マインドフルネス瞑想 Part7
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
前スレ
マインドフルネス瞑想 Part6
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1510395100/
メンタルヘルス板
【瞑想】マインドフルネス 6【気づき】 http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/utu/1508008965/ 出家と在家は面白いテーマだよ
現実的には在家でも目覚めた人は世界中 今でもたくさんいる
仏教じゃなくてもね
生まれた頃から出家なのか 成人してから出家なのか
一通り人生経験してから出家なのか 自発的なのか
私の結論は探究心 執念があれば関係ないんじゃないかと思う
でも出家先に良い先生がいれば別だな 「悟った人」「覚者」「目覚めた人」ってどういう状況になった人を指すの?
それ誰が認定するの?
自分で「ふふん♪悟っちゃたんだもん!こんな不思議体験もしちゃってるだもん」とか?
その筋の人に(その人自身悟ってるかもわからない人に)「あんた、すげーよ(いろんな意味で)」って認定されりゃいいの?
煽ってるわけじゃなくて(1%くらい煽ってるけど)本当にわかんないんですよ
コーヒーブレイク Rawhide ローハイド
https://www.youtube.com/watch?v=m6BXvWwAa48 >>611
瞑想ってマインドフルネス瞑想のことですよね
山下良道さん、島田さんとか、"宗教抜きにして何がマインドフルネスだ"っていう意見もありますが、
どうですか
山下良道さんによると、精神医学者の立場からも熊野さんから同趣旨の発言があったらしいですが(真偽不明
どうですか?) ちょっと記述ミスっちゃったんで>>632下記のように訂正
>>611
瞑想ってマインドフルネス瞑想のことですよね
山下良道さん、島田さんとか、"宗教抜きにして何がマインドフルネスだ"っていう意見もありますが、
その意見はどうですか?
山下良道さんによると、精神医学者の立場からも熊野さんから同趣旨の発言があったらしいですが(真偽不明)
それはどうですか? 精神医学の立場から見て宗教性は排除しないほうが好ましいのであればマインドフルネス教とか作ったらええやん別に。 マインドフルネスというものが既存の宗教と全く別のものである、あるいはそうあるべき、
というならそうでしょうね
でもそういうんじゃないと思いますよ 17/03/26 「これまでの何十年の人生がすべて間違っていた」という良き知らせ | 一法庵 :
http://www.onedhamma.com/?p=5878 ひとりカラオケで集中してまわりを気にせず歌ったり叫んだりしたらすっきりするけどこれも一種の瞑想かも >>642
そうですね
人によりますが特に初期にやった方が良いかも
ストレス発散 集中力 心の解放 力の解放
自分の存在が確かにあることを確かめる
それに自宅ではないので内外部への集中力が高まります
私は昔はお皿を割ったりしましたね
何かをクタクタになるまで殴ったり
昔でいうダイナミック瞑想的な感じですね >>644
そういう固定観念は捨てた方が良いかもよ
要は、今、ここに意識が向いてる状態を作れば良いんだから >>645
今ここに意識が向いている状態から覚めたらまた鬱モードになるね すべての行動をマインドフルに行うように意識するということは出来るけど
カラオケや暴力といった発散する行動が瞑想になると思ってしまうのは違うんじゃないだろか 一緒だよ
そこに慈悲の心が伴わないケースは問題だけど
行為そのものは判断基準にはならない >>646
むしろその鬱モードを観察できませんか?
そっちの方が観やすくありませんか?
日常生活で明らかに思考 感情が没入してしまう対象が
あったならそれは目につきやすいし気づきやすいはず
例えば親との折り合いが悪い場合なんかだと
話してると 嫌な感じ 嫌な感じ 苛立ち お腹が変な感じ
怒り 怒り 呼吸が大きくゆっくり とか
まあ難しいですけどね でも自分が何に怒っているのか
何を求めているのかわかった時には 凄い....ですよ
鬱モードではなくて鬱病の場合は回復が先だそうです サティを入れて日常の中の事をマインドフルネスにやることはできても、それだけでは心を深い層まで微細に観察することはできないよね
サティは入るようになるけど、観察の精度は上がらない
サティだけでも楽にはなれるけど、サマーディを得るために静かに坐してする瞑想もある程度必要だよ
プラユキ師やアーチャン・チャー師はサティだけで十分だと言ってるけど
ゴエンカ師やマハーシ師はサティとサマーディの両方必要だと言ってる
どちらを選ぶかは、その人が目指す地点によるけどね 座らなければサマーディに入れないのかという点と悟っていくのにサマーディが必須なのかという点と >>649
内側を見ずに画面の歌詞を見てるんだろうな
それでマインドフルネス瞑想だと >>655
そのうちスマホいじいじしながらでも悟れるような時代になるよ >>656
夢ではなくて現実に近づきつつあると思いますよ 自由意志の存在 私の存在 ベンジャミンリベットの実験 脳の機能の解明
現代人は科学に弱いですから証明されたと言われると随分すんなり受け入れますからね
100年以内には「この私っていう感覚は瞬きとか欠伸とか腸の蠕動運動とか それと同じただの機能の一部なんだって」
「そりゃそうだよ 虫とか自我がなくてもちゃんと生きてるじゃん 自我はただのオプション機能だよ」となると思う
キリスト教徒は発狂しそうだけどw カラオケは流石に瞑想とは別物とは思うがボイトレの丹田呼吸方法はヨガのプラーナヤーマの基本となるものなのでせっかくカラオケで歌うのなら丹田呼吸方法をマスターするとよいと思われる
丹田呼吸法により歌も上手くなるしヨガ瞑想時の呼吸法(プラーナヤーマ)を掴む手がかりともなる
よく瞑想時の呼吸の際は自然呼吸の場合においても吸う時は宇宙や大地のエネルギーを取り入れるつもりでという説明がある
このエネルギーこそがプラーナである マインドフルな小説とか本おしえて
上には村上春樹と書かれてるね >>659
滝本竜彦の「僕のエア」って小説
なんか色々瞑想について書いてた記憶がある >>658
まあ ガッツリやりたい人には止めはしないけど 観たり止めたり充満させたり同時にやると結構大変なことになるよ
後戻りしたくても自分ではどうしようもなくなるからね
一つの方法で行き詰まったら浮気しても良いかもしれない
肛門括約筋が鍛えられるのは間違いないw >>659
そのラインならよしもとばななとか江國香織ちゃうんか
ホモではないが >>663
>有田 面白いのが「読経」。
>僕は読経の研究で、お坊さんからいろいろな読経のデータを取らせてもらったんだよ。
>読経の内容って色々な種類がある。
>最初は文章部分。お釈迦さんがどうしたとか、よく理解できる部分のお経の内容があるんです。
>その下には、偈文といって五文字くらいの漢字で出来ている韻を踏んだ部分がある。五文字がずっと繰り返されていて、ほとんど理解できないよ。ある意味、音のリズムなの。
もうひとつが、題目を唱える、というか念仏を唱える。「南無阿弥陀仏」とか、言葉の繰り返しだね。
五文字の偈文の代表が妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈(いわゆる観音経)だな
https://youtu.be/NnkBb7InkII カラオケに限らないですがそういうのはマインドフルネス状態ではあると思いますよ
しかし瞑想とは意味が全く違うし代替にはなりえないでしょうね
厳しい自然に淘汰されてきた人間は元々刺激の強いものを優先的に認識するように出来てます
音、光、動く物、痛み、熱さ...
映画や音楽やパチンコやゲームやスポーツにマインドフルになるのはむしろ避けられないと言ってもいいと思います
瞑想はこのような刺激物だけでなく、もっと刺激の弱くてつまらないものにも、意思によってそれらと同じだけの注意を使えるようになろう(あるいは、そうして鍛えた注意力を使って悟りを得ようとする)という練習でしょう
自然にマインドフルになってしまうものについては、これがマインドフルネスだと喩えとして教えるにはいいと思いますけどね
30分瞑想 43日目
最近ようやく辛くなくなってきた
30分背筋を伸ばして座っているのは30日を過ぎたあたりから
注意を向け続けることはここ一週間くらいかな
もう苦もなくできるようになった
あとはもう、どれだけ注意の密度と時間を保てるかということだけに集中できるようになった感じ
前からちょくちょくあったが、最近は毎回瞑想を始めてからたぶん7、8分ほどすると、体がざわざわして頭らへんがぐいーんとなるなんとも言えない感じが起きる
少しするとおさまるしそれが起きたところで何か変わったわけじゃないんだけど...
強いていえば驚いて注意が乱されてしまう
苦痛を受け流して注意を戻すのは上手くなってきたと思うけど執着や依存がどうしても消えない
昔からそう 苦痛には強いけど誘惑には弱い
執着から距離をとったりするにはどうしたらいいんだろう
瞑想が深まればそこら辺もできるようになるんだろうか? カラオケとか夢中になったり集中するのはサマタ瞑想だろうな
そもそも>>642はカラオケも一種の瞑想ではと言っててマインドフルネス瞑想とは言ってないし
読経もマントラも瞑想ならカラオケも瞑想になるだろうね
それをマインドフルにできるならマインドフルネスだろうし
クリシュナムルティは効果的なマントラはと聞かれてコカ・コーラとでも繰り返せばと答えてたな カラオケには瞑想効果があるという論文はあるんですか? カラオケ瞑想の俺は、えーりっひふろむの愛するということを買ってきました
。難しそうだけど1回読んでみたいと思ってたので たしかにカラオケ瞑想はマントラとかにも似てますよね マインドフルネス(観瞑想)じゃなくて促進瞑想のたぐいだな
ヨーガでプラブリッティマールガに分類されるやつ
シャーマニズムと共に使われてた訳だからある意味最古の瞑想かも
自分はノリ悪いタイプで無理なんで、あれで瞑想できる人はある意味羨ましいですw 歩きながらアーとかウーとか繰り返し唱えて瞑想してる
変なひとでもいいや笑 >>672
当時、実際、「踊り念仏」を行って、
エクスタシー状態になる人が続出したといいます。
もう恍惚、エクスタシー^^;
浮き世の苦しみを、踊り念仏の恍惚感で紛らわすことができたのでしょう。
そのため、庶民の間にも大流行したのではないかと。
こうした恍惚感は、瞑想による近行定(きんぎょうじょう)という、
サマーディの一歩手前の状態でも得られます。
(略)
そうして一遍は、念仏にリズムを付けて、踊りながら歌って唱えることで、
変性意識に入りやすくし、サマーディの入口まで誘うことを行った人
とも見ることができます。
http://bossanovaday.hamazo.tv/e5290273.html
踊り念仏が瞑想に近くサマーディの近くまで到達できるのだったらカラオケもそうなのかもね!?
瞑想に近いというか一種の瞑想というか
カラオケでトランス状態とかゾーンに入れれば…入れる人はいるとは思う
(自分の楽器演奏の体験上) 去年のためしてガッテンでのマインドフルネス特集ではダーツやプラモデル作りでもマインドフルネスの効果があると紹介してたな
http://hamsonic.net/2016/09/28/gatten-meisou/#i-7
ただ脳波の状態についてはガッテンのは正しくないと思う
ヨガの瞑想では脳波はシータ波になるんだろうけどマインドフルネス瞑想や座禅や読経ではα波、マントラ瞑想や阿字観瞑想ではガンマ波だと思った
ダーツやプラモデル作りでシータ波が多く出た脳をマインドフルネスと一緒にして果たして本当に良いのか?
まあシータ波でもα波でもそれぞれに効果はあるのだろうから良いと言えば良いんだけどね 熊野さんのマインドフルネスの認識については誤解がありそうだが
うつ、強い煩悶、ストレス、不安を抱え、落ち込みやすい人には熊野式マインドフルネスでも効果が見られるという話(↓)
http://bossanovaday.hamazo.tv/e7054045.html >>676
去年じゃなくて一昨年だよ
一応公式
http://www9.nhk.or.jp/gatten/articles/20160928/index.html
もうちょっと詳しい内容、例えばダーツとかでシータ波が云々とかは
上記HPの「番組内容を印刷する」をクリックで表示。↓URL ただしPDFファイル
http://www9.nhk.or.jp/gatten/pdf/program/P20160928.pdf
以前は公式HPで番組内容をもっと詳細にupしてたと思うんだけどなぁ youtubeにも件の放送アップされてんのね・・・
一応アレ関係の問題があるんでリンクはしませんです カラオケ瞑想いいですね
Kill em All とかいいですよね?
慈悲に溢れてますもんね もっとも、「次はどの曲にしよっかな〜」とかやってたら促進瞑想にはならないがw
それだとただ遊んでるだけ
ヒトカラで同じ曲をひたすら歌って変性意識に突入するとかじゃないとなあ ヒトカラ行くと1人で歌い放題で嬉しいんだけど、10曲も歌えば飽きてきて、でも時間まだあるしお金払ってるし歌わなきゃもったいないよなあと葛藤している心の動き カラオケ好きな人でマインドフルに生きてるとか悟ってる人なんているのかな
日常でストレスためこんでカラオケで発散というのを繰り返してるだけにしか思えないんだけど カラオケ好きな人でマインドフルに生きてるとか悟ってる人なんておそらくいないけど
マインドフルに生きてるとか悟ってる人はカラオケをとくにわるいものと見たり否定したりはしないと思う
原始仏教的にはカラオケなんて修行者がすることではないだろうけどね 684は固定観念が強くて685はふところが広いのはわかる じゃあ、まわりが何言っても肯定も否定もしないでふーんて流すことが解脱なの?それだと会話できなくないかな その辺、マインドフルな人はどうしてるのか教えてください たぶん「マインドフルな人は優れている人」という固定観念を持っている人はここで多い気がするけど、きっとそんな事はない 俺は>>686の固定観念が強いなと感じてる
>>685が言ってるのは、すべての行動は気をつけていれば並列であるということでしょ
そういう部分に俺は疑問を持っているわけではない >>688
評価をせずに、ありのままに見るのがマインドフルネス >>693
そしてそれを観察してますよ、って風に皮肉る解説者 固定観念なんてお互い様でみんな持っている
言い出したら切りがない
それを自覚せずに人のことを名指しで固定観念が強いなどと最初に言った人が一番角を立てた張本人となるだろう
もちろん↑の考えも俺の固定観念に基づいているw 固定観念という先入観、偏見から決め付けを行うのは認知の歪み
凡夫、人は皆、何らかの固定観念、信念とかはあるでしょ
思想、観念からの解脱がブッダの教えで、
こだわりが強いと、異なるものに排他的で、他者と素通しになれない
世間体という固定観念があれば、世間体概念を外れると悩んだりジャッジを
するし、思想、観念との同化は自我を強化させるものなの
ここで道元、道元と被れている人もそうだし、
自灯明,法灯明なのに、日本は宗祖教の似非なる改造仏教国だからね
原初仏教では、集中三昧のみでは解脱できないと教えているのに、
本当に日本は止行が浸透している、マントラとヨーガと禅の流れで
日本仏教学会の学者は、禅宗は釈迦仏教とは異なると根拠を示しているのに
カラオケ、模型づくり、ダーツ遊び、、集中三昧系、無我夢中行なんて、
すべて一時的なもの、一時的な気晴らし、もちろんそれが悪いわけでなく、
健康効果はある
けど、本来の仏教でいう解脱に至る道ではない
日本のマインドフルネス療法の第一人者の熊野教授は、
テレビ出演後に、観察なのに、集中と誤解されたと述べてるのね 固定概念はダメだという固定概念はダメだという固定概念を疑え 人は自分も含め一人残らず固定観念だらけで、いい加減なものだから、まじめに正しさを示そうと頑張っても疲れちゃうよ
ってくらいがちょうどいい塩梅じゃない? 固定観念なんて座標系みたいなもんだから、自分がどんな固定観念持ってるか分かってて、自分の物事の見方にそれがどう影響してるか分かってればいいんじゃないですかね
自分が見てて、ああ危険だなって思うのは、それが分かってないっぽい人を見た時
そして騒がしいなって思うのは分かってないっぽい同士で座標系の優劣で争ってる時
まあでも人間みんな大なり小なり分かってないんでしょうけどwww >>697
>原初仏教では、集中三昧のみでは解脱できないと教えているのに
その論拠となる経典等はあるんですか?
明確に「集中三昧のみでは解脱できない」と教えているんですか? >>665
おー 良いですね
体がざわざわ は正座で足が痺れる程度に考えて気にしないで下さい 恐らく観照状態かな
依存や執着についてはそりゃ簡単には消えませんw
何故ならパワフルに生きるのにこれまで必要だったからです
自分で執着を分析しても良いとは思いますが結論としては自分の本当の姿を観るだけで次第に縮小していきます
でもそれだけ続いてるならそろそろ起こるでしょう
応援してますよ! 固定観念のもので最も根本的なもの と聞いて皆さん何が浮かびますか?
全ての観念が発生する根本原因 わかりやすく言えば好き嫌い 正しい正しくない 幸福だ不幸だが発生する場所
観念の内容が重要なのではなくて観念の発生場所 その発生場所自体のカラクリを探求するのが瞑想なんです
自分は存在しますか?それは体ですか?脳ですか?意識ですか?記憶ですか?それとも魂ですか?
もしかしてどこにも自分は見つからないかもよ?w >>707
えーっと…
固定観念に根本的とか表層的とかのレベルがあると思ってることとか? あらゆる観念の源は言葉
言葉が思考を生み、思考が観念を形成する
感覚だけに意識を向けることで、言葉による事象の概念化がなくなり、体験はより純粋なものになる
と、自分の体験から分かってるのはこんな理解だが >>707
瑜伽行唯識学派の先人がそのカラクリをヨガつまり瞑想で解明しようと試みて阿頼耶識という答えを見つけ出した
(参考)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE
しかしスマナサーラは阿頼耶識を否定していた
(阿頼耶識を真我と一緒にするという誤解もあったようだが)
このことは瞑想による解明の限界を示している例となる
見えてるものが違うのだから
誤解があったとしてもスマナサーラには阿頼耶識は瞑想でも確認できなかったのだろうし
唯識の先人は確認できていたのであろう >>710
瞑想によって、幻視幻覚をこれこれと解釈、推測、断定するものでないんだよ
長部経の中で、それらは、色受想行識の範疇の接触を縁としていて、
かれらが接触もなく感知できるという、この道理は存在しないと説かれ、
五蘊の範疇を縁としている意識誘導の観念的解釈に過ぎない
外界の存在を否定する唯識無境説なるものは、観念的思想
阿頼耶識は、不可知論、空に反して実体視、
瞑想によって恒常不変な神がいることを発見したというのと同じレベルの話、
そういう思想信仰なら自由だけどね 「苦痛を受け流して注意を戻すのは上手くなってきたと思うけど
執着や依存がどうしても消えない 」
仏教はそのためにあると言っても過言ではない^^
つまりそれを解決できたらきみも阿羅漢やな・・^^ 一切衆生は本より涅槃常楽の体にして、法身般若の智身なれども、
此(この)五蘊の色心に迷ひ、ゆえに凡夫となり三界に流浪するなり。
鉄眼禅師 仮字法語 かかる地水火風の、仮なる身なることを知らずして、わが身と思いて、
千万年も、死すまじきように思い、わが身ぞとかたく執着す。
これ一重の、凡夫のまよいなり。
鉄眼禅師 仮字法語 【二の一】
第一に、色というは、我この身なり。
また世界の天地草木にいたるまで、形のあり、色のある物はみな、この色のうちなり。
楞厳に、一切衆生無始よりこのかた、己にまよいて、物として、本心を失いて、
物のために転ぜらる、といえり。
【二の二】
この意(こころ)は、一切万法はみな法身真如の体なる事を知らずして、
かえって天地の中の万物と思いて、その万物の境界にまよいて、物のために、
わが心を転ぜられて、さまざまの妄想を起こすという事なり。
【二の三】
また古人、法身は形殻のうちにかくるといえり。
形殻とはこの身なり。
この身は本より法身の体なれども、法身なる事を知らずして、わが身と思えるは、
法身を見かくして、わが身と思い、わが身に迷いて、貪瞋煩悩をつくり、
ふかく悪道にしずむなり。 【二の四】
本より法身の如来なるを、まよいて万物と思い、またはわが身と思うには、
二重のまよいあり。
【二の五】
まず一重のまよいは、この身は、地水火風の四大を、仮にあつめて、
つくりたてたるものなり。
身の内の皮肉筋骨のたぐいは土なり。
涙よだれ血などは水なり。
あたたかなるは火なり。
出入の息と、うごきはたらくは風なり。
この地水火風をはなれては、わが身というべきものなし。
ただ今なりとも命おわりて、地水火風もとにかえりぬれば、ただ白骨となりて、
つゆほどもわが身とたのむべきものなし。
かかるあさましき白骨を、わが身と思いて、千生万劫、このされこうべにつかわれて、
地獄の業をのみつくりて、三途にしずみはつるは、おろかにあさましきことにあらずや。 かかる地水火風の、仮なる身なることを知らずして、わが身と思いて
千万年も、死すまじきように思い、わが身ぞとかたく執着す。
これ一重の、凡夫のまよいなり。
【二の六】
さてまた二乗は、凡夫よりも、智恵かしこきゆえに、この身は地水火風の、仮のものぞと、
よく見あきらめて、この身をまことの白骨のようにみなし、身においてちりほども、
執着の心なし。
かつてこの身のために我執我慢をもおこさず、貪欲瞋恚をもおこさず、
いつわりへつらいもなく、ねたみそしりもなし。
かくのごとくのさとりはひらけぬれども、いまだこの身の、法身如来なることをしらず
、これによりて、世尊、小乗とて大いにきらいたまえり。
かの法身の当体をさとらざる故に、二乗の智恵にては、仏の内証、菩薩の境界は、
いまだ夢にも見ず。 これまた二乗の、一重のまよいなり。
さきの凡夫のまよいとともには二重なり。
二乗は法身にまようこと一重。
凡夫は法身にもまよい、また二乗のさとりしところにもまよう故に、二重のまよいなり。
鉄眼禅師 仮字法語 【四の九】
この妄想を夢ぞとしらざる故に、無始久遠のいにしえより、今生今日にいたるまで、
その輪廻たえずして、地獄におち餓鬼となり、畜生に生まれ、修羅となる。
されば仏になるも、地獄におつるも、その源をたずぬれば、この妄想のあるとなきとなり。
よくよく眼(まなこ)をつけて、この妄想のわざわいをなす事を知り、また妄想の
夢のごとくにして、全体なきものなる事をあきらむべし。
【四の十】
世上のおろかなるものの、ぬすみをして、王法のいましめにあい、今生にては、
はじをさらし、来生はながく地獄におつるも、物をむさぼる一念の妄想なり。
また人むほんなどをたくみて、天下国家をくつがえさんとはからいて、
その身もふかき罪にいり、妻子兄弟眷属までにたえがたきくるしみを見するも、
ただ一念の妄想なり。
かかるむほんなどをたくまんと、おもいいたす最初の一念は、たばこの煙などのごとくにして
、きわめてかすかなる、ただ一念の妄想なり。
【四の十一】
この一念の妄想を、わざわひの本ぞと知らずして、ひたと思いかさぬる故に、
はては一天にみつる雲のごとくにして、いよいよ思いやめがたし。
その最初の一念のとき、やれ妄想よと、あきらめ知りて、胸の内にて消さん事は、
何よりもってやすき事なり。 一念心をひるがえせば、無始久遠の妄念も、刹那があいだにはるるなり。
このことわりをわきまえて、夢の妄想を思い捨てて、さとりの心にもとづくべし。
鉄眼禅師 仮字法語 百億の三千大千世界も、衆生の妄想よりおこり、一百三十六の地獄も、
人々の妄想の火をおこして、百千万劫その火に身をこがすは、あさましき凡夫のありさまなり。
この妄想を思い捨てて、第三の想蘊をこえて、さとりの田地にいたるべし。 つまり・・・^^
三界流浪の凡夫・・^^
お・・おっ・・・おまえらぁ嗚呼ああああああああああああああああああああああああああ^^ 「この妄想を思い捨てて、第三の想蘊をこえて、さとりの田地にいたるべし。 」
いい表現やな・・・^^
さすが・・鉄眼禅師ちゃんや^^ 自と他を分別するところから迷い無明が生じる・・
ゆえに無分別を重要視してるんだよな・・仏教は・・・^^ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています