【仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】264
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釈迦牟尼仏、明星を見て悟道して日はく、我と大地有情と同時に成道す。
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【仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】263
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1507900729/l50 悟りと言うものも、本来ないものだ。
だけど、いや、だからこそ、それを悟らんとな〜。。 オショーの言葉は、超越的な悟りがあるような、幻想を与える。。 お釈迦様だって、超越者になったわけではない。。
ただ、それが宗教化される過程で、超越的な悟りがあるかのような信仰が生まれた、ということだろう。。 ろんは絶対性と相対性を理解しとらんな
一般人と相対して観れば釈迦は超越しとるよ 406.
超越的な悟り、は可能である。
だが、それを実現できない、だけのことである。 OSHOって言うのか。
確かにそうだけど、やっぱり文書でなにすると隔靴掻痒なんだよなぁ。
やっぱり、直接参じられる、禅語録の方が自分には親しいなぁ。
「八角磨盤空裏走」 >>407
>ろんは絶対性と相対性を理解しとらんな
>一般人と相対して観れば釈迦は超越しとるよ
いや、相対(差別、有、煩悩、此岸)で見れば超越だし、絶対(平等、無、菩提、彼岸)で見れば同じ。
結局、差別で見るか、平等で見るか、その両方で見ないか、両方で見るかの四通り。 あー、なるほど。
いまわかってきたわい。
超越的と超越論的の区別がついてないのがここにおるわけだな。
というか・・・まあ、仏教というのは・・・ お釈迦様は苦を滅するための相対的な方法論も説かれたし
絶対的な方法論も説かれた。 超越的と超越論的の区別がついてないのがここにおるわけだな]
説明もせず、かっこつけて。 にもかかわらず、絶対的な方便のみに固執しているのが禅宗かと思う。
思考そのものをしなければ心身脱落だと。
チベット仏教の坊さんは怒りに対しては忍辱や慈悲の心を思い起こすとか念の力、
相対的方便もよく説かれる。もちろん空の瞑想もするそうだけど。
で現実的に念の力は大きい。
念の力が足りないと、ふと魔がさして煩悩に支配されてしまう。 >>415
ふぇ? 説明とかいらんでしょ。
書いてあるとおりですわい。
それ以上でもそれ以下でもないわw >>417
身心脱落の後に脱落身心があったのも知らないで禅を語るの? まあ禅は絶対性を指向しているからな
全て無だ悟りなんか無いとな
そこに凝り固まると
相対的に観るべきものすら絶対的に観てしまうんよ
悟りなんか無い
でも悟った人はいるんだよ笑 >>410
なるほど。。
>>412
そんな単純な話じゃない。。
お前にジャンキー氏の話はわからんよ。。 >>418
「らせば、ほうら。」
分らんか?
ふぇ? 説明とかいらんでしょ。
書いてあるとおりですわい。
それ以上でもそれ以下でもないわw
あな、臭し。 >>421
べつにジャンキー氏のことを話しておらんよ。
彼はそのへんのことは慎重に考えておるようやがね。
意識的か無意識的か別として。
まあ、オレのことなんぞどうでもええがな。
続けて続けて。 >>422
ほうかねw
鼻にガムをつめておけばよいよ。 >>420
西田先生が言ってたよね。
「絶対矛盾的自我同一性」とか。
禅は絶対と相対が同居して矛盾しないの。
これはやっぱり修行して何がないと分からんね。 >>419
細かな禅用語には首は突っ込みたくないw泥沼にはまりたくないんで。 酔っぱらってないとジャンキー禅は無理w
いくら壊れても筋の通らない壊れ方はしたくないw >>417
絶対性だけではどうにもならんけど、理として正しく、明らめやすいのが平等智。。
僕はそこから入ったな。。
そこから入らなければ、入りようがないではないか。。
方便=相対性と、法=絶対性をわけで、まずは、法を明らめる、心を明らめる、でなければ、いたづらに、自心をどうにかしよう、瓦を磨き続ける、に終始してしまうんではないか?
もちろん、相対性から、入るパターンもあるかもしれんが。。
難しいような。。
>>420
禅は、相対性=差別智もおろそかにしてはならないと説く。。 >>429
ほうかねw
じゃあ、アロンアルファがいるな。
鼻穴をひっつけとけばよい。
あとでお湯で洗うととれるから心配せんでええ。 >>428
平等智は大切ですよ。
一切衆生は苦しみから逃れたい、楽になりたいという点ではみな一緒であると。
動物を飼ったことある人はよくわかると思います。
大事に飼うと幸せそうなしぐさや元気なしぐさをする。
邪険にすると噛みついたり、人を恐れるようになる。 >>431
ほうかねw
じゃあついでに目もボンドでひっつければいい。
嫌なものも見なくて済むようになる。
眼球にはひっつけるなよ。
ヘタすると失明するからね。 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生(しやう)あり、死あり、諸仏あり、衆生(しゆじやう)あり。
万法(まんぽふ)ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生(しやう)なく滅(めち)なし。
仏道、もとより豊倹(ほうけん)より跳出(てうしゆつ)せるゆへ(ゑ)に、生滅(しやうめち)あり、迷悟あり、生仏(しやうぶつ)あり。
しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜(あいじやく)にちり、草は棄嫌(きけん)におふるのみなり。
(現成公案)
一行目が差別、二行目が平等、三行目が平等差別の対立に捉われることがない見方ということだろう。。 穴草のレスのコピペ
「ほうかねw
鼻にガムをつめておけばよいよ。 」
「ほうかねw
じゃあ、アロンアルファがいるな。
鼻穴をひっつけとけばよい。
あとでお湯で洗うととれるから心配せんでええ。 」
「ほうかねw
じゃあついでに目もボンドでひっつければいい。
嫌なものも見なくて済むようになる。
眼球にはひっつけるなよ。
ヘタすると失明するからね。」
素晴らしい。
ほーかね。 小憎らしいアナクサも、妻子の前ではメロメロおやじで
「●●ちゃん、今日せっくすしたいなあ」とか言ってるんだよ。
安倍ちゃんはもはやババアの生身に興味はなく、ドール好き(笑)だという。 >>426
身心脱落=平等
脱落身心=(平等の)差別、ありのまま、実相、肘外に曲がらず
こんだけの事。 アナクサはおもしろい
罵詈雑言のバリエーションが豊富
笑える >>432
そういうのも平等智だけど、そうじゃなくて、自己と環境全体を一つに見る。。
因果=無我、無自性、空と言う見方が、僕やジャンキー氏が言っている平等智。。
それがわかれば、とりあえず、これから、自分が悟ろうとかさ、自己をどうしよう、っていうのが消えるんだよ。。
迷悟の区別もなくなる。。
もちろん、それだけじゃあかんのだが、まずはそこに落ち着く、というのが、禅修行の第一歩だよ。。 >>436
YES/NO枕だから、うちは。
そのへんはスマート。さりげない。 人は見た姿を「その人」だと思ってしまいがちだが、野球のイチロー選手が
赤ちゃんプレー好き(笑)だそうです。
穴草のリア充アピールも、現実は逆かもしれないし。
自作自演する人間は自分の正体を隠したい。
それでもたまに本音を言う。先ほどはパーピマンが導き出したわけだけど。 仏道を修行する者は、先ず須(すべか)らく仏道を信ずべし。
仏道を信ずる者は、須らく自己もと道中に在って、迷惑せず、妄想せず、
顛倒せず、増減なく、誤謬なきことを信ずべし。かくの如きの信を生じ、
かくの如きの道を明らめ、依りてこれを行ず。乃ち学道の本基なり。
(学道用心集)
これは結論だけだけど、平等智からくる結論はこれだ。。 家族の話をしたらリア充アピールなのかいw
そりゃあきみ、生き難いだろうねえ。 中国でできたお経は読まない。
のっけから大事なことが抜けている。
ブッダが出てこない。ブッダこそが悟りの因だということがわからない中国禅経典は
読まないです。 経典が伝授された弟子たちは経典に礼拝したが
一人だけブッダに礼拝した。
どちらがブッダに近いかは言わずもがな。 >>444
もったいねーな〜。。
漢文、漢詩、かっこいいじゃないか。。w
http://www.suehiroya946.com/27_19625.html
有名な句なのかも知らんが、知らんかった。。
碧巌録は、最初の方しか読んでないな〜。。 なぜ禅宗の人たちは
お釈迦様の直系の弟子である達磨大師の「二入四行論」に立ち返らないのか不思議だ。
中国で汚染される前の経典なのに。 >>445
だけど、同時にお釈迦さまは、私を個人崇拝しても意味ないぞ、だから仏像も作るな、と言うことも言ってる。。
教えの方が大事だってことよ。。 法はもちろん大事ですけど、その法の源泉はブッダであり
大乗仏教のナーガールジュナの弟子の論書にも
ブッダこそが悟りの因であると説かれている。
大乗仏教も中国に入りブッダへの帰依が薄まったんじゃなかろうか? 仏教は素晴らしいが、ブッダが目の上のたん瘤だった人が中国にはいたんでしょうね
仏典にはいたるところに王が出てきて、ブッダに教えを乞う場面が散見される。
中国の皇帝がそれを不服に思っていた可能性はあり得る。
仏教発祥のインド地域はもともとバラモンをあがめる風土があったから通用したが。
ブッダが王様に説教するんだから。大乗仏教の論書にもあからさまに王を戒めている記述があった。 >>450
僕は、祖師方全員に感謝みたいな気持ちでいるかな〜。。
お釈迦さまも含めてね。。
ブッダと言ったら、目覚めた人全員のことよ。。
お釈迦様とか、ゴータマ・ブッダというと、仏教の開祖だけど。。
えり好みしないで、なんでも学べばいいじゃん。。
僕も、公案とか原始仏教とか、詳しくないが、そのうち機会があれば、学びたいとか思ってる。。
牛が窓を通り過ぎる話とか面白いわな〜。。w
発心寺は、曹洞宗、臨済宗の区別にとらわれず、公案も使った指導をする。。
だから、雪渓師の本とか読むと、公案もいろいろ考えたりする。。
なんでもやればいいんだよ。。 ブッダと言うのは、目覚めるという自動詞の過去分詞、らしい。。
で、その過去分詞が名詞化した、ということだろう。。
目覚めた者という意。。
自動詞だから、何かから目覚めた、と言うことであって、何かに目覚めたわけじゃない。。w >>450
> 法はもちろん大事ですけど、その法の源泉はブッダであり
> 大乗仏教のナーガールジュナの弟子の論書にも
> ブッダこそが悟りの因であると説かれている。
> 大乗仏教も中国に入りブッダへの帰依が薄まったんじゃなかろうか?
事件が明るみになる前のオウムに、一部のニューアカ系知識人が好意的だったのは、
そういう理由もあるだろうねえ。
中国というバイアスを嫌って、さらにルーツに遡りたいという感覚があった。
歴史的にみて、中国への仏教移入が「ブッダへの帰依が薄まった」ことを示すかは別にして。 >>454
チベット仏教は、チベット仏教なりの創造があり、ブッダの教えをもともとの通りに教えてるわけじゃない。。
そもそも密教ベースだから、四聖諦は、仮の教えであるみたいなことも平気で言う。。
中沢新一の責任論みたいなのは、もう言いつくされた感もあるが、チベットの高僧がそもそも、麻原が偽物と見抜けなかった。。
中沢新一も、見抜けなかった。。
だけど、ダンテス・ダイジは、麻原と会って話した後で、「あいつはそのうちとんでもないことをしでかすんじゃないか」と弟子たちに語ったという。。
ダイジの方が、見抜く目があったということだ。。 原始仏典読んだら禅語録は受け付けなくなる。
本来の仏教に立ち返ろうと努力されたのが道元さんでしょ。
道元さんもそれまでの禅宗に疑問をもって、正法眼蔵を書いたんでしょ。
事実原始仏教に近いところもある。
しかし今は原始仏典が容易に読めるので、道元さんの苦労をしのびながらも
原始仏典を読んだほうがいいと思います。 岩波講座東洋思想のチベット仏教の巻で、中沢新一がしっちゃかめっちゃか叩かれてたのを読んだことがあるな。
カギュ派かなにかの論考の注釈でだったけれども。
「チベット仏教であればなんでもよいというのは学者として頭がおかしい」的な。
「なんでもよい」というのは、思想としての質がよいとかわるいとかそういう意味もあるし、
現代社会にそっくりそのまま使える的な安易な思想の使われ方を指してもいる表現だったと記憶している。
刊行時期はニューアカ末期だったと思うが、初期中沢批判はここに尽くされておるだろうな。 ダライラマ法王は四聖諦から説かれますけれども。
ゲールク派は原始仏教の経典を必須経典にしてます。
ニンマ派にもいろいろあって、ゾクチェンのような修行法もありますが
基本は原始仏教で原始仏典を「聖典」と呼んでます。 チベット仏教はナーガールジュナやアーリヤデーヴァやシャーンティーデーヴァなどの
インド大乗仏教の師を非常に尊敬してます。
その大乗仏教の師方は原始仏典に忠実です。
原始仏教・大乗仏教が土台にあって密教やマハ-ムドラーなどの修行法があります。 ロンなら読めると思うから貼ります
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
このお坊さんはダライラマ法王の師を務められたニンマ派のヘッドラマだった方です。
中沢さんは所詮学者です。間違うのは必然です。 いま半額のお刺身食べてるよ
マグロ、真鯛 (のカルパッチョの野菜をどかした) 、スルメイカ >>458
中沢新一ほど、不当に嫌われ、正当な評価が与えられていない人もいないんじゃと思うよ。。
まあ、のちのち評価されるのかもしれんが。。
一般人のファンは多いが、学者とか、インテリ連中には嫌われてるのかもしれない。。
いろいろ大雑把だから、チベット仏教の権威いみたいな人にも叩かれる。。
だけど、彼は、何百年後の世界、あるいはもっと先の社会や、そうした未来に到来するであろう世界観を見据えて仕事してるんだわ。。
グローバル資本主義の次とか、今ある科学的世界観の次の世界観とかね。。
彼のためにめんどくさいが、引用してみよう。。
そうなると、第三次の「形而上学革命」がどのような構造をもつものになるか、およその見通しをもつことできる。
それは、今日の科学に限界づけをもたらしている諸条件(生命科学の機械論的凡庸さ、分子生物学と熱力学の結合の不十分さ、
量子力学的世界観の生活と思考の全領域への拡がりを阻んでいる西欧型資本主義の影響力など)を否定して、一神教の開いた地平を
科学的思考によって変革することによってもたらされるだろう。(『愛と経済のロゴズ』3頁)
文系の人間で、こんなに科学わかってるやつがいるんかな〜、という驚き以上に、今の科学の先にあるものが見えてる、と言うことがわかる。。
「形而上学革命」と言う言葉は、ウェルベックの『素粒子』と言う小説の言葉らしい。。
第一次形而上学革命=一神教の発明、
第二次形而上学革命=科学的世界観の浸透
↓
今はこの過渡期
↓
第三次形而上学革命=量子力学的世界観、ということかな〜? >>463
中沢新一は、高校生の頃ずいぶん読みこんだ。
学問の楽しさを教えてくれたひとりといってよい。
大人になっただんだん批判的な目で見るようになったが、いまでも本は出たら読む。
彼の著作はほとんど読んでおるかもしれんな。
『チベットのモーツァルト』とか『蜜の流れる博士』、『野うさぎの走り』、『ケルビムの葡萄酒』、好きな本はいっぱいある。
文体が素晴らしい。
文体と理路がここまでかみ合っている思想家はおらんかもしれん。
ただそこが目くらましだという批判もあるが。
まあ中沢はよいから、話を元に戻してほしいな。 >>461
うん、まあ正しいこと言ってるんじゃないの。。
ざっと読んだだけだけど。。 >>463
ウェルベック『素粒子』は読んだほうがいい。
中沢どうこう以前に、単純に小説として面白い。 ちがうわよ〜。
新人脱落したっていうから、
いやーね、もうバカ! そうじゃないでしょ。脱落の新人でしょ。
って、言われて、
あ〜 そうだったわ〜! さっすが師匠(笑)
今は今、過去は過去。 悟りは悟り。 >>464
中沢さんは、オウム事件以後、転向、というか、転回があったからね。。
そこで挙げられている本は、やっぱどっか神秘主義的なところや、エキゾチズムを売りにしてるところがある。。
そういう部分をかれは、95年以降、自ら否定したわけだ。。
「カイエ・ソヴァージュ」シリーズも全部読んだけど、10何年も前の話だ。。
その頃の俺は、信用創造とか価値の増殖等、経済学がまるでわかってなかったからな。。
もう一度読み返したいわ。。たぶん、前読んだときは、ようわからんかった気がする。。
あとは、仏教でんでん、自己の実存の問題ばっかりに囚われていた時期のような気もするし。。
・・話は流れる・・元に戻す必要なんてないよ。。w 中央大学から多摩美大に移って芸術人類学研究所を開所したとき、
中沢の講演を聞きに行ったな。
あのときは「もうぜったい失敗はしません。失敗のしようがありません」と冒頭から言っておったよ。
いささか唐突な発言で、若い聴講者はわけがわからんかったかもしれん。
中沢は、自分の思想をそのまま安易に社会で実践するとえらいことになるということを体感したからな。
やはりクッションを置かねばならないと考えたわけだろうね。
中沢の考える「芸術」とか「経済」というのは、
思想を実践するために必要な「あそび」「余裕」「間」であろうと思う。
カイエソバージュシリーズは、そういうスタンスで書かれていると思うがね。
まあ、まだ未成熟だったころは中沢の本には希望を感じたもんだ。
そういう意味で元オウムくんにシンパシーを抱いてしまう。
わからなくもない。
しかし大人になって、要するにすれまくってしまって、金勘定ばかり達者になると、
中沢の思想も「おはなし」みたいに思えることがある。
悪い大人になったということだ。
初期衝動は大事にせねばなるまいよ。 フレンチドレッシングの赤白どっちも好き
イタリアンドレッシングも好き
1000ドレッシングも好き
最初は中華ドレッシングが好きで、その次に青じそドレッシングが好きだった
(-人-) 誰か中沢を評して、ロマン主義的な青年の思想、と書いておったような気がする。
これはほんとうにそのとおりだと思うわい。
ガム踏んづけてキレるような60過ぎのナマポじじいには、ちょいと甘すぎるように感じることもあるなw >>471
キューピーのコブサラダドレッシング。
いまオレのなかでヒット中。
昼飯のサラダにはこればかりかけて食ってる。うまい。 >>473
食べてみたいと思ったけど、画像検索したら、アボガドが出てきた
ちょっと微妙な感じ (-人-) 中沢新一とか知らんが、顔からパッション (情熱) を感じた
別に読む気はない (-人-) >>474
コブサラダ自体はアボカドがはいってるサラダだからねw
でも、ふつうにレタスとかきゅうりにつけて食えばうまい。
トマトにもよく合うよ。
メキシカンにスパイシー。 マグロに似てるとか聞くけど、マグロ好きだけど、マグロはマグロでいいよ
アボガド 和智のパッションは、戦場へのパッションしかないから、違うパッションは
けっこうどうでもいい感じ (-人-) >>476
あー、まあうんこくんは必要ないかもしれんw
でも、チベット関係の中沢の本には、
修行中のゾクチェンに第三の眼みたいな穴が頭蓋骨に開いて、
そこに草を挿して歩く坊さんの話とか出てくる。
ふぇぇって感じになる。 爬虫類は、まだ眉間の第三の眼が機能しとるんぢゃ
熱感知の機能だったかのぅ?忘れた (-人-) >>479
ちなみに中沢はレーニン大好き、レーニン至上主義者。 脳の真ん中にある松果体と第三の眼を通して、なんか見てるんでなかったっけ
眉間のアジナチャクラと、松果体のビンドゥチャクラが、どうのこうのぢゃ
宇宙人たちは、そこから虹色に変化する様々な光りを放ち、瞬時に意思疎通する
その光の色によって、思考と感情が瞬時に伝わるから、言語が不用らしい (-人-) >>482
コミュニズム・パッションを感じたのぢゃ。和智の心眼はよく効くのぢゃ (-人-) スタポケ。なかなか石が取れないから、課金したくなる >>484
中沢は唯物論者であってもコミュニストではないが、さすがだと思います。 >>470
僕は、中大まで行ったぞ。。
カイエ・ソヴァージュの授業だった。。
まあ、ジョークも挿んだ、名講義だったわ。。
>>472
そういう風に、レッテル貼って否定して安心、というのが多くの評者だろう。。
でも、それじゃーわかってないよな〜。。
ぼくだって、批判的な見方はできるが、総合的に言ったら、評価せざるを得ないと感じるな。。
正直なところ、大先生だ。。w >>480
実際に穴空くんだぞ。。
チベットに行った人たちは、実際に見てきてる。。
元オウム氏も運送業で、金貯めたら、チベット行けばいい。。 それから、穴が開くのは、第3の目じゃなくて、ブラフマ孔、頭頂部ね。。 >>488
そうらしいね。
オレもバックパッカーに聞いたことがある。
ガチっぽい。
どういう理屈でそうなるのかわからんが。 >>489
ああ、そうだった。
頭頂部だった。
頭頂部に草を挿して歩くんだ。
シュールだわい。 >>490
おれもよくわからんけど、共産党の憲兵に捕まった行者が、その穴から、意識を転移させて、死んだ、なんて話を読んだな。。
要するにポアと言うやつだ。。 >>487
> そういう風に、レッテル貼って否定して安心、というのが多くの評者だろう。。
> でも、それじゃーわかってないよな〜。。
レッテル貼りというと、まあアレなんだが、
世の中には青年の思想はつねに必要なのだ、じじばばにバカにされても。
ガム踏んづけてキレるようなじじいが信奉する思想なんてものが、
つねに未来に役立つとは限らんからな。 >>494
そういうこともたまにはあるわい。
オレは寝る。
明日は朝からはやくて、しかもそのまま職場に泊りになるからな。
さっさと寝て体力を温存する。
では、おやすみなさい。
Sketch Show - Stella
https://youtu.be/kvl_SdYo2XY >>493
そうじゃなくてよ〜。。
複雑、繊細なものに、単純なレッテル貼って否定するってのは、知性的じゃないよなってことだ。。
イデオロギーの問題もあろうが、気質の問題もある。。
団塊の世代にはわからんだろうし、その下の世代でも、エディプス的な構造にがんじがらめの人間に、
チベットのモーツァルトを言ってもしょうがない。。w
老荘は嘘だっていう人は、そういう在り方が可能だってことを、そもそも信じられないのだろう。。
まあ、だから、可哀想だよね、そうやって、可能性を否定しないではいられない人々たちと言うのは。。
中沢氏も、そういう人々を哀れに思っているのだろう。。 中沢新一の唯物論は、物質=エネルギー=霊性みたいな、特殊な唯物論。。
レーニン論じても、レーニンそのものじゃなくて、あれはレーニンの可能性の中心を言ってるだけ。。
他の人を論じてもそうなんだよね。。
他から触発された面はあっても、結局自身の思想を語っている、と言うことになる。。 >>496
複雑繊細なものにタグやらラベルをつけて整理するのは、
西洋東洋問わずどこでもやることだ。
複雑繊細なものをパッケージ化して誰かに手渡す。
ファイルの圧縮みたいなもんよ。
受け取った人間はある特定の手順にのっとって圧縮ファイルを展開するわけだが、
つねに元のファイルと同じものが展開できるとは限らんだろう?
知というものはそういうものだ。
インドから三国時代の中国に移入された仏教もそうだったから、展開すると中国禅や浄土教になった。
中沢はフランスのポストモダンを日本に持ち込んだが、あまりにパッケージ化が過ぎて、
たとえばドゥルーズのバロック論とかの解釈が恣意的だと批判を受けた(この批判は妥当なものだった)。
しかし、展開の過程で別なものが生まれることもある。
オリジナルと違ったものが展開されたからと言って、オリジナルより劣化しているわけではない。
別のものと受容すればよいのだ。
「ロマン主義的な青年の思想」というのは、中沢が好むゲーテに呼応したもので、
別に悪口でも何でもない。
中沢の複雑さをじゅうぶんに加味しているとオレは考えるがね。
ちゃんと読んでる人間でないと出てこないコピーだ。
こう書かれたら、むしろ中沢本人は喜ぶであろうよ。
若々しさを貴ぶひとだからね。 >>498
ラベリングや分類そのものを否定しているわけではないよ。。
ただ、世の中には、ジャンルに属さない、分類できない本もあろう。
中沢の思想は、そういうものだよ。。
だから、そうした分類で、わかった気になってはいけない、と言っているわけ。。
ロマン主義でもなく、現実主義でもなく、古典主義でも、右翼でも左翼でもない。。
未来派なのかもしれんし、縄文主義かもしれんし、何とも分類できん怪物的なところがある。。
そこが、中沢思想の、理解され難さだろうね。。 ロマン主義ってのは、現代のナショナリズムとか、家族主義もロマン主義。。
有象無象の群衆を神聖なる国民として理想化する、どこにでもいる女と子供を理想化、神聖化する。。
このロマン主義と、資本主義は、セットであるかもしれんな〜。。 ロマン主義は感受性の豊かな青年期にかかりがちな病気みたいなものでしょ。 ロマン主義は理想主義の一種でつまるところ理想と現実のギャップに苦しむ。
中沢さんも結局オウム事件によってロマン主義を破壊させるしかなかった。
中沢さんのような人ほどロマン主義の大海を遠乗りしちゃって後で大変になる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています