ローマカトリック教会20171102
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利権とカネを毟り取るために配る贈答品を大きな袋に入れて歩き回る小教区は残さねばならない これ食べて。これ着て。これ飲んでね。これお土産(現ナマ) 改稿 利権とカネを毟り取るために配る贈答品を大きな袋に入れて歩き回るシスターのために小教区は残さねばならない これ食べて。これ着て。これ飲んでね。これおさつ(現ナマ) 洗礼を増産すれば一時的に教会の経済は潤うが、洗礼の安売りの結果として質の低い信者が大量に発生し、教会はクオリティーと魅力を損ない、新規参入者が減り、教会の経済は苦しくなる。 洗礼の増産は教会のためにならない。洗礼の安売りは教会にとって最終的にマイナスになる。 戦後日本の教会は宣教師らが洗礼を安売りして質の低い信者を大量発生させたため、質の低い信者が多数を占める教会になり、宣教が頓挫する結果になった。 2002年(主日B年) 12月1日 待降節第1主日 イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37 「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もいない。 あなたはわたしたちから御顔を隠し、わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。」(イザ v.6) 第三イザヤのこの嘆きの言葉は、正に現代の教会の姿を描写しているかのようです。 私たちは様々なキリスト、様々な福音、様々な信仰が語られ主張される時代の中で育って来ました。 教会が使徒継承によって保持して来たものが軽んじられて、人々は自分たちが考え出した珍奇なキリスト観、珍奇な福音理解を追い求めて来ました。 まるでキリスト者と呼ばれる人々の数だけ多くの様々なキリスト教が存在するかのような有り様は、この第三イザヤの嘆きの通りの姿であるように見えます。 正しい信仰者と誤った信仰者という二つのグループに色分けするのではなくて、預言者はこれを主の民全体のありのままの姿として直視しています。 そしてこの民のために執り成しを祈っています。 「主よ、あなたはわたしたちの父です。 ・・・・・ “わたしたちの贖い主”、これは永遠の昔からのあなたの御名です。」(イザ v.16) 「しかし、主よ、あなたは我らの父。 わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。」(イザ v.7) (つづき) この民の現状のあらゆる罪深さと汚れにもかかわらず、預言者はヤーウェによるイスラエルの選びと契約に信頼するのです。 教会憲章は31(信徒の定義)の項で、「洗礼によってキリストに合体され、神の民に加えられた ・・・・ すべてのキリスト信者のことである」 と語っています。 またミサ典礼書の総則は、信者のミサへの参加について述べて、「それに対してキリスト者は、洗礼の秘跡によって権利と義務を持っている」(3) と教えています。 目に見えるあらゆる罪深さと汚れと混乱にもかかわらず、教会は実に神の国の相続人であり、来たり給うキリストを迎える民としてこの新しい一年を歩んで行きます。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 神社の鈴には、魔よけの意味と神霊を呼び寄せる意味があり、神楽舞に 使う神楽鈴も同じ意味があります。 もう一つ、参拝の時に鳴らす鈴には、参拝者を祓い清める役割も担っています。 鈴に神が宿るわけではありません。 あくまでも音に意味があり、音霊(オトダマ)ですよ。 幼児洗礼者の知的レベルの低さに驚いた。なんと、コンクラーベの仕組みも知らない。 幼児洗礼者は堅信を受ける前に入門講座並みの教育を受けた方が良い。 キリスト教は福音ではなく呪い 信じると魔境がより深まり闇は濃くなり災いが起きる 悪魔が暴れだすのである 父=子=聖霊=悪魔の四位一体が真実なのだ 幼児洗礼は即刻廃止すべきではなかろうか。 意味も分からず洗礼を受け、年数だけで内実を伴わない幼児洗礼が教会の多数派になり主導権を握ってしまっている。 昔から教会にいるだけで、宣教もしなければ、ミサ後に信仰の話しもできない幼児洗礼たちは、教会の足手まといとしか言いようがない。 自分の子供に信仰を伝えられない親は、教会にいるべきなのか? そういう親は信仰の模範にならない。 自分の子供にすら信仰を伝えられない親が教会で何をできると言うのか? 自分に信仰がないのを棚に上げて、自分の子供が教会に来ないのを教会の他の信者のせいにする親は最低。 そういう親は自分だけでなく自分の子供まで信仰から遠ざけている。 次を聴いて明るい気持ちになってください Narcis Casanoves, A Catalan Christmas Maîtrise de Radio France La Simphonie du Marais ttps://www.youtube.com/watch?v=zDJ0tHUtQ9w 1999 年に録音されました。CD には 25 曲収録されています。 試聴用ですので、各曲は短いです。他の作曲家の曲も含まれています。 Catalan: カタロニア地方の Narcis Casanoves: Spanish composer (1747-1799) Maîtrise de Radio France は Radio France の choir school です(1946 年設立) 最初は女性 (girls) のみだったそうです。Choir の規模大きくなった現在は、 男性(boys) もいるそうです。 ttp://www.maisondelaradio.fr/concerts-classiques/maitrise-de-radio-france La Simphonie du Marais ttp://www.simphonie-du-marais.org/ >>263 ヒント:乳児〜老人まで、人間の一生の神 >>263 カトリック教会だけではなく 東方正教会、東方諸教会、プロテスタントでも聖公会、ルーテル教会でも幼児洗礼を行っていますも DEI VERBUM (1965) (神の啓示に関する教義憲章) CHAPTER VI SACRED SCRIPTURE IN THE LIFE OF THE CHURCH 23. の上から第 3 行目から第 5 行目の文 Catholic exegetes then and other students of sacred theology, working diligently together and using appropriate means, should devote their energies, under the watchful care of the sacred teaching office of the Church, to an exploration and exposition of the divine writings. "under the watchful care of the sacred teaching office of the Church" 日本語訳には watchful に対応する言葉は無いと思います。フランス語訳は watchful に 対応する言葉を含んでいるかどうか、知っておられれば教えて頂けないでしょうか? watchful: 注意深い etc. the sacred teaching office of the Church: 聖なる教導職 の カトリック教会 exegetes: 解釈学者、釈義学者 ttp://www.vatican.va/archive/hist_councils/ii_vatican_council/documents/ vat-ii_const_19651118_dei-verbum_en.html >>270 続き "sous la vigilance du Magistère sacré" 監督 (Japanese) , the watchful care (English), la vigilance (French) フランス語訳の全文 ttp://www.vatican.va/archive/hist_councils/ii_vatican_council/documents/ vat-ii_const_19651118_dei-verbum_fr.html >>263 幼児洗礼は人材の多様性を生み出すという効果がある。 成人洗礼ばかりにすると、福音派のように偏った根暗ばかりが教会に集まってしまう。 >>261 知識の多寡は重要ではない。 重要なのは人格。 人格が劣ったキリストの代理者を見るとガッカリするね。 御言葉を知っておきながら、悪意に染まるのはありえない。 >>255 イエスは、全世界に行ってすべての ものに福音を伝えなさい、という宣教命令に 違反しています >>255 第二バチカン公会議の方針が カトリック教会自らの首を絞めている という事が分からないのか? 全世界ほとんどすべての国のカトリック教会 は、閉鎖に追い込まれたりして 信徒が激減しています カトリック教会の長女フランスに行くと定期的に教会に行く信徒は1%で フランス国民の50%くらいは無宗教を 自認しています スペインも1980年代は、国民の99%がカトリックだったけれど 現在は73%になっています イタリア、ベルギーも同じで アイルランドも国民の1980年代は95%がカトリックだったけれど現在は64%に信徒が減って います。 2005年(主日B年) 11月27日 待降節第1主日 イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37 私たちは今日からまた典礼暦の新しい一年を歩み始めます。 この典礼暦の冒頭のミサの朗読配分は、教会がその一年の歩み全体を理解して来た使徒的伝統を明確に表現するものであり、私たちキリスト者がその生活の土台、また方向付けとしていつも忘れてはならない大切な使信を宣言しています。 「気をつけて、目を覚ましていなさい。 その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マコ v.33) マルコ福音書がこの譬え話を、キリストの再臨を待っている教会のこととして理解したことは確かです。 なぜなら使徒時代の教会は、この譬え話が彼らの状況を生き生きと描写していると考えたからです。 その実現は、夕方から夜中に、鶏の鳴くころから明け方に延ばされていました。 しかし教会には、「いつ家の主人が帰って来るのか分からない」(マコ v.35)のであり、「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかも知れない」(マコ v.36)という警告が必要でありました。 マコ 14:38 の 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」 も、同じ終末論的な誘惑理解を念頭に収録されたものと想像されます。 (つづき) 復活して昇天されたキリストは、すべてのキリスト者にそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、その中の門番には寝ずの番を命じられました。 ここで目を覚ましていなさいとは、ですから信仰的覚醒の比喩であるのが分かります。 特定の修行や苦行のことではなくて、むしろ一人一人の健全な福音理解を、救い主キリストへの生きた信仰を指していることに注目しましょう。 一・聖・公・使徒継承の教会とは、そのような使徒的伝統が生きている教会のことであり、私たちの主イエス・キリストの日(Iコリ 1:8)に至るまでいつも、教会は待降節第一主日にそのことを覚えるのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>273 小教区でのさばっているのは、T田みたいな人格が破綻している幼児洗礼女ばっかだけどなw ---- † エペソ6章10-12節 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、 また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 ---- >>273 幼児洗礼で神学校行って断念した(させられた)奴の根性の悪さは半端ない >>275 そんなものでしょ チェコなんか60%無宗教 でもプラハのクリスマスは盛大にやるし イギリスもフランスも最後は宗教対立になるんで、キリスト教はなんだかんだ言っても最後の拠り所 それより日本がやばいな 日本のカトリックで定期的に教会行ってるのは5万人くらいじゃないのか? >>276 まだこんなにイエスを信じている奴らがいるのか 2000以上経ってもまだ再臨してないんだぞ 世界大戦やっても現れない もう第三次世界大戦引き起こしてそれでイエスが再臨しなかったらキリスト教は嘘だったと諦めろ 早く第三次世界大戦やれよ >>281 イギリスとフランスの国民の50%は 無宗教で洗礼も受けず冠婚葬祭ですら教会で 行わない人が増えていて閉鎖になっている 教会や修道院がたくさんあります。 >>266 訂正 23 曲収録 (25 -> 23) 修正 Narcis Casanoves: a Spanish composer and a Benedictine monk DEI VERBUM(神の啓示に関する教義憲章) CHAPTER V THE NEW TESTAMENT 19. の初めから第 3 行目までの文 Holy Mother Church has firmly and with absolute constancy held, and continues to hold, that the four Gospels just named, whose historical character the Church unhesitatingly asserts, faithfully hand on what Jesus Christ, while living among men, really did and taught for their eternal salvation until the day He was taken up into heaven (see Acts 1:1). 歴史に基づくものであるとためらうことなく断言する (Japanese), unhesitatingly asserts historical character (English), affirme sans hesiter l’historicite (French) 公文書に用いられている普通の言葉が理解できない等、と主張する浅はかな人間が いるようですが、上の文の「歴史に基づく」という一つの言葉を理解することですら 簡単ではない、ということがわからないのでしょうか? 英語訳 ttp://www.vatican.va/archive/hist_councils/ii_vatican_council/documents/ vat-ii_const_19651118_dei-verbum_en.html フランス語訳: 英語訳の address の最後の _en を _fr に変更 2008年(主日B年) 11月30日 待降節第一主日 イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37 教会がキリストの再臨を “待つ” ということは、信仰のない人が漫然と “未来が現在になっていく” のを受け入れることとは、異なっています。 それは 「わたしたちの主イエス・キリストとの交わり」(Iコリ v.9)の中に歩むことから切り離すことが出来ません。 私たちのミサで、入祭の歌が終わると、司祭と会衆の間であいさつの対話句が交わされます。 土屋吉正著 「ミサがわかる」(p.31)には、次のように書かれています。 “あいさつ” と言っても、“おはようございます” といったような詞ではなく、神に呼び集められて聖霊の交わりのうちに一つになっている中心に、復活された主キリストが共にいてくださることを意識させる “主は皆さんとともに” という詞になっています。」 (つづき) この独特な “交わり”(Iヨハ 1:3)の中で、「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく」(Iコリ v.7)キリストの再臨を待っていると、使徒パウロは当時の教会のことを述べました。 ミサ典礼書では、この交わりが明確に “父と子と聖霊のみ名によって” となっているのですが、私たちが体験している小教区のミサでは、そのような理解がほとんど見失われてしまっていることを、指摘しなければなりません。 すでに久しく待降節がその実質を失って、毎年11月末頃からクリスマスシーズンに入ってしまうことに、司祭も会衆も違和感を感じたりしないのが当たり前になっています。 現代のキリスト教が “キリストの再臨を待つ” という主題を見失ってしまった原因は、そのミサが 「わたしたちの主イエス・キリストとの交わり」(Iコリ v.9)ではなくなっていることにあります。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 今年も 「17〜18年典礼暦」 をアップロードしました。 http://www.kuwaei2000.com/guide.html → ●資料集● の冒頭にあります。 イエスは誕生と同時に、国王ヘロドに命を狙われて、ヨセフとマリヤの両親は、 イエスを抱いて他国のエジプトに逃れて行ったのである。難民である。 アメリカの建国者たちもメイフラワ−に乗って信仰の自由のために祖国を捨て、 やって来たのであった。 ____ /c c c\// / c c /V / ̄ ̄\ c /- | /Φ Φ\/- / | o ‥ o | -/ \__(__人__)__/ ̄ 人 >>292 でもイエス様ご一行は数年後、ユダヤに戻られたんだけど? アメリカの建国者たちはイギリスに戻ったの? 次は以前 St. Gallen さんが教えてくださった CD(3 枚組)の 1 つの曲です この CD に収録されている聖歌も凄い! Danke schön Herr St. Gallen. Time of the Templars, Disk 2 (Music of the Church), Gradualia (from 5 to 8) 7 IACTA COGITATUM , Nova Schola Gregoriana/Alberto Turco (NAXOS) ttps://www.youtube.com/watch?v=ykmtiSgDANw Iacta cogitatum tuum (Cast your thoughts on the Lord) is for the Sunday within the Octave of the Feast of the Sacred Heart. The text of this Gradual comes from Ps. 55:23, 17-19 the Feast of the Sacred Heart: イエスのみ心の祭日(聖霊降臨の主日の 19 日後, すなわち聖霊降臨後第二金曜日) the Sunday within the Octave of the Feast of the Sacred Heart:イエスのみ心の 祭日を最初として数えて 8 日以内の主日,すなわち聖霊降臨後第三主日 the Gradual: 昇階唱 Ps. 詩編 カトリック中央協議会 Catholic Bishops' Conference of Japan 2018 年度典礼暦 pdf file 2018〜26年度 移動主日・祝祭日表 pdf file 2018年度は、主日の周年はB年、週日の周年は第2年です。 ttps://www.cbcj.catholic.jp/calendar/tenrei/ サロメさんは、どうして今回来られたのかわかりませんが、 私はピッピさんに、言いたかったのではないかと感じました。 やはり精神的な疾患は、時間がたつほど取り返しが困難であり、 自分や素人の判断はやめなさいではなかったかと。 ピッピさんは、医者にこの頃行っていないし、医者の 指示にも従っていないのではないかと。 それを改めるように言われました。 ミルナさんもサロメさんも体験として知っている事を 真顔でアドバイスされた。 彼らがキリスト教でなくとも、他宗教でも、無神論者でも 考えられることであり、キリスト教信者でないとなんていうのは 勘違いでないでしょうか。 行き当たりばったりの気まぐれランチのラブ&ピースが どんなに「いい人」を演じてもカトリック信徒には適わない? 信仰の力を見せつけられた感は否めないでしょうか。 もっとも節穴ラブ&ピースには見えないものですが。苦笑。 70年ほど前にイタリアのモンティキアリでマリア様が出現されたとの話があり、 その際に「12月8日の無原罪の御宿りの祝日の正午(12時)に詩篇の51番を両手を広げて3回唱え、 その後一時間(13時まで)その他の祈りを続けたのならば頑固な罪人も改心し、かつ 神様の御旨に沿っているならばどんな祈りでも聞き入られます」と言われました。 この話が本当かうそかはわかりませんが、あさっての12月8日に時間がある方は 家族や隣人や恩人の方のために祈ってみてはいかがでしょうか? この話がたとえ嘘でも一時間損しただけで、もし本当ならば大変な利益をもたらします。 http://megalodon.jp/2011-1208-0754-36/www.dotup.org/uploda/www.dotup.org2355741.jpg http://megalodon.jp/2011-1208-0755-00/www.dotup.org/uploda/www.dotup.org2355743.jpg 詩篇51 http://www.pauline.or.jp/prayingtime/ps51.php 参考URL http://www.geocities.jp/avemaria888jp/mi05.html 2002年(主日B年) 12月8日 待降節第2主日 イザ 40:1〜11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8 聖書は過去の歴史の中で語られ記録され編集されて出来た多くの文書群から成っています。 ですからこれを歴史書や文学書の一つとして味わったり研究したりすることが可能です。 事実今日の聖書学は、そのような多くの研究の成果によって大いに助けられて、非常に豊かなものになりました。 私たちキリスト者にとってもその恩恵は計り知れないほど大きなものです。 しかし私たちは聖書を、神が教会に与えてくださった書物であると信じているのです。 それは地上のあらゆる他の書物とは区別され、神から教会に与えられた聖なる書物群、すなわち “教会の書物” と考えられて来ました。 教会は聖書を、“これに付け加えることも、何かを取り去ることも禁じられた書物” として、受け入れて来たのです(黙 22:18-19、申 4:2)。 イザヤ40章は、イスラエルの民のバビロン捕囚期の終わり頃の無名の預言者の語った預言です。 ペルシアの王キュロスがバビロンを征服して捕囚の民を解放し、故郷の地への帰還がいよいよ実現するという息づまる期待の中で、この預言は語られました。 捕囚の民の帰還はイスラエルの神ヤーウェのエルサレムへの帰還であり、ヤーウェは羊飼いとしてその民を導いて行かれます。 その帰還のために荒野に道を備えよとの呼び声を、預言者は天から聞いたのでした。 神はこの預言者の言葉を、そのような目的のために用いられたのでした。 (つづき) しかしこの預言者の言葉は、その時代の一つの記録に止まることなく、神はこれを再び、洗礼者ヨハネとその後に来る主イエス・キリストを指し示すために用いられます。 聖書が “教会の書物” であるとはそういうことです。 そして福音書に記録された洗礼者ヨハネの証しは、今再び神によって、キリストの再臨と神の国待望を教会に向かって語る “神のことば” として用いられて、待降節第2主日のミサに集まる私たちに語りかけているのです。 「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。 彼は力を帯びて来られ ・・・・・ 」(イザ vv.9-10) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「聖書は聖霊によって書かれた」 と言ったら 「お前、頭は大丈夫か?」 と言われます。 聖書は 「バイブル」 と言い 「書物」 と言う意味です。聖書は人によって書かれました。 福音書は4つもあります。聖霊が4人もいたら大変な神学的ミスマッチになります。 キリスト教は福音ではなく呪いだ 魔境は深まり闇は濃くなり災いがおき悪魔が暴れだす 父=子=聖霊の三位一体ではなく父=子=聖霊=悪魔の四位一体が真実だ エルサレムがイスラエルの首都なのは当然である。 数千年も前からユダヤ人の首都なのだから。 聖書が証言している。 キリスト教徒は神に選ばれた民ユダヤ人に敬意を払うべき。 主キリストもユダヤ人であり、旧約聖書があったからこそ新約もあるのである。 キリスト教徒が教会に通う時代は終わった インターネットがあれば教会がなくても信仰生活が可能な時代になった 交わりの観点では教会よりもインターネットのほうが豊かな交わりがある >>308 俺は聖書で神と訳されているエロヒムを邪神としエロヒムの子は邪神の子と認識している YHWHはエロヒムとゆー邪神の中の一匹にすぎずユダヤ人は邪神の選民である ユダヤ人とは関わるべきではない ユダヤ系宗教に洗脳されてはならない 第三者としてみればユダヤフリーメイソン、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の教えや実際やってきたことは悪魔だ それでも神と主張するなら邪神と呼ばざるをえない 教会に行く時代は終わった ネットがあれば信仰できる時代になった ネット上の聖体賛美式と リアル聖体賛美式に差はあるのか ネットが架空なら 信仰も架空 ネットも現実なら 信仰も現実 >>309 ローマはネット上のミサを認めてないけどね。 当然だが秘跡は無効だ。 おまえプロテスタントか?w 70年ほど前にイタリアのモンティキアリでマリア様が出現されたとの話があり、 その際に「12月8日の無原罪の御宿りの祝日の正午(12時)に詩篇の51番を両手を広げて3回唱え、 その後一時間(13時まで)その他の祈りを続けたのならば頑固な罪人も改心し、かつ 神様の御旨に沿っているならばどんな祈りでも聞き入られます」と言われました。 この話が本当かうそかはわかりませんが、明日の12月8日に時間がある方は 家族や隣人や恩人の方のために祈ってみてはいかがでしょうか? この話がたとえ嘘でも一時間損しただけで、もし本当ならば大変な利益をもたらします。 http://megalodon.jp/2011-1208-0754-36/www.dotup.org/uploda/www.dotup.org2355741.jpg http://megalodon.jp/2011-1208-0755-00/www.dotup.org/uploda/www.dotup.org2355743.jpg 詩篇51 http://www.pauline.or.jp/prayingtime/ps51.php 参考URL http://www.geocities.jp/avemaria888jp/mi05.html 香山リカのツイッターを見たんだが、あいつ反ユダヤだな。 在日だヘイトだ、なんて言っておきながら、偽善者なんてその程度w 反イスラム、親ユダヤはキリスト教徒の総意だよ。 神キリストがユダヤ人だったのにエルサレムを反対する道理があるのか? そもそも、香山リカは未信者なのにカトリック教会に入り込んで活動している。 ヤツはプロテスタントですらない未信者。 カトリック教会ローマではなく エルサレムに総本山を置くべきだと 思うよ そうすれば、プロテスタント、聖公会、東方正教会、東方諸教会(アルメニア教会、コプト教会、エチオピア教会、シリア・ヤコブ教会、ネストリウス)などの分派はカトリック教会に 戻ってきます。 >>315 ミサって子供騙しの紙芝居のことか?w それとも、 日曜日に老人集める紙芝居のことか?w ホスチアで餌付けする実験のことか?w >>319 ホスチアで餌付けする儀式 これを食べる人は天国に行けます。 それ以外の人は、永遠の火に投げ入れられます。 /: : : : : : : : : : : : : : : . : : : :< , ' : : : : : : : : : : : : /: : :i: : : : : :、 : : :、: : : : : \ . /: : : : : : : : : : : : : /: : : ハ: ヽ: : i ヽ : :|: i : ヽ: ヽ /: : : : : : : : : i: : :/: : \/、 }: :ハ: :ト,:/:,_:| : |: : : :Vハ . /: : : :∧: : ∧ |: :/「/!: :/ |: !|:| iハ:「!: :|: : :i: :!: } /: : : : : ヘ V /: :|: :lレ.ァ⌒´ レ' !: i ⌒ヽ!: :|: : :|:|:i . /: : : : : : : :〉 〈 : : V/ _ .レ' _ .V.} : /!: W イエスキリストの生肉はありがたいお /: : : : : : : :/∧ヘ: :ヘ:V =≠ミ =≠ミ }}!: / レ' ノイ: : : : : : : V: : V : : ヘ! xxxx xxx .ノィヘ !: : /!/!: : : : : : : 、: :\. .i: : \ レ'. |: : :,、: : :`ーミ =ゝ..,.へ.、___゚,/`ヽイ. :.イ : : : 、ヽ !/ i: ト; : :、:ト .、/ ⌒ヽ;;;;;(__ノ,.ヘ V i、: : :!ヽ! ヽ! リ V::i×´!- ⌒ソ;;;:;:;;;ゝー 、 V \| ,,..........,,V:::::ヘ. く;.:.;.:;;.:;.:.フ> j パクッ!! /:::::`ヽ::::::`ヽ::\ 厂仄「V /:i:ヽ i::::::::::::::`ヽ::::::::::::::Y\{ }八 〉!:::::! 教皇様が司教協議会によるミサの自由な創作を認めたそうですね 苦節40年、ようやく日本典礼の承認も近そうです このまま自治権の拡大闘争を進めれば独立自治(sui iuris)の教会にもなれるかも >>308 最終戦争はユダヤに付いたほうがいい。 日本はユダヤに味方して戦勝国になりな。 最終戦争ではユダヤ国家はなくなることになってるんだが 2005年(主日B年) 12月4日 待降節第2主日 イザ 40:1〜11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8 「私よりも優れた方が、後から来られる。 私は、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない。 私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マコ vv.7-8) 神の子イエス・キリストの福音は、完成を目指している福音であります。 キリスト教の現在があるように、その宣べ伝えている福音は神の国における完成を目指しており、従って地上の教会は “天の栄光において初めて完成を見る”(教会憲章 48)ことを思いましょう。 待降節は、教会の終末的性格を信者が思い起こすためという教育的な目的を持った期節です。 初めがあればその完成としての終わりがあるように、教会の地上の歴史は神の国におけるその完成を目指すものなのですから。 後から来られる救い主を抜きにしては、洗礼者ヨハネの活動が意味を持ち得なかったように、現代の教会の歩みのどの一つをとっても、それが神の約束への待望と関わっていなければ、キリストの福音とは何の関係もないことになります。 実に神の民である教会は救済史の中に存在しているのであって、旧約聖書のイスラエルの歴史とも切り離すことが出来ず、また新約聖書が語る “秘められた計画”(エフェ 1:9, 3:3、ロマ 16:25)を抜きにしては意味を持ち得ないのです。 待降節第2主日は、来たり給う再臨のキリストを指し示す時代のしるしを私たちが見るように導きます。 私たちキリスト者の生活と働きのすべてはその日のためにあるのですから。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 上野教会の方にお聞きしたいんですが。 晴佐久神父さまは、日曜日のミサで赦しの秘跡を授けてくださいますか? お忙しいから、断られますか? 浜口 吉隆(神父),「現代世界憲章」の人権教説 -- 聖書神学の背景を探る, 南山神学 Nanzan Journal of Theological Studies, 第34号(2011年3月), 37-62 ttp://www.ic.nanzan-u.ac.jp/JINBUN/Christ/NJTS/034-Hamaguchi.pdf >>325 『老クリスチャンの長文コピペについて』 (1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。 (2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。 (3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。 そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。 (4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。 (5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。 (6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。 (7)まったく読む必要はない。 (8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。 (9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。 (10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。 (11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。 (12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。 (13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。 (14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。 (15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。 (16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。 (17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。 (18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。 (19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと 老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。 (20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。 【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ >>327 上野教会って、電話しても誰もでないんですよね。 岡田 武夫 カトリック東京大司教区大司教 第2バチカン公会議から50年 前編 「信仰年」を前に、 後編 「福音宣教推進全国会議」そして「信仰年」 Laudate 女子パウロ会 ttp://www.pauline.or.jp/concilium_vaticanum_secundum/cv2_04.php 岡田司教様は、1963年(第二バチカン公会議開催中の年)の降誕祭のミサの時に、 プロテスタントの信徒からカトリック信徒に変わられたそうです。この転会 (当時は改宗)の動機についても述べておられます。前編と後編があります。 枢機卿になれなかったアカ司教の岡田だm9(^Д^)プギャー 岡田は反社会的極左勢力とつるんでいから枢機卿になれなかったんだ。 極左活動を繰り返している岡田の悪評が教皇聖下にも伝わっているから 敢えて枢機卿に任命しなかったのだ。 バチカン市国も馬鹿じゃないからな。 おい、岡田! なにが「警備会社に警備員の派遣を依頼しました。」などと、しれっと書いとんじゃwwwwww http://tokyo.catholic.jp/info/news/15587/ 集団的自衛権に反対しているくせに、外部の警備会社に警備を依頼すんじゃねーよwwwwww 信徒のボランティアで何とかすべきだろうが!! 己にもできないことを国に求めるんじゃねーよ!! 「隗より始めよ」という言葉を知らんのか? まあ、お前の西洋かぶれの頭には無かったんだろうが、それとなく指摘する信徒もいなかったのかよwwwwww そういう能無しだから枢機卿になれなかったんだろうがwwww 2008年(主日B年) 12月7日 待降節第2主日 イザ 40:1-5,9-11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8 「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」(マコ v.6) 私たちは、イエスの誕生にまつわる昔話を聞いているのでしょうか。 これまで多くの人々が、教導職も会衆も、この期節の説教をそのように理解して来たように思われます。 しかし、“典礼暦” と “主日のミサの朗読配分” は、“ことばの典礼” を通して 「神のことばの食卓の富を豊かに与える」(典礼憲章 51)ことを目指しているのです。 ですから私たちは今、神が現代の教会に語っておられる待降節のメッセージを聞こうではありませんか。 ヨハネは、王下 1:8 に描かれているエリヤの姿をして現れました。 かつて預言者エリヤは、「イスラエルの神、主は生きておられる」 という言葉によって、突如、神の歴史への介入を告げました(王上 17:1)。 そのように、ヨハネは “後から来られる方”(マコ v.7)を指し示して、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。 教会は今年もこのヨハネの指し示す “後から来られる方” に目を向けます。 「神の子イエス・キリストの福音」(マコ v.1)は、このヨハネの宣教に私たちが耳を傾けることから始まります。 そのようにして教会は、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向けるのです(典礼暦年と典礼暦に関する一般原則 39)。 (つづき) クリスマスは古くから “マス( = ミサ)” としてではなくて “お祭り(festival)” として、一般に祝われて来たというのが事実であるように思えます。 しかし、教会が聖伝と聖書によって受け継いで来た “福音の終末的使信(メッセージ)” に、この聖書の学びのサイトを訪れる少数の限られた来訪者には、どうか耳を開いていただきたい。 それが 「神の子イエス・キリストの福音」(マコ v.1)を聞くということだからです。 昔の伝統的な朗読配分では、待降節第1主日に マタ 21:1-9 が朗読されていたように、いつの時代にも教会は “やがて再びおいでになる主キリストを、歓呼して迎える共同体” だからです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>331 あいつが叙階した司祭にも、ロクな奴がいなかったぞw 完徳を否定する奴とか、御言葉は比喩であり霊的な存在や奇跡など無いと否定する奴とか。 姦淫して辞めたクズも岡田司教の叙階だったっけ? >>308 毎年、数十万部レベルで減る朝日新聞w 朝日新聞によれば、安倍総理や日本政府がエルサレムについて沈黙しているのはいけないことらしい。 各国が非難しているから日本も非難しなくてはいけないとか、どんな幼稚な論理だよ。 まるで、イジメられないように立ち回る子供の論理だな。 日本は地理的に遠いし、宗教的にも無知なので、語る資格が無いから沈黙しているだけだよ。 そもそも、世界各国の態度など正当性とは関係ない。 世界が言うから周りに合わせて言うなど、典型的で日和見的な日本人だよな。 朝日新聞には芯が無い。 >>330 今日浅草と本所で晴佐久さん告解やってんじゃない 普段は上野じゃなくて浅草のほうにいるんじゃないの? 大衆というものは、宗教的指導者や政治家に操られて自らの見解を持ちます。 ●●●キリスト教の指導者の原爆に対する見解は次の通りです。●●●● 永井隆 (医学博士) カトリック教徒でもあった永井は、原爆投下を「神の御摂理」と解釈し、さらに、原爆死没者を 「汚れなき小羊の燔祭(ホロコースト)」、生き残った被爆者は「神が与えた試練であり、神に感謝」 すべきと説いていた。(これは、まさに奴隷道徳でありキリスト教的欺瞞です) ●●●隣人愛としての原爆投下●●●● プロテスタントの牧師キュンネト(Künneth)も、原子爆弾は隣人愛の為に使えると主張しました。 それはあの広島・長崎原爆投下の十三年後の事でした。 イエズス会士のグンドラハ(G. Gundlach: Die Lehre Pius Xll zum atomaren Krieg, 1959) が法王ピウス12世の原爆戦争についての意見をまとめ、出版された書籍は「原爆戦争そのものは 不道徳的ではありません。。。。どうせこの世は永遠には続き ません。。。我々人間は世の終わりには責任はない。。。 神の摂理でそういう結果に導かれてしまいました。」等々カトリック教の悪徳とも言うべき内容です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 因みに、ラッセルもキリスト教の邪悪さを痛烈批判している学者です。 ラッセルの考えによると、中世以降、現代においても人々の生活の規範として残っているキリスト教とは、 教会や信者自身が主張するような社会的、思想的、道 徳的な役割も果たすものではなく、むしろ「恐怖」 と「無知」によって人間を縛り付け、多くの人々の運命を残酷な方向へと向かわせたものであり、社会と人間 の発展にとって害悪でしかないものであるという。 キリスト教に限らずユダヤ系宗教は霊的物理的にも邪悪だよな この世の悪だわ なんで外人はあんなの信じるんだ? ---- † エペソ6章10-12節 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、 また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 ---- >>340 糞を侮るなかれ! 国立民族学博物館 National Museum of Ethnology 牛糞燃料 (インド) ttp://www.minpaku.ac.jp/museum/showcase/media/tabiiroiro/chikyujin185 京都市動物園 Kyoto city zoo ゾウの糞の肥料つくってます! ttp://www5.city.kyoto.jp/zoo/crew/crew-blog/other/20160331-18727.html 後藤晃 イランの乾燥・半乾燥地帯における伝統農具と生活用具 国際常民文化研究叢書9—民具の名称に関する基礎的研究— 2015年3月刊行 ttp://icfcs.kanagawa-u.ac.jp/publication/report_03_09.html p. 366 2)パン焼き用具〈サージ、タヌール〉 燃料 さっきamazonで「秋田の聖母マリア」の単行本注文しちゃったもんね。 その出版社は、もう潰れて、なかなかこの本は、入手できなくなると思うよ。 7300円もしたんだぞ。 買うなら今だよ、早い者勝ちだよ。 邪視眼=悪魔の眼 キリスト教圏では邪視眼の目撃例が多い 俺も邪視眼を見たことがある この世には本当に悪魔がいる 2002年(主日B年) 12月15日 待降節第3主日 イザ 61:1-2a,10-11 Iテサ 5:16〜24 ヨハ 1:6〜28 「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」(ヨハ v.26) 毎年、待降節も第3主日を迎える頃になると、教会でも町でもすっかりクリスマスの雰囲気になって、お祭り気分が人々の心に広がります。 クリスマスが御子イエスのかつての誕生を祝う祭りであることを多くの人々は知っていますが、それに引きかえ、教会が伝統的に表明し続けてきた待降節の意味とメッセージを理解している人は、あまり多くありません。 教会はその歴史を通じて今日に至るまで、この待降節に、「あなたがたの知らない方」 としての再臨のキリストを覚えることを教えて来ました。 教会は 「やがて来られる方」(黙 1:4)である 「あなたがたの(未だ)知らない」 キリストを待望している民なのだということを、私たちは決して見失ってはなりません。 典礼暦年と典礼暦に関する一般原則(39)には次のように述べられています。 「待降節は二重の特質をもつ。 それは先ず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。 この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。」 ヨハネ福音書は洗礼者ヨハネのことを次のように解説しました。 「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」(ヨハ v.8) そして、洗礼者ヨハネが活動を開始したという事実が、既に人々の間に 「やがて来られる方」 が目に見えない形で現存しておられることを証ししていると語ったのでした(ヨハ vv.19以下)。 (つづき) 私たちの教会の “典礼におけるキリストの現存” は、ですから再臨のキリストを指し示すものです。 「かつて十字架上で自身をささげた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として司祭のうちに現存するとともに、 また特に、聖体の両形態のもとに現存している」(典礼憲章 7)と述べられている方は、教会が待ち望んでいる 「やがて来られる方」 と同一の方であることを、教会は待降節を迎えるごとに覚えるのです。 神はいつの時代にも、御自分の民に福音(神からのよい知らせ)を伝える者を遣わしてくださいます。 そして福音とは聖書では常に、“将来の救いの日の到来” を知らせるものであります。 「主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して ・・・・・ 」(イザ v.2) そしてこの告知は、将来の救いを先取りして喜ぶことと一つに結びついています。 「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。」(イザ v.10) カトリック教会は、キリストの福音を “解釈する権威” をいわゆる教導職に限定することによって、“使徒たちから伝えられた(伝統的な)” 福音を人間の無能による歪曲や気まぐれな解釈から守ろうとして来ました。 ミサにおける説教が司祭または助祭に保留されている(教会法)という事実の重みを、私たちは正当に評価しなければなりません。 現状においては多くの司祭たちの実態が、余りにも未熟でその期待に応えるに足りないとしても ・・・・・ 。 願わくは、全世界の諸教会で司牧の任に当たっている現代の司祭たちに、一・聖・公・使徒継承の教会に伝えられた “正統的な” 福音を、会衆に向かって宣教するに足る成長が、神から与えられますように。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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