--佛教論議の伽藍スレ-- 第二巻
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仏教に関するKeyword 「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、 原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、 激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。 尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。 基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、 もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。 -------------------当スレの戒律(マナーとルール) ------------------- 条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可) 2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう) 3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。 4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。 5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。 (1950年の世界仏教会議にて決議した) 6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう) 7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。 8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!! 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 いや、比丘という言葉に反応しただけw 徒然草に見られるように日本にも比丘や比丘尼や優婆塞、優婆塞という言葉はあったのに何故一般に普及しなかったのだろうか? > 比丘や比丘尼や優婆塞 たとえば 南伝の場合は 四向四果 預流 − 須陀洹(しゅだおん) 一来 − 斯陀含(しだごん) 不還 − 阿那含(あなごん) 阿羅漢 − 応供(おうぐ) _ _ _ 北伝の場合は …衆生皆菩薩 衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性がある 一切悉有仏性(いっさいしつうぶっしょう)などの如来蔵思想や… たとえば 大乗の場合は 優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)とか 比丘(びく)・比丘尼(びくに)など 「それ以外の衆生と分別するな!」 「一切悉有仏性だ!」みたいな感じ? >>586 それも面白い研究テーマw まあ、(比丘尼はともかく)「比丘」という呼称は、 ―今現在もそうだけど―内々の(自負のような)自称としては使用されても、 昔から、一般には使われていないようだし。 日本に入ってきた時点で既に、(サンガという組織が無い状態として)「僧(尼僧)」一択に近かったのかも。 しかも、女子も少ないから、自然的に「特別な存在」として「比丘尼」という呼称は使用された、と。 また、在家信者に至っては、「信者、信徒」といった 『積極的信仰を持ち』或いは『その規範に則って生きる』ような人物は、鎌倉地代以降までは存在しなったろうし、 鎌倉地代以降であっても、「ウバソク(ウバイ)」という音写語を使ってまで、 わざわざ差別化して信仰や庇護者・施与者であることを強調する必要もなかったろうし。 寧ろ、神仏の加護を祈願するだけの、大衆、マスでしかないだろうし。 (で、檀家制度も、実は、その「顔の無い大衆性」の上に乗っかってるんだろうし。今でも。) だから、日本に於いては、仏教伝来以来ずtっと、「一般人」と「僧」(僧侶)という二分だけで十分だったのでしょう。 正法眼蔵で一切衆生悉有仏性をしつこく解説していた道元は同書で比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷という言葉もけっこう使ってるね。 でも道元は阿含経も読んでたけど本命は法華経だったから、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷よりもより好んで用いた用語は善男子、善女子かな? 居士も使ってたと思う。 比丘というと具足戒を受けた仏弟子のイメージがあるのかもしれない!? >>540 >一方で、心臓移植で人格が変わる、 >つまり脳に与えられずに心臓の違いで意識が変わるなんてこともある。 臓器移植(や輸血)については、 肉体が持つカルマを混乱させるため基本的には望ましくありません。 なので、臓器移植ではなくて“人工臓器(及び人工血液)の開発”が急務なのです。 〜するのが、神智学の採る立場です。 つまり、細胞の一つ一つにまで個人の情報データ(意識を含む)が刻まれているとということかな...。 だから、他人の肉体細胞を取り込むのは止めるべきです。 (もちろん、それはエホバのように輸血否定までして死を選択するというものではない) たとえば、 植物にも感情(意識)があるらしいということは、 すでに何十年も以前から科学実験によって確認されています。 今日、一部農家では野菜果物の成長を促進する音楽を聞かせるところや、 観葉植物にも優しく声を掛けていると良いともされています。 ならば、その感覚器官は植物の中のどこにあるのか? 植物の生体の一体どこに脳ミソや脳神経組織ニューロンがあるというのか? だから〜こうしてみると、意識そのものというのは脳ミソでも脳神経組織などでもないのだということが理解されるのです。 脳ミソも神経組織もそんなものはただの“意識”の道具にしか過ぎないのだから。 全国には、巨木を切り倒して呪われたという話は多く、 また、今日では癒しのパワーを受けるということで、御神木や巨木に抱き着くことがブーム。 インドにおいても樹下は生命の宿る神聖な場所とされ、ゴータマを含めて過去仏は特定の樹下(菩提樹下)において成仏したという。 情報: (植物にも感情がある! それはまるで人間のようだ) https://matome. (NGワードにて「ネバー」を変換して).jp/odai/2147522773530177101 >>578 >「具体的に何をしたらいいのか」という「方向性」「方法論」「事例」無しに”道”はなかろうて。 >また、それこそ「何でもあり」でしょう。 “「方向性」「方法論」「事例」無し”で良いという話ではなく、 ゴータマの説いた成仏法が『三十七菩提分法』であるとしてみた場合には、 この中の「八正道」は、もちろん道を歩む上での必要な精神態度であることは当然としても、 どちらかということ、これは完成者が示し得る精神性の状態 ---つまり結果---的な意味合いが強いのではないか? ということ。 例えば、“八正道の「正見」(正しい見解)”といった場合に、 我々は物事について正しい見解を持てないからこそ苦悩しているのであって、 最初から正しい見解が持てていれば何も苦悩していない...。 つまり、正しい見解というものは完成者の状態のことなのであって、 我々というのは、そうなれることを目指して修行していくんだという意味です。 なので、 具体的な修業についての手法部分というのは、その他の“六科” (菩提分法というのは全部で“七科”あって、八正道はその中の一つである) において説かれているということかな? と。 しかし、内容の意味合い的にはかなり重複しているので、 実際上においては八正道の他というのは二科程度なのでしょうかね...。 ---------------------------------------------------------------------------- 【三十七菩提分法】 1. 四念住(四念処) 身念処、受念処、心念処、法念処 2. 四正断(四正勤) 断断、律儀断、随護断、修断 3. 四神足(四如意足) 欲神足(欲如意足)、精進神足(精進如意足・進如意足)、 心神足(心如意足・念如意足)、観神足(観如意足・思惟如意足・慧如意足) 4. 五根 信根、精進根、念根、定根、慧根 5. 五信 信力、精進力、念力、定力、慧力 6. 七覚支 念覚支、択法覚支、精進覚支、喜覚支、軽安覚支、定覚支、捨覚支 7. 八正道 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定 > 日本に於いては、仏教伝来以来ずっと… やはり 「南伝と北伝は違う!」 という感じで おじゃりますな? _ _ _ > 正法眼蔵で一切衆生悉有仏性をしつこく解説していた > 道元は同書で比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷という言葉もけっこう使ってる > 道元は阿含経も読んでたけど本命は法華経だった > 比丘というと具足戒を受けた仏弟子のイメージがあるのかも 大変勉強になります ご教示ありがとうございます 生きとし生けるものに悟りの光が現れますように 一切の如来の御足を礼拝し奉る オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m > 完成者が示し得る精神性の状態 たとえば 無明に依存している、おじゃるが観察するのか? あるいは 無明に依存することのない 般若の智慧と慈悲として(おじゃるが?)観察するのか? 自在力(神通力) 四神足 智慧をもって → 思惟観察する _ _ _ 円成実性を見ずして (無明に依存して)依他起性を見ることはできない という感じで おじゃりますな? >>587 ナンデンはよく知らんけど、 基本的に原始仏教➡説一切有部などの諸派➡大乗又は上座 という流れなので、 ビクビクニウバソクウバイって言葉は上座も大乗も同じく使うはずですよ。 四向四果は、アラカン以下の覚悟の段階なので、ビクビクニウバソクウバイとは別の話。 ビクビクニは男女の出家者で、ウバソクウバイは在家の仏教徒のことだから。 昔は役のウバソクなんて呼んでましたんで、仏教周辺では使ってて、現在は廃れただけです。 たしか日本領域(変換出来ない)とかの古典でもウバソクとか出てたはずですよ。 > 昔は役のウバソクなんて呼んでましたんで、仏教周辺では使ってて、現在は廃れただけです そうだったんでつね? 知りませんでした さすが元密教僧で おじゃりますな? いつも ご教示ありがとうございます m(_ _)m > 日本領域(変換出来ない) 日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)? 日本霊異記? 成立年ははっきりしないが、序と本文の記述から、弘仁13年 (822年) とする説がある 著者は奈良右京の薬師寺の僧、景戒である 景戒は 下の巻三十八の自叙伝において妻子とともに俗世で暮らしていたと記しており 国家の許しを得ない私度僧に好意的で 自身も若い頃は私度僧であったが後に薬師寺の官僧になったという >>596 そう、その「日本リョウイキ」です。 (^。^)変換面倒くさかったです。すんまそん。(笑) セブン氏はセブン比丘と尊称すればいいの? それともセブン和尚? セブン尊者? セブン長老? セブン上人? セブン禅師? 曹洞宗の場合は 道元禅師 臨済宗の場合は 江戸時代に白隠禅師 禅宗系なら せぶん禅師匠みたいな感じ? 正しく生きる道は一つしかない 〜微笑みが絶えない八正道〜 「幸福になりたければ、死後永遠の天国に行きたければ、唯一の神を信じなさい」と言われると、そんなものがいるか否かも調べることなく信じるのです。 「罪を悔い改めなさい」と言われると、罪を犯した覚えが全くないにもかかわらず、また、「私は何の罪を犯したのか?」と相手に訊くこともなく、涙と鼻水を垂らしながら懺悔して、犯したといわれる、わけもわからない罪を悔い改めるのです。 「唯一の神を朝晩、または一日五回褒めたたえなさい」と言われると、真剣にやるのです。 「全知全能の神なのに、毎日讃えたり、祈りをしたりしないとダメなのですか? 神は認知症ですか?」とは問わないのです。 地理的にガンジス河の源流はどこかと皆知っているにもかかわらず、「神の髪の毛からその河が始まる」と真面目に信じているのです。 ひどく汚染されているその河に日の出前に飛び込めば、すべての罪が洗い流されて心が浄化して幸福になると信じるのです。 罪とは、汗と埃のことなのでしょうか。罪とは、怒り憎しみなどではないでしょうか。 馬鹿を信じる者にとって、そんな疑問はどうでもいいのです。 河で、また洗礼することで、心の罪が洗い流せるのであれば、人間どもは必死で魚やカエルや水蛇、カメなどを礼拝したり、拝んだりした方が理にかなっているでしょう。 なぜならば水の中で生まれて生きていて、水の中で死ぬから、その生命の心の清らかさは言葉で言い表せないほど高いはずです。 「南無妙法蓮華経」という宇宙大曼荼羅の呪文を唱えれば、商売繁盛、家内安全、学業成就、無病息災、ではなく、世界支配までできると思っている方々は、決して、ふざけているわけではないのです。 真剣真面目なのです。 しかし結果は、皆に煙たがれる、家庭は崩壊する、試験は落第する、お医者さんの腕がなければ病気で死ぬことです。 http://www.j-theravada.net/howa/howa160.html 空に足跡なし 〜現象に対する無執着は解脱です〜 概念の並べ替えで、面白い新しい概念、新しい思考が現れたと思いがちですが、必ずしもそうはなりません。 実在もしない、理屈にもならない、概念思考などはいくらでも作れます。 思考の、妄想の遊びをする人は、やがて自分が考えたことが本当にあると勘違いするのです。 永遠の天国、永遠の地獄、永遠の魂、絶対的唯一の神などの概念は、妄想と戯れた結果なのです。 このような概念は、道の重さを考えて出した答えのようなものです。答えを出しても、その答えが成り立たないのです。 インドの宗教家、哲学家たちがおおいに議論した十種類の項目がありました。 一、魂と身体は別々なものか 二、魂と身体は同一か 三、世間は有限か 四、世間は無限か 五、世間は永遠か 六、世間は永遠ではないか 七、真理に達した人は死後存在するのか 八、真理に達した人は死後存在しないのか 九、真理に達した人は存在すると同時に存在しないのか 十、真理に達した人は存在することも存在しないこともないのか。 この十問に、お釈迦さまは回答しませんでした。これらは実在しない概念の空回りだからです。 ウサギの角について、「長いですか? 短いですか?」とさまざまな議論をするようなものです。 仏教の立場は、長いか短いか答えることではないのです。まず、ウサギの角が実在するかしないのか、質問者の方で立証しなくてはならないのです。 魂と身体が同一か異なるかと答える前に、「魂の存在」を立証しなくてはならないのです。 人間は幻覚を作って、この幻覚が実在すると勘違いして、それからその幻覚について語ったり、対話したりします。 それは時間の無駄。どこにも進まないのです。 様々な幻覚を生み出す親玉は、「私がいる」という幻覚です。 仏教を実践する人は、まずその幻覚を破り、悟りの第一段階に達するのです。 その人には、この世で現れる全ての疑問に回答があります。だから、悟った人に「疑」はないのです。 >>601 続き ヒンドゥ教の哲学では、我々の現象の世界は幻覚(mâyâ)であると語る場合があります。修行でこの幻覚を破ることを勧めているのです。 真理は一つであって、その真理に達すること(梵我一如)を最終目的にしていますが、決して解脱ではないのです。 個我が消えて、真我に達することなのです。これも何かの境地に執着することです。解脱にはなりません。 大乗仏教で語る「法身」も似かよった考えです。真理という絶対的境地を設定して、そこから現象の世界のありさまを説明する。 このような思考には、一つ弱点があります。不二である真理から現象の世界が現れたならば、現象である個が幻覚を破って真理に達しても、その真理は限りなく現象の世界を作り続けているでしょう。 ここで、反論する必要さえもないのです。 全て、人間の頭の中で考える概念に過ぎません。妄想概念の次元を破る方法を語っているのは、ブッダだけなのです。 >>602 続き Sankhârâ sassatâ natthi. 現象には常住、永遠、実体、といえるものはありません。一切は因縁により一時的に現れる現象なのです。 因縁の働きを発見して、一切の現象に対する執着を捨てることを語っているのは、ブッダだけです。 ですから、仏教以外、現状では解脱の道を語る宗教はありません。 ヒンドゥ教などで語っている真理の境地は、「現象の世界の裏」なのです。一つである真理の裏と表の考えなのです。 仏教の涅槃は、現象の世界の裏ではありません。「無常の裏に、無常でない涅槃がある」と言わないのです。 「涅槃の境地」と、「仏教以外、解脱に達する道はない」ということは、我々の理解能力の範囲を超えているのです。 ですから、今月の説明はとてもわかりにくいと思います。苦労して理解しようとしても、その理解も知識の一つになるので、現象でありパパンチャなのです。実践して経験する以外、涅槃について語れないのです。 大般涅槃経でお釈迦さまがこのように語ります。 「涅槃に達するためには、四聖諦を体験しなくてはならない。その四聖諦を語っているのは、仏教だけです。解脱に達するために八正道を実践しなくてはいけない。これも、語っているのは仏教だけです。 だから、第一の覚者も、第二の覚者も、第三の覚者も、第四の覚者も、仏教にしか現れないのです」と。 http://www.j-theravada.net/howa/howa148.html 宮崎哲弥氏は >無霊魂説、無我説が究極の真理であるならば >「輪廻転生が存在しない」のは理の当然である 『新世紀の美徳』(朝日新聞社) と主張し彼が信奉する中観仏教正系帰謬論証派では輪廻を否定しているとしています。 逆に、宮崎さんは『憂国の方程式』(PHP)において唯識思想を 批判してこう書いておられます。 >唯識とは、まさしく、仏教のヒンドゥー教への融解のはじまり、 仏教解体の端緒となった「反動思想」である。 >阿頼耶識を個我の根本識、対象世界の諸法の根本因と看做すこの説は、無我説の意義を薄め、中観の空思想と鋭く対立した。 >仏教の認識論的 革命性に耐え得なくなった知的怠惰がインドの土着宗教、 神秘思想への回帰を促したのである。 >(中略)かかる仏教観が三島自身のものであったとしたら、彼の仏教理解は極めて浅薄なものであったと断ぜざるを得ない。(P130〜P131) パパンチャ?ということで、とりあえず http://www.j-theravada.net/kogi/kogi131.html … 六つの感覚器官(眼耳鼻舌身意)に、外部の情報(色声香味触法)が触れると それぞれの器官に認識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)が生じ そこから感受と知るという働きが生まれるのです … 知るという働きの後には、ヴィタッカが生まれます ヴィタッカは漢訳で「尋」、意味は「考える」です じっくり考えるのではなく、瞬間的に考えることです この瞬間的に考えることをヴィタッカと言います … 妄想を作る働き ヴィタッカは「花」とか「人」とか「建物」などと瞬間的に考えることですが その後に、欲や怒り、憎しみ、悲しみ、後悔 嫉妬などのさまざまな感情が湧き起こってきて、頭の中でごちゃごちゃ考え始めるのです これをパーリ語で「パパンチャ」と言います パパンチャは訳しにくい言葉ですが、「現象」とか「妄想」という言葉が一番適切で、理解しやすいでしょう 実際には無いものを有ると考えて、実体化、固定化することです _ _ _ 縁起している世界の中において (空性に依存しないものは)存在しないにも関わらず (空性に依存しないものが)有ると思う虚妄の執著である。遍計所執性 無明に依存して 無いものを有ると考えて、実体化、固定化して 「…である」と定義することはできない 「…である」ものではない アートマンである。という『想い』が、現れ、変化して、滅している > 輪廻を否定している http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html 渇愛(タンハー) … 無明から渇愛が生まれるのです 無明と渇愛が絡み合って、無始なる過去から(輪廻を繰り返し)終わりなく苦しみをつくり出しています 客観的に自分を観ることによって、無明と渇愛を消していきましょう、というのがお釈迦さまの教えなのです https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92 無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている 真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている。無明薫習 http://www.kisc.meiji.ac.jp/ ~hirukawa/anthropology/theme/otherworld/samsara.htm シパ・バルドゥ 再生へ向かう迷いの中有 http://www.asahi-net.or.jp/ ~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3 曹洞宗 内山興正 「霊魂はある」「いま貴方がたたかっている相手がそれなのだ」といわねばなりません 「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいます 仏教では昔からのインド人の信仰であった輪廻転生説を受け入れ,そのまま説いているわけです _ _ _ ↓唯識系の瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合は http://reigaku.jugem.jp/?eid=424 … 我愛と戯論と善悪業により輪廻を繰り返す 「宮崎『ただ、アートマンがないとすると、輪廻の主体や自業自得の法則の当体とは一体何か。仏教はこの問題を抱え込んでしまった。』」(p.218) 佐々木氏は要素をアビダルマ的に捉えていて 「その要素が集合したり雲散霧消したりする現象のことを無我と言い表しているだけで、それらの要素を集合させるエネルギーが輪廻して来世に伝わっていくと考えることに違和感はない。」と言う。 しかし、龍樹の中観派はその要素の実在性を否定するのだから、そうした関係の束でしかない以上自業自得の原則も成り立たないと、宮崎氏は言う。 「無我輪廻説というのは、無我と矛盾するどころか、無我だからこそ輪廻があるとする説です。 ・・・主体、当体『この私』などと仮設されたものは実体的でも固定的でもなく、この一刹那も留まらず変化し続けている。縁起し続けている。昨日の自分は今日の自分と同一でない。 しかし完全に異なってもいない。この流動は誕生も死も関わりなく、ライフタイムを超えてずっと続く。こうして輪廻が成り立つのだとする。」 だから同一性のある主体がないなら、 「自業他得でも他業自得でもかまわないじゃないか、という話になってしまいます。無我輪廻説だと、おそらくかまわないのではないかと思われます。持続しているものはあるが、無我なのでそれに自も他もない、ということですから。」(p.219) とそんなふうに宮崎氏は述べる。 (ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』佐々木閑×宮崎哲弥 もう一度リセットして仏教を考えてみたい人に) >>607 佐々木が言ってる要素を集合させるエネルギーが仏教では行とか業と呼ばれるもの 行(業)によって識が形成され識が母胎に入ることによって名色は成長する >>604 いくら中観が空思想だからといって輪廻までは否定していない 龍樹も無明に捉われたものは輪廻すると述べている で、今度は 「サンサーラ」の語義解釈の問題になる、とw 三世に跨る暴流(繰り返し)か、今生で自覚される暴流(繰り返し)か。 ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。 龍樹も、同じように、十二支縁起を、識(意識)を中心とするこの世からかの世への生死の流転として説明するのである。 具体的には、第二六章の最初に「無知(無明)に覆われたものは、形成力(行)によって再生に向かう三通りの行為をなすが、それらによって、趣(来世に住するところ)に赴くのである」と述べて、 次に「形成力(行)を縁として、意識(識)は、趣に入る」と説明している。 http://manikana.la.coocan.jp/essay/reincarnation3.html おじゃるは(「仮設としての」という意味として)輪廻肯定だけど、とりあえず https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB 輪廻 - サンサーラ 仏教内における輪廻思想の否定 ブッダの教説は 輪廻の存在を認めるものなのか、否定するものなのかという議論は 現在も、少なくとも日本の仏教学会では続いている 現代の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、「ブッダは輪廻を否定した」という主張が少なくない 松尾宣昭によれば、「輪廻の否定」には、ブッダが (1)「そもそも輪廻は存在しない、と考えた」という見解と (2)「人は輪廻に留まるべきではない、と考えた」という見解があり 両方とも輪廻を否定しているものの、その意味内容は全く異なるとする (1')「ブッダは輪廻の存在を否定していたが、当時の人々が輪廻の観念に縛られていたため、仮に是認した」だからこそ (2')「輪廻という想念に留まるべきではないと説いた」として意味を読みかえる場合に、両立する このような立場を支持する記述はパーリ聖典には見出されず 「修業未完成者は死後輪廻する、ゆえに修行を完成させて輪廻から解脱せよ」 という趣旨の「輪廻は存在しない」という説とは反対の言葉が多く見出されると述べる 一方で パーリ聖典の「決定的資料性」を否定し ある種の「仏教の本質(涅槃?)」を想定することで そこから帰結的に輪廻否定(涅槃?)が導出されるとする立場もあるとする ↑『涅槃は輪廻ではない!』みたいな感じ? 【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】6 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/300 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/305 305 神も仏も名無しさん sage 2009/01/19(月) 12:43:38 ID:gozG82uQ >> 279 だからそれは漢訳などの伝統に従っているだけで、 (「輪廻」「来世」「前業」などは全て漢訳。我々は、未だに日本語やパーリ語でもサンスクリット語でもなく、 定義の不明な第三外国語(中国語)を滑稽にも使用して議論している) 本当の意味は「世界」「世の中」という程度の意味なんですよ。そういうメタファー・修辞表現なんです。 メタファーを物理的事実と混同することが間違いの元です。 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/306 306 神も仏も名無しさん sage 2009/01/19(月) 12:48:30 ID:gozG82uQ >> 300 そのチャプチャプと音を立てて流れること、この「流れること」がサムサーラで、漢訳すると「輪廻」という言葉なんだな。 (オカルト的な)生まれ変わりという概念とは関係ない。 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/309 309 神も仏も名無しさん sage 2009/01/19(月) 13:17:54 ID:gozG82uQ サムサーラ→輪廻→生まれ変わり と訳した後で、逆にサムサーラの意味が生まれ変わりであると誤解することは、 culture→文化 と訳した後でcultureの意味は、文に化けることなんだ、と分けの分からないことを言い出すようなもので、ギャグとしても低レベル。 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/312 312 神も仏も名無しさん 2009/01/19(月) 13:34:47 ID:gozG82uQ >> 310 私の理解は、中村氏の>>225 の解釈と相違ありません。 語源は「流れること」「走り回ること」という意味で、「生まれ変わり」という意味はありません。 >南方上座部でも世間といった意味で用いられている、ということでしょうか? そんなに単純なことではありません。彼らも魂の生まれ変わりとは考えていないが、 心のエネルギーが次々と生滅していく現象と考えているようです。 〜後略〜 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/367 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/368 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/369 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/380 380 神も仏も名無しさん sage 2009/01/19(月) 23:09:05 ID:gozG82uQ >> 369 >『PTS』1.『モニエル』『アプテ』3. が語釈として出しているTransmigrationは輪廻転生に他なりません。 一体何をやっているのか・・・循環論的な混乱に陥ってないかい?? 英語でも、transmigrationの第一義の意味は「移動」であって、輪廻転生は後付け。 samsara「流れること、流転すること」にtransmigration「移動」という訳語を当てたので、漢訳 の「輪廻」と合わせてsamsara=transmigration=輪廻となっているのであって、 samsaraを英語辞書で確認してtransmigrationだから輪廻転生などというのは、 本末転倒、というか、何の説明にもなっていない。詳しい情報を書いてくれることはありがたいけど。 ともかく、transmigrationは「移動」であり(生まれ変わりという意味はない).『モニエル』『アプテ』も samsaraは第一義は”going or wandering through ” ” Course, passage.”であって、 単に「流れること」であることは明らか。「生まれ変わり」というのは後付の派生的なものでしかない。 しかも誤訳から逆算して原義に組み入れてしまった可能性が高い。 生死についても、仏典では頻繁にメタファーとして使われていて、本当に「生きる」「死ぬ」で使われている 例は少ない。正確に訳す場合は「死の境地」「死の境涯」「死のようなものである」と訳している。 だから「生死と訳された言葉がサムサーラで〜」というのも、何の説明にもなってない。 >辻先生の『ウパニシャッド』でも原先生等の『インド思想史』でも輪廻は生まれ変わり死に変わりの経巡りを意味しています。逆に「生まれ変わりという概念とは関係ない」という説は誰が言ってるのでしょうか? そりゃ「ウパニシャッド」ではそうですよ。ウパニシャッドの時代頃からサムサーラに「生まれ変わり」の意を(派生的に)もたせるようになったのだから。 言葉の意味というのは、時代背景・文化背景・文献によって違うのは当然なんですよ。「ウパニシャッド」ではこういう意味だからといって、仏典でも 同じ意味で使われていると思ったら間違い。 だから、枠組みを無視して「生まれ変わりという概念とは関係ない」と言っているわけではない。 むしろ、釈尊自身が「生まれ変わり」を説いた、と主張している(まともな)学者なんているんでしょうかね? ◆2 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/397 397 神も仏も名無しさん 2009/01/20(火) 01:16:56 ID:/Asf4Tge 参考までに、米国で最も広く使われているWebster's New World College Dictionary の第4版(1999)におけるSamsaraの定義は、次のとおり。 「(Hinduism) the continuing cycle in which the same soul is repeatedly reborn」 1.Hinduismにおける用語となっている。古い辞書では、Hinduism & Buddhissm となっているものや、両者で意味を使い分けているものもある。 2.「生まれ変わり」に相当する「reincarnation」という言葉は使われていない。 3.語源は、「共に、流れる」の意味。 新しい辞書では、「ヒンドゥー教の用語」としているものが多いのが、意味が あるね。「仏教の用語」とは解していないということ。 現代では、「魂(精神、思考・感情)は肉体の死と共に消滅すると解するのが 一般だから、この語は、現代では意味を持ち得ないことになる。 ◆3 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/446 446 初代スレ7 sage 2009/01/20(火) 18:19:44 ID:HI7fFWH9 >> 397 《西洋的な(西洋における)「生まれ変わり(→)」という概念とは違う》 ということなんでしょうね。 (これは、「転生」や「生まれ変わり」という概念とも違うことを示唆しますが・・・。) ※そのWebなんちゃらでは“reincarnation”は、どう解説されてるんでしょう? また、それってアメリカ人の一般的(≒大衆的)理解と見ていいんでしょうか。 てか、意外に安いなw 買っとくか・・・。 破壊と創造が繰り返されるインド思想に於いて『次の生を受ける』ということは、 『現代日本や、そうした西洋的生まれ変わり(→過去のあらゆるもの(様々なもの)を引き継いだ生)』 ではないのだろう。 ここに於いて【業果の相続(≒行為の報い)(のみ)】を前面に押し出した点に、 仏教の特異性があったのかもしれない。 「次の生を受けるに際し、何を引き継ぐのか?」が重要なのかもしれない。 勿論この時、「次の生」とは(宗教学的に言う“再生”“宗教的再適応”という意味での) 「新たな、心の在り様の誕生」を意味する、と読む(解釈する)ことも可能だろう。 (それがブッダの本意であったかどうかは別にして。)そう、まさにアングリマーラのように・・・。 〜後略〜 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/469 469 神も仏も名無しさん 2009/01/20(火) 22:45:04 ID:XZ40Vvs+ >> 446 "Reincarnation"の定義は、次のとおり。 "rebirth of the soul in another body, as in Hindu belief". また、「ヒンドゥー教の概念」と言っているw。英米人にとっては、 「生まれ変わり」とは、どうやら「ヒンドゥー教」と関連させるのが、一般の理解のようですね。 〜後略〜 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/473 473 初代スレ7 sage 2009/01/20(火) 23:31:13 ID:HI7fFWH9 >> 469 感謝。 別の肉体への「ソウル」の再生(再び生まれる)、か・・・。 >> 363に見るように、(そして意味的にも)、確かに「再」と訳さざるを得ない側面はあるのだが、 個人的感想を言えば、 「仏教における輪廻の中の“再生”」は、【ニュアンス的には】「新生」だと思うんだよな・・・。 この流れで英語を使うなら“new-birth”とか“neo-birth”とかwww その意味で、(ソウル云々は別問題としても)reincarnationと英訳したら座りが悪いな。rebirthも。 何度も何度も繰り返す輪廻の(中にあるという)ニュアンスも伝わらないし・・・。 けど、“re-”には「あらためて」というニュアンスもあるようだし、まあいいか・・。 日本語訳としてもこなれてないし・・・。(無難な所で「次の生」って感じ?) ちなみに、PTSのpunaの項の用例中で(puna自体はagain。) punabbhava は、『renewed existence、new birth』 に、 puna-abhinibbatti は、『birth in a new existence』 になってるなw まんざら妄想でもないかも?w http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1232162229/476 476 神も仏も名無しさん 2009/01/20(火) 23:40:56 ID:woNxlAcR >> 473 最近の英訳では transmigration ではなく cyclic existence などと訳されます。 483 神も仏も名無しさん 2009/01/21(水) 00:02:36 ID:XvY8VkXi >> 476 それはsamsaraの訳の話?流を見失った・・・ ”transmigration”は原語のニュアンスを伝えているが、 "cyclic existence "にはそれがないので、 「ヒンドゥ」の思想としても ”cyclic existence” と訳すことには反対。 スッタニパータ 21 わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが 激流を克服して(輪廻を超えて) すでに渡りおわり、彼岸に到着している(輪廻から解脱してる) もはや筏の必要はない 神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ _ _ _ 5ちゃんねる掲示板で 書き込みをしてた禅宗系の たとえば 机師匠とかは↓こんな感じだったような気がする 道元 普勧坐禅儀 そもそも仏法というものは円満に全てのものにゆきわたっており 仏法 = 涅槃 = 元々すでに渡りおわり、彼岸に到着している それゆえに 修行したり、悟り証したりすることもないはずである _ _ _ 真如、自性清浄心、仏性、法身、如来蔵、実相、法界、法性、円成実性と同体異名であるとされる 元々、仏そのものである。みたいな感じ? http://fukagawafudou.jugem.jp/?eid=740 成田山 東京別院 深川不動堂 (仏性からの真如縁起だからこそ、それゆえに) 仏さまの教えにより心の安らぎを得て、何事にも動じない境地に至る http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6 真俗二諦 その当時のインドの人達にとって 仏教を理解せしめるためには その当時の、その地域の、世間的な『想い』を一応認めて、さらにその理解のうえで 仏教を理解せしめるというやり方がとられねばならなかった それゆえに (仮設としての)輪廻という『想い』を一応認めた対機説法だった − これに対して ↓ https://gimpo.5ch.net/test/read.cgi/psy/1232767495/ 68 :神も仏も名無しさん:2009/01/24(土) 20:27:53 ID:XYCyD47T 『ミリンダパンハー』ですが そのなかでミリンダ王は輪廻に対して疑義を呈していたと記憶しますが それに対してナーガセーナが答えて納得させていたと思います 問題となるのは、輪廻がどの国の起源かではなく 輪廻説を盲信しているインド人のために釈尊が方便で説いたとするなら 輪廻を信じない外国人に方便で説く必要などないということです それなのに輪廻を外国人に説く必要があるということは 仏教にとって必要な説であるからということです _ _ _ 知りませんでした ご教示ありがとうございます m(_ _)m >>621 そうして、あたかも「仏像の前提が個人主体の転生」であるかのようにミスリードしたがる連中って本当にどうしようもないね。(笑) ウィキにもあるように、ミリンダ王の問いにはちゃんと完全な同一と呼べるものではないが輪廻していると重ねて説いてあるというのに。 (^。^)我執を仏説と偽るなんて、バカカルトと同罪だろうに。(笑) 中村元はバラモン教徒や在家信者に対しては勧善懲悪の方便として輪廻と業報を説いたと言ってたと思ったが、 仏典ではむしろ比丘たちに対して輪廻や業を説いていることの方が多い。 宮崎哲弥の言ってることはパーピマンが言ってることと変わらんような気がする >>624 同じ価値観で同じ問題をかんがえてんだから、結論が似るのは当然。 (^。^)俺も仏教入る前は同じだったし。(笑) > ウィキにもあるように、ミリンダ王の問いにはちゃんと完全な同一と呼べるものではない いつも、ご教示ありがとうございます m(_ _)m https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%80%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%95%8F%E3%81%84 ナーガセーナ長老は 「今、現にある現象的個体の善なり悪なりの行為(業)に応じて それが介入・影響した別の現象的個体として改組・回帰される」と述べる _ _ _ > (^。^)俺も仏教入る前は同じ(輪廻否定?)だったし。(笑) 中論 第二十七章 見解(邪見)の考察 仮設としての この現世だけに限定したとしても、それでも 地水火風の微細な粒子に依存している 色受想行識の仮和合は 縁起に依存して、変化しているので、それゆえに 「私は過去に存在していた」と言うことは妥当ではない 過去に存在していたものは 今、現在の私と同一ではないからである それゆえに 前世からの → 現世のものについても 今、現在の私と同一ではない ↑こんな感じ? おじゃる? 先にあるミリンダ王の問いにある通りです。 同じ火ではないがーとか同じ女ではないがーとか。 全く同じではないけど、ある意味同じって話ですね。 じゃあどーゆー意味かってのは、俺も想像でしかないからね。(笑) (^。^)少なくとも、漫画の輪廻転生と、仏教の輪廻とは別物なんすよ。(笑) >>603 この私が永年、セブンと対論を続けているのは、 彼は自分自身のしっかりとした見解を持ち、そして、それを自分自身の言葉で語ってくるからです。 けれども、あなたはそうじゃない。 自分では何も語らずに、 ただリンク貼りやコピー転載だけを続けるというやり方というのは、 “嫌がらせの無言電話”を続けてるとの一緒です。 >だから、第一の覚者も、第二の覚者も、第三の覚者も、第四の覚者も、仏教にしか現れないのです」と。 嘘ばかりです。 その結果など出てないじゃないですか! ゴータマ以降の覚者(生ける如来)の出現はまったくなく、ただ話だけの阿羅漢の存在ばかりです。 その阿羅漢(テーラワーダの完成者)というのは、比較的にいえば圧倒的に容易い境地です。そもそも五百羅漢というくらい。 真実の完成者たる生ける如来のブッダというのは、未来仏の弥勒までは出現しないとゴータマによって明言されています。 『仏教学においても釈迦の直説が含まれると推定される阿含経においても、阿羅漢と仏陀は明確に区別されており、ゴータマ・シッダールタ 以外の阿羅漢が如来十号の他の九つで呼ばれることはない。阿含経の一部『ドナ・スッタ』では仏陀は「神でも人でも魔でもない」とされる。 阿羅漢と仏陀の主な違いとしては ・阿羅漢は女性もなれるが、仏陀は女性はなれない。 ・仏陀は宇宙が何十億年の年月の単位である「劫」レベルの膨大な年数のうちに、一つの世界に一人だけ現れる存在だが、阿羅漢は(特に) 釈迦在世時には多数輩出された。 がある。』(阿羅漢と仏陀の違い) https://dic.pixiv.net/a/%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%BC%A2 >仏教にしか現れないのです 仏教だけが唯一の真理であって、 他はすべて間違いだなどという偏狭なことをゴータマは説かない。 『かれらは自己の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何人を愚人であると見ることができようぞ。 他の説を、愚かである、不浄の教えであると説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。』 (Sn.893) 仏教の発祥以前における太古の仏陀存在(覚者)は、 当然、仏教に拠らない更にもっと古い宗教的教えの伝統の中から出現したもの。 仏教で説かれる過去七仏の概念というのも、仏教徒によるヴェーダ(バラモン伝統)からのパクリに他ならない。 『仏教によれば、ダルマをさとった人がすなわち覚者なのであるから、覚者はいかに超人化・神化して考えられようとも、決して 唯だ一人の人格的存在者であるということはできない。ゴータマのほかにもなお覚者が存在し得るはずなのである。そこで過去未来 の諸仏と現在における一人の仏を立てて考える。特に過去七仏の観念は古く成立し、その名称はすでにガーターの中に伝えられている。 過去七仏とはパーリ語でヴィパッシン(Vipassin)、シキン(Sikhin)、ヴェッサブ(Vessabhu)、カクサンダ(Kakusandha)、コーナー ガマナ(Konāgamana)、カッサパ(Kassapa)および第七に釈尊をいう。そうして仏は「第七の仙人」と呼ばれている。過去七仏の観念が もとをたどれば、『リグ・ヴェーダ』に由来することは、すでに指摘したとおりである。』 (『中村元選集・11巻・インド仏教の諸問題』春秋社P.515〜516) >>566 >二千五百年の歴史ある組織に、 確かに、史実のゴータマから数えれば二千五百年ですが、しかし、二千五百年の歴史ある組織などは世界中を探しても一つもありません。 もちろん、ゴータマの教えを正しく忠実に継承している団体についても皆無です(あるなら、何処にあるのか教えて欲しいくらい)。 日本に仏教が伝来したのは6世紀です。チベットは7世紀、中国は1世紀。スリランカの仏教は古くて前2-3世紀頃からですが、しかし、 現存する現代のテーラワーダの正体は、『分別説部大寺派』というものであり、これは部派仏教の中の『分別説部』(Vibhajjavādin)にお いて、その中でも更にマイナーだった『大寺派』(Mahāvihāravāsin)が今日まで生き残ったものです。つまり、現在のテーラワーダ仏教の 直接的な起源としての「大寺派」はこの法燈を嗣ぐもので、その確立は5世紀頃だったとされています。 その他、同じテーラワーダであるビルマやタイの南方仏教は12-13世紀です。 >それとも、実際に霊的な相談などにのっているんですか? 私の心霊に対する理解は、神智学とそれから仏教以前から傾倒した心霊科学の知識によるものが中心です。 また、霊的能力のある密教僧からの教えなどもとても参考にしています。 それからまた、私自身が、自分で心霊体験を何度も持つので 心霊存在の“実在性”については100%を保証しますよ。 >>569 >俺は拝み屋さんで、祓うのを手伝ってただけで、 --略-- >(^。^)色んな人が色んな流派で色んな事をやってるけど、何が本当かは判らん、 >というか全部間違ってるような気がして辞めました。(笑) それって、やっぱり密教系? しかし、せっかく拝み屋さんにて助法されていたというのに、 それが能力者として本物であったかどうかすらも確認できなかったと? 普通、何度も携わっていれば分かる筈ですが? いつもデタラメばかりだったならば相談者や信者らにバレるのだから。 もしも、ただのインチキだったならば、あなたも人の弱みに付け込む金取り詐欺に加担していたこととなり、 大変な悪業を積んだことになるでしょうね。 こちらの近郊には、 地元ではかなり知られた能力者(真言系)がいます(まっ、近年は亡くなられて今は二代目が継いでいるけど)。 私も若い頃に一度だけ行ってみたことがありますが、その能力だけは本物のようです。 その頃は小さな平屋の古い個人住宅だったのに、 彼女に救われたという感謝の寄付とお布施で大きな立派な寺院が建設されましたね。 中には一千万単位や全財産を捧げたという人もいたらしいからね。 >>631 本当に理解出来ないんで質問しますが、 「シンチガク」でも仏教でも何でも、それが「本物」ってどうやって決めてんの? 単に自分の好みでしょ。 実際に自分が霊的な事象や相談などを何年かこなして検証してないってことは客観的な判断基準はない訳だから。 で、その「本物」を知りたいだけなの? それで世の中の役に立てようとか、自分が神仙の位に昇りたいとかは考えてない訳でしょ。 何がしたいのか理解出来ない。 単なる趣味で、マニアとして収集してるだけってことでいいのか? それとも、シンチガクの瞑想か何かしてて神秘体験でもしてるのか? だが、それも単なる個人的体験でしかないから客観的な判断基準とは言えないが。 (^。^)正直、バカカルト信者の意見と同じで、何を言われても全く意味がないとしか思えないんだが。(笑) > 「本物」ってどうやって決めてんの? 仏教の対機説法としては 仮設としての 無明に依存して 我癡・我見・我慢・我愛に依存して その人、個人にとっての「善である・悪である」 という『想い』が、現れ、変化して、滅している _ _ _ > 瞑想か何かして たとえば上座部系なら 我所も我も 地水火風の微細な粒子に分解して 最終的には滅して逝く 因縁生滅智 刹那生滅智 という観察法? http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858 上座部 パオ・セヤドー >>310 臨済宗の栄西はイニシエート2.2で斯陀含クラスの覚者です 曹洞宗の道元はイニシエート1.5で預流果クラスの覚者です >>634 そうした理屈はありますが、じゃあ霊的な事象、そもそもこれは精神的な病かもという問いも含めて、 そうした事象に、物理の追実験並の再現性で解消出来ることはあり得ない訳。 で、その失敗する理屈も色々な話があるが、そんなもんでいいなら、その辺の詐欺師でも成功率の違いこそあれ、結果は同じって話になります。 勿論仏教は、そうした事は本筋には関係ありませんが、(悟ったなら出来るというスタンスだから) 「本物」と判ったとするなら、仏教では悟ったから判ったって話しかあり得ない、という事に。 (^。^)勿論、信仰は自由ですが、俺は屁理屈で納得は出来んし。(笑) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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