ローマカトリック教会20171102
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教会へ来た人にお金を差し上げましょう。行列ができますよ。 >>1 スレ立て感謝 人 Deo gratias,tibi gratias. 聖霊来たり給え、ー本スレ住人たるー信者の心に充ち給え。▲主の愛熱の火をわれらに燃えしめ給え。 主よ、聖霊を遣わし給え、しかしてよろずの物は造られん。▲地の面は新たにならん。 祈願 聖霊の光をもってー本スレ住人たるー信者の心を照らし給いし天主、同じく聖霊をもってわれらに 正しきことを悟らしめ、その御慰めによりて常に喜ぶを得しめ給え。我らの主キリストによりて願い奉る。▲アーメン。 原罪なくして宿り給いし聖マリア、▲御身に依頼み奉るわれらのために祈り給え。 ♪↓ ttps://www.youtube.com/watch?v=fnfv1LUMaBA >>4 それはない 多国籍が日本人を排斥してる 国際化の名目で日本人が差別されてる 外国人司祭に振り回され 多国籍信者に荒らされ それでも日本人は奉仕しろと言われ 老クリがスレを荒らしまくるから 立てない方が良かったのに! 神様の御旨を行う、神に属する日本人のための教会を設立したい。 と、私も思います。 でも、どこかで、「神様は、別の教会の立ち上げを望まない」みたいな文章を 見掛けたことがあります。 今の日本の司教団は、信用して良いのかわかりません。 ですから、日本の司教団の支配を受けない、神様の御旨に忠実な信徒の集まる教会があれば…。 と考えてはいるのですが、そういった教会を設立することが、神様の御心にかなわないことだ、 というのが、先の文章の意味なのです…。 これは、「真のキリスト者には、耐え忍ぶことが求められている」ということなのでしょうか…? ローマ・カトリック直属の教会を日本に設立することも、 神様の御心にかなわないことなのでしょうか…? 日本人のための教会を設立するとアホの左翼の教会になってしまいます。 右翼は神社にでもいけよ 教会が誰にでも開かれてると思って甘えるな Thank you for building this thread ! >>6 Schola Gregoriana Mediolanesis の CD, Messe " in canto gregoriano" -Antifone の最後の曲は、 DIES IRAE - I modo です。 G. Vianini 氏の、伝承されてきた聖歌を伝承していこうという、強い意志を感じます。 Sequenza Missa pro Defunctis: DIES IRAE, Schola gregoriana Mediolanensis, Giovanni Vianini ttps://www.youtube.com/watch?v=aReIFdkvC8A >>14 日本のカトリック教会はローマがなくても 司教団がなくても運営できます 人定法にこだわらなければ 信徒が司祭を叙階する方法もあります >>14 ただでさえ少ない日本のキリスト教徒を、さらに分裂させたいのか。 分派、分裂は御心が望んでいない。 そもそも、日本教区など存在しない。(受け売りだが) 日本の16教区はローマの直轄である。 不満な点があるのなら、対抗宗教改革の聖人様と義人たちに倣って 教会を内側から改善すればいいではないか。 【聖書神学とカトリック教会の教え@】 私が2000年から2014年までの15年間にわたって、主日のミサの朗読配分にしたがって毎週WebSiteに掲載してきた 「聖書の学び」 が、 現在でも神のことばに耳を傾けようと願う信仰者たちによって毎週熱心に閲覧され、福音の証しとして主によって用いられ続けていることを感謝したいと思います。 しかし残念ながらカトリック教会の信者の方々(司祭にせよ信徒にせよ)の中には、啓示憲章に 「聖書の研究は神学の魂のようなものであるはずである」(24) と述べられていることを正しく理解していない人、 あるいは見落としている人がかなり多いように見受けられますので、多少の解説と弁明を書くことが有益だと考えました。 【聖書神学とカトリック教会の教えA】 新約聖書がキリスト教の正典として成立して以来、教会で長く用いられた聖書解釈の方法は、オリゲネス以来のアレゴリーによる 「霊的解釈」 でありました。 この解釈の主な原動力は教会の教義であって、しばしばその教義に合わせようとしてこじつけに陥り、聖書本文の字義的解釈が無視される傾向を持っていました。 このような解釈方法から離れ、教義から独立した近代の歴史的批評的聖書解釈が大方の承認を得るようになったのは、ようやく19世紀以後のことであります。 20世紀にはそのような新しい聖書神学が、キリスト教界の多くの教養人たちを覚醒させました。 カトリック教会も第二バチカン公会議の公文書において、積極的にこのような新しい聖書理解を取り込みました。 特に 「神の啓示に関する教義憲章」 にはその成果が反映されています。 >>21-22 老クリスチャン 降臨 ___,ィ、-‐;/´ヽ、 °,、 o o ,r'`ヽュ'´__/ `^' }^'´ λュ ,ィ´)ュ ┏┓ ┏━━┓ // /::::}/ : : :/ .::: j:: ∧::\,,r‐vヘ 辷,} ┏┛┗┓┃┏┓┃ 〈::::j/ /::::/ : :.:/| /|::. ,/i::: j ハ::::/ ∧ }-‐' ┏┓┏┓ ┗┓┏┛┃┗┛┃┏━━━━.∨ ,/:::;/ ;/ /:.:;/ | / |:: / }::/:: : }' ∨ ┃┃┃┃ ┏┛┗┓┃┏┓┃┃ / ;  ̄{ { /;/`jメ、, |;//|/}::. /i: j /━━━━┓┃┃┃┃ ┗┓┏┛┗┛┃┃┗━━━━j/| : : :ヽ|V|' ,二ニ= -=ニ、/:|:: /::j;イ / ┃┃┃┃┃ ┃┃ ┃┃ r'`Y´} j : : :(_| ::{、 ,--┐ j:::j;/:::::ト;| /━━━━━┛┗┛┗┛ ┗┛ ┗┛ 〈__`メ" ,}ュ、 /:;/j;/_| :|>‐-V__,ノ-‐'l´ :::jリ\:{: ./ ┏┓┏┓ |ト_,/ λ'" ,/´ ヽト.| |\,,/ | j,/´ , `,/ ┗┛┗┛ `ヽ、 }-‐'´ヽ ,} \/ヽ,∧、j\,/i/-‐'´ ○____ || | || 老 栗. ! || | || ̄ ̄ ̄ ̄ / ¨>.|| 今ここに .厶/ww|| 侵略の旗を ノリ ^ヮ^ || 立てるでゲソ ヽ つ0 ,、 、、 ; 、、、、 , ,、 ,、 ヽ 〜ヽノ , 、 `〜ヽ ,〜 ' 、、、、 、 _人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人_ > < > 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!!< > <  ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄ 新たな牧場ができた? 老マムシはいち早く察知して、 遠目にイエス様を見つけて駆け寄ってくるように? 寄ってきて、飼い葉桶に横たわった これが心象風景 >>17 有難いことですね 人 >>21-22 牧師先生の私的HP自慢はそれとして、本スレを始めとするカトリック各スレとは、なんの関係もございません! それよりなにより、まーた懲りもせず、第二ヴァチカン公会議公文書の極一部を、文脈無視で曲解なさるとは! 平信徒と思ってバカになさってるの?先生お盛んに「機会が与えられているのだから、熱意を持て」との仰り様ですよねw ことほど左様に、心ある方はみなさん、司教団の規範版対訳はじめ、公文書全集をお持ちのうえ、 既に有資格者より、正統な教育を受けてらっしゃいます。貴殿に誑かされる隙など、毫もないと知るべきでしょうww 連投御免 CONSTITUTIO DOGMATICA DE DIVINA REVELATIONE < DEI VERBUM > CaputY DE SACRA SCRIPTURA IN VITA ECCLESIAE §「神たるロゴス(仕手)」の啓示たる教義の憲章 ー第六章 活ける教会たる聖なる書 24.―Sacrae autem Scripturae verbum Dei continent et, quia inspiratae,vere verbum Dei sunt; (前略)聖書は神たる仕手(ロゴス)に仕え著され、神の霊璽に因りし故、まヽこヽとヽの神、仕手(ロゴス)そのものたること。 ideoque Sacrae Paginae studium sit veluti anima Sacrae Theologiae (37).― 而してその聖なる項を繙くは、聖なる神学の魂(スンマ)を以って行われねばならぬ。(37) (以下略) (37) Cf. LEO XIII, Litt. Encycl. Providentissimus Deus: EB 114; BENEDICTUS XV, Litt. Encycl.Spiritus Paraclitus, 15 sept.1920: EB 483. (37) レオ十三世、回勅「神の御摂理」: EB 114 及び ベネディクトゥス十五世、回勅「慰め主たる聖霊」EB 483 参照のこと 要するに、先の教皇聖下御二人の回勅からの引用であって、仕手たるロゴス・キリストは、 時空を超え、曰い給うコトがそのまま現成されるまヽこヽとヽなのだから、 それを生半可に繙くのはまかりならぬ!!聖なるアクィノのトマが正統な教義と教導の下、 神学大全を著し、説き給うた如く、己が我を砕き、厳粛に為されねばいかん!と、至極当たり前のことを命じているのです。 勝手に霊的解釈とか、字義的解釈とか、薄っぺらに切り刻んで分析する対象や境涯ではないんですよ! ttps://www.youtube.com/watch?v=8SNsYkEve3I ttps://www.youtube.com/watch?v=3EvH1pvXq74 老クリさんは自分のわがままを押し通すために 神様を利用していると思いますよ。何をお祈りしているのか自問して みてください。 【聖書神学とカトリック教会の教えB】 聖書の近代的批評的研究の萌芽は17世紀に遡ります。 当時、初期の研究者の多くは教会から迫害を受けました。 ような中にカトリック司祭では、シモン(彼の論文は刊行後ほとんど破棄された)やゲッディス(論文発表後に教導権を停止された)の名を挙げることが出来ます。 ほぼ一世紀の後、ドイツの神学者ガアブラーの1787年の教授就任講演が、ついにこれまで教会教義学の婢であった聖書神学に独立宣言を促したというのが、今日通説になっています。 このように聖書神学は若い神学であって、(不思議に思われるかもしれませんが)未だ教会の現場にはほとんど浸透してきていないというのが実情です。 プロテスタントでもカトリックでも、信徒だけではなくて教導職にある人々(司祭や牧師)も聖書神学に関しては素人ばかりなのです! 【聖書神学とカトリック教会の教えC】 神の啓示に関する教義憲章は、その序文で次のように述べます。 「 ・ ・ ・ したがって、トリエント公会議と第一バチカン公会議の足跡を踏まえながらここに提示しようとするのは、神の啓示とその伝達についての正真の教えである。 それは、全世界が救いの知らせを聞いて信じ、信じて希望し、希望して愛するようになるためである。」 そして第一章で、啓示そのものについて説明をしています。 「ところで、神と人間の救いについての深い真理がわれわれに明らかになるのは、この啓示によってであり、キリストにおいてなのである。 キリストは、すべての啓示の仲介者であると同時に充満だからである。」 そして、「それゆえ、肉となったみことばであり、“人々に” 遣わされた “人” であるイエス・キリストは、“神のことばを語り”(ヨハ3:34)、 父からなすようにとゆだねられた救いのわざを成し遂げる(ヨハ5:36,17:4 参照)」 と述べて、“キリスト = 啓示(の完成)” という理解を明確にしているのです。 >>29 >プロテスタントでもカトリックでも、信徒だけではなくて教導職にある人々(司祭や牧師)も >聖書神学に関しては素人ばかりなのです! 自分の(老クリさんの)メガネには適わないのです! 私が神となって裁くのです! 877神も仏も名無しさん2017/10/28(土) 13:40:33.53ID:jbiiLklc 城の門は固く閉ざされていた。 そして、その外側で今日も老クリが内側に向かって叫んでいた。 「私が正しいのです!門を開けてください!」 その声を聞いた城の住人が高窓に現れたが、すぐに去って行った。 「この経札(きょうふだ)だけではないのです!背中にも入っているのです!」 自分の額に結びつけた箱と背中のリュックの中に膨大な経札(きょうふだ)を 入れていたのだった。 その時、門の10センチ四方のノゾキ穴がおもむろに開いて、中から誰かが 覗いた。老クリと目が合った。 「開けてくれるのですか?」 「・・・」 長い沈黙が続いた。 「だめです。」 「どうしてですか?!」 「経札(きょうふだ)を全部捨ててきてください」 ノゾキ窓はぴしゃりと音を立てて閉ざされた。 老クリは地面に倒れて泣いた。泣きながら歯ぎしりしていた。 >>31-32 あなたは、何が気に入らないで、 老クリさんにそのような事を言っているのですか。 あなたは、自分の考えを書いてみたらどうでしょう。 >>33 あなたにはわからないのですよ。見えていないのです。 老クリさんがどうして、人の口の中に自分のだ液まみれの食べ物を押し込むのかを。 >>29-30 >>21-22 キタ━━━━・キタ━━━━・(*゚∀゚)っ゚∀゚)っ゚∀゚)っ━・キタ━━━━・キタ━━━━・!!! 老栗ちゃちゃちゃ♪ 老栗ちゃちゃちゃ♪ ∧_,,∧ 老栗ちゃちゃちゃ♪ 、-‐'''""''''\ /\. (`・ω・´) /ヽ \ 老 \ | 老 ⊂ ⊃ 老 | r--─‐i \-‐'''""'''' ヽ/@/ く \ / r─--‐i | 老 | \ ∧_,,∧ ∧_,,∧(ノ⌒ヽ)∧_,,∧ | 老 | ∧_,,∧ |--─‐'' ○○・ω・´) (`・ω・´)∩ ∩(`・ω・´) ''─--‐| (`・ω・´)∩ ヽヽ` ヽ'´) ⊂ r ' '-、 つ ⊂ / @〉 ,.- '´ @ノ / ヽ '、@ r‐' /@ 〈_ノ´..................(ノ⌒し'......................'、_l⌒'、)................`""ヽ_ノ >>34 あなたが、気持ち悪く、それをしているのではありませんか。 >>36 いいえ。すり替えないでください。 老クリさんが、事実、気持ち悪いほどの頑固さをもってコピペを続けています。 ---- † エペソ6章10-12節 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、 また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 ---- >>37 老クリさんは、ここで全文貼れば長くなりすぎるので、 ご自分の場所で自分で書いたものを、一部紹介と全文を書いた先を 貼っておられるのです。 それの何をどうすり替えているのか、言って下さい。 あなたは気持ち悪い事に熱中しないで、まともなご意見をされたら どうですか。 カトリック関連スレッドのいくつかが、老クリさんの長文コピペによって 容量オーバーとなってdat行きとなりました。 老クリさんの長文コピペを読みたい人がいるのであれば、 だれかが新たな次スレをすぐに立てるでしょう。 ここもどのくらいの期間でしょうかね。半月〜1月くらい間を開けて立てられました。 そうすると、また老クリさんがコピペに現れる。皆さんうんざりしていますよ。 暇人さんというハンドルネームの方が野菜関連とギリシア語訳の聖書は別の スレッドを立てていますが、これが良識というものです。 >>39 暇人さんのように別スレッドを立てるべきですね。 「プロテスタント牧師であった歪んだ信仰」をカトリック信徒の 口の中に押し込んでいるのではないのか?という謙虚さや謙遜が 老クリさんにはまったく見受けられないのです。 >>41 訂正 ×「プロテスタント牧師であった歪んだ信仰」 ○「プロテスタント牧師時代に育んだ歪んだ信仰」 >>39 プリティさん、あなたもそうですよ。 GLA(ゴリラの省略でしょうか)の人かもしれないと目されていますね。 カトリック信徒なら「わかること」「見えること」があるのかもしれません。 上の方の他の信徒の方々の投稿を読んでいますか? 老クリさんを弁護し、カトリック関連スレッドを荒らすことを後押ししているのは GLA(ゴリラ?)ではないかと目されるプリティさんや他プロテスタントの 信者ばかりではないですか。 >>40-44 名無しでくだらない事ばかり書いて、容量オーバーは あなたです。 GLAですって、まともな意見が言えなくなるとそれですよね、 あなたがたは。 そんな、捏造いいがかりの汚らしい話だけを 狂喜したり、いい加減にしたらどうですか。 あなたも含め、自称クリスチャンの情けない事、チンピラな事 ぶざま過ぎますよ。 【くだらないことに熱心でまともな意見はなく、 いいがかりの捏造に狂喜することだけ 一人前な偽クリスチャン集合】 スレでも立てて、そこでやりなさいね。 >>45 あなたはカトリック信徒ではありませんよね? 独善と傲慢の風を吹かせるのはやめてくださいね。 ここはカトリック信徒のスレッドであって、信徒の方々の多数の意見を 尊重すべきでしょう。 僕は老クリさんのことを「歪んだ信仰の実」であると思います。 老クリさんのマムシワールドに連れて行こうとしているのを ひしひしと感じるのですよ。そのマムシワールドでは、老クリさんが王様として 君臨していることは言うまでもありません。 ご自分の中に巣食って長年飼い慣らしてきた、独善と傲慢やコンプレックス という名のレギオンに栄養を与えるために、長文コピペを続けているのですよ。 だからやめられない、とまらない。 老クリさん、お久しぶりです。 ヒルティにならいての語呂合わせでネームにしたまま ですが、なおです。 これを使っています。 お元気そうでなりよりです。 老クリさんは 別スレッドを立てるだけ。 読みたい人は読んでください、がどうしてできないのでしょうか? 老クリさんに巣食っている独善と傲慢のレギオンが 我を張らせているのでしょう? あの電車の中の老害おじいさんのように・・。 レギオンの数体〜数十体憑いた者が、レギオン数千体入りの者に擦り寄る図ですな。苦笑。 >>46 それは、全部意見やまともな反論にもなっていないことに ご自分で自覚はありませんか? そういう事しかできない人の、書き込み内容の大半が 他者のことではなく、 自分の自己紹介になるそうですよ、精神医学では。 >>50 悪魔憑きは去りなさい。 あなたに対しても僕は片時も油断したことはありません。 それもまた見抜いていましたから。全否定ではなく。 あなたが明るいことも知っていますよ? レギオンに憑かれた者は、レギオンに憑かれた者をいたわり はちみつのように甘い言葉をかけるんだ。苦笑。 >>51-52 あなたは完治してから、宗教しようか。 悪魔憑きのプリティさん、 どうして、別スレッドを立てるように勧めないのですか? 独善と傲慢のレギオンに憑かれている者のワガママを増長させようと するのでしょうか? カトリック信徒同士は兄弟姉妹ですからね。 僕だけが老クリさんに抗議しているのではないことはちゃんと確認しているのです。 僕以外に少なくと、3人以上の方が批判しておられる。 4人のカトリック信徒に、例えば、僕が、批判されたとしましょう。 反省しますよ?どうしても納得がいかなければ神父様に このようなことになっているのですが、僕が間違っていますでしょうか と相談に行きますよ? >>53 白い竜が昇って行くのが見えた? つい最近までそのようなことを口走っておられた方に言われる筋合いは ありません。 >>54 老クリさんは、あなた方の様に内容からぽっで、 邪悪な霊性にあって、書き込み、 言いがかりや捏造はされていません。 意見を書いておられるだけです。 一方あなたは何をしているのですか、 まともな話ができるのであれば、それを あなたが書けばいいではありませんか。 あなたの邪悪な霊性が、話を大いにすり替えているのです。 あなたは自覚がないようなので、完治してから、宗教やろうね。 >>55 ほらほら、GLAもそうですが、そんな事は言ったことはありませんよ、 他人の話を自己内の問題をとおして、別の話に作りかえてしまう、 重症ですし、治療を急ぎましょうね。 同じような症状の人は、よく考えられての信頼からでなく、 本能として同調したりするそうです。 それは、あなたが正しいことを言っているからではなく、 同じ感情回路で部分的に一致するからだそうです。 宗教に逃避し悪化しないうちに、あなたは治療を最優先させましょう。 >>56 訂正)本能→反射反応としての感情 とにかく、あなたの内容のない、くだらない言いがかりだけの話で 容量がオーバーしないように、ここまでにしましょう。 レギオン数体〜数十体がこのような感じでしょうかね。苦笑。 これがレギオン2000体のレベルです。老クリさんもこのレベルでしょう。 いと高き神の子イエスと言って、表面的にはイエス様にひれ伏しますからね。 ●ゲラサの悪霊憑き(マルコ5章) イエスが船からお降りになるとすぐに、汚れた霊に憑かれた人が墓場から出てきて、イエスを迎えた。 墓場を住処(すみか)としていた。 【もはやだれも彼を縛っておくことはできなかった。鎖をもってしてもだめであった。 これまでたびたび足枷(あしかせ)や鎖で縛られたが、そのつど鎖を引きちぎり、 また足枷を打ち砕いたからである。だれも彼を取り押さえることができなかった。】 夜となく昼となく、墓や山で叫び立て、自分の体を石で傷つけていた。 イエスを遠くから見つけると、走ってきてひれ伏し大声で叫んだ。 「いと高き神の子イエス、わたしをどうしようというのですか。神の名によってお願いします。 どうか私を苦しめないでください」。 レギオンと名乗った。 自分たちをこの地方から追い出さないようにと、しきりに懇願した。 およそ二千頭の豚の群れが、崖から湖へ雪崩れ(なだれ)落ち、おぼれて死んだ。 >>28 公会議全集規範版(当然ラテン語)と、日本語訳を照らし合わせてみますと、 司教団対訳版はまだ規範版の厳粛な文意が反映されて居りますが、 南山大学監修 中央出版版になって参りますと、単語や慣用語、成句等の訳に、 別な動機や意図が垣間見える様に思います。それでも教会には「良心」がございますので、 たとえ「彼らにとって都合の悪いこと」が記されていても、さすがにそこを欠いたり捻じ曲げる まではやってないのですよ。 拙訳は、故 望月 光師の部分訳を基準にさせて頂き、規範版の雰囲気を少しでも汲み取って頂こうと、 教会伝承の用語でもって、ほぼ直訳してみたものです。最初「である調」で試みましたが、 原文の雰囲気から、どうしても文語になってしまいましたw 如何でしょうかね?^^ゞ さて、牧師先生ですが、困った方ですね…。しかし、そうなってしまったのにも、 無理からぬ経緯や環境等があるのかも知れません…。 >われは新しき掟を汝らに与う、すなわち汝ら相愛(あいあい)すべし、 >が汝らを愛せしごとく汝らも相愛すべし、汝ら相愛せば、人みなこれによりて >らのわが弟子たることを認めん、と。(ヨハネ13ノ34、35) まず、イエズス様の、この掟に思いを致すことから始めることでしょうね ^^ゞ 自ら変わろうと踏み出さないでは、周りの人も変わりませんから。 ttps://www.youtube.com/watch?v=ArUXla6c1X4 連投失礼 >>60 の「ヨハネによる聖福音」 に引用 “>” を付けたのですが、文字欠けそのままにしてしまいました orz 下記、訂正させて頂きますm(__)m ↓ >われは新しき掟を汝らに与う、すなわち汝ら相愛(あいあい)すべし、 >わが汝らを愛せしごとく汝らも相愛すべし、汝ら相愛せば、人みなこれによりて >汝らのわが弟子たることを認めん、と。(ヨハネ13ノ34、35) 悪魔の憑いた者が用意するものは「不毛」なのですよ。 「正しい信仰」に誘うものではありません。 それを投稿する動機が、その投稿の内容そのものではなく、自分の中に巣食う 独善や傲慢を補強したり、虚栄心を満足させるためであったり、 コンプレックスの解消のため等々、違う理由で投稿しているのです。 映画でも、悪魔憑きの声は男と女の混声で表現されますね。 二心で語っていること、あやしいことを表現しています。 カトリック信徒は牧者の声を聞き分けて、だれも快いレスを老クリ さんに投稿しませんね。(ヨハネ10・1ー6) もっとも、真面目に老クリさんの内容について批判した信徒に対しても、今でも 確認できますが、無視したり誠意のある回答をしたことがありません。 プリティさんは、目が曇って見えないようですが、残念ながら老クリさんに 関わっても「不毛」です。内容にレスしても、あなたの中で何も善いものは 育まれません。 >>1 ユダヤ人とは昔アフリカにいたアルビノ達が逃げてきた奴らだ 白い肌をしたユダヤ人はその末裔である 偽ユダヤ人ではない そしてイエスは自分の肉を食べ血を飲みなさいと言っている、そーしないものは救われないと そしてイエスもアルビノでありアダムの子孫でありエロヒムの子だ アフリカをはじめ世界は白い肌をした黒人つまりアルビノの肉を食べ血を飲みなさい そーすれば救われる >>29 聖書の近代的批判的研究とやらが、聖書学の要諦との見立ては、牧師先生の私見でしょ? それでいて、最古写本の評価や時代考証等による同定、記号学(semiology) 的接近等については触れられないw まあ、聖書学の歴史云々は、信徒にとって第一義的(prima) ではない枝葉末節ですから、どうでも良いww >>30 公文書を己が都合の良い様に一部分を取って私見を加えられ、あたかも規範版がそうした趣旨かの如く、 謀ろうとなさったと思いきや、今度は規範版にも邦訳にも記されていない語を加筆したり記述順ひっくり返したり、 あの手この手で」騙そうとなさる! CONSTITUTIO DOGMATICA DE DIVINA REVELATIONE < DEI VERBUM > (公文書名は >>27 参照) 1―Propterea, Conciliorum Tridentini et Vaticani I inhaerens vestigiis,genuinam de divina revelatione ac de eius transmissione doctrinam proponere intendit,ut salutis praeconio mundus universus audiendo credat, credendo speret, sperando amet (1) . 1(前略)よって、トレント公会議及び第一ヴァチカン公会議の足跡に倣いて、全世界の者に、救いの御わざを宣べ伝え、 そを聞かしめ、信じせしめ、望ましめ、而して愛せしむベく(1)神の啓示とそのなされ様につき、 まヽこヽとヽたる教義をして、これを利するべく、定めしものなり。 (1) Cf.S.AUGUSTINUS,De catechizandis rudibus.4,8:PL 40,316. (1) 聖アウグスチヌス「教訓的指導初歩」4,8:PL 40,316. >神の啓示が普く人にまヽこヽとヽの教義により、利となるべく、定めますよ という主旨でしょ?!「正真の教え」なんて書き換えて!! 使徒座の教導権を薄めてらっしゃるw ボクダン神父のウェブサイト http://www.nowaksvd.net/ >そして、カトリックの神父様たちの文章を検索して読んでごらんなさい。 >上智大学の哲学科卒の神父様が、どのような文章を書いておられるか。 >頭も心も優れている者が書く文章というのはわかりやすいのです。 > どうして? >相手がどう思うか考えるかをトレースしながら、そして虚栄が入ってないか >二心が入っていないかを高クロック数で検証しながら書くからですよ。 【聖書神学とカトリック教会の教えD】 この啓示(キリストとその福音 = 神のことば)の伝達者が使徒たちとその後継者である司教たちです。 聖伝と聖書はこの “使徒たちから伝えられたこと” を内容とする教会に託された聖なる遺産であります。 そのようなわけで、聖書研究は “神学の魂のようなもの” と言われています。 さらにそれは教導職や専門の聖書学者だけではなくて、“聖書に近づく門戸は、キリスト信者に広く開かれていなければならない” と述べられています。 ちなみに日本におけるフランシスコ会訳の聖書は、このような第二バチカン公会議の意向を受けて出版されました。 一般に宗教の世界は保守的であって、“新しいものを欲しがらず、古いもののほうがよい”(ルカ5:39) という傾向があります。 それでカトリック教会でも、新しい学問である聖書神学に対して無関心であったり拒否反応を示す人が多く見られます。 【聖書神学とカトリック教会の教えE】 前教皇ベネディクト十六世が使徒的勧告 “主のことば” で述べていることを、ここにご紹介しましょう。 「(聖書研究にとって)何よりも先ず必要なのは、歴史的・批判的釈義と、最近発展した他の本文分析の方法が教会生活にもたらした利益を知ることです。 カトリックの聖書理解にとって、これらの方法に関心を向けることは不可欠です。」 「救いの歴史は神話ではなく、真の歴史です。 それゆえそれは、真剣な歴史的研究方法によって研究されなければなりません。」 そして1993年の教皇庁聖書委員会の文書が引用されています。 「その解釈の作業の中でカトリック聖書学者が決して忘れてはならないのは、 ・ ・ その作業の目的は、聖書本文の意味を神が今の現実に語りかけることばとして明らかにするのでなければ、達成されない。」 神様が神の言葉の伝達者を選抜する時には聖職者と信徒を区別しません。 聖地ルルドも聖地ファティマも信徒によって神の言葉が伝達されました。 >>66-67 『老クリスチャンの長文コピペについて』 (1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。 (2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。 (3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。 そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。 (4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。 (5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。 (6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。 (7)まったく読む必要はない。 (8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。 (9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。 (10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。 (11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。 (12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。 (13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。 (14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。 (15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。 (16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。 (17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。 (18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。 (19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと 老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。 (20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。 【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ >>68 「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」(Iコリ12:18) 「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。 第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、 ・ ・ ・ 」(Iコリ12:28) >>66-67 >>70 >>29-30 >>21-22 老クリスチャン 降臨 ┃ ┃━┓ ハ_ハ. ┃┃┃ ┗┓━ ┃━┓ ┗━━('(゚∀゚∩━━━━ ┃┃┃ ┗┓━ ┗ ┃ O,_ 〈 ┗┗┗ ┗ ┃ `ヽ_)゚ ┗┗┗ >>30 >>64 の続き >Caput I DE IPSA REVELATIONE § 第一章 啓示を明らかならしむ >2 Placuit Deo in sua bonitate et sapientia Seipsum revelare et notum facere >sacramentum voluntatis suae (cf.Eph 1,9),quo homines per Christum, Verbum >carnem factum, in Spiritu Sancto accessum habent ad Patrem et divinae naturae >consortes efficiuntur (cf. Eph 2,18;2 Petr 1,4)― >2 決定者たる神は、善性と知恵をして、御自身を啓示し給い、意志の奥義(エフェゾ1 >ノ九参照)を明らかならしむるべく、望み給うし故、衆生は受肉せしロゴス(仕手)・ >キリストを通じ、聖霊に於いて父に近づき、神性に与り給う(エフェゾ2ノ18; >ペトロ後1ノ4参照)。(中略) >―in historia salutis a Deo patrata, doctrinam et res verbis significatas manifestent .>ac corroborent, verba autem opera proclament et mysterium in eis contentum >elucident. Intima autem per hanc revelationem tam de Deo quam de hominis >salute veritas nobis in Christo illucescit,qui mediator simul et plenitudo totius >revelationis exsistit (2).― >(2) Cf. Mt.II, 27; Io. 1,14 et 17;14,6;17, 1-3; >2 Cor.3,16 et 4, 6; Eph. 1,3-14. >故に救いの歴史に於いて、神により行われし御わざは、御教えとロゴス(仕手)の意味 >を明らかに証給うた。よって、ロゴス(仕手)は御わざを表し給い、そこに在る秘儀を >明らかならしめ給うこと。而して啓示が示す神と人の救いに於ける深いまヽこヽとヽは、 >仲介者たり、同じく全啓示の極みに充ち満ち給う、キリストに於いて我等に顕示され給うこと。(2) >(2)マテオ11ノ27;ヨハネ1ノ14、17;14ノ6;17ノ1−3;>コリント後3ノ16;4ノ6;エフェゾ1ノ3−14参照。 連投御免 >>72 続 それ見たことか!要するに公会議は、ロゴス(仕手)たるキリストが受肉し、公生活に於いて、 語られることが悉く成就すること(言即ち事)を御業(御奇跡が分かりやすい例)を以って明らかに示され給うた。 これにより、全啓示は極まり、充ち満ちたのだと定められてるではないですか!! けだし、故 押田師が、 >「光あれ、と曰(のたま)えば光ありき」存在を在らしめ、また事を起こすために、 >神がかかわるとき、神が言ヽうヽという表現を使う。これはユデア語だけのことでは >ない。日本語でもコトは言(コト)でも事(コト)でもある。(中略) >ο λογοσ ホ・ロゴスは、曰うことを本性とする主体、その御者のことであって、 >言われた言(コト)の葉ではない。(以下略。押田成人OP 「漁師の告白」 注釈) と喝破なさった、これが根本、要諦であり、キモになってるんですよ! それを、頭と理屈だけで「神のことばを語り」なんて曲げてしまう。 そんなのは、「神の言葉という人の言葉」であって、神様とはなんの関係もないのでは? 文書記述順ひっくり返し、 “人である”などと規範版にも邦訳にも無い記号や文言を勝手に加え、あまつさえ、 そんな浅はかな理解や解釈でもって、キリスト=啓示の完成wなどには 到底結びつかないって、何故分からないんですか? 公教要理から、告解や典礼等、事あるごとに言行一致と、 聖書のみならず、善行を説かれ、求められている公教会信徒なら、 これは立ちどころに分かることですよ!? wwwww 三位一体の神にして、言即ち事たる神様を、只の人にはめ込み貶め、 イエズス様の人性に溢れし「愛」も、理屈や分析の対象となさるなど、「下からの神学」からも埒外。 もっての外です! みなさん、もう分かってると思いますが、こんな異端的解釈に騙されてはならないと思いますよ! 老クリスチャンさんの論じ方は 公会議文書を引用しているので 教会でわりと通用します 老クリスチャンさんへの批判の多くは 公会議文書を引用していないので 教会であまり通用しません ザンクトさんの論じ方は 信者の心をあまり動かしません だまされないように。 カテキズムと教会憲章などの杖を振り回して、牧者たろうとしているだけです。 上っ面だけ通用したとしても、それら杖を振り回す者の目はマムシの目の輝きそマムシの心。 ご自分の独善と傲慢の補強。そしてはっきり言うと、プロテスタントの 牧師崩れがカトリックへのコンプレックス解消という目的で行っていることです。 だからやめられない、とまらない。 上っ面だけ装って、カトリックのどこまで潜入できるという マムシの目と心を持った者の挑戦? そして、牧場の飼い葉桶に横たわり、自分は秣(まぐさ)を食べない、未信者には 食べさせないんだ。 マムシの目と心を持たないなら、けっして口に することがないようなことを、老クリさんは書いていますよ。 「わぁ・・。これは引きますわ」ということ。 それを読んだ瞬間に、こんな眼差しで神父様や他の信徒を観ているのか! と唖然としましたから。兄弟姉妹を観る眼差しではありません。 爬虫類の眼差しなのです。 半年くらい前でしたかね、他のスレッドに自分を批判する者に 速やかに神罰が下るように、呪いの祈りを何度も投稿していましたよ。 「私は苦しい!助けて。そしてあいつらは滅びますように!」 この手の主旨の詩篇のお祈りを選んで載せてました。 いったい、コイツは何を考えているんだ?!と思いましたね。 レギオン憑きですから、批判すると、それを迫害と自分の中ですり替えて エネルギーに変える。化け物ですよ。 公会議の文書が教会で通用する?あり得ない。 司教・司祭が福音説教で回勅、使徒的勧告、使徒憲章、使徒的書簡、自発教令を引用することは皆無です。 2002年(主日A年) 11月10日 年間第32主日 知 6:12〜16 Iテサ 4:13〜18 マタ 25:1〜13 今年も典礼暦の一年の終わりの時期に入り、この時期の聖書の朗読配分によって私たちは、歴史の終末であるキリストの再臨のことに心を向けます。 かつて主イエスが語られた十人のおとめの譬え話が、マタイ福音書を生み出した初代教会で、キリストの再臨に備えなさいという警告をそこから聞くために用いられたことを、私たちは十分に理解する必要があります。 今日のカトリック教会の主日の聖書の朗読配分は、この理解を現代になお有効なものと認めて、今朝の日課に用いているのです。 再臨のキリストが贖われた私たち教会の花婿として来られるという理解は、新約聖書を貫いて語られているものですが、これと結びついて語られる 「婚宴」 の譬は、論理的であるよりもむしろ比喩的に用いられていて、 聞く人々が終わりの日にその祝いに参加出来るかどうかを真剣に考えるように促します。 十人のおとめたちは、「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」(マタ v.2)。 ですから私たちは、何が婚宴の席に入る者と閉め出される者を区別するのか、何が賢く何が愚かなのかを承知していなければなりません。 (つづき) 賢いということを、聖書は知恵という言葉で説明しています。 もちろんこれは聖書独自の意味で用いられていて、この世の通常の知恵とは別のものです。 ですから、私たちが自分の人生経験や通常の学問等によって身に付けていくものと、同じものだと誤解してはなりません。 使徒パウロは、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」(Iコリ 1:21)と述べています。 私たちにとって知恵とは、キリストの福音のことです。 20世紀のキリスト教は、このキリストの福音を分かりにくいもの、捕え難いものにしてしまいました。 現代のキリスト者である私たちは、「福音とは何ですか」 「救いとは何ですか」 「キリストの再臨と終末の裁きを信じていますか」 等の質問に、恐らく例外なく戸惑い、明確に答えることが出来ないのです。 しかし、聖書は語ります。 「知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人たちに優しく姿を現し、深い思いやりの心で彼らと出会う。」(知 v.16) 使徒パウロも、申命記を引用して語りました。 「“御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。” これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(ロマ 10:8) そうなのです。 キリストの福音は ・・・・・ 、私たちの信ずべき信仰は ・・・・・ 、与えられたキリストの救いは ・・・・・ 、教会を通して今日に至るまで確実に継承されて来ているのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 老クリスチャンは愚か者であると理解した。本人は理解していない。不幸なことである。 >>80-81 >>70 >>66-67 >>29-30 >>21-22 老クリスチャン 降臨 / ,、_,、 / キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!!!!! /. `i i´ \ j/ヽ' ローマ教皇庁が創世記・インテリジェント・デザインを信じる原理主義者に言った 「もっと科学を信じなさい」 夏の離宮カステル・ガンドルフォの天文台の司祭が言った 「聖書には科学的要素はゼロですよ」 知恵で神を知る 宇宙を創造したのは何ですか? 神学者は言った 「宇宙を創造したのは神です」 物理学者は言った 「宇宙を創造したのはエネルギーです」 実は 「神」 も 「エネルギー」 も同じものです。 >>74 >ザンクトさんの論じ方は 信者の心をあまり動かしません 既に再三再四、ウザい位表明して居りますが、 私はミッション(宣教とか、福音宣教とか、信徒使徒職とか云う語は、ある恣意を含む術語なので好きになれませんw) 向きではないと思いますし、そういうのにはいっさい興味ございません。 ですから、拙書き込みに「信者の心を動かしてやろう、操ってやろう」などという動機や意図はみじんも ございませんので、それで、まったく問題ないのですよ^^ では、拙目的の動機や意図、目的は何か?…ご覧になってればお分かりになることでしょう^^♪↓ ttps://www.youtube.com/watch?v=mznI2ceLTsE 連投失礼 >>87 中の誤謬を訂正m(__)m 7行目: × では、拙目的の動機や意図、目的は何か?…→ 〇 では、拙書き込みの動機や意図、目的は何か?… 教会における聖書の解釈−教皇庁聖書委員会− 1993 年 の日本語訳は、書籍として出版されていないのでしょうか? フランス語訳は LES ÉDITIONS DU CERF から出版されているようです。 L'Interprétation de la Bible dans l'Église de Commission Biblique Pontificale (1994) ttps://www.editionsducerf.fr/librairie/livre/7206/ l-interpretation-de-la-bible-dans-l-eglise (出版社の名前の cerf (鹿)は、詩編 42 から引用されたようです) 和田幹男神父様による日本語訳は、和田神父様のサイトで読むことができます。 ttp://mikio.wada.catholic.ne.jp/INT_I_ECC_index.html >>69 この人、普通のプロテスタントの牧師でも言わない異端的なことを以前言ってたな。 どこの派の元牧師か? 実は統一協会とかエホバの証人とかの関係者か? それならしつこくこのスレに粘着している理由がよくわかる。 修道会や教区が小教区を見捨てるなら 修道会や教区との癒着を捨てて 自立して教会を運営すればいい 経済的に修道会や教区の支援は もう期待できないし まえから修道会や教区に依存してないし 修道会や教区が宣教者を送らなくても 信者で宣教者を決めたほうがいいし >>20 長文になってしまいましたが。 神に属する信徒を集めたいという思いはありますが、分裂させようという思いは、私にはありません。 なぜなら、神様と一緒に集める者は神様の味方であり、 神様と一緒に集めない者は散らす者(=神の敵)だからです。 私は、教会を内側から改善しようとして動いていた一般信徒です。 今年の10月に、教会内で教会役員(=男性)が一般の女性信徒一人に対して、 4度目の痴漢をするという事件がありました。 痴漢された当日、女性信徒は主任司祭に宛てて、これまでに同じ男性信徒から3回、 臀部に指が偶然当たったかと思われるような触れ方をされたこと、そして、これで4度目であること、 などを紙に書き、主任司祭の目に触れると思われる場所に貼り付けておきました。 痴漢にあった当日に警察を呼べなかったので、次の日の午前中に警察に行き、 これまでのことを話しましたが、目撃者がいないということから、 「男性に対しては警告することしかできません」と言われ、被害届すら書くことができませんでした。 その日の午後、女性が教会にいると、主任司祭から呼ばれ、主任司祭に宛てて書いた紙を 見たこと、その紙は主任司祭以外の信徒も見たことを告げました。 そして、「男性信徒と女性信徒の間の問題だから、警察に行きたければ行ってください」と 主任司祭は言いましたが、主任司祭の態度が「自分はノータッチでいたい」といわんばかりの、 投げやりで、信頼の置けない態度だったので、女性信徒はその日の午前中に警察に行ったことを 主任司祭には言いませんでした。 それから約一週間後、ミサの後で、女性信徒は主任司祭から呼ばれました。 主任司祭は、痴漢事件があったことを知った後、自分が選んだ女性の会長と、 「あんなことで、警察に連絡を入れたりはしないだろう」と話をしていたそうですが、 後日、警察から「男性信徒の連絡先を教えてください」との連絡があって、非常に驚き、 介入しないわけには行かなくなった、と言いました。 主任司祭は、自分と痴漢の被害を訴えた女性信徒、加害者の男性信徒、女性の会長を 別室に集めました。 当時、自身にとって有利な展開で話を進めたいと考えたのか、自分の意見を通してくれる人を 選んで集め、女性信徒を擁護してくれる人間を、主任司祭は用意しませんでした。 また、この時の会話は主任司祭によって、録音されました。 加害者の男性信徒は、「役員をしている自分がそんなことをするはずはない、(痴漢は)していない」と 言い張り、痴漢したことを最後まで認めませんでした。 本当に痴漢をしていないなら、堂々と教会に来れるはずなのに、「被害者女性が今後も教会に 来るなら、自分は教会に来ない」と、本当は後ろめたいことがあり、それを隠しているのではないか、 と思わせるような、怪しい発言をしていました。 女性の会長は、「男性側の気持ちがわかる」と言い、女性の立場からの意見を言わず、 「あの紙を見て、本当に驚いた。私はあなたが、あのようなことをする人だとは信じられなかった」と、 女性信徒が加害者であるかのように言い、女性信徒のことを擁護しませんでした。 また、紙には実名が書かれていたため、「男性信徒が訴えようと思えば、名誉毀損で訴えることも できるし、損害賠償を請求することもできる」と女性信徒に言いました。(←脅迫にあたる?) 主任司祭は、以前、女性信徒に対してスキンシップを頻繁にやりすぎたため、以後、女性信徒から スキンシップを断られたことがあり、それを根に持っていたのかはわかりませんが、男性信徒の肩を持ち、 男性信徒と会長の目の前で、女性信徒の肩に自身の手を当ててみせ(←セクハラでは?)、 女性信徒がそれを嫌がって、身体を引くのを見て、「今は男性の立場のほうが弱い、 (少し身体に触れただけで、今のように嫌がる)あなたのような人に近づくのは恐い、 私はもう、あなたにかかわりたくない、できることなら、教会から追い出したい。以前にいた教会でも、 ストーカーしていた信徒を他の司祭と一緒に、出入り禁止にしたことがある(←脅迫では?)」 と言い、痴漢とは別の問題にすり替えて、「何度も、問題行動を起こしたから」と、 1ヶ月間、11月26日まで、女性信徒が所属教会へ出入りすることを禁止しました。 男性信徒のほうは、主任司祭の個人的感情により、おとがめなしです。 女性信徒が教会を出入り禁止になったことを知っているのは、女性信徒以外の3名だけということで、 他の信徒には一切口外しない、ということで口止めをされましたが… 主任司祭、会長、男性信徒が他の信徒にしゃべらない、という保障はありませんでした。 女性信徒は、11月26日に教会に行って、女性の会長と話し合いをすることになっていますが、 何のための話し合いなのか、がよくわかりません。 長くなりましたが、>>20 さんがおっしゃる前から、教会を内側から改善しようとして動いていたところ、 主任司祭によって、1ヶ月間、教会への出入りを禁止されてしまいました。 その間に書いたのが、>>14 です。 「教会には、痴漢をするような信徒はいない」というのが、主任司祭たちの考えていることであり、 私も被害にあうまでは、そう思っていました。 しかし、痴漢をするような男性信徒が出てきたのは、主任司祭の存在が、 「痴漢の抑止力」になっていないからである、と今では考えています。 主任司祭は、私を出入り禁止にしている間に、教会での痴漢事件を揉み消すつもりなのでしょう。 ほとんどの信徒には、私を出入り禁止にしたことを知られていないので、何食わぬ顔でミサを捧げ、 自身の任期中には何も問題が起きなかった、というように装うつもりなのだと思います。 主任司祭がこんなに卑劣な卑怯者だとは思いませんでした。 主任司祭を召し出したはずの神様は、すべてを御存知なのに、自身の評価が下がることを気にして、 揉み消して終わりにしようとは、司祭としても、人としても、大変不誠実な態度だと思います。 今後は、どうしたら良いのでしょうね? 次は、どう動いたら良いのでしょうね? 教会への出入りを禁止されている間に、私にできることは何かあるのでしょうか? 名古屋教区の司教に現状を伝えるべきでしょうか? 主任司祭は中国人で、年齢は30代、2人の司教の推薦で、「流されるまま」に叙階の秘跡を受けて、 司祭になったそうです。 これは、果たして「本物の召命」と言えるのでしょうか? 私には、どうしても、これが「本物の召命(←神様の御旨)」とは思えないのですが…。 弊害が増える前に、司祭職を解いて頂くということはできないのでしょうか? 義明とヤリタイときに義明がいない。 最近中学生になった智彦の直腸にブチ込みたくなるのだが 幸雄のときみたいに突き破ってしまうとヤヴァイ。 いまは、いんたーねっとで好みの野球ボーイのムチケツ見ながらしごけるので助かる もちろん一時的なご利用だから偶像も使いようだよね。 3日喰わずとも生きられる麻薬 2005年(主日A/B年) 11月6日 年間第32主日 知 6:12〜16 Iテサ 4:13〜18 マタ 25:1〜13 今年も典礼歴の最後の三主日の日課を学ぶ時を迎えました。 私たちはこの期節に、聖書の中から終末についてのテキストを学びますが、それは主の日の到来に備えるということが最初から使徒たちの宣教の主題であったことに、私たちが注目するためです。 十人の乙女の譬え話の結論は、「だから、目を覚ましていなさい」(マタ v.13)であり、その理由はキリストの再臨が確かに近づいていることと、その日がいつであるとも知れないからです。 このような勧告が初代教会に広く教えられていたことは、使徒パウロの手紙からも、福音書からも十分に知られます。 再臨を待っているのは御子の血によって贖われた民である教会であり、使徒を初めとする群の指導者たちには 「忠実で賢い僕」(マタ 24:45)となることが主から求められていました。 この譬え話の花婿は明らかに再臨の主イエスであり、その到着が神の国の来臨であることは確かです。 その日には愚かな乙女たちは神の国から閉め出されます。 「御主人様、御主人様、開けてください」(マタ v.11)との訴えに返ってきた答えは、「はっきり言っておく。 私はお前たちを知らない」(マタ v.12)でありました。 この主題は マタ 7:21-23、ルカ 13:22-30 でも取り上げられています。 使徒たちは、現代人が考えるような意味での主イエスの歴史的回想を語ったのではなく、そうではなくて聖霊と復活の主に導かれて、最後的世界の危機である主の再臨に備える訴えを、主の多くの譬え話に読み取ったと理解するのが適切であるように思われます。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 狭い場所で痴漢とかより走って踊ってエクスタシーに達する方が健全な 信仰だわな。 >>97 >>80-81 >>70 >>66-67 >>29-30 >>21-22 老クリスチャン 降臨 \ヽ (三彡0ミ)★ ┃ ┃━┓ ( ´・∀・`) ‖ ┃┃┃ ┗┓━ ┃━┓ ┗━━━━ /~~~〉 〈/つ ━━━━━. ┃┃┃ ┗┓━ ┗ ┃ ノ ノ| | ...‖ ┗┗┗ ┗ ┃ ´〜 (__),__)‖ゝ. これからの時代は信徒が司祭叙階を行ったほうが良い時代になると思います 司教による叙階は信頼性に欠けます ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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