(つづき)
今朝の朗読部分に含まれていない マタ v.22 を参照すると、ファリサイ派の人々はこのイエスの答えに驚いて立ち去ったと書いてあります。
彼らにとってはイエスの答えは余りにも当然過ぎたからです。
皇帝に対して政治的社会的責務を果たすことがどんなに重荷であっても、それはいささかも “神のものは神に返す” ことの免責理由にはならないと言われたからです。
果たして自分たちは今、神のものは神に返すという歩みを実際にしているだろうかと、鋭く心に突き刺さるものを彼らは感じて “驚いた” のでした。

それでは “神のものは神に返す” とは、どういうことなのでしょうか。
それを知るには聖書を読まなければなりません。
啓示の源泉は聖書が証言する神の子イエス・キリストであって(ヘブ 1:2)、これ以外のところに解釈の鍵はないからです(神の啓示に関する教義憲章 4)。

それは難しすぎるものでもなく、普通の信者の遠く及ばぬものでもなくて(申 30:11、ロマ 10:5-13)、むしろ単純に、色眼鏡を掛けずに読めば、だれでも理解出来るものです。
ただその、単純に、色眼鏡を掛けずに、しかし熱心に聖書を読むということが、現代では多くの教導職と信徒には欠けているのであって、それが私自身の過去60年ほどの教会生活における悲しい見聞体験でありました。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より