【大失恋から】ピッピの証し【の回復】
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ヨハネによる福音書/ 03章 16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネの手紙一/ 02章 15節
世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。 装いあらたに再開します。
なおコメントや質問には殆どお答えいたしません。
あしからずです。
2017年12月25日、クリスマスの朝。
埼玉の友人からお菓子が届きました。またシンクロして不思議な気持ちです。
私もクリスマスに届くようにとカードを送りましたから。
お菓子は教会へ持っていき皆さんに食べていただきました。 >>2
あけましておめでとうございます🎍
ずっと なに しとったん?✴?💦 霊的に混乱してずいぶん泣き通しました。
イエズスの十字架(命の木)を見上げて、ただただ見上げて最初からやり直します。
正月に博多マイングのタリーズでハッピーバッグを購入しました。
2日に行きましたので出遅れたのでしょう、マスタードイエローは完売しており熟慮の末三千円のネイビーを選んで帰りました。
結果的にネイビーで良かったと思います。 >>5
あ、質問に答えないって書いてるのね。🌺
スレ同時でしたので。 毎日、今日こそ命を取り上げてくださいとお願いしています。
目が覚めると悲しい気持ちになります。
生前整理のつもりでやれることは何でもやりました。年が開け、ただの大掃除になってしまいました。
セミの脱皮みたいに背中が割れるような霊的感覚がありました。
霊的感覚を何でも受け入れることは危険だと思いますが、「出ておいで」という命令を期待しました。
しかし何も起こりません。何かが起こるまでは、むやみに信じることはするまいと決めました。 今、毎週のミサにあずかっています。
祝福をいただきつつ頑なな心を変えていただこうと思います。
クリスマスケーキもおせちもない寂しい年末年始です。
毎日死ぬことを願っているにもかかわらず体のため少しは食べています。
昨日は湯豆腐でした。昆布つゆと味噌だれをいれます。
味噌だれというのは、セブンのおでんを買ったときにつけてくれる甘い味噌だれを味わったときとても美味しかったので、スーパーで1本買いました。 悪魔のもたらす悲しい世界をなくしてほしいです。
神様、早く偽りのない愛と喜びの世界にしてください。そこであなたの子供たちが安心して楽しみ暮らすことができますように。 >>6
ちなみに私の財布もネイビーです。
ネイビーにして良かったですね。 毎日死にたくてたまらないのに、ミサにあずかる決意をしたのは、私のイエズスと教会の皆さんが信じているイエズスとの一致を願うからです。
私には悪魔がついている。悪魔はイエズスのふりをして私を騙している。
でも私は悪魔ではなくイエズスキリストを主とあおぎ信じているのです。 今朝は雨が降りました。
白い雲が低い位置に降りていてまるで霧のかたまりのように浮いています。
雲は神の臨在を表すと言いますね。再臨のキリストは雲に乗って地に戻って来られます。
ああ早く雲のひとかたまりと共にキリストがみ使いと一緒に現れてくださったらいいのに!
空を見上げるといつもキリストの再臨を思います。
私は今、あなたを求めます。夕方や明日や来週ではなく、今、来てください。 生前整理がただの大掃除になってしまい、やる気をなくしました。
今日やれたことは保存瓶を二本整理したことだけです。
昼はおじやを食べました。 日課
□ ディボーションガイド manna
□ 箴言カレンダー
□ 感謝/悔い改め
□ 日ごとの福音 (ミサ朗読)
□ 教皇フランシスコ Twitter
□ 片付け
□ 猫の餌
□ ニュース
□ ネット巡回 ロザリオの祈りを追加したいのですよね。時間だけはたっぷりありますので。
ほーんとテレビ観なくなりました。世間話もつまらないです。
将来やりたいこともありません。
お迎えがいつ来るのかわからないのだから、寿命を生きることを前提に何かやっていたらいいのでしょうけれども。たとえば正式なカトリック信者になるためのお勉強を開始するとかです。
しかし暇があるとお迎えを願っていますから私は。
目標を持つと死ねない雰囲気ってあるじゃないですか。
いつも、片付けの途中ですがお迎えに来てください、と祈ります。 『教会の祈り』が提供する「読書」を連続読みしました。
イザヤと創世記。
紙の聖書はなかなか進まないけれど電子聖書はあっという間に前後まで読めます。ふと調べたくなったら検索して説教や研究結果を複数読みこんで考えにふけって、参考画像によって理解を深めています。
*仮庵の祭りにはベランダにテントを張るそうですね。
字の大きさも関係していると思います。 今までの人生でお正月にテレビ特番を観ていた理由は、お正月を迎えている私のお正月気分をさらに高め味わうためでした。
クリスマスの日もそうです。クリスマスケーキを食べてクリスマス特番を観て、クリスマス気分を高め味わうためだったのです。
でも前ほどは特番少なくなってないですか? ふさわしい人生を生きて来なかったことを神の御前に恥じます。
イスカリオテのユダが絶望して自殺するしか選択肢がないように感じた気持ちも理解できます。
ハガルのように女主人のサラの顔を避けて逃げ出した気持ちもわかります。
私は立ち上がれません。
悲しくて悲しくて逃げ場もわからない。つらいです。
神様、私にも「光あれ!」とおっしゃってください。あなたのみことばをください。
私の中のいらないものを処分してください。あなたは完璧な方ですからあなたに似たものを残して、他のいらないものを焼き尽くし、私を救ってください。思い出すこともないように希望で埋め尽くしてください。 ピッピはズラやみるなに吹き込まれてイエス様を疑いましたからね。
蒔いたものを存分に刈り取られると良いでしょう。 淫乱妄想を続けながらでは、何をやっても無駄だろうな ソロモンの博識ぶりを読もうとして列王上を読みながら、またふさぎこむ。男はどうして多くの(または複数の)女を愛するのか。
神の約束はいつも〈永遠〉を提示する。しかし条件は守られず、躓くと約束は反故にされ〈捨てられる〉のだ。
11章
3 彼には王妃としての妻七百人、そばめ三百人があった。その妻たちが彼の心を転じたのである。
4 ソロモンが年老いた時、その妻たちが彼の心を転じて他の神々に従わせたので、彼の心は父ダビデの心のようには、その神、主に真実でなかった。 どうしても男女の性愛に心が向いてしまうピッピであった 神話上の神々(多神)に従う→移り気の愛情(多妻)
主(一神)に従う→一途な愛情(一妻)
個人的な考え >>27
偽りの愛(移り気)と真実の愛(一途)についてである事と考えられます。 「蟻はありのままだった。」
これ うけたよね?<(`^´)> >>28
偽りの愛に依る「永遠」→「裏切り」
真実の愛に依る「永遠」→「真実」となる。
(「愛情」では無く、「愛」の方)
個人的な考え >>25
墜ちた時点で人間か、あるいは、それ以下の存在となるからですよ。
神は人間など相手にしなかった。
しかし、新約で最後の審判も始まるという今、神々は再度降臨しようとしている。 >>30
愛に偽りも真実もありません。
聖書的に言ってしまえば只の言葉に過ぎませんが、
実質的な話し、相手が男性か女性。それだけです。 みことばを軽んじる人は
みことばから軽んじられます。 >>28
あなたは相変わらずの男性主義者のようですね。
女など奴隷であれば、とも思っているのでしょう。 >>34
本文が「彼」目線に於いての男性視点で書かれておりますが? 天使か神か、それくらいの話でしょう。
しかしイエスは選ばない。人間としての人の子でいたかった。
例え、自身が真に神であっても。
自分が神であり、そのことについに気づいた私は、やはり、
人間と自分等が異質であり、決断を躊躇している。
というところだが・・・ >>35
つまり、あなたは、神というものの性格を男性一辺倒でしか考えていないのですよ。
人間、人の子等は神に優しさや母性。ひいては女神やイヴのような存在を
求める割りに、神をただの便利な男としての父であればいいと思っている。 「愛」→「主の右座(キリスト・イエス)」(赦しの愛(光)、「絶対善」) >>39
スレ主へ
少しスレッドが荒れてしまい、申し訳ありませんので少し書き込みを控えさせて頂きます。 >>39
確かに絶対善とは万民の理想ですが、宗教や民族の異なりにより、
闘争は興るでしょう。それを認識するかどうかは自由ですが、
是ならば対立や揉め事がおこり、非ならば、価値観を放棄した悪が生じます。 絶対善:
「世界は、在って正しいもの、事しか存在し得ない。」 聖書の人物や神を
異教の神話や周囲にいる人物と対応させて混ぜこぜにするのはやめなさい。 >>43
それは数多の犠牲の上に成り立つべきものですが、正当な合理化であり、
無視されてきた者たちには失礼です。 「全て」の「変化」は絶対善の元に行われているのであり、貴方が述べられている通りに犠牲の上でこれが後から成立すると「自己言及パラドクス(論理破綻)」となります。
(変化も在る為) >>49
破綻する論理はあんたのそれだけで、すべてが絶対善のわけねーだろ。
鉄の杖でも持って神のつもりか。
ヤハウェでも善の象徴に過ぎないというのに。
人間の観念論だな。 もう一度スレ主へ
何故だか知らないけど、変に絡んで来る方々がおります故、暫く書き込みを控えさせて頂きます。
私のせいでスレッドが少し荒れてしまい、誠に申し訳ありませんでした。 心配するな。
神は完全な愛と公正な方。
善と愛を愛する者は必ず大きく報われるし、
悪を行う者は、必ずその結果を受け取ることになるから。
せっかく教えてもらったのに「世界ふしぎ発見!」を観るの忘れてました。
まあどうせ娯楽になるような気がします。正月幕の内のファミリー番組ですから。
ミサにあずかるたびに何事か起きてましたが落ち着いてきました。
最初のミサの日は、夜、たちまち酷い湿疹ができました。首から始まり身体中にミミズ腫れがあらわれたのです。二週間続きました。
次のミサは湿疹が治まった頃行きましたが、ミサの後、夕方お風呂に浸かろうとしたその時来訪者がありました。
排水管が詰まっているのではないかという指摘でした。それで急遽専門家を呼び高圧洗浄してもらうことになりました。
悪いものが出ているのだと信じています。
三回目のミサの日は朝まで眠れませんでした。ようやく睡魔がきてカクンと落ちた直後、アラームが鳴り、迷いましたがミサを選び祝福をいただいて帰宅。 ーわっしょい!わっしょい!わっしょい!
やっほー! >>54
ピッピさん、よいお証しをありがとう。
あなたに神様のお働き掛けがあるのを目にする思いです。 日課を増やしました。
□ ディボーションガイド manna
■ 『こんにちは、マリアさま』
■ 『マリアと祈りながら イエスの徳に学ぶ』
■ 『キリストにならう』
□ 『箴言カレンダー』
■ ロザリオの祈り
□ 感謝/悔い改め
□ 日ごとの福音 (ミサ朗読)
□ 教皇フランシスコ Twitter
■ バチカン放送局 内容を読む
□ 片付け
□ 猫の餌
□ ニュース
□ ネット巡回 ピッピさん、
あの状態で
勇気を出して教会へ行ったんですね
偉い! と、聖餐式のある日しか教会に行かないシャロンが申しております ご聖体が安置されている聖櫃のそばに赤いランプがあります。これはキリストのご臨在をあらわすそうですが、私の夢の中でも見たことがあります。
例の「イエズス」が赤い豆ランプをご自身の頭を照らすようにカチッと点けたのですよ。
あれは何か意味があるのだろうかと不思議に思っていたのですが、そうなのかと。 だから何か?という話ですけど。
今はもうすべてが悪魔の仕業だと思えています。
私は霊の判別ができません。 私が夢やビジョンで見る「イエズス」は殆どいつも後ろ姿です。 聖ファウスティナが伝えてくれたイエズスの言葉。
「わたしの手は、正義の剣を取ることを好まない。正義の日の前に、わたしはいつくしみの日を送っている」 もう5ちゃんやめようかな。
ナルミさんもいないし。 あんな淫乱妄想書き込んだんだから、オレだったら恥ずかしくて戻って来れないわ 夜は骨付ラムをいただきました。
ちょっと考え事をしている間にスープが煮詰まり焦げてしまいましたが、肉はかろうじて無事だったので。
あの「イエズス」が偽物だったら本物はなかなか出ていらっしゃらないでしょうね。混乱するだけですから。
ですから聖母マリアにとりなしを祈ることにしました。私は弱く罪の深い者ですから、神様のお助け以外に悪魔を追い出す力はありません。 ハム♂が尻尾を怪我してる。
さっきの声か。
私が至らぬばかりにペットまで守っていただけず、すまぬ。 夜中3時頃、私の嫌いな霊的包みがありました。
思考できなくなり判断つきかねるので聖母にとりなしのお祈りをしました。
このような霊的包みに身を委ねるのは、睡魔に身を委ねる時のような心地よさがあります。「完徳」という言葉が湧いてきます。
しばらくお祈りで対応すると、奥心から傲慢の芽(悪魔のにやつき)が出てきました。
やはりこれは危ないやつなんだと確信し、眠らず起きてました。
電気をつけてハム♂の傷跡を消毒したり、餌を入れたり、今日やりたい片付けなどのリストを作るなどして霊に飲み込まれないよう努めました。
悪魔を追い出してくれるように絶えず祈ることが大事だと思います。 外は強い風が吹いています。
私の体はまだブルブル震えており、このまま召されて死ぬのならどんなにいいかと思えるほどです。
この仕業が神であったらどんなに喜ばしいか。
こういう霊的震えが地震の揺れと重なり過去何度も地の震えと一致してきました。
それで、あたかも私が地震を引き起こしているような錯覚に陥り、ごめんなさいと謝りながら肉体の器に自分の霊を収めなおす努力を強いたものです。
今そうした地震が体の揺れと関係してないようなのがホッとするところです。 この体がブルブル震えるのは、夜中にあった霊的包みとは別です。
霊的包みはゆらゆらするものに覆われるもので、夢や幻が視えてくる兆候とよく似ています。
地震と一致する時は霊的包みと体の震えが混在します。
今ある体の震えはもっと覚醒的です。寒さが引き起こす体の芯からの震えと似ています。 >>71
それでもピッピは神様の光の方を向いていますので
大丈夫なの。 ゆらゆらするのは夢や幻が視えてくる兆候とよく似ていると書きましたが、いつもそうなのではありません。
普通に考え事をしながら視ることも多いからです。
自分の内部から来ているのではなく、外からの働きかけが強く感じられるというのが霊的包みの特徴です。
この感覚を避けなければなりません。 旧約の他の預言者にもありますが、これも黙示録の主の日を描写していると言われています。
イザヤ24章
21 その日、主は天において、天の軍勢を罰し、地の上で、地のもろもろの王を罰せられる。
22 彼らは囚人が土ろうの中に/集められるように集められて、獄屋の中に閉ざされ、多くの日を経て後、罰せられる。
23 こうして万軍の主がシオンの山/およびエルサレムで統べ治め、かつその長老たちの前に/その栄光をあらわされるので、月はあわて、日は恥じる。 カトリックのミサで毎回歌われている歌詞。
信仰の神秘
主の死を思い、復活をたたえよう
主が来られるまで(再臨)
アーメン そういうの、心療内科の先生に話してアドバイスもらったほうが良いのでは? 再臨はないとか
終わりの日は来ないとか
裁きの日は来ないとか
自分勝手に決め込んでる愚か者にはならないようにしましょう。 >>82
それ、シャロンだろ。
はっきり終末はないと言い張ってるし。 私の嫌いなタイプ
・残酷な男(悪魔サタン)
・的外れな男(LAに住む男)
・気持ち悪い男(ストーカー)
・エラソーな男(ふ〜ん) イザヤ24章
月はあわて、日は恥じる。
の「日」は太陽のことです。
黙示録にも次のように書いてあります。
21章
23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。 神様に感謝します。
ハム♂は朝から元気そうに見えます。
怪我してる尻尾にホータイを巻こうとするもツルッとすべり落ちてしまうため、消毒だけですが。 地獄の刑罰を逃れられない人についてイエズスははっきり警告しておられます。
地獄はないとか、地獄行きを宣告なさっていないとか、自分勝手な希望的観測による偽りを信じてはいけません。
具体的な例をあげて、こういう人は終わりの日に永遠の罰を受けるとあらゆる箇所に書いてあるのです。
マタイ23章
29 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、
30 『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。
31 このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。
32 あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。
33 へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。 偽善より、喧嘩して後仲直りすることの大切さをたとえ話の中で学びましょう。
リンゴさんのスレによく貼ってあります。
あとから考え直して父の言いつけを守る弟の話です。
また放蕩息子の悔い改めです。
私たちには希望があります。
信じるからこそ神は回復させてくださるのです。その無限の泉を飲ませてくださるからです。
私たちが主のゆえに生きる者となるのは神が永遠だからです。 確かに黙示録を見る限りにおいて、
終末、再臨は聖書的でしょう。
しかしその時期は誰にもわからない、主でさえも。
大切な事は、気候変動や世界の動き、戦争等の噂を聞いて
再臨が近い、裁きが近いと勝手に推測し、怖れたり喜んだり
するのでなく「今」を感謝して生き切る、ではないでしょうか。 人を見るとつまずく、とよく言われたものです。私たちはよく罪を犯すからです。
ミサの中では毎回こう唱えられます。
わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み、おことばの通り教会に平和と一致をお与えください
私たちは十字架の主を見上げて生きましょう。 また雪の予報です。明日と明後日。
今朝も我が家は積雪してました。
落雷も夜中から何回かあり、物凄い地響きがしました。
当然寒いです。
お風呂には一日に二度浸かりました。なんて恵まれた生活でしょう。
私は神の助けも得られないほど罪深いのだと考えて毎日苦悩していますが、神は善人にも悪人にも平等に愛を注ぐお方です。
信仰の薄いこんな私にも現代人が浴する贅沢をお許しになられます。
しかし私はこのことをなかなか気づけなかったのです。 広角泡吹かせている悪人のために
お祈りしている人は何人いますか? ヘブライ12章
26 あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
27 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。
28 このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。
29 わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。 悪人のために祈っている人はどれくらいいるのでしょう。
聖母は迫害者のサウロやヘロデ大王のために回心を祈りました。
サウロは回心しましたが、ヘロデは悪に凝り固まっていたので主に癒されることはありませんでした。 プロテスタント教会はその呼びかけ人である初めの改革者が聖母崇敬をしていたのに、いつのまにか侮りの道へと落ちていきました。
結果的には聖母の計らいに沿っています。聖母は謙遜な方で主をキリストであり神であられることをまず優先して、自らの役割を小さなものとされました。
伝承から遠くなり過ぎ、伝承から離れて聖母の役割を知ることも許されなくなった新しい教会はキリストを中心にした信仰を形成していきました。 軒下に氷柱(つらら)。
山茶花の花びらからも氷柱(つらら)。
水道は大丈夫でした。雪もありません。青空が見えるほどです。でも風が強いのがわかります。
私の心も寒いです。
何の悪いことも起きてないのに。 ホットワインを飲みました。
蜂蜜いれて。
匂いがくさい。鼻を閉じて飲みました。なんかレモン湯を飲んでるみたいだあと感じました。
その通りレモンのお酒でした。
カルディのレモンバッグに入ってたものだと思います。
体質的にアルコールは苦手ですが、ラベルとか見た目がオシャレだと誘惑されてしまうのですよ。
でも飲めない、というジレンマ。
体が暖まるのではないかと期待して飲みましたが、アルコール分はとんでいるため、その後ぶるぶるでした。 霊的包みあり。
天使の助けを制するキリストが見えた。
聖母にとりなしの祈りをする。
サディストが求めるものは涙。
私は泣いた。
私は餌。撒かれた餌。 これで助けの来ない理由がわかった。私は見捨てられ放置されている。
また霊的包みや熱が、神からのものではないことが判明した。
私は偽りの霊と闘うことを期待されている。
自信はない。いつも死にたいから。 私の心奥から聞こえる声も無視するべきでしょうか。
愛してるという言葉。
私は缶詰みたいに閉じこもる。 啓示によるメッセージは、キリストがゆるしたくてたまらないと伝えています。
私はゆるされたくてたまらないのです。
バプテスマのヨハネが水で洗礼を授けていると、ファリサイ派やサドカイ派の人々も洗礼を受けに来たが、バプテスマのヨハネは手厳しい言葉で言い放ちました。
「悔い改めにふさわしい実を結べ」
私も彼らのようにゆるされない根本的な欠陥があるのでしょうか。
ゆるしはふさわしくない者にとってなんと難しいものでしょう。 >>105
それは夏にピッタリ、白ワインベースの爽やかなレモンサングリアではないだろーか・・・
生姜湯はどうですか? 暖まりますよ。
蜂蜜たっぷりでも、マーマレードジャムでも、葛粉でトロミをつけても美味しいです。
足湯しながら生姜湯を飲むとポッカポカ。 偽善者の断食になってしまいますので、霊的格闘を封印します。 視たことすべてを信じるのではなく
天をも震わせようと約束されたことを待ち
苦しくても忍耐して希望をもつことさえ
私たちの自由な選びです。
キリストは勝利者なのですから、悪魔はいずれ滅びます。 神の御国と神の民の永遠の楽しみを喜びます。
たとえ私は悪魔と一緒に罰を受けても、神の民が二度と惑わしのない永遠の世を生きてくれるのだったら本望です。
悪人にも恩寵がある時代を感謝して受け、苦しみと回復を繰り返しつつ忍耐し、霊的格闘から開放されるように祈り続けます。
同じ試練にある方の忍耐と開放をも祈ります。 最初の点検事項。
私はイエズスが幸せならもういいです。
ほかにやらなきゃいけないことがあるにしても。
イエズスの幸せは確定してますから! イエズスが幸せならいい。
それだけは確定してるから。
私みたいな罪人でも喜べる。喜ぶことを許されるだけまだ恵みがある。
そのうち自分の苦しみだけで精いっぱいになるかもしれない。今のうちにたくさん喜んでいよう。 キリストに変装したよしおに誘惑されるピッピであった 不甲斐ない私というのはその通りだけど、たびたび喜びが消えてしまうことが悩みでした。
イエズスは王!キリスト!勝利者!
一日に何回も反復して見えない天の栄光を思うこと。
イエズスキリストの栄光=9割
ゴミのような私の完徳への道=1割
でもいいんじゃないの? 昨日、どんなに雪が降るのかと思えばまったく積雪なし。しかも青空でした。気温は低かったみたいです。
期待はずれでした。
ほぼ寝たきりで過ごして、食事とお風呂、つまらないニュース番組をポチポチしながらざっと見ました。
お風呂はぬるくなるまで浸かり、泣きながら祈り、震えながら着替えます。 日課を終え、電気を消しました。
いつものように号泣し、考えまいと思っても悲しくなるのです。
ところが少し変わったことがありました。
某スレに貼ってある聖職者のスキャンダル記事を心に留め、被害者と加害者の癒しを神に願ううちに、自分の悲しみが小さくなっていったのです。
興奮状態から冷静になれました。
天の過越に関係するビジョンも見ました。小さなビジョンでしたが、新しい情報でした。 私が視るビジョンは私にとって不利なこともあります。
たとえば12月中旬に視たビジョンですが、
・イエズスが誰かをマントで覆いながら地上の大崩壊の音から守っている。
・白い衣を着たイエズスがハンガーに掛けてある白い衣を見繕うように選んでいる。
・天と地を結ぶような広い雲と狭い雲がある。どちらの雲の中にも光の筋がある。しかし狭い雲の中の光の筋は天から梯子を外されるようにポッキリ折れている。
・「イエズス」が初めてマグダラとの関係を否定する。だが答え方に疑問があったので、目覚めてから問い直した。
・翌日「イエズス」は私に何もしないで沈黙している。
都合のいい見方だと、守られたのは私だと思いたい。だが現実の私は苦悩の連続でした。
梯子を外されたのは私の方ではないか、というわけです。
「イエズス」の的確ではない言葉、現実の朗報がないこと。
この的外れなところが、神とは思われないこと。
考えられるのは、このニセ「イエズス」が真面目に人違いをしているのではないかというものです。
「もう一度、天をも震わせよう」
中空には未だ悪い天使たちがいます。悪い人間が想像の翼を持って上っていることもあります。
彼ら偽りを語る霊たちが、中空からもいなくなるということだと私は解釈するものです。 私は肉体的には処女なので、童貞以外お断りです。
早く私も罪を赦されて、あの似た人と出会いたいものだ。
的外れな人ではなく、傷つけることもない純真で善良な人を与えて欲しいです。
若い日に理想の人と出会いたかったというのが本音ですが。ため息ついてもなあ。 今夜はお風呂からあがりすぐにホットワインを作りました。
みかんの缶詰を開けて、実とシロップを入れました。 私、ほんっと詐欺師みたいな話し方大キライ。
ゆらゆらしててどちらともつかない内容で、相手の反応を見て真意を変えるやつ。 >>133
それは、潔癖症、完璧主義という、ある種の依存症者でしょうか。 >>133
バツイチ設定が嘘で実は童貞だったら、よしおでもOKですか? 明日のミサ第二朗読です。
略部分はおそらく配慮のためでしょう。娼婦と結びついてはいけないとパウロは説いています。
旧約時代から娼婦は忌み嫌われていますが、実際は娼婦から聖書の歴史が動かされてきたことも多いのです。
キリストも娼婦が先に天の国に入ると仰っています。
コリント第一 6章
皆さん、
6・13c体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。
14神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。15aあなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。
17主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。
18みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。
19知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。 わっしょい✨わっしょい✨わっしょい✨
やっほー😃✋ もう年齢的に遅いけど、出会いがあればわからんなと思います。
忘れていかないとだし、私も癒される可能性ありますよね?
許されるなら与えられると信じます。
友情みたいな恋だって有りですよ。 1/14 日曜日
初めて参加したカトリックの聖書講座で七つの大罪を教えられました。
神父様はそのうちの一つ「怠惰」についてお話しされました。
教皇フランチェスコはバチカン放送局の「ミサ中の「回心の祈り」について考える、教皇一般謁見」の中で触れています。
教皇は、自分が行えたはずの善を行なわなかったという意味で、「怠り」も告白すべき罪の一つであると述べ、隣人に対して悪いことを行なわないというだけでは十分ではなく、善を行う機会を逃してはならないと説かれた。
wikiより美徳との対応
暴食⇔節制、色欲⇔純潔、強欲⇔救恤、憤怒⇔慈悲、怠惰⇔勤勉、嫉妬⇔忍耐、傲慢⇔謙譲。 初めて参加した聖書講座は何年も前ですが、
ていうか、私の記憶が「怠惰」についてより強く刻んでいるのかもしれませんね。
ちょっと身につまされる経験でしたから。 善を行う機会。
だから新人はよく送り迎えを依頼されるのでしょうか。
プロテスタントの複数教会で車を持ってる人は信徒さんを家まで送ってあげてましたし、私も奉仕しました。
カトリック教会でも、神父さまから送ってくれとお願いされました。 たとえそれが「善」だとしても、私たちにとっては「当然のこと」なんですけどね。
当然のことをしたまでだと言いなさいとイエズスも仰っています。 ルカ17章
10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。 たしかに私も罪人、悪人の一人として神様から平等に愛されています。
でもその内容については嫌われているのです。
箴言6章
9 なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。
10 しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。
11 それゆえ、貧しさは盗びとのようにあなたに来り、乏しさは、つわもののようにあなたに来る。
今まだベッドの中です。
だから天使が私を助けようとした時、腕を伸ばして制止されたのだと思います。
私は嫌われて当然ですが、聖母にとりなしをお祈りしてます。
どうか助けようとする天使を止めないよう、あなたの御子にお願いしてくださいと。
私を悪からお救いください。 さっき夢を見ました。
私から傲慢の芽が出ました。
神様に撤回して私を鞭打つようお願いしたところです。
本当に私はバカです。 私の書いたレポートが本になってる夢でした。誰かが書評を書いているのを発見し、本になってることを知ったのです。
それで有頂天になり、確認もせず印税のことを考えました。
古い知り合いと再会して、私はそのことを自慢しました。
バカだねー。
ムチ打たれないと直らないよ、これは。夢だからこそ正直だもの。 本日の予定
世界遺産「エーゲ海!謎の千年都市エフェソス」トルコ[字]
1/14 (日) 18:00 〜 18:30 (30分)
RKB毎日放送(Ch.4)
番組概要
千年に渡りエーゲ海で栄えた古代都市、そこには世界七不思議と言われた巨大神殿が!
さらに墓から見つかったクレオパトラの妹の骨から、絶世の美女クレオパトラの姿を再現!
番組詳細
トルコ西部に残る巨大遺跡エフェソスは、エーゲ海沿岸で千年にわたり繁栄した古代都市です。なぜ時代を越えて繁栄したのでしょう。
始まりは古代ギリシアでした。「女神の巡礼地」として栄えたのです。ローマ時代には交易が盛んになり「港湾都市」として発展します。
さらに初期キリスト教の時代には「聖母マリア終焉の地」として聖地になりました。
しかし大都市イスタンブールが建設されると、政治経済の中心は移って行きました。
杏
<遺産名>エフェソス<登録年>2015年<登録理由>(III)文化の証拠(IV)優れた建築(VI)出来事・伝統との関連 聖母の啓示を読んでいると自分がわからなくなります。
召された修道者たち、しかも落ち度のないように見えた方々が煉獄に落ちているという報告を聞くと、評判や確信などアテにならないことがわかります。
聖母は言います。「彼らには愛がなかったのです。」
愛のない生き方をしていると謙遜するのではなく本当に愛がなかったから苦しんでいるというのです。
どんなふうに生きたらいいのかわからなくなりました。
怖くなりました。 (現状)
眠れるだけ眠りたい。
ただただ愛されたい。
↓
私には愛がない。だから私の罪は残されている。
こういう図式ですね。 これからどう生きたらいいのかわからない。
暮らしを楽しんだらいいのか、犠牲を強いて苦しんだらいいのか。
いっそ神の御名のもと殺されたい。 無理難題を私に命じないでください。
私は18歳の時、祖父母から40代の男性とお見合いするように持ちかけられました。これが異様な圧力を感じさせるものでしたから「無理やり結婚させるなら死ぬ」と脅しました。
聖母と夫ヨゼフがともに神に終生童貞の請願をたてていたとしても、突然、神の介入により夫婦の交わりをしなさいとか、夫婦の義務を果たしなさいとか命じられたら交わっただろうか。
神のご命令が私にとり無理難題であった場合は背くでしょう。
でもとても苦しむでしょう。私にはそれが神からのものか、悪魔からのものか、わからないからです。神からのものであれば命令に背く私は救われないのです。
命令に含まれる私の嫌悪と、神にすべてを捧げつくすことの間には、大きな葛藤があります。
たとえ神からのご命令でも、私は純潔を重んじ自らの同意なしには誰とも交わりたくないのです。
神様、私に無理難題を命じないでください。 本当の神様は私を嫌っている。
怠け者の私を。
肉体は処女でも、内側は淫欲と強欲と放縦に満ちている。だから好まない人を私に差し出して苦しめてらっしゃるのだ。
あの気色悪い男たちを。
苦しみの時が過ぎ去りますように。
またあなたの金と白い衣と目薬をください。
黙示録3章
18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。 悩みの中にある人は参考にしてください。
私はもう書きません。 悠衣っ、出るっ!中に出すよっ、うっ!ドピュッ!ビュルビュルビュルッ!ビュルッ! 1月半ばの書き込みに、元気でよかったと返すシャロンってやっぱり痴呆なの?
ピッピはその後行方不明なのに >>163
その時点で命の危険を感じたから。
取りあえずその危惧だけは無くなった点で安心。
皆さんも同じじゃないかしら。 出たくはないけど猫の餌が乏しくなり買い物へ行きました。
ちらちら雪も降ってました。
車を動かすと、途中からファンの回るような音がしてカラカラ鳴ってます。ボンネットの中からです。
もうお金もほとんど尽きてますし、自分で見てわかるわけないので怖くなりました。私はボンネットの開け方すら知らないのです。
なんとかスーパーまで我慢しましたが帰りにガタンガタンと音が大きくなりました。
ガソリンスタンドで見てもらう?お金掛かったら払えるかどうか。
「イエズス!ジーザス!」
泣きながらエバの子、とうとうスタンドを過ぎてしまうという頃、ファンの音が止み帰宅するまで異常なしでした。
神に感謝します。 ひっかかってた何かが取れたんでしょうね。
アーメン。 イエズス様のみ手が伸ばされ、アダムの肋骨をとったように、ピッピがぽいっと食べ捨ててベルトに絡まった唐揚げの骨もとってくださったのでしょう。 >>166
確かにピッピさんですね!
よかった!
たった今あなたを思ってたとこ。
車、確かに不思議な事ってありますよね。
それをみても神様があなたの味方よ。 >>155
>ただただ愛されたい。
↓
>私には愛がない。だから私の罪は残されている。
それで良いんです^^
私たち罪ある人間に愛が無いのは当たり前。
神様は愛のない私たちを愛して下さっているのよ。
信じて感謝しておれば神様は喜んで下さるの。
そしてもっと良い物で満たして下さる。
どんな小さな事も感謝して信じて待ちましょう。
神様が奇跡を起こして下さるのを。 自分の型が決まらない。
「孤独に引きこもり天の至福の中で過ごすマグダラのマリア型」
「婦人会を起こし積極的に人と交わるマルタ型」
「『キリストにならいて』のように人のトラブルからは事なかれ主義を貫き、徹底して悲観内省する型」
「プロテスタントのような楽観的救いを能天気に信じる型」 出かけて行っておしゃべりをしましょう。
出来れば孤児院とか、愛に飢えた子どもたちに愛を届けるの
愛すれば愛されるんだよ。 ぴっぴはイエス型だよ。
破産するまで徹底的に貯金を使いはして福袋を買う破滅型
イエスも十字架までまっしぐら。ねこもまっしぐら 鳥唐揚げを頬張り、骨をしゃぶり、ポイっと投げ捨てるとカラカラカラカラガタンガタン「うおやべ!」・・・シーン「セーフ!」型。
しかも爆乳。 >>172
見る限りどれも全部嫌いそう
こんな感じの印象↓
>「孤独に引きこもり天の至福の中で過ごすマグダラのマリア型」
憧れるしそうありたい(けど至福は長続きしなくて鬱期がくる)
>「婦人会を起こし積極的に人と交わるマルタ型」
一見華やか(だけど対人関係苦手で嫌い)
>「『キリストにならいて』のように人のトラブルからは事なかれ主義を貫き、徹底して悲観内省する型」
悲観内省は趣味じゃない(自慰みたいなもんでしょ)
>「プロテスタントのような楽観的救いを能天気に信じる型」
こんなアホになれたら幸せだろうなー(差別視) >>172
鬱で対人障害があった自分自身のこととして考えてみると・・・
「孤独に引きこもり天の至福の中で過ごすマグダラのマリア型」
疲労感が強い時に、引きこもれるというか、ひとりでいられる安全な場所は欲しいかも。
「婦人会を起こし積極的に人と交わるマルタ型」
引きこもりになりやすいから人と関わるほうがいいけど、節度のある距離感が必要な気もするし、
自分の役割に没頭できるほうがいい気もする。
「『キリストにならいて』のように人のトラブルからは事なかれ主義を貫き、徹底して悲観内省する型」
特に人間関係のトラブル処理は負担になるかも。
悲観内省は、無価値感、罪悪感、自責が起こりやすいから危ないかも。
「プロテスタントのような楽観的救いを能天気に信じる型」
うーん・・・ >>172さんへ
私の身勝手な横槍ですが、
恐らくですが貴女は、まず「型(方法)」を選定される前に「目標(方針)」を決められ、「目標(方針)」に沿った「型(方法)」を選定された方が宜しいかと思われます。
そうしないと「方法」が「目的」になってしまい本末転倒となってしまう恐れがあるかと思われます。
「目標(方針)」を決められる際、貴女は「どうしたい」のか御自身に問われて、其れを元に決められた方が宜しいかと思われます。
追伸:
特定の「型(方法)」に必ず拘る必要が無い事も併せて伝え申し上げておきます。
(無理に「型(方法)」に拘ると「方法」が「目的」になってしまい本末転倒となってしまう恐れがあり又、御自身に無理な負担が掛かってしまい、貴女自身が辛く苦しんでしまわれる恐れがあります。)
又、「目標(方針)」は、御無理の無い方が宜しいかと思われます。
(無理な「目標(方針)」にしてしまうと、御自身に無理な負担が掛かってしまい、貴女自身が辛く苦しんでしまわれる恐れがあります。)
勝手な横槍を入れてしまい、個人的な考えを書き記す事を失礼致します。 >>178
ここで勝手ながら一文を
ー凍てつく寒さ辛く心凍り、春の日差し心静かに融け行くー
早春の頃にて ピッピ、おはよう
寒いね
暖かくなったら出て来てね。 一昨日の夜、残りの大悪魔が出て行きました。
「今回だけは許す。だが次回はない。地獄へ落とす」
そして甘くない熱い霊で私を覆いました。
私の中の苦い胆汁から顔を出す大悪魔はこうして逃亡中です。まだ生きていますから皆さん気をつけてください。 伝承や啓示を読むと私なんかとは似ても似つかぬ聖母マリアの活躍ぶりを知ることができます。
「空いた時間も手仕事して家計を助け、常に神とキリストを礼拝し、聖霊の雲に乗りいじめっ子悪魔を追い散らす我らが聖母マリアのスーパーウーマン型」
「休みの日も空いた時間もイベントで埋め、ドライブ、無料プレゼント、ジャンクで腹を満たすピッピA外型」
「居留守を決め込み、日がなベッドに潜り込み、あれこれ観想、夜中も眠らず聖書関連をネット検索、良心の糾明と号泣と怠惰が私の友となるピッピC内型」 悔い改めは神の恵みです。
自分の罪を認められない人もいるのですよ。何が罪なのか理解できない人、こういう人はそのことがどうして罪なのかわからないのです。
また指摘されていることに対し痛悔が起こりません。
私は今回、ファリサイ派や、赦され癒されない人のような立場になりこのことがわかりました。
「自覚できない罪をもおゆるしください」
と何度も祈りました。号泣しました。
0629 シャロン 2018/02/07 23:35:32
罪を認めるのがそれ程難しい事なのかな?
罪があるのは当たり前の事
キリストの十字架の元に逃げ込んで許して頂ければいいだけじゃん。
キリストの血が全部きれいに洗ってくれるよ。
罪の事はもういいじゃん、いつまでもそこに留まっていては
先に進めない、確り生きることが出来ません。
前を向きましょう。
返信 ID:ITln/Eq9(15/17) 俺も悔い改めの「機会」の提供は神の恵みだと思ってるなー
だからやなことがあったら、色んな角度から点検して、そのやなことが実は自分の未熟から生じてることで、それは悔い改めの機会として提供されたありがたいものなのではないか、と考えるように癖付けてる
基本的に「苦」は原罪から生じたもので、苦が生じる時は「神から離れている時」だから
だから苦はある意味で方位磁石みたいなもの
その上で、罪を認めるのなんか簡単じゃんと明るく言う椰子は聖書を読んだことあるんだろうか、とナチュラルに思う
キリストの立てた新しい立法はめちゃくちゃハードル高くて、言う通りやったら、罪まみれになってしまうw
人間の認知のレベルは良く出来てて「自分のレベルに合わせて」「必要なものだけ」認知するんだよな
だから普通は成熟すればするほど、罪を認める範囲は広く、深くなってゆくものだと思ってる
だから、罪を認めるのは、誰にとっても、非常に難しいことだと思うわ 私はシャロンさんの幼子のような素直さに感銘を受けたのですけどね。
だってほら、カトリックでお勉強されてカトリック信徒になったと自称されながら、カトリックの教義を認めず従順に受け入れることもしない毒麦もいるじゃない。
あれなんだろうなと思うの。
どんな気持ちで「はい、信じます」を宣言したのだろうね。 そういう人はカトリックの教義を認めてるし信じてる、と思ってるんじゃない?
悔い改めてなくても悔い改めてる、と思ってる人がいるのと同じ話だと思う 精神病が悪化しているわりには意識がハッキリしすぎている あれだけ重篤な状態で薬物の過剰摂取や色欲的行動のせめぎあいなどがあったのにこれだけ短期間にこれほどはっきりした意識に回復するものだろうか 好きな人からは愛されず →失恋する
変な人からは好かれる →発狂 181ピッピ・シェアトゥ2018/02/08(木) 12:12:01.37ID:mO6B1IhL
一昨日の夜、残りの大悪魔が出て行きました。
「今回だけは許す。だが次回はない。地獄へ落とす」
そして甘くない熱い霊で私を覆いました。
私の中の苦い胆汁から顔を出す大悪魔はこうして逃亡中です。まだ生きていますから皆さん気をつけてください。
なるほどね連中のおきまりの手口だよ
霊障がひとりでにそんなに簡単にばずれるなんてことはありえない
だったら精神病なんて簡単に治るだろ
ちな181は脅迫論証恐怖にうったえているんだよ言ってる椰子の性質が解るよな 霊障は「もうしわけなかつたもうしないからあの世へ帰る」と言ってそこにいるもんだよ 聖母は悪魔たちを完全スルーされたようですね。
私の場合は神か悪魔か判然としないまま(盲目のまま)考え続けなければなりませんでした。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~shinju/Agreda%20no%20Maria.htm
11.聖母はルシフェルたちを避け、聞くことも見ることも話しかけることもしません
アグレダのマリア/神の都市/P313
ルシフェルと悪魔たちは、聖母が海に沈み、決して助からないと脅迫し続けます。
しかしながら、恐ろしい脅しは的を外れた矢のようなものです。聖母はルシフェルたちを避け、聞くことも見ることも話しかけることもしません。
彼らは、聖母のお顔からいと高き御方の徳が輝いているのを一瞥すらできません。この徳を打ち負かそうとすればするほど、彼らはもっと弱くなり、徳という武器により苦しめられます。 ミケランジェロのピエタを検索していると、キリストを抱いている女は年が若過ぎるし生足を見せているのでマグダラのマリアではないかといわれているコメントが多くあります。
容姿が若いというのはまあ人の作り物だから何とでもなるけれど、生足を出すから娼婦に違いないという意見は、私も騙されるところでした。
聖母の御絵を見てごらんなさい。
生足ばかりですよ。 生足ワロタ。
裸足 → くるぶし付近から下を言い、靴下も靴もつけていない様子。
素足 → くるぶし付近から下を言い、靴下をはいていない様子。
生足 → ストッキングやタイツをはいていない様子。
だと想像してみたw
まあ聖母像は裸足で、蛇ちゃん踏んづけてるもんなw ミケランジェロは「理想の身体」を追求した芸術家みたいね。
聖母が若く、神々しいほどまでに美しく表現されているのも、そんな感じなんだろう。 「毒麦」→自身に他者に対する「毒」が及ばず、他者に「毒」を与える。
(「毒麦」が自身の「毒」によって枯れない為)
「変な人」→自身に他者に対する不快等の「悪影響」が及ばず、他者に不快等の「悪影響」を及ぼす。
(他者に対する「良識」の問題)
「無自覚の罪人」→自身に他者に対する不快等の「悪影響」が及ばず、無自覚に他者への不快等の「悪影響」を及ぼす。
(他者への理解に対する「気遣い、配慮」等の問題)
対して、
「良麦」→自身に他者の為の「恵み」が及ばず、他者にその人の為の「恵み」を与える。
上記の幾つかのレスに対しての個人的な考えを書き記す事を勝手ながら失礼致します。 私たち地の人間には聖母が必要です。
良い人は自分の蔵から良いものを取り出すからです。
聖母を通して神に祈ると頭がはっきりしてきて冷静になれます。
昨晩読んで、納得しました。
聖母は聖霊の花嫁ですから秩序を重んじてくださいます。
私たちが嫌がることを強制したりしませんし、キズやシミがあるからといって全部捨てることもなさいません。
まさしく幼児番組『ピンポンパン』のカアたんみたいな方です。
聖マリアの秘密
http://rozario0318.com/archives/3415
マリアを通して自分をイエズスに奉献することは、わたしたちの善い行いをマリアのおん手に、ゆだねることになります。
わたしたちの行いは善いもののようにみえますが、そのじつ、多くの場合、あまりにも汚れていて、神はそれを受け入れ、ご自分の喜びとする値打ちがありません。
なぜなら、神はどんな小さな欠点も見通しておられるからです。
それで、わたしたちは、善い母であるマリアに向かって、わたしたちの、つまらない、おくりものを受け入れて、これを清め、聖なるもの、値打ちがあるもの、美しいものとして、神に受け入れやすくしてくださるように願うのです。
ひとりの百姓が王さまに負債を支払うために、傷のあるリンゴを捧げるとしたら、それは、なんの値打ちもありません。
わたしたちのあわれな霊魂の実も同じことです。
天のおん父の友情と喜びを得るのに、あの傷のあるリンゴよりも、ずっと値打ちが少ないのです。
でも、あの百姓に知恵があるなら、女王のよい心に訴えるでしょう。
そうすると、女王は、かの百姓に対して愛情を感じ、王に対する尊敬のために捧げられた果物から、悪いところを切りとって、善い所を花で飾った黄金のおぼんの上において、王に捧げるなら、
王は、かの百姓に対して好意を示す女王の手から、そのおくりものを受け入れるに、ちがいありません。 キズやシミも全部利用して描ききるカアたんと、調理場に立つ賢い聖母とはちょっとたとえが違うかもしれなかったけど。
要するにキリストに似た人になろうとするなら聖母の鋳型に流し込まれる方が事は早いってことです。
私たちは柔軟な魂を聖母に整えていただくことでキリストに最もよく似た兄弟姉妹へと作り変えられるのです。 私さ、神と民との関係を婚姻の比喩で表現するのはもう何ていうか、違う喩えに変えられませんか?って訴えたい時が何度もあります。
子供や童貞や知識も体験も多くない人は躓かないで済むかもしれないけど、成熟すると、婚姻関係にある二人が寝室でなにやってるかわかるわけじゃないですか。
あんなことやこんなことそんなことを絶叫しながらやってるわけでしょう?
「汝の配偶者なる主の部屋に入る花嫁」
アグレダのマリアが女性であることを考慮して、もう少し清らかな喩えはなかったものかと。
アグレダのマリア/神の都市/P64
「汝はマリアを通して、汝を護り、導き、バビロンやソドムの危険から救い出す一位の天使を受け取るであろう。
マリアは汝を愛する母、相談相手、女主人、保護者、そして女王である。御独り子の母が神殿で修行した功徳の中に、最高で完全な生活の要約を見るであろう。
すなわち、マリアの本当の姿、童貞の美、謙遜の愛らしさ、即座の献身と従順、堅固な信仰、確信ある希望、愛の火と御手の御業の表現を見るであろう。
この規則に従い、汝の生活を整えなさい。この模範の鑑により、生活を飾りなさい。
汝の配偶者なる主の部屋に入る花嫁の美と優雅さに付け加えられるべきである。」 【滅びの子の求道生活】
生活を立て直して良い習慣をつくろう。ごミサも行ったり行かなかったり…。
聖母マリアの胎内時計に委ねる。
朝7:00 起床 無理せず
洗顔、お湯、祈り
日課:『箴言カレンダー』
昼12:00 食事、黙想
日課:『マリアの福音』ロザリオ
夕18:00 食事、(お風呂)
日課:『キリストにならいて』『manna』『賢者の生活リズム』
など
※ イベント(ミサなど)外出が容易になるように 原罪を信じない(とくに私にはない)
三位一体の神を信じてない
イエズスは預言者、大天使
こういう人を教会共同体が受け入れるはずないんですけどね。 ダミー論証
まあ ミルナに騙されるくらいだから 無知にもほどがあるな 昨夜は某スレでなるみ姉さんが絶賛されてましたね。
一見平凡な短い言葉の中に神の栄光が射したら、あれだけの深い広がりを持つものだなと思いました。
今は一般恩寵の時代ですから悪人にもいつくしみが注がれていますが、審判の日には奪われます。
その日が来るとその人の内はどんなに暗くなることか。
でもシャカイナグローリーに照らされた人は幸せです。彼らの道はもう無駄な歩みと呼ばれないでしょう。 フォリアドゥ 感応精神病
ある種の精神病は感染することがある 私はバプテストでしたから自分で信仰を告白する作文を書きました。信徒の前でそれを読み、承認を得てバプテスマを受けました。
罪の悔い改め
十字架の贖い
三位一体の神を信じる
この三つは必ず入れるように指導されたと記憶します。
教会の一致としての信仰告白があります。
サークルのお茶会とは違います。
信徒になるということは。
子供の時に聖歌隊を始める前、
わけわからないうちにちゃちゃっと洗礼を受けるとか
(親の同意も、本人の同意もなく!)
そんな軽薄なものじゃありませんよ。 誰が救われ誰が救われないとか
神の主権について書いているのではなく、
あくまでも地上の教会手続きに関する理解から見た「疑い」です。 >>205さんへ
貴女は、誠実に事に当たられ、少し御無理をされる所があると私個人そう思います。
御無理の無き様、少しずつ歩まれたら宜しいかと思われます。
身勝手な返信を申し訳なく思い失礼致します。 メインドグマ = セクロス
快楽主義者とはよく言ったものだ。
神は愛 = セクロス べつに今日死んでもいいんだけど、私の肉の手をしっかりつないで支えてくれる肉のパートナーを与えてくださいと祈っています。
神様、弱い肉の女を憐れんでください。
外にでないと出会いもないですよね。カナの会に入会しようかと思って検索してみました。
なんか地元での開催はないみたいで。
見初められるように整えていきたいです。 こんなんみつけたw
クリスチャンの彼氏・彼女を作る4つの方法
↑で検索するとヒットします
※URLはNGワード認定でコピペできんかった
ちなみにプロテ系のクリスチャン専用相談所もあったけど、如何にも胡散臭そうw
マッチドットコムで信仰情報から検索するのが一番マトモそうすね
ちなみに、クリスチャンは日本人の1〜2%だから全体の母数は少なすぎる
外人のステキなメンズが好ましい気がする 「良麦」→自身に他者の為の「恵み」が及ばず、他者にその人の為の「恵み」を与える。
「結婚」→2人の「良麦」の関係が「マリア」に依って結ばれ関係が「父」に認められ、赦される事と思われます。
→「自分の恵み」を「相手」に、「相手の恵み」を「自分」に与え合う関係を「マリア」に依って結んで頂き、関係を「父」に認められ、赦される事と思われます。
又、その関係でない関係なら、「マリア」は関係を結ばず「父」に赦されていないので関係は破綻すると思われます。
「自分自身」よりも大切なもの(掛け替えの無いもの)が「相手」なら、又「相手自身」も「自分」に対して同じなら、「マリア」に依って関係が自然に結ばれる事と思います。
乱文ながら、私の個人的な考えを書き記す事を勝手ながら失礼致します。 神様がお造りになられた祝福のエロスは将来廃止されるのでしょう?
だって天使のようになるのですから。
このようにエロス自体が一時的なものなんですからそもそもから永遠ではないし、破綻するとしても体験した事実は残るわけですよ。
未体験者のメリットって何ですかね。それがもうわからなくなってます。
私は性的エネルギーを神様の博愛のために転化して注ぎきるほどの情熱はありませんでした。これからも自信ないです。
結論として出した答えが理想より現実。
判断のつかない霊の手ではなく、肉の手を通して相手を認識したいと思います。 あれからまだ一度も朝7時起きを実現したことがありません。
今日は1時半過ぎに起き上がり、30分ほど食事や歯磨きをしてまた臥床しています。
考え事をしているといきなり夢を見たりします。
さっきのはエパ枡の基準で裁かれている夢でした。連続爆風みたいなものを受けました。
一般恩寵のゆえに体調は静かですが、私を責める何者かがいるという気配との出会いはあまり気持ちのよいものではありません。
神からの裁きだとしたら火の池が待っています。
ゼカリヤ書に出てくるエパ枡(2Lくらい)には罪悪という名の女が閉じ込められています。これがイスラエルから大バビロンの神殿へと運ばれ安置されます。
解釈を検索すると、黙示録の封印された七つの雷の語ったことが罪悪の中身らしいですね。つまり裁きの基準なんでしょうか。
封印されていて内容がわからないところですが、やがて二人の預言者(エリヤと使徒ヨハネ)が来て明らかにするはずです。 半夢の中でエパ枡の連続爆風を受けていると、男の人が誰かをかばうように抱いてる姿がありました。
これと似たような夢(ビジョン)を12月に見ました。
それは狭い雲の中の光線が折れていくビジョンを見た頃のことです。(広い雲の中の光線は無事)
イエズスのような人が胸に誰かをかばうような仕草をして、雲の下の衝撃音から守っていました。
たかが夢のことなのに、何か重要なメッセージでも見たかのごとく悩み続けるということを考えた時、なんだ私もアラフェスやバハムーと同レベルだなと改めて思うのです。 >>232
それを言うなら
まち子さん、なるみさん達のレベルでしょう✨😄 いや、アラフェスやバハムーもまちこもナルミも同レベルってことだろ >>237
うん☀
かわらへん ワラ
どっちでも ええ☀ >美魔女は可愛い💠
____
/ \
/ ─ ─ \
/ (●) (●) \
| (__人__) | ないない
\ ` ⌒´ ,/
r、 r、/ ヘ
ヽヾ 三 |:l1 ヽ
\>ヽ/ |` } | |
ヘ lノ `'ソ | |
/´ / |. |
\. ィ | |
| | | >>230
ピッピさん、こんばんは
いのちより大切なもの/星野富弘
挙げて頂きありがとうございました。
場合によってはプリテイさんに説明しなくちゃならないかも
知れないので本当に助かります。 ピッピさん、あなたを責めて苦しめる声は神様からのものでは
絶対にありませんから、よくよくお心に止めておいてくださいね。
そんな声を聞いちゃだめですよ、声は決して良い事は言いませんから。 私、経血が燃えているような光景も見たのですよね。一つの街くらいある大きな炎が上がってました。
最初私はエドム(ボツラ)かなと思いました。しかし燃えるのはエボラ(ボツラ)ではないですよね。見ている方向からすると私がエルサレムにいることになるので、やはりおかしいし、逆に私がエドム(ボツラ)にいるのだとしたらあれはエルサレムが燃えているのだと考えました。
私はエドム(ボツラ)で妄想によるぶどうを踏まれ血を流しました。その地がエルサレムまで流れたので、油の代わりに燃やされているのだろうかと。
エルサレムを取り囲んだ無数の敵が天からの火で焼き尽くされているところかもしれません。
野焼きみたいに悪いものが焼かれ、後から青草が生えてくるみたいな、そこまで想像しました。 前後するんですが、邪悪な角が大小積まれているビジョンも見たことがあります。あれなんかは第一の獣に自分たちの権威を委ねる地の十人の王(つの)を思い起こします。
私はこの預言を忘れて、まるで屠るために集められたもの、すなわちやっつけられた悪魔のつのだと期待したのです。だってねじ曲がった大つのは悪魔みたいだったからです。
私の救いが間近いなんて勘違いしちゃって。
何だよ、獣の行動はこれからかよとがっかりしました。彼らは大バビロンを憎み、裸にし、肉を食い、火で焼き尽くすそうですが、また私の身に良からぬ災いがやって来るのかと。
以前見たもので、天からのロート雲が私のいる家に箱みたいなものを置いていったこともあります。
ふわふわと浮いて部屋の奥まで行こうとする得体のしれない箱でした。私は勇気を奮いおこして途中でこの箱を掴みました。 なぜ炎が経血みたいに思えたか説明します。
この間、大悪魔が私に言いました。「次はない。地獄だ」
その直後、私は夢でトイレに行き、生理用ナプキンを外したからです。 >>245
>また私の身に良からぬ災いがやって来るのかと。
「主があなた方を悪いものから守られるように、」
一昨日の礼拝時の祝祷の文言の一部です。
ピッピさんにも同じ恵みが。 ピッピさんとバハムーは悪いけど同レベルだと思われる
でもだからなんなんだ
バハムーに失礼だと思われる 「相手」に喜んで頂けると思うから「手」を差し出し、又「私」に喜んで頂けると思って下さるから「手」を差し出して下さり、御互いに「握手」をし、手を繋いで支え合う。
(「握手」は、お互いに「恵み」を与え合う事)
身勝手な私個人の独り言 俺、鬱で色んなことを考えてしまってた時は、
なんとなく「オリガミ」するのがいいような気がして、鶴ばっかり折ってたなw
つまようじを使って丁寧に折ってると、なんかいいのよね。
鶴なら目をつぶってても折れるわ。 ガラバンダルの聖母によると
http://garabandal.jp/top.html
●大警告(大異変)5分間=悔い改めに導かれる
※ カトリック教会の迫害と危機のさなかに起きる
※ 強烈な良心の糾明がある
●大奇跡3月〜5月(木曜日夜8時半)15分間=回心する
※ 大警告から一年以内
※ 8日前に幻視者が告知する
※ カトリックの特別な式典とかさなる
●大天罰(直前から暗闇、空に十字架の光) 暗黒の三日間 火で浄化
があるという。
主の再臨はどこに組み込まれるのだろう。 カトリック司祭イヴ,コンガール神学者の
聖霊論。とマリア論。🎾読んだほうが、良いかも🎵😃 ピッピよ、悪魔を見るな 主イエスのみを見なさい!主イエスにすがれ直ちに 神様の私たちへの愛である十字架の贖いを否定するキリスト者がいるわけないです。 ガラバンダルの聖母によると、大奇跡の時、ガラバンダルでその奇跡を目撃してした人は宗教の違う人でも病気が治癒して私たちの神へと回心するそうです。
回心というのは、また元の宗教に戻り元の信仰を奉ずるのではなく、私たちのまことの神への信仰に立ち返るということですから、私たちの神イエズスキリストを信じて神の掟を守る生き方へと変えられるということです。 以前、バプテスト前原教会の記念礼拝があった時、牧師に連れて行かれたことがあります。お供です。
そこで初めて、私たちの王であるキリストが世の支配者になられたことを知りました。
私はまだ知識がなく、世はまだ悪魔サタンの支配下にあると思っていましたが、キリスト者は世がもはやキリストの支配するものであることを信じています。
王であるキリスト
https://catholickozoji.jimdo.com/福音によせて-1/王であるキリストc年/ 以前、カトリック講座かなんかで神父さまが輪廻思想を語られたと思い込み、その内容を隠して興奮して報告するかたがいらっしゃいました。
おそらく神父さまは完徳への道を話されたか、世を去る時私たちの霊魂が帰るところを「来世」とも言いますので、何か勘違いされたのではないかと思います。
私の考えのほうが正しくて、聖書は信頼できない
私の考えのとおりにこれから教会も変わっていく
この態度は何なのでしょうね。
根本的に倒錯してるとしか思えないのですが。 マルタが信仰を表したように、私たちは終わりの日に復活することになっています。
これは輪廻転生のことではありません。 カトリックに幼児洗礼があるのは人間に原罪があるからとの認識からです。 私も猫も久しぶりにぐっすり眠れました。夜中も早朝も目が覚めず、起こされなくて済みました。
祈ってくださったかたがあるのかもしれません。
神に感謝します。 キリストが王として地上に再び来られることを、キリスト者は信じて希望を持ちながら生きるのです。
キリストは十字架の勝利によって天地の王となられました。 東京、札幌と旅してまわったのは、私をおっさんと思い込み「女言葉使うな気持ち悪い」などの嫌がらせがやまなかったからです。
「本当に女だったら女言葉を使うはずない」
というのが彼の理由でした。
無茶苦茶ですよね。 教会の福音を曲げたり、
教会に服従できなかったり。
そんなら新教プロテのように新しい一派を立ち上げればよろしいのではないですかね?
違う信仰をお持ちのまま明かさず(騙くらかして)、
教会へ居座りながら(まあ自称ですけどね)、
ネットで知り合う一信徒(しかもリアル教会信徒)を惑わそうとして何がしたいのか。
失敗するのに決まっています。 福音を曲げる人は呪われています。
福音を信じ、福音を喜び、福音に頼る人にならせていただきましょう。 ちょっとしたヒントなんだけど
幸福の科学やGLAでは、創造主とイエズスキリストは別人扱いされて信じられています。
ですから彼らには三位一体を受け入れる余地はイメージの中にありません。 >>267
これ、うちに居着いてる銀ちゃん♂ですう・・・
たぶん捨てられた猫で、人も犬も全く怖がらないし、
ケンカふっかけられたら困ったように逃げるだけの猫です。
でも、♀猫にはモテモテでねw キリストはみ使いではなく
神です。
み使いは被造物ですが、キリストは永遠からいらっしゃる神様です。 ディボーションガイド
『manna』実は7日から読んでませんでした。それで15日の分まで読みました。
ヨブ記からの引用が多いので泣き、ペテロの告白(ルカ5・8)に泣き、たくさんのことを思いました。 「やもめ、みなしご、寄留の他国人および貧しい人を」
もうしょっちゅう見ますね、この括りは。
だから聖書の神様大好きなんです。
他で戦争や殺人やレイプなど忌まわしいことがあっても、この括りに信頼を置いてきました。
ゼカリヤ7章
9 「万軍の主はこう仰せられる、真実のさばきを行い、互に相いつくしみ、相あわれみ、
10 やもめ、みなしご、寄留の他国人および貧しい人を、しえたげてはならない。互に人を害することを、心に図ってはならない」。 ミレーの「落穂拾い」とか
果樹の実を採りつくさず鳥のために何個か残しておく(おじの教え)とか
ジンとくるものを感じたのは、私の中にある神様のみこころが反応してたんだなあと思います。 さばきの前に
魂の医者であるキリストにつきましょうね。 少し前にそのキリストを情欲の対象とするという大罪を犯しているんだから、
当分黙ってればいいのに。 神を賛美するのをやめてはいけません。
人間の思いを離れて証ししていきましょう。
ダビデは姦淫と殺人、ソロモンは偶像崇拝という罪を犯しました。
神はあわれみ深く、悔い改める心、打ち砕かれた魂を受け入れられます。
私の魂が安らいでいます。 昔見た夢ですけど。
私がすっかり勘違いしきっていた頃のことです。
私は大勢の似たような人がいる場所ですし詰めになっていました。天井が低く、皆座っています。
花嫁の控えの間のように思いました。そこにはたくさんの待機者がいたのです。
私だけじゃなかったという感覚が私を困惑させました。
この部屋から私だけ呼ばれるのかなと都合のよい解釈をしながら目を覚ましたのです。
事実を見ていたのなら、私と似た体験の人がいるはずです。
私は彼女たちに言いましょう。
一般信徒としてキリストを慕う生活へ戻るようにと。 はじめまして、同じキリスト者として書きます。神に対してはDonな呟きも嘆きも非難も言っていいんですよ。神様は貴女がイメージする狭量な方ではありません、いくらでもイエス様に愚痴を言ってください。貴女が神様を信じている証拠でしょ? 皆さんへ。
まったく自由な意志による賛美とへりくだりをお勧めします。
とくに今はレントですから。 >>279
自身の心配より他人の心配するようなら、だいぶ良くなったようだね♪安心した みことばを嘲る人にならないで
みことばを尊ぶ人になりましょう。 ●なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
●この女はできる限りの事をしたのだ。
マルコ14章
3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
4 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。
5 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。
6 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
7 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。
8 この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。
9 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。 O・ヘンリーの「賢者の贈り物」
ひと組の貧しい夫婦がクリスマスに互いの贈り物をする話です。
二人は自分の大切なものを売ってお金にし、相手のことを思って贈り物を選びます。
しかしその贈り物は役に立たなくなり、その理由が互いに同じだとわかったのです。
私たちはまごころを大切にしましょう。 >>283
「プリならがピッピを自殺に追い込んだ」とシャロンが騒いでるけど、本当にそんなことあったの? とは言え、
どうして女が犯されることを容認されているのか。神の呪いの中で。
屈辱を思う時、私は言葉もない。
ゼカリヤ14章
1 見よ、主の日が来る。その時あなたの奪われた物は、あなたの中で分かたれる。
2 わたしは万国の民を集めて、エルサレムを攻め撃たせる。町は取られ、家はかすめられ、女は犯され、町の半ばは捕えられて行く。しかし残りの民は町から断たれることはない。 タルムードを捨てなさい。
・光と言いながら陰にいる不思議。
・キリストを殺したのは誰でしたか。
・神はご自身を偽れるかたではありません。
・神は石ころからでもアブラハムの子をおこすことができます。 信仰を偽り、教会へ侵入し、野望を抱き、分裂を計る者がいます。
彼の目論見の誤りを言いましょう。
彼は私たちから神への信仰を奪うことはけっしてできません。
彼にできることは迫害したり体を殺すことだけです。 神の武具は何の為にあるか?
私の信仰の不変のためです。 >>288
自己レス
その彼とはこういう人のことです。
・原罪を信じていない(私には関係ない)
・キリストを神とは信じない
・十字架はただ惨たらしいだけの殺人 救われるということを誤解されていますが、
「救われる」と云うことは「回心する」ということです。
異教を信じたまま、無神論でいるまま、救われることはありません。
救われる人には回心が同時に起きます。 すべて人には神の霊(たとえのタラント)があり、御霊をいただいて生まれてきます。
これは特別な神の聖霊とは違うものです。
不信仰な者の滅びの時、彼からこの御霊が奪われ彼自身だけが滅びます。聖霊を受けていた者は聖霊も去ります。
それは彼が彼自身が神の御霊ではないことが明らかとなるためです。
神のものは神に返され、彼は生きている時に持っていたものを奪われるでしょう。 婚礼服は用意されているものを着るだけですよ。
持ってなくても貸してくれます。 小羊の血で衣を洗って白くする人たちのことです。
つまり悔い改めてイエズスキリストの十字架の贖いを受け入れる人のこと。
https://www.stviator-kcc.org/祈り/毎週の聖句と黙想/
年間第28主日
「礼服」についてはいろいろな説があるが、当時の結婚式では入り口で客にマントを渡す習慣があったとも言われる。
聖書では白い服は神の服を意味する。パウロもキリストを着ると言い、洗礼の時にも白い衣を受ける。それは内面的な変化を意味する。
つまり、婚宴に参加するには内面的な変化、回心が必要なのだ。
http://seisho.holy.jp/messagetext/20130901.html
婚礼の服は、当時の習慣によると、王室や貴族の婚礼式では、招待する側が招待した人たちの婚礼の服を用意することが常であったようです。
従って、礼服を着ていない人は貧しくて礼服を買うことが出来なかったのではなく、この人は与えられた礼服を拒否して入ってきたことになります。
礼服とは「義の衣」(イザヤ61:10)であり、「小羊の血で洗われた白い衣」(黙示7:14)です。
その礼服を拒否するという事は、あくまでキリストを受け入れないという人です。 キリスト者の一斉携挙については知識としてあるだけです。
まったく実感できません。
私は行いを伴う信仰を願っていますが、まだそれらしいことができていません。
つまり私は地に残され艱難を舐め尽くす側なのだろうと思います。 私がストーカーの嫌悪のピークを迎えたのは神の御旨です。
私は穢されつくし、最後には殺されるかもしれませんが、すべて神のゆるしの中で許容されています。
喜びは湧いてこないです。
悲しみ、苦しみ、不快です。
この件に関して、私には助けがこないのですから。この現実から神の広い寛容な態度を見ます。
私は泣き叫び、犯され、餌として食べられ、これからも罰の限りを体現するでしょう。
実感としてあるのは、私が神と断絶して滅びゆく身でしかないことです。
ただ彼の御国の平安なることを喜びます。私が苦しむと彼らの平安は近いと思うことにします。
そして死に、神の愛を拒んだ者として悲惨な結果をさらし見せしめになるのでしょう。
私は苦痛のあまり毎日泣き、発狂します。 私の信仰が死んだものではなく、行いを伴う信仰へ変わる時、苦痛から喜びに変えられ心から神に感謝すると思います。
赦されたのだ、と実感することと思います。
体で栄光を現すことが目標の第一です。
しかし皆さん。病床にあってもキリストの愛をもって他者のために祈ることはよいことです。
体は縛られていても、弛まず祈り願って、すでに動ける人を励ましてください。
祈ることも許されないで縛られたままでいる人のことも覚えて、彼らのために祈ってください。
彼らは悪を行う自由さえありません。ですからできる限り敬って愛してあげてください。
彼らが神の愛を疑うことのないようにしましょう。 反キリストと非キリストが意見を同一化しています。
興味深い現象を見ました。 私たちには(神の)愛がありません。
(神の)愛はキリストのうちにあります。
秩序の神である聖霊は放縦を厭い、すべてを順序よく整えていかれます。
聖霊の御性質を知ればキリストご自身が洗礼を受けられ公生涯に入られたことを不思議とは思わないでしょう。
罪のない方でさえ悔い改めました。
ガラバンダルの聖母は大警告のしるしによって全世界の人が各自良心の糾明を受けた後、教会の洗礼を求めて集まるようになると言っています。 招かれた人は皆、生活の用事を理由に断っています。
生活はきちんとしているのに、神の宴会には来ようとしないのです。不思議です。
父と子と聖霊の御名によって悔い改めの洗礼を受け、キリストの血で洗った白い衣を着せられ、着席するだけです。
難しいことは一つもありません。
事情があって集まり合うことができなくても、神が呼んでくださいますから、白い衣にふさわしく生きるよう努めてください。 王の御前に出ながらお辞儀もしないでいられるでしょうか。少なくとも敬意は示すはずです。
(神の)愛は放逸無辺、無礼講でよろしいと勘違いしてはなりません。
そんな人に神への愛があるとは思えません。
それでは友への愛、隣人への愛はあるのでしょうか。
私たちはまず第一に神を愛して、そこから第二、隣人を愛するのです。神をないがしろにして隣人を愛するのは真実のものではありません。
悪人でさえ自分によくしてくれる人を愛します。 ちょうどmanna1月号を読んでました。
1月24日(水)の解説 みことばを味わおう
弟子たちはイエス様のところに来て「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」と尋ねました。
イエス様はその質問に答えるために小さい子どもを呼び寄せて言われました。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です」マタイ18章
1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。 あまり何々神学とか何々派とか考えることなくディボーションガイドを読んでいます。
『clay』はバプテスト時代に貰ったものがあって、引き続き買ったり買わなかったりして読んでいました。
今年から『manna』を読んでますが、家にたまたまあった一冊(2017年1月号)を読んで二月に入り、
せっかくなので『manna』2018年の1月号と2月号を一緒に買いました。
ガイドの選択にあまり意味はないです。 真の愛は人からではなく神から来ます。
神が私たちを愛されたので、私たちも愛によって応答することができきるのです。 カトリック通信講座 オリエンス宗教研究所
https://www.oriens.or.jp/tushin/tushin.html
お申込み方法
郵便局に備え付けの振替用紙にて、住所欄に住所・氏名・電話番号を、通信欄に講座番号(T001〜T007)・講座名を明記し、「ホームページを見て」とお書き添えいただいて、受講料を下記にお振り込みください。入金確認後、教材を一括でお送りいたします。
加入者名:オリエンス宗教研究所 振替口座番号:00170-2-84745 これ面白かったです。
こういう習慣なんですね。
「花婿を迎えに出て」
http://www.shalomchapel.com/sekkyou/sekkyou-2005/2005-11-6.html
ヨハネの福音書に記される「カナの婚礼」のお話でも分かるように、当時のユダヤ人の婚礼はたいへん大がかりなものでそこには町中からたくさんのゲストが招待されています。
その上で婚宴は何日も続けられるものであったようです。
この結婚式の最初は花婿が花嫁の家に花嫁を迎えに行って、自分の家に連れ帰ることから始まりました。
花婿が花嫁を自分の家に連れ帰った時点で結婚式の祝宴が盛大に始められることになるのです。
このたとえは花嫁の家に花婿が迎えに行ったまま、その帰りが大幅におくれてしまいます。
そしてその花婿の到着を待ちくたびれている十人のおとめがたとえ話の主人公になっています。
解説書によれば当時、花婿は花嫁の家でその家族と花嫁を迎えるにあたっての相談をしたようです。
この際に花嫁の親族は花嫁になる自分たちの娘がどれだけ大切であるかを示すために、さまざまな条件を花婿に求めます。そこでこれらの条件を巡って話し合いがもたれ、花嫁の親族はわざとこの話し合いの時間を引き延ばす習慣があっと言うのです。
話が延びればのびるほどその花嫁の価値の大きいことを示すためでした。
この話に登場する花婿もそのような理由からか家に帰るのが大幅に遅れてしまうのです。 まず神が私たちを愛してくださいました。ですから私たちは互いに愛し合うことで神への愛と感謝を表すのです。
この愛は私たちから出たものではなく神から出たのです。
しかも神の愛は無秩序な愛ではありません。
イエズスは家族よりわたしを愛さない者はわたしにふさわしくないと仰いました。
また世の気の毒な人たちにしたことはわたしにしたことだと仰います。
神の愛はこのように性格があるのです。
マタイ10章
37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
38 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
マタイ25章
34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。 だから霊肉二元論はやめなさいて。
使徒たちの手紙で警告したことが台無しです。 サドカイ派との問答で死者の復活について説明するくだりがあります。この時の「復活」というのは「脱出」という意味もあるそうですね。
なんだか新しいイメージが湧いてきます。 放蕩息子は自由の子です。
離れゆくさだめの奴隷ではありません。 それから
信仰を偽り、
教会を自分仕様に変えようとする野望を抱き、
回心も救いも信じない毒麦はかならず滅びます。 【バプテスマのヨハネが囚われた理由】
マタイ14章
1 そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、
2 家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。
3 というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。
4 すなわち、ヨハネはヘロデに、「その女をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。 過越祭について
http://sanpaolo.or.jp/?p=2818
キリストが受難の前夜に行われた最後の晩さん(ヨハネ13・1)も、過越祭の食事の性格を帯びていたと考えられています。
この最後の晩さんの席で、キリストはパンとぶどう酒を用いて、すべての人の罪のゆるしのため、十字架上でいけにえとなるご自分のからだと血の記念(聖体の秘跡)を制定され、これを祝い続けるよう、使徒たちに命じられたのでした(一コリ11・24〜25)。
その翌日、キリストは、イスラエルの民のエジプト脱出のときに屠られた小羊のように、新しい神の民のためにいけにえとなり、十字架上でご自分のいのちをささげてくださったのです。 詩篇51
16 あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。
17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。
18 あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、エルサレムの城壁を築きなおしてください。
19 その時あなたは義のいけにえと燔祭と、全き燔祭とを喜ばれるでしょう。その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。 ヘブライ語で学ぶ詩篇51篇16〜19節
http://www.bfpj.org/know/bible/?id=17
「砕かれた心」とは、自分の楽しみのために神がいるのではなく、神の喜びのために自分が存在することを認める心です。
また、自分の計画を前進させるために自分が神を選んだのではなく、神の計画を前進するために神が私たちを選ばれたことを思い起こす心です。
この詩篇の締めくくりとなる最後の二節は、詩篇の編集者たちによって後ほど付け足されたとされる箇所です。
http://bibleseisho.blogspot.jp/2016/06/blog-post_26.html?m=1
罪を犯した人が選ぶ道は普通3つあります。隠す、合理化する、忘れる。
神が望む道は、その3つではなく、悔い改めの道です。
詩篇51篇は悔い改めの詩です。 過越の小羊
http://mr826.net/psi/blog/150401
そこで、第2バチカン公会議の指示によって改訂された新しい典礼に基づいて、過越の三日間を想起してみよう。
まず、「聖なる過越」(Sacrum Paschale)とは、神の民の出エジプトを記念する旧約の「過越祭」を完成するもので、人類を死から解放して新しい神の子の命へ導く救いを成就した、主キリストの死から復活への出来事を、「過越の神秘」として記念し、祝うものである。
この過越の神秘はミサの中で「信仰の神秘」とも呼ばれる。信仰の対象だからである。
なお、「“過越”の原語は、ヘブライ語ではペサハ、アラマイ語ではパスハー、ギリシャ語ではパスカである」(聖書思想事典)。 聖櫃について
http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_tabernacle.php
カトリック教会において、聖櫃は「人間の間に住まわれる神の家」です。同時に、旧約のマンナの象徴であり、人々の糧である聖なるパンを保存する新約の箱舟です。
http://hvri.gouketu.com/ccc.htm
1323 「われわれの救い主は、渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、自分のからだと血による聖体の犠牲を制定した。
それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、自分の死と復活の記念を託するためであった。
それは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、未来の栄光の保証がわれわれに与えられる復活の祝宴である。」(SC 47) これは再臨の主が全地の王となられた後のことです。
まだ仮庵の祭をやってるんだなと驚きます。
ゼカリヤ14章
11 その中には人が住み、もはやのろいはなく、エルサレムは安らかに立つ。
16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる。
17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。 まだ完全には霊的ショックから立ち直れず、自分自身との対話さえ信用できない状態です。
しかし夢やビジョンは避けようがありません。
これが実は私を励ましています。
私と対立する人らがいました。
ある女が大女に報告をしました。怒りをあらわに大女はこう言います。「今度は殺す」
物騒な言葉ですよね。
たぶん私がなかなか消えないのでイライラしてる人がいるのでしょう。
キリストの約束は復活であり回復です。 外気が暖かいからか、猫がやたら起こしに来ます。
ハム♂の声が日本語になって聞こえるので、ああこれは霊感なのかとよくよく考えぬかねばならないほどでした。
うるさかったので追い払いました。
春二番、春三番でも吹いていたのでしょうか。 今日は猫の日ですからね。
ちなみに猫は悪魔のペットなので、神は用いられません。 修正。
かなちゃんという監禁の元カノがいたけど、
捨てられたから、
ぼくに彼女にしてって連絡があったけど、怖いから断ったら、
なんか、神の声に攻撃されて十字架に祈ってたな。
当然、十字架に盗聴器なんてつけるのは、教会じゃ常識だろうけど、
かなちゃん、神の声が英語とヘブライ語とアラム語(メソポタミア文明の方言、イエスの話したことば。アラブ語の方言)だったのに、
そのまま数年、外国人の愛人やってから、日本人と結婚して三十代後半でやっと幸せになれたようだね。
かわいい女の子だったのに。
守れなかった。 信仰を異にする人が自らの救いを含む確信を持ちながら、信仰のある人を否定しまたその異端性を指摘するとは、何事ですか。
片腹痛いです。 イエズスの弟子たちはこの程度でした。
マルコ9章
11 そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。 私はずいぶん痩せました。
今回の失恋がいかに大打撃だったかがわかります。
大斎、小斎も特別なことに思われません。 5キロも痩せれば具体的な数字を挙げるものである。
2キロ程度痩せぐらいでは、まだまだボリューミーな片腹であった。
イエス様にもフラれるわけである。 このサイトからイザヤ書を読んでいたら大いに慰められました。
私は味わった悲しみ、苦しみ、災いに対して反芻しきっていますが、それにも増して素晴らしい希望を与えられました。
幸いは自分のためではなく他人のために。
どんな汚れやシミがあっても神の御名のもと生き直すように慰め励ますことが私たちの真実の働きです。
今をこれからを生きるように私たちを励ます神の愛に感謝します。
http://shinozaki-baptist.jp/modules/kyuyaku/index.php?content_id=368
−あなた方はバビロンで50年にわたる苦難を受けた。それはあなた方を主の民、主の祭司とするためだった、あなた方を通して諸国の人々を解放するためだった。
預言者は言います「他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い、異邦の人々があなたたちの畑を耕し、ぶどう畑の手入れをする。あなたたちは主の祭司と呼ばれ、私たちの神に仕える者とされ、国々の富を享受し、彼らの栄光を自分のものとする」(61:5-6)。
あなた方は単に自分の救いを求める者ではなく、神の祝福を隣人に、異邦人に伝える者となるのだ。
あなた方が自分のためだけに幸いを求めるから、主は苦難を与えられるのだ。隣人のために幸いを求めてみよ。主はあなた方を豊かに祝福されるだろうと預言者は民を慰めます。 詩篇126
4 主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。
5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。 地上で生きていた時の肉の体を地に残さなかった人
・エノク
・エリヤ
・イエズスキリスト
・聖母マリア ※ BC4がイエズスの誕生だと言われている
マグダラのマリア生誕を紀元1年
26歳 西暦27(イエズス30歳)
29歳 西暦30(イエズス33歳)
43歳 西暦44(洞窟生活の始まり)
69歳 西暦70(エルサレムの崩壊)
73歳 西暦74(帰天?)
※ ゆえに1997がイエズス二千歳であり、2001はマグダラのマリアが二千歳ということになる。 >>332
自己レス
しかも
イエズスと聖母はわざわざ舞い戻り肉身に入り直しています。 キリスト者の空中携挙があるとすれば体ごと上げられるわけですから、どこで栄光体をいただくことになるのでしょうね?
一瞬のうち、でしょうか。 トビト記に出てくる案内の天使は人間の姿をして現れ、飲み食いしているようで実は飲み食いしていないと告白しました。
復活のイエズスは魚を一切れ食べました。消化の具合はどうなるのでしょう。
排泄は。 ウンコ出かかってる途中でラプチャーだと、ウンコどうなるんだろうね。
まあ、シャンプーしてる時にラプチャーも嫌だろうけどw お風呂に浸かってる時に
「このまま連れ去ってください」
とお願いしたことは何回もあります。 ・神の一方的な恵み
・罪のあるところには、恵みもまた増し加わった
・正しい人を招くためではなく、罪人を招くため来られた神
・先の者が後になり、後の者が先になる
ようするに罪が深い人のほうがよけい神を愛するようになるという話です。
神様はご自分の栄光と権威をわからせたいわけ。 神様のご計画がすべてです。
私は金魚の糞みたいにうろちょろしたい。 個人的な「腑に落ちる」感覚を求めて盲人同士が議論し合ってついに仲間内で優劣がついたとする。
そこに臨在する神がいなければどこまでも周辺事情なのである。
真実は隠されるということ。
人間の議論の行方をまとめたければ池上彰にでも頼めばよかろう。 私は頭悪いので、ただこのことを信じます。
黙示録4章
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。 肉的に処女だから内側もきよいとは限らないことは私がよく知っているところです。
昨日、私の子宮を拡げて調べている手があるのを感じました。ただの空想といえばそれまでです。
甘い感覚はありませんでした。死んだ生き物の内臓を触られているようなものです。
胸にも同じものを感じたので私はこう言いました。
「私の胎と胸を切り取りますか?」
「いや…」そうじゃないという返事です。
夕飯はおうどんにしました。
つぼみ菜とエリンギと長ネギと卵をいれて。※ 卵は最後の1パックから
すると久しぶりに腹が巨大に膨れてしまいました。
スイカくらいありました。
昨晩読んでいたもの。
http://donclaudioberardi.it/jp/カテケージス/沈黙/ どうしても聖伝の記録を思い出してしまう。
マグダラのマリア洞窟から天国への出入りを。
主はなぜこのようなことをなさったのか。一人の女性に驚くべきことを。
(私の体験とはまったく真逆)
都詣での歌
詩篇121
3 主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。
5 主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。
6 昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。
7 主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。
8 主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。 キリスト教は神によりすがる信仰なので、神から自立することは罪です。
ヨブ然り
ダビデ然り
イエズスキリスト然り イスカリオテのユダの代わりにマッテヤが11使徒に加えられました。
使徒言行録1章
23 そこで一同は、バルサバと呼ばれ、またの名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立て、
24 祈って言った、「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちのどちらを選んで、
25 ユダがこの使徒の職務から落ちて、自分の行くべきところへ行ったそのあとを継がせなさいますか、お示し下さい」。
26 それから、ふたりのためにくじを引いたところ、マッテヤに当ったので、この人が十一人の使徒たちに加えられることになった。 文字は殺し、霊は生かす。
愛はすべてを覆う。
コロサイ2章
14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。
16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。
17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。 結論から云うとユダヤ教徒も終わりの日に救われます。
だってイエズスキリストがあなたがたの神だったのですから。 今夜はこれです。
愛することの不足や臆病から抜け出すためには聖霊が必要なのですね。
昨晩の「沈黙」に続き「神の愛」も厳しい訓示に満ちていますが、聖霊がすべてを容易にしてくださることを信じます。
私も神の国と神の義を求めることを第一としましょう。
http://donclaudioberardi.it/jp/カテケージス/神の愛/
しかしながら、律法は、善を勧めていながら、それを成し遂げるために私たちの意志を支える力をもっていないことから、それ自身は死んだも同然です。
律法は、自分を与え、他の人の善を求めるよりも、混乱した過敏な愛の方へ傾きがちな私たちの人間性の弱さに対策を打つことができないのです。
そのため、多くの場合、おきては私たちにとって、命令や重い課題のように思えてしまうのです。
しかし、神の愛である聖霊は、私たちがおきてを守ることを容易にし、神の愛によって、完全な愛へ、つまり私たちの内におられる神のもとへと導いてくださいます。
「聖霊の働きがなければ、私たちは愛することも、彼の戒めを守ることもできないのである。
私たちは、聖霊の現臨を感ずることが少なければ少ないほど、愛することができず、それが大きければ大きいほどますます愛することができるからである。
それゆえに、聖霊をもっている人のみならず、それをもたない人に対しても落胆することがないように約束されているのである。
すなわち、聖霊を未だもたない人に対してはもつように、もっている人に対してはますますもつように約束されているのである」
(聖アウグスティヌス「ヨハネによる福音書講解説教」74,2-2『アウグスティヌス著作集』より) だから
啓示によってたびたび言われることだけど
「ご聖体をいただくように」
と勧められるわけですね。 「キリスト教などの聖職者」が
「イエスの時代には、イエスを導かれていた高橋佳子先生の魂」
こんなこと信じるわけないですよ。
http://buyan77.com/blog/2011/10/post.html
GLAの会員数は現在3万人ほどで、日本の宗教界でもかなり小さい団体です。
しかし、会員には、法曹界や経済界の重鎮、各党の政治家や、有名な企業の社長さん、はたまた、大学教授などの科学者、仏教、キリスト教などの聖職者、芸能人・・・。
あらゆる分野のエキスパートの皆さんがたくさんいます。
また、普通の青年や、おじさんやおばさん、お年寄りももちろん、たくさんいらっしゃいます。
http://buyan77.com/blog/2015/01/yes-and-keikosensei.html
私は高橋先生との出会いを通して、先生と共にあるイエスの魂とも出会い、イエスの贖罪の力にも触れていたんだと思います。
そして、イエスの時代には、イエスを導かれていた高橋佳子先生の魂とも出会っていたんだと思います。 キリスト大好きなだけに残念なんですよね。
会員さんの「ゆきのひとりごと」ブログ
天の御国 3 より引用
ただしイエス・キリストは亡くなる時に、「神は我を見捨てたもうた」という言葉がありますが、それはマチガイです。
それをみなさまは信じないでほしいのです。
その時にイエス・キリストは自分自身が、すでに天上界に上がって自分の死体を見ておりました。
「かわいそうな人たちだ。私の真実のことが分からないために私を殺してしまった。あわれな者たちよ。」
といって、涙を流していました。
ところが彼が最後に、「神が我を見捨てたもうた」というのはうそです。
イエスはそんな執着を持っているような人ではありませんでした。 >>354
この人のブログURLを含めて掲載しようとしたのですが、NGワードが出てかなり工夫して載せました。
私、いつも不思議に思うのです。
なぜこの人らの宗教は批判させないように、あるいは批判しづらいような仕組みになっているのだろうと。
まるで開かれていないですね。 この類いの霊感物語って無責任な空想でしかありません。
イエズスの心境も聖人たちの心境も、ただの根拠のない空想=ファンタジーです。
誰がイエスキリストより偉ぶってる人間の言葉を信じますか。
同類しかいないです。信じる人は同類でしかありません。 彼らの空想上の「わたし」
https://www.freeml.com/asyurabbs-ml/74078
1. 先代教祖
天上界の霊太陽「主・エルランティー」の生まれ変わり。
ヤハウェ、エホバ、アッラーなど世界の大宗教の唯一神は、エル・ランティーのことを、それぞれ別々の名で呼んだもの。
前世は釈迦・ギリシャ神話のゼウス・天台チギ・不空三蔵・木戸孝允など。
2. 指導霊は十戒で有名なモーセ
3. 守護霊はイエス・キリスト
6. 娘・佳子は、ギリシャ神話のアポロン、卑弥呼、宗教改革者のルター、旧約聖書の預言者エリヤ、大天使ミカエルの生まれ変わり。
9. 先代教祖の前世は、キリストの母マリア、日蓮の母 http://osusowake.hatenablog.com/entry/2013/03/22/過越の祭とイエスの十字架
つまり、イースター(キリストの復活祭)と過越しの祭とは、密接な関係があるのです。主イエスの公生涯を思い出してください。過越しの祭で始まりーヨハネ2:13、過越しの祭で終わっているーマタイ26:2、ことに気付きましたか?
a) 種なしパンーイエスには罪がなかった。
b) パンには、筋が入っていたーイエスのからだに付いた鞭の跡。
c) パンには小さな穴があいていたーイエスのからだに残った釘と槍の跡。
d)「アフィコーメン」は、十字架上のイエスのからだを象徴。
e) このパンを食する=イエスの十字架を信じ、受け入れることを意味する。
しかしサタンの策略は、@十字架以外の方法でイエスを殺すこと。A過越の祭以外の時にイエスを殺すことでした。
だからサドカイ派である祭司長たちと、パリサイ派である民の長老たちが、イエスを共通の敵として集まり、相談したのですーマタイ26:3~5。
相談の内容は、@イスカリオテのユダが手引きをして、民衆の目に付かない所で騙して捕らえ、A過越の祭が終わってから殺すというものでした。
イエスが十字架で息を引き取られたのは、ニサンの月の15日(金)午後3時です。各家庭で過越の子羊がほふられるのは、午後3時頃だったことと符号しますー 息子から命を狙われていたダビデは、息子の非業の死を知ると
「わたしが代わって死ねばよかったのに」
と言いました。
サムエル下 18章
32 王はクシびとに言った、「若者アブサロムは平安ですか」。クシびとは答えた、「王、わが君の敵、およびすべてあなたに敵して立ち、害をしようとする者は、あの若者のようになりますように」。
33 王はひじょうに悲しみ、門の上のへやに上って泣いた。彼は行きながらこのように言った、「わが子アブサロムよ。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、わたしが代って死ねばよかったのに。アブサロム、わが子よ、わが子よ」。
参考
http://w2322.nsk.ne.jp/~tkchurch/mes_152.html すぐさま罰が下されないことで、あたかも赦されていると思い込み、さまざまな罪を罪と思わず忘れてしまうことがあります。
たいしたことではないと考えてしまうのです。
ダビデの子ソロモンは神に知恵を願い求めて叶えられ、国は繁栄しましたが、晩年の偶像崇拝により堕落しました。
神はソロモンの生きている間には罰をくださず、ソロモンの子の代に国を三つに分裂させついに滅亡しました。
参考
http://www.ubf.or.jp/modules/biblemsg/item.php?itemid=361 神の国について読みました。
「主ご自身は父の内に、私たちは主の内に、主は私たちの内にいたもう」
この言葉を考えていたところ、この三者が重なりました。
http://donclaudioberardi.it/jp/カテケージス/神の国/
【イエスは真理である】
神の子らの自由とは、基本的真理の欠如ではなく、キリストがご自分のいのちを与えることによって私たちに教え、証してくださった愛に生きるため、罪とその結果から自由であるということです。
「愛は真理に根ざしてのみ輝き、真理に根ざしてのみ真正に実践されるのです。真理は、愛に意味と価値を与える光です。
(ベネディクト16世 回勅『真理に根ざした愛』3)
【イエスはいのちである】
イエスはまた私たちに『いのち』とは何であるかを説明してくださいました。
『永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです』(ヨハネ17,3)。
真の意味でのいのちは、私たちが自分だけでもっていることも、自分だけで見いだすこともできないものです。
真の意味でのいのちとは、関係だからです。そして、完全ないのちは、いのちの源であるかたとの関係です。
私たちが、決して死ぬことのないかた、すなわち、いのちそのものであり、愛そのものであるかたと関係をもつなら、そのとき私たちはいのちのうちにいます。そのとき私たちは『生きる』のです
(ベネディクト16世 回勅『希望による救い』27)
それゆえ、かの日、つまり死が呑み込まれるいのちの日に、主ご自身は父の内に、私たちは主の内に、主は私たちの内にいたもうことを知るであろう。
なぜなら、その時には、彼が私たちの内にあり、私たちが彼の内にあるという、今既に始まっている事柄が完成されるであろうからである」
(聖アウグスティヌス「ヨハネによる福音書講解説教」75,3-4 『アウグスティヌス著作集』より)
【ユダヤ人の王 ナザレのイエス(I.N.R.I.)】
神は愛であり、真理です。そして、愛も真理も、決して強制することはありません。
愛と真理は心と精神の戸をたたきます。そして、彼らが中に入ると、平和と喜びがもたらされます。これが神の支配のあり方です」
(ベネディクト16世 2006年11月26日「お告げの祈り」 カトリック中央協議会訳より) 私がなかなかごミサへ行けないのは、気後れもあると思います。
「どうして私ごときが行ってよいものか、この汚れに満ちかつ覚悟もない者が」
そうして日がなベッドに縛り付けれるのです。 何回か生まれ変わったら成長するって考えは安易過ぎますね。
何回か試験受けたら頭良くなりますか? その都度、設問も変わるのに。
何回か身長測れば背が高くなるのでしょうか。成長期過ぎて。 私は以前、神であられる方と人間マリアから産まれられた御子イエズスのことを「ハーフ」と表現したこともありますが、それは両親や祖父母が外国人であるため「ハーフ(ミクス)」「クオーター」などの名称で呼ばれているので咄嗟に出た言葉なのです。
もちろん私の頭の中で遺伝子継承何%とかの考えがなかったわけではありません。
ラジオLOVE FMを聴いている時に、日本での「ハーフ」表現を「ミクス」表現に変えた方がいいと指摘するDJがいました。
そこで「ハーフ」という語が、半分とか半端なイメージを抱かせていることを知りました。
私の中ではそうではありません。
異文化、異国人、異なる地域、それは憧れでした。
なぜなら田舎の一つの価値観に縛られて疲弊しきっていたからです。子どもの頃、百科事典で何度他国について書いてあるページを読んだことでしょう。
私を縛る田舎の価値観がすべてではないと確信することにより、私の心は強められました。 それは両親や祖父母が外国人であるため「ハーフ(ミクス)」「クオーター」などの名称で呼ばれている人たちがいたので咄嗟に出た言葉 十数回は生まれ変わったであろう、おっぱいであった。 シリアにおける暴力の即時停止を呼びかける教皇
http://ja.radiovaticana.va/news/2018/02/25/教皇「シリアにおける暴力の即時停止を」/1364553
2月25日、バチカンで行われた日曜正午の祈りの集いで、教皇はシリア内戦の深刻さを増す状況に言及。
シリアは今月、東グータ地区を中心に、7年間の紛争の中で最も激しい暴力に見舞われ、子ども、女性、高齢者ら、非常に多数の市民が犠牲となっている事態を憂慮された。
病院は攻撃され、市民は食糧を手に入れることができない、こうしたすべての状況は非人間的であると教皇は強調された。
「悪に別の悪をもって報いることはできない。戦争とは悪である」と述べた教皇は、シリアにおける暴力の即時停止と、食糧・薬品等、人道支援へのアクセス、負傷者・病者らの避難を可能にするようアピールされた。
教皇はシリアのために一致した祈りを呼びかけられた。 聖伝において明らかにされたマグダラのマリアの後半生は、洞窟から天国へ往復する毎日でした。
体ごと招待されているので、 その間洞窟は空っぽです。脱魂状態の人の姿さえ残されていなかったでしょう。
行き来する途中も天使が支えていました。寄り道することもありません。
私たちはマグダラのマリアのようにガッチリ守られているわけではありませんから、寄り道する誘惑があるのです。
私がみことばを出ないように見張ってください。 神への真の信仰を読みました。
http://donclaudioberardi.it/jp/カテケージス/神への真の信仰/
【信仰とは何か】
信仰がなければ神に嘉(よみ)されることはできない。神に近づく者は、神が存在されること、神を求める者に報いを賜うことを信じねばならぬからである」(ヘブライ11,1-6)
「信仰はただ一つであり、話すことの得意不得意によって信仰を豊かにも貧しくもせず、それは常に同じである。
確かに、知性の多様性によって、多かれ少なかれ(信仰の真理の)広い知識をもつことができるが、しかしそれは、決して信仰の本質的な中身を変えることを意味することではない。
つまり、神を、しかも創造主で御父である神を他の神に作り上げてしまうということ、または唯一の御子を他のキリストに作り上げてしまうことを意味するのではない」(聖イレネオ『異端反駁』I,2)
【信者とは誰か】
信者とは、教会による神のみことばの教えに従う、洗礼を受けた人です。
神のみことばは、人によって伝えられています。なぜなら、はじめに神が人となられて人間のことばで私たちに語られ、そしてイエスが使徒を選び、世界中に教え説くために彼らを派遣されたからです。
誰も自分自身に洗礼を授けることはできません。他者、つまりイエス・キリストを信じる者、使徒継承の教会から洗礼を受けます。
聖大バジリオは、信者とは、自分自身や自分の知性ではなく、聖書の知性を信じるものであることを私たちに教えています。
理解する能力は、信じないものには隠されています。なぜなら、信じないために神のみことばに心を閉ざしているからです。 【信仰の試練】
使徒パウロによれば、私たちが大きな誘惑に耐えることを可能にする、より勇敢な忍耐は、私たちの力によるものではなく、神のあわれみと軽減の業によるものなのです。
【信仰をもたない人々】
ことばの力で、相手を信じさせることはできません。その人が聞く準備ができていない時、また、あなたのことばや誠実さ、証言を信じていない時は、特にそうです。
なぜなら、その人は、信じることではなく、信じている人をじゃましたり挑発することに興味があるか、または、ただ単純に話しの内容に関心がないからです。
(聖大グレゴリオDialoghi 4,1)
【信仰の証聖者とは】
「教えにかなう真実のことばをしっかり守る人でなければならない。これは健全な教えを勧め、反対者をいい伏せるためである。
特に(・・・)服従せず、むなしいことを語り、人を惑わす者が多いから、彼らの口を閉じさせよ。
彼らは汚れた利のために、教えてはならぬことを教え、家々をくつがえすのである。
(・・・)だから彼らを厳しくとがめよ。彼らの信仰を健全にさせ、ユダヤ人の作り話と、真理を離れた人々のおきてに耳を傾けさせるな。
(ティト1,9-16) 楽園でアダムとエバが暮らしていた頃から、神は親しく話しかけられました。
彼らとの交流を楽しまれていました。 勝手私的な空想なら私も負けてません。
行間を読むカタチでイエズスの恋を追っています。
雅歌はやはりマグダラとの交流にするほうが腑に落ちます。
カトリックでは聖母を表現する時に雅歌の一節を与えますが、花婿イエズスの母親は聖母ですから「あなたの母上」だなんてご自分のことを呼ぶでしょうか?
という単純な問題に突き当たります。
マルタの妹ベタニヤのマリアがマグダラのマリアと同一であることは、聖伝によってわかります。
カトリックは比較的最近になって別人説を布告しましたが、伝統的には同一人でした。
イエズス一行は夜はベタニヤで過ごし、朝エルサレムへ出かける。
そしてまたベタニヤに戻る。
ベタニヤのマリア宅には泊まらず野宿した時は喧嘩でもしたのか?と私は想像しました。
翌日イチジクの木を呪うのですよね。イライラしてるのはそのせいかもしれません。
そして「滞在を延ばされてもう一泊」された箇所も、雅歌を参考にすると想像が広がりました。
ソロモンより偉大な王であるキリスト
いつの世も恋ほど人を乱し揺さぶるものはありません。
しかしイエズスは王の王であるから、個人的なことは犠牲にして博愛を優先することがお出来になります。
(マグダラの場合) 詩の内容と一致
心臓にしるし→剣はマグダラと関係あり(性愛は死のように強い)
腕にしるし→洞窟から天国へ(ねたみは墓場より残酷)
(聖母の場合) 詩の内容とは違う
心臓にしるし→剣の一致(二つのみこころ)*博愛は死のように強い
腕にしるし→右の座(戴冠)*ねたみは墓場のように残酷 解釈の問題ではなく、根本信仰してないことを
「洗脳されていない」
とは言いません。
「信仰を持ってない」
とはっきり言いましょうね。 【マグダラのマリアへの特別感と仄めかし】
・福音と香油注ぎは一心同体
・十字架の死と復活に立ち会う第一人者としての記名(親族として)
※ 全福音書で筆頭
・あの方の体は私が引き取ります
「マリア!」「ラボニー!(私だけの先生)」→雅歌との対比
・触ってはいけない理由「まだ天に上ってないのだから」→主の指示により洞窟で30年間を過ごす。
※ 体ごと天へと運ばれありとあらゆる至福を経験する。
・帰天に合わせて証しする
・エンメリックの幻視でも、主のゲッセマネでの苦しみ方と、拷問を受けている間のマグダラの苦しみ方が同じ
マタイ26・12〜13
12 この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。
13 よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
雅歌3章
2 「わたしは今起きて、町をまわり歩き、街路や広場で、わが魂の愛する者をたずねよう」と、彼をたずねたが、見つからなかった。
3 町をまわり歩く夜回りたちに出会ったので、「あなたがたは、わが魂の愛する者を見ましたか」と尋ねた。
4 わたしが彼らと別れて行くとすぐ、わが魂の愛する者に出会った。わたしは彼を引き留めて行かせず、ついにわが母の家につれて行き、わたしを産んだ者のへやにはいった。
雅歌8章
6 わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。 最期の晩餐で主の愛と謙遜を示す行為としての洗足も、マグダラのマリアによる洗足を手本としているのではないかと私は見ています。 マリアマグダレナは元罪深い女でありイエズスは貧しい大工の息子です。
この二人の結婚パーティーに世の先生がたの誰が顔を出したいと思うでしょうか。
出席者は二人の友人たちであり、すなわち同じく罪の中にいた人、貧しい人や進んで貧しくなった人でした。
-イザヤ43:1-5「ヤコブ(マグダラ)よ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。
1. 恐れるな、私はあなたを贖う(ゆるし)。
2. あなたは私のもの(香油注ぎの記念)。
3. 私はあなたの名を呼ぶ(「マリア!」)。
4. 水の中を通るときも、私はあなたと共にいる(伝道中)。
5. 大河の中を通っても、あなたは押し流されない(亡命)。
6. 火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない(男たちの回心)。
7. ・・・恐れるな、私はあなたと共にいる。私は東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める(フランスはイスラエルから見ると西)」。 【洞窟に聖所はない】
黙示録21章
22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。 しかも「塩狩峠」の主人公には婚約者がいたのですよね。
私なら二の足踏みます。 因果応報の原理では、罪を犯した人が罰を受けます。
しかしイエズスキリストの愛は私たちの受けるはずだった罰を代わりに受けてくださり、私たちにも同じ愛と犠牲を説いていらっしゃるのですが、これはなぜでしょう。
本来ならば罪を犯した本人が罰を受けます。でもそんなことを期待しているうちに地上の罪は重くなりすぎバランスを崩すしかないのではありませんか?
身代わりとしての犠牲が捧げられることによって、破滅から遠ざかる原理が働いているようなイメージを私は持っています。
犠牲は積極的にバランスを取り戻す行為です。償うべき罰を免除された本人は知らなくても、犠牲を捧げている人があるからこそ公的バランスが保たれているというイメージです。 昨晩、エンメリックの幻視をまた少し読みました。
気になっているのが教会関係者の不信仰です。まさか、と疑うような。
リベラリストが秘蹟を迷信であるかのごとく扱うということでしょうか。
私が彼らを弁護するとしたら「罪がない人こそ石を投げろ」くらいしかありません。 私はまだ花婿と花嫁の実際の恋愛のように考えてしまうのですけど、これがマグダラ=教会(私たち)という解釈をして、代表としてのマグダラのマリアであれば問題ないのでしょうか。
ずいぶん前ですが、私の頭に霊的油のようなものが瓶二杯分流れるビジョンがありました。
内容はマグダラのマリアへの贈り物です。薄い黄色で甘くなくさらっとした油でした。
他人名義の贈り物なんて受け取れません。
私は自分勝手な想像がやめられず、マグダラのマリアとイエズスの愛を深読みすることがよくありました。
その内容が私へ返却されたということかもしれませんし、悪魔が嫌がらせをして私を泣かせに来たのかもしれません。 聖書や教会の認める資料の中にイエズスとマグダラのマリアとの対なる発見をするたびに受け入れてはいますが、私の中の懐かしいイエズスも忘れ難くとても悲しいです。
あれが悪魔だとはとても思えなかったからです。悪魔もいたかもしれませんが、判別できないためいっその事全部悪魔だったことにしようと塗りつぶしました。
悲しみから立ち直るにはもうしばらく時間が必要だと感じます。
どうして失恋しか経験しないのか私は。神様は代わりの恋さえ与えてはくださらないのです。 神様は憐れみ深いお方です。
苦しみも分割払いのようにやって来るのです。
酷い苦しみも酷い悲しみも、私の力を上回らないような量を調節してくださって、打ちのめされてもしばらくすると静かな時間を与えられます。
私が体制を整え、次の試みに堪えられるようにしてくださっているのでしょう。
「もう堪えることはできません」
何度訴えたことでしょう。
でも私はこうして息をしています。 >>376
・帰天に合わせて証しする
黙示録19章
7 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
8 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。 洞窟から天国へ行き来する毎日。その30年もの長い時間がマグダラのマリアを整えさせたのだと思います。
自分の罪に泣き、ラザロの死、洗足、イエズスの苦しみの間、墓で主のお体を捜しまわる。
マグダラ(ベタニヤ)のマリアはいつも泣いていました。
黙示録21章
1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。 花嫁ののろいとは何でしょう。
私は因果応報の原理から聖人たちを見ていました。
アブラハム、ヤコブ、ダビデ、ソロモン、どうして女の性をただの道具のように扱うのかと立腹しました。なぜ彼らは罪に問われないのかと。さながら悪魔の訴えのように。
七つの悪霊から救われたマグダラのマリアも、主のただ一人の花嫁として見ることには不納得でした。
私はねたみのために彼らを呪っていたのではないかと思いました。
義人や聖人を因果応報の原理によってのろい、殺していたのではないだろうかと思いました。
黙示録22章
3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。 「これからは永遠にあの至福の中へ入らねばならない」
これはマグダラのマリアが地上での命を終わる時に語った言葉です。
私も同じようなことを言われました。
将来私はイエズスの胸に格納され幸せな束縛の中で暮らすことになると。
私だけが望まれていると思い込みましたが、オリジナルはマグダラのマリアではありませんか。
私は博愛の中の一人でしかないのですね。 私の中にイエズスが現れてから、ことあるごとにマグダラのマリアとの本当のご関係を教えてくださいとお願いしてきました。
私が私の勝手で答えを作ることもできましたが、イエズスの答えはいつも沈黙でした。
沈黙は想像を広げます。
私はイエズスがマグダラのマリアに恋をしたことを確信していたので、今はなぜ私に話しかけるのだろうと思い、長い二千年間で不都合にも別れたのだろうかと考えました。
マグダラのマリア花嫁説をこれほど信じてしまうとは、私自身驚いています。
どうして調べれば調べるほど確信するのか自分でも不思議なのです。
調べたことがすべて関連して結びつけられてしまうのですから。
聖母に憧れ、聖母を慕い、聖母の祝福された言辞を我がことのように喜んでいたのに、なぜこうなってしまうのでしょう。
私の霊的母は聖母です。断じてマグダラのマリアではありません。
姉妹としてのマグダラのマリアではあるでしょう。私もさんざん泣いてきましたから。
花嫁、天のエルサレムとしてのマグダラのマリアは、イエズスにとってそうかもしれません。
ただし私の慕う女性はマグダラのマリアではなく、変わらず聖母なのです。 マグダラのマリアとのあれやこれやが私の中で判明すると、イエズスが沈黙で答えた理由も理解できるのです。
「これは明かせないよな」と思います。
おこがましくも私を配偶者として語りかけてくださるのですから、配偶者として知りたいと思ってきました。
沈黙は不誠実であると私は考えます。でも神は偽り者ではないのです。やはり沈黙でしか応じられなかったでしょう。
悪魔だったら私を安心させるような嘘を最初から話していたのではないかと思います。
それとも「奥深い」作戦なのでしょうか。
いずれにせよ私はこの不愉快なゲーム脱落しました。 私の悲しみの止むこと。
私の苦しみの止むこと。
私のトラウマが去ること。
私の義なるを赦される時。
私は罪から逃れ、救われます。
呼んで助けの来ないことに傷つき、残酷にえぐられ、怒り泣き叫び苦しんだことを思い出しながら、それでもまだ苦しみ足りないような気がして絞り出します。
到底まだ赦されてるような気がしないのです。
自分の状態が霊的にどうなのかわからないから不安です。
自然と動ける日が来るのを信じるしかありません。
ルカ9章
62 イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。
http://ochanomizu.cc/dairybible2/dairybible001-01.php?gyyyymmdd=20170124
http://www.senzoku.org/200908.htm チューリップが芽を出しています。
春の球根のうち一番早く咲く花が見えたので気づきました。
いつも突然気づくことになります。
すべてのチューリップが花びらを散らすと、しばらくして最後の大物である背丈のある百合が現れます。
それは他の草も茂る頃で、百合の花が開くまでは同じ緑で目立たず、同化してるように見えます。
それでは周りの草を抜いていればいいのではと思われるかもしれません。しかし風で折れたり強い日差しで土が乾くかもしれないのです。
昨年のうちに死にたかった身としては複雑な喜びであり悲しい朝ですが。 本日の課題。
http://donclaudioberardi.it/jp/カテケージス/キリスト教的希望/
【希望の表明としての祈り】
他の方法によっても、祈りは希望につながっています。私たちは、祈りの内に、自分が真に待ち望んでいるものは何であるかを確認し、それによって私たちの意向をより神のみ旨に一致した純粋なものになるよう、正すことを学ぶことができます。
私たちは、物質的な善だけを考え神に求めていませんか。自分のためだけに願っていませんか。
もし、賛美や感謝に心を開かず、「あなたのみ旨が行われますように」といっていないなら、また、私たちの祈りの視野が現世のいのちを越えていないなら、間違いなく、私たちの希望は清められる必要があります。
【希望に喜び 患難に耐え忍ぶ】
「兄弟たちよ、主が来られるまで忍耐せよ。見よ、農夫は地の尊い実を秋と春の雨が来るまで忍耐して待つ」(ヤコボ5,7)
神への期待とは、キリストの現存のうちに、ともにいてくださるキリストとともに、キリストのからだが完成し、キリストが決定的なしかたで来臨することを待ち望むことです。
【慰めの霊は私たちの希望である】
クレルヴォーのベルナルドはすばらしい表現を造り出しました。『神は苦しむことのできないかたですが、ともに苦しむことのできないかたではありません』。(・・・)だからあらゆる苦しみは『慰め』で満たされます。『慰め』とは、ともに苦しんでくださる神の慰めです。
【希望の理由を答える準備】
また、善を行って苦しむことが神のみ旨なら、悪を行って苦しむよりもそのほうがよい」(1ペトロ3,14-17)
【希望は専念と努力を要する】
私たちの日々のトレーニングに欠かせない体操課題は、信仰・希望・愛の行いに示されるよい心構えというオイルを用いた十戒の実践です。
この訓練についての指導は、福音書、聖書から受けます。聖書は、教会によって解釈され、教え説かれています。
教会は、教皇のことばやカテキズムに要約された教理をとおしてそれを教える任務をもっているからです。
【永遠のいのちへの希望】
永遠のいのちとは、今のいのちの延長ではなく、新たないのちであり、そこでは、泣いたり苦しんだりすることはなく、ただ私たちがあこがれるあらゆる善が永遠に存在するのです。 イエズスキリストが来臨なさる時はイスラエル人が父なる神と呼んできた方がこの方であったことを知るのです。 私に現れたイエズスは若い現代的な男性でしたし、最初から私の性を求めておられました。
この件で私は、長い間、憎んでいたほどです。
それがなぜ受け入れるようになったのか。
彼と私との間に、愛する者と憎む者、愛することと憎むことの一致がみられたからです。 >>398
イスラエル人は神を「父アッバ」とは呼ばなかった、神をエルシャダイ エロヒム ヤハウェ アドナイ とは呼称したが決して「父」と呼ぶことはなかった。「父」と神を呼んだのは「御子」なる神である、 映画や小説や空想の世界に浸りきっていると没入することは可能です。
しかしそれは現実の世界で生きている私自身とは違います。
「ピッピご飯よー」
と呼ばれたらたちまち憧れの世界は壊れてしまいます。
頭は憧れの世界に同意していても、体は違います。
だから私の体に及ぼそうとする情愛をとても憎みました。 >>399
神はあなたの肉体に興味はない、あなたの清らかな霊魂に関心がある。そいつは紳士としてイエスに成りすました悪魔である。すべての霊を試しなさい、「あなたはナザレのイエスか?」違和感があれば 悪魔に立ち向かい 拒絶なさい。騙されてはならない。本物のイエスに祈れ! ヨハネ8章
41
彼らは言った、「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である」。 体に関心がないのならどうして体の復活を成し遂げられたのでしょうね。
死んだ肉体を放置して石ころからでも作り直せばよかったのに。 しかし今では私の身に起きたほとんどのことが真理と善において疑わしいと思うようになりました。
それで立ち直ろうとしているところです。 >>404
それはイエスキリストに於ける
自由と愛の視界を指し示してです💞 「我々にその啓示の中で愛する方として出会われるとき、神は無比なる一人の方として我々に出会い給う」
⭐⭐⭐⭐ 人間の自由事柄、決定事項ではなくて
神のその都度、自由な決断の聖霊の注ぎにより
⭐😃🍻知り合いが競馬八万円当たってる
ムカつく✊💢 人間の理性、知性ではイエスキリストを信じることも
知ることも出来ないと告白することを
要求する。👰 肉体関係と霊的関係、この2つの関係はどういう関係? 三位一体論を啓示の認識原理にしない場合は
神性否定、半神半人、神学と共同の人間学、
自然神学、宗教として埋没する以外に無いからです💞。👰 究極の気持ちよさ!ポリネシアンセックスとは
http://kirei.woman.excite.co.jp/news/detail/20130802103612_hcl4678
「ポリネシアンセックス」。これはポリネシア地方発祥とされ、肉体より精神のつながりを重視するセックスを指します。 聖書の本来的テーマは
三位一体の第2の存在の仕方です💞。👰 ■5.いよいよ挿入。でもピストンはNG
「挿入した時のカレのアソコの熱さが伝わってきて、すごい幸せな気持ちになる」(26歳/看護師)
■6.少しだけ動かす&休憩を繰り返す
「我慢の甲斐があった!って感じ(笑)体全体がすごく敏感になってるのが分かります」(29歳/外資系金融) スピリチュアルへの造詣が深い五木寛之氏が書籍『サイレント・ラブ』の中で、「ポリネシアン・セックス」という南太平洋諸島に暮らすポリネシアの人々の間に伝わるセックスを紹介して、話題を呼びました。
そのスタイルはというと、
http://news.livedoor.com/article/detail/5272704/
なぜ日本人女性にポリネシアン・セックスが人気なのか? 性を創られたのも神(父が指示し子が働いた、聖霊が力を与えた)適切な場合は祝福となり歓びとなるが、不適切な場合は 呪いとなり哀しみとなる。 >>421
男性の身体を創造された方は凾サの身体の一部から女性の身体を創造された。
だから、神が逢わせたカップルは人が離してはならない。わかりますか? 男は女体と結合することで「生まれ故郷」回帰の気持ちになり安らぎます。一方の女性の場合は男の懐(特に肋骨=心臓の周りにある)に回帰した気持ちになり やはり安らぎます。女性が男の腕の中に抱かれ穏やかになる理由を聖書は明らかにしています。 旧約聖書に書いてあるとおり、神様は姦淫に対して厳しく見られ残酷なほどの罰を負わせるお方です。
律法でも、国の在り方のたとえでも、国民の娼婦観でも、それがわかります。
しかし旧約の義人たちや、イエズスの働きとたとえ話で知るところでは、性的な罪に関してとても寛容なことがわかるばかりなのです。
義人と娼婦は絡み合っていると言っても過言ではないくらいです。
神様は預言者に娼婦と結婚するように命じる場面さえあります。
後にその娼婦は子を連れて他の男のもとへ行きますが、神が「出て行くままにしなさい」と語っても、夫は神に反抗して「彼女を愛しています」と食ってかかるほどなのです。 神様が本当に厭われることは性的なことなんかではなく、不信仰、不正義、私たちに愛のないことです。
アブラハムの時代から義人も複数の女性と性的交わりをして子孫を増やして来ました。そういう文化を神がおゆるしになったのです。
偉大な王であるダビデやソロモンになると性行為する相手は桁違いに多くなります。
バプテスマのヨハネやイエズスの周りには元遊女がたくさんいました。 私にとってのイエズスは神である前に私の愛する人でした。
ただ一人の愛する人、ただ一人の夫であり恋人です。
イエズスは私にとって他の人と共有するアイテムではありません。
少女の憧れらしく永遠の昔からお互いがただ一人の人だったのです。
「あなたは相手の過ちやいっときの恋も許せないのか。
苦しみの中の夢想も、象徴的な記録でしかなくても許せないのか。
あなたは恋をしたことがないのか。
他の男を慕い求めたことはないのか。
あなたはそこまで清廉潔白といえるのか」
突き刺さる無言の責めが私を苦しめたのです。
私はマグダラのマリアを愛したイエズスを受け入れることができませんでした。 自分の今までの恋の記憶や他の男たちを慕った時の夢想を、イエズスが燃やし尽くしてくれたらと私は願いました。
私の罪はイエズスによって清められるでしょう。イエズスが望まれるなら私は罪から救われます。
聖書は廃れることのない永遠の書物です。このことはイエズスご自身が仰いました。
その聖書にイエズスとマグダラのマリアが花婿と花嫁として仄めかされるように記録してあるのです。
私は聖伝も信じていますから、聖書と聖伝、そして私の霊感の三つ揃えで、マグダラのマリアという城壁が私の希望の前に固くそびえていることを認めました。
動かしようがないものをどうすることもできません。
さからえば神に逆らうことになります。
結婚はイエズスのいう通りに一対一の関係です。私は諦めました。 神の博愛のもとで、性的な希望を忘れ、一人の一般人として、イエズスを慕うことにしました。
悪魔と交わり、勘違いして喜んでいた日々を、悔い改めなくてはいけません。
その苦しみは発狂の極みまで連れて行かれるかのごとくつらいものです。
ゲームは終わりました。
私が救われるかどうかは痛悔と神の赦しにかかっています。
(イマココ) 聖書の女性観:エヴァ サラ、リベカ、ハガル、ラケル、ミリアム、チッポラ、タマル、ラハブ、 ウリヤの妻バテシバ、マリア、… を学ばれると面白いと思います。 曽野綾子さんだったか「聖書の中の悪女たち」に
娼婦 淑女 は紙一重とありました。六千年の人間の喜怒哀楽 恋愛遊戯を観てきた主だからこそ、余裕綽々で女性たちに接することが出来たのでしょうね。確か主観っていうのがありまして、人間は生まれたばかりの赤子に見えるのだそうです、憎めないですよね まして女性たちは せめてキスくらい経験してから死にたいものです。
イヌ・ネコ・トリではなく。 初めてのキスは幼稚園の時だった。
神社の境内でリエちゃんからキスされたもんな(^3^)/
キスは、吐息を感じるギリギリ、触れるか触れないかくらいのギリギリキスで、
「もう、ちゃんとキスして!」→女の子からブチュー なわけ。
おっぱい様もそうよ? 触れるか触れないかくらいのギリギリタッチで、
「もう、どこで覚えたの?悪い子ね!(ハート」→女の子からギュー なわけw
キスさせろ!とか、パイオツ揉ませろ!とか言う男は、生物としてあり得ないと信じまふw チューしてるやん。
女子同士か、ふむふむ。
顔文字使ってる、ご機嫌やな。
と思ってたら、千葉猫かよ。 命短し恋せよ乙女 紅き唇 褪せぬ間に
http://8148.teacup.com/yona69/bbs/mobile/index/list/?&TEACUPRBBS=a1e882446f46aebb923df7db5cc76604 こんなに恥辱を告白してもなお励ましてくださる皆さんに感謝します。 これ本当に参考になりました。
私ももう一度生き直そうと思います。
http://ja.radiovaticana.va/news/2018/03/01/教理省:キリスト教的救いの観点をめぐる司教への書簡/1365061
同文書は、イエスを唯一普遍の救い主と宣言するキリスト教信仰を曖昧にさせる文化的変化として、教皇フランシスコもこれまで指摘してきた、いわば「ネオ・ペラギウス主義」、「ネオ・グノーシス主義」とも呼べる、2つの傾向を挙げている。 >>428さんへ
「巡る「刻(とき)」心を悲しく苛み、送る「時間(とき)」心を静かに癒す 」
「舞い散る桜寂しく思い、芽吹く葉桜想いを乗せて」
「貴女に、穏やかにして、健やかな燈が示され、先の道を少しでも照らされ、貴女が一歩づつ歩めます様に」
ただの身勝手で独善的な独り言、
及び、
ただの身勝手で独善的な祈り
(御迷惑であるなら拒否して下さっても構いません) 表れが違うのであってしかし一なる神です。
このことをワンネスとは言いません。
また三人の神がいられるのでもありません。
神は人がすべての被造物を支配するように望まれています。しかしこれを成し遂げるのはイエズスキリストしかいませんでした。
人となられたキリストは最後の敵である死を滅ぼしました。
そしてすべてのすべてであられる父なる神にこそ全権があることをご自身が全服従されたことによって私たちに教えます。
http://www.tenryo.net/old/anastasis4.htm
一コリント15章
23 ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、
24 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。
25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。
26 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。
27 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。
28 そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。 カトリックには啓示があるので理解がストレートなのでしょうね。
アグレダのマリア
http://www5b.biglobe.ne.jp/~shinju/Agreda%20no%20Maria.htm こういうの見つけました。
https://directors.tfionline.com/ja/download_post/127/
アウグスティヌスは、三位一体を7つの短い陳述文にまとめた。
父は神である。
子は神である。
聖霊は神である。
父は子ではない。
子は聖霊ではない。
聖霊は父ではない。
神は唯一である。 本来ならば私もこんなイメージで受け止めるはずだったのだろうか?
http://www.seiurusurashudokai.org/会の霊性/キリストの浄配/
創立者聖アンジェラのカリスマ(神から与えられる固有の賜物)
に基づいています。
その特徴は、
「キリストの浄配」
であるということです。
【聖アンジェラのノベナ 第5日目】
わたしたちには何ら価値がないにもかかわらず、
一人ひとり、また、皆一緒に神のみ子の浄配となるために選ばれました。 アレキサンドリアのカタリナ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アレクサンドリアのカタリナ
幻視をした彼女は洗礼を受け、キリスト教徒となった。彼女は幻想の中で天国へ運ばれ、そこで聖母マリアによってキリストと婚約させられたという(神秘の結婚)。
1969年、ローマ・カトリック教会は、典礼秘蹟省が発行する聖人の祝日を記載した暦から、カタリナの祝日11月25日を除いた。彼女の実在が歴史的根拠に欠けるという理由からであった。2002年、カタリナの祝日は再び暦に記載された。 三位一体は、1つの体に3つの格があると言いますね。
人間の場合、1つの脳に1つの人格があると言います。
記憶喪失になったり認知症になると、人格が変容するとされますから、たぶん記憶が人格を作ってるんでしょう。
多重人格では、1つの脳に複数の人格があることになりますが、人格は交代で現れます。
三位一体だと、1つの脳に3つの人格があり、
3つの人格が同時に現れ、またお互いに関係し合っていることになります。
なので、人間には理解できないのが当たり前ですね。
だが、ものすごく器用なナルミさん(脳)が、3本の腕で、それぞれ3台のパソコンを操り、
父コテ、イエスコテ、聖霊コテを同時に、自演しまくっていると想像すると、
あり得るような気がしてくるのが不思議w 三位一体を理解するのは不可能ですと。
聖霊なる神が最近特にわからなくなっていて、自己との対話すらできなくなっています。
真剣な祈りキリエエレイソンを無視された経験から、ほぼ毎夜うなされる始末ですもの。
私の罪からとは言え、悪魔に蹂躙されたことが神との対話を信頼できないものにし、私の一方的なお願いという形でしか成り立たなくさせてしまいました。 どれほど自己都合的に良いものだろうと、それが私たちの神からのものなのかどうか?
信じたくてもわからなくなっています。
私も霊的識別の賜物をいただきたいです。
http://ja.radiovaticana.va/news/2018/03/02/3月の教皇の祈りの意向:霊的識別の養成/1365185 これからはショックを避けるため
「みこころならば助けてください」
と言おう。 ステパノは自分が見たものを証しして倒れた。
見たものは信じる。彼には確信があったことだろう。 「シロアリに喰われてますからもうじき腐れますよ」
そういわれた梅が今年咲いてます。まあ実がなるかどうかはまだわかりません。
あまり枝を広げすぎなければいいのだわ。
剪定さえできればなあ。 昆布だしの代わりに白だしを購入しましたので、わずかな量でも十分です。
香り付けにダイダイを絞りいれて湯がいたそうめんを入れます。
ダイダイはジュースにしてもいいし、サラダ用ドレッシング代わりもできます。
タネも食べてます。今のところ体調に問題はみられません。 頭(脳)よりも腹(腸)で考えること
頭で考えると悩むが腹で考えると 別思考になる。第2の脳 小腸を大事になさい。 大概の人はあるていど手加減しながら書いているという、その人なりの優しさを感じられるようにはなってほしいですね。
同じ5ちゃんの釜の飯を食べてるのだし。
私が痩せたと報告しても、あるいは本当はモテモテなんですと書いたところで、誰も証しできる人はいませんからね。
それはネットの向こう側の人にも言えますわね。 私は甘く安らいでいます。だがこれが神からか、悪魔か悪霊からかがわからないので悲しいです。
神からならば、なぜこう遅く今なのかを考えてしまうし、悪魔か悪霊ならば私は用心しなければならないのです。
なぜこのタイミングであるかの理由がわかりません。 具体とかの気持ち悪い連呼もそうだけど、まず発想がキリスト者とは真逆なので、そういう人は用心するに越したことないですね。
長文のわりにまともな解説読んだことないし、ん?おかしいよあなたの方がとしか思わないですわ。
これが論文か書籍なら即ゴミ箱行きする幼稚レベルです。 私が読んでいたカテケージスに偽りの希望という小見出しがありました。そこに偽りの宗教や思想が提示する希望について【具体的】に書いてあります。
人間には自由意志が与えられていますから、いくら外の環境を整えてもそれが永続しないことは明白なのです。
私たちは善に向けて毎日回心する必要があります。
だからこそ主の来臨を待ち望むことがキリストを信じる人の希望なのです。 人は自分の力で気づくことはできません。
エリヤとエリシャの時代にイスラエル民は彼らを受け入れなかったので、神は異邦人を癒されました。しかし癒されるまでナアマンは信じないでさんざん悪態をついていたのです。
(列王下5章前半)
(ルカ4章後半) 大きなしるしを見ても信じない人はいるものです。
終わりの日、主の大いなる怒りの日がやって来て、私はすべての人が回心すると思ってました。
しかしなお反抗する人の姿も描かれています。
ゼカリヤ14章
16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる。
17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。
黙示録21章
26 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。
27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。 ナアマンは重い皮膚病に悩まされていました。いわば藁をもすがりたい気持ちでいたはずです。
捕虜として連れて来られたイスラエル人の少女が預言者の話をするとナアマンはその気になります。
(こういう人は現代でも偽りの宗教を信じる動機としてあります)
預言者エリシャがナアマンに癒されるためヨルダン川に七度浸かるよう指示しますが、ナアマンの頭には預言者が手を置くスタイルがあったので不信がり去ろうとしました。ヨルダン川より良い川があるのにと言って。
しかし部下のとりなしでナアマンは預言者の言う通りにしました。
ナアマンは皮膚病が癒されたのを見て、イスラエルのほかに神は世界のどこにもいないと証ししました。 コンソメスープの具材は残り物でした。
もやし、人参、ごぼう。気づいたら根菜ばかり。
一日一食。 これが理由、ここがおかしい。
その説明の中に訴える人自身のおかしい理由もあることを気づかせていただけると恵みですね。
そういう人は騙されることもなく、傲慢に陥ることもなく、ただ神にのみ希望をつなぐようになります。 私の霊的体験をおかしいと思っていた人たちは、数多いる聖人の体験をまだよく知らないのです。
ご聖体を求めて飢える体験も聖人のものでしたし、神秘的婚姻も聖人のものでした。
何か行きすぎた解釈があったとしても根本的なおかしさはありません。 サタンはナチュラル。
彼ははじめから人殺しであり、彼が偽りを言う時は自分の本音を吐いています。
彼には真理がないからです。
ヨハネ8章
44 あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。
彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。
彼のうちには真理がないからである。
彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。
彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。 損切りの雹 とか
雹、謝って とか
水着の写真 とか
裸の写真 とか
いろいろ思い出しています。 看護師の卑猥な動画 とか
女です とかのメールやTEL
苫米地CD聴いてシーカップになった とか
いろんなことを思い出しています のぞみが仕事の合間に自撮りしたという看護師の動画。
性別があり得ないやんけ。
誰だかわからないネットだからこそですわ。 教会の信仰に服従できない人は迷っていくでしょう。
『manna』ヨブの学びもあと二日を残すのみです。
次は使徒の働きに入ります。 地上にいる民は神を崇め、賛美します。裁きが表れる前だからです。
彼らは自分の救いを信じています。
ルカ6章
36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。
37 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。 共通の信仰がなければ、自分の好き勝手な解釈をとり迷っていくだけです。
目が見えなければ耳を傾けましょう。あるいは顔が風を感じるかもしれません。
ルカ6章
39 イエスはまた一つのたとえを語られた、「盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。
40 弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。
41 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
42 自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。 耳に聞こえのよいことを受け入れるだけでなく、現実を受け止めることは難しいことです。
人々は悪い警告を聞くとイエズスを殺そうとして、このあと詰め寄るのです。
14 それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。
15 イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。
(朗読イザヤ61章 主の恵みの年=ヨベルの年)
20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。
21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。
22 すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。 目を覚ましていて悪いことは極力思わないようにしたいものです。
神に逆らう者ハマンは何もかも裏目に出てしまいます。
自分の栄誉のために考えたことは宿敵モルデカイのための栄誉となり、モルデカイを殺すため用意した木は自分の死のための道具となりました。
エステル6章
3 そこで王は言った、「この事のために、どんな栄誉と爵位をモルデカイに与えたか」。王に仕える侍臣たちは言った、「何も彼に与えていません」。
*
6 やがてハマンがはいって来ると王は言った、「王が栄誉を与えようと思う人にはどうしたらよかろうか」。ハマンは心のうちに言った、「王はわたし以外にだれに栄誉を与えようと思われるだろうか」。
*
10 それで王はハマンに言った、「急いであなたが言ったように、その衣服と馬とを取り寄せ、王の門に座しているユダヤ人モルデカイにそうしなさい。あなたが言ったことを一つも欠いてはならない」。
*
12 こうしてモルデカイは王の門に帰ってきたが、ハマンは憂え悩み、頭をおおって急いで家に帰った。
エステル7章
9 その時、王に付き添っていたひとりの侍従ハルボナが「王のためによい事を告げたあのモルデカイのためにハマンが用意した高さ五十キュビトの木がハマンの家に立っています」と言ったので、王は「彼をそれに掛けよ」と言った。
10 そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。 地上の王の権威と取り消すことのできない言葉を知れば、王の王である方の権威とみことばがどれだけ恐るべしかわかります。
エステル8章
7 アハシュエロス王は王妃エステルとユダヤ人モルデカイに言った、「ハマンがユダヤ人を殺そうとしたので、わたしはハマンの家をエステルに与え、またハマンを木に掛けさせた。
8 あなたがたは自分たちの思うままに王の名をもってユダヤ人についての書をつくり、王の指輪をもってそれに印を押すがよい。王の名をもって書き、王の指輪をもって印を押した書はだれも取り消すことができない」。
*
16 ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉があった。
17 いずれの州でも、いずれの町でも、すべて王の命令と詔の伝達された所では、ユダヤ人は喜び楽しみ、酒宴を開いてこの日を祝日とした。そしてこの国の民のうち多くの者がユダヤ人となった。これはユダヤ人を恐れる心が彼らのうちに起ったからである。 >>468
最近は、さくやのおっぱい揉みたかった雹として名を馳せているようです。 凧も風船も、その付くべきところを去ると迷っていきます。
良い地に落ちる保証はありません。 好戦的な人につける薬は何か、考えていました。
ああサロメさんを思い出します。
煽り運転する人にはカメラを示すとよいらしいです。
カメラを搭載してなければ速やかに立ち去ることです。
もし愛があり余り、彼を放置できないならば良い手本があります。
ナルミさんは徹底的に彼と関わることでついにカトリックへ導きました。 言葉の表現にこだわりの強い語が見られます。
普段の読み書き、会話のなかであまりない特殊な語です。
その人の関わりのなかでは普段化しているので本人は気づかないのでしょうね。
語の選択もそうですが文化的背景も影響していると思います。
私の校区では中学で立志式というものがあります。公立でしたから全国区で行われているものと勘違いしていました。
そんなものですよ。
別の例をあげると天ぷらにソースはつけないあり得ないと福岡市民が答えていますが、うちは昔からソースです。 >>479
サロメさんにハメられたそうです、雹さんは。
まんまと。 自分だけの特殊性に気づかなければ「あれま」でしょうね。
悔い改めとは反省のことではない、と知らなければどこまでもズレて理解し、意味わからないのと同じですもの。
私は頭を掻きながら云わんとするところを二次的処理しています。 たしかに日本語のようではある、だが内容は理解できない。
その人の何らかの背景に入り込まなければ解明できないと思います。
しかし唯一「私たちの信仰」を語ることはできますよね。そこからしか出発できません。
http://ww4.et.tiki.ne.jp/~theos-agape7/pb/gla.html 聖母が大切に保管されていたとされる主の割礼時の血を染み込ませた布はいつ発見されるのかしら。
十字架につけられた後、一本一本抜かれたとされる茨の冠とか見たいわ。 あれから開くことのなかった、こまき みつおさんのツイッターを読みました。
婚約中なのに聖母に関係を迫るヨゼフのことが書いてありました。
彼(こまき みつお)はどこからこうした知識を得ているのでしょう。
私の場合は私の霊体験からの完全なる邪推ですが。
真面目で童貞。主イエズスを愛していること、心から従いたいと思っていること。
性的空想による拡散。
まるで私と双子じゃないですか。
彼(こまき みつお)を見る時、教会の公式解釈の下で信仰する自由のほうを選びたいと切に切に願います。 痩せているほうがいいのは何より見た目、肉感的でなくなるからです。 >>486
山中鹿之介 我に七難八苦を与えたまえ と三日月に祈った >>489
私は、ゲイだからイエズスに抱かれたいと
思っています 誘われるまま、招かれるまま、知らないまま私が【見学】させてもらった宗教団体がいくつかあります。
私には偏見がありませんでした。
私からの意見がなかったわけではありませんが、友人として隣人として接してきたつもりです。
そして友好的に別れました。
子どもの頃から私はキリスト教に惹かれていました。首には十字架をつけていました。
私の信仰対象はキリスト以外にはありません。
【見学】してきた宗教団体の関係者をことあるごとに思い起こしています。
このうち何人かでも、私と信仰を同じくしてキリストを信じて救われないものかと。 知り合った人たちと信仰を同じくしたい、という願いを神に捧げています。
どんな罪も白く清くできるお方です。
どうぞイエズスキリストの十字架の血潮を受け入れてください。
神の怒りの日にあなたは裁きを免れ救われます。 教会での長年の訓練を受けた人はその賜物として恐怖政治に打ち勝ちます。
積極的に自らの十字架を担う人は他の人にも恐怖政治を敷かないのです。
このことからキリストに従う者と反キリストに従う者を見分けるようになります。 教会での長年の訓練を受けた人はその賜物として恐怖政治に打ち勝ちます。(小羊とこれに従う者は)
積極的に自らの十字架を担う人は他の人にも恐怖政治を敷かないのです。(殉教者となる)
このことからキリストに従う者と反キリストに従う者を見分けるようになります。
(赦されたから赦す=流す)
(赦されたのに赦さない=名誉に執着) 「テテレスタイ」
「汝の罪赦されたり」
もう大丈夫だから、シャローム 心穏やかに生きてください。 詩篇69
1 神よ、わたしをお救いください。大水が流れ来て、わたしの首にまで達しました。
2 わたしは足がかりもない深い泥の中に沈みました。わたしは深い水に陥り、大水がわたしの上を流れ過ぎました。
詩篇70
1 神よ、みこころならばわたしをお救いください。主よ、すみやかにわたしをお助けください。 マタイ18章
27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。
28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。
29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。
30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。
31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。 ペテロは自分の犯した罪のことを考えにいれてない、と指摘されています。
マタイ18章
21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。
https://kuwamizuchurch.wordpress.com/2014/10/05/マタイによる福音書18章21〜35節/ ペテロの欠如はありすぎて憎めないです。光によって欠如が明らかとなっているから、安心して読めます。
罪を言い表して光の子となる人は幸いです。
自分の十字架を負って従う人には
「他人にエラソーなことは言えない私」
という心がどこかにあるものです。
でも寛容さが仇となりテアテラ教会みたいに偽預言者イゼベルを放置することにもつながるのですよね。 そもそも私たちの命も身体も神さまからの借り物でしょ? 「いのちのことば」2018.1
ちいろば先生こと榎本保郎先生の『聴くけと 祈ること』を紹介してるページがあります。
新しく生まれるためには死ななければならない。ニコデモは新しく生まれるとは小さくなることだと思っていたと書いてあります。
自分が小さくなること、倫理的な生活をすることだと考えている人が多い。
榎本先生は「それらはすべて人間の世界から一歩も出ることはない」と一刀両断します。
「決定的なことは、あなたは死んでいるかどうかである」(ヨハ12・23-24)
「死ぬとは文句を言わなくなることであり、明日のことを思い煩わなくなることである」
という。 キリストにあって生きた者、罪に対しては死んだ者 (ローマ6:1.2)
ギリシャ語は特に動詞の時制に関して過去形か現在形あるいは未来形なのか 知ることは重要です。で「罪に対して死んだ私たち」というのは過去形です。もうすでに成し遂げられたこと あなたが何かしなければならないのではない 信じなければならないことなのです。 シモンの家での涙と香油の洗足行為は、もはや愛されている実感からのものと思われます。
もはや臆病の霊は去っています。
完全なる愛への信頼が見えてくるような気がします。
安心して行きなさい。とイエズスは言いました。(ルカ7・50)
「だからもう泣くのはおやめなさい」と仰っているのではないでしょうか。女は閉じこもり、いつも泣いていたのではないか。
雅歌4・8
わが花嫁よ、レバノンからわたしと一緒にきなさい、レバノンからわたしと一緒にきなさい。
アマナの頂を去り、セニルおよびヘルモンの頂を去り、ししの穴、ひょうの山を去りなさい。
一方、長血の女はこっそりと衣に触れました。
こちらのほうが私に近いです。
対面するほどの自信はないですが、主の癒しのお力は信じています。
不完全な臆病の霊です。
この女にも「安心して行きなさい」と仰いました。(ルカ8・48) 雅歌4・8は
私のロマンチックな想像によると、閉じこもりきりのマグダラ(ベタニヤ)のマリアを外へ連れ出す主の言葉です。
「わたしの宣教に付いて来なさい」実質上のプロポーズ。 どこかのサイトでマグダラのマリアのことを聖母の親友扱いしてた人がいました。
どちらかというと姉のマルタの方が聖母とは馬が合うと思います。
働き者で気配り上手ですから。
イエズスとマグダラのマリアの婚姻がもしも行われていたなら、親代わりのマルタが喜んだでしょう。
罪の生活を送っていた妹がその罪を赦されただけでなく、主の妻となり永遠の幸せを得るとはなんと恵まれていることか。
こうしてはいられないとばかりにさっそく結婚に向けたさまざまな準備に取り掛かったことでしょう。
聖母も愛する息子の花嫁を迎えるため相手方の親代わりであるマルタやラザロと緊密に話し合い、さまざまな準備をしたはずです。 「罪に対して死んだなどとは感じられない」と言う人よ、自分の感情ではなく自分の信じていることによって解放がもたらされるのなら その感情を無視してください。信じたから真理になるわけではなく真理であるからこそ感情が伴わなくとも信じなければならない。 もう一度読みます、「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたの命はキリストと共に、神のうちに隠されてあるからです」(ローマ6:1.2)
もうすでに成し遂げられたことを 自分がもうすでになっている者になろうと懸命に努力しているのです (ローマ6:3)
すでに卒業したのに再び一年生から入学するのは愚かですよね 「私たちはキリストの死にあずかるバプテスマにより キリストとともに葬られたのです。…」(ローマ6:4)
あなたがイエスを救い主と受け入れる信仰を持った時に 霊的バプテスマに与り あなたの死と埋葬が起こった、あなたは死んだのです。もう一度繰り返すことはできません、ただ信じることしかできないのです。
※外見的バプテスマは儀式 象徴にすぎません いいですか、もう一度ローマ6:1-5 をしっかりお読みください。イエスの死と埋葬にあずかりながら、その復活と昇天にあずからないというのはあり得ないことなのです。福音の半分しか信じていないならば敗北の中に生きるようななってしまいます。
あなたはキリストと共に死んだのです。そしてキリストと共によみがえらされ、天のところに座らせていただいたのです。エペソ2:6 >>486
神の子どもならば誰もが(キリストにあり)霊的に生きている者です。
◆キリストの死 ローマ6:3.6 ガラテヤ2:20 コロサイ3:1-3
◆キリストの埋葬 ローマ6:4
◆キリストの復活 ローマ6:5.8.11
◆キリストの昇天 エペソ2:6 自罪の刈り取りかもしれません。
昨年あったひどい苦しみが、まだ私の中で終わっていません。
今日もスーパーの駐車場でテアテラ教会のイゼベルに対する罰のことであの苦しみを思い出してまた泣きました。
安全に運転して家まで帰れるだろうかと心配したほどです。
鉄の杖のように力強く打ちのめされ、信仰さえ皮と皮をつなぐ一本の細い筋でわずかに繋がるだけとなりました。
私は怖いのです。愛されてる自信もありません。
ただひたすら一方的にみこころならば助けてくださいとお願いするのみです。 死も 罪も もはや私たちに対して何の力も持っていない→これが真理です!イエスが来られたのは 私たちの罪のために死んでくださるためだけでなく、命を与えてくださるためでもありました。(ヨハネ10:10)
ローマ5:8-11をご覧ください。 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はご自身の愛を明らかにされました。」
「彼によって神の怒りか救われた。」あなたは地獄に行かないのです!それだけではありません。「私たちが御子の死によって神と和解させられた、…彼のいのちにより救われた。」あなたは今 キリストの中に生きて和解させられ救われたのです! 「死んでしまった者は 罪から解放されているのです。」(ローマ6:7)あなたはキリストと共に死にましたか。もしそうならあなたは罪から解放されているのです。
先に申し上げた通り そう感じないとしても感情ではなく信じるのです!
既に死んだのなら さらに死ぬ努力は不要ですね、ですから最後に次のように祈ることをオススメします。 『主よ、わたしは永遠の刑罰を受けるにふさわしい者でしたが、あなたは永遠の命を与えてくださいました。私を聖霊で満たしてください。私は自分の感じるところに依らず、信仰によって歩むことを選びます。思いをキリストに従わせ、真実に生きることを選びます』 不信仰の罪が最も重大です。イエス曰く「あなたがたの信仰のとおりになれ」(マタイ9:29)「信仰から出ていないことは、みな罪です」(ローマ14:23)偽りを信じることを選んでしまうなら 偽りの人生を生きていきます。しかし真理を信じるならば 勝利の人生を歩んでいくのです! 死はもはやあなたを支配していない
「もし私たちがキリストと共に死んだのであれば、キリストと共に生きることにもなる…もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを私たちは知っています」(ローマ6:8-9)
死はあなたを支配しているのか?全くそうではない。どうしてか、死はキリストを支配することができず あなたはキリストにあるからです
「死は勝利にのまれた、…死よお前の勝利はどこにあるのか」第一コリン15:54 イエス・キリストが復活により死に打ち勝ってくださったことにより 私たちに対しても死は全く支配力を持っていない。
「わたしは(イエス)はよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は(肉体的に)死んでも(霊的に)生きるのです。」(ヨハネ11:25)あなたは信じていますか。あなたの信仰のとおりになりますように http://www.pauline.or.jp/prayingtime/michiyuki01.php
http://www.pauline.or.jp/prayingtime/michiyuki02.php
十字架の道行(1) 奥村一郎著『主とともに』-1
わたしがたった一人で苦しまねばならぬ日が来たら、クレネのシモンのことを考えよう。
▼もしもいつか、わたしが結局、各人は自分自身の苦しみとともに孤独であり、各人は自分で解決をつけねばならず、なんぴとも他の人を助けることができないのだということを知るときが来るならば、そのとき、わたしの傍らにあなたのいますことを感じさせてください。 幼きキリストとの神秘的婚姻は聖母の主導で行われているようです。
私の体験では成人したキリストでした。
しかも聖母はいませんでした。
でもいつも不在というわけではありません。私が打ちのめされるとしっかり者の聖母が現れましたし、私が聖母の心臓を眺めている時、悪魔が地の底から唸りながら私の肉の耳にまで上って来たのです。 私も含め似たような神秘的婚姻のあることを考えると、オリジナルはマグダラのマリアであり、私たちは彼女の体験コピーを示されているだけかもしれません。
マグダラ以降の花嫁候補は挑戦者だと思います。
大本命はマグダラのマリアです。福音書にあれだけアピールされてるのですからマグダラ以上には誰もなれないでしょう。
それでもあえて候補者を拾ってるのです。平等にするために。 ここからは将来的にピッピ&みつおと呼ばれるかもしれませんが、あえて私の意見を書きます。
あの洞窟で何があったのかは、私の体験から想像すると愛の営みです。つまりセックスですね。
天におけるマグダラのマリアは、キリストの愛情溢れる愛撫を受けていたのではないかと思われます。(聖テレジア 参照)
そしたら聖テレジアの受けたあの天使の矢は聖母の苦しみではなかったか。
聖母は慰めを受けた可能性が高いです。
順番としてマグダラのマリア(オリジナル)→聖母(コピー)→聖テレジア(コピー×2)だと思われます。 再掲
【マグダラのマリアへの特別感と仄めかし】
・福音と香油注ぎは一心同体
・十字架の死と復活に立ち会う第一人者としての記名(親族として)
※ 全福音書で筆頭
・あの方の体は私が引き取ります
「マリア!」「ラボニー!(私だけの先生)」→雅歌との対比
・触ってはいけない理由
「まだ天に上ってないのだから」→主の指示により洞窟で30年間を過ごした。そこから体ごと天へと運ばれありとあらゆる至福を経験する。(毎日七回以上往復する)
・帰天に合わせて証しする
マリアマグダレナは元罪深い女でありイエズスは貧しい大工の息子です。この二人の結婚パーティーに世の先生がたの誰が顔を出したいと思うでしょうか。
出席者は二人の友人たちであり、すなわち同じく罪の中にいた人、貧しい人や進んで貧しくなった人でした。
マグダラのマリア生誕を紀元1年
26歳 西暦27(イエズス30歳)
29歳 西暦30(イエズス33歳)
43歳 西暦44(洞窟生活の始まり)
65歳 西暦66年(ユダヤ人の反乱)
69歳 西暦70(エルサレムの崩壊)
73歳 西暦74(帰天?)
※ ゆえに1997がイエズス二千歳であり、2001はマグダラのマリアが二千歳ということになる。 生きるか死ぬか以外に大したこと等何もない。一生懸命、頑張らなくてもいい。無理して自分を咲かせなくてもいい。
禅僧が教える、心がラクになる生き方。
(恐山菩提寺院代、南直哉) http://ja.radiovaticana.va/news/2018/03/05/教皇「教会の母マリア」の記念日を聖霊降臨の翌日に制定/1365712
教皇フランシスコは、教会暦において、「教会の母マリア」の記念日を、聖霊降臨の翌日の月曜日に制定された。
教皇庁典礼秘跡省(長官:ロベール・サラ枢機卿)は、このたび「教会暦における、至福なるおとめマリア、教会の母の記念日についての教令」を発表。 宮崎・鹿児島県境にある霧島連山の新燃岳で3000mの噴煙が上がっているそうです。
火山灰に注意してください。
火口には溶岩が確認され、噴石もありました。
警戒レベル3 キリストに敵対する悪魔がいることを私たちは知っています。
迫害を知らない人はキリストに就いてない人です。このことによって悪魔の傘下にいる人とそうでない人を見分けることも可能です。
体の迫害、心の迫害、誘惑という迫害、キリストの知識に近づけないという迫害、さしたる理由もないのに教会へ行けないという迫害を経験する人は、喜びましょう。
あなたはキリストの愛ゆえに神の敵である悪魔から妬まれ挑戦を受けているのです。 ルカ7章
31 だから今の時代の人々を何に比べようか。彼らは何に似ているか。
32 それは子供たちが広場にすわって、互に呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった』と言うのに似ている。
33 なぜなら、バプテスマのヨハネがきて、パンを食べることも、ぶどう酒を飲むこともしないと、あなたがたは、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、
34 また人の子がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。
ヨハネ6章
26 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。
27 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。 二日目。
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十字架の道行(2) 奥村一郎著『主とともに』-2
「わたしは見まわした。
しかし、だれ一人、わたしを助けてくれるものはなかった。」
よきときには友は多い、悪いときにはいちはやく遠ざかる。
弟子たちはどこに行ったのだろう。ペテロさえ、姿を見せない。
行きがかりのシモンだけが、わずかにその力づけとさせられる。
「命を賭してもあなたに従う」と言うことは易しい。
ことばとは、なんと力のないものだろう。
ペテロでさえもそうである、
ここに今ひざまずくわたしが、
けっしてあなたから離れずにいることができるだろうか。
ことばをむなしくする愛の力、それが、わめきたてる群衆のさなか、
わたしの心の騒がしさの中にも、根強く隠れているならば……!
主よ、
エマオの弟子たちのように
わたしの心はみことばを信ずるになんと鈍く、
愛を知ることにいかにおそいことか。
あなたの愛の炎によって、わたしの醜さを焼きほろぼししてください。
わたしのすべてがあなたのうちに、
あなたによって、御父のものとなりますように。 あまり悪魔や悪霊のほうは見るな、神さまイエスさまを見上げたまえ、すがりつくんだ!樫葉史美子さんのように (十字架のメドを通って)より ヨブ42章
10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。 >>538
働くっていうのは大変なんだぞ。汝額に汗して働け 汝は塵なれば塵に還るべし 花粉症や多少の具合悪くても簡単に休めない。ヨブのような試練も時にはあるかもな、事故とか事件 何があるかわからない。人生を生きるのは大変だ!生活保護で生きてんのか? イエズスは私の配偶者としてではなく、見知らぬ神として振舞われることも多かったので、私はたびたびうなされました。
試練の時、神は私を守ることを放棄されました。徹底的に火で炙ることをおゆるしになってトラウマの焦げがいつまでも私を苦しめています。
今日また再生不可能な悩みを送る
という声を聴いて用心してます。 幼少の時の体験だから定かではないけど妙にずっと残ってる記憶
言葉にしずらいけど、この世に生まれて「死より辛い」という強烈な感覚を持って生まれた
次の似たような大学時代の体験の記憶
海外生活に少し慣れて一人暮らしを始めた初日の朝、「agony(苦しみ)」という大きな声に起こされて起床した時
生きるのはそれなりに大変だけど、信仰があるからか鈍牛のような歩みでも少しは父なる神への帰還に向けて歩めている
だから人生は尊く、意味があり、味わい深いと感じながら生きている 父の怒りを和らげるため、聖母と子であるキリストが何度もお引き止めしている
というのはどういうことなのでしょう。
1973.8.3(金)
http://akitadiary.seesaa.net/article/128410277.html?seesaa_related=category
世の多くの人々は主を悲しませております。
私は主を慰める者を望んでおります。
【天のおん父のお怒り】をやわらげるために、罪人や忘恩者に代わって苦し み、貧しさをもってこれを償う霊魂を、
【おん子とともに望んで】おります。
【おん父がこの世に対して怒り給うておられる】ことを知らせるために、
【おん父は全人類の 上に大いなる罰をくだそうとしておられ】ます。
【おん子とともに何度も、そのお怒りをやわらげるよう努め】ました。
【おん子の十字架の苦しみ、おん血を示し】て、
【お ん父をお慰めする】至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげて、
【お引きとめして】きました。
祈り、苦業、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、
【おん父のお怒り をやわらげる】ことができます。 【父なる神】は怒り罰を下そうとしているが
【子なる神】の犠牲を示してなだめている 【子なる神】は【父なる神】のみこころに従い
【子なる神】はみことばを残し
終わりの日に【子なる神】のみことばが裁く 旧約の神(父)のみこころを生きた新約の神(子)
新約の神(子)が残したみことばによって終わりの日に裁かれる
どうやって?
1. 新約の神(子)が再臨して内住の神(聖霊)を呼び集める
2. 新約の神(子)が再臨して旧約の神(父)の民を救い
3. 新約の神(子)が再臨して残したみことばに従ってその他の人を裁く ヨハネ5章
28 このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。 古すぎるiPhoneができなくしたもの
・ラジコ
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・画像検索
・新しいアイコン
※ アメブロの写真はすべて見えません 英神父から教えてもらったもの
・やもめの献金をほめる直前、律法学者たちがやもめを取り立てて食い物にしてるとイエズスは批判している
ルカ20章
46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、
47 やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。
マルコ12章
38 イエスはその教の中で言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、
39 また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。
40 また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。 神様は杓子定規な什一献金なんか求めておられません。
生活費のすべてを献金したやもめがその後かならずお金に恵まれるとは書いてないことからもわかります。 関係の深さ。
548の英隆一郎 は、それを重視している内容だった。 言葉は不思議。
同じ「ばか」でもニュアンスの違う「ばか」があります。
字義通りしかわからない人には聖書に書いてある神のみこころはわかりません。 喧嘩ばかりしていたかと思えばすぐ仲直りする友や兄弟家族を見たことはありませんか。
夫婦関係、ビジネス関係、国家間、友人関係、神と私の関係、これらから学んだ人は杓子定規にはいかない生きた関係を見ることができます。 リジューの聖テレジアの苦しみと小さな愛の神学を読むと、お腹に来ます。
感動が。 神との親しい交わりから少し引いて、畏れと敬いの気持ちを増やしました。
あまり馴れ馴れしいのも違うなと。聖母の仕え方がそうでした。
そしてダビデのように
「みこころならば助けてください」
とお願いします。 助けてもらってあたりまえ、という気持ちがどこかにあったと思います。
これからは(当然だけど)もっとへりくだり、助けてもらえたら奇跡かの如くでいたいです。
私は滅ぶのがあたりまえの人間なのです。この前提に立たないとまた同じような悲しみが私を打ちのめすでしょう。
私がまだイエズスをペンダントでしか知らない時に、暴行されて妊娠したら生まれてくる命を大切にしようと考えていたことを思い出しました。
命には希望があります。その子を大切に育て上げることで神様に喜んでいただけると本気で信じた若い日があるのです。
まだ暴行の中身がどんなものかを知らない若すぎる日ですけど。 キリスト不在の世界には真の希望がありません。
神から自立した世界は偽りでしかなく神の恵みが去ってしまうからです。 コロサイ2章
20 もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、
21 「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。
22 これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。
23 これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。 「ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない」
罪の力というものは内側から絶えず生まれてくるものであり、苦行やら自分の精神的な強さからは抑えることができません。 神の家を侮り過ぎるのです。
神の臨在を信じていない人たちは。 マタイ23章
16 盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。
17 愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。
18 また、あなたがたは言う、『祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、その上の供え物をさして誓うなら、果す責任がある』と。
19 盲目な人たちよ。供え物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか。
20 祭壇をさして誓う者は、祭壇と、その上にあるすべての物とをさして誓うのである。
21 神殿をさして誓う者は、神殿とその中に住んでおられるかたとをさして誓うのである。
22 また、天をさして誓う者は、神の御座とその上にすわっておられるかたとをさして誓うのである。 神聖なる神の家が肉による人の目には小さいから侮るのでしょうか。
愚かです。
どちらが重いかキリストを信じる人には明らかです。
教会で祈り合う姿を見てあざ笑うキリスト者はいません。
キリストは大通りで世の権威者が不正をしているのを見て暴動を起こしたりしませんでした。彼が怒りを露わにしたのは、ご自分の家すなわち祈りの家である父の家に対してでした。
(宮清め) 十字架は
私たちが滅びるためではなく信じて救われるためなのです。 【(福音と香油)イメージ図】
裸で重なるように一心同体の構図
・イエズスの腹の傷が治っている
・キスと涙と香油でイエズスを慰めるマグダラのマリア
女の右手に二つの杯(涙と香油)
左手を男の肩にかける
男の右手は星の冠に左手はマグダラの腰に添える
二人を囲む洞窟と墓場
契約の箱(洞窟)と贖いのふた(ケルビムと神)
控えの構図。
聖母が冠を取り、ご自分のために集めた花環をマグダラのマリアに与えて飾る
胸から抜いた剣を炎の剣(聖霊)のようにして持ち、マグダラを崇拝する男たちに向ける 【マグダラのマリアへの賛歌】
しあわせな人、マグダラのマリア。
あなたはイエズスキリストに望まれ妻となりしあわせな結婚の象徴となります。
命じられるまま洞窟に一人こもり、一日の殆どを天国で暮らしました。
天使があなたの体を支え、主の部屋まで連れて行き、帰りもあなたの体を支えながら洞窟へと運ぶのです。
悪魔はあなたを害さず、主の部屋に着くまで誰もあなたを襲いません。
あなたはまるで聖櫃のよう。あなたに与えられた洞窟のように守られて、ただイエズスキリストだけがあなたを自由にできるのです。
秘密の婚姻は幕を開けられ、あなたの性の中に隠れておられたイエズスキリストとともにまもなくおいでください。 【マグダラのマリア永遠の記録】
マグダラが来れば王妃としてふさわしい姿を見せるはず。
多く愛した者は多く赦されている。多く赦された者は多く愛する。
彼を愛したから彼も愛する。彼が愛したので彼を愛する。愛されたから愛する。
その姿を現すはずだ。
マグダラほど神に愛された女はいない。キリストが彼女を愛していた記録は永遠に残る 【聖母の立場・私の立場】
天使が神に仕えているように、聖母はキリストとマグダラに仕えるだろうと思う。
夫のヨゼフと立場を同じくすると思う。庇護者であり保証人でありはしためであり証人である。
私は聖母とともに支える者となる。敗北者として証しする。
私には助けは来なかったと。恵みも助けも勝利もなかった。あるのは放置と誘惑と敗北だけである。
清らかさがあれば聖人のようになれたかもしれないが。ねたみ高じて反逆しなかったことだけを喜ぶ。 【聖母の受けた剣の苦しみ】
私の解釈はこれです。
悪魔はイエズスからマグダラのマリアを引き離すために民衆をそそのかした。
死んだら二人の幸せは永遠に奪われる。子孫も残せない。
ざまあみろと民衆は思う。
しかし悪魔が放つ矢=マグダラのマリアとの別離は、イエズスキリストの体の復活によって無とされた。
聖母はこの痛みをすでに死んだイエズスの代わりに受け止めた。
コリント一 15章
55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
マタイ19章
4 イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、
5 そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。
6 彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。 復活の朝、イエズスはマグダラのマリアに現れました。
使徒ヨハネはなぜマグダラのマリア一人に現れたかのようなやりとりを詳細に記して私たちに伝えるのでしょうか。
黙示録を書いた後、この福音書が記されました。
ヨハネはマグダラのマリアの死後何十年も経過してこれらを書いています。
そこにはやはりマグダラのマリアと主イエズスとの特別な関係をさらにアピールする必要を感じたヨハネがあると思います。
雅歌との類似も頭にあったと私は思います。 ロザリオの祈りは聖母に花環を捧げる行為です。どうして謙遜な聖母がこうした贈り物を要求するのでしょう?
とても不思議なのです。
聖母には悪魔の力を抑える権威があります。
聖母は主からあらゆる称号と権威を授かりました。
花嫁が花婿とともに安全に祝福の宴に到着するまで、花婿の母である聖母が矢面に立ちやっかみ屋を追い払うのでしょう。
ロザリオの花環は息子の花嫁への贈り物に変身するのです。
悪魔はマグダラのマリアを追いかけて悩みを送り滅ぼそうとしましたが、彼女は神の用意した場所である洞窟へ逃げ、三年半どころか三十年も主に養われました。
それだけ花嫁として整えられる手間がかかったともいえるでしょう。
悪魔はマグダラのマリアへの怒りをまだ忘れてないと思います。
聖母と違い、マグダラのマリアは罪の人生が多かったからです。
ねたみが悪魔を支配しています。 私じゃないのだ、花嫁は。
傷ついたのは私が勘違いしていたからです。
イエズスは最初からマグダラのマリアを花嫁として見ていました。
いったい暴行を受けているのに知らんふりしている夫、花婿なんているわけないです。
花嫁ならばマグダラのマリアのように安全な場所から体ごと守られて、命が終わるまで責任を持たれます。地上の男からも中空の悪魔からも。
私は、私への想いが博愛の一つでしかなく、真実ではない矛盾の中にあるので傷ついたのです。
彼の真実がマグダラのマリアへの愛にあると考えることで、その愚かな矛盾を解くことができました。 私の苦しみは愛の試みでした。
無私で愛することを選びましょう。
以上、小さなピッピの証しでした。 四日め。
http://www.pauline.or.jp/prayingtime/michiyuki05.php
十字架の道行(4) 『やすらぎへの旅 ─ 十字架の道行の黙想』
主よどうぞ、出会うすべての人はわたしの神の家族の兄弟姉妹であることを悟り、それに従って行動することができるように助けてください。
キリストにおいて自分に死に、新しい命へとよみがえることは、イエスの教えの中心テーマです。イエスはわたしたちにその道を示し、神は十字架と埋葬の後、イエスをよみがえらせたのでした。 異なる肉=天使との性交という説が有力とのことですが、天使(堕天使)には肉ないですよ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ユダの手紙
7 ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。
口語訳で「不自然な肉欲」と訳されている箇所は(略)その直訳は「他の肉」あるいは「異なる肉」であって、これが意味するところはいくつかの説がある。
・ドイツ語圏の研究者は人間と異質な肉、すなわち天使との性交と解しがちであると概観している。
・英語圏でも天使との性交と解するスタディ・バイブルは複数ある。
・フランス語圏で評価の高いLa TOBも天使との性交の意味に捉えている。 堕天使たちが人間の女を妻にしてネフィリムを産んだ話が不思議なんですよね。
肉もないのにどうやって受精したのか、しかし子を生ませることができるのだね。
そういう能力自体は天使にもあるんですね。 外典ヨハネ黙示録(3)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/ioannes3.html
わたしイオーアンネースもこう言う、主イエースウス・クリストスはその第2の臨在のおりに気の毒がってくださるであろう、気の毒がってその魂を救ってくださる。
あなたに例を示そう、だから、神の人間愛に絶望してはならぬ。
〔???な〕事例を持たなくても、ペトロスを(見よ)、
わたしたちの主イエースウス・クリストスを3度否みながら〔マタイ26_69-74参照〕、再び熱き涙によってすぐに許され、[321]熱き悔い改めによって天の鍵を持つ者となったということを。
姦淫ならば、淫婦マリアを見よ、
1703人の男たちにを相手に罪を犯したが、外国人はもとより同市民をさえ知ることをせず、心弱いこの女は熱き涙によって、自分のすべての罪をぬぐい去ったということを。
人殺しにして熱く悔い改めた者ならば、マナッセースを見よ、
自分の息子を偶像にして、供犠をなし、長老たち40人を殺し、ヘーサイアス〔イザヤ〕を鋸でひき殺した、
しかるに、40日にいたるまで、呻吟と涙の熱き回心によって、深淵は充たされ、数多の罪から許されたということを。
盗賊をも見よ、
盗みや人殺し、みずからも99人の人殺しをなし、しかるに熱き信仰と大いなる助命の叫びによって、十字架のうえで、
『わたしを思い出してください、主よ、あなたの王国で』〔ルカ23_40-43〕と云って、楽園を受けたということを。
姦夫ならば、預言者ダウイデを見よ、
ウウリアの妻ベールサベエを取り、他にも99人の女を手に入れたところの。
しかし全霊をあげて預言者ナタンに告白し、火の両刃剣から身をかわして、神の父(theopator)として座についている。 さらにまたクレーテー人アンドレアスをあなたに指摘しよう、
彼もまた自分の母親と姦通したが、清浄な悔い改めによって、讃美歌の歌い手かつ神的な書物の雄弁家となり、監督の座を受けた。
マゴス僧にして人殺しなら、キュプリアノスを見よ、
みずからも悪霊たちの種族の生まれで、1030人の幼児を殺戮し、他にもみずからを目立った者となし、八つ裂きにして〔???〕、多くの人たちを神の道から外れさせた。
しかるに、正しい回心(と)熱き告白とによって、精霊たちの軍勢に勝利し、監督者たちと同じ座につき、神への奉仕者(leitourgos)となったということを。 いまだに人間の愛、偽りの愛を「愛」だと思ってドヤる人がいますね。
真の愛であられる私たちの神以外に愛はありません。
キリスト者は皆知っています。
知らないのは反キリストばかりなりけりです。
基本の基本です。 リアル教会で二人をマッチングする時、周りの人が釣り合いを考えていることを感じました。
先生には先生、経験者には経験者をとか。
罪をゆるしていただいて平等にされたはずなのに、まだ釣り合いとか不釣り合いとかを考えてしまうのですね。
男と女は一体になり二人はもう一人と数えられるのだから、互いの罪や経験のあるなしを共有していくものではないでしょうか。
遊び人が処女を娶り、苦労女が玉の輿にのり一体となることで背負い合い、報われるのですよ。
主イエズスがまさしく罪人の贖い主なのですから。 「食事に行こう」とか「旅行に行こう」とか「キスさせて」とか
まともな人には言われたことないわ。
残り少ない将来の希望は、私の肉のパートナーとの恋愛と結婚の記録を残すこと。
甘い胸と唇を経験すること。
せめてこれくらいはゆるしてほしいです。
だってマグダラのマリアは永遠の記録なのですから。
私のしがない生きた証しの中にこのくらいの慰めがあってもいいと思います! 五日め。
http://www.pauline.or.jp/prayingtime/michiyuki06.php
十字架の道行(5) 『ベネディクト16世 黙想と祈りによる十字架の道行』より抜粋
幾たび罪のない人々があしざまに扱われ、死の宣告をうけて殺されたことでしょう。
わたしたちも何度、真理よりも人気を、正義よりも自己の名声を選び取ったことでしょう。
主イエス・キリスト、あなたは墓の中に留まることができませんでした。
そうです、神のみ心のうちに、あなたは復活しました。
主イエス・キリストわたしたちは自分のいのちに執着しています。しかしあなたはわたしたちに先立っていき、それをだれかのために捨てることによってだけ、いのちを救うのだということを示してくださいました。
わたしたちを助けてください。一粒の麦の道をともにあゆみ「いのちを失う」ことのうちに愛を見いだすことができますように。アーメン コリント一 の愛とは「アガペー」です。
主イエズスキリストの愛のこと。 基本中の基本。
http://www.bible-word.org/content/愛/
このうち、キリスト教の愛は4番目のアガペー、神様の愛をさします。
聖書では、神様ご自身が愛であると書かれています。 社会に恨みを持つ低所得清掃員雹。
尋問受けると「むしゃくしゃしてやった」と白状しそう コリント一 13章
13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 過越の出来事
出エジプト12章
過越の祭りについて
レビ23章、民数9章、申命16章 http://www.zion-jpn.or.jp/israel_culture02.html
ハヌカ
彼らが神殿を清めたとき、神殿内に聖油が1日分しか残っていなかったのに、燭台はこの1日分の聖油で8日間燃え続けたと言われます。この奇跡を記念して8日間の祭を祝うようになりました。
ちなみに、この祭は、新約聖書にも「宮きよめの祭」(ヨハネ10:22)として登場します。
22 そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。
23 イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。
24 するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」。 繁栄の福音が批判されています。
http://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/05/22/035954
御利益宗教というのはいつの時代も存在した。しかしアメリカで生まれたプラグマティズムから派生した「繁栄の福音」は、多くの「福音の商売人」を生み出した。
「証人」ではなく「商人」である。
宗教心という衣を被った人間の貪欲を巧みに利用し、この「商売人たち」は福音の土台を持たない安易な約束を売り物に、自分たちの「ビジョン」の達成のためだけに邁進した。
「もっと大きく、もっと強く、もっと富を得、もっと有名になろう!神は今の千倍の祝福を与えようとしておられるのだ!」 敵の民衆の間にマルタとラザロの姉妹であるマリヤとの愛情の噂があったのではないかと私は考えています。
この前提から読むとすんなり理解できます。
「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」
愛しておられる者が病人であるが、その病人はマリヤではないと、わざわざ最初に説明しているのです。
「病気であったのは、彼女の兄弟ラザロであった」
また「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」
ここではマリヤの名前を書いてないません。「その姉妹」とだけ書いています。名前を出してマリヤを愛しておられたと書いてもよかったでしょうに。配慮を感じます。
ラザロが死んだのでマリヤが泣き、マリヤと一緒にきたユダヤ人たちが泣いているのを見て、イエズスは激しく感動されました。そして「イエスは涙を流された」のですが
「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」彼とはラザロのことですが、ラザロを愛していたので泣いているのだとわざわざその声を書き記しています。
ヨハネ11章
1 さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤの人であった。
2 このマリヤは主に香油をぬり、自分の髪の毛で、主の足をふいた女であって、病気であったのは、彼女の兄弟ラザロであった。
3 姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。
5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
33 イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、
34 「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。
35 イエスは涙を流された。
36 するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。
45 マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。
46 しかし、そのうちの数人がパリサイ人たちのところに行って、イエスのされたことを告げた。 通名を使わず堂々としていたら、見ず知らずの人から悪意を向けられるのですよ。
民度が低いためにこうしてこわい思いをして生きている人もいます。
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL38753KL38UTIL04Z.html
「ニュース女子放送後、独に移住」人権侵害認定の辛さん
辛さんは「ニュース女子」の放送後、もともとあった嫌がらせが悪化したとも語り、「日常生活がなくなった」と表現した。
脅迫の手紙やメール、仕事のクライアントに対しての抗議などが増え、道で知らない人から罵倒されるなど「顔を合わせた人から公然と悪意を向けられる、今までにない嫌がらせ」が出てきたという。 間違いではないけれど行いが伴わないだけです。
マタイ23章
1 そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、
2 「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。
3 だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。 盲人が盲人を案内するべきではないこと。
私の私的解釈も、間違いならば滅ぶのです。
ペテロ 二 1章
20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。
21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。 サドカイ派の人たちは現実的で、天使や復活を信じてなかったといわれています。
それでイエズスは、人が復活する時は天使のようになるのだと説明しました。
もう何も言えませんよ。天使も復活も信じてないのだから。どうして信じてもいない復活について質問するのですかね。
頭ポカーンでしょ。 また甘い霊に覆われました。熱い霊も然り。
去年からの発覚により、それがLAストーカーと悪魔からのものであると認識しており、彼らの破滅の知らせなくして用心が解けません。
呑み込まれず勝利しました。 http://www.shinshiro-church.or.jp/content/backnum/030302.html
第二歴代誌十八章十八節から二十二節
『だれか、イスラエルの王アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』
すると、ある者は一つの案を述べ、他の者は別の案を述べました。それから、ひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、
『この私が彼を惑わします。』と言いますと、
主が彼に『どういうふうにやるのか。』と尋ねられました。
彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』
すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ。』と仰せられました。 経済、商売、利益関係は、私のもっとも不得意分野です。
だから大バビロンの罪にはまったく関与しない者と安心していました。
計算ずくの天での報いさえニガテ。 しかし、こんな日が来ることを想定して、イケてないババシャツ上・下を身に付けていたのですよ。
脱がされても気が萎えるように。 我らの主は女の試練にもあわれたのだろうか。伝えられるものは何もないけど。
結婚していても独身でいても、性的な憧れは私たちの中で大きな試練の一つです。
このことについて何も書いてないのはどういうことかと思うのです。
肉によらず生まれて来られたので性欲はなかったとか、そんな特別な守りがあるなかであらゆる試練をお受けになられたなどといってほしくないのであります。 しかし女の性的誘惑に応じた主がどこにも伝えられていないことは希望です。
ただ復活の朝、マグダラのマリアに現れた際のやりとりが雅歌を彷彿させるくらいです。
主は裸で生贄となられ神に受け入れられました。罪がなかった日のアダムと同じです。罪があるなら衣を必要としたでしょう。
参考http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?イエスは大祭司です
花嫁は婚姻の時、光輝く麻の衣を着せられます。これは義なるキリストの衣のことです。(黙示録)
マグダラのマリアは洞窟にいる時は裸でしたが人前に出てくる時は衣を与えられました。
つまりそれまでは裸で主と会い、裸で天地を上り下りさせていただいていたのです。裸をゆるされた女なのです。
彼女の顔は神々しく輝いていたといいます。推定70代。 東日本大震災当日、私は普段通りの生活を送っていました。
後から聞いたところによると、東京も大変だったらしいですね。
私はまったく実感なく他人事でしかなく、まるで外国における戦争を見るような感じです。
想像を絶します。 どちらかというと阪神淡路大震災の方が私には衝撃でした。
地域的な親和性があるのでしょうか。 ユダ
13 自分の恥をあわにして出す海の荒波、さまよう星である。彼らには、まっくらなやみが永久に用意されている。
恥を捨てる
http://www.wind-design.com/2013/01/post-137.html 箴言3章
3 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
4 そうすれば、あなたは神と人との前に/恵みと、誉とを得る。
11 わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない、その戒めをきらってはならない。
12 主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように。 箴言6章
23 戒めはともしびである、教は光である、教訓の懲らしめは命の道である。
箴言13章
13 み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。
18 貧乏と、はずかしめとは教訓を捨てる者に来る、しかし戒めを守る者は尊ばれる。 イエズスの宮きよめは二回あったとする説があります。
マタイ、マルコ、ルカが十字架にかかる直前に宮きよめを記しているのに対し、ヨハネだけは公生涯の始まりの直後に宮きよめを書いているからです。
カナの婚礼で母の願いを叶えた最初のしるしの後です。
しかし、ヨハネは神学上、宮きよめをこの位置に持ってきたとする説があります。
すると宮きよめはやはり一度なのです。
婚礼、母の清い願い、宮きよめ。
私はマグダラ(ベタニヤ)のマリアが主の花嫁だと信じますので、次の箇所を思い起こします。
雅歌8章
7 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。
花婿イエズスと花婿マグダラのマリアとの婚姻は、母の祈りと花嫁の愛による婚姻なのであり、高価なナルドを高価だからという理由で受け入れたのではないと、イエズスがヨハネを通して語りかけているような気がしてなりません。 雅歌と四福音書とヨハネ黙示録と聖伝(マグダラのマリア編)
この七つの巻を「神の北斗七星」と私は呼んでいます。 ストーカーってさ、嫌われてるのになんで自信満々で近づいて来るんだろ? 思い出さないってどういうことか分かりづらいです。私はしょっちゅう悩み苦しみの日を思い出してますから。
神の記憶コントローラーが鍵をして「先のいやな記憶」を閉じ込めるかするのでしょうか。
でも聖書が遺されていたらイヤでも思い起こしてしまいます。
イザヤ65章
16 それゆえ、地にあって/おのれのために祝福を求める者は、真実の神によっておのれの祝福を求め、地にあって誓う者は、真実の神をさして誓う。さきの悩みは忘れられて、わが目から隠れうせるからである。
17 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。 どうして苦しみが来たのかいつも考えてしまいます。
そして昨夜わかりました。
私はマグダラのマリアを侮辱していたのです。彼女が性的な関わりに対して寛容であると心で思いました。
イエズスと性関係を結ぶことにも何ら躊躇することなく、また二番目でも三番目でも平気だろうと思いました。
私は彼女を侮辱したのです。肉的性体験をしたことがあるという理由だけで、彼女の内的苦しみを見てませんでした。
私の悔い改めは神のゆるしを得られるまでには至らず、盗人のように突然の裁きを招いたのだと思います。
神様は厳しいお方です。鉄の杖で私を打ちました。
でもいつくしみ深いお方でもあります。私の罪が何であったかお示しになられました。
主の花嫁を侮辱する罪を神様は軽く見られません。 「神」を無視した人間的な理解は
意味がありません。 本屋で立ち読みしました。
描写の上品でエロティックなこと。
ジャン=リュック・ナンシー(フランスの哲学者) 著
Noli me tangere (2003)
荻野厚志訳『私に触れるな――ノリ・メ・タンゲレ』(未來社, 2006年) 『マグダラのマリアによる福音書』を検索してみると、中身が仏教的であるという指摘があるようです。
ペテロがマグダラのマリアに、まだ聴いたことのない主のお話をするよう頼んだところ、天に上られた主との啓示の会話を聞かせています。
その内容が馴染みのないものであることから、ペテロたちが疑いを起こします。
そもそもペテロたちが依頼したのは、十字架にかかられる前、マグダラのマリアに何かまだ弟子たちにも知られていないことを話さなかったかというものでしょ。
なぜ唐突に啓示を話すのか。 読もうとは思わなかったけれども、グノーシス集団が大切に保管していた巻物を読んで、私も何事か感じたいと思うのです。
私は釈迦が大嫌いです。
もう一片の尊敬すらないです。
私たちの主イエズスは贖い主ですから、因果応報の原理にとどまる仏教は自然法の域を出ません。
私たちの主はそれ以上のお方です。
それなのに、なぜまた福音を否定するような矮小と化してしまうのでしょうか。
そりゃ異端論駁されますよ。 名前が利用されてしまっただけかもしれませんね。
ほかに検索してみると便乗宇宙人メッセージとかもう無茶苦茶な思想サイトが多いです。
主の来臨によって滅ぼされ尽くしますように。 ぷ。
宇宙人様に決まってるじゃないですか、普通に考えて。 この牧師何なのでしょうね。
無茶苦茶過ぎませんか?
http://ichurch.me/sermon2017/20171001magdala.html
日本キリスト教団 徳島北教会
こちらの教会では笠置牧師の影響で、マグダラのマリアはイエスの妻であったと信じておられる方が多いようですが、
私自身はまだそこまでは確信が持てないでいます。
ただ、イエスの妻であったとしても、妻でなかったとしても、どちらでもいいかなと思っています。
ヨハネによる福音書における最後の晩餐の場面で、「イエスの愛した弟子」という男性がイエスの胸に体を預けて寝ていたりする様子も描かれていますので、
彼がバイセクシュアルであったのではないかという説もあるくらいですし、
妻以外に愛する男性がいるということは一夫一婦制にこだわっていなかった人であった可能性もあります。 七つの「権威」とは七つの悪霊ではないのか?
http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth017.html
第一の権威 闇
第二の権威 欲望
第三の権威 無知
第四の権威 死ぬほどの妬み
第五の権威 肉の王国
第六の権威 肉の愚かな知恵
第七の権威 怒っている人の知恵 洞窟でマグダラが嘆く絵画モチーフがありますが、あれ福音を知らない人が描いたのでしょうね。
罪はもうゆるされたのだから過去の罪を思い出して嘆く意味がわかりません。
ゆるしについては、キリストと旅を共にしているのだから、罪のゆるしを直截はっきり聞いてるはずです。
私みたいにゆるされたかゆるされてないかわからないような曖昧さはないのですもの。 神の霊感により書かれた啓示の書は人間の思惑を超えます。
それが聖霊の不思議な働きなのです。 猫につけた名前。
呼ぶと外国語になりました。
私は全然知らないで、また別の意味でつけましたが。
これも聖霊の不思議な働きなのです。 しのごの理屈つけてないで信じましょう。
マグダラのマリアは主の花嫁です。使徒たちが意識したかしてないかは問題ではありません。
神のみこころが聖霊のお働きによって一致しているのです。
罪をゆるされたのにまだこの罪を脅迫の材料にする者は、悪魔と同じ訴えをしているのです。
因果応報の原理を捨て、贖いの真理を信じましょう。 私を応援してくださる皆さんにもお願いします。
マグダラのマリアは長い間、罪の女として不品行な性的罪の代名詞として、煉獄にも等しい汚名を世界中で冠してきました。
贖いの外でも、彼女の科は十分な代償を支払って余りあります。
しかしこの裕福な時代のラグジュアリーに興ずるあなたがたの罪がそうそうゆるされるとは思えません。
罪のあるマグダラのマリアを花嫁として問題なく認められる人が、主の贖いを受けるのにふさわしい者たちです。 グノーシス派の文書は幸福の科学の提供する霊的知識と大差ありませんから、無視しても差し支えはありません。
読むとその奥に座したる神理解と霊的知識を受け入れるしかなくなります。
つまり聖書の理解から外れた無秩序かつ混乱した世界に連れていかれるでしょう。 グノーシス派の理解の間違いについて。
1. 女の証言は信じないが男の証言はすぐに信じるという説
(ルカ24・34)
↓信じてませんよ
マタイ
16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
17 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
マルコ
12 この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。
13 このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。
ルカ
40 〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕
41 彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。
ヨハネ
25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 映画『最後の誘惑』におけるキリストの夢想はマグダラのマリアと結婚し普通の家庭を育みながら生きるというものでした。
書籍にはイエズスがマグダラのマリアとセックスしながらこんな話をしています。
「私は今まで肉体の歓びは罪悪でないという事を知らなかった」
「女こそ不死の泉だ。今はじめてそれが分かった」
無知ですね。
結婚も官能も神がお造りになったのですから知らないはずはありません。
箴言5章
15 あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。
16 あなたの泉を、外にまきちらし、水の流れを、ちまたに流してよかろうか。
17 それを自分だけのものとし、他人を共にあずからせてはならない。
18 あなたの泉に祝福を受けさせ、あなたの若い時の妻を楽しめ。
19 彼女は愛らしい雌じか、美しいしかのようだ。いつも、その乳ぶさをもって満足し、その愛をもって常に喜べ。
20 わが子よ、どうして遊女に迷い、みだらな女の胸をいだくのか。 虐殺した日本人が、虐殺してきたクリスチャンを批判とかあり得ない矛盾なんだけどね。 これも矛盾。
女は自分だけのものだから他の男のところへは行かせない。
だが俺は何百人もの女とえっちできるんだぜ。 至れり尽くせりが必ずしも良いとは限らないことを、介護の仕事で学びました。
しかし私は自立を促す技術面より、肩揉みしてあげるーのような態度で接することを喜びとしてましたので、すっかり悩んでしまいました。 危機的状況のほうが必要なことを敏感に感じ取れるってさ。
先鋭化するのは、神の御国を慕い求める時といえるかもしれませんね。 やり過ぎについては、肩揉みしてあげるー全部やったげますーのような過剰サービスが、自己チューだとはまったく思いもしなかった自分にとって悩みとなってしまったのですよね。
私のイメージとしては、
ルカ6章
38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
こんな感じです。
人は愛したら愛し返そうとする気持ちが本能みたいにあるのではないだろうか、と考えてました。
安楽は安楽に浸りきるだけにとどまらないで、溢れるお湯のように与え返そうとするに決まってると。 まあ、アレですよ。
みことばに触れていることと、みことばを慕い求めていることとが、決定的な差を生み出すのです。 教皇ツイッター
イエスとの出会いに身をゆだねることが、霊的生活の炎を燃やし続けるための秘けつです お前のイエスは空虚 渡辺明日香のダディと同じですね、つまり神に成りすました悪霊ですよ!
悪霊に憑依されたピッピ 本当に可哀想 手と足を釘で打たれ十字架にかかられ身動きされない主を思います。
ヨハネ5章
30 わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。 ルルドの聖母ご出現において、幻視者ベルナデッタを見ようとして群衆が集まりました。
ベルナデッタは聖母の指示に従い泉をさがします。その様子を見て獣のようだとある人は嘲笑し、美しさなどどこにもないことを残念がりました。
医師はベルナデッタを病名をもつ患者にしましたが、その後もルルドは人が増え巡礼者は数を増していきます。
使徒4章
1 彼らが人々にこのように語っているあいだに、祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちが近寄ってきて、
2 彼らが人々に教を説き、イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、
3 彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。
4 しかし、彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数が五千人ほどになった。 人は心で信じたことを口に出してあらわす。
心に信じていることを口で言い表さないならば信仰を持っているとはみなされない。
という文章を昨日あたり読んだ気がします。
ちょっと所在不明ですが。 『聖女の条件』竹下節子 著
p55
聖人の第三カテゴリー
彼らは心と口と行動とによって信仰告白をしたことによって尊い。
心での信仰は口に出さなければ十分ではない。 >>657
しかも偽善者扱いしてますね。
厳しい。 15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、
「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。
ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。
イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。
彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。
イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。
ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。
イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。 やはりピッピの頭おかしい まともじゃない、傍目から見ても悪霊に憑依されているとしか思えない。 グノーシス文書を信じないようご注意ください。
あれは悪魔の罠であり、悪魔の偽りであり、悪魔が背後にいる欲望の書です。 主イエズスキリストの受難における苦しみを舐めないでください。
37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。
44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。 グノーシスというのは知識または認識(現代的な言葉を使うと「気づき」)なんですが、これを通してしか救いはないと言っています。
愚かです。
似たこと主張してる集団を見なさい。見たらだいたいわかるでしょう?
ユダの手紙wikiの解釈にあるような「異なる肉」と天使(堕天使)を結びつけることはできません。
なぜなら天使(堕天使)は霊であり、肉を持っていないからです。
グノーシス思想が徹底して霊礼賛しているのは、その思想の発信者である堕天使すなわち悪魔が、自分たちを讃えるためなのです。 主イエスを「性的対象」として見ているピッピこそ、破廉恥な倒錯した信仰者ではないのか? グノーシス文書がいう事は悪魔が授けたのだと認めなさい。
彼らは自分たちには肉がないことで人間を妬み、霊をことさら尊ぶのです。
アブラハムが神に命じられてイサクを捧げようとしたのは、神は生き返らせることもおできになると信じたからです。
このイサクから子孫が増えると神は約束されたからです。
イエズスもご自身が復活することを知っていました。イエズスは霊のままではなく肉身にお戻りになって天へ上がったのです。 教皇ツイッター
日々イエスと、そして兄弟姉妹たちと出会っていけば、心は過去や未来に逃げ込むことなく、神の「いま」を、すべての人と平和のうちに生きるのです 2018.2.11
https://www.cbcj.catholic.jp/2018/03/13/16431/
・わたしたちキリスト者にとって、恐れは最終的なものではなく、神を信じ、いのちを信じるための機会にほかなりません。
それは、神が与えてくださったものは根本的に善であると信じ、たとえ不可解に思える状況や逆境を幾度となく通っても、神はわたしたちをよい結末に導いてくださると信じることを意味します。
・しかし、もし恐れを増大させるなら、わたしたちは自分の中に閉じこもり、すべての物事や人から自分自身を守るために防壁を築き、身動きが取れなくなるでしょう。
・立ち向かってください。決して閉じこもらないでください。聖書では「恐れるな」という表現が、あらゆるかたちで365回繰り返されます。
まるで主は一年中毎日、恐れからわたしたちを解放したいと思っておられるかのようです。
・人生の扉を開け放ってください。皆さんの空間と時間には、直に接する人々がいて、彼らとの深い結びつきがあります。
皆さんは日常生活における真の実体験を、それらの人々とともに分かち合うことができるのです。 http://www.bfpj.org/know/bible/?id=30
ヘブライ語で学ぶ詩篇130篇【後半】
130:5 私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。
130:6 私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。
二つ目の段落をまとめる動詞は「待つ」という言葉です。
神を「待つ」ことは簡単ではありません。特に自分が溺れそうである、また窒息しそうな精神状態に陥っている場合は特にそうです。
しかし、そこを通ることが希望につながる唯一の道であり、あわれみ深い主の働きを体験できる手段なのです。
著者は、「私のたましい」は待つと言います。
ここで「たましい」と訳される「ネフェシュ」という言葉は、人間の「喉」、「首」、「息」などを指すことに使われますが、
文脈によっては人間の目に見えない本質、つまり人間の「意識」や「理性」や「感情」などをすべてひっくるめたものを指す時に使われます。
つまり、著者の内側のすべてが主に期待をし、いつでも行動を起こしてくれることを待ち望んでいるさまが書かれています。
しかし、主を待つとは、何もせず、ただ運命に身を任せることと異なります。
著者は、主を待つのと同時に積極的に「主のみことばを待ちます」と言います。
ここで使われる「待つ」と訳されている言葉は、同じ節で「待ち望みます」と訳されている言葉とは異なります。
ここで使われる言葉は、「信頼する」、または「期待する」というニュアンスがあります。
ですから、神の救いを待つ人の姿は、神の約束を心に豊かに蓄え、しっかりとそれに希望をおいて、不信な心が生まれないようにしている姿です。 ふと思いました。
死海は体が浮くのですよね。
イエズスが話したことの中に、山に向かって海へ入れと命じた海はこの死海のことでしょ。
ひき臼に首をかけられて一緒に海に投げ込まれるほうがマシとか。
どうなんですか、浮くと思いますか?
豆腐の角に頭ぶつけて死ね、とかいうあり得ない表現と似てないですかね。
どうでしょう。 信仰のない人には神の真珠の価値がわかりません。
石粒であるかのように怒り、向き直り噛み付いてきます。
私は小学生の低学年の時にみことばと出会い、印象深く心に刻みました。
コヘレト12章
1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、 グノーシス文書による思想の中でマグダラのマリアが傑出しているのは、彼女が「ピスティス・ソフィア」という存在であり、イエズスの魂の伴侶であると見なされているからです。
グノーシスは魂がもともと両性具有だと考えていて、イエズスとマグダラが再び一つの魂になることにより死が滅ぼされ、すべての魂が救われ、救済が完成するのだと教えています。
救い主であるイエズスと彼の魂の伴侶であるマグダラをマリアとの霊的結合(性交)が救いの鍵なんですと。 参考文献
『マグダラのマリアによる福音書』
『イエスが愛した聖女 マグダラのマリア』 『マグダラのマリアによる福音書』著書によると
イエズスがマグダラのマリアを「私の妻」と呼んでいる古代パピルス紙の切れ端が発見されているそうです。
聖母マリアの被昇天の様子でもイエズスが「私の妻」といって呼びかけてる場面があります。
「来なさい、私の妻よ、冠を授けましょう」
『聖女の条件』p46
あるサイトでは「わたしのお母さん」と訳してありましたが。 恐れについてはヘブライ12章が参考になります。
罰を与える厳しい父のイメージが強いと私たちはもう震えるしかないですが、いつくしみあふれる恵みの神をも知っています。こちらのほうが神のご性質をはるかに物語りますよね。
https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-fear.html
聖書は恐れについて何と言ってるの? 短くスピという時はニューエイジや輪廻や宇宙人のなんちゃら思想を指すのですが、元々の言語であるスピリチュアルとはまったく違うのですよ。 言語ではなく霊が開かれないので読めなくしているのです。
預言の書は封じられた書物として時が来るまで読めなくされていますし、預言者が話すことも逆らう者には「命令に命令、規則に規則」としか理解できません。
しかし開かれた霊ならば私たちの心は言語を超えて理解し合えます。それは心の奥底を見抜かれる神にあって、私たちも繋がれているからです。
参考
黙示録14章
3 彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。
参考
http://www.yokohamashiloh.or.jp/reihai/message/shiloh_message080127mf.htm ユダヤ人の信仰や慣習を学ぶと飛躍的に理解できるようになります。
贖いについて、大祭司について、婚姻について、動植物の比喩について、もっとよく知ることができます。 第二の死を恐れないでおれましょうか。
私たちの希望は救霊です。救いの完成はやがて来られる主によってもたらされます。 病気の時、食事や熱や排泄などを記録しました。
健康な時にはなかったことです。
善行がその人とって自然な時、誰がことさら考えるでしょう。
それを見た人が驚いて意識するのではありませんか。
健康な人が呼吸を数えるでしょうか。何回まばたきをしたか数える人はいますか。
毎日頭の毛髪を数えるのはわずかしか生えていない波平さんくらいではありませんか。 本人はまったく意識してないで良いことする人がいたのですよ。
その人にとっては日常の一コマ、ふつうのことなのですね。 日差しに背中を任せていると熱いくらいです。寒い昨日とは一転しました。
ツクシも生えてます。
我が家の庭にはわずか数本のおこぼれていどでした。
コンソメスープといただきました。
神に感謝。 キリストにおける信仰からではなく、どこまでも信仰の外から考える思想や生き方はやがて来るべき主の怒りの日に終わるでしょう。
季節が変わるようにです。 スピ、と短くいう時はニューエイジや輪廻や宇宙人のなんちゃら思想を指しているのですが、
もともとの言語であるスピリチュアルとはまったく意味が違います。
キリスト教が、ニューエイジや輪廻や宇宙人のなんちゃら思想を吸収するわけなかろうが。 高校生の時に宗教的思想を突き詰めたら、すべてが神によって造られたのならすべて良きことに違いないという確信に至りました。
この「造られたのなら」という仮定は「神は善そのものである」という信仰から来ています。
【神は善そのものである】
これが私の信仰です。
もつれた紐を解く聖母のような単純さによって救われます。 造られた霊的存在の天使がその務めを放棄し、彼に賛同する1/3の天使を引き連れて神を離れ、私たちにも悪いことするように仕向けているのが、堕天使である悪魔たちです。
彼らはかつては美しく知恵に満ちていました。
神のお造りになられたものには自由意志がありました。神は愛だからです。
これが神を裏切ったのです。
堕天使への罰は神の忍耐と愛のゆえに先送りされています。
その日が来るまで私たちを試し、私たちの自由な意志によりどちらにつくかを見られます。 神は私たちを愛してくださって、キリストの私たちへの愛を通してこのことをお示しになられました。
ナザレの少女だった聖母は、イエズスと生活を共にしながらヒシヒシと神の深いいつくしみを感じていられたに違いないと思います。
この確信が二心であろうはずはありません。
伝承によると、イエズスキリストは天において王となられた後も、母マリアと離れることを望まず、マリア(母)に女王の冠を与えられました。
このことは離れることもできたという事実を示しています。しかし王であるイエズスは自由意志により母マリアと離れることを望まなかったのです。 私の体にしるしが遺されました。
もうまる五ヶ月止むことなし。
例外として教会にいる時だけ消えます。
炭酸の泡のように私の体に巣食うそのしるしを激しく憎み、追い出そうとして自傷しました。青タンできましたがもう消えてます。
肩が布団から出ていると、泡は肩に集まります。
外から異なる世界が近づくと、たちまちギュロギュロと泡が沸き立ち同地点まで走ってくるのです。
神からのものだといいですが、レギオンか、罪か、恥の泡か私にはわかりません。用心してこれは悪いものだと認識しながら過ごしています。
このような酷い悩みにさらされながらもこの五ヶ月堪えてきました。
このしるしは若い日に経験済みなんですけど、それは一時的なものでした。今回のような絶えず長期化することは初めてです。
異常事態です。 ヨハネ黙示録とヨハネ福音書は
マグダラのマリア没後十数年経ってから書かれました。
ヨハネはマグダラ本人であるとかめちゃくちゃ理解をしている人がいます。
あの世からマグダラのマリアが啓示でも送らないかぎりあり得ません。 偽物が現れて選ばれた者さえ騙そうとするでしょう。
イエズスのいわれた警戒をよく思い出しましょう。 え?あんたベタニアのマリアとマグダラのマリアと混同してません?二人は別人ですよ マルタ、ラザロ、マグダラのマリア。
伝承ではいつも行動をともにする兄弟姉妹なんですよ。
ベタニヤのマリアさんどこへ行かれたのですか。
カトリックではついこの間まで同一人でした。 すべての偽りの思想や文書をくまなく調べて集大成しても、偽りしか生まれません。
いや、少しの真実が含まれているにちがいないと思いたいなら、粉のような振るい分けが必要になります。
そんな力があなたにあるわけないでしょ。
偽りには近づかないで、本物と接すること。
これが真実への近道です。 イエズスは最後の晩餐の後、弟子たちとゲッセマネの園に向かわれました。
『manna』によると、おそらく詩篇115-118前後の「ハレルヤ詩篇」が歌われたとあります。
それはイスラエルの人々にとって過越の夕食に続く習慣だったそうです。
一部ですが。
詩篇116
1 わたしは主を愛する。主はわが声と、わが願いとを聞かれたからである。
2 主はわたしに耳を傾けられたので、わたしは生きるかぎり主を呼びまつるであろう。
3 死の綱がわたしを取り巻き、陰府の苦しみがわたしを捕えた。わたしは悩みと悲しみにあった。
4 その時わたしは主のみ名を呼んだ。「主よ、どうぞわたしをお救いください」と。
5 主は恵みふかく、正しくいらせられ、われらの神はあわれみに富まれる。
6 主は無学な者を守られる。わたしが低くされたとき、主はわたしを救われた。 詩篇118
18 主はいたくわたしを懲らされたが、死にはわたされなかった。
19 わたしのために義の門を開け、わたしはその内にはいって、主に感謝しよう。
20 これは主の門である。正しい者はその内にはいるであろう。
21 わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしに答えて、わが救となられたことを。
22 家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。
23 これは主のなされた事でわれらの目には驚くべき事である。
24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。 今週の課題。
一日目。
http://www.pauline.or.jp/prayingtime/ps69.php
苦しみ、侮辱、恥、嘲りの中での祈り
恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください
憐れみ深い主よ、御顔(みかお)をわたしに向けてください。
あなたの僕(しもべ)に御顔を隠すことなく
苦しむわたしに急いで答えてください。
わたしの魂に近づき、贖(あがな)い
わたしが受けている嘲(あざけ)りを
恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。
わたしを苦しめる者は、すべて御前にいます。
嘲りに心を打ち砕かれ
わたしは無力になりました。
望んでいた同情は得られず
慰めてくれる人も見いだせません。
人はわたしに苦いものを食べさせようとし
渇くわたしに酢を飲ませようとします。
わたしは卑しめられ、苦痛の中にあります。
神よ、わたしを高く上げ、救ってください。
(17〜22, 30節) スピとは、たとえばこういうの。
キリストはどこにもいません。
https://blog.goo.ne.jp/jclkenta/e/71d6fa1aa7515669162f1a531b03c23f
あなたには、生まれた時から一緒にいたスピリットガイドや天使たちがいます。スピリチュアルな存在として、あなたは、生まれる前の人生計画を立案する時にガイドチームと繋がっていました。
完全にスピリットの状態で、あなた(ハイヤーセルフ)は、人生計画を達成し、人生課題を学び人生の使命を達成する上で一番尽くしてくれるガイドを選びました。
また、あなたを守ってくれるスピリットガイドとも戦略的に繋がりました。
人生に入って、ガイドの中にはずっと一緒にいるガイドもおり、またあなたの選択や関心、望んでいることしようとしていることによって別のガイドになることもあります。
スピリットガイドの波動の幅はとても広く、手助けする内容も様々です。スピリットガイドは友人であり、過去・現在・未来の、今は肉体を持たないけれどもパラレルな人生のファミリーです。
典型的なスピリチュアルな助言者からアニマル・トーテム、先祖、スター・ビーング、また悟りを開いた高度な存在やアデンデッドマスターまで様々です。
殆どのスピリットガイドはある時点で地球か他の惑星で肉体をもって生きていました。 平たくいえばスピは「錬金術」です。
サロメさんがピンときた『エメラルドタブレット』もヘルメス文書の錬金術。
グノーシス文書も錬金術。
霊魂の錬金術です。
根っこは悪魔サタンとつながっています。
枝葉にむらがる虫けら同士はお互いをよく知らなくても、なんとまあよく似ていることか。 歯痛のまま買い物へ行った時のことです。
ガムの試食のデモンストレーションを見て、噛んだら、歯痛が速攻止みました。
ぶり返しなし。 私のかつての代父母は率直な人でとても親切でした。
イエズスがマグダラのマリアと結婚していたのではないかとの情報について訊いたところ、イエズスが結婚していても救い主として何の差し障りもないことをあっさりきっぱりおっしゃいました。
特筆すべきことがあるなら書いたでしょうと。
つまり結婚していたなら書いても問題ないのですが、書いてないのです。
私の読み方によると、マグダラのマリアは主の花嫁です。なぜはっきりと書いてないのに大胆に仄めかしているのかが問題。
誰に対して、何のために。
モーセが山にこもり二枚の板を持って下山した時のことを思い起こします。
わざわざ疑惑を抱かせるに足る期間を与えたのはどうしてなのかです。
「おまえがコツコツ彫ってたんじゃないのか」
疑いをおこすのに十分な時間でしたから。 歯科へ行くと有無をいわさず削られます。
ちょっと着色したくらいならまだ救いありです。歯ブラシで削り込むと消えます。
歯茎の下がりも自然となくなることがありますから、諦めないで。
フッ素、唾液、お湯、液体歯磨き、ビトイーン歯ブラシ(かため)が有効です。
しかし怠惰はやがて歯医者のお世話になることでしょう。 >>677
自己レス
二冊ともグノーシスでした。
きな臭いです。 怪我で動物病院のお世話になると、かさぶたを剥がして消毒してくれます。
それが安心できる治療なのでしょう。
しかしそれ程までして用心しなくても治りはしますよね。
化膿すれば不安だから連れて行きますけど。 生ぬるい人には聖フランチェスコと聖クララのような爆発的聖性が湧きようもありません。
カウチポテト族よ、イベントクラブ族よ、さあ今日も明日も明後日もスクラブ洗顔しお化粧して出かけなさい。
今夜はパーティー、明日はデパート巡り、明後日はあなたの葬式だ。 詩篇を通して読んでいると、ダビデもまたヨブの試みの時みたいな神の沈黙の中で、悪魔からそうとうひどいイジメを受けていたのではないかと思わされます。
これは私の受けた昨年来の苦しみと似て、飢え渇き求め、助けをひたすら望む姿と同化してます。
それまでの親しい交わりからの急転する断絶、この苦しみがどれだけ大きいものかは経験した人にしかわからないだろうと思います。 小さい子どもが泣く時、しゃくりあげるようにして泣くことがあります。あれなんかもう受け止めるのにいっぱいいっぱいなんですよね。
大人しい子がいきなり泣きながら暴力振るったり、突然キレるとか、もう死ぬしかないと思ったりするのも、許容度越えてるんだと思います。
私のイメージでは、いろんな水門のうち、助けの門となりうる門ががっちり閉められてる感じがします。自ら忘れてるか、開けたくても開けられないのです。
そんな苦しみのただ中で、心の痛みとなる原因から襲われ続けると発狂するしかないですよ。
マインドコントロールがそうですが、選択肢がそれしかないように思わせられる、恐怖支配、視野狭窄に入るという具合に、楽になる道が見つからないのです。
地獄はこれが永遠に続くようなものです。 ロシアはなぜか聖母マリアを認めないのですよね。カトリックは迫害されています。
イスラエルにあるロシア正教のマグダラのマリア教会
http://www.cool-world.net/Israel/spot1/220/
金色のドームが美しいロシア正教教会
オリーブ山の麓にある、エルサレムでは珍しいロシア正教会の教会。
明らかに他の旧市街の建物とは様式が異なり、異彩を放っている。
ヨハネによる福音書に出てくるマグダラのマリアと、ロシア皇帝アレクサンドル3世の母后マリアの二人のマリアを記念するために1888年に皇帝によって建てられた。
17世紀のモスクワ様式を模したといわれる。
内部にはマグダラのマリアがローマ皇帝ティベリウスにイエスの裁判が不法ではないかと直訴している絵画もある。
木々の間にそびえる姿は遠くからでも美しい光景。 二日目。
http://www.pauline.or.jp/prayingtime/ps23.php
詩編 23 賛歌。ダビデの詩。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。 うちの教会へきて下さいっていわれるくらいモテモテですよ、という話でしょうに。
真意がわからない人は象徴と実際が違うことすらわからないでしょう。 「あれは私たちの罪である」
「あれは私たちの罪であったのに」
と思うわけですよ。 反対しない者は味方です。
とイエズスはおっしゃいました。 いにしえの蛇は竜であるサタンだと黙示録が明らかにしています。 創世記3章
15 わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
黙示録12章
9 この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。 創世記3章
14 主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。
15 わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
黙示録12章
9 この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。 朝は春雨の跡があり、うぐいすの鳴く声を聞きました。
ここ何日か調子が良くなると祈ることも少なくなり、昨日は寝る前、意識的に何を祈れるか、祈りの内容をどうするか神様にお聴きしました。
私たちの神であるキリストイエズスのもとに一致して、来るべき怒りの日からすべての人が救われて欲しいと祈りました。 「だが私には罪はない」
こういう異端なリベラリズムが殖えることはすでに予測されていました。
彼らは勝手に離れていきますが、偽りの罪で裁かれるでしょう。 ヨハネ1 1章
7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。 人間の罪に対する認識はカトリックのほうが大です。
プロテスタントはむしろ一回かぎりの洗礼においてすべてゆるされると考え、のほほんと生きる傾向にあります。
しかしカトリックは少なくとも(とくに今時分の四旬節に)告解することをすすめています。
また、ミサの始まりにはかならず私の罪を告白する宣言をします。
司祭
皆さん、神聖な祭りを祝う前に、わたしたちの犯した罪を認めましょう。
※ しばらく頭を下げて沈黙します。
司祭
全能の神と、
会衆
兄弟の皆さんに告白します。
わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。
聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。 カトリックもプロテスタントも、イエズスには何の罪もないと認めています。
人間になられてからも罪をおかすことはありませんでした。
しかし私たちには罪があります。
罪のない方はお一人だけ、イエズスキリストその方だけです。 ミサにおいて皆がわたしの罪を告白するのは、ふさわしくないままでパン(御聖体)を食べることのないようになのです。
もしわたしには罪がないと信じながら罪を告白するのであれば、彼は偽りを証言していることになります。 私が察するに、
代父母の怠惰か、本人の偽証ですね。 親切ととるか邪悪ととるかはその人の心がけ次第です。
まず代父母に、それから神父さまに、最後に見ず知らずの私たちへ不満と本音をぶつけるかしなさいね。
実際、あなたが反抗しているのは天にいられる神と地の教会に対してなのですから。 「あの人のヘンテコリンな発想がまったくわからない、二等辺三角形のロザリオとか最たるものだ」
こんなことを考えながら歯磨きしてました。
そして何気なく上の棚に目をやると紛失中の髪留めゴムを発見しました。
なんだか知らないけどこのゴムの類いをよく失くしていたので、下ばかり見ていたのです。
上も見たほうがいいですね。 私だけではありません。
『聖女の条件』p205
19世紀初めのメキシコの壁画に、一人の修道女と共に十字架につけられているキリスト像があるが、手足を重ねられて釘打たれているイエスと修道女は(略)
この聖画は1804年に教会当局の検閲により発禁扱いになっている。
この修道女はカプチン会のマリア・イグナチア(〜1792)
「甘やかな釘よ、私の愛する人を十字架につけている釘よ、私も彼と一緒に死ねるように共に十字架につけたまえ」
という詞書きがついている。
葬儀の時に告解司祭が彼女のことを、イエスが中に入って魂と結びつきキリストが彼女に刻まれたと形容しているので聖痕者であったと思われるが、この葬儀の言葉も発禁処分になった。 イスラエル人は涙を入れるびんを所持していたらしいです。
涙と香油でイエズスの足を濡らしたというのは、このびんから流したものかもしれないとか。
http://eternal.life.coocan.jp/BibleTimes/ch22.html
涙と涙のびん これは私の見たイエズスと違和感ないですが。
http://eternal.life.coocan.jp/BibleTimes/ch25.html
かみそりとひげそり
「祭司は頭をそってはならない。また髪を伸ばしてはならない。頭髪はきちんと刈り込んでおかねばならない。」(エゼキエル 44:20)。
これは第1コリント11:14が言及することに付加的な重要性を与えます。「男は長い髪が恥である」 あちらでもこちらでも真剣に神を知ろうとしてます。
熱心に調べる気持ちが無駄になることなく実りますように。 私は誰からも崇拝されたくないわ。
責任負えないもの。 私が真呼というHNだった頃、我さんに「今夜イエス様が我さんのとこに行くそうです」と伝えたことがあります。
すると浅間山が噴火しました。
確かに私は信じて伝えました。しかし私はイエス様の声を聴いたわけでもないし、心でこう言いなさいと言われたわけでもありませんでした。
何らかのしるしを残してくださると信じただけです。
また年末になって「もうすぐイエス様が来られる。真白き心で受け止めよ」と書いたらスマトラ沖地震が起きました。
確かに私は信じながら伝えました。しかし私はイエス様の声を聴いたわけでもないし、心でこう言いなさいと言われたわけでもありませんでした。
何らかの意味ある言葉となるに違いないと信じただけです。
私自身が不思議に打たれ驚いて、これはいったい何だろうと思ったのです。 神との親しい交わりをしている人ならおわかりになるでしょう。
こうした不思議な出来事があるので、断絶の時の苦しみが酷いのです。
私は何か罰を受けるような大きな罪をおかしたか?
それとも時が満ちただけか、相手が神ではなかったのかと悶えるほどの悩みが襲うのです。 三日目。
http://www.pauline.or.jp/prayingtime/ps51.php
詩編51
指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
ダビデがバト・シェバと通じたので
預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。 http://netradio.febcjp.com/2018/3/19/deep180319/
イエスの生涯を黙想する(再)3/19
英 驤齪N(カトリック・イエズス会司祭、麹町教会助任司祭) 英神父の説教はよく聴いてました。面白いですよね。
今私のiPhoneでは動作不可能で聴けませんが、ここを訪れた人が聴いてくれるかもしれません。 木曜日 逮捕
金曜日 磔刑
土曜日 陰府にくだり義人を開放
日曜日 復活 だいこん一本ほったらかしていたら、黄色い花が咲きました。
昨日は葉っぱだけ。 ペテロ 1
3章
15 ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。
16 しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。 皆、死にます。
罪がないなら死ぬことはありませんが、皆死にます。
「生まれから今に至るまで私には罪がない」と偽証してはなりません。
ローマ6章
22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。 私たちは忘れっぽく、忘恩を犯します。
教皇は毎日私たちが回心することを望まれました。ミサごとに記念することで思い起こしましょう。
そうでなければ
「生まれてから今に至るまで私には罪がない」
と偽りを誇るようになるからです。 私たちは「罪から開放された」のであり「罪がなかった」のではありません。
偽証してはいけません。
ローマ6章
17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
18 罪から解放され、義の僕となった。 >>751
あ、それだ!
ありがとう。うろ覚えすぎて「間違ってたかな?」と思ってた。 反キリストの教えはキリストの贖罪を認めません。もし罪がないというならいったいキリストは何から私たちを救うのでしょう。
キリストは光であり、反キリストは闇です。
ヨハネ 一
1章
7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
中川健一
https://harvesttime.tv/assets/PDF/Camp/1John.pdf
(1) グノーシス主義者たちは、「自分たちには罪はない」と主張していた。 1彼らは、キリストが罪を取り除いてくださった、自分たちは「より高い知識」によ
って罪の領域から上げられたと考えていた。 2また、肉体を悪用しても、善である霊に影響が及ぶことはないと教えていた。 私たちも私たちの十字架を背負うのです。
ルカ9章
23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
ルカ14章
27 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。
ルカ23章
27 大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った。
28 イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。
29 『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。
30 そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。
31 もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」。 私の望みはやがて来る怒りの日に救われることです。
その日、主は天使と義人を引き連れて地に戻られます。
そして不信仰な人を容赦なく裁かれるのです。 共感性、親和性がすべてを物語ります。
偽り者は偽り者に、義人は義人に、預言者は預言者に。 この預言の書とは何を指すでしょう。この黙示録のことです。
繰り返しましょうか?
この預言の書とは何を指すでしょう。この黙示録のことです。
黙示録22章
18 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 注ぎ出す血が必要というのは、遺言書が有効に行使されるのは死んでからだとパウロが。 ヘブライ9章
14 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。
15 それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。
16 いったい、遺言には、遺言者の死の証明が必要である。
17 遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は、効力がない。
18 だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。
19 すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、
20 そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言った。
21 彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけた。
22 こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。 http://jcfn.org/jcfnhome/index.php?option=com_content&view=article&id=1194:2011-04-06-14-40-46&catid=216&lang=ja&Itemid=789
ギリシャ語ではこの「契約」と「遺言」は同じ言葉で表されます。英語(ドイツ語)でもたとえば新約聖書をThe New Testamentと呼び、そこには契約と遺言の両方の意味があります。
宗教改革者ルターは、「契約(遺言)とは、それぞれの約束のことではなく、死に行く者の最後の、訂正不能の意志であり、それによって彼の財産が、彼が相続させたい者に委譲される」と語り、主の最後の約束を思い起こすことが聖餐式の中心であるべきだと主張しました。 イエズスキリストのぶどう樹に繋がれているなら枝同士救われるでしょう。
しかし悪魔に繋がるならば神は惜しげもなく切り捨てられます。 >>761
>この預言の書とは何を指すでしょう。この黙示録のことです。
↑ たぶん、この文章を繰り返したからNGにひっかかったのでは?
1投稿に、同じ文章を繰り返したり、同じワードを何度も何度も繰り返すと、NG判定されます。
広告・宣伝の無差別投稿に多用されるワードや、無差別爆撃AAに含まれる文字列も、NGになります。
サイトをリンクする場合は、広告・宣伝っぽいサイトのアドレスや、5ちゃんと仲悪いサイトのアドレスは、NGになります。 燃える炭火の意味は神の日の復讐に期待することではなく、本当の親切を行うことでした。
http://eternal.life.coocan.jp/BibleTimes/ch16.html
聖書の時代から、聖書の地域では、今日でさえ、彼らの住宅で人々の唯一の火は火鉢か粘土の壷で保持されます
(略)
隣人から新しい炭を受け取った後で、家族の女性のメンバーが、頭に火鉢を持ち上げて、そして家に出発します。
もし隣人がたまたま本当に寛大な女性であるなら、彼女は火鉢か壷に、新しい熱い炭を「積み上げる」でしょう。
もし彼女がけちであるか、あるいは気が進まないなら、少数のごく小さい燃えさしを与えるかもしれません。
従って私は、使徒パウロがクリスチャンに、敵に食べさせて、飲み物を与えるよう言ったとき、そのことは、食物と暖かさをえるために、空の冷えた火鉢に、火の付いた炭を積み上げることと同じと言っていたと思います。 神性が隠されていたについて。
ナザレの処女マリアから生まれ30歳になるまで普通の人と同じように生活していた神であられます。
神性は母そして養父ヨセフしか知らないのでした。
エジプトに避難していた時は偶像に棲みついていた悪魔を追い出し偶像を壊したり、12歳で両親から離れて行方不明となられた時は病気の人をこっそり癒されました。
公生涯に入られて旅を続ける中ではもはや隠されていません。
「わたしを見た者は父を見たのだ」ヨハ14・9 13才ユダヤの元服(バルミツパ=成人式)から30までの記載なし。幻の期間とされています。
13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 … 養父ヨセフは8年間病床にありました。ヨセフが病にあったのは妻のマリアとイエズスの愛に焼かれたからでした。
ヨセフはイエズスが公生涯に入られる三年前に死去しました。彼の妻マリアとイエズスはヨセフに感謝を述べ、死者へのメッセージを託しました。
公生涯に出られる前は母マリアとこれからのことを話し合い、イエズスは母の首に手をやりお泣きになりました。 12歳以降の成長期について聖書はこう書いています。
17世紀の啓示によると、母マリアとはテレパシーみたいにいつも通じていたそうですが、一時的断絶(一ヶ月ほど)もしてマリアを試みています。
生活の上でもイエズスはよそよそしく振舞ったそうです。
参考『神の都市』より
ルカ2章
51 それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。
52 イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。 17世紀の啓示によると、イエズスと母マリアはテレパシーみたいにいつも通じていたそうですが、一時的断絶(一ヶ月ほど)もしてマリアを試みています。
この時、生活の上でもイエズスはよそよそしく振舞ったそうです。
参考『神の都市』より
12歳以降の成長期について聖書はこう書いています。
ルカ2章
51 それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。
52 イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。 失くした銀貨のたとえについて。
ただのコインではなく、花婿からの大切な贈り物であって、失くすと浮気を疑われるほどであります。
http://eternal.life.coocan.jp/BibleTimes/ch17.html
小さいコインと大騒ぎ 罪が赦される時の神様の表現として「忘れる」がありますね。
「思い出されない」とか。
だから罪というものが何か消えない物理的なものみたいな考えでいると、罪を地獄に置いてくるだとかおかしな認識になるのではないでしょうか。 私、マグダラのマリアが花嫁だったんだと信じてから、二人の祝福と自分の勘違いの罪を熱く祈るようになったのですよ。
天使たちにはこの正直な祈りが伝わらなくて、今すぐ口を洗浄しゆすぐようにいわれたの。
でも私は真剣だったので「バカにするな!(私でも分かるわ)」と反抗しましたわ。
イザヤ6章に書いてあるのは燃える火で罪を清めるやり方でした。
イザヤ6章
4 その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。
5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
6 この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、
7 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。 ピッピ、天才物理学者の絶望に比べたらまだマシだからがんばってね。
自殺のさせ方。
女は恋愛概念の崩壊が起こると自殺衝動が生まれる。
男は快楽概念の崩壊が起こると自殺衝動が生まれる。
科学者は、信じていた物理法則が崩壊する時、宇宙が滅亡する恐怖、すべての人類の知識がまちがっていた絶望と戦うため、自殺衝動が起こる。
新しい物理法則の発見者は、物理法則の概念の崩壊と戦うため、発狂するものである。 聖書の現代的な要約
キリスト教の真相。
ナザレのイエスとは、ちんこの皮を切る(割礼)というわけわからないユダヤ民族の悪習慣を辞めるように訴えた活動家だったのである。
売春婦にも、割礼しないちんこのがよいことを教えていた。
ただし、イエスは童貞だった。
割礼をしなかったイエスの使徒たちは、性経験をして、
割礼をしないと本当に性行為は気持ちいいので、イエスの使徒と名のり、割礼しない教えを広めていた。
そして、パウロは、割礼さえしなければ、愛は神より尊いと教え広めた。
割礼をすると、愛より神を敬ってしまう。 自然に基づく家族計画(Natural Family Planning=NFP)
婚姻関係における定期的禁欲は素晴らしい愛の性交へと繋がるらしいです。
http://hvri.gouketu.com/smithb.htm
セックスとキリスト教 みこころならば私のパートナーを備えてくださってると信じます、と祈ってきました。
そんなに簡単には出会わせてくださらないけれど、神のあわれみを期待しています。 >>784
割礼すると、挿入するたびに男性器が痛みを感じて、ぜんぜん性行為が好きにならないんです。
マジで、奴隷民族ユダヤの風習です。
巨根手術とか、性感が衰えるので、巨根好きな変態女を喜ばせる以外に誰も喜びません。
男性器は包茎の皮をむく以外に手術しない方がいいです。 前戯なしで挿入!?「ファストセックス」で2人の愛を深める秘訣
http://www.lc-net.net/research/secret/1448.html
少し前にブームとなった「スローセックス」。ゆっくりと時間をかけて濃密に愛し合うセックスは素晴らしいものですが、
忙しいイマドキ女子にとっては「そんなに時間をかけてはいられない」という本音もあるようです。
そんな中、巷では前戯をすっ飛ばして挿入から始める「ファストセックス」が話題になっています。
ムラムラして眠れないときは、自分で胸やアソコに触れ、ギリギリまで感度を高めてから、
寝ぼけた彼を襲う…というのもぜひ試してほしいテクニックです。
▼ライター:岩崎みさとさんプロフィール
1988年生まれ。セックスライター。女性のオナニー研究家。女性目線でセックスの楽しみ方を綴ったブログ「PINKY」は50万PV/月を獲得している。 五日目。
http://www.pauline.or.jp/prayingtime/ps96.php
詩編 96
新しい歌を主に向かって歌え。
全地よ、主に向かって歌え。
主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
国々に主の栄光を告げよ
諸国の民にその驚くべき御業を。 責任と信頼と尊厳。
婚姻関係における定期的禁欲。
偽りのない愛の関係を築きましょう。
自分の性的快感を高めるためだけに「愛してる」と偽証しないように。
風俗、婚前交渉、愛人契約、不倫、同性愛、これらは偽りの愛です。 暇な山田時代からあぐねす時代まで、何回おっさん呼ばわりされたことか。 ブルネルス
まだ未練があるのか
お前の言葉など誰にも届かないというのに 昨日からちょうど使徒10章11章を学んでいるところです。
ペテロが異邦人のコルネリオから招待を受けて神が分け隔てなさらない方であることを皆の前で説教しました。 他人の愛の形まで偽りと決めつけるなんて随分と了見の狭い神様だね ある人たちは放縦が自由だと思ってるかもしれませんが、実際は罪の奴隷だといわれてます。
自由というのは正しいことを選ぶ自由のことだと私たちは考えます。 何が正しいとか偽りとかを勝手に押し付けて勝手に罪だのなんだのとほざくのがおたくらの神様ってわけだね 詐欺師は次の段階へ進む時、いやあ申し訳ないことした!と頭を下げながら相手を油断させます。
用心することですね。
また個人情報を引き出されて攻撃材料にされる、に2ペテロ。 ペテロ 2
2章
21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。 あら、十字架のヨハネさんが現れたw
ピッピさんは病気で色々と大変だからそっときてあげたほうがいいで
難癖付けるなら別のスレの別のコテにしてあげてくださいませ
例えばこことか
【イエス】 あなたは愛されている Part15 【キリスト】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1521466750/
【イエス】癒し主 救い主 【キリスト】Part 205
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1521102982/ 教皇ツイッター
だれひとり見捨ててはなりません。わたしたちは皆、障がいを受ける可能性があるからです。わたしたち一人ひとりは、自分らしく成長するよう神が認めた宝なのです プーチン大統領様
ロシアでカトリックの伝道が妨げられないようにしてください。
聖母マリアを排除しないでください。 http://hvri.gouketu.com/wickens.htm
しかし、教皇ピオ十二世は繰り返し繰り返し司教たちと修道会総長たちに書簡を書き、にべもなく、明瞭この上なく彼らに警告しなかったでしょうか? これらの「新しい」思想が広がらないように気を付けて下さい。特に以下の考えには気を付けなければなりません。
1 わたしたちはアダムの子孫ではない。
2 アダムとエバの話は神話である。
3 原罪は存在しない。 内村鑑三
http://green.ap.teacup.com/lifework/1937.html
聖潔と聖別と聖化
◎ 聖潔(きよめ)は、その根本の意味において聖別(せいべつ)である。
この世から分かたれて、神の聖(きよ)い御用に供せられる事である。
この事をはっきりと心に留めなければ、聖書が教える聖潔の意味が分からない。
「きよめ」は先ず潔(きよ)められて、即ち全ての汚穢(けがれ)を洗われ、完全な者となって神の有(もの)となる事ではない。
先ず神の属(もの)と認められて、その必然の結果として神の聖意(みこころ)のままに、潔い者となる事である。
この順序は、小事であるように見えて、実は大事である。
聖潔を聖別と見なければ、実際に潔められる事もないのである。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:87f20c3c9ee883ab649a4d7f8b996d63) 種が毒されていれば
芽がどんなに愛いと思われても毒の影響から自由ではないのです。 ◎ 内省、これは信仰の禁物である。内を見るのではない。上を瞻(み)るのである。そうすれば、知らず知らずの間に潔まるのである。
信仰を離れて高い品性の人になろうと思うのが、現代人が陥った最大の誤謬である。
これは、太陽には引かれずに回転しようとする地球と同じである。
また信仰をなおざりにして、聖霊の恩賜に与ろうとするのが多くのバイブル信者の陥る誤謬である。
聖霊は信仰の報賞(むくい)として賜わる者である。
信仰が冷えた時に、聖霊降臨は止まるのである。キリスト教は、信仰本位の宗教である。 ただ十字架を仰ぎ見るのです。
自分の罪とキリストの聖なる御業を。 さらっと読んでしまえば何のことやらサッパリわかりません。
でもじっくり読んでいくと、もう涙なしでは読めないほどの感動をおぼえます。
旧約・新約聖書はこうして繋がりました。
神に感謝します。 六日目。
http://www.pauline.or.jp/prayingtime/ps130.php
詩編 130
深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
主よ、あなたが罪をすべて心に留めておられるなら
主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。 前提や理解が違うと、流れも結論も変わります。
数式だと指摘できるが、言葉の上では難しいとけして思わないでください。
主から派遣された弟子たちが、小さなフィールドで受け入れられなかったことを思いましょう。
また魔術師シモンが小さなフィールドで喝采を受けていたことも参考にしましょう。
巨大なローマがいなくなり、反キリストも裁かれることが予告されています。
あの古いヘビと呼ばれるサタン悪魔も永遠の罰を宣告されているのです。
私たちは天にある神の御国と神の義を思います。
御国は目に見えるかたちでは来ない、と主はおっしゃいました。私たちの心に主の十字架を刻み神をお迎えしましょう。 イエズスの神性を最初から知らされていた母マリアは、子に教えることは何もなく、子に教えられていました。
母もヨセフも子を礼拝しながら生活しました。 今日は洗濯日和です。ずっと菜種梅雨だったから眩しい光です。
罪のゆるしのことを考えていると私たちの社会的断罪などまるで無意味です。
たとえば他人の命を奪い、傷つけた人が神に悔いてゆるされるのですが、その死んだ人、傷ついてトラウマ抱えている人は悔いてないならゆるされないで霊魂が滅ぼされるのです。
おおいなる矛盾がここに表出するのですよね。納得いかない人がいることはやむを得ません。
とくに私は正しいと思ってる人、罪に鈍感な人は、キリストの光を求めません。 異端思想を持つ人がカトリックに通いながら私たちをドヤ顔でにせキリスト者扱いしている意味を考えてみてください。 彼には影響を受けている別の思想があるはずです。
バハ=サーのように。 共通するところは
1. 輪廻転生に希望を置いている
2. 私たちの神以外に神がいると思ってる
3. 根拠をみことばにおかない
4. いつも無礼講であること 共通するところは
1. 輪廻転生に希望を置いている
(→ただ一度死ぬことと裁かれることがあることを認めない)
2. 私たちの神以外に神がいると思ってる
(→父・子・聖霊は一つの神であると信じない)
3. 根拠をみことばにおかない
(→みことばを軽んじる)
4. いつも無礼講であること
(→従順、秩序が神の性質であることを知らない) 聖書を普段読んでいる人でも巻、章、節、逐一覚えている人は少ないのではないでしょうか。
手元にある聖書をめくり確認している人がどれだけいると思いますか。
翻訳の間違いを指摘するなら正しいと信じる翻訳を出してみればいいのです。
あなたの信じる結論だけでなく、なぜ確信したのか話さないと誰も納得しないでしょう。
ライフスペース代表の高橋某氏みたいなこと「定説なんですよ。なぜなら◯◯の何ページに書いてあります。調べてごらんなさい」といわれて本当に調べたら騙されることはなかったでしょうから。 うーわ気持ち悪い
てめーらの妄想が正しいと思い込んで他の価値観を全て一方的に否定してる
何の根拠もないのにな
んでうちんとこの教えを信じない奴は地獄行きだと脅迫までしておきながら、自分がどれ程醜い発言をしているかという自覚がない
気持ち悪いとしか言いようがないね いつまでも読んでいたいわ。
つまらない異端者のあざけりよりも、みことばを味わえる喜びに浸ることの方がどれだけ幸せか。
「わたしの語った言葉が終わりの日にその人を裁く」
と主はおっしゃいました。
過去形で。 子どもだから純粋だ、なんて思ったら間違えますよ。
「禿頭、上っていけ」
子どもほど正直で残酷な時代はないといえます。
イエズスが子どもの頭に手を置いて祝福されたのはなぜでしょう。
マタイ・マルコでは夫婦の関係について教えられた直後に幼子を祝福しています。そして素直に受け入れるこの幼子のような態度こそ神のみこころにかなっていることをお示しになられました。
ルカではパリサイ人と取税人の祈りのうちどちらの祈りが神に受け入れられたかの喩えから、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」といわれた直後に書いてあります。
マタイ・マルコの直前の章には、弟子たちが自分たちの中で誰が一番偉いか話し合っている時にも、幼子を立たせて「この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉い」と教えられたことが書いてあります。 赤ちゃんだから無垢だろう、何の罪も見られないと思ったら大間違いです。
自己中心の権化ですからね。
泣くことに関しては配慮も何もないし、他人のものだとわからずに気にいるものの所有権を主張します。
ここに悪の芽がすでにあるのです。 まだ目も開いてない仔猫を見てもわかります。
乳の奪い合いは凄まじいものがあります。ちっちゃな前脚で叩きまくりますから。 子どもたちが「ショーコー、ショーコー」と歌っていました。
覚えやすいメロディだったからです。
「チョットだけよ、あんたも好きね」「カラスの勝手でしょー」
おなじみドリフの問題台詞も子供たちは容易に口にしました。
教室の中にはイジメがあり、差別があり、大人社会の縮図がすでに生まれていました。 読みたくなければ、あぼんすればいいだけじゃん。
昔の2ちゃんなんてAAやらチャット状態やらで。 聖母子を描いた御絵を見るとわかりますが、幼子イエズスが聖母の顔にキスしてますよね。
これはイエズスが神性を持ちながら受肉し生まれて、神であることを自覚されているからです。
イエズスには神の記憶がありました。彼は受肉前、ご自分の選ばれたナザレの少女にキスをしたのです。 幼子イエズスは、受肉前にご自分で選ばれたナザレのおとめとわかっていて、母にキスをしたのです。胎内にいる頃から母と子はテレパシーのような会話をしていたといいます。
伝承に基づいています。
聖母の死を描いた御絵には11人しか弟子がいません。イスカリオテのユダの代わりにくじでマッテヤが使徒に加わることになり、12人いるはずですが11人しかいません。
疑い深いトマスは遅れて到着したのです。ここでも聖母の死を信じないトマスのために棺を開けてみると聖母はいませんでした。
聖母はトマスを信じさせようとして衣を天から落としました。 キリスト屋の本音がこんな醜い思想だったと知ることができてありがたいよ >>803教皇パウロ6世は、東方正教会の破門
撤回をしたとき、東方正教会を信仰して
いる地域では、カトリックの宣教はしないと
約束しています
ロシアは、ロシア正教を信仰していて
聖母マリアに対する崇敬が盛んで
ロシア正教会は、聖母マリアが出現したり
奇跡が起こった場所に大聖堂などを
建立して、正教徒の巡礼が盛んです。 >>791
なぜ、地球上のほとんど全てのキリスト教国に
風俗が存在するんですか?
同性愛の結婚を法的に認めているキリスト教国も地域上にたくさんあるんですけど
聖地エルサレムやカトリック教会の総本山が
あるローマにも風俗店や同性愛の人達が集まる
歓楽街が存在します >>830
それでは啓示の聖母が要求していたロシアの奉献はすでに果たされたということですか?
もう祈らなくてよいのでしょうか。 ペテロ 2
2章
20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。
21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。
22 ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。
http://www.geocities.jp/mikokoro_net/dogma.htm
(8)バチカンに根拠地を持っているWalter Kasper枢機卿は、「...今日、私たちはエキュメニズムを、他の人々が『回心してカトリックに戻る』という意味での帰還とはもはや理解しない」と言うとき、「教会の外には救いはない」という決定された教義を拒否したのである。
このことは第二バチカン公会議ではっきりと放棄された。Adisti, Feb. 26. 2001.English translation quoted from "Where Have They Hidden the Body?" by Christopher Ferrara, The Remnant, June 30, 2001.また、The Devil's Final Battle, p.68をも見よ。 消防士のドラマを思い出します。
怖いもの知らずの新人が果敢に火と煙に向かっていくのは無知だからです。
火の恐ろしさを知っていないだけなのです。
本当の勇気は試されます。そして乗り越えるのです。 >>833
まだ、ロシアの奉献を果たしていません
カトリック教会は聖母に祈る必用があります 来週の課題
http://www.pauline.or.jp/spirit/
聖霊講座
第1回 なぜ“聖霊”なのか…
第2回 旧約聖書に見る“霊”の働き
第3回 イエスと“聖霊”
第4回 イエスが約束した“聖霊”
第5回 “聖霊の降臨”の出来事
第6回 パウロが語る“霊”
第7回 今も働いている“聖霊” 聖週間を陽だまりの予報の中で過ごすことになりそうですね。花粉はどうでしょうか。
桜の花、洗濯物、春休み、穏やかな日々のさなかに起きる受難の黙想。
復活の喜びが控えているとはいっても避けて通れないのですよね。
福岡で大地震があった時はちょうどこの頃で、私たちは日曜礼拝の真っ只中にいました。
十字架を見上げて行くように教えてくださった信徒はストーブを消しに走り、ある人は寝たきりで留守番している家族の様子を見に走りました。
そんなことを思い出してます。 使徒ヨハネは90歳を過ぎてから黙示録と福音書をあらわしました。
聖母は60過ぎ、マグダラのマリアは70過ぎて死にました。
30がじじばばに相当するわけないでしょ。 在日扱いされた人をかばうつもりであなたも在日批判し、あろうことかバハ=サーれべるの侮辱を凝らし寄留外国人を陥れるのは誰ですか。 ネフィリムとは、堕天使と人間の女との間に生まれた子たちのことです。
ヘビであるサタンがエバを誘惑して神からの罰を宣告されたので、女から贖い主が生まれることを知ったのです。
そのため人間の女と寝て贖い主が生まれないように自分たちの子を増やそうとしました。これらがノアの時代の人々なのです。 http://eternal.life.coocan.jp/BibleTimes/ch6.html
らくだと針の穴
「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(ルカ18:25)
と、言われたとき、イエス様は本当のところ何を言おうとされたのでしょうか。
この文章にはじつにさまざまな解釈がなされました。私が最初に聞いた「針の穴」の説明は、聖地の人々によく知られたある門の名前だということでした。
私は、この説明は聖句の新しい非現実的な説明で、金持ちにより有利な、さらに事態を不明にするもので、イエス様が言及されたことへの説明としては驚きでした。
私は聖地でさらに数年滞在する間もこの疑問を心のうちに抱いたままでした。
あるシリヤ人ガイドが旅行でダマスカス市を案内してくれました。
私たちは見たところかなり古い城壁のあるところへ来ました。ガイドはかなりの大きさの木造のゲートに私たちの注意を向けさせました。
そして彼は、メインゲートの横の小さな低いドアーを指し示しました。その時、わたしはあれが「『針の穴』と呼ばれる」ものだと思い当たったのでした。 (続き)
古代の都市では、メインゲートは夜早くかんぬきを掛けて特別の許可がない限り開けられませんが、大きな門の横には旅行者の出入りのために小さな門があることを、わたしは読んだことがありました。
ダマスカスのこの古代都市で、その門が「針の穴」と呼ばれたことをわたしは聞いたのでした。
わたしは確信しました。エルサレムのヨッパ門もまたこれらの小さな「針の穴」の入り口の見本です。
イエス様は、この世の富と物質的な多くの資産を握り締めていて失いたくないと思いながら、神の国に入りたいと願っていた金持ちの若い管理人に話していました。
イエス様は彼に一つだけ欠けているものがあると言われました。
「持っている物をみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そしてわたしに従って来なさい」(22節)。
「彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持ちであったからである」(23節)。
イエス様は悲しそうに付け加えられました。「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」(25節)。 (さらに続き)
イエス様は隠喩を用いて説明されたのでした。らくだは穀物の袋や、薪、炭、またいろいろな町に必要な雑貨を背負ってはいりました。
もし夕方遅くなってメインゲートが閉じられた後に商人が到着するようなことがあると、中に入る唯一の方法は、らくだの荷物を全部降ろし、らくだの膝をつかせて文字通り這うようにして「針の穴」を抜けなければならなかったのでした。
すべてを脱ぎ捨て膝まづかなければならなかったのでした。
富んでいる人がクリスチャンになるためには、その物質的な富の中から、イエス様の足元にひれ伏す貧乏に打ちひしがれた罪人の水準にまで、謙遜にならなければならないという、明白な関係があります。
金持ちの青年はそれができず、そのため入ることができなかったのでした。
人にはできないと思うことでも神に達成できないものはありません。人が敗北しても神は敗北しません。
たくさんの金持ちがキリストの言葉に出会いました。そして物質的な財産に頼ることから離れ、十字架のもとにへりくだり膝まづくことによって、天の御国へ入りました。
新約聖書のよい手本はザーカイです。この人は、富と財産への欲望と、後ろめたさからくる良心の重荷から、栄光のうちに解放されました。救い主であり、主人であるイエス・キリストとの交わりを求めて、罪深い生活からへりくだって悔い改めました。 http://meigata-bokushinoshosai.info/index.php?アブラハムとサラの改名の秘密
いろいろな学者が改名を語源的に調べて(こじつけて)注解書で述べていますが、今もって不明な点が多いようです。
「アブラム」の「アブ」は父親を意味します。「ラーム」は高めるという意味です。つまり「父が高められる」という意味。
それが「ハ」が入ることでどうして「多くの国民の父」との意味になるのか。その理由として「多くの」という意味を持つ形容詞「ラーハーム」が合わせられたという考え方があります。
また、サライの場合は「私の女王」という意味だそうです。おそらくサライは生まれた時から美しく、他とは異なった気品を感じさせる子だったのかもしれません。
彼女が65歳になっても「非常に美しいので」エジプトの高官たちが彼女を見て、王のパロに推奨したので彼女はパロの宮廷に召し入れられたことが創世記12章に記されています。
その「サライ」の「イ」が削除されることで、なぜ「多くの国民の母」という意味になるのかは語源的に不明なのです。 昔バハサーと呼ばれた人がいました。彼は自分は知恵者と浮かれていましたが、その知識は悪魔が人間に書かせたり伝えたりしたものばかりでした。
彼は改名して別の名前で生まれ変わりました。
その時、幸福の科学の霊言集という古い書物を見つけて、浮かれて言いました。
「ああ!これこそ真理、真実の知恵である。なんてわたしは神からの知恵に優れているのか」
彼はことあるごとに「だーかーらー、ここに書いてあるんだってば」と弁明しますが、幸福の科学の教祖が愛人と赤ちゃんプレイしていたことをまだ知らずにいたのでした。 だいたいは「う〜ん」と唸るとき、その人が自分の頭を神としていてその狭さゆえ苦しみ理解できないからです。
頭がいい人は、察するものですよ。
知識は「はは〜ん」でピンときます。真偽は別として。
前者は「弁えよ」、後者は「確かめよ」。 トリエント公会議は厳しくこう言っています。
「万一、
・誰かがミサ聖祭は賛美と感謝のためのものであるとか、
・十字架上の祭祀の単純な記念に過ぎず、
・贖罪祭ではないとか、
言ったとすると、あるいはまた、
・ミサ聖祭は聖体拝領する者だけに有益なものに過ぎず、
・生ける者と死せる者とのための罪と罰と贖罪とまたその他の必要とのために捧げられるものではない
と言うものがあったとすると、彼は排斥される」と。 (続き)
ところが新しいミサの総則にはミサの定義として
「主の晩さん、つまりミサは、聖なる集会の儀、すなわち主の記念を祝うために司祭を座長として1つに集まった民のための集会である」(総則第七条)
とだけしかありません。
新しいミサは単なる「主の記念」でしかなく、聖変化の言葉もホスチアを聖変化させるものとしてミサ典書に印刷されているのではなく、単なる序述として、つまり物語として記されています。
新しいミサが出来たときプロテスタントの人々は、ついにカトリックは新しい奉献文(聖伝のミサで言う「典文」)を作り「ミサが天主に捧げられるいけにえなどと言う間違った見解を放棄した」(La Croix 12/10/69)と言ったほどです。 弟子たちが旧約聖書からイエズスと結びつけている箇所には「イエズスこそその人だ」とは書いてありません。しかしイエズスのことを書いているといわれる時は「その通りである」と疑いもしないのに、「イエスはヤハウェとはどこにも書いてない」と反抗するのです。
またイエズスがバプテスマのヨハネは来るべきエリヤであることをマラキを引用して説明なさいました。
「…そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである」ヨハ11・14
この一文で輪廻転生を信じる根拠にもしている人は、ラケルのことを本人のことだと信じるのでしょうか。
すなわちヘロデ大王が救い主を殺そうとしてベツレヘム周辺の二歳以下の幼子を皆殺しにしたことが旧約聖書の成就とみなして書いてあるのですが、これは死んだラケルが生まれ変わっているのでしょうか。皆ラケルの生んだ子でしたか。ちがいます。
マタイ2章
17 こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
18 「叫び泣く大いなる悲しみの声が/ラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」。 あなたたちはこんなハイテク時代に生まれていながら、どうして過去の時代の不思議を矛盾と捉えるのですか。 イエズスキリストは500人以上の弟子たちの前に同時に現れました。
これは一度に個別対応できる能力があるということです。 旧約聖書を開いて
「やはり書いてません」
といい、イエズスをキリストと認めない人たちはどうなったでしょう。
国を奪われ、嫌われて、民族ごと抹殺されそうになりました。 私の実家では仏壇と神棚がありましたが、手を合わせる人は誰もいませんでした。
習慣がなかったことを神に感謝しています。 他の宗教屋の教祖の振る舞いを非難しておきながら、てめーらの宗教屋の悪行は棚に上げ
てめーらの宗教屋の教えだけを根拠に他の価値観を否定するのに、そもそもその教えが大昔の妄想に過ぎないことは見て見ぬ振り マグダラのマリアは悔い改める前の姦淫生活で、よく妊娠しませんでしたね。うまずめだったのでしょうか。 ここを読んで嬉しいと思う人は本当に素直なんだと思います。
私の場合、捨てられ、酷い目にあったのだという点からわずかでも動くことができません。
私は捨てられていたのだ。
私は酷い目に遭わされたのだ。
この悲しみから立ち直れません。
苦しみはまぼろしではないですもの。
詩篇91
5 あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたをあがなわれる者は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。
6 捨てられて心悲しむ妻、また若い時にとついで出された妻を招くように/主はあなたを招かれた
7 「わたしはしばしばあなたを捨てたけれども、大いなるあわれみをもってあなたを集める。
8 あふれる憤りをもって、しばしわが顔を隠したけれども、とこしえのいつくしみをもって、あなたをあわれむ」と/あなたをあがなわれる主は言われる。 カルバリーチャペル
http://www.logos-ministries.org/old_b/isa54-57.html
イザヤ書54−57章 「苦しみの僕がもたらすもの」
アウトライン
1A とてつもない回復 54−55
1B 夫の変らない愛 54
1C 子を産む女 1−10
2C 宝石の着飾り 11−17
2B 開かれた招き 55
1C 「出て来い」 1−5
2C 「主を求めよ」 6−13
2A 義の備え 56−57
1B 近づいた救い 56
1C 安息日を守る部外者 1−8
2C 見えない見張り人 9−12
2B 取り去られる義人 57
1C 益にならない義 1−13
2C いやされる者 14−21 ナルシスは自分の顔に見惚れていたそうです。
同じように自信満々で「はあ〜」なんていっても脳内変換がたいがい自惚れですからね。
内容は聞かず入らず、なんですわ。 ノリ・メ・タンゲレ
わたしに触れてはならない
マグダラのマリアはすでにイエズスに触れていたと思います。
そしてチュッチュされたでしょう。間違いを犯さないように自制を要求なさったのではないでしょうか。
まさか墓の前で愛し合うわけにはいきませんからね。 マグダラのマリアが洞窟から毎日定刻の祈りをするたびに天使が現れて天に運んで行くってどういうことだと思いますか。
神の応答がすさまじくあるということですよ。
使徒たち、弟子、パウロ、彼らもそうですが、聖霊の働きかたが尋常ではありませんでした。
最期は殺されたりと悲惨でしたが。
幸せな最期を迎えたマグダラのマリアですが、骸骨姿の遺体を保管している教会があるそうです。
復活する日が来たら、輝く肉が蘇るのでしょう。その日が来たら、天国でイエズスと何をしていたか根掘り葉掘り聞きたいです。 http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_holyweek.php
聖週間
ペトロの心に、群衆の心に、女性の心に…そして、イエスの心になってみましょう。
そうして、ドラマの中の出来事をたどることにより、キリストの神秘に深く触れていくことができるのではないでしょうか。
受難のドラマが罪の神秘の啓示であり、典礼の一つのモチーフが罪の神秘であるなら、愛の神秘の啓示は、もう一つのテーマでしょう。 汚い言葉もそうですが「賢い綺麗がありました」という表現もどこの日本語かわかりません。
コマーシャルの台詞みたいに聞こえます。
砕かれることも「砕き」といったり「子供=清潔」とか私には聞き慣れないものが多いです。
解釈や教義についての無知(異端的)もそうです。
あの人については申し訳ないけどとにかく気持ちが悪いのひとことです。 ノリ・メ・タンゲレ はラテン語訳です。
μή μου ἅπτου
メー モー ハプトー ヨハネ20:17
チュッチュしあった間柄こそのことばですね イエズスが「マリア」と呼ぶ時、それは母ではなく、マグダラ(ベタニヤ)のマリアでした。 ユダヤ社会では神はお一方しかいないと信じられていました。
そこで「わたしはある」とイエズスがおっしゃった時、ユダヤ人たちは激怒したのです。
弟子たちにとっても当然、神はお一方でした。ですから、「わたしの神、わたしの主」と答えたのはイエズスこそヤハウェである神と告白したのです。
しかしハイテク時代を知らない人々には理解できません。
イエズスは自分の思いではなく父のみ旨を行いました。それは人性によらず肉によらず私情をはさまず、旧約聖書によってあらかじめ預言されたヤハウェである神のみ旨を成就するためです。
イエズスは父にお願いすれば今すぐ天使の軍団を遣わすこともできると、逮捕される時にもおっしゃったはずです。
イエズスは従順のお手本を私たちに残し、私たちをどれだけ愛しておられるのかをその受難と死においてお示しになったのです。
イエズスの生涯は神の慈しみを全面に出したものでした。
終わりの日、主の怒りの日、裁きの日に、神は一つの名前で呼ばれるようになります。 ピピではなくピッピpippi
『長くつしたのピッピ』
変わってるけど本当は良い子のピッピです。 こんなところで寺園喜基先生の論を持ち出すのはご迷惑かもしれませんが、ごめんなさい。
『現代を問う神 キリスト教入門』
p93
それゆえ、父なる神はまず第一に、端的にイエス・キリストの父なる神でありたもう。
私たちが自分の肉の父親から類推する「父性」の精髄が父なる神なのではなく、イエス・キリストが「アッバ」(お父さん)と呼びかける方が、父なる神なのである。 笑かしますよね。
イエズスキリストの前には
上も下もありません。
天使でさえあなたがたと同じしもべですと言いました。 去年のことがあってから聖霊なる神がよくわからなくなっているピッピです。 >>496
ヤハウェはナザレのイエスだという説
http://www.logos-ministries.org/old_b/zech13-14.html
2B 試される民 7−9
(略)
私たちや罪の赦しを受け、神の子供になり、そして義と認められるために、神はキリストを殺されたのです。そしてキリストご自身もそのことをご存知で、今は満足しておられます。
ゼカリヤ書13章7節に戻ります。ここの預言の際立っていることは、もう一つあります。
主が、「わたしの牧者」と言われた後に、「わたしの仲間」と言われていることです。
この「仲間」は、「同等の者」と言う意味です。ヘブル語を見れば、牧者と仲間の者は同じ人物として語っているそうです。つまり、牧者は神と同等の者ということです。
12章でも、「自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見(10節)」とありましたが、突き刺された方がヤハウェご自身、神ご自身であることを示していましたが、ここでもはっきりと示しています。
そして英語には、”Against the Man, who is My Companion”となっています。
「私の仲間であるこの男に」となっていて、ヘブル語は男を表す「ガバル」が使われています。
つまり、人であり神であることを、この箇所ほど明確に宣言しているところはないのです。 続き
http://www.logos-ministries.org/old_b/zech12-14.pdf
p8
ここゼカリヤの預言には、「自分たちが突き刺した者、わたし」とヤハウェなる主が明確に、ご自 分が突き刺されたことをお語りになっています。
どうやって、神であられるヤハウェである方を、彼 らが突き刺すことができるのでしょうか?この宣言を行なわれたのがイエス様です。
主が、何度と なく「わたしはある」と言われたのを思い出すことが出来るでしょうか?
ヨハネによる福音書の中で、 「わたしは、世の光である」「わたしは、命のパンです」「わたしは、いのちです、よみがえりです」と 言われましたが、はっきりと「アブラハムが生まれる前から、わたしはある(ヨハネ 8:58 参照)」と言 われたのです。
出エジプト記 3 章 14 節に出てくるヤハウェの名前、「わたしは、『わたしはある』と いうものである。」を宣言されたのです。 イザヤ53章
「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(10-11節)」
私たちや罪の赦しを受け、神の子供になり、そして義と認められるために、神はキリストを殺されたのです。
そしてキリストご自身もそのことをご存知で、今は満足しておられます。 http://www5b.biglobe.ne.jp/~shinju/Agreda%20no%20Maria.htm
アレグダのマリア
1.主こそ神
2.人となられた神
3.主こそ御父御自身
4.主こそ天地の創造主
5.主こそ救い主 「メシヤであるエホバの恵み」
って何ですかね。
日本基督教団でもイエズスキリストはヤハウェなのでしょうか?
http://eternal.life.coocan.jp/BibleTimes/ch9.html
預言者イザヤがメシヤであるエホバの恵みを美しく描いたのはここからでした。 今夜ほどロマ書8章が満ち足りて読めたことはありません。
詩篇91もそうです。
小さな罪が積み重なり、ヘビに至るのですから。
用心して騙されないようにしたいものです。肉にも霊にも。
繋がれているところに本心があるとわかります。その背景に入り込むことが識別の要です。 異端警戒と並列化しましょう。
衝撃の内容。
http://hvri.gouketu.com/illuminati1962.htm
どのようにすればカトリック教会を破壊できるか?
暴かれた計画
イルミナチイの秘密資料
(訳者不明)
グランド・マスターからの公式指導要項 禁欲というからには性欲は当然あられたがという前提でなければおかしいです。
あらゆる試みの中に性欲がないのはおかしいと私は常々思ってきました。
キリストが使徒および司祭の独身、禁欲を要請しておられたのなら、長であるキリストご自身も禁欲であられたでしょう。
すると、もしマグダラのマリアと婚約をしていて時が来て洞窟から天国への訪問が頻繁に行われたとしても、夫の権利を要求せず妻の求めがあった場合でも義務とは考えずご自分たちの禁欲を解いたりはなさらなかったでしょう。
すると主は性欲の誘惑にも打ち勝たれた方であるとして信頼できます。
http://hvri.gouketu.com/celibacy.htm
使徒時代に起源がある司祭の独身制度
パウロ六世は、キリストが、神と人への奉仕のために余すところ無くご自身をささげられたことを、禁欲によって世に示された、と書いておられます(『司祭の独身制度』1967年6月24日)。 それからあの人たちのことですが、やはり他宗教からの刺客だと思います。
まるで感覚が真逆すぎます。 教皇ツイッター
キリスト、あなたの十字架を恥じることのないよう、教えを授けてください http://ja.radiovaticana.va/news/2018/03/25/イエスのエルサレム入城に響く叫びを観想、教皇、受難の主日のミサで/1368443
教皇は、主の受難の物語は、多く愛することができる一方でまた憎悪することもでき、立派な犠牲ができる一方ですぐに自分は関係ないと背を向けることもできる、今日のわたしたちの感情や矛盾をも明るみに出すものと話された。 桜街道を車で走らせている時にちら見して、なんて色が薄く一花一花が小さく、枝がしなるほどに美しいことかと感じ入りました。
イスラエルでもアーモンドの花が桜とよく似てお花見もされているといいます。
(LOVE FM のゲストさんのお話)
まさかこんな極東の地に生まれながら似た自然の中で過ごせるとは。
イスラエルに思いを馳せ、イエズスの春の日を目の裏に描いています。 パウロも結婚していたと信じる教父がいるらしいです。
「姉妹である女性」を伴っていること「妻である信者を連れて歩くこと」について言及していることから類推できるとか。
結婚はしていても、ペテロもパウロも妻との性行為を断念してキリストに付き従っていたそうです。
ここまでしなくちゃいけないのですか。
http://hvri.gouketu.com/celibacy.htm 『manna』本日の箇所は使徒14:19-28
解説をいちぶ引用します。
このわざを見たルステラの人々は、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼んで二人にいけにえをささげようとしました。
バルナバとパウロは、この群衆に、創造者でありご自身を啓示してくださる神様を語りました。 15 言った、「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。
そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。
16 神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、
17 それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。
すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。 共通善を築くことを優先するあまり、ソロモンのような失敗を犯しませんように。 犯人の姉にリベンジレイプ
パキスタン
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/14492872/
【AFP=時事】パキスタンの警察当局は27日、16歳の少女への性的暴行に対する復讐として、犯人とされる少年の姉(40)に対する性的暴行を命じた疑いで男10人を逮捕したと発表した。
事件は20日、中部パンジャブ(Punjab)州トバ・テク・シン(Toba Tek Singh)で起きた。
地元警察のナイーム・ユサフ(Naeem Yousuf)氏はAFPに対し「ワシームという名の少年が16歳の少女と性行為に及んでいたところを捕まり、近隣住民が集まって少年の殺害を求めた」と明かした。
ユサフ氏によると、少年の家族は少女の家族に対し、自分たちの家族の中の女性をレイプするという選択肢を与えた。少年の姉が選ばれ、少女の兄弟にレイプされたという。
双方の家族はこの件を忘れ、恨みを持たないとの手書きの合意書を作成。
地元警察のアブドゥル・マジード(Abdul Majeed)署長は、警察官の1人が合意書を入手し、署名した双方の家族の計10人が訴追されたと述べた。
家父長制の慣習が残るパキスタンでは復讐目的のレイプ事件が頻繁に発生しており、時間と費用がかさむ司法制度に代わり、男性間の争いの解決手段として女性がしばしば利用されている。
【翻訳編集】AFPBB News 「来なさい、わたしの花嫁」
イエズスはマグダラのマリアを天国に迎えるとき、こう語りかけたという。 私たちに啓示してくれるだけじゃなく、受肉して、人と同じ姿になって目に見える神となってくださったにもかかわらず、また下って行き信仰を放縦に変える人たちがいました。
心に割礼がないので読むことも理解することもできません。
私たちのまっすぐな心を汚すだけでは済まず引き込んだり殺そうとします。
そしてこういうのです。
「ナルシスはナルシス、エコーはエコー」
あなたがたの神々が呼んでいます。 私の職場は老人ホームでした。
特別養護老人ホームです。
健康そうな入所者でさえなんらかの障害を有していました。
相性もあり、仲良しから犬猿の仲まであります。
素直な人、疑い深い人、いつも不安な人、怒る人、ニコニコしてるけど認知症なのです。
寝たきり、目が見えない、心に深い傷。
サウロはステパノが石打ちされるのを見てました。いたるところで乱暴を働き牢にいれました。
ある日、聖母の祈りに応えたイエズスがサウロに光を与えました。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのですか」
サウロは神秘を経験してキリストを迫害することをやめました。彼は自ら「月足らずで生まれた」と証言しています。
満たされたから信じたのではありません。彼は強烈な感覚とその後の御霊の指示により不思議を経験するうちに変えられたのです。 弟子たちの欠点一覧表が欲しいです。万事を益としてくださる神が欠けだらけの私たちをふさわししいかたちで用いてくださいます。
私たちにまず考えられないのがみことばの否定です。
イエズスは悪魔の試みの最中で投げかけられた不適切なみことばを否定しませんでした。
次に私たちは十字架の贖いを信じます。悪魔は十字架以外でイエズスを殺そうとして何度も失敗しています。イエズスにはこの死に方しかありませんでした。それが父なる神のみこころなのですから。
この福音を信じることによって救霊され、最後の審判を過越できるのです。 痛いから泣くのでしょう?
怒りも、笑いも、不服も、私たちの中のモノサシが叫んでいるわけです。
イエズスは言いました。
「うわべだけで裁かないで正しい裁きをしなさい」
http://www.nishitani-church.jp/blog/2009/08/post-202.html チャック♂とハム♂が無事に帰りますように。
夕べ帰って来ませんでした。
枕元でチャック♂のか細い声が聴こえ、赤いこたつ布団みたいなものから出てくるビジョンを見ました。無事でいることを祈りました。
あやめ♀は夜中、不穏で、しきりに何か知らせたがっていました。
朝、QP♀も門の外でしきりに寝転がりパフォーマンス。しかし決して家には入りません。
カレシの野良もいないのです。
男連中だけ何事かが起きています。 まことの鏡はイエズスキリストにあります。みことばです。
世の言葉には二股、三股、揺れ動く波しかありません。 QP♀がカレシを連れて帰宅しました。
チャック♂、ハム♂も無事でありますように。
心配で心配でしかたありません。 パウロの心配
コリント 2
11章
27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。
28 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。
29 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。 チャック♂帰宅しました!
神様ありがとうございます。
ハム♂どうしたのでしょう。
一緒だと思ったのに。
脳内通信もありません。
どうぞ無事でありますように。 祈りながら眠くなり、ウトウトしてる間にハムが餌を食べてるビジョンを見ました。
夢で理由も示されました。
洗濯物を取り込みに外へ出ましたら、悠々とハム♂が現れ、私は今、大満足です。 油断なく祈り続ける一日
1. カラスも来たけど、鳩がよく啼いていたので見えないメッセージが投げかけられているだろうと信じました。
2. チャック♂がもしもどこかで閉じ込められているとしたら、その周辺の人が気づいてくれると強く信じました。
3. それでも心配はおさまらず、チャック♂の姿を確認するまでずっと祈り続けました。 「油断せず」と「間断なく」が混ざりました。
油断せず、間断なく祈り続ける一日 至聖三位一体
・御父
・御子
・御霊
聖家族
・ヨセフ
・イエズス
・マリア http://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/holy_thu.php
聖木曜日
第1朗読 出エジプト記 12章1〜8,11〜14節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 11章23〜26節
福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1〜15節 旧約聖書の神は夫であり男性です。
何千年もの間、私たちを抱いてくださっています。もう何度となく抱かれています。
申命記1章
31 あなたがたはまた荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。あなたがたが、この所に来るまで、その道すがら、いつもそうであった』。 父よ、と祈るのは
人々が信じるためです。
ヨハネ11章
41 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
ヨハネ8章
50 わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるかたが別にある。そのかたは、またさばくかたである。
ヨハネ12章
28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
29 すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。
30 イエスは答えて言われた、「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。
ヨハネ12章
44 イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、
45 また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。 十字架は神のみこころです。
ヨハネ10章
17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
ヨハネ11章
49 彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った、「あなたがたは、何もわかっていないし、
50 ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」。
51 このことは彼が自分から言ったのではない。彼はこの年の大祭司であったので、預言をして、イエスが国民のために、
52 ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると、言ったのである。
53 彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した。
ヨハネ12章
31 今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。
32 そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。
33 イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。
黙示録1章
5 また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、 十字架を否定する人は、十字架の御救いと何の関係もないと告白するに等しいのです。 ペテロには本当に泣かされます。
そしてもっと泣かされます。
私はこの「手も頭も」と主に望む場面で泣きました。
だって関係ないなんていわれたくないですから。
ヨハネ13章
6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。 ヨセフ亡き後、公生涯を始めるまでの三年間はどんな暮らしだったのでしょう。
父と母を敬えとあるように、イエズスがへりくだり仕えたことは間違いないと思います。
母はイエズスの優しい気質をご存知だから、イエズスの博愛にならい、神の愛を疑うことなく最期まで生きられたでしょう。 犬猫にも個性があります。
うちのあやめ♀は、ガラスや鏡に映る私を見たがります。
かつては鏡の中に入ろうとする猫もいました。
鏡に映る自分自身を見知らぬ者と思い、吠えまくる犬。
逆に不思議そうに眺める犬。
鏡に映る自分に恋した鳥などがいます。
侮るなかれ。 http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_holyweek.php
第1日目:ユダヤ暦の週の第6日
木曜日の日没から金曜日の日没まで。最後の晩餐からイエスの死、そして墓に葬られるまでです。 教会の典礼では、聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」にはじまり、翌日午後3時ころ(正式にはこの時間に典礼が行われます)に行われる聖金曜日「主の受難」の祭儀までです。 イザヤ53章
1 だれがわれわれの聞いたことを/信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。 8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
9 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。 11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。 http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_holyweek.php
第2日目:ユダヤ暦の安息日
金曜日の日没から土曜日の日没まで。 教会は、主の墓のもとにとどまって、主の死をしのび、祭壇の飾りを除き、この日はミサもささげません。 ある日(今日です)、二人は同郷であることがわかり、話が弾む。
私は十字架のことばかり考えていた。「偶然ですよねー」上の空だった。
離れてからハッと気づく。
偶然というものはない!そこは「神のお引き合わせですね」
だろうが。
信仰がまるで身についてない。
恥ずかしかった。 GLA元会員スレに本日投稿のID:Q9UODxWfさん
591より
http://itest.5ch.net/rio2016/test/read.cgi/psy/1485339463#
キリスト賛美しておりながら理解はめちゃくちゃ。 イザヤ54章を読むといつも痛みます。やっぱり捨てられてたのだなと思い、そこに囚われて泣きます。
ここで、私は苦しみも悲しみもまだ絞りきっていないと感じます。
みじめさの現実から逃れることができません。
いっそ永遠の泣き女にでもなったほうがマシです。 いわゆる物資界もただ私たちの犯した罪のために囚われて、虚無に服しているだけのことで、本来は栄光体のように自由であると思います。
権威ある神のご命令には従うのですから。
ローマ8章
19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。 http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_holyweek.php
第2日目:ユダヤ暦の安息日
金曜日の日没から土曜日の日没まで。 教会は、主の墓のもとにとどまって、主の死をしのび、祭壇の飾りを除き、この日はミサもささげません。 どんな痛みが母を襲ったことでしょう。
反対者の憎しみが大きいほどに母の心も痛みました。
ルカ2章
34 するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――
35 そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。 聖書にも聖伝にも書いてないですが、この剣に込められた多くの人の思いは、マグダラのマリアに関することだったと私は考えています。
つまり嫉妬です。
「もう二人は永遠に引き裂かれ、幸せにはなれない。ざまみろ」
という妬みが、母の胸を刺したのだと思います。
私の霊的な体験からですが。 エンメリックの幻視によると、マグダラのマリアは半狂乱したような苦しみを見せています。
これはゲッセマネで祈っている時のイエズスが、悪魔たちに打ち叩かれ苦しむイエズスの描写と酷似しており、私にはまるで肉体のペアのように見えました。
グノーシスによる解釈から悪魔の考えを読むと、悪魔はマグダラのマリアとイエズスが愛し合っていて性的に結ばれたがっていると思い込んでいます。
このことを下品に表現したものがグノーシス文書です。
グノーシスによる解釈とは、マグダラのマリアとイエズスの霊的結合がすべての霊を開放する鍵なのです。二人は原始からの両性具有の魂であると教えています。
エンメリックは悪魔の攻撃の要所を視たのではないでしょうか。 下手な読み物の孫引きみたいな文章は、中身がわからないから支離滅裂に見えます。
信仰のない人が聖書を読むようなものです。
たしかに通訳が必要です。 神様のご計画は十字架による小羊イエズスキリストの贖いです。
この信仰がすべての人類を罪から救うのです。
しかし悪魔たちには永遠の罰が宣告されています。
彼らは十字架の御救いから人の心をそらせようとして、霊的存在である彼らと、かつて罪を犯して裁きの日のために待機している人の霊もすべて救われる仕組みがあると壮大な偽りを吹き込んでいます。
そのためにイエズスキリストよりももっと上の神々がいると思わせ、あらゆる悪の存在が根こそぎ救われると説き、善悪混濁状態から浄化される道を信じさせようとするのです。 http://www.yokohamashiloh.or.jp/reihai/message/shiloh_message130714en.htm
◆ 「何が偽り、何が真実」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:エレミヤ書 第23章16−29節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙一 第4章1−6節
・ 讃美歌:475、461
私たちが信じるのは、人間の霊や偽りの霊ではなく、神の霊です。神の霊は、神様と御子イエス・キリストより与えられ、病み、傷つき、疲れた者を立ち上がらせます。
偽りの霊は、人から出た霊は、耳心地の良い言葉を使い、一時の安心や、一時の平和を与えますが、時が経つと、人を疲れさせ、滅びに導きます。
神の霊は、神様に人を導きます。神の霊は神様に栄光が帰せられるように人を働かします。偽りの霊は、わたしたちを滅びへと導きます。しかし真理の霊は、わたしたちを罪と死の淵より救い出し、キリストに結ばれた新しい命の中を歩ませて下さいます。 教皇ツイッター
十字架につけられたキリストを見つめてください。そのキリストのうちに、永遠のいのちへと続くわたしたちの希望が芽生えるのです 五つのパンと二匹の魚をふやし、イエズスは五千人を満腹させられました。群衆がイエズスを追って来ました。
そこで、イエズスはまことのパンであられるご自身の肉と血を食べなさいと教えます。
人々はみ言葉を理解できないので弟子たちも去ってゆきました。
ヨハネ6章
51 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。
52 そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。 http://torii-bible.com/ot/jeremiah/no31/
7節の次の言葉は、翻訳の上の議論が注解者の間で存在します。
主よ、あなたがわたしを惑わし
わたしは惑わされてあなたに捕らえられました。
あなたの勝ちです。
ヘッシェルというユダヤ教の聖書の研究者は、このところを次のように訳すよう提案しています。
おお主よ、あなたはわたしを誘惑し
わたしは誘惑されました。
あなたはわたしを強姦し
わたしはあなたのなされるままになりました。
(略)
誘惑は暴力を用いない点で強姦と区別され、誘惑された女性はその関係を承諾したとみなされる。 秩序を乱さないでください。
ヨハネ15章
12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。
それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。 愛がなければ無に等しい。
コリント 1、13章の美しいパウロの言葉にある「愛」とはアガペーである神のことを指しています。
つまり主イエズスキリストのことです。
もういいかげんに偽りの自己中心はやめてください。 夜が開ける前、復活の主が聖母の前に姿を現したというけど(エンメリックの幻視)、何時頃だろう。 http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_holyweek.php
聖週間
第3日目:ユダヤ暦の週の初めの日
土曜日の日没から日曜日の日没まで。 教会は、この夜を復活徹夜祭で盛大に祝い、翌朝の復活主日のミサ、そして復活主日の晩の祈りでこの日を締めくくります。 >>961
エンメリックを読み返したら、夜中じゃなくて朝だった。
墓の石がどけられた瞬間、聖母のとこに現れた。 http://www.maroon.dti.ne.jp/gokyo/agreda/index.html#MOKUJI
尊者アグレダのマリアの記録
『神の都市』
(神の神秘的な都市)
(Mystical City of God)
http://www.maroon.dti.ne.jp/gokyo/agreda/agreda8-06.html
聖母が御逝去されたのは、八月十三日、金曜日、午後三崎で、聖母の享年は七十歳でした。救い主キリストの御死去の後、二十一年間生活されました。聖母の御死去の時、日食が起こり、何時聞か継続しました。 http://www.maroon.dti.ne.jp/gokyo/agreda/agreda8-07.html
第八書・第七章
乙女の埋葬と被昇天
これは主の御復活と同時刻、真夜中せ過ぎたばかりに起こり、墓番をしていた幾人かの使徒たちが目撃しました。天国で我らの救い主キリストの右に着座された聖母は、種々の金でできた着物を着ておられ、大変美しく、天の宮廷全員の賞賛の的になりました。 四月から私はカトリックの聖伝承と私的啓示による聖母の生涯や神の神秘について学びます。
アグレダのマリアとエンメリックには違うところもあるので、福音書のような異なる理解があるのだろうと捉えています。 『黄金伝説 1』を手に入れました。パラパラしてたら、私の体験そっくりの聖ルキア発見しました。 ヨハネには「まだ暗いうちに」と書いてあるので、主が真っ先に聖母の前に現れなさったのは夜明け前だったかもしれません。
ルカも「夜明け前に」と書いています。
1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。 はっきりしてるじゃないですか。
『黄金伝説1』p24
「おお、すべての民の王よ、来たりて、あなたが土からおつくりになった人間を救ってください神よ」ととなえ、「おお、インマヌエルよ、来たりて、わたしたちをお守りください。主なるわれらの神よ」と祈る。
われわれは、前者では「おお、すべての民の王よ」ととなえて、異邦人の救済を祈り、後者では「おお、インマヌエルよ、われらの王にして立法者よ」ととなえて、神が律法をおさずけになったユダヤ人たちの救済を願うのである。 他人事にしないで十字架から目を逸らさずにいましょう。
私たちもすすんで十字架を負いましょう。
マタイ23章
29 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、
30 『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。
http://ja.radiovaticana.va/news/2018/03/30/聖金曜日:十字架の道行き、教皇「恥と、悔い改め、希望をもってイエスを見つめよう」/1369142 『黄金伝説1』
聖アンデレはやんちゃな肉体を操縦することに難儀したそうです。
これは性欲のことではないですかね。
体が焼け焦げて死んでる人の姿を写真集で見たことがありますが、局部が勃起したまま炭のようになっていました。
男性は性欲なくてもいともたやすく勃起するらしいですから。
主も自然な肉体の持ち主でした。十字架にかかられた時はおそらく勃起していたと思います。 聖ニコラウスは純潔でした。
「われとわが肉体を苦しめ、女性との交わりを避けた」
聖ルキア(ルチア)
よく読んでみたら、彼女は婚約者を拒みその婚約者から複数人の凌辱者のもとへ連れ去られようとしたのであり、悪霊の幻惑に遭っているのではありませんでした。
聖トマスは新郎新婦にさえ肉体の純潔を求めています。二人はなんと洗礼を受けました。新婦は長い歳月の末、殉教し、新郎は司教になりました。 パウロが、不品行を避けるため結婚するようすすめたり、夫婦は互いに相手の求めを拒んではならないことを教えているのとは正反対ですね。 アダムとエバの話はモーセの作り話だとする一方で、アダムには前妻リリスともう一人の妻がいたなどと信じるのはなぜですか。
聖書は改ざんだらけで信用できないとしながら、他の文献は信用できるから聖書を改ざんして読むのですか。 尊者アグレダのマリア 『神の都市』
http://www.maroon.dti.ne.jp/gokyo/agreda/agreda1-04.html
第六日目に、神はアダムを創造しました。年齢は三十三歳で、キリストの享年と同じです。
アダムの体はキリストそっくりでした。アダムの霊魂もキリストに似ていました。
アダムからエワが創られました。エワは容姿に於て聖なる童貞に似ていました。
神はこの二人にたくさんの祝福を与えました。サタンは人祖の創造をじりじりと待っていたからです。
(略)
ルシフェルが誤解していたことを説明しましょう。アダムとエワのことを、キリストと聖母マリアであろうと勘ぐったのです。
アダムとエワの創造について無知であったように、受肉の神秘と時については何も知らなかったからです。
キリストと聖母マリアに対する自分の怒りは明瞭でしたが、御二人に征服されるであろうことは知っていても、納得できませんでした 『黄金伝説 1』
主のご受難の項によると、ピラトは兄弟と友人を殺しています。しかも最後は自害し生涯を終えたと書いてありました。
(外典的な歴史書による)
また『聖書物語』によれば、ユダヤ人から訴えられた。ピラトが不正と暴力によって幾人かの無実な人を殺したり、ユダヤ教の神殿に異教の神々の像をまつったからだという。
また賽銭箱から金を着服しその不正が明るみに出され、追放された故郷の人々から白い目で見られながら生涯を終えたと書いてありました。
ろくな余生、死に方ではなかったという共通した見方がありますね。 ピラトが追放されたところは故郷であり、そこの人々から白い目で見られた 聖アナスタシアもセックスがらみ。
まず結婚させられた相手と交わることを避けて病人のふりをする。
三人の女中は裁判官に閉じ込められたが、この裁判官が女中らとセックスしようとして小部屋に侵入する。すると気が狂い、鍋や釜に抱きついて思いを遂げたつもりになる。
二人目の裁判官は目を楽しませようとして女中たちを裸にするように命じた。(体に張り付いて脱がせない)
アナスタシアも別の裁判官から抱きつかれようとしたが、裁判官の眼が見えなくなる。
こんなのばっかり。 キリストの苦しみの足りないところってあるの?と私は長い間考えてきました。
それが性的な苦しみだろうか、どうでしょう。なんだかそう思えてきました。
コロサイ1章
24 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。 聖ステパノ
パリサイ派の高潔なガマリエルはキリスト教徒の味方でした。しかも「つねに」だったそうです。
ニコデモと共に殉教したステパノの遺体を引きとり埋葬しました。
彼の死をおいおいと声をあげて嘆き悲しんだと書いてあります。
ガマリエルはキリスト教徒を迫害せず放っておきなさいと言っていた人です。 立ち読みしていて、私も若い頃同じような体験をしたことを思い出しました。
デパートでうろうろしていたら突然ネックレスがほどけて石が床に落ちたのです。三つの石のうち一個だけが見つかりませんでした。
紐はしっかり縛られていたはずなのです。どうしていきなりほどけたのか不思議でした。
もし主がこのいたずらの犯人でしたら、あの失くした石を持っていることでしょう。 『黄金伝説3』立ち読み無料
p50 聖女マルタの項に妹のマグダラのマリアが紹介されています。
https://bookstore.yahoo.co.jp/shoshi-235401/ 全然ピンときてねェーだろ。
マタイ27章(ヘブライ語の場合)
47 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。
48 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
49 ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。
マルコ15章(アラム語の場合)
35 すると、そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「そら、エリヤを呼んでいる」。
36 ひとりの人が走って行き、海綿に酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして言った、「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」。
37 イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。
https://www.kitakobe-christ-church.com/morning_service/detail.php?id=102 (失恋の)
痛みに耐えてよく頑張った! 感動した!
最後は板トップでプレーしてくれ! 大川隆法によるイエス・キリストの証言
わたしは「エリヤ、ラファエル、迎えに来い」と言ったのです。 はっきりしてるじゃないですか。
『黄金伝説3』
聖母マリアの被昇天の項 p223
ウェスティトルという添え名をもつ聖コスマス(が聖母が亡くなられたときその場に居合わせた人びと子孫からすぶてを聞いた)によると
〈(略)つまり、あなたの息子にして天と地の創造主であるわたしのところへ召されるのです。 >>989
続き
p237
また、世の造り主を胸にお抱きになったかたが天の棲家にお住まいになるためであり、聖父によって花嫁に選ばれたかたが天の新妻の部屋にお入りになるためであり、おん子のものである生きとし生けるものがおん母にかしずくためである」ダマスケヌスは、このように書いている。
ヨハネス・ダマスケヌス(ギリシャ人)の説教集より さて問題の「いらっしゃい、わたしのお母さん」「来なさい、わたしの妻」の箇所ですが、
どうやら前者は詩篇45・11、後者は雅歌4・8だそうです。
出典は偽書で聖ヨハネ『婢史本』4世紀末から5世紀に成立。
『黄金伝説3』p204
前者
「たぐいない母上、あなたにわたしの玉座の飾りをお着せするためにまいりました。と申しますのは、王たる者は、あなたのうるわしさを喜びとするからです」
後者
「わが花嫁よ、レバノンからおいでください。レバノンの山からわたしのところに来て、冠をお受けください」
*
詩篇45:11
11 王はあなたのうるわしさを慕うであろう。彼はあなたの主であるから、彼を伏しおがめ。
雅歌4:8
8 わが花嫁よ、レバノンからわたしと一緒にきなさい、レバノンからわたしと一緒にきなさい。アマナの頂を去り、セニルおよびヘルモンの頂を去り、ししの穴、ひょうの山を去りなさい。 「わたしの妻」なんて呼びかけはどこにもありませんでした。これはマグダラのマリアが天国へ入る時と同じです。
二人とも「来なさい、わたしの花嫁」と雅歌4・8をもって呼ばれています。
史実というよりは宗教的真実のほうが強いです。黙示録の象徴的描写のように、こういう表現しかもう残されていないのでしょうね。
拍子抜けします。 『黄金伝説3』によると、聖女マルタはかつて長血を患っていた女だったそうです。そうすると、本当に福音書の出来事というのは、キリストとわずかな人間関係の物語といえるかもしれません。
妹のマグダラのマリアが天に迎え入れらる時は、マリアの魂を天使が運んでいく歌声を聴き、その様子を幻でみて「ああ、美しい」と感嘆しています。 もう1レス使うから 残りを計算して パフォーマンスしてくれ!
何億光年輝く星にも寿命があると 教えてくれたのはあなたでした
https://www.youtube.com/watch?v=67gCuTbS024
ID変わってるだろうけど≥>987です イースターから気が緩んで腑抜けになってます。
神を求める気持ちが弱くなり、また世を楽しむ方向に行きはしないかと恐れます。
悪魔が罪状書きを持って私を責めたてなくなったら、途端にこれです。
気を引き締めていきます。 すぐにでも死にたい気持ちでいっぱいだったのに、これからも生きるんだろうなとぼんやり考えて、食べること、勉強すること、働くことを生活の中に取り入れていく作業を迫られています。
神の御国と神のみ旨を第一にして求めていきます。 もう1レスつぶすぞ。実は私は2,3年前に初めて幸福スレにかきこんだとき書き込んだ時に
アンチ達から「ピッピが帰ってきたぞ」「いや、この書き方は葉っぱじゃないか?」と丸っきり的外れなことを書かれて
「やっぱアンチは阿呆だ。シンパや信者の数を2桁か3桁少なく見積もってる。模範的な信者は書き込みしないし、俺みたいな血の気が多い奴しかここにカキコしないんだから実数は数万倍いるという、ちょっと考えればわかることも気づかない。」
と思って、しばらく(1年以上)ほといたんだが、この2月に「唯物論の呪縛に捕らわれて虚無感に落ちそうな人を見つけて
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1508602106/90-n
他人ごとに思えなくて、レスするようになったんだ。”クンロク”が俺だ。参考にしてくれ。 明日は『黄金伝説A』の到着です。マグダラのマリアを読まなくちゃ。
主のご昇天、聖霊降臨も収められてます。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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