【仏教3.0】山下良道 Part3【一法庵】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレ、シャバ生活での折り合いの話出てたけど、折り合いつけないといけないのかな。
それはシャバ生活でうまくいくように瞑想してたってこと?
シャバかシャバでないかどうでもいいし、自分がどうであるかもどうでもよくなる、自由になるのが瞑想、仏教なんじゃないですかね。
そういう意味ではシャバでどうのと思ってしまう自分、シャバという観念が抜けると、逆にシャバでも自由に折り合いつけられるんじゃないでしょうか。
シャバというもの、シャバの中での自分という観念が完全に消えることに自我が抵抗してるのかもしれないですね。
マインドフルネスは自分の心、身体、知覚と自分自身(山下氏言うところの空の自分)を切り離すことに目的があると思うから、
切り離されるまでは悩みは多いんじゃないかな。
切り離されたらマインドフルネスはするものではなく元々ある自然なものでマインドフルネス自体どうでもよくなると自分は思うけど。
マインドフルネスしてる自分、主体感、が消える(切り離される)ということかもしれないですね。 以前こころを観ていたとき
ずっと奥に暴れ叫んでいる固まりのようなものがみえました。
これはずっと観ていると、消えて行く物なんですが
それは永遠に消え去る物ではない物でした。
ただこれを、ただ優しい目で、小さなこどもが
だだをこねている姿を、やさしく、慈しんで観ているようにすると
その消えるスピードはより早く消えて行きます。
それが消え去った後にはただその観ているものだけがあります。
この子どもは無くなりはしませんが、かみついたりもされますが
ただ
わたしは幸せでありますようにと
観ているものが言っているようにとみえます。
ウィキペディア参照
マハーシ・サヤドー(1904年7月29日 - 1982年8月14日)
ミャンマーの僧侶で、上座部仏教大長老である
瞑想指導者として
欧米やアジアのヴィパッサナー瞑想に多大な影響を与えた
彼の瞑想法では、呼吸の際に
腹部の膨らみとへこみの感覚に意識を集中し
その他の感覚や思考にも注意を促しながら丁寧に観察を行う
修行しやすくするために
瞑想中のサティを言語で確認する
ラベリングが彼の考案した瞑想法の最大の特徴である
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院 パオ・セヤドー
有分心は「生命相続流」と翻訳できます
心の流れの相続を維持する主要な要因となるものです
有分心がある為に、一期の生命の中の心(の)流(れ)は、断絶する事がありません
たとえば、熟睡して夢を見ない時、何らの心路過程も生起していませんが
有分心だけが、継続的に非常に多く生起しているのです このマハシ長老のサティを言語化するという工夫は、すばらしいと思う
サティとは気づきであり、念と言われるものだけど
この重要性に気づかせてくれた側面が大きい
この気づきというものだが、ただおなかが膨らんでいるとか縮んでいるとか
というだけでは無く、もっと大きな多彩な意味を含んでいると見ています。
それは意識的にいると言う側面まで拡張させるもので
それこそが、修行の根幹に関わるものであると見えるからです。
今の日本の大乗仏教がわかりにくくなっている側面があります。
この気づきによって、自分ではいろいろな事が理解出来た
側面があり、大乗とは何であるかという自分なりの見解が
見えてきた部分があると思っています。 私が思いますに
気がついている「私」と気がつかれている〈私〉とが存在し
それは
同じものであり、また違うものであるという
事に気づかされると言うことです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています