同時代の人には「本当のエル・カンターレ像」が見えにくい

 この世においては、いろいろな迷わし、目の錯覚、三次元的な束縛が数多く、それに引っ張られることがあります。そのため、同じ時代に生きている人間に対しては、自分の眼を通して見たものを信じることが多いと思います。
 キリスト教においても、「存命中のイエスを見た弟子たちが信じていたイエス」と、「二千年後のキリスト教徒が信じているイエス」とでは、おそらく違うであろうと思われます。
 イエス在世中の弟子たちが見ていたイエス像は、自分たちと同じように、迫害を受け、その日の糧や、その日の宿を探すことにも苦しみ、最後には裏切られて、民衆に石つぶてを投げられ、ローマ兵に引きずられて、十字架に架かり、強盗殺人犯と一緒に処刑されたイエスです。

 それが人間としてのイエス像であったでしょう。そのため、それを見ていた人のなかには、それでつまずいた人も数多くいたであろうと思います。
 しかし、後世の人が見たイエス像は、そういうイエスとは違ったイエスです。彼らは、この世では見たこともない「復活のイエス」を信じ、「神の独り子であるイエス」を信じ、イエスそのものを神と同一視するような信仰を持つに至ったのです。
  当会の信仰も、時代が下るにつれて、おそらく、そのような変貌を遂げてくるでしょう。