【大失恋から】ピッピの証し【の回復】
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ヨハネによる福音書/ 03章 16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネの手紙一/ 02章 15節
世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。 だいたいは「う〜ん」と唸るとき、その人が自分の頭を神としていてその狭さゆえ苦しみ理解できないからです。
頭がいい人は、察するものですよ。
知識は「はは〜ん」でピンときます。真偽は別として。
前者は「弁えよ」、後者は「確かめよ」。 トリエント公会議は厳しくこう言っています。
「万一、
・誰かがミサ聖祭は賛美と感謝のためのものであるとか、
・十字架上の祭祀の単純な記念に過ぎず、
・贖罪祭ではないとか、
言ったとすると、あるいはまた、
・ミサ聖祭は聖体拝領する者だけに有益なものに過ぎず、
・生ける者と死せる者とのための罪と罰と贖罪とまたその他の必要とのために捧げられるものではない
と言うものがあったとすると、彼は排斥される」と。 (続き)
ところが新しいミサの総則にはミサの定義として
「主の晩さん、つまりミサは、聖なる集会の儀、すなわち主の記念を祝うために司祭を座長として1つに集まった民のための集会である」(総則第七条)
とだけしかありません。
新しいミサは単なる「主の記念」でしかなく、聖変化の言葉もホスチアを聖変化させるものとしてミサ典書に印刷されているのではなく、単なる序述として、つまり物語として記されています。
新しいミサが出来たときプロテスタントの人々は、ついにカトリックは新しい奉献文(聖伝のミサで言う「典文」)を作り「ミサが天主に捧げられるいけにえなどと言う間違った見解を放棄した」(La Croix 12/10/69)と言ったほどです。 弟子たちが旧約聖書からイエズスと結びつけている箇所には「イエズスこそその人だ」とは書いてありません。しかしイエズスのことを書いているといわれる時は「その通りである」と疑いもしないのに、「イエスはヤハウェとはどこにも書いてない」と反抗するのです。
またイエズスがバプテスマのヨハネは来るべきエリヤであることをマラキを引用して説明なさいました。
「…そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである」ヨハ11・14
この一文で輪廻転生を信じる根拠にもしている人は、ラケルのことを本人のことだと信じるのでしょうか。
すなわちヘロデ大王が救い主を殺そうとしてベツレヘム周辺の二歳以下の幼子を皆殺しにしたことが旧約聖書の成就とみなして書いてあるのですが、これは死んだラケルが生まれ変わっているのでしょうか。皆ラケルの生んだ子でしたか。ちがいます。
マタイ2章
17 こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
18 「叫び泣く大いなる悲しみの声が/ラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」。 あなたたちはこんなハイテク時代に生まれていながら、どうして過去の時代の不思議を矛盾と捉えるのですか。 イエズスキリストは500人以上の弟子たちの前に同時に現れました。
これは一度に個別対応できる能力があるということです。 旧約聖書を開いて
「やはり書いてません」
といい、イエズスをキリストと認めない人たちはどうなったでしょう。
国を奪われ、嫌われて、民族ごと抹殺されそうになりました。 私の実家では仏壇と神棚がありましたが、手を合わせる人は誰もいませんでした。
習慣がなかったことを神に感謝しています。 他の宗教屋の教祖の振る舞いを非難しておきながら、てめーらの宗教屋の悪行は棚に上げ
てめーらの宗教屋の教えだけを根拠に他の価値観を否定するのに、そもそもその教えが大昔の妄想に過ぎないことは見て見ぬ振り マグダラのマリアは悔い改める前の姦淫生活で、よく妊娠しませんでしたね。うまずめだったのでしょうか。 ここを読んで嬉しいと思う人は本当に素直なんだと思います。
私の場合、捨てられ、酷い目にあったのだという点からわずかでも動くことができません。
私は捨てられていたのだ。
私は酷い目に遭わされたのだ。
この悲しみから立ち直れません。
苦しみはまぼろしではないですもの。
詩篇91
5 あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたをあがなわれる者は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。
6 捨てられて心悲しむ妻、また若い時にとついで出された妻を招くように/主はあなたを招かれた
7 「わたしはしばしばあなたを捨てたけれども、大いなるあわれみをもってあなたを集める。
8 あふれる憤りをもって、しばしわが顔を隠したけれども、とこしえのいつくしみをもって、あなたをあわれむ」と/あなたをあがなわれる主は言われる。 カルバリーチャペル
http://www.logos-ministries.org/old_b/isa54-57.html
イザヤ書54−57章 「苦しみの僕がもたらすもの」
アウトライン
1A とてつもない回復 54−55
1B 夫の変らない愛 54
1C 子を産む女 1−10
2C 宝石の着飾り 11−17
2B 開かれた招き 55
1C 「出て来い」 1−5
2C 「主を求めよ」 6−13
2A 義の備え 56−57
1B 近づいた救い 56
1C 安息日を守る部外者 1−8
2C 見えない見張り人 9−12
2B 取り去られる義人 57
1C 益にならない義 1−13
2C いやされる者 14−21 ナルシスは自分の顔に見惚れていたそうです。
同じように自信満々で「はあ〜」なんていっても脳内変換がたいがい自惚れですからね。
内容は聞かず入らず、なんですわ。 ノリ・メ・タンゲレ
わたしに触れてはならない
マグダラのマリアはすでにイエズスに触れていたと思います。
そしてチュッチュされたでしょう。間違いを犯さないように自制を要求なさったのではないでしょうか。
まさか墓の前で愛し合うわけにはいきませんからね。 マグダラのマリアが洞窟から毎日定刻の祈りをするたびに天使が現れて天に運んで行くってどういうことだと思いますか。
神の応答がすさまじくあるということですよ。
使徒たち、弟子、パウロ、彼らもそうですが、聖霊の働きかたが尋常ではありませんでした。
最期は殺されたりと悲惨でしたが。
幸せな最期を迎えたマグダラのマリアですが、骸骨姿の遺体を保管している教会があるそうです。
復活する日が来たら、輝く肉が蘇るのでしょう。その日が来たら、天国でイエズスと何をしていたか根掘り葉掘り聞きたいです。 http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_holyweek.php
聖週間
ペトロの心に、群衆の心に、女性の心に…そして、イエスの心になってみましょう。
そうして、ドラマの中の出来事をたどることにより、キリストの神秘に深く触れていくことができるのではないでしょうか。
受難のドラマが罪の神秘の啓示であり、典礼の一つのモチーフが罪の神秘であるなら、愛の神秘の啓示は、もう一つのテーマでしょう。 汚い言葉もそうですが「賢い綺麗がありました」という表現もどこの日本語かわかりません。
コマーシャルの台詞みたいに聞こえます。
砕かれることも「砕き」といったり「子供=清潔」とか私には聞き慣れないものが多いです。
解釈や教義についての無知(異端的)もそうです。
あの人については申し訳ないけどとにかく気持ちが悪いのひとことです。 ノリ・メ・タンゲレ はラテン語訳です。
μή μου ἅπτου
メー モー ハプトー ヨハネ20:17
チュッチュしあった間柄こそのことばですね イエズスが「マリア」と呼ぶ時、それは母ではなく、マグダラ(ベタニヤ)のマリアでした。 ユダヤ社会では神はお一方しかいないと信じられていました。
そこで「わたしはある」とイエズスがおっしゃった時、ユダヤ人たちは激怒したのです。
弟子たちにとっても当然、神はお一方でした。ですから、「わたしの神、わたしの主」と答えたのはイエズスこそヤハウェである神と告白したのです。
しかしハイテク時代を知らない人々には理解できません。
イエズスは自分の思いではなく父のみ旨を行いました。それは人性によらず肉によらず私情をはさまず、旧約聖書によってあらかじめ預言されたヤハウェである神のみ旨を成就するためです。
イエズスは父にお願いすれば今すぐ天使の軍団を遣わすこともできると、逮捕される時にもおっしゃったはずです。
イエズスは従順のお手本を私たちに残し、私たちをどれだけ愛しておられるのかをその受難と死においてお示しになったのです。
イエズスの生涯は神の慈しみを全面に出したものでした。
終わりの日、主の怒りの日、裁きの日に、神は一つの名前で呼ばれるようになります。 ピピではなくピッピpippi
『長くつしたのピッピ』
変わってるけど本当は良い子のピッピです。 こんなところで寺園喜基先生の論を持ち出すのはご迷惑かもしれませんが、ごめんなさい。
『現代を問う神 キリスト教入門』
p93
それゆえ、父なる神はまず第一に、端的にイエス・キリストの父なる神でありたもう。
私たちが自分の肉の父親から類推する「父性」の精髄が父なる神なのではなく、イエス・キリストが「アッバ」(お父さん)と呼びかける方が、父なる神なのである。 笑かしますよね。
イエズスキリストの前には
上も下もありません。
天使でさえあなたがたと同じしもべですと言いました。 去年のことがあってから聖霊なる神がよくわからなくなっているピッピです。 >>496
ヤハウェはナザレのイエスだという説
http://www.logos-ministries.org/old_b/zech13-14.html
2B 試される民 7−9
(略)
私たちや罪の赦しを受け、神の子供になり、そして義と認められるために、神はキリストを殺されたのです。そしてキリストご自身もそのことをご存知で、今は満足しておられます。
ゼカリヤ書13章7節に戻ります。ここの預言の際立っていることは、もう一つあります。
主が、「わたしの牧者」と言われた後に、「わたしの仲間」と言われていることです。
この「仲間」は、「同等の者」と言う意味です。ヘブル語を見れば、牧者と仲間の者は同じ人物として語っているそうです。つまり、牧者は神と同等の者ということです。
12章でも、「自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見(10節)」とありましたが、突き刺された方がヤハウェご自身、神ご自身であることを示していましたが、ここでもはっきりと示しています。
そして英語には、”Against the Man, who is My Companion”となっています。
「私の仲間であるこの男に」となっていて、ヘブル語は男を表す「ガバル」が使われています。
つまり、人であり神であることを、この箇所ほど明確に宣言しているところはないのです。 続き
http://www.logos-ministries.org/old_b/zech12-14.pdf
p8
ここゼカリヤの預言には、「自分たちが突き刺した者、わたし」とヤハウェなる主が明確に、ご自 分が突き刺されたことをお語りになっています。
どうやって、神であられるヤハウェである方を、彼 らが突き刺すことができるのでしょうか?この宣言を行なわれたのがイエス様です。
主が、何度と なく「わたしはある」と言われたのを思い出すことが出来るでしょうか?
ヨハネによる福音書の中で、 「わたしは、世の光である」「わたしは、命のパンです」「わたしは、いのちです、よみがえりです」と 言われましたが、はっきりと「アブラハムが生まれる前から、わたしはある(ヨハネ 8:58 参照)」と言 われたのです。
出エジプト記 3 章 14 節に出てくるヤハウェの名前、「わたしは、『わたしはある』と いうものである。」を宣言されたのです。 イザヤ53章
「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(10-11節)」
私たちや罪の赦しを受け、神の子供になり、そして義と認められるために、神はキリストを殺されたのです。
そしてキリストご自身もそのことをご存知で、今は満足しておられます。 http://www5b.biglobe.ne.jp/~shinju/Agreda%20no%20Maria.htm
アレグダのマリア
1.主こそ神
2.人となられた神
3.主こそ御父御自身
4.主こそ天地の創造主
5.主こそ救い主 「メシヤであるエホバの恵み」
って何ですかね。
日本基督教団でもイエズスキリストはヤハウェなのでしょうか?
http://eternal.life.coocan.jp/BibleTimes/ch9.html
預言者イザヤがメシヤであるエホバの恵みを美しく描いたのはここからでした。 今夜ほどロマ書8章が満ち足りて読めたことはありません。
詩篇91もそうです。
小さな罪が積み重なり、ヘビに至るのですから。
用心して騙されないようにしたいものです。肉にも霊にも。
繋がれているところに本心があるとわかります。その背景に入り込むことが識別の要です。 異端警戒と並列化しましょう。
衝撃の内容。
http://hvri.gouketu.com/illuminati1962.htm
どのようにすればカトリック教会を破壊できるか?
暴かれた計画
イルミナチイの秘密資料
(訳者不明)
グランド・マスターからの公式指導要項 禁欲というからには性欲は当然あられたがという前提でなければおかしいです。
あらゆる試みの中に性欲がないのはおかしいと私は常々思ってきました。
キリストが使徒および司祭の独身、禁欲を要請しておられたのなら、長であるキリストご自身も禁欲であられたでしょう。
すると、もしマグダラのマリアと婚約をしていて時が来て洞窟から天国への訪問が頻繁に行われたとしても、夫の権利を要求せず妻の求めがあった場合でも義務とは考えずご自分たちの禁欲を解いたりはなさらなかったでしょう。
すると主は性欲の誘惑にも打ち勝たれた方であるとして信頼できます。
http://hvri.gouketu.com/celibacy.htm
使徒時代に起源がある司祭の独身制度
パウロ六世は、キリストが、神と人への奉仕のために余すところ無くご自身をささげられたことを、禁欲によって世に示された、と書いておられます(『司祭の独身制度』1967年6月24日)。 それからあの人たちのことですが、やはり他宗教からの刺客だと思います。
まるで感覚が真逆すぎます。 教皇ツイッター
キリスト、あなたの十字架を恥じることのないよう、教えを授けてください http://ja.radiovaticana.va/news/2018/03/25/イエスのエルサレム入城に響く叫びを観想、教皇、受難の主日のミサで/1368443
教皇は、主の受難の物語は、多く愛することができる一方でまた憎悪することもでき、立派な犠牲ができる一方ですぐに自分は関係ないと背を向けることもできる、今日のわたしたちの感情や矛盾をも明るみに出すものと話された。 桜街道を車で走らせている時にちら見して、なんて色が薄く一花一花が小さく、枝がしなるほどに美しいことかと感じ入りました。
イスラエルでもアーモンドの花が桜とよく似てお花見もされているといいます。
(LOVE FM のゲストさんのお話)
まさかこんな極東の地に生まれながら似た自然の中で過ごせるとは。
イスラエルに思いを馳せ、イエズスの春の日を目の裏に描いています。 パウロも結婚していたと信じる教父がいるらしいです。
「姉妹である女性」を伴っていること「妻である信者を連れて歩くこと」について言及していることから類推できるとか。
結婚はしていても、ペテロもパウロも妻との性行為を断念してキリストに付き従っていたそうです。
ここまでしなくちゃいけないのですか。
http://hvri.gouketu.com/celibacy.htm 『manna』本日の箇所は使徒14:19-28
解説をいちぶ引用します。
このわざを見たルステラの人々は、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼んで二人にいけにえをささげようとしました。
バルナバとパウロは、この群衆に、創造者でありご自身を啓示してくださる神様を語りました。 15 言った、「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。
そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。
16 神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、
17 それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。
すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。 共通善を築くことを優先するあまり、ソロモンのような失敗を犯しませんように。 犯人の姉にリベンジレイプ
パキスタン
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/14492872/
【AFP=時事】パキスタンの警察当局は27日、16歳の少女への性的暴行に対する復讐として、犯人とされる少年の姉(40)に対する性的暴行を命じた疑いで男10人を逮捕したと発表した。
事件は20日、中部パンジャブ(Punjab)州トバ・テク・シン(Toba Tek Singh)で起きた。
地元警察のナイーム・ユサフ(Naeem Yousuf)氏はAFPに対し「ワシームという名の少年が16歳の少女と性行為に及んでいたところを捕まり、近隣住民が集まって少年の殺害を求めた」と明かした。
ユサフ氏によると、少年の家族は少女の家族に対し、自分たちの家族の中の女性をレイプするという選択肢を与えた。少年の姉が選ばれ、少女の兄弟にレイプされたという。
双方の家族はこの件を忘れ、恨みを持たないとの手書きの合意書を作成。
地元警察のアブドゥル・マジード(Abdul Majeed)署長は、警察官の1人が合意書を入手し、署名した双方の家族の計10人が訴追されたと述べた。
家父長制の慣習が残るパキスタンでは復讐目的のレイプ事件が頻繁に発生しており、時間と費用がかさむ司法制度に代わり、男性間の争いの解決手段として女性がしばしば利用されている。
【翻訳編集】AFPBB News 「来なさい、わたしの花嫁」
イエズスはマグダラのマリアを天国に迎えるとき、こう語りかけたという。 私たちに啓示してくれるだけじゃなく、受肉して、人と同じ姿になって目に見える神となってくださったにもかかわらず、また下って行き信仰を放縦に変える人たちがいました。
心に割礼がないので読むことも理解することもできません。
私たちのまっすぐな心を汚すだけでは済まず引き込んだり殺そうとします。
そしてこういうのです。
「ナルシスはナルシス、エコーはエコー」
あなたがたの神々が呼んでいます。 私の職場は老人ホームでした。
特別養護老人ホームです。
健康そうな入所者でさえなんらかの障害を有していました。
相性もあり、仲良しから犬猿の仲まであります。
素直な人、疑い深い人、いつも不安な人、怒る人、ニコニコしてるけど認知症なのです。
寝たきり、目が見えない、心に深い傷。
サウロはステパノが石打ちされるのを見てました。いたるところで乱暴を働き牢にいれました。
ある日、聖母の祈りに応えたイエズスがサウロに光を与えました。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのですか」
サウロは神秘を経験してキリストを迫害することをやめました。彼は自ら「月足らずで生まれた」と証言しています。
満たされたから信じたのではありません。彼は強烈な感覚とその後の御霊の指示により不思議を経験するうちに変えられたのです。 弟子たちの欠点一覧表が欲しいです。万事を益としてくださる神が欠けだらけの私たちをふさわししいかたちで用いてくださいます。
私たちにまず考えられないのがみことばの否定です。
イエズスは悪魔の試みの最中で投げかけられた不適切なみことばを否定しませんでした。
次に私たちは十字架の贖いを信じます。悪魔は十字架以外でイエズスを殺そうとして何度も失敗しています。イエズスにはこの死に方しかありませんでした。それが父なる神のみこころなのですから。
この福音を信じることによって救霊され、最後の審判を過越できるのです。 痛いから泣くのでしょう?
怒りも、笑いも、不服も、私たちの中のモノサシが叫んでいるわけです。
イエズスは言いました。
「うわべだけで裁かないで正しい裁きをしなさい」
http://www.nishitani-church.jp/blog/2009/08/post-202.html チャック♂とハム♂が無事に帰りますように。
夕べ帰って来ませんでした。
枕元でチャック♂のか細い声が聴こえ、赤いこたつ布団みたいなものから出てくるビジョンを見ました。無事でいることを祈りました。
あやめ♀は夜中、不穏で、しきりに何か知らせたがっていました。
朝、QP♀も門の外でしきりに寝転がりパフォーマンス。しかし決して家には入りません。
カレシの野良もいないのです。
男連中だけ何事かが起きています。 まことの鏡はイエズスキリストにあります。みことばです。
世の言葉には二股、三股、揺れ動く波しかありません。 QP♀がカレシを連れて帰宅しました。
チャック♂、ハム♂も無事でありますように。
心配で心配でしかたありません。 パウロの心配
コリント 2
11章
27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。
28 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。
29 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。 チャック♂帰宅しました!
神様ありがとうございます。
ハム♂どうしたのでしょう。
一緒だと思ったのに。
脳内通信もありません。
どうぞ無事でありますように。 祈りながら眠くなり、ウトウトしてる間にハムが餌を食べてるビジョンを見ました。
夢で理由も示されました。
洗濯物を取り込みに外へ出ましたら、悠々とハム♂が現れ、私は今、大満足です。 油断なく祈り続ける一日
1. カラスも来たけど、鳩がよく啼いていたので見えないメッセージが投げかけられているだろうと信じました。
2. チャック♂がもしもどこかで閉じ込められているとしたら、その周辺の人が気づいてくれると強く信じました。
3. それでも心配はおさまらず、チャック♂の姿を確認するまでずっと祈り続けました。 「油断せず」と「間断なく」が混ざりました。
油断せず、間断なく祈り続ける一日 至聖三位一体
・御父
・御子
・御霊
聖家族
・ヨセフ
・イエズス
・マリア http://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/holy_thu.php
聖木曜日
第1朗読 出エジプト記 12章1〜8,11〜14節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 11章23〜26節
福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1〜15節 旧約聖書の神は夫であり男性です。
何千年もの間、私たちを抱いてくださっています。もう何度となく抱かれています。
申命記1章
31 あなたがたはまた荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。あなたがたが、この所に来るまで、その道すがら、いつもそうであった』。 父よ、と祈るのは
人々が信じるためです。
ヨハネ11章
41 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
ヨハネ8章
50 わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるかたが別にある。そのかたは、またさばくかたである。
ヨハネ12章
28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
29 すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。
30 イエスは答えて言われた、「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。
ヨハネ12章
44 イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、
45 また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。 十字架は神のみこころです。
ヨハネ10章
17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
ヨハネ11章
49 彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った、「あなたがたは、何もわかっていないし、
50 ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」。
51 このことは彼が自分から言ったのではない。彼はこの年の大祭司であったので、預言をして、イエスが国民のために、
52 ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると、言ったのである。
53 彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した。
ヨハネ12章
31 今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。
32 そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。
33 イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。
黙示録1章
5 また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、 十字架を否定する人は、十字架の御救いと何の関係もないと告白するに等しいのです。 ペテロには本当に泣かされます。
そしてもっと泣かされます。
私はこの「手も頭も」と主に望む場面で泣きました。
だって関係ないなんていわれたくないですから。
ヨハネ13章
6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。 ヨセフ亡き後、公生涯を始めるまでの三年間はどんな暮らしだったのでしょう。
父と母を敬えとあるように、イエズスがへりくだり仕えたことは間違いないと思います。
母はイエズスの優しい気質をご存知だから、イエズスの博愛にならい、神の愛を疑うことなく最期まで生きられたでしょう。 犬猫にも個性があります。
うちのあやめ♀は、ガラスや鏡に映る私を見たがります。
かつては鏡の中に入ろうとする猫もいました。
鏡に映る自分自身を見知らぬ者と思い、吠えまくる犬。
逆に不思議そうに眺める犬。
鏡に映る自分に恋した鳥などがいます。
侮るなかれ。 http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_holyweek.php
第1日目:ユダヤ暦の週の第6日
木曜日の日没から金曜日の日没まで。最後の晩餐からイエスの死、そして墓に葬られるまでです。 教会の典礼では、聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」にはじまり、翌日午後3時ころ(正式にはこの時間に典礼が行われます)に行われる聖金曜日「主の受難」の祭儀までです。 イザヤ53章
1 だれがわれわれの聞いたことを/信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。 8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
9 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。 11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。 http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_holyweek.php
第2日目:ユダヤ暦の安息日
金曜日の日没から土曜日の日没まで。 教会は、主の墓のもとにとどまって、主の死をしのび、祭壇の飾りを除き、この日はミサもささげません。 ある日(今日です)、二人は同郷であることがわかり、話が弾む。
私は十字架のことばかり考えていた。「偶然ですよねー」上の空だった。
離れてからハッと気づく。
偶然というものはない!そこは「神のお引き合わせですね」
だろうが。
信仰がまるで身についてない。
恥ずかしかった。 GLA元会員スレに本日投稿のID:Q9UODxWfさん
591より
http://itest.5ch.net/rio2016/test/read.cgi/psy/1485339463#
キリスト賛美しておりながら理解はめちゃくちゃ。 イザヤ54章を読むといつも痛みます。やっぱり捨てられてたのだなと思い、そこに囚われて泣きます。
ここで、私は苦しみも悲しみもまだ絞りきっていないと感じます。
みじめさの現実から逃れることができません。
いっそ永遠の泣き女にでもなったほうがマシです。 いわゆる物資界もただ私たちの犯した罪のために囚われて、虚無に服しているだけのことで、本来は栄光体のように自由であると思います。
権威ある神のご命令には従うのですから。
ローマ8章
19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。 http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_holyweek.php
第2日目:ユダヤ暦の安息日
金曜日の日没から土曜日の日没まで。 教会は、主の墓のもとにとどまって、主の死をしのび、祭壇の飾りを除き、この日はミサもささげません。 どんな痛みが母を襲ったことでしょう。
反対者の憎しみが大きいほどに母の心も痛みました。
ルカ2章
34 するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――
35 そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。 聖書にも聖伝にも書いてないですが、この剣に込められた多くの人の思いは、マグダラのマリアに関することだったと私は考えています。
つまり嫉妬です。
「もう二人は永遠に引き裂かれ、幸せにはなれない。ざまみろ」
という妬みが、母の胸を刺したのだと思います。
私の霊的な体験からですが。 エンメリックの幻視によると、マグダラのマリアは半狂乱したような苦しみを見せています。
これはゲッセマネで祈っている時のイエズスが、悪魔たちに打ち叩かれ苦しむイエズスの描写と酷似しており、私にはまるで肉体のペアのように見えました。
グノーシスによる解釈から悪魔の考えを読むと、悪魔はマグダラのマリアとイエズスが愛し合っていて性的に結ばれたがっていると思い込んでいます。
このことを下品に表現したものがグノーシス文書です。
グノーシスによる解釈とは、マグダラのマリアとイエズスの霊的結合がすべての霊を開放する鍵なのです。二人は原始からの両性具有の魂であると教えています。
エンメリックは悪魔の攻撃の要所を視たのではないでしょうか。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。