南無妙法蓮華經を唱える [無断転載禁止]©2ch.net
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>>23
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ定義されていますね
正法(しょうぼう、しょうほう)とは、
仏教で、正しい法(教え)のこと。
邪法に対する語。白法、浄法、妙法ともいう。
また、それが行なわれるとされる釈迦の入滅(肉体死)後500年又は1000年間の時期のことで、
仏法の儀式が改まらず成仏する人がいる時期をいう。
解脱堅固(げだつけんご)といい、仏法によって証りを得て誤りのない時代、
次の五百年を禅定堅固(ぜんじょうけんご)といって、 禅定(心を一点に定めて思惟すること)が盛んに行われて証りを得る時代
この場合、後の時代を像法、さらに後の時代を末法という。
正・像・末の三時のひとつである。 >>24
サラリン錠は下剤でさらりと吞んだら運古出ます流れますです、そうですが、
麦氏もさらりと妙を引きますが、さすがに誤訳訂正の度胸は無い人って誠実ですね。
それにしても正法はサッダルマとしか訳せません。
当時のインド人ならすぐわかる、菩薩が行うべき正しき八箇の行いですからねぇ。
末法がつい先年終わって、とっくに正法復活と言う論が有るのですけれども
ここでは書きません。そもそも
正、像、末なんてのはやる気のない禿のおっさんがやれない理由を百万並べた
坊主の泣き言でしょうよ。愚痴を愚図愚図と聞き入れしかも、あんたは
真に受けて、涙目になっちゃってさ、檀家総代と一緒に通夜に席に出ちゃ駄目ですよ。
君はこうして生きてんだからさ。合掌! あらゆる経典や御書を見るとき、想起すべきこと。
どこの馬の骨がそれを書いたかいなと。
案外そこらへんのおっさんかも。
あるいは文献マニアかも。
それを神々しく拝見する輩って、、、、、 >>23
妙法の義は
8歳龍女の女人成仏を
手本としたところにあり
誤訳でも何でもありません >>27-29
そんなに焦って書き込んで・・・・・
晃自身にも、題目 効能無しじゃろ。
ハハハハハ。 >>31
若し人有って 之を軽毀して言わん
汝は狂人ならくのみ 空しく是の行を作して
終に獲る所無けんと
是の如き罪報は 當に世世に眼無かるべし >>32
そらそら。
そうやって、とんでも経の一部をコピペして、
必死に焦って自己防御をする。
晃の題目が全くお粗末なことバレまくり。
馬鹿は死ななきゃ治らない。
いい見本だ。 晃は。 >>33
教示してあげてるのに
分からないなら仕方ない >>25
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ正しい訳は正法なんですね
南無正法蓮華経が正しいの?
経典自体が如是我聞ですよねw
経典全てがお釈迦様の正しい教えだと貴方は証明出来ますか?
如是我聞ですよ?w
麦はお経の意味さえ知りませんでしたが
興味を持ち勉強しています
法華経の訳を読んで麦は信仰したいと思いました
ですので
南無妙法蓮華経なのです 一生人を騙したり邪魔出来ない状況に救済されてくれよ >>35
>経典自体が如是我聞ですよねw
>経典全てがお釈迦様の正しい教えだと貴方は証明出来ますか?
>如是我聞ですよ?w
証明しなきゃいけないのは法華経なんぞ信じてるアンタであって相手じゃないよ >>37
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ主語が無いので貴方の言っている主旨が分かりませんw
麦が証明すべき事はありませんよ 法華経はいかにして行じられてきたか
│ 成仏論検討の為の覚え書き│
http://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho43-13.pdf&type=G&prt=756
日蓮宗は、本門の本尊を帰依の正境とし、本門の題目を信行の要法とし、本門の戒壇を依止の戒法とする三大
秘法を宗旨として、法華経を行じ且つあらゆる思想を開顕して妙法に帰せしめ、もって即身成仏、仏国土顕現
を理想とする。 「即身成仏」を論じる上で問題となるのは、そもそも成仏とはどういう状態のことなのか、という定義である。一
応、教学上では三十二相八十種好を具すことが仏たりえる証拠となるが、この凡夫の肉体(分段身)を捨てずに相好
を具す(変易身を得る)ことは、実は伝統的教学でも出来ないという「約束」である。即ち、「即身成仏」という用
語は、そもそも二律背反な、あるいはクリティカルな矛盾をはらむ概念なのである。そして実は、極めて乱暴な言い
方ではあるが、日本の仏教学史はこの矛盾をどうやって解決するか、という議論の歴史でもあった。
先ず即身成仏など(或いは成仏そのものが)あり得ない、という立場があり、教学的に解決しようとするもの、神
秘力をもって解決しようとするもの、心の成仏を論ずるもの、凡夫の成仏を諦めて、他の浄土に生まれることにより
仏の功徳に与り救われようとするものなど、極めて多面的な議論が行われてきた。そしてそれらの議論の上に、吾祖
の成仏論も成り立っている、ということである。 「法華経を行じる」とは、一体どういうことなのであろうか。
さて近年、我が宗では、一部で『法華懺法』への関心が高まっている。
。法華懺法の中心は、懺悔と誦経とにあり、懺悔は文に「至心懺悔弟子某甲与法
界衆生」とあるように、自己六根の罪過を懺悔すると共に、他の法界衆生の罪障を懺悔除滅するのである。誦
経は六根の罪障を懺悔して身心清浄となった時、知経し誦経することによって「仏即我、我即仏」になり、三
千実相の理によって仏我一体の念に達するの意がある。日蓮宗で行われている法華懺法は台家のそれと大差が
なく、地域によって諸流の法華懺法の伝承を残している http://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho43-28.pdf&type=G&prt=802
第九回日蓮宗教化学研究発表大会
教化上の二処三会
日蓮聖人はというと、阿佛房御書に「阿佛上人の一身は地水火風空の五大なり│しかれば 阿佛房さなが
ら宝塔、宝塔さながら阿佛房、これより外の才覚無益なり│我が身又三身即一の本覚の如来なり」と法身、報身、応
身が即一である、すなわち「我」も認めた上で、人間(我)阿佛房が虚空会上の宝塔であり、久遠の本佛(如来)と
同体であると教えられるのである。又、無作三身については、妙法尼御前御返事に「この法華経には、我らが身をば
法身如来、我らが心は報身如来、我らが振る舞いをば応身如来と説かれて候」と、この無作三身を説明されている。
これらを纏めると次のようになると思われる。 体(法身)│ 地水火風空 (五大)
無作三身 心(報身)│ 一個の細胞 (生命)
振舞(応身)│ 八十億万兆の細胞 (人間) この考えは、強いては、日常生活上での我(衆生としての我)と、無我を超えた法華経の悟りの我(久遠の本佛と
しての我)の両方を認めた上で、しかも、その二つの我は即一(同体)である(所化以って同体)、という表現の仕
方にされたと考えられる。
又、この考え方は、とりもなおさず、前述の原始仏教(非我と真我)を発展、完成させたものと同様のものと思わ
れる。
私は今、これら原始仏教の「非我と真我」、法華経の「久遠の本佛としての我と衆生の我」、そして、日蓮聖人の
「所化以って同体」の考え方等を考察すれば、仏教は「我」を認めている(移りゆく我であるが)ように思えるので
ある。
しかも、この「我」を認めるという考え方は、現代人の、仏教への不信に対しても大いに有効な回答にもなると考
えるものである。
おもしれえ、密教ぽーーい。 ここで、この仏教の矛盾という難問に答える為には、「無我」という表現よりも、先ほどの「二つの我(悟りの久
遠の本佛という我と衆生という我)」という考え方のほうが有効であると思える。何故なら、仏教は対機説法である
から、三法印の無常、無我、一切皆苦でさえも例外ではないと考えるべきであると思うし、今、これらの三法印の教
えは、人生最悪の状態に陥った人、死を目前にしている人、悟りを開こうとしている人、等への教え(最後には、無
常、無我、空を越えた法華経の我を説くのだが)と解釈し、日常生活を普通に営んでいる人(私は仮に「生活習慣
我」と表現する)には五戒、八正道等を説くことが理に叶うと思うのである。
このように、教化上は、我(自己)といっても一つでなく、大きく分けると、日常生活を営む生活習慣我と虚空会
上から見たような、無常、無我、空を越えた法華経の我(悟りの我、久遠本佛としての我)の、二つの我が、掌の両
面の如く同時に存在する、という考え方こそが真の仏教(法華経)の解釈であり、前述の現代人の仏教の矛盾への問
いにも答えられるものと考える。
ちょーおもしれえ論文やw そして、法華経は、この二つの我という考え方を知らせる為にこそ、霊鷲山会上(現実生活)と虚空会(悟りの久
遠の世界)という、二つの土に分けて説かれたと考えられるのである。
詳しく説明すれば、先ず、前霊山会では、生活習慣我の成仏、記別(心の成仏│涅槃)を説き、虚空会では、久遠
の本仏(体の成仏│般涅槃)という悟りの我(所化もって同体│法華経の我=自己)を説いたと考えられる。
そして、今、私という我(自己)が、このように二つの我から成り、しかも、その二つが恰も掌の両面の如き存在
(即一、同体)であると解釈することは、仏教、法華経への絶対の帰依(信仰)上、一般檀信徒への教化上必要と思われるのであり、
これらの考え方(表現)こそが、現在の仏教への不信を取り除けるものと信ずるものである。
相当おもしれなあ・・・こりゃ。 しかし、この生活習慣我は、一瞬にして壊れるものであり、苦の根源でもある。なのに「私という我は、永遠不
滅」と思う錯覚が、自らを迷わせているのであり、苦の根源にもなっているのである。だからこそ、法華経以前の仏
教は、この錯覚から目覚めさせるために、三法印、四法印、所謂、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦を、こ
とさらに強調して説かれたものと思われるが、前述の如く、一般大衆の不信を招く結果となり、それ故に、その欠点
を補い、仏教を完全無欠なものにすべく、「生活習慣我」と「一念三千の心と無作三身の体を持った、法華経の我
(久遠本佛と同体の我)」の二つの我が説かれ、その二つの我は同体であるという答により、全ての難問が開会され、
一切衆生が救われたものと考えられる。すなわち私という我の代表である釈尊が悟って仏となりその釈尊と久遠の本
仏は同体である。故に、私という我も永遠であると教えているのである。
それ故に、後霊山会では、再び、現実の世界(生活)に呼び戻し『虚空会での悟りの境智「すなわち、私(自己)
は、久遠の本佛と同体であるという心」を常に心底に踏まえたうえで、毎日の生活をすべきである』と教えられたも
のと思われる。しかも、最後に、念を押して、衆生が、万が一、虚空会での如くの、悟りの境智に入れなくとも「日
常生活において、次の四つを心掛けると、何時か必ず悟れる」と法華経は説くのである。すなわち「佛所護念、植衆徳本、入正定衆、発救一切衆生之心」である そして最後に、ここで、私が考えるのには、仏教への不信『「真の悟り、久遠の本佛と同体の我」とは何か、又、
現実にそういう我があるのか』を証明しなければ、一般大衆は納得しないと思う。
しかし、この二つの我『日常生活上での喜怒哀楽を持った我(生活習慣我)と、三法印の無我、般若心経の空、老
荘の道(タオ)、五木寛之の大河の一滴等を越えた、法華経の我(久遠の本佛と一体の我)』のうち、後者の「久遠の
本佛としての我」は「現実に存在するし、お題目の南無妙法蓮華経以外の言葉でも表現できる」と、私は考えるもの
である。そして、其れに対する答えは、次回に発表したいと思う。
以上、各聖の御批判を戴きたい。
さいこーやなあw現代宗教研究 http://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho42-24.pdf&type=G&prt=1097
T
社会活動(一般社会〈未信徒〉向け)=「但行礼」活動
宗内活動(教師・檀信徒向け)=「宗門再生」活動
1 但行礼拝活動 常不軽菩薩の「但行礼拝」の実践
社会に生きる唱題活動の展開
「但行礼拝」は、言うまでもなく、妙法蓮華経の常不軽菩薩品に説かれる言葉である。
(最初の威音王如来、既已に滅度したまいて、正法滅して後、像法の中に於いて、増上慢の比丘、大勢力あり。爾
の時、ひとりの菩薩比丘あり。常不軽と名づく。得大勢よ、何の因縁を以てか、常不軽と名づくるや。是の比丘
は凡そ見る所あらば、若しは比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を、皆な悉く礼拝し讃歎して、是の言を作せばなり。
「我れ深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以はいかん。汝等は皆、菩薩の道を行じて、当に仏と作ることを得
べければなり。」と。而も、是の比丘は、専ら経典を読誦するにはあらずして、但だ礼拝を行ずるのみなり。乃至、
遠くに四衆を見ても、また故らに往きて、礼拝し讃歎して、是の言を作せり。「我れ敢えて汝等を軽しめず。汝等
は皆当に仏と作るべきが故なり。」と。) http://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho41-06.pdf&type=G&prt=1206
毒を飲まなければよいではないか、ということにもなります。私達は、本来、どういう存在なのかというと、お経
には失本心者とあります。本心を失える者。仏様の目から見れば、我々は病気の状態、要するに毒薬を飲んで苦しん
でいる状態であるということです。自分自身は正常に生活していると思っているのですが、それは私達の価値観でそ
う思っているにすぎないのですね。仏様の目から見ると、私達の生き方というのは、自分中心的であったり、自分の
家族中心であったり、自分の地域中心であったり、或いは自分の欲望に基づいて判断し発言しているかも知れない。
そういう在り方というのは、仏様の広い大きな目から見ると、本心を失った者、あたかも毒を飲んでいるような状態
なのだと。要するに、物が欲しい、何々して欲しいという思い、これは人間の基本的な欲望、感情ですね。自分自身
が生きていく、生活をする、命を全うするために必要なもの、何々をして欲しい。その欲しい欲しいという思いは、
初期の目的が達成しても更に欲しくなります。次なるものを欲しくなります。人間の欲望は次から次へと肥大化して
いく、大きくなっていきます。そうすると、欲望は全ては満足されない、或いはどこかで制限される。となると、そ
こに不満が起きます。そういう風にして、欲望というものは不満を増幅する。不満を持つとそこに苦しみが生じま
す。欲しいけど手に入らない。それで苦しむ。それを仏様は毒を飲んでいる状態だと私達に教えておられるわけです
ね。
仏様が私達に教えてくださっている薬を飲みなさいという教え、仏様が私達にお与え下さった薬、これをお題目と
理解しているわけです。良薬(ろうやく)がお題目です。 典型的な有見外道説だな
中村元が「無我ではなく非我」とか言い出して
ウパニシャッド崩れみたいなトンデモ解釈を押し出したので
喜んでそれに飛びつく非佛教如来蔵系大乗教のみなさんたち
中村元の尻馬に乗っちゃうと中観が成り立たなくなるので
実は自分たちの教理的足元を掘り崩してるんだけど気づかないのよね 一生人を騙したり邪魔出来ない状況に救済されてくれよ 今夜も、眠れない晃。
マガイモノ題目の呪いに気づかない晃。
書けば書くほど、潜在意識に食い込んでいく。 >>60
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ何でマカイモノなの? >>62
法華経のどこにも題目を唱えろとかないでしょ
日蓮の(天台の法華懺法を形骸化した)勝手な思いつきでしかない >>63
善い哉善い哉、汝等但能く、
法華の名を受持せん者を擁護せんすら
福量るべからず
とある >善い哉善い哉、汝等但能く、
>法華の名を受持せん者を擁護せんすら
>福量るべからず
「名」ってのは題目のことじゃないよ
「名分」のことよw あと、それを仮に題目と読むとしても、
題目を受持するものを擁護することの功徳を説くのであって
題目受持の功徳を(ましてや得佛の果分を)説くものではないよ だいたい、どうしてもそういうなら、そのあとに、経巻供養の功徳が出てくるんだから
唱題なんざせずに佛壇に法華経1巻入れて線香焚いておくのと変わりはない たしかに手軽だな。
唱題なんかしなくても経巻供養でいいという文証を晃がしめしてくれたわw >>69
題目唱えるものは
十羅刹女の守護を受けるとある
>>70
いいえ >>71
上行菩薩が題目を唱えるようにと
残している
>>72
題目唱える方がもっと手軽やぞ >>74
>上行菩薩が題目を唱えるようにと
>残している
カルトだなあ
> 題目唱えるものは
> 十羅刹女の守護を受けるとある
成佛するとはどこにも書いてないぞw 名を名分ではなく名前と読んでしまうあたりが梵語漢語知らずの症状 >>75
守護されるということは
正法に誘引されて成道するということ
>>76
名は、経題
名分だとしても、経題に他ならない あと経巻供養の功徳は羅刹女が受ける功徳と並列で「名を受持する」功徳と並列ではないw
前者のほうが讃嘆されているのは言うまでもないこと >>78
それでも守護される事実には変わらない
>>80
成りすましするな 守護される≠得佛
こんな簡単なことも理解できないカルト脳 >>71
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレお線香やお香ってどんな意味があるの? >>82
分別功徳品には
釈迦牟尼仏の久遠実成を
一分でも信じるものの成仏は
疑いないとある >>83
陀羅尼品で塗香やらの功徳を讃嘆している法華経に聞いてw >>84
>釈迦牟尼仏の久遠実成を
>一分でも信じるものの成仏は
>疑いないとある
それで成佛疑いないなら、なおさら唱題いらないじゃんwwwwwww 一生人を騙したり邪魔出来ない状況に救済されてくれよ >>86
上行菩薩が、こういう修行法をするように
と定めたんだから、それに従うのが筋なんです >>88
>上行菩薩が、こういう修行法をするように
>と定めたんだから、
日蓮みたいなサイコパス女犯悪口破戒坊主が上行とかほんとカルト乙w >>89
偽晃は法華経を信じる立場に仮定して
反証してくるなら、まず上行菩薩の後身は
日蓮以外に存在するのか?ってことを知った方がいい
反論できないからって
悪口しか言えなくなるのが低脳の証だな >>90
>偽晃は法華経を信じる立場に仮定して
>反証してくるなら、まず上行菩薩の後身は
>日蓮以外に存在するのか?ってことを知った方がいい
AD1世紀の創作文芸の登場人物という虚構的存在の「後身」とか
日蓮が気狂い坊主だということをさておいて意味不明だろw
そもそも「(ジャンブドヴィーパ=インド亜大陸)に広める=広宣流布」してない日蓮が
どうやって上行とかいうキャラクターの後身になれるんだよwwww ちなみにホケキョ保ってねと委嘱されたのは宿王華であって上行ではありませんw >>91
閻浮提(ジャンプディーバ)には日本も入る
>>92
神力品を見れば上行に付嘱されてることがわかる >>93
>閻浮提(ジャンプディーバ)には日本も入る
入らねえよwwwwww
> 神力品を見れば上行に付嘱されてることがわかる
広宣流布は委嘱されてないなあwwwwwwww >>93
>ジャンプディーバ
それになにこの不思議なカタカナ表記 >>94
入ります
>>95
後五百歳の中で法華経の行者だったのは
日蓮より有名な人はいない >>96
入りません
日蓮は「法華経の行者」とやらではなく単なるサイコパスの気狂いですーwwww >>95
jambudvipaですが
>>97
入ります >>85
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレお香はあるけど法華経1巻持っていないから
南無妙法蓮華経でお香あげるお♪ >>97
はいりませんw
文証出してくださいwwwwwww
jambudvipa の音写が「ジャンプディーバ」なんですか凄いですね(ry 諸の無智の人の 悪口罵詈等し
及び刀杖を加うる者有らん 我等皆當に忍ぶべし
これを身読したのは、日蓮聖人以外にいません >>99
「経巻」供養しろって書いてあるからそれだと無功徳(嘲笑 >>101
>これを身読したのは、
してないじゃんwww
単なるサイコパスの気狂い坊主が嫌われただけwwwwwwww >>103
> 要するにアジアを閻浮提と言います
文証出してね(嘲笑
> デタラメなこと書かないで下さい
お前が引用した陀羅尼品の箇所の直後読めよ(大嘲笑 ていうか、閻浮提をアジアに拡大しちゃったらなおさら広宣流布なんかしてないじゃんwwwwwww >>107
四州を嫌い閻浮提のみに広布すると
日蓮も言ってます
>>108
してます >>102
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ南無妙法蓮華経だから功徳あるでしょう♪
お線香の功徳もあるしおじいちゃんおばあちゃんも喜んでいるだお♪ >>110
>日蓮も言ってます
それ文証でもなんでもないからwwwwwwwwwww
カルトの発想はやっぱり一味違う(嘲笑 >>109
広く知られてることが
広宣流布であって順縁逆縁を問わない
実際、法華経といえばアジアなら有名 >>112
鎌倉時代の認識で閻浮提がアジアだったことは
確かです >>111
唱題に功徳あるとは法華経は一言もいってないよw
唱題する人を「守護する」と功徳はあるって言ってるけど >>114
>鎌倉時代の認識で閻浮提がアジアだったことは
で?
だからなに? >>111
しかもそれも「名を受持」を「題目を唱える」と誤読してすら、ってことねw >>115
法華経を真意で読める人は
日蓮聖人しかいない
>>116
で?って偽晃がしつこく聞いてきたから
その義を説明してるんだろうに
>>117
誤読でもなんでも無い >>113
>広く知られてることが
>広宣流布であって順縁逆縁を問わない
>実際、法華経といえばアジアなら有名
ははははは
ギリギリ北伝諸国でしか有名じゃないだろw
肝腎のインドも盗難アジアも入ってなくてわずかに北東・東アジアだけwwwww >>118
>法華経を真意で読める人は
>日蓮聖人しかいない
循環論法 & カルト乙 >>119
東北に縁あり
と弥勒菩薩の唯我論とかにもあるしな というわけでこうやって日蓮カルトを破折して功徳が積まれていくのであった >>120
循環してなにが悪い?
>>122
どこにその文証がある? >>123
>循環してなにが悪い?
wwwwwwwwwwwwwwwwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています