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『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2002年(主日A年) 11月17日 年間第33主日
箴 31:10〜31 Iテサ 5:1〜6 マタ 25:14〜30
「さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。」(マタ v.19)
私たちは毎年典礼暦の終わりのこの時期になると、私たちの歴史はやがていつか終末の裁きの日を迎えるのだということを、主日のミサの日課から聞かされます。
キリスト者であるとは、この日に向かってその人生を生きることであります。
神から一人一人に預けられた時間や能力を、再臨の主の期待に応えるように活用して歩む 「かなり日がたってから」、私たちは終末の日を迎えることになるでしょう。
ですからキリスト者にとっては、その人生の歩みは神の前での課題であり、必ずその 「清算を始める」 終末の裁きに至るのです。
この譬え話では、主人は僕たちに 「それぞれの力に応じて」(マタ v.15)タラントンを預けました。
5タラントンと2タラントンを預けられた二人は、それが各自の力に応じた配分であると感謝したに違いありません。
彼らは喜んでそれで商売をしました。 (つづき)
いつの時代でも商売にリスクはつきものですから、必ず成功して利益を得るとは限りません。
私たち一人一人の人生も同様であって、成功と失敗、豊さと貧しさ、順境と逆境が複雑に入り交じっているものです。
ですから二人が5タラントンと2タラントンを儲けたのは、よほど運が良かったのでしょう。
しかしこの譬え話が本当に褒めているのは、この二人が喜んで商売をしたということ、言いかえれば各自が主から委ねられた人生に 「忠実であった」(マタ v.21) ということでありました。
(無事に儲けたということが褒められているのではないことに注意 ! )
それにひきかえ、1タラントンを預けられた人は、それが自分の力に応じた課題だとは思いませんでした。
彼は自分に委ねられた人生に喜んで取り組もうとはしませんでした。
彼は自分の人生を、再臨の主の期待に応えるために活用するものだとは考えませんでした。
「主を畏れる女こそ、たたえられる。」(箴 v.30)
主から預けられたタラントン、主から委ねられた人生を、「地の中に隠しておく」 のではなくて、再臨の主の期待に応えるように活用して歩むという課題が、私たち一同に与えられていることを知りましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 これを信じることが条件です。
「天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて
死に葬られ、陰府(よみ)に下り、 三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだの復活、永遠のいのちを信じます。」
信じられなければキリスト教には入れません。 2011年(主日A年) 11月13日 年間第33主日
箴 31:10〜31 Iテサ 5:1〜6 マタ 25:14〜30
旧約聖書の中で便宜上知恵文学と呼ばれている諸書には、必ずしも信仰とか倫理などと直接関係を持たない多くの教え、教訓、広い範囲の知識や技術などが雑多に含まれています。
これらはある意味で私たちの信仰の世界を広げてくれるもので、過激で律法的な禁欲主義や原理主義的セクトからの回避を助けてくれます。
ですから私たちは、今朝のこの朗読配分からもかなり自由に、人生の願望や賢い生き方へのあこがれを読み取ることが出来ます。
実生活に関わりがあるだけに分かり易く、示唆にも富んでいます。
そのような雑多な知恵の世界の中で、私たちキリスト者は信仰の旅路を歩んでいるのです。
確かに私たち教会は、“生きている者と死んだ者を裁く方であるキリスト・イエス” が “大いなる力と栄光を帯びて天から来られるのを” 待ち望んでいる民なのだということを、感謝の中に再確認しましょう。
「主を畏れる女こそ、たたえられる。」(箴 v.30)
私たちは信仰によって義とされ(ロマ 5:1)、光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかれるようにしていただいたのですから(コロ 1:12)。
私たちを突然破滅が襲うことはないと知っているのですから(Iテサ 5:3)。
そうです。 “主を畏れることは知恵の初め” なのです(箴 1:7)。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 >>601
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
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箴 31:10〜31 Iテサ 5:1〜6 マタ 25:14〜30
「従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(Iテサ v.6)
典礼暦のA年の主日が、今日と来週の二回で終わります。 私たちは毎年この期節に “終わりの時” に心を向けます。
日本語の感覚では “身を慎む” とは “慎み深い” などという用語法を連想させるので、何もしないで温和しくしていることのように受け取られますが、
実はこの言葉νήφωはむしろ “常に用意が出来ている” という意味であって、ルカ 12:35-36 のような内容で理解しなければなりません。
近年は就活をもじった終活という言葉が流行っていて、すでに “人生のエンディングプラン作成を援助する商売” さえもが目につくようになりました。
その内容は身辺整理、成年後見制度や見守りサポートなど、おひとりさま向け事前準備あれこれ、介護、葬儀供養など、要するに “無事に終わるための準備” という訳です。
しかし、聖書はそれとは全く反対のことを主張しているのです。
人の人生は死で終わるのではなくて、 ・・・・・ 恐らく “眠りについた” (使 7:60)が、最も適切な聖書的表現であります ・・・・・ 、
その次に “眠りから覚める”(ロマ 13:11)とき、 “わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つ”(ロマ 14:10)ときが続くことを、使徒たちは一貫して強調したのです。
“光の子、昼の子”(Iテサ v.5)とは、温和しくて行儀の良い人生を送りながら終わりを待っている人のことではなくて、“常に用意が出来ている信仰者” という意味なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 >>597-598 >>601 >>606
老クリスチャン 降臨
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l ニ 、. ニ二 _ノ \ ヽ
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∧_,,∧ 老栗 チャッチャッチャッ♪
. /\. (`・ω・´) /ヽ
| 老 ⊂ ⊃ 老 | 老栗 チャッチャッチャッ♪
ヽ/ / く \ /
(ノ⌒ヽ)
_人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人_
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> 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!!<
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トニィ'| `⌒´ | トニィ' /( ●) (● ) \
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/____,./ /__/ /__,/ ゝ、__| キリスト教やヤーウェ(ユダヤ教)は不動明王に非常にだまされやすい。
西洋の分析では見抜けない所から、嘘おおげさ紛らわしい術他を不動は仕掛けてくる。
だから西洋が東洋の術を見破るにはKSAから東洋のよくよく仏陀になったものを何体もつれてこなくてはならない。
東洋でもアマテラスみたいに浅知恵だとだまされている。(例えば今まであたった霊媒師達が私のことを
こぞってわるくいってるのにひっかかていたが、それらは全員不動の術中にはめられてる者たちだった。
釈迦でもだまされていた?こともある。
過去にキリストはだまされて神戸の地震をおこしてると霊媒師に何件も聞いたし、
ヤーウェは不動にだまされたまんま豊田にいやがらせをした。そしてだまされたまんま
どちらもこっちの邪魔をしてくる。だから不動はみんなおがんじゃいけないし
不動はもはや悪い方へ行ってしまったのではやく上の神仏が弁償大きくとって抹消しきらなきゃいけない。
イルミナティも不動のわけ御霊だといっていた霊媒師がいたので同じ。
今後もこんなことが続くようならクリスマスも祝って栄えるに値しないし、
もちろん初詣も不動関係の神社には絶対いってはいけない。みんなつぶしあいになって
ダメにされてしまう。 >>600
> これを信じることが条件です。
>
> 「天地の創造主、全能の父である神を信じます。
> 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
> 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
> ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて
> 死に葬られ、陰府(よみ)に下り、 三日目に死者のうちから復活し、
> 天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
> 生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
> 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
> からだの復活、永遠のいのちを信じます。」
>
> 信じられなければキリスト教には入れません。
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. (之ノ | ,!、 まことのキチガイスレッドなんかに
書き込まなくていいぞ
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(_/彡 (_/彡 (_/彡 (_/彡 (_/彡 (_/彡 2002年(主日A年) 11月24日 王であるキリスト
エゼ 34:11〜17 Iコリ 15:20〜28 マタ 25:31〜46
典礼暦の最後の主日に、私たちは主イエスの語られた終わりの日の裁きについてのこの説教を聞いています。
これは受難に向かわれる主が弟子たちとの別れに際して残された言葉で、いわば主の昇天後の初代教会へのメッセージであったと理解することが出来ます。
初代教会は使徒たちの宣教によって誕生しました。
この使徒たちは、主の再臨を教会と共に待望したのでした。
キリストの言葉は使徒たちを通して教会に伝えられ、信徒たちは使徒たちと共にキリストの福音を分かち合っていました。
「はっきり言っておく。 わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタ v.40)
最初使徒たちに語られたこの主の言葉を、初代教会の信徒たちは自分たち一人一人にも語られたものとして共に聞くことによって、教会を造り上げて行ったのでした。 (つづき)
新約聖書が、使徒たちが伝えたキリストの福音の伝承を可能なかぎり忠実に保存し、後の時代の人間の無能による福音の歪曲を最小限に食い止める意図をもって、編集され成立したという過去の歴史を、現代のキリスト者は重く受け止めなければなりません。
ですから現代のいわゆるリベラルと称する人々のように、この福音書のテキストを単なる人道的で普遍的な教えとして解釈することによって、その伝承の起源を無視してはならないのです。
終わりの日にこの世を裁く方は復活のキリストであり(使 17:31)、この主の言葉は初代教会を育て導く使徒たちによって伝えられたのだという事実が、私たちを正しいテキスト理解へ導きます。
今朝の福音書の日課を私たちに語っておられる方は、 “王であるキリスト” であります。
「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」(エゼ v.11)
「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。」(エゼ v.15)
教会を造り上げて行き、これに神の国を相続させてくださるのは “王であるキリスト” であって、教会の司牧者と私たち信徒とは、共にこのキリストの御業に参加させていただいていることを感謝しましょう。
私たち一人一人の奉仕と献身が、神の国を受け継ぐ人々の群れである教会を共に造り上げて行くものとなりますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2011年(主日A年) 11月20日 王であるキリスト
エゼ 34:11〜17 Iコリ 15:20〜28 マタ 25:31〜46
キリストの救いを信じていなくても、人には善意があれば “飢えている小さな者の一人に食べさせ、飲ませ、援助の手を差し伸べる” ことは出来るのです。
問題は、それが 「わたしが ・・・・・」(マタ vv.35,42) 「わたしに ・・・・・」(マタ vv.40,45)という決定的な点で、キリストへの奉献になっていたかどうかが問われるのです。
この世の霊ではなくて、聖霊に導かれて行ったことだけが、裁きの日には受け入れられるのです。
人本主義的な善意や人類愛が、自動的にキリストへの奉献として “換算される” などというのは、サタンの甘言にしか過ぎません。
私たちは今朝のミサで、王であるキリストの御前に共に立っていることを覚えましょう。
主なる神は、「自分の群れ」 「自分の羊」(エゼ v.11)を自ら探し出し、必ず救い出されます。
神の救済史は終わりの日に向かって進み、その日は必ず来るのです(ハバ 2:3)。
その日に 「私の群れよ」(エゼ v.17)と呼んでいただける人たちは幸いです。
復活の日には、その人たちだけが王であるキリストから、“用意されている国を受け継ぎなさい”(マタ 25:34)と言っていただけるのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 >>633-634 >>638
老クリスチャン 降臨
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(/  ̄ ̄|_ノ 2014年(主日A年) 11月23日 王であるキリスト
エゼ 34:11〜17 Iコリ 15:20〜28 マタ 25:31〜46
「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(Iコリ v.22)
キリストが教会の王であるばかりではなく、また全世界の王であるという神学的認識は、20世紀の教会が獲得した大いなる遺産でありました。
カトリック教会が典礼暦最後の主日を “王であるキリストの祭日” に定めて、すでに90年近くになります。
しかし、それが “使徒たちから伝えられたキリストの福音” の一部として、真に説教の主題として主日のミサで語られて来たかと言うと、これは甚だ心もとないのです。
この主題が、“しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました”(Iコリ v.20)という福音から切り離されて、
教会の一部の人々によって政治活動や社会活動のために利用される以外には、普通の信者はほとんど何も聞かされて来なかったからです。
“すべての敵をその足の下に服従させた”(Iコリ vv.25-27)王であるキリストが、“最後の敵として、死を滅ぼしてくださる”(Iコリ v.26)ことに教会が信頼し、すでに勝ち得られた勝利を信じる信仰に固く立つことによってだけ、
その信仰の実践としての “全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい” (マコ 16:15)という主の命令を、具体化することが私たちに出来るようにになるのです。
神の国を実現されるのは神です。
それは教会に与えられた終末的な約束であり希望であって、決して人間が自らの善意と努力によって実現する地上の目標ではありません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2002年(主日B年) 12月1日 待降節第1主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
待降節第1主日に、全世界の教会は今年も、「目を覚ましていなさい」 という聖書の呼びかけを聞かされています。
古くから教会はあらゆる時代を通じて、典礼暦の新しい一年を、主日の聖書の朗読配分によって一貫して “福音の終末的使信” を聞くことにより開始して来ました。
教会の中の多くの人々が福音の終末的意義を忘れてしまった時代にも、この待降節第1主日には福音の終末的使信を語る聖書日課が、必ず朗読台から会衆に読み聞かされて来たという事実に、私たちは驚嘆するのです。
キリストの祭壇を囲んで共にミサをささげている教会は、実に来たり給うキリストを迎える民であって、「夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か」(マコ v.35)という緊張をもって目を覚ましていることを呼びかけられているのです。
この待降節第1主日の使信によって方向付けられて、私たちは今年もキリスト者としての一年の生活を歩んで行きます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2011年(主日B年) 11月27日 待降節第1主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」(Iコリ v.7)
神は、かつて罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいまた(エフェ 2:4-6)。
キリストの復活を信じる信仰が先ず出発点にあって、終わりの日の約束としてキリストと共に私たちの “からだの復活” が、“御国を受け継ぐ” 救済史の完成があるのです。
ですから、このように福音を理解している人は、「わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んで」、今年も典礼暦の新しい一年を歩み始めます。
今年は “フランシスコ会訳の聖書(合本)” が出版されて、多くのカトリックの子らがこれを購入して読み始めていることは喜ばしいことです。
新しい年が、聖書を自ら読むことによって、カトリックの子らが 「あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされ」(Iコリ v.5)る、大いなる恵みの年となりますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2014年(主日B年) 11月30日 待降節第1主日
イザ 63:16b〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。 あなたはわたしたちから御顔を隠し、わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。
しかし、主よ、あなたは我らの父。 わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。」(イザ vv.6-7)
私は元プロテスタントの牧師でありましたので、プロテスタント各派の牧師たちの説教には現在もかなり関心を持って注目しています。
プロテスタントの教会の実態はほとんど個々の牧師の説教に依存していて、まるで事実上別々の宗教のような有様です。
それではカトリック教会の場合はどうでしょうか。
私自身はそこには神学的な意味での “教会の信仰” というものが、使徒継承によって豊かに保たれているということを認識しています。
しかし残念なことに、実際の個々の小教区における司祭の説教は、“教会に委ねられた信仰の遺産” からはほど遠いお粗末な無駄話に過ぎず、まさに “わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた” 姿は、プロテスタントの場合と同じなのです。 (つづき)
第三イザヤは、当時そのような現状を認めた上で、なお嘆きの中から主に訴えました。
「しかし、主よ、あなたは我らの父。 わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。」
教会が典礼暦の新しい一年を歩み始めるとは、このようにただ主に信頼して今年も進み行くということなのです。
私たちのミサの開祭の部にある “回心の祈り” は、決して私たちが罪のない人間になることではありません。
それは “自分は罪人だが、さらに神の恵みのうちにありたいと望むなら、そのことをわたしたちが 『告白する』 ことなのである。”(ユンクマン/ミサ p.202)
「わたしたちは皆、あなたの御手の業。」 アーメン、 ハレルヤ。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 今年も 「17〜18年典礼暦」 をアップロードしました。
http://www.kuwaei2000.com/guide.html
→ ●資料集● の冒頭にあります。 ____
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人 >>642 >>648 >>651 >>654-656
老クリスチャン 降臨
o ゜ ○ ゜
o 。 ゜゚ ゚ . o ○o
\丶 r⌒ヽ (⌒⌒) r⌒ヽ/, / /,
ヽ 、、;(⌒ヾ . (((⌒⌒))) /⌒) ), ,
、ヾ (⌒キタキタキタ━━━━━━━ !!/,
、\(⌒ゝ;(⌒ヾ /⌒ヽ ⌒)/)) ., /
((⌒-丶(;;;(⌒ゝ;;⊂二( ^ω^ )二⊃ ,⌒⌒);;;;;)))⌒)
(;;;;(⌒(⌒;;;(⌒ .ヽ ノ / ))⌒));;;;)-⌒))
ゞ (⌒⌒=─ (⌒) | ─=⌒⌒)ノ;;ノ;;;::)
((⌒≡=─. ⌒∨ ─=≡⌒)丿;;丿ノ 信者たちからお金を集めたり、信者たちを集金要員にしたり、
集めたお金で組織を拡大したりします。
連中にとっては、神は「飾り物」「お神輿」です。
飾り物になれる、ふさわしい人物を、適当に神にして
真の目的は、組織を形成させて拡大させる事なんです。
神やメシアや救世主なんてものは「客寄せパンダ」であって
「客を集めるためのお神輿」であり、実際は、連中の創作です。
宗教も、需要と供給が成り立ってます。
信者たちも組織に入ると色々と出会いもあるし
組織内で出世することも可能です。
真の目的は「組織の形成」であり、神などは
客を集めてくれるものであり、それでいいのです。
客を集める為に、ウソを付いて、神格化させます。
イエスも、弟子や教徒や後世の人たちの作り話によって
神格化されてるだけで、実際は、普通の人間なのです。
このままでは地獄に落ちて消滅すると脅し、
ここに入って定期的に会費を払って
このように信じてこのように行動すれば
天国で永遠の命だから、と教え、服従させます。 2002年(主日B年) 12月8日 待降節第2主日
イザ 40:1〜11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8
待降節第2主日の主題は、福音の終末的使信の将来的な展望であります。
神の子イエス・キリストの公生涯に先立って道を準備した洗礼者ヨハネの物語りは、決して単なる過去の思い出としてではなく、正に私たち教会がよりどころとしている(Iコリ 15:1-2)福音の終末的使信を伝えるために、マルコ福音書の冒頭に置かれました。
ヨハネがかつて 「わたしよりも優れた方が、後から来られる」 と語った方は、“かつて来られた方(受肉のキリスト)” であり、“やがて来られる方(再臨のキリスト)” と同一の方であります。
使徒たちが伝え、教会が代々にわたって受け継いで来た福音はただ一つであって、時代が変わっても世の中が変わっても決して変化することのない 「神の子イエス・キリストの福音」 であって、
教会は私たちがこの方の終末の再臨に備えて待つことを教えて来ました。
私たちがそこで生まれ育って来た20世紀のキリスト教では、“使徒たちから伝えられたこと”(神の啓示に関する教義憲章 8)と並んで、それとは別な “様々なほかの福音” “様々なキリスト観” “様々な種類の信仰” が大いに語られて来たと言うことが出来ます。
大多数の信者たちが自分の福音理解や自分の信仰に確信が持てないでいるそんな状況の中で、
それでも聖霊は、教会があえてこの待降節の主日の聖書朗読配分に固執し、神の子イエス・キリストの福音の “終末的使信” に会衆が耳を傾けることを求め続けるようにと、導いて来られました。
マラキ書3:1(マコ v.2)と、イザヤ書40:3(マコ v.3)と、洗礼者ヨハネの言葉(マコ v.7)を神は用いて、私たち現代のキリスト者に向かって “やがて来られる方(再臨のキリスト)” を迎える準備を呼びかけてくださっている
・・・・ 、それが今朝私たちが聞いている福音の使信です。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より パウロ
イエスの再臨は自分たちが生きている間にあると言った(Iテサ4:15)
その後、その勢いは無くなって、
ただ待ち望んでいる(ピリピ3:20)に変わっていった。 ____
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人 モーセは、戦いを終えて帰還した軍の指揮官たち、千人隊長、百人隊長に向かって怒り、
かれらにこう言った。「女たちを皆、生かしておいたのか。ペオルの事件は、この女たちが
バラムにそそのかされ、イスラエルの人々をヤーヴェに背かせて引き起こしたもので、
そのためにヤーヴェの共同体に災いが下ったではないか。直ちに、子供たちのうち、
男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、
男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。」
(民数記 31章14〜18節) 神は怒り、モーセに対して、「イスラエルの民の長たちをことごとく捕らえ、
主の御前で彼らを処刑にし、白日の下にさらしなさい」と命じ、
モーセは裁判人に対して、「おのおの、自分の配下で、ペオルのバアルを慕ったものを殺しなさい」
という厳しい粛正を命じた。2万4千人のイスラエル人が処刑された。(民数記25章)
神はモーセに「ミディアン人を襲い、彼らを撃ちなさい。彼らは、おまえたちを巧みに惑わして襲い、
ペオルの事件を引き起こしたからだ。」この神の命令に従って、モーセが、
「あなたたちの中から、戦いのために人を出して武装させなさい。ミディアン人を襲い、
ミディアン人に対して神のために報復するのだ」(民数記31:1〜3) モーセと祭司エルアザルは主がモーセに命じられたとおりにした。分捕ったもの、
すなわち兵士が略奪したものの残りは、羊六十七万五千匹、牛七万二千頭、ろば六万一千頭、
人は、男と寝ず、男を知らない女が全部で三万二千人であった。戦いに出た者の分け前は、
その半数であって、羊の数は三十三万七千五百匹、その羊のうち、主にささげる分は
六百七十五匹、・・・人は一万六千人、そのうち主にささげる分は三十二人であった。
・・・部隊の指揮官である千人隊長、百人隊長がモーセの前に進み出て、言った。
「・・・わたしたちは、めいめいで手に入れた腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなど
金の飾り物を捧げ物として主にささげ、主の御前に、わたしたち自身のあがないの儀式を
したいのです。」モーセと祭司エルアザルは、彼らから金の飾り物をすべて受け取った。
それらはよく細工されたものであった。・・・モーセと祭司エルアザルは、千人隊長と百人隊長から
金を受け取り、臨在の幕屋に携えて行って、主の御前に、イスラエルの人々のための記念とした。
(民数記31章31〜54節) >>666-668
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人 2011年(主日B年) 12月4日 待降節第2主日
イザ 40:1-5,9-11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8
「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(マコ v.1)
私たちがキリストの福音を理解するのに、洗礼者ヨハネから始めることの大切さを、マルコ福音書の冒頭の句は示しています。
なぜならそれは、使徒たちと原始教会が採用した福音の説明の仕方であったからです。
ですから四つの福音書はすべて、イエスの宣教に先立って洗礼者ヨハネの活動を取り上げています。
それはただの舞台装置や背景説明のようなものではなくて、すでにイエス・キリストの福音の不可欠な構成部分であり、私たちは “福音の学び” の第一歩をここから開始しなければならないのです(使 1:21-22,10:36以下 参照)。
「彼はこう宣べ伝えた。 “わたしよりも優れた方が、後から来られる。 わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたがたに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。”」(マコ vv.7-8)
この “来るべき方”(マタ 11:3)を指し示すことが、洗礼者ヨハネの役割でありました。
ですから、もし私たちの関心がこの “来るべき方” に向けられない場合には、洗礼者ヨハネの活動の話からいささかの益を得ることも出来ないでしょう。
それは現代の教会の、“来るべき方” を知らない諸活動、宗教活動と同じです。
教会が何か有益な活動をしたいと願うなら、それは “来るべき方” を証しすること以外にはあり得ないからです。 (つづき)
私たちが “俗悪な無駄話”(Iテモ 6:20)ではなくて福音を、“永遠の命の言葉”(ヨハ 6:68)を聞く ・・・・・ とは、
「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ」(IIテモ 4:1)、
私たちの罪の贖いのために死んで復活し、「万物を支配下に置くことさえ出来る力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(フィリ 3:21)キリストを信じる ・・・・・ こと以外ではあり得ません。
「皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、 ・・・・・ 」(マコ v.5)
この 「罪」 とは、私たちが “本気で” “真面目に” 「イエスキリストは主である」(フィリ 2:11)とこれまで信じることをしなかった、という一点に結びつく罪のことです。
ユダヤ地方とエルサレムの住民は皆、十戒の第一戒(「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」)への不信仰、不誠実の罪を告白して、ヨハネから洗礼を受けたに違いなかったからです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より キリスト教のおこなってきた異端狩りや宗教戦争や新大陸侵略にくられべれば、
オウムの破壊活動など、ほとんど取るに足らないものです。
聖書における神の殺人命令を否定することのできないクリスチャン、もっと一般的にいえば
人間的判断より神の意思を先行させる信仰原理を信奉する者には、麻原の命令にしたがって
殺人を犯したオウム信者を根本的に批判することはできません。こうして、
神が命令するとき殺人が正義となることは、昔も今も、キリスト教のような
伝統的宗教においても、疑う余地のない明白な事実といわねばなりません。
オウム殺人事件は、オウム真理教が偽宗教であることを決定する判断基準にはならないのです。
逆に言えば、もし殺人の教えが偽宗教であることの判断基準の一つであると信じるならば
ユダヤ教もキリスト教も、またその聖典である聖書も偽宗教であると判断する
一貫性を持たなければならないでしょう。 神や死後の世界が存在しても、殺人さえも、ゆるされるなら、「道徳は宗教を必要とする」
とか「宗教は道徳の根本である」というポピュラーな宗教思想の説得力は喪失します。
宗教における善とは、「人間の浅はかな判断」や「人間の小賢しい知恵」によるのではなく、
超越的権威である「神の意思」や「神の言葉」によるものとされており、しかも、その神が
殺人や略奪を命令するからです。神や死後の世界を信じる世界観の中でも、
やはりすべてが、殺人さえも、ゆるされるのです。 「愛と赦しと平和」を説く柔和なクリスチャンが、いったいなぜ、聖書における
神の殺人命令を否定できないのか。その答えは、これまで見てきたように、信仰の
原理、すなわち、人間的な判断よりも上位にあると考えられている、神の意思を
先行させる考え方にあります。信仰者は、常に、自分の「人間的浅はかな判断」や
「おのれの小賢しい知恵」を捨てて、信仰の対象としての超越的な権威
(聖書や教祖の言葉)に従うことを正しいとするのです。だから、信仰者にとって、
信仰者であるかぎり、神の殺人命令を否定することはほとんど不可能であると
言えます。もし殺人命令でさえ信仰者は神(聖書や教祖)の命令を否定できないと
したら、洗脳(伝道)、金集め(寄付・布施)、政治活動、その他諸々の神の命令を
信仰者が否定できるわけがありません。ましてや、宣教命令が、困った人々を助ける
ボランティア活動のような、一見誰も文句を言えない善意活動を通じて
なされることになれば、その命令を疑ってみる心さえ浮かばないかもしれません。
それゆえ、不幸中の幸いというべきか、オウム殺人事件は、はたして、わたしたちが
「人間的浅はかな判断」や「おのれの小賢しい知恵」を捨てて、信仰の対象としての
超越的な権威(聖書や教祖の言葉)に従うことを「正しい」とする判断が、本当に
賢哲な判断かどうか、それを考えさせる機会を与えてくれたことにおいて、
大きな意義があると思われます。 このキリスト教徒による暴挙は過去形ではありません。現在進行形です。
世界の悪は、 我々が、それに全力で反対するよう、
聖書と主イエスに命じられている。(ロナルド・レーガン、大統領)
第十次十字軍は、米国のジョージ・W・ブッシュを大統領とする
ブッシュ政権の行った、アフガニスタン紛争 (2001年-)や
イラク戦争などの軍事行動をいう。
現在はトランプです。
ヨーロッパ人のアメリカ大陸侵略にしても、ブッシュのイラク侵略にしても、
聖書にあるモーセとヨシュアのことが大きく影響しているのです 。
ヨシュアが、神の命令で、「侵略」「虐殺」「略奪」を働いたことが、後のキリスト教徒にとって、
大きな手本・見本になっているのです。
「モーセやヨシュアがやったことは『聖絶』として正しいことになってるんだから、
我々キリスト教徒も同じことをやってもいいんだ。」と、とらえるのです。
キリスト教徒による侵略戦争がなくならない理由は、ここにあるのです。
異端狩り 異教徒狩り 魔女狩り 布教という名の他国への侵略行為 黒人奴隷貿易
キリスト教は惨憺たる惨劇をもたらしてきました。
約1600年間、ヨーロッパ文明の宗教として、宗教界のKINGとして君臨し続けてきた
キリスト教は、まぎれもなく「帝国の宗教」です。
この「帝国の宗教キリスト教」を潰さない限り、キリスト教による暴挙 悲劇 惨劇は、
永遠に続いてしまうのです。
戦争をしかけた人間 聖職者 信徒たちは、このことにまったく反省もせず、
この問題を堂々と正当化しているからです。
温厚そうな人でも、侵略戦争を「正当」と、させてしまうキリスト教。
宗教は「害の産物」です。
宗教は大変恐ろしいものです。 ただ、一番マシなのはカトリックです。
カトリックの総本山バチカンのローマ法王は
「神の名の下に、先住民に対したくさんの深刻な罪が犯された」
「アメリカ大陸征服の際、先住民に行われた犯罪行為について謙虚に謝罪したい」と
示している。 2014年(主日B年) 12月7日 待降節第2主日
イザ 40:1〜11 IIペト 3:8〜14 マコ 1:1〜8
「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。 彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。」(イザ vv.9-10)
司祭の説教においても、修道者や奉仕者のカテケージスにおいても、従来この “見よ” が語られることのいかに乏しかったことかと、嘆かないではいられません。
かつて神学校に学び、元牧師であった私のささやかな助言が、この 「聖書の学び」 をお読みくださるカトリックの子らの信仰生活に少しでも益となることを期待しています。
多くの牧師たちが自分の説教の主眼を、信者に感激や慰めを与えることに置いて、まるで説教の力で人を救うことが出来るかのように思い上がっていました。
そのようにして世界中でメガチャーチ(大教会)を作り上げた牧師たちは、成功者と見られて来たのです。
しかし、来たり給う “あなたたちの神” “主なる神” を指し示すことを抜きにして、どうしてそのようなものが福音の宣教になり得るでしょうか。
私たちの福音宣教は、神が約束された “そのとおり”(καθὼς)に、今や “キリストによって実現される神の国の計画”(エフェ 3:4)を証しすることであり、
そしてすべての救われた人々と共に、約束されているキリストの第二の来臨を待望することに他ならないからです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 ポルノの蔓延と、漫画やゲームが常に「男同士のぶつかり合い」を描いていることから、女子高生たちは大人に憧れた。
しかし、この全体主義の国ではサラリーマンたちにとって女子高生との恋は「禁じ手」とされて監視の対象となった。
しかし、相撲を見た後だけはみんな「全て許す」と言ったために相撲ファンが多い。
相撲という文化を若い世代に教えたこと、そして中卒のヒエラルキーの動物的な側面を見たこと、相撲を見るだけのお金を払ったことなどが理由として考えられる。
1972年にメイナード・スミスがこのような「相撲のセールス」を考えたのだ。
タカ派にはお金がない。ハト派だけがお金を持っているということも背景にあった。
一緒に女子高生と文化を楽しまなければ、女子高生もその気にならなかったし、大人の世界を見せてもらうという最高のプレゼントが相撲だった。
https://youtu.be/Yxe9arYtAVY
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/117598928 2002年(主日B年) 12月15日 待降節第3主日
イザ 61:1-2a,10-11 Iテサ 5:16〜24 ヨハ 1:6〜28
「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを ・・・・・ わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」(Iテサ v.23)
教会が待降節のミサを共にささげているとき、復活のキリストは将来の再臨を先取りして私たちの中に現存されます。
そしてこのキリストの現存は待降節だけで終わるのではなくて、主が 「またおいでになる」(使 1:11)日まで、私たちすべてのキリスト者にとっての生きた現実であることを、決して忘れてはなりません。
典礼暦年と典礼暦に関する一般原則(39)には次のように述べられています。
「待降節は二重の特質をもつ。 それは先ず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、
また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。 この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。」
実に待降節の主題は、クリスマスによって解消されるのではなくて、典礼暦の一年を通じて生き続ける主題なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日B年) 12月14日 待降節第3主日
イザ 61:1-2a,10-11 Iテサ 5:16〜24 ヨハ 1:6-8,19-28
「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履き物のひもを解く資格もない。」(ヨハ vv.26-27)
教会は、その典礼暦の一年を待降節から始めて降誕祭を待ちますが、それは決して主イエスが今は教会を留守にしておられるという意味ではありません。
待降節第3主日の福音書の朗読は、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」 と告げます。
そしてさらに、その人は後から来られる方であると説明します。
確かに教会はかつて地上に誕生された主イエスが、“今は(私たちが)一部しか知らない”(Iコリ 13:9-12) “力と栄光を帯びて”(マコ 13:26)やがて来られるのを待っていますが、しかもこの方は神のことばと共に “今おられ”(黙 1:4)るのです。
神のことばが語られ、聞かれるところには、主イエスがおられます(ルカ 10:16)。
ですから改革派教会のある信条は、神のことばの説教は神のことばであるという主旨の説明をしています(第二スイス信条)。
カトリック教会はこのことを重視して、教導職にとっての説教の務めを大切に考えています(神の啓示に関する教義憲章 10、朗読聖書の緒言 8)。
洗礼者ヨハネはメシアではない。
しかし、彼が 「証しをするために来た」(ヨハ v.7)とき、すでにそこにはメシアがおられました。
そのように、教会で待降節のミサの朗読配分に従って聖書が読まれ、私たちの新しい一年が始まる時、主イエス・キリストはすでにミサをささげる会衆と共にそこにおられるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2014年(主日B年) 12月14日 待降節第3主日
イザ 61:1-2a,10-11 Iテサ 5:16〜24 ヨハ 1:6-8,19-28
「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。 これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Iテサ vv.16-18)
テサロニケの人々は数々の信仰上の困難を体験して、助けを求めていました。
使徒パウロは彼らに、それらの困難を回避するために、受け入れた福音(Iテサ 1:5-6)すなわち神の言葉(Iテサ 2:13)を世間の常識に合わせて(Iテサ 4:13)曲げたり再解釈してはならないと、強く訴えました。
彼らは世間的な意味での喜びや感謝ではなくて、むしろ信仰的な困難と苦難に遭っており(Iテサ 3:3)、それでも動揺せずにキリストへの希望にしっかりと結ばれていました。
福音の宣教者である使徒にとっては、それは大きな励ましでありました(Iテサ 3:7-10)。
“わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき”(Iテサ vv.23-24,3:13)という “第二の来臨の待望” から来る “喜び”、“感謝”、そして “絶えず祈ること” によって、教会は真の教会であり続けるのです(Iテサ v.16)。
私たちがこの福音の希望に目を向けることが、待降節第3主日の主題であります。
カテケージスで子供たちに待降節の意味を、プレゼントや楽しいパーティーを待ち望むことのように説明する人は、実に “キリストの邪魔をする者”(マタ 16:23)であります。
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人 2002年(主日B年) 12月22日 待降節第4主日
サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
毎年待降節第4主日には、御子イエスの誕生に先立つ母マリアの物語りがミサで朗読されます。
クリスマスというドラマを演じるための序曲のようにこれが聞かれ、やがてそのドラマと共に過ぎ去って行く恒例の儀式のようにしか、待降節の各主日の聖書朗読を考えないなら、私たちは重大な見落としをしていることになります。
待降節第4主日のための聖書朗読は、教会が 「やがて来られる」(默 1:4)キリストに関する福音を、「時が迫っている」(默 1:3)事柄として受け入れるようにと促すために配分されています。
私たちキリスト者は、マリアの信仰を現在の自分自身の信仰とするために、今朝の福音書の朗読を聞いているのです。
「マリアは言った。 “わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身に成りますように。”」(ルカ 1:38)
私たち教会が降誕祭に、かつての第一の来臨を追憶するキリストは、教会がその第二の来臨を待っている 「やがて来られる方」(默 1:4)と同一の方であります。
「神にできないことは何一つない」(ルカ 1:37)という天使ガブリエルの言葉に励まされて、教会は 「またおいでになる」(使 1:11)キリストを迎える姿勢を整えます。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2008年(主日B年) 12月21日 待降節第4主日
「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(サム下 v.14)
ルカ 1:32-33 で天使は、イエスの誕生が イザ 9:5-6 に期待されたメシアの到来の実現であることを告げました。
イザヤの預言の中の “生まれた” という言葉は、詩 2:7 からも分かるように、メシア的な王の即位のことであり、そのような約束の起源を私たちは、この サム下7章 に見出すのです。
イエスはマリアの子であって、ヨセフの子ではなかったと、聖書が伝えているようにも見えるかもしれません。
しかしヨセフはマリアを正式の妻として彼の家に受け入れ、こうして 「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」(ロマ 1:3)と証言されました。
私たちはキリストの第二の来臨を待望しつつ、今年も降誕祭を迎えます。
「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。 いと高きところにホサナ。」(マコ 11:10)
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人 2011年(主日B年) 12月18日 待降節第4主日
サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
世々にわたって隠されていたが、今や現されて、使徒たちを通して伝えられている “秘められた計画”(ロマ v.25)を聞くために、教会はいわば教育的な目的で伝統的に、典礼暦とそれに基づく聖書の朗読配分を大切にして来ました。
第二朗読のこのテキストは、決して信者が聞き流しても良い付録のようなものではありません。
主日のミサが、特にその中の “ことばの典礼” が、カトリックの子らにとって空しいものとならないために、
今朝の ロマ 16:25-27 のテキストを、特に今週は心ある信者の方々が、“新共同訳” と “フランシスコ会訳”、出来れば “口語訳” を読み比べてみて、(翻訳者たちのご苦労を思いつつ)より深く理解されるよう、お勧めします。
「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」(新共同訳 ロマ v.25)
「あなたがたを強めることのできる方、知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して、代々限りなく栄光がありますように。」(フランシスコ会訳 ロマ vv.26-27)
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人 2002年(主日B年) 12月25日 主の降誕
イザ 52:7〜10 ヘブ 1:1〜6 ヨハ 1:1〜18
キリスト者が主の降誕のミサをささげてクリスマスを祝うことは、どんな意味を持っているのでしょうか。
それは世俗の祭りのように、人々が自分自身の事柄ではない何かを祝うのと同じではありません。
もしキリストの祭りが同時に私たちキリスト者自身の祝いでないなら、それは空しいものです。
「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハ 1:12)
私たち教会が御子キリストの降誕を祝うなら、それは私たちがこの方を教会の救い主として受け入れることであります。
教会はこの方を救い主として受け入れたこと、従ってこの方によって神の国の相続人とされたことを祝って、主の降誕のミサをささげているのです。
典礼暦は復活節と降誕節を二つの最大の祭日と呼んで(典礼暦年に関する一般原則 12)、それぞれ固有の8日間の祭儀を規定しています。
それはイエス・キリストが私たち教会に与えてくださった救いの恵みを想起するためであり、従ってこれは私たち自身の祝いの祭典なのです。
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人 2011年(主日B年) 12月18日 待降節第4主日
サム下 7:1〜16 ロマ 16:25〜27 ルカ 1:26〜38
世々にわたって隠されていたが、今や現されて、使徒たちを通して伝えられている “秘められた計画”(ロマ v.25)を聞くために、教会はいわば教育的な目的で伝統的に、典礼暦とそれに基づく聖書の朗読配分を大切にして来ました。
第二朗読のこのテキストは、決して信者が聞き流しても良い付録のようなものではありません。
主日のミサが、特にその中の “ことばの典礼” が、カトリックの子らにとって空しいものとならないために、
今朝の ロマ 16:25-27 のテキストを、特に今週は心ある信者の方々が、“新共同訳” と “フランシスコ会訳”、出来れば “口語訳” を読み比べてみて、(翻訳者たちのご苦労を思いつつ)より深く理解されるよう、お勧めします。
「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」(新共同訳 ロマ v.25)
「あなたがたを強めることのできる方、知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して、代々限りなく栄光がありますように。」(フランシスコ会訳 ロマ vv.26-27)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2005年(主日B年) 12月25日 主の降誕/日中のミサ
イザ 52:7〜10 ヘブ 1:1〜6 ヨハ 1:1〜18
「この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました。」(ヘブ v.2)
“この終わりの時代” とは、神の約束の終末的実現の時を指す旧約以来の用語で(イザ 2:2 参照)、御子の来臨によって “この終わりの時代” が決定的に始まりました。
御子が 「人々の罪を清められた後」(ヘブ v.3) “神の右の座に着かれた” とは、使徒たちの宣教の中でいつも語られた定式であって、キリストのいけにえの完全性の表現であります。
ですから、御子の名はこの世のいかなる名よりも、更に天使たちの名よりも優れていることを、教会は降誕の祝いの中で宣言して来ました。
クリスマスが、飼い葉桶の中の乳飲み子と羊飼いたちの童話的な情景を装飾にして、クリスマスツリーの電飾の下でサンタクロースの到来を待つ祭りになったのは、いつ頃からなのでしょうか。
しかし教会は今日に至るまで、典礼暦と降誕のミサの中の日課の朗読配分によって、使徒たちが伝えた “終わりの時代” の決定的な開始を宣言することを止めませんでした。
かつて来られた方は、やがて再び来られる方と同じ方です。
「私たちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。 キリストは、万物を支配下に置くことさえ出来る力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリ 3:20-21)
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