【仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】264
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釈迦牟尼仏、明星を見て悟道して日はく、我と大地有情と同時に成道す。
前スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】263
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1507900729/l50 だろうなぁ。
でおーも元オウムさんも純朴な感じがするけど、人見知りというか、閉鎖的な感じがすんだよなぁ。
山本五十六とか故郷が近いとかなw アンパンマンの歌を聴くのぢゃ。愛と勇気だけが最高のトモダチなのぢゃ
そいつは自分の心の中に初めからおるのぢゃ (-人-) 息をして、視界を開いて、風と匂いを肌身で感じる、この状況と
ポカポカするような心の衝動が、この手元にある、この感覚は
和智は今からラーメン食べるのぢゃ (-人-) 中沢新一は、我々は過渡期にある、と言っているね。。
ものの見方がガラッと変わる、来るべき革命、と言うことも言っている。。
カイエ・ソバージュ・シリーズの序文だ。。 ドラッグ悟りはやばくね?効いてる今だけ多幸感。
昔喘息持ちで、ぶっとい注射にエピネフィリンていうアドレナリンを静脈注射されたときも
ものすごい多幸感と体中がスースーするような快感があった。
しかし効き目が切れると元の木阿弥。 まあ量子力学は本質論だからな
因と果の間に何があるかを読み解くという
仏教と通じるもんがあるだろう笑 ∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ元オウムたんへ
>>47の勤務時間がデフォみたいです
会社にもよるけど、大体そうだよ。オイラは1週間に1回しかアパートに帰れないけど、トラックの中で寝泊まりしてるから、通常のサラリーマン、8時から17時より楽です。運転、積み込み、荷下ろし以外は自由時間だからね。 >>377
麦ちゃん、どうもありがとう。
キツイという噂ばかり聞いていたから、とても励みになりました。
サイトのお兄さんにもよろしく伝えてください。 最新型のスマートフォンにバグが多いのと同様、
世間で頭がいいとか高学歴とか言われている人の頭は
精巧にできている分、かえってこわれやすい トラック運転手いいかもだな。。
月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。
舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、
日々(ひび)旅(たび)にして旅(たび)を栖(すみか)とす。
古人(こじん)も多く旅(たび)に死(し)せるあり。
よもいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、
海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣(ふるす)をはらひて、
やや年も暮(くれ)、春立てる霞(かすみ)の空に白河(しらかわ)の関こえんと、そぞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、
道祖神(どうそじん)のまねきにあひて、取(と)るもの手につかず。
ももひきの破(やぶ)れをつづり、笠(かさ)の緒(お)付(つ)けかえて、三里(さんり)に灸(きゅう)すゆるより、
松島の月まず心にかかりて、住(す)める方(かた)は人に譲(ゆず)り、
杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移(うつ)るに、
草の戸も 住替(すみかわる)る代(よ)ぞ ひなの家
面八句(おもてはちく)を庵(いおり)の柱(はしら)にかけ置(お)く。 とんでもない勘違いによって人間は無限の知識地獄に
陥っている
後天的な知識こそが人間の欠点なのだ >>378
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ勤務時間見るとキツそうですよね...
長距離の運転で神経使って疲れると思うけど
気を楽に♪気を楽に♪
好きな音楽聴きながら仕事楽しんじゃいましょう♪ もし何かがあなたの行為によって達成できるとすれば
それはこの世に属する
行為によって達成できるものはすべて物質の世界に属する
そして、精神の世界に属するものは
どれも行為によっては達成できない
それは無為によって、リラックスによって
全面的な明け渡しによってしか達せられないのだ 多くを為すがいい・・、が
行為者になってはならない。
世間の中で生きるがいい・・、が
世間をあなたの中で生きさせないこと。
それができたらそのときには、矛盾は吸収されている。
そうなったらあなたは何一つ拒まず
何一つ否定しない--
<神>全体が受け容れられたのだ。 過去のことを考えるたびに”私”が入りこむ。
未来のことを考えるたびに“私”が入りこむ。
だが
あなたが今ここに在って、過去も未来も考えないときには、あなたの”私”はどこにいる?
あなたはそれを感じられまい。
それはそこにはない--
自我は現在の中には存在したことがないのだ。 今あるがままのあなたは真実ではない。
だからこそ、これほどまでに希望をもちつづける。
希望はすべて偽りだ。
が、あなたは真実だ--
私の努力は、いかにして
あなたをあなた自身にぶっつけるかにある! ただ望みを、欲望を落としなさい
そして、一目でもいい
あなたがすでにそうである実相を見てごらん
ただ単に目を閉じて
自分が誰だか見てごらん
それでおしまいだ!
瞬きするぐらいの間にすら
これは可能だ
それには時間などいらない あなたは自分の人格から抜け出す力を持っていなくちゃいけない
あなたはもし状況がそれを要求したときには
まったく新しい応え方をできる力を持つべきなのだ
もしこの能力がなくなってしまったら
あなたは固まってしまう
そうしたら、ゆったりとなどしていられない
そしたらあなたは柔軟じゃない 瞑想はすべて中心が据わるためにある
あなたの内なる声を聴きなさい
そのフィーリングといっしょに動くのだ
だんだんとあなたは
他人の意見など一笑に付すことができるようになる
いったん中心が据わってしまえば
あなたはパワフルな実存と化す
もう誰もあなたを小突きまわすことなんかできない あらゆる瞬間
あなたが何をしようと
あなたはその外にい続ける
どんな行為もあなたの傷になどならない
一度リラックスしてこれを見抜いたら
もうあなたは何をするかなどに思い悩むことはない
そうしたらものごとにそれなりの進路を取らせてやるだけだ
そうしたらあなたはただ白雲のように漂う ただあなた自身でありきって
ものごとの起こるにまかせてごらん
何が起ころうと無条件にだよ
良くても悪くても
不幸でも幸福でも
生でも死でも
何が起ころうとそれを起こらしめるのだ
あなたはただ出しゃばらないだけでいい
全存在が完全無比に進行している
なぜあなたが自分のことで思い悩む なんであれ自分がやっていることのすべてに
たとえ瞑想でもだ
私は例外なんて認めない
瞑想にもしがみつかないこと
なぜなら
その執着さえも落とさなくてはならない日が来るはずだから
それもまた落とされたとき
瞑想は完璧なものとなる
完全な瞑想があったら
あなたは瞑想する必要もない 不完全でいて、成長し続けなさい
なぜなら、それが生というものだからだ
完全であろうとなんかしないこと
さもなければあなたは成長を止めてしまうだろう
そうしたらあなたは仏像のようになってしまう
石ころだ
いくら仏像でもそれは死んでいる もしあなたがその状況に感応していたとすれば
何かがあなたの中で花開いたことだろう
あなたはある種の静寂を
静けさを
祝福を感じたことだろう
そこに感応があるときには必ず
あなたは内面に一種の開花を感ずるものだ
反応のときは
あなたは死んだままだ
ロボットまがいにあなたは行動する もっともらしいこと言ってるOSHOラジニーシだが
彼は読書オタクでかつ笑気ガス中毒者であった。 仙台には札幌ラーメン寶龍はあるのかのう。
寶龍の味噌ラーメンはうまいぞ。 オショーはやっぱ違うね〜。。
結局二項対立の中にいるから。。
それも必要な方便かもだが、本来ないものをあるように言ってるわけだから。。 世間を抜けるとか自我を脱するも、もちろん、必要なプロエスだが、本来どっちもないものだからな〜。。
無いとわかって言ってるものと、わかってないものでは、ちがう。。
無いとわかって、抜けなさい、と言う方が正しい。。
でなくば、誤った方向へ導いていることになる。。 悟りと言うものも、本来ないものだ。
だけど、いや、だからこそ、それを悟らんとな〜。。 オショーの言葉は、超越的な悟りがあるような、幻想を与える。。 お釈迦様だって、超越者になったわけではない。。
ただ、それが宗教化される過程で、超越的な悟りがあるかのような信仰が生まれた、ということだろう。。 ろんは絶対性と相対性を理解しとらんな
一般人と相対して観れば釈迦は超越しとるよ 406.
超越的な悟り、は可能である。
だが、それを実現できない、だけのことである。 OSHOって言うのか。
確かにそうだけど、やっぱり文書でなにすると隔靴掻痒なんだよなぁ。
やっぱり、直接参じられる、禅語録の方が自分には親しいなぁ。
「八角磨盤空裏走」 >>407
>ろんは絶対性と相対性を理解しとらんな
>一般人と相対して観れば釈迦は超越しとるよ
いや、相対(差別、有、煩悩、此岸)で見れば超越だし、絶対(平等、無、菩提、彼岸)で見れば同じ。
結局、差別で見るか、平等で見るか、その両方で見ないか、両方で見るかの四通り。 あー、なるほど。
いまわかってきたわい。
超越的と超越論的の区別がついてないのがここにおるわけだな。
というか・・・まあ、仏教というのは・・・ お釈迦様は苦を滅するための相対的な方法論も説かれたし
絶対的な方法論も説かれた。 超越的と超越論的の区別がついてないのがここにおるわけだな]
説明もせず、かっこつけて。 にもかかわらず、絶対的な方便のみに固執しているのが禅宗かと思う。
思考そのものをしなければ心身脱落だと。
チベット仏教の坊さんは怒りに対しては忍辱や慈悲の心を思い起こすとか念の力、
相対的方便もよく説かれる。もちろん空の瞑想もするそうだけど。
で現実的に念の力は大きい。
念の力が足りないと、ふと魔がさして煩悩に支配されてしまう。 >>415
ふぇ? 説明とかいらんでしょ。
書いてあるとおりですわい。
それ以上でもそれ以下でもないわw >>417
身心脱落の後に脱落身心があったのも知らないで禅を語るの? まあ禅は絶対性を指向しているからな
全て無だ悟りなんか無いとな
そこに凝り固まると
相対的に観るべきものすら絶対的に観てしまうんよ
悟りなんか無い
でも悟った人はいるんだよ笑 >>410
なるほど。。
>>412
そんな単純な話じゃない。。
お前にジャンキー氏の話はわからんよ。。 >>418
「らせば、ほうら。」
分らんか?
ふぇ? 説明とかいらんでしょ。
書いてあるとおりですわい。
それ以上でもそれ以下でもないわw
あな、臭し。 >>421
べつにジャンキー氏のことを話しておらんよ。
彼はそのへんのことは慎重に考えておるようやがね。
意識的か無意識的か別として。
まあ、オレのことなんぞどうでもええがな。
続けて続けて。 >>422
ほうかねw
鼻にガムをつめておけばよいよ。 >>420
西田先生が言ってたよね。
「絶対矛盾的自我同一性」とか。
禅は絶対と相対が同居して矛盾しないの。
これはやっぱり修行して何がないと分からんね。 >>419
細かな禅用語には首は突っ込みたくないw泥沼にはまりたくないんで。 酔っぱらってないとジャンキー禅は無理w
いくら壊れても筋の通らない壊れ方はしたくないw >>417
絶対性だけではどうにもならんけど、理として正しく、明らめやすいのが平等智。。
僕はそこから入ったな。。
そこから入らなければ、入りようがないではないか。。
方便=相対性と、法=絶対性をわけで、まずは、法を明らめる、心を明らめる、でなければ、いたづらに、自心をどうにかしよう、瓦を磨き続ける、に終始してしまうんではないか?
もちろん、相対性から、入るパターンもあるかもしれんが。。
難しいような。。
>>420
禅は、相対性=差別智もおろそかにしてはならないと説く。。 >>429
ほうかねw
じゃあ、アロンアルファがいるな。
鼻穴をひっつけとけばよい。
あとでお湯で洗うととれるから心配せんでええ。 >>428
平等智は大切ですよ。
一切衆生は苦しみから逃れたい、楽になりたいという点ではみな一緒であると。
動物を飼ったことある人はよくわかると思います。
大事に飼うと幸せそうなしぐさや元気なしぐさをする。
邪険にすると噛みついたり、人を恐れるようになる。 >>431
ほうかねw
じゃあついでに目もボンドでひっつければいい。
嫌なものも見なくて済むようになる。
眼球にはひっつけるなよ。
ヘタすると失明するからね。 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生(しやう)あり、死あり、諸仏あり、衆生(しゆじやう)あり。
万法(まんぽふ)ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生(しやう)なく滅(めち)なし。
仏道、もとより豊倹(ほうけん)より跳出(てうしゆつ)せるゆへ(ゑ)に、生滅(しやうめち)あり、迷悟あり、生仏(しやうぶつ)あり。
しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜(あいじやく)にちり、草は棄嫌(きけん)におふるのみなり。
(現成公案)
一行目が差別、二行目が平等、三行目が平等差別の対立に捉われることがない見方ということだろう。。 穴草のレスのコピペ
「ほうかねw
鼻にガムをつめておけばよいよ。 」
「ほうかねw
じゃあ、アロンアルファがいるな。
鼻穴をひっつけとけばよい。
あとでお湯で洗うととれるから心配せんでええ。 」
「ほうかねw
じゃあついでに目もボンドでひっつければいい。
嫌なものも見なくて済むようになる。
眼球にはひっつけるなよ。
ヘタすると失明するからね。」
素晴らしい。
ほーかね。 小憎らしいアナクサも、妻子の前ではメロメロおやじで
「●●ちゃん、今日せっくすしたいなあ」とか言ってるんだよ。
安倍ちゃんはもはやババアの生身に興味はなく、ドール好き(笑)だという。 >>426
身心脱落=平等
脱落身心=(平等の)差別、ありのまま、実相、肘外に曲がらず
こんだけの事。 アナクサはおもしろい
罵詈雑言のバリエーションが豊富
笑える >>432
そういうのも平等智だけど、そうじゃなくて、自己と環境全体を一つに見る。。
因果=無我、無自性、空と言う見方が、僕やジャンキー氏が言っている平等智。。
それがわかれば、とりあえず、これから、自分が悟ろうとかさ、自己をどうしよう、っていうのが消えるんだよ。。
迷悟の区別もなくなる。。
もちろん、それだけじゃあかんのだが、まずはそこに落ち着く、というのが、禅修行の第一歩だよ。。 >>436
YES/NO枕だから、うちは。
そのへんはスマート。さりげない。 人は見た姿を「その人」だと思ってしまいがちだが、野球のイチロー選手が
赤ちゃんプレー好き(笑)だそうです。
穴草のリア充アピールも、現実は逆かもしれないし。
自作自演する人間は自分の正体を隠したい。
それでもたまに本音を言う。先ほどはパーピマンが導き出したわけだけど。 仏道を修行する者は、先ず須(すべか)らく仏道を信ずべし。
仏道を信ずる者は、須らく自己もと道中に在って、迷惑せず、妄想せず、
顛倒せず、増減なく、誤謬なきことを信ずべし。かくの如きの信を生じ、
かくの如きの道を明らめ、依りてこれを行ず。乃ち学道の本基なり。
(学道用心集)
これは結論だけだけど、平等智からくる結論はこれだ。。 家族の話をしたらリア充アピールなのかいw
そりゃあきみ、生き難いだろうねえ。 中国でできたお経は読まない。
のっけから大事なことが抜けている。
ブッダが出てこない。ブッダこそが悟りの因だということがわからない中国禅経典は
読まないです。 経典が伝授された弟子たちは経典に礼拝したが
一人だけブッダに礼拝した。
どちらがブッダに近いかは言わずもがな。 >>444
もったいねーな〜。。
漢文、漢詩、かっこいいじゃないか。。w
http://www.suehiroya946.com/27_19625.html
有名な句なのかも知らんが、知らんかった。。
碧巌録は、最初の方しか読んでないな〜。。 なぜ禅宗の人たちは
お釈迦様の直系の弟子である達磨大師の「二入四行論」に立ち返らないのか不思議だ。
中国で汚染される前の経典なのに。 >>445
だけど、同時にお釈迦さまは、私を個人崇拝しても意味ないぞ、だから仏像も作るな、と言うことも言ってる。。
教えの方が大事だってことよ。。 法はもちろん大事ですけど、その法の源泉はブッダであり
大乗仏教のナーガールジュナの弟子の論書にも
ブッダこそが悟りの因であると説かれている。
大乗仏教も中国に入りブッダへの帰依が薄まったんじゃなかろうか? 仏教は素晴らしいが、ブッダが目の上のたん瘤だった人が中国にはいたんでしょうね
仏典にはいたるところに王が出てきて、ブッダに教えを乞う場面が散見される。
中国の皇帝がそれを不服に思っていた可能性はあり得る。
仏教発祥のインド地域はもともとバラモンをあがめる風土があったから通用したが。
ブッダが王様に説教するんだから。大乗仏教の論書にもあからさまに王を戒めている記述があった。 >>450
僕は、祖師方全員に感謝みたいな気持ちでいるかな〜。。
お釈迦さまも含めてね。。
ブッダと言ったら、目覚めた人全員のことよ。。
お釈迦様とか、ゴータマ・ブッダというと、仏教の開祖だけど。。
えり好みしないで、なんでも学べばいいじゃん。。
僕も、公案とか原始仏教とか、詳しくないが、そのうち機会があれば、学びたいとか思ってる。。
牛が窓を通り過ぎる話とか面白いわな〜。。w
発心寺は、曹洞宗、臨済宗の区別にとらわれず、公案も使った指導をする。。
だから、雪渓師の本とか読むと、公案もいろいろ考えたりする。。
なんでもやればいいんだよ。。 ブッダと言うのは、目覚めるという自動詞の過去分詞、らしい。。
で、その過去分詞が名詞化した、ということだろう。。
目覚めた者という意。。
自動詞だから、何かから目覚めた、と言うことであって、何かに目覚めたわけじゃない。。w >>450
> 法はもちろん大事ですけど、その法の源泉はブッダであり
> 大乗仏教のナーガールジュナの弟子の論書にも
> ブッダこそが悟りの因であると説かれている。
> 大乗仏教も中国に入りブッダへの帰依が薄まったんじゃなかろうか?
事件が明るみになる前のオウムに、一部のニューアカ系知識人が好意的だったのは、
そういう理由もあるだろうねえ。
中国というバイアスを嫌って、さらにルーツに遡りたいという感覚があった。
歴史的にみて、中国への仏教移入が「ブッダへの帰依が薄まった」ことを示すかは別にして。 >>454
チベット仏教は、チベット仏教なりの創造があり、ブッダの教えをもともとの通りに教えてるわけじゃない。。
そもそも密教ベースだから、四聖諦は、仮の教えであるみたいなことも平気で言う。。
中沢新一の責任論みたいなのは、もう言いつくされた感もあるが、チベットの高僧がそもそも、麻原が偽物と見抜けなかった。。
中沢新一も、見抜けなかった。。
だけど、ダンテス・ダイジは、麻原と会って話した後で、「あいつはそのうちとんでもないことをしでかすんじゃないか」と弟子たちに語ったという。。
ダイジの方が、見抜く目があったということだ。。 原始仏典読んだら禅語録は受け付けなくなる。
本来の仏教に立ち返ろうと努力されたのが道元さんでしょ。
道元さんもそれまでの禅宗に疑問をもって、正法眼蔵を書いたんでしょ。
事実原始仏教に近いところもある。
しかし今は原始仏典が容易に読めるので、道元さんの苦労をしのびながらも
原始仏典を読んだほうがいいと思います。 岩波講座東洋思想のチベット仏教の巻で、中沢新一がしっちゃかめっちゃか叩かれてたのを読んだことがあるな。
カギュ派かなにかの論考の注釈でだったけれども。
「チベット仏教であればなんでもよいというのは学者として頭がおかしい」的な。
「なんでもよい」というのは、思想としての質がよいとかわるいとかそういう意味もあるし、
現代社会にそっくりそのまま使える的な安易な思想の使われ方を指してもいる表現だったと記憶している。
刊行時期はニューアカ末期だったと思うが、初期中沢批判はここに尽くされておるだろうな。 ダライラマ法王は四聖諦から説かれますけれども。
ゲールク派は原始仏教の経典を必須経典にしてます。
ニンマ派にもいろいろあって、ゾクチェンのような修行法もありますが
基本は原始仏教で原始仏典を「聖典」と呼んでます。 チベット仏教はナーガールジュナやアーリヤデーヴァやシャーンティーデーヴァなどの
インド大乗仏教の師を非常に尊敬してます。
その大乗仏教の師方は原始仏典に忠実です。
原始仏教・大乗仏教が土台にあって密教やマハ-ムドラーなどの修行法があります。 ロンなら読めると思うから貼ります
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
このお坊さんはダライラマ法王の師を務められたニンマ派のヘッドラマだった方です。
中沢さんは所詮学者です。間違うのは必然です。 いま半額のお刺身食べてるよ
マグロ、真鯛 (のカルパッチョの野菜をどかした) 、スルメイカ >>458
中沢新一ほど、不当に嫌われ、正当な評価が与えられていない人もいないんじゃと思うよ。。
まあ、のちのち評価されるのかもしれんが。。
一般人のファンは多いが、学者とか、インテリ連中には嫌われてるのかもしれない。。
いろいろ大雑把だから、チベット仏教の権威いみたいな人にも叩かれる。。
だけど、彼は、何百年後の世界、あるいはもっと先の社会や、そうした未来に到来するであろう世界観を見据えて仕事してるんだわ。。
グローバル資本主義の次とか、今ある科学的世界観の次の世界観とかね。。
彼のためにめんどくさいが、引用してみよう。。
そうなると、第三次の「形而上学革命」がどのような構造をもつものになるか、およその見通しをもつことできる。
それは、今日の科学に限界づけをもたらしている諸条件(生命科学の機械論的凡庸さ、分子生物学と熱力学の結合の不十分さ、
量子力学的世界観の生活と思考の全領域への拡がりを阻んでいる西欧型資本主義の影響力など)を否定して、一神教の開いた地平を
科学的思考によって変革することによってもたらされるだろう。(『愛と経済のロゴズ』3頁)
文系の人間で、こんなに科学わかってるやつがいるんかな〜、という驚き以上に、今の科学の先にあるものが見えてる、と言うことがわかる。。
「形而上学革命」と言う言葉は、ウェルベックの『素粒子』と言う小説の言葉らしい。。
第一次形而上学革命=一神教の発明、
第二次形而上学革命=科学的世界観の浸透
↓
今はこの過渡期
↓
第三次形而上学革命=量子力学的世界観、ということかな〜? >>463
中沢新一は、高校生の頃ずいぶん読みこんだ。
学問の楽しさを教えてくれたひとりといってよい。
大人になっただんだん批判的な目で見るようになったが、いまでも本は出たら読む。
彼の著作はほとんど読んでおるかもしれんな。
『チベットのモーツァルト』とか『蜜の流れる博士』、『野うさぎの走り』、『ケルビムの葡萄酒』、好きな本はいっぱいある。
文体が素晴らしい。
文体と理路がここまでかみ合っている思想家はおらんかもしれん。
ただそこが目くらましだという批判もあるが。
まあ中沢はよいから、話を元に戻してほしいな。 >>461
うん、まあ正しいこと言ってるんじゃないの。。
ざっと読んだだけだけど。。 >>463
ウェルベック『素粒子』は読んだほうがいい。
中沢どうこう以前に、単純に小説として面白い。 ちがうわよ〜。
新人脱落したっていうから、
いやーね、もうバカ! そうじゃないでしょ。脱落の新人でしょ。
って、言われて、
あ〜 そうだったわ〜! さっすが師匠(笑)
今は今、過去は過去。 悟りは悟り。 >>464
中沢さんは、オウム事件以後、転向、というか、転回があったからね。。
そこで挙げられている本は、やっぱどっか神秘主義的なところや、エキゾチズムを売りにしてるところがある。。
そういう部分をかれは、95年以降、自ら否定したわけだ。。
「カイエ・ソヴァージュ」シリーズも全部読んだけど、10何年も前の話だ。。
その頃の俺は、信用創造とか価値の増殖等、経済学がまるでわかってなかったからな。。
もう一度読み返したいわ。。たぶん、前読んだときは、ようわからんかった気がする。。
あとは、仏教でんでん、自己の実存の問題ばっかりに囚われていた時期のような気もするし。。
・・話は流れる・・元に戻す必要なんてないよ。。w 中央大学から多摩美大に移って芸術人類学研究所を開所したとき、
中沢の講演を聞きに行ったな。
あのときは「もうぜったい失敗はしません。失敗のしようがありません」と冒頭から言っておったよ。
いささか唐突な発言で、若い聴講者はわけがわからんかったかもしれん。
中沢は、自分の思想をそのまま安易に社会で実践するとえらいことになるということを体感したからな。
やはりクッションを置かねばならないと考えたわけだろうね。
中沢の考える「芸術」とか「経済」というのは、
思想を実践するために必要な「あそび」「余裕」「間」であろうと思う。
カイエソバージュシリーズは、そういうスタンスで書かれていると思うがね。
まあ、まだ未成熟だったころは中沢の本には希望を感じたもんだ。
そういう意味で元オウムくんにシンパシーを抱いてしまう。
わからなくもない。
しかし大人になって、要するにすれまくってしまって、金勘定ばかり達者になると、
中沢の思想も「おはなし」みたいに思えることがある。
悪い大人になったということだ。
初期衝動は大事にせねばなるまいよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています