、テレビをつけたい衝動なども、同じように観る価値があるね
それが戒の意味なわけで。観れている人は、自然と和顔愛語の人となる
まあそれができるかっていうと、ささいなことなんだけど、なかなかできないんだよ。
簡単なことほどはまりやすい。持論を人に聞いてもらいたくて反論を待ってたりすることに生きがい感じたりね ここは無宗派スレだし、仏教として認められなくても良いんだよね?
瞑想で自分なりに効果が得られればいいということで、
それぞれの人たちがそれぞれに誠実に語ってると思うよ、比較的
改行のおかしいマグマの人とか超次元の人とかも
みんな、自分がやってきたことに付いて語っているし、面白い
そりゃ仏典引っ張ってくりゃいくらでもマウンティング出来る罠
率直な疑問にも極論で答える、仏典を持ってきて
それは、話者として対等な資格で話していない、卑怯なことなんだよ
毎朝起きてすることがソレ?大丈夫ですか?ってこと
これがわからないんだったら、三禅入ったところで預流果認定されたところで
何の価値もないと思うけれどね
本当だと思っちゃいないが 彼はもうこないとか、5ちゃんやめようと思ってるとかよくいってるよね
やめようとしても出来ない、ほんとにやる気ならこんなところに書き込みして不安を気晴らしに紛らわそうとしないからね
まあ世間苦に苦しんでるんだよ、俺らと同じで、といっちゃ悪いかもしれないけどね
それはお前の妄想と言われちゃうかもね、でも心の底をのぞけば外れてないと思うね
ほんとに解脱する気なら書き込む間も惜しんで瞑想できるし、わざわざ執着の種を増やして苦しみを増そうとはしない ええ、持論なら持論として聞きますし、それは有意義でしょうね
しかし経典や高い境地に至った人の言葉を自分の言葉として語ってしまうのは
本人にとっても危険なことだと思いますよ
最もわかりやすい例が麻原ではないでしょうか?
仏教にもそういう戒めがあるはずだと思うのですが >>640
2600年語り継がれる偉大なるブッダの教え、苦しみの原因と、苦しみを無くす方法を脇に置いて、
たかだか2、30年の歴史のマインドフルネスで、ちょっと悩みが無くなった、ネガティブな気持ちが消えてスッキリ、
それで大丈夫ですか? >>643
ちょっと悩みがなくなった、程度の話でもないしw
あんたのレス見てるとヴィパッサナーやってないのがよくわかるんだわ
IDで検索するとテーラワーダとかスマナサーラのスレで頑張ってる人みたいだけど
どっちかというと、足引っ張ってるんだよね
何がしたいの一体? >>644
どうなるの?マインドフルネスで。
解脱する?無我を悟る?真理を発見する? 解脱しなきゃ意味ないよ。
ブッダの経典のほとんどが解脱で話を終えている。
苦しみを無くしたくない。ブッダなんて関係無いというなら別だけども。 権威を振りかざしてるようじゃ、悟りなんか無理だろうなぁw >>650
うん、じゃあもうやめようね?
毎朝やってきて、どこかから引っ張ってきた言葉を自分の言葉として語り、
権威主義でマウンティングするのは
それで、他人の体験については認められない、否定してくる
仏典に書いてあることを根拠にマウンティングし続ける
お前は修行の全く進んでいない妄想者だよ、性根が汚い
食い詰め坊主がテーラワーダやマインドフルネスに逆恨みして
スマナサーラに肩入れするようなフリをして足引っ張ってるようにしか見えないからw これはやっぱり無理ですね。
あなたがもし仏教徒なら、スマナサーラ師には尊称をつけましょう。立派な方です。 あー、はいはい
お前には言われたくないだろうスマナサーラさんも 私は仏陀なんて関係ないですよ だって目の前にいて指導を受けられないんですから....
メソッドだけがあれば良いと思います メソッドの説明 理由も要らない だいねんじゅうきょう のような方法集だけが必要であとは何も要らない
プラス 近所に瞑想の達人の先生がいれば最高かなー そんなに立派なお方か?スマさんは
少なくとも日本という先進国に来てイスラム教の悪口を平気で宣うようじゃ
仏教の伝道者としては失格でしょ、ドン引き
一人の人間として見るならば、素晴らしい方だと思うけどね
宗教指導者としては失格、全然駄目、ついていけませーん 悟りが得られないんだからどうたらこうたら・・・
そんなの「マインドフルネス」を謳った本を出してる僧侶全員とカバットジンに
直接言え こんだけ毎日長時間ネットやってて悟りなんか開けるかアホ 「いま」「ここ」に生きることの素晴らしさを謳ってくれた釈尊の教えに拘泥することは釈尊への冒瀆なんじゃないかと思うんだ 仏典などから学ぶことも多いだろうと思うけど、それを先行させることはしたくないな
自分が体験したこと、それが何なのかをゴータマさんが語っていれば参考にする
あくまで参考
時代背景も考慮してどこまでが参考になるのか
まるまる聖典として鵜呑みにすべきものではないと思ってるよ あくまで参考、か
鵜呑みにすべきものではない、か
このまま続けて三結の疑がなくなるのはだいぶ先の話だろうな
それを望んでるか否かは別として 自分はしたいように生きてるだけだ
他人とも楽しんで関われれば
いいなと思ってるな
悟りとかに憧れはあっても
人生を全て注ぎ込むほどじゃあない
自分がしたいことして死んでいく
位しかできそうもないし
理想の生き方より自分の生き方がいい 瞑想家としての釈迦の説いた事には見るべきものはあるよ
しかし預流果なら七回まで、不還果なら今生まで、なんていうのは宗教でしか無い
信じるか信じないかのオカルトの世界だね
そもそもベースになったバラモン・ヒンドゥの輪廻の考え方は別に普遍的なものではない
インドを征服したアーリア人の統治のための方便だ
釈迦の言う真理、解脱は政治的、相対的なものでしかなく、超科学的真理ではない 周りから嫌われまくる苦しさから仏教にはまって
仏教を勉強しただけで実践しないから自我が強化されただけという悲喜劇がおこり
それによってネットで暴れネットでも嫌われるという地獄の輪廻 原始仏教ブームで勘違いしているんだろうけれど
超越者願望をつのらせている奴らははオウムと変わらんから
目を覚ましたほうがいいですよ >>665
> 仏教を学んだだけで実践しないから自我が強化されただけという悲喜劇がおこり
本人自覚ないみたいだけどね(^^;) 自ら確かめてみよ
↓
疑ったら悟れないからw
こんな脅迫をすればオウムと同じになるのがわからないかな
三結の「疑」とは、最初から疑ってかかるような心のことだ
参考にしているならそれは確かめようということであり
「疑」ではないとすべきだろうな
そもそも661は悟りを目指していないだろう
従って>>662、お前はオウムと同じだ
自覚あるか? 自我が強い人ほど他人の自我が気になるもんだからねぇ…
同じ穴の狢だな。 一番他人の自我が気になってるのはスマ信者でしょ
毎日毎日他人にケチ付けに来てるんだからね(^^;) 妄想妄想妄想妄想妄想妄想妄想
私が幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
妄想妄想妄想妄想妄想妄想妄想
この人が幸せでありますように
妄想妄想妄想妄想妄想妄想妄想
そんなわけがない
この人の声音音音音音聞いた音音音無常
妄想妄想妄想妄想妄想妄想妄想
望みを断つ断つ断つ断つ断つ断つ
一切皆苦皆凡夫皆地獄地獄皆一緒地獄地獄地獄
俺は間違ってない!!! 願望をかなえたら良いと思う
優越感に浸りたいでもなんでも
もっと単純に願望を叶える行動をしたほうが良いと思うけどね
自慢したいなら自慢したらいいし
自分の考えが正しくて相手が間違っていることを証明してもいいし
自分の願望を現実に味わえる形で叶えたほうが良いと思うよ
自分が何を欲しがっているのかはっきりさせたほうがいい
それで満足な人もいるだろうし
飽きる人もいるだろうし
宗教とかまいんどふるねすとかで矯正するのが必ずしも良いとは思わないな >>669
こいつは頭がおかしいのかな?w
オウム、オウムって
オウムに親でも殺されたのかな? 他人は放っておくのが一番
参考にはすれどそれ以上関わるものではない 確かめること無しに信じると間違った理解をするよね
文字だけ読んでほいほいと理解できるものなら瞑想も精進も必要ない
決して疑ってはならないと自分を脅かして信じ込むことから始めたら何もかも間違う
あったりまえのことだ どんな書き込みでもその人に向かって慈悲の瞑想するといいよ
たとえ人として最低最悪な書き込みだったとしても
だが>>675は自分の業について深く内省してほしい
本当にオウムに親を殺された人が見たらどう感じるか、ほんの少しでも想像してほしい
あなたが幸せでありますように オウムに親を殺された人は
マインドフルネスのスレでオウム、オウムと書かれた文字を見たらどうおもうんだろうね? >>678
反省を促すならまず>669ではなかろうか 悟り強要うざいんですけど?という流れから
三結の疑なんてどうでもいい話で評価を下した>>662が悪い
良かれと思ってやっているのだろうが、押し付けがましいし
しかも解釈が間違っている
まるで○○○真理教の「救済」みたいな思考だよね 三結の疑がどうでもいい話かどうかは人によるな
>>681みたいにどうしても真理教と結びつけたい悪結は気持ち悪いな >>682
いや、悟りとかどうでもいいから止めてくれ
という流れに「君は悟れないねえ」と見下しをしてくるのは
正にカルト脳だよ
単発IDくん >>679
君は遺族が快く思うと考えて連呼しているんだね?止めなよ いまスマ信者の頭の中に渦巻いているのは
「自分は真理を述べているだけだ!」
という妄想だろうなぁ >>682
> 三結の疑がどうでもいい話かどうかは人によるな
人によるな
> >>681みたいにどうしても真理教と結びつけたい悪結は気持ち悪いな
それも人によるな
君もカルト思考にハマってるからそう思うだけなのでは? >>684
遺族が快く思うと考えてとかよく書けるな
そのひねくれた根性どうにかしたほうがいいな、改めなよ >>688
ん?君は>>679なのかな?どっちでもいいが
遺族が快いと考えてないなら>>679は何故連呼したのかな?
ひねくれずに答えられるよね オウム、オウムと書いてる奴がいるということを示しただけだろう
根性のひねくれたバカにはそれもわからないんだな >>691
示さなくても見ればわかる
現に俺は連呼しなくても内容が伝わっただろ?
何を言ってるんだろうな君は
>>679は自己矛盾していると言っているんだよ 今日、あんまり気分乗らないな。アイカツが見れなかったのは大きい。話数限定とは書いてあったがまさか1話のみとは。
昨日注文した「今ここを生きる」って奴が今日届くからそれでやる気出れば良いな。 >>679は連呼するなと言って遺族を思いやっているような口ぶりだが、
その口で教団名を連呼してしまっている
つまり、頭ではわかっていても共感性は欠如しているんだよね
これってサイコパスなんじゃないか? スマを信じていると扁桃体に異常をきたすのかもしれないな そうかー、俺がサイコパスだったかー
じゃあ慈悲の瞑想を多めにやるかな まとめると、このスレのスマ信者はオウム並みの危険人物 じゃあお前はない方だな
慈悲の瞑想やっても無駄じゃないか?w お前には効果ないだろうな
スマとスマ信者をディスり続けてるお前みたいな輩には サイコパスに学ぶ正しいマインドフルネスへの道
https://yuchrszk.blogspot.com/2015/08/blog-post_49.html?m=0
サイコパスの能力とマンドフルネスの関係
http://psycom.haten adiary.jp/entry/2017/12/30/041152
一応ソースらしきもの お前がしっかり読んどけよ
お前が一番必要なんだから 君のことは言ってないんだからさ
悪言吐かなくてもいいでしょw リアルでもネットでも嫌われまくって地獄のような日々を送るスマ信者 俺、スマ信者しかディスってないけどw
スマさんをディスり続けてる?何のこっちゃ? >>698で呼び捨てにしといて
慌ててさん付けてわろたw 最近、Amazonで買ったインサイトcdの雨音バージョンを聞きながら瞑想してる。
呼気に意識を向ける。吐いてー吸ってー、吐くときは体の悪いものが息と一緒に排出するイメージ。
吸うときは光り輝く息が体に入るイメージ。
慣れてくるとあっという間に30分。 >>701
>あと、サイコパスと僧侶の脳は似てるんだとか
>良心がないか、あるかが違うらしい
つ良心がない方がスリランカ僧侶 人間にだって生まれ変わるのは嫌だと切実に訴え続けてるけど
そこまで苦しむ程にネットでもリアルでも蛇蝎の如く嫌われまくっているのはスマ信者自身の自我のせい >>715
お前みたいに朝から一日中貼り付いてられる暇人じゃないんでなぁ 語るに落ちるとはこのことw
ID変えながら張り付くのがスマ信者なんだなぁw ID変えるのは必然だからなぁ
ずっとID変えずに貼り付いてられるくらいの暇人になりたいなぁ 語るに落ちるとはこのことw
ID変えつつ張り付くのがスマ信者なんだなぁw 今日はまたいつにも増して瞑想からは程遠いスレ進行ですね。。。 ついに壊れて同じこと書き込むしかなくなったのかこの暇人w >>725
毎日ここで煩悩放出してるのがスマ信者ですよ(^o^) 朝から一日中貼り付いてる暇人て他にやることないんだろうなぁw スマ信者ディスった後に慈悲の瞑想やって効果あるのか?
そんな瞑想は偽善の瞑想だから効果ないからやめとけ 他人様を暇人呼ばわりとか、靴箱のくせにw
バレてるのに良く言うよ >>734
自分でスマ信者とかw
案外面白いなおまえ >>736
どこからニートが出てくるんだよw
お前の劣等感からか? >>737
スマ信者ディスってるアホのお前よりはな スマ信者ディスるのって楽しいのか?
それがお前の慈悲の実践か? なに?慈悲の実践って
ID変えながらスレ荒しすること?
そんなことしませんよワタクシは お前も荒らしてるだろ
何自分は荒らしてないみたいに1店のこのアホw お前が居なくなればワタクシも消えるつもりなんだがねぇ スマ信者、このスレで下手にやらかしたから
今日みたいにスマスレには書き込めなかったなあw
IDでわかっちまうからなw >>731
何が気に障って>680に反応したのか分からんが、貴方の想像してるような事は無いよ
自分が気に入らない意見を思考停止してぶっ叩ける便利な棒として、いつまでもいつまでもオウムを出すのは良くないって思っただけさ 今日はこっちで珍しく煽られちゃって
スマナサーラスレ、テーラワーダスレには書き込めなかったんだよな
靴箱w涙目拭けよw
お前に悟りの光が現れることを祈ってるぜwぷ >>751
スマ信者ディスって喜んでるアホが消えろ >>754
スマ信者とか言わずに「俺」って言えばいいだろw
「俺をディスりやがって!許さん!」
こうだろバカ
あ、バカはよくないかお前と同じになるな いい加減気づけよどアホw
相手がスマ信者か否か
ディスるのに必死で判断力ゼロになってるぞw 頭ってわくんだね!
スマ師に指導されるとそうなるの?
ワタクシはわいたことないからワカンナイw 頭がわいてるから分からんのだ
もう手遅れだな頭わきまくりのアホ >>662
>>667
>>675
>>679
>>682
ID:lKX6goeV
ID:3ZxwULtr >>759
勝手にお前が反応してきてるのだから、お前はスマ信者だろうよ
バカなんじゃないの?マジでw スマ信者にしたかったらしとけや
痛くも痒くもないわw
お前の陰険なディスりなどな まあ確かに、スマナサーラスレとテーラワーダスレの
いつもいつもいる香ばしい奴の書き込みがパッタリ止まってるな 適当にスマ信者がーとか言ってたらさー
お前がパクっ!と釣れちゃったんだよなww
>>765
泣くんだったら絡んでくるなよキチガイ スマ信者ディスる毎日って楽しいのか?
むなしくならないのか?
その後、慈悲の瞑想とかしたりすんのか? 毎日????
はい、靴箱確定ね
ワタクシはお前をディスったことは、いままで一度もありませんw
ひたすらヲチしていたからね 毎日じゃないのか
てことはお前みたいなアホが他にもいるってことか 今更後悔してもスマ信者ディスった悪業は消えないってか また語るに落ちたスマ信者の靴箱w
明日になれば自分じゃないと言うだろうw
この人間のクズはw
>>771
何で悪行になるんだ?
スマ信者は聖人か?爆笑 スマ信者になんの恨みがあるんだろうこのアホは?
なんでこんなにスマ信者に執着してるんだろうね 半歩譲ってスマ師を聖人としても
日がな一日ネットで荒ししてるお前は聖人なわけがなかろうがw スマ信者をディスると悪行になるんだねぇ
驚きだあ(;゜0゜) そういう行為の積み重ねがお前みたいなアホになってるということはご存知ない? ともあれ、今日の傑作はこれだね
679 :神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2018/10/02(火) 10:55:11.41 ID:NTl7TZ+v
オウムに親を殺された人は
マインドフルネスのスレでオウム、オウムと書かれた文字を見たらどうおもうんだろうね? >>779
鬼畜wそこに戻るのw
初禅すらありえないと思うw アホのお前にも分かるように言うと
悪行の積み重ねの結果がアホのお前ってこと じゃあどんだけ悪行積むとスマ信者様ほどのドアホになれますか!
ワタクシでもあなた様ほどのドアホになれますか!?>< 俺は特定の信者をディスったりしない
特定の信者をディスっていきがってる奴をバカにはするけどな 靴箱じゃないんです!信じてくださいよ!
まで読んだ なんでお前スマ信者ディスってんの?
過去にスマ信者に虐められたのか? はあー?ディス?
ディス・イズ・アン・アッポー
のディスか? 話そらすなやw
過去に虐められたんだろお前アホだからw お前が誰かいじめたのかよw
そいつは相当間抜けだなぁw
というか、スマ信者ってイジメやるんだ?
そりゃあいかんな!懲らしめてやらないと! 俺はいじめなんてするかよ
お前みたいなアホじゃないんだから
特定の信者に執着したりするかよ 語るに落ちてるのになに言ってんだアホ
限りなくアホそのものだなスマ信者w
こりゃ傑作
スマ信者の悩み苦しみが消え、願いが叶います様に
スマ信者に悟りの光が現れます様に!
このサイコパス、このままじゃ地獄落ちだよー 散々ディスった後に似非慈悲の瞑想して意味あるのか?
そんな瞑想やめてしまえ 意味不明
ワタクシが一体何をディスったかな?
貴様の妄想では? とうとうトボケだしたでコイツw
スマ信者をディスった罰当たれ スマ信者がイジメやってるとかディスってたのは
この間抜け野郎だしなぁ・・・
あたしゃ苛めた覚えはないよ? https://www.youtube.com/watch?v=4WdN8O2Sj2E
47:22秒から 反スマちゃんとスマ信者ちゃんの闘いみたい
よしもと面白いヨ
まいんどが〜ふるねすでありますように〜 アホだとはおもってたけど痴呆入ってきたか
それでもスマ信者をディスるのは忘れんだろうなコイツは スマ信者ディスると罰当たるんだ!
なにそれスゴい!w
>>795
そしたら、お前が罰当たるやんか!w >>795
そうそうお前がど罰当たりや
罰当たりまくれ ID:3ZxwULtrはスマ信者はイジメをやるような奴等だって言っちゃったからな
なんて罰当たりな、、、知らんぞワシは ID:m9HFf8VEがなんでスマ信者をそこまでディスるのか知りたいなぁ〜 目の前にバカがいるからからかってるだけ(^0_0^) ID:m9HFf8VEはスマナサーラが嫌いなの?
信者が嫌いなの?
両方嫌いだから執拗にディスってるのかな? https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1535982873/l50
スマナサーラ 批判
もちもち、反スマちゃん。スマ信者ちゃん。
スマナサーラ談義は専用スレでやってくれまいか。
マインドフルネスのスレ住民が、さっさと価値判断の入らない観察状態に
入っちまって 突っ込みも入らないじゃないか。
凡人の私が誘導しますよ。 >>804
何でそんなことが気になるのかな?w
無理してスマナサーラとか呼び捨てにしたら
バチ当たるんじゃないの?
長老と呼びなさい長老とw スマ信者じゃないんだから
スマナサーラと呼んでも罰なんか当たるかよ
罰が当たるのはディスってるお前 よしよしwみんな本音で良い感じですw
観察さえ出来ていれば無問題 寧ろ観察の機会が増えて良い良いw >>806
すみませんね
そろそろ、住人さん達に和やかな時間を過ごして頂きましょう
このスマ信者の靴箱は毎日このスレに来て頓珍漢な妄言吐いてますんで
適当に叱りつけてやってくださいw
お願いしますね またこのアホは妄想書き込んでるな
特定の信者をディスるような奴もマインドフルネススレにいるんだな
マインドフルネスの前に改めることあるとおもうが >>808
え?あーはいはいw(悟
スマ信者、と言ったら絡んできたのお前だからw
今さら遅すぎだよ、荒しが
むこうでID確認して検索すると毎日毎日ここでも嫌われてるだろお前は
そうやって嘘吐いて、なにやってんだよ?
もうやめな そいつと勝手に勘違いして
俺をスマ信者と勘違いしてるお前はやっぱりアホw
俺はお前みたいなアホにウソなんてつくかよ
お前が勝手に妄想してるだけ これね
>>662
>>667
>>675
>>679
>>682
ID:lKX6goeV
ID:3ZxwULtr
一発でわかるって
このスレの人達も「あー」ってなると思うぜ ここでスマ信者スマ信者言ってるアホはお前だったんだな
この荒らしで有名になったから良かったな
これからもスマ信者をディスり続けるのかなここで? レス数伸びてるなぁとおもったら・・・
あおりあっている人たち、いい加減にしてくれませんか?
マインドフルネスにしろ仏教にしろ、修行と逆のことをやりながらそれを語っても仕方ないでしょ?
ただの煽りあいならなおさら。人の迷惑考えられない、瞋恚のぶつけ合いしながら仏教も慈悲の瞑想もないでしょう
>>694
その本、一章は結構脳科学的な話に終始するので、二章がなかなか面白いよ
youtubeでリンポチェの法話がたくさんあるから、youtubeの字幕機能使ってみるのも楽しいよ
>>714
そんなCDあったな〜俺も持ってるけどひさびさに使ってみようかな >>817
うんうん、ぜひ使ってみて。
ちなみにヘッドフォンで聞かないと意味がないらしい。
心地のいい雨音。 あと、座禅クッション買ってよかった。
これがあると背筋が伸びてかなり楽。もし使ってない人であぐらかくのが辛い人は絶対買ったほうがいい。 今日もアホみたいな言い合いしたら笑うけど
過去生でもそうやってたのか業なのか、来世でもきっと同じようなこと繰り返すんだろうし可哀想だなあとも思う >>824
本当に意味不明だよね。
あなたは。
わかってるくせにもう
イケズだなぁ また荒らしに来たのかな?
オウムというワードを持ち出して オウムといえば
ひかりの輪の上祐の仏教レクチャー動画はなかなか面白かったな >>823
オウムとかけたつもりかもしれんが
微塵もおもしろくない返しだな 「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える
山下 良道
http://amzn.asia/d/1dee5Qg
もう買えるみたい >>832
意味不明な返しをせずにはじめから
>>830と返しておけば墓穴掘らずに済むのに… 全然オウム返しじゃないのに
オウムというワードを放り込みたいから
無理矢理入れてくるその陰湿さが気持ち悪いので
アンカーつけてこないでくれる?
気持ち悪いから なにムキになってるの、>>823はシャレというかボケでしょw >>837
妄想にしてはではなくで
妄想だから気持ち悪いんですよ ボケねぇ
ボケにしても意味が通ってないボケはボケとして成立してないけどな >>841
わかったわかった!
ハイ、もうヤメヤメ! >>843
せっかく絶好球あげたのに...
そこは「オウム返しかよ」だろw
笑いのセンスなしかよ >>845
いや、まじレスすると、(状況にもよるけど)バカにしてると思われる場合が多いよってこと。
そういうオウム返しは。 ニー仏は瞑想だけでは人格は良くならないと言ったが本当にその通りだな よし、それじゃ瞑想だけでなく教育勅語を暗唱するぞ! >>851
典型的な「はずだ論」に陥ってしまっている。
「自分の影を殴って、勝手に勝利宣言をしている」に過ぎない。 >>853
と言っているあなたも、勝利宣言をしている「はずだ」と思っている。
そしてあなたも「〜に過ぎない」と言って、勝利宣言する。 >>833
この手の本ってたくさん出てるけど、結局どれも同じ。
要するにとりあえず瞑想しろと。
瞑想の本読んで瞑想して飽きる人が多すぎる 永遠ループするので評価せずにありのままを観察してみよう
うーん(−_−)
飯にしよう >>831
もしかして私のツイートの話してる?
凄いアクセス数なんだけど >>857
そもそもお前の垢など知らん
ググっても分からん 読書の秋ですね
マインドフルネス本はもう良いので、マインドフルネスの実践と仏教以外の読書で行こうと思ってます
日本神話である古事記、神皇正統記や国学チックなもの
吉田松蔭や西郷さんが愛読したという佐藤一斎とか
仏教なら西田幾多郎が本が焼けてもこの二冊だけあればいいと言ってた臨済録と歎異抄
あるいは新旧聖書やギリシア神話とか
ともかく死生観に関わる次元のものを何か一つは読もうと思ってます
それと>>701を読むと、小説読むと共感力が高まるということですが
この秋は少しハード目の小説に挑戦しようかと思っていたところです 俺のおススメは「星の王子さま」と「河合隼雄の幸福論」
どちらもパラダイムの変化を感じられますよ 星の王子さま、昔少しハマりましたよ^^
また読み返そうかなぁ
最近読んだのでは、かもめのジョナサン、イリュージョンも読みやすくて深いですよ
イリュージョンはダンテスダイジのおすすめ本ですw
これも飛行機乗りの書いた物語でした
ロアルド・ダールも飛行機乗りだったかな、二冊読んだけど読みやすくて面白かったです
河合隼雄は積ん読が数冊あるのですがw
幸福論ですね、持ってないので見てみますね 仏教外だとラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジ、クリシュナムルティあたりの本もいいと思うんだよね
そのあたりは西澤さんや山下さん、地橋さんなどテーラワーダで修行してマインドフルネスの指導してる方たちもよく読んでるし >>862
仏教以外で死生観に関わる次元のものなら、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」がおすすめです
私はこれで人生観変わりました パラマハンサ・ヨガナンダ
あるヨギの自叙伝
分厚い本だけど読む価値あり 「夜と霧」「あるヨギの一生」どちらも読書家ではない自分がとても影響を受けた本だなぁ
新しい概念に眼を開かれるような気がしたな
ラマナの本はちょっと難しかったけど、弟子のプンジャジさんの本は、わかりやすくて面白かった
マインドフルネス外でマインドフルネスと同じことを語ってるのかなと思うのは、
マルクスアウレリウスの「自省録」と、洪自誠の「菜根譚」だなぁ
「人の小過を責めず、人の陰私をあばかず、人の旧悪をおもわず。
三者(さんしゃ)は、もって徳を養うべく、またもって害に遠ざかるべし。」 小説や童話、映画は共感力を養うだけじゃなく、自分の世界観やパラダイムを見直す役にもたつね
ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェは「マトリックス」をおススメしていたが映画としては正直面白くなかったな
河合隼雄は童話や小説をたくさん勧めてるね マトリックスといえば雲黒斎の解説が秀逸だと思ったな
https://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/046c48de526ee050a49fa23134398a30
無理矢理なこじつけだなあと感じる解釈も中にはあるけど、こんな見方があったのかと感心した思い出 「かもめのジョナサン」は元々書いてあった第四章を復活させた「完成版」がオススメ
リチャード・バックの「ジョナサン」、「イリュージョン」はマトリックスと似た世界観で
マインドフルだと思う
逆な方向で「心を癒やすカウンセリング」西尾、も観察ネタとしては良いかもしれない
人が抱える様々な心理的トラブルについて365のテーマで書かれてる
これ読める人ならカウンセリング要らなくね?というw
昔、読んでて心が折れたが今なら行けそう 聖書はなかなか読む気になれなかったが
「マンガ聖書物語<新約篇>、<旧約篇>」
これなかなか良かったよ
これをサクッと読むと、牧師の説教聞いて少しわかりやすくなった
自分と違うパラダイム、イリュージョン、マトリクスに住んでるんだなとは思うが
仏教も軽く違うマトリクスなんだが、聖徳太子の昔から日本にも入ってるからそこまでギャップはない
インド人の思想一般に言えることだが、時間感覚が違うのは感じるけどね
それよりか問題は今の日本の国家は西洋型なのに、社会、文化が神道と仏教のまんまだから生きづらくなること
仏教学ぶよりマインドフルネスやりながらキリスト教学ぶほうが賢いと思うんだよな、、、
あくまで仏教にこだわるなら浄土真宗はキリスト教カルヴァン派とかに近い他力本願だから、親鸞や一遍を学ぶのが良い
日本に長く伝わるものだし文化の一部になってるものを学ぶのは生きやすさにも繋がるからね
やっぱ浄土真宗最強か(強引) 仏教原理主義的な狭量な連中にはわからないと思うが
今日名前の出てる本ぐらいは読んでおいたほうが良いと思うぜ
何故って、仏典で説明するよりも、それらで説明したほうが現代人は救われるからだよ
語る側のマインドは仏教であっても
これがわからない奴は悟ってないね、絶対にw 仏教でなくても良いよ別に
日本人にあった救いのシステムなら良い
そこから仏教にもキリスト教にも馴染みやすい見通しの良い場所だと思うだけ
もちろん仏教は否定しない、キリスト教も否定しない
日本教的なものも否定しない
それ以上、特に議論する必要を感じない じゃあ教会で洗礼受けて、念仏唱えて、ヨガでもやって梵我一如目指したらいいんじゃない?
メッカに巡礼してガンジス川で沐浴してお遍路さんやるとか。
ものすごいいっぱい救われるよw 言っちゃ悪いけど、キリスト教ってクソカルトだよ。宗教に首を突っ込んだばかりの
人間が、すべての宗教はそれぞれ良い所があるとか言うけど、それはどうかなぁ?と
思っちゃう。後10年後にまだ、その考えだったら大したもんだよ。 また反スマの荒らしきてるのか
いい加減にしろよな
スレに迷惑かけてることを理解しろよな 自分は30年以上反キリスト教で生きてきたけど、それは妄想だったと反省しているところだ イエスの三位一体とか嘘でしょ。処女から生まれたとかも嘘。 >>888
処女懐胎どころか、イエスという人間が居たことにも懐疑的なのが今のキリスト教神学だよ キリスト教に懐疑的な人はカール・ヒルティを読むと見方が変わると思うよ 教えとして、神の子が人類を救うために降りてきたという物語は大変分かりやすいし、
西洋化されてるところでは、通用しやすいから、それで、救われたっていうのなら別に
良いんじゃないかな?自分も教会の雰囲気嫌いじゃないよ。
でも、突き詰めてくと・・・。おかしくない?って所が多すぎる。
それで、仏教を勉強すると、あらら?こんなすごい教えがあったのねって目からウロコだわ。 日本に"愛"の概念を持ち込んでくれたのはキリスト教ですから 現代のプロテスタントは禅宗に近いものだ、とキリスト教から禅宗に改宗した俺の師匠が言ってたよ
それはドイツ神学の事
アメリカなんかのいい加減な「聖書は英語で書かれてるんだぞ!」とか思ってる人たちの信仰が
変わるまでにはまだしばらくの時間がかかるだろうね >>892
他の信者を貶めるようなやつって最低だよな
そういう奴に限って根が腐ってるからいつまでも荒らしをしたりする >>894
繰り返すが彼らの今の信仰はイエスの存在自体疑うところから始まってる
イエスの存在なんか実証できませーんと認めてるんだよ
突き詰めると、彼らの神ってユダヤの神だから、イエスである必要ないんよ
彼らの神というのは人間の言葉では語ることが出来ないものだから信じることが難しい、ということがあり
イエスという神の擬人化をした新訳聖書という物語を通じて「(旧約の)神を信じる」
ということが得られれば良いわけさ
けどさ悟れば生まれ変わらないなんてのも実証不可能なんだよね
瞑想が心理的肉体的に有効なのは実証されているが
輪廻とかは信仰の部類に入るわけだから、やっぱり
千年王国を信じてる人からすれば、出家してまで悟らないとならないなんて反社会的
とすら見えるかもしれない
だから、しつこいが、あまり貶めあってはいけないんだよ
信仰はお互い認めあって、干渉しないことだよ キリスト教はバクティだからね
「大草原の小さな家」なんて河合隼雄も評価してたけど、キリスト教精神にのっとってるけど
インディアンの少年の信仰を主人公一家がかばったり、ユダヤ教徒と仲良くなったり、真の慈悲を感じる
「一神教は戦争を起こすから多神教がいい、というけどそんなに簡単に言っていいのか」とは
河合隼雄の言葉
一神教、多神教、無相の真理、どれもこれも「ストーリー」に過ぎない。
人間の知覚しやすいようにできた構造で、人間が生きている間だけしか通用しない ラーマクリシュナやダライ・ラマのように、お互いの宗教を尊重すべき。
良い仏教徒、良いキリスト教徒になれればいい
ダライ・ラマはキリスト教徒やイスラム教徒がテロを犯すのではない。テロリストはクリスチャンでもイスラム教徒でもないと
このスレで一日中煽りあってる人たちは、仏教信奉者ではない。
煽りが仏教に則っているとはいえないからね 毎日煽りにきてる人は、いくら口で仏教に肩入れしても仏教徒でも仏教の実践者でもない
ただ他者に勝ちたいと思って、すでに自分の煩悩に負けてる
そのことを自覚すること ケン・ウィルバー読んだ人います?
ちょっと興味あるんだけど ケン・ウィルバーは難しかったなぁ
諸宗教、諸神秘主義の主張がそれぞれ違うのは、光のスペクトラムと同じで、どれも同じ
真理をそれぞれの知覚の仕方で表現しているとかいう話しだったよね
ほとんど読んでないけど奥さんの闘病の本読んだらやっぱ人の子だと思った
ゴエンカさんは好きだけど、テーラワーダは枠組みに限界があるようなこといってた
キリスト教徒でもマイスター・エックハルトなんかは禅の人に評価されてるよね。
上田閑照さんとか鈴木大拙とか スマナサーラさんは他の宗教や大乗をぶっ叩くのが大好きなお方 >>896
ドイツ神学なんて言っても幅広すぎるだろう
ネオプラトニズムのことを言ってるのだろうが、主流ではないだろ
少し逸れるとカルトだ ウィルバー難しいのかぁ、ちょっと立ち読みくらいはしてみるけど
現代のドイツ神学者で代表的なのはカール・バルトじゃないのかな
キリスト教史有数の大神学者と聞くよ
禅的かどうかは知らないw
あんな大量の詭、、、wいや信仰のための飛躍の論理は非信徒の自分は尻込みしてしまう >>864
これ読んでみようかな!
へそまがり昔ばなし (ロアルド・ダールコレクション 12)
>昔ばなしの主人公は、ふつう「いい子」に決まってる。
だけどロアルド・ダールは、「いい子」が好きじゃないらしい。
シンデレラは、サイテーな王子に愛想をつかし、白雪姫は、競馬で当てて億万長者。
>赤ずきんときたら、ピストルぶっぱなして、それはもう…。
>ダールがこっそり教える、びっくりどっきり、ホント(?)の昔ばなし。
へそまがりダンマパダ、誰か書いて。 >>870
うんこくさい?初めて聞く名前だな
よく知ってんねそんなの 最近の本だが國分功一郎の『中動態の世界−意志と責任の考古学』もなかなかマインドフルな内容であった >>910
>まずはグリム童話からだな
残酷なシーンや性的な描写を加えたダンマパダを
書いてくれるってこと?すごい!とか思っちゃってごめん >>870
読んだけど預流なんたらのところは確かにこじつけっぽいなぁ
それ以外はまぁ、見たままだな >>893
なんつうか厨二病のフリーザって印象だな… マトリックスはそれまでの仮想世界ものを参考にしてるから仏教や神秘主義的にいくらでもこじつけられるしそれは大して意味ないと思うけど
雲黒斎はけっこうちゃんと勉強してるのでそれ系のブログで有名な連中の中では好感もてる >>917
哲学は理性の領域内のこと
神学は理性の領域外にある神への信仰を確保する為の理屈だよ
つまり、哲学や科学が進歩して人間の理性が捉えられる領域が広がれば
それに応じて神学というのはその領域外にある神について語られるものだ
従って神学というのは哲学などの言葉に影響されるのは必然なわけで
同一ではないよ >>919
んー例えばスコラ哲学とか神学でしょってこと。
ギリシャ哲学まで行っちゃうと数学+形而上学+神智学みたいになるけど >>919
彼が言ってるのはちょっと難解だけど最初の2行だけ見れば、哲学と神学排他的関係と言ってるように読めるな >>923
というわけで、数学も哲学も神学ももとは一緒でしょっていう認識してるわけです
ドイツ神学だけでいえばもろにスコラ哲学に直結する感じ >>925
どういうわけなのかわからんし、「彼」が誰だかわからんのだが
直結しないよw
例えば、カントは神≒道徳とした事に対しシュライエルマッハーは神は道徳に対立するものだとした
彼は「宗教の本質は直感と感情である」としたんだよ
ドイツ神学のど真ん中だけどスコラ学とは全く違うよね >>926
それって近代哲学じゃないのかどっちかいうと? ヒルティはストア派の影響を受けてて、ストア派は仏教との思想的類似も
指摘されているから、ちらっと読んだけど面白かったな
古今東西真理は共通するところもあるね
老荘も読んでて面白い
争ったりマウンティングをしたりしないように気をつけて、思想の差異や共通点を語るのも楽しいことだ >>927
レスたどってほしいんだが、近代の哲学と神学の話をしているよ >>929
ネオプラとニズムは哲学だって言ってたわけじゃないの?
>>915は? >>930
近代ドイツ神学が〜、という文脈でネオプラトニズムと言ったのだから、
当然シュライエルマッハーがいうところのネオプラトニズムだという認識で話をしているが
そもそもネオプラトニズムという分類ができたのは近代じゃないのか
哲学も神学も時代に即してアップデートするものなのであって
またカトリック、正教会、プロテスタントでは異なってくる
近代ドイツ神学の話をしているわけだよね
議論がかみ合わないっぽいので寝ますよ >>932
俺の認識ではマイスターエッグハルトだな
秋ナスと全然違うけど同じスコラ哲学(神学)でしょってこと >>933
宗教改革以前の神学者ですね
おやすみなさい エックハルトは中世スコラ学に神秘主義を持ち込んで異端視された
スコラ学というよりも、むしろスコラ学を超克しようとした人という理解なんだけど
あと、俺らにはあんまり関係ない事だと思うけど、
中世に於いても神学と哲学は別のものらしい
> 中世スコラ学
> 哲学は中世においても原理的には神学から明確に区別されていたが、
> 具体的には神学者の哲学として成立した. 仏教は途中までは哲学的だと思うけれど
生まれ変わりとか弥勒菩薩予言についてはハッキリ信仰だと思うわ
信仰は捨てろって訳だから、悟りは目指さんよ あーそうそう
そういうではスコラ哲学(の主流派)は誤謬を孕んでいると言わざるを得ないと思う。
まさに>>919の言うように
「神への信仰を確保する為の理屈」
になっちゃってるから
三位一体説の理論構築
になっちゃうんだよね。
いくら弁証論的態度が建前でも、(神でも新旧聖書でも福音でも何でも)此ありきという何か絶対的な前提立てちゃったら哲学とはずれていっちゃうかなやっぱし。
まあ命題がないと議論も出来ないけど。
エックハルトは神秘主義というより、いわばスピノザの神的な?ちょっと違うかしら…一切衆生万有仏性みたいなニュアンスだよね。
ピューリタンかメソジストか知らんが現代プロテスタントの人に神は何処にいるかと訪ねれば、「自己(もしくは貴方)の心中」と答えるだろうけど、そのニュアンスは上述のとはちょっと違ってて、バクティに近い傾向があるんじゃないかなという感じはするよね。
異論は認める。 神とか哲学などの妄想が好きな人がマインドフルネスやるのは大変じゃない?
マインドフルネスって妄想してもいいの? むしろ自我から離れなければ哲学にならんのと違うかなぁ
本来は
神に委ねること、これはマインドフルのことだよ、多分
だから、西田幾多郎もケンウィルバーは哲学の側から、クリシュナムルティは宗教家として
宗教の本質、瞑想の本質は共通すると言うんじゃないのかな
ただ、我々凡夫は宗教の話題は妄想になりやすいから注意したいよね 輪廻は因果律が分からないと理解できない。
因果律は無常、苦、無我が分からないと理解できない。
信仰と言うよりは超高度な理論。 >>942
一行目はわかる
二行目をもう少し詳しく 因果律は具体的には十二因縁。
十二因縁は無明を無くして初めて理解できる。
無明は無常、苦、無我を理解すると無くなる。 無明が無くなるとは?
もともと無い明かりが無くなるとは? 理論だと思ってるからピッチャー交代がいつまで経っても出来ない 無明は煩悩、誰にでもある。智慧が無い状態。
ある程度修行して、初めてそれが何か分かる。 差定:
04:00 a.m. 振鈴 臥禅
04:15 a.m. 起床 洗面
04:40 a.m. 朝のヨーガ(板橋理江さん指導)
05:10 a.m. 三帰依 五戒 般若心経読誦 微細な身体の瞑想
06:30 a.m. 朝食
07:50 a.m. 慈悲の瞑想
08:50 a.m. 経行(きんひん=歩行瞑想)
09:20 a.m. アーナパーナサティ
10:20 a.m. ウォーキング・メディテーション(御岳山周辺)
11:30 a.m. 昼食
01:00 p.m. 経行(入浴開始)
01:30 p.m. 坐禅
02:30 p.m. 経行
03:00 p.m. 坐禅
04:00 p.m. 青空へのヨーガ(板橋理江さん指導)
05:00 p.m. プラーナーヤーマ+坐禅
06:00 p.m. ダルマシェアリング(質疑応答)
07:10 p.m. 坐禅
08:10 p.m. 立禅(站桩)
08:30 p.m. 坐禅
09:30 p.m. 終了 就寝 むしろ哲学好きだから瞑想に興味持つんじゃないか
ある種の探求心があるタイプの人間だから
爬虫類脳だけで生きてるタイプは座ってみようとも思わんだろう 理解するのではなく
身に染みるわかりかた
ができるかどうかは大事かもね 豊徳寺のHPにある自己の解決は是非読んでほしい
浄土真宗のお坊さんが決着をつけた様子が書かれてます
ヴィパッサナーのようにもみえるけど聞法なんだよね 他力の人は自らすすんで何かをしたりするのかな
自分で何かを打開しようとしたりするのかな
物凄い努力をして成しえた偉業も他力なのかな それを他力と感じ感謝できる人が成功するんじゃね?
他力本願と自力本願の境目にマインドフルも悟りもあるんじゃないか? 他力ったってそれを受ける為の努力は必要だろうし、実際問題どんなに努力をしていても最終的に結果を出せるかって境目は運みたいな見えない力の後押しな気がする。 自己をはこびて、萬法を修証するを迷いとす。萬法すすみて、自己を修証するは悟りなり。
禅も浄土真宗も同じ他力だよ インドのバウルなんかには
私は馬車であなたは御者
あなたがなさるように
私は動きます
とか信仰歌があるよ
神様をあなたと呼ぶ歌
とても多いよ 浄土真宗の他力は南無阿弥陀仏を信じて唱えなさいというだけの事だからね
スレ的に言えば、最初はサマタだろうけど
他力、阿弥陀様の力を信じなさいと、それは概念的に仮に設定されたもので
実態はマインドフルネス、ヴィパッサナー、セルフモニタリングに近づくんじゃないかな
キリスト教の信仰だって自分の原罪を新約聖書という物語の中で言葉を通して観察し
イエスが全ての原罪を背負って死ぬことで、自我の消えていくことを表象してると思うよ
黙示録というのも高い悟りで出会うとされる魔境に相当するんじゃないか
そこを超えて神の国=悟りに至る
人物イエスの存在を信じなくても、悟りへの物語としてのイエスを信じましょうというわけでしょ
先人の残した悟りへの修養の「形、型」なんだと思うな
逆に坐禅会でも、最後に読経して仏様に手を合わせて感謝をして終わる
そのようにして終わるものとして坐禅するわけだよね 禅寺住んでみると
本堂掃除したり
仏像とか掃除したり
あちこちお供えしたり
信仰的態度が産まれる
きっかけがいっぱいだと思うよ
教えはそんなことかいてないけどさ >>935
徳のある人間は、口の中や外見、また顔の形が正方形になるという
記述がある。だれか正方形になるまで修行できた人、いる? 四角い顔のイメージが分かんないけど具体例を下さい。
丸顔位なら分かるけど四角はなかなか、でも小学生の時同級生で顔が台形っぽい人なら居た。全然怒らないし仏っぽい気はした。
角ばってるとかはたまにある。片桐はいりとかザブングルとか。
けど正方形は居なさそう。人種じゃないですかね? 頭の中が考えで一杯の人、苦しみ悩みで一杯の人は、阿弥陀仏に自分を投げ出して
進退のすべてを任せるというのが、禅で言う「放下著」の態度なんでしょうね
>>957
キリスト教の新約の物語の中でというのが面白いですね
菩薩もイエスもマリアも人間が内面に置き去りにした魂の原型と捉えられるのかも
その魂の原型は、これが自分だと思っている個人の自我よりよほど大きい 実践的な話ですが、慈悲の瞑想をしているといろいろな感情が出てくると思いますが、
どう対処していますか?
慈悲とは違う反対の感情や思考も生じるときは、中止するか、それも自然現象として観察の
対象とするか。
実践している人にどうされているかおたづねしたい 文言に集中すればいい
すなわちサマタね
でも観察して消えるなら観察してもいい
感情に飲み込まれるならやめてもいい
止めたら何度でも再挑戦したらいい
と思ってやってます 自力での瞑想というのはモードチェンジがなく自我のままで瞑想を続けるってこと 一切衆生もまた、無常、苦、無我であると考察する。
慈悲もまた、無常、苦、無我であると考察する。 >>969
サマタとか呼吸法で気持ちを落ち着けてからやるってのが主流ですね。10分とか書いてる本もあるけど普通に集中できたら移行して良いんじゃないですかね?
ブンシャカムニムニの弟子達もサマタとヴィパッサナーを交互にやってたらしいですし、ぶっちゃけ大抵の瞑想は準備運動としてサマタをするってのも良いかもしれません。ソースは瞑想の学校だったかな。 >>970
なるほど、文言に集中・・・というと、サマタですね。となると定型文がいいのかなあ
自分はそのときしっくりした言葉を自由型文でやってるんですが。
観察してもいい、飲み込まれるなら中止してもいい、再挑戦してもいい、というのは自他に寛容な姿勢ですね。
>>973
ふむ、サマタとヴィパッサナーを交互に・・・
こんな感じでやってるかなぁ
どうしても慈悲に没頭している中で、対象によっては悲しみや、抵抗感がでる。
そしてそれはもっぱら相手ではなく「自分の問題」なんですよね。つまり、愛する人に悲しい目に
あってほしくない、嫌いな相手の幸せにどうしても抵抗がある・・・
その感情に気づく(ヴィパッサナー)も、自分を解放する一つの方法かなと思って観察してるんですが、
なかなかそういうソースがなく質問させてもらいました。
とりあえず自分の気質として他者の幸福を祈りたいし、昔よりは少しは慈悲も定着してきたかなとは思います。 今から一時間ほど散歩してこよう
慈悲の瞑想をしながら
皆さんに幸せがありますように 慈悲の瞑想ってさ、普通に般若心経を読経してそのあと
願わくは、この功徳を以(も)って 普(あまね)く一切に及ぼし 我等と衆生(しゅじょう)と 皆共(みなとも)に仏道を成(じょう)ぜんことを
十 方 三 世 一 切 仏
じーほーさんしーいーしーふー
諸 尊 菩 薩 摩 訶 薩
しーそんふーさーもーこーさー
摩 訶 般 若 波 羅 蜜
もーこーほーじゃほろーみー
と回向すれば経典読経の功徳を一切衆生に分け与えるだけで良いんじゃないの?
この回向文を読み祈ることで利他の心が日々思い出されるものだしね もちろん読むお経は般若心経じゃなくても由緒のあるお経なら法華経でも舎利礼文でも金剛般若経でもパーリ聖典の日本語訳でも何でもいいと思う 言葉で言うだけでなくそれでちゃんと自分と全ての対象に慈悲の念を持って祈れるならいいけど、なかなかそうできないから念じる対象をいちいち細かく分けて祈る慈悲の瞑想があるわけで いや、一切衆生の中には私を嫌ってる人わたしが嫌ってる人全て念頭にいれて回向してるよ。
ってか、嫌ってる人とか嫌いな人とか具体的にしてしまうと慈悲の瞑想が無理矢理になってしまう。
回向文の中で漠然と嫌ってる人嫌いな人の幸せも祈る方が(この時点で人物が具体的になることはあっても)自分には向いてるわ。 そこは向き不向きでいいんじゃないかね
それぞれのペースもあるし >>976
経典読経の功徳って
経典を読経したら功徳があるってエビデンスあるの?
論文あるの? エビデンスが無いとやれないって人は無理してやらなくていいのよ 輪廻の理論も高度かもしれないが実証性無いよな
信じたい人は信じればいいけど、それは信仰だよ >>981
ネタだよね?
怒るのは苦しい、人を助けるのは楽しい、真理を理解するのは善い。
いちいちエビデンスいらないよね、エビデンスがあったとしても、それが正しいというエビデンスは?
自分で確かめるしかないでしょう。 布施の功徳のエビデンス
先祖供養することの科学的意義
こういうのも一々証明しないといけないわけ? 科学信仰は最早カルトのレベルだな
仏陀が言ったから信じるのが信仰で、オクスフォードやらハーバードやらが出した論文を信じるのは信仰ではないと? 経典を読むだけでどんな功徳があるの?
読めば読むほど功徳があるの?
1回読んだ人より10回読んだ人のほうが功徳があるの?
経典といっても色々あるけど、どの経典が一番功徳があるの?
長い経典ほど功徳があるの?
短い経典を何回も読んだほうが功徳があるの?
キリスト教の経典を読んでも功徳があるの?
イスラム教の経典を読んでも功徳があるの?
仏教の経典だけに功徳があるの?
経典を読むだけで功徳があるの? > 仏陀が言ったから信じるのが信仰
そんなこと誰も言ってないw
お釈迦様は自ら確かめなさいと言っているのだから
自ら確かめていないものを「高度な理論」だからといって有難がるのは信仰だ
おっしゃる通り、科学だから信じるという信仰と何ら変わりない 功徳があると信じるのは勝手だし、信じたければ信じればいいと思う
般若心経の話をした人は、「お前らもやってみろ」と言っているわけではない
「こういうやり方で良いと俺は思うんだ」と、彼の考え方を述べただけ
彼に対して反論する必要なんか何もない
功徳があると信じられないなら読まなければいいし
あるのかないのかエビデンスを出せ、というのはナンセンスだよ 功徳にしても、先祖供養にしても、
慈悲が乏しいと、これらがわからない。
これらが迷信と言う人達は根本的に本当の慈悲が欠けている。
何故かと言われても、そう答えるしかない。 どんな経典でも、一生懸命読めば禅定に近い状態になるから、瞑想的効果はあるね。
その経典が真理や慈悲に関するものだった時には相当な功徳だろうね。 新スレ立てました
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1538917812/l50
ところがスレナンバー15のところ14にしてしまいました。
次スレは16でお願いします。すみませんorz 思うに自我を減らし慈悲が身につけば、他宗教の教えや、文学や映画も功徳を生むんじゃないだろうか >>996
「あなたが本当に立派なクリスチャンだったら、あなたは立派な仏教徒でもあるのです」かあ
ダライ・ラマはなんかの集まりで、どっかの司教に「すばらしいクリスチャンを紹介します」と紹介され、ダライ・ラマもそのあとその司教を「わたしも素晴らしい仏教徒を紹介します」と返したそうな。それでお互い笑い合うところがいいな
まあスマさんだったら切れそうな気がするが さっき、公園でコーヒー飲んでたらエホバにナンパされてしまったw
とても感じの良いお兄さんだったのでつい話を聞いてしまったが
勧誘的な話を一通り聞いたあと、わたしは聖書は悟りの書だと考えてます、と言ったら握手して帰ってしまったw
どうぞ沢山の方をお救いなさってください、と言っておいた
彼は人を幸せにしたくて活動しているのだろうからね
気になったのは聖書解釈に固定的な「正解」があってそれを聖書の中で辻褄合わせしていく
みたいな話だったこと
聖書は色んな読み方を許すから古典の中の古典になってるわけで
そもそも、神様の言うことなんか我々凡夫の論理で辻褄が合わなくてもいい
そんなことを全部説教したら彼の信仰を貶めることになるから言わなかった
彼に悟りの光が現れますようにと願ったよw よっこらしょ。
∧_∧ ミ _ ドスッ
( )┌─┴┴─┐
/ つ. 終 了 |
:/o /´ .└─┬┬─┘
(_(_) ;;、`;。;`| |
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