2011年(主日A年) 10月16日 年間第29主日
イザ 45:1〜6  Iテサ 1:1〜5b  マタ 22:15〜21

ペルシア王キュロスの勝利によって、今やイスラエルのバビロン捕囚が終わるのを、息詰まる思いで待つ第二イザヤの預言は、神の救いを “壮大な神の新しい創造の御業” として描きました。
神はキュロス王をそのための手段として用いられるけれども(イザ v.1)、彼はそれを知らない(イザ vv.4,5)。
神はイスラエルを贖われるが、決して世界をイスラエルに造り変えたりはなさらない。

そして新しく創造されるイスラエルの果たすべき使命が、四つの “僕の歌” (イザ 42:1-4,49:1-6,50:4-9,52:13〜53:12)で歌われていきます。
主イエスが御自分を “僕なるメシア” として理解され、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マコ 10:45)と言われたことを、
使徒たちの教会は “壮大な神の新しい創造の御業” であったと知って、神の国の希望を宣べ伝えました。

“共に恵みに与る者”(フィリ 1:7)としての教会を “造り上げていく”(エフェ 4:12)ことが、“神のものを神に返す” ことであり、これこそが宣教の主題であることを、
そして “皇帝のものを皇帝に返す” ことはそれとは区別されるべきことを、現代の教会が聖書を通して学ぶことが出来ますように。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より