主の祈りについて
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天におられるわたしたちの父よ、 み名が聖とされますように。 み国が来ますように。 みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。 わたしたちを誘惑におちいらせず、 悪からお救いください。 (日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳) 主がおられる「天」とは何でしょうか? 創世記によれば、主は天地を創造されたのですが、 この祈りによれば、ご自身が創造された天に 主はおられるということになります。 天とは、有形のスペースを持つ場所のことではないようです。 天と対比される「地」ですが、こちらはわたしたちが住んでいる 現象世界のことです。 こちらは有形のスペースと時間の縛りによって成り立っている 世界ということになります。 永遠なる神がおわす場所である天というところは、 時間の制約もなければ、空間の制約もない場所ということになるはずです。 時間の制約も、空間の制約も、物質的な制約も、物理法則の制約も 「地」に住んでいるがゆえのものだということになります。 「天におられるわたしたちの父よ」 このフレーズは、イエスが言った言葉なのですが、 旧約で、神および主を「父」と表現している箇所は ダイレクトには見当たらないと思います。 創世記によれば、人は「神から創造された」存在として描かれていて、 主が父である、という記述は見当たらないのです。 口語訳聖書を検索していただければ、わかるのですが、 「父なる神」というキーワードで検索しても、 旧約聖書では一箇所も該当しません。 しかし、新約聖書では沢山該当する聖句が出てきます。 これは何を意味するでしょうか。 旧約聖書では、主はあくまでも「造り主」です。 ユダヤ人に確かめたことがないので、断定は出来ないのですが、 ユダヤ教の教えで、『神=父』という教えはおそらくないでしょう。 今後、確認してみようと思っています。 イエスは主の祈りのなかで、わざわざ 「わたしたちの父」と言っていますから、 主はイエスだけの父ではないということのようです。 いつ、創造された存在であるはずの人は、神と親子関係になったのでしょうか? さて、天についてですが、創世記においても 主が、天をどのようなものとして創造されたのかは あからさまには描かれていません。 創世記の1章1節に【初めに、神は天地を創造された。】と書かれて あるにも関わらず、その後の2節以降は、 地についての創造工程ばかりが描かれているのです。 しかし、ヤコブの見た幻、つまり「ヤコブのはしご」の聖句によれば、 天と地とは、はしごがかけられていて、天使たちが天と地を 登ったり、下ったりしているのです。 これについて検証したいと思いますが、この続きはまた明日にします。 明日にしようかと思っていましたが、もう少し書いていきます。 天使というのは、天からの使いという意味だと思うのですが、 まさに天と地とを行き交っているようです。 イエスは天使について、「天使には男も女もない」と発言しています。 天と地とは、無関係で存在しているわけではなく、 天使がせわしなく、常に行き交っているのです。 天使たちはどんな仕事をしているのでしょうか。 「地」、つまり、この世界のことですが、 神が造られた土台である、水・空気・風・火・太陽・大地・動植物 これら以外に、人間が築いた建造物などがあります。 田んぼ、畑、建物、その他、あらゆる人間が築いたものであふれています。 この「地」というものは、すべてが誰かの思索の結果であり作品です。 それが神の創造物であるか、人為的な創造物かという違いはあれど、 まず誰かがイメージして、それを物質として存在させたのです。 ですから、もともとは、神あるいは人の思考でありイメージがあって、 それを具現化したものが「地」ということになります。 天使たちの仕事は、思考つまり言語の物質化ということに 関わっているということです。 最近は、パソコンで3Dデータを作成すると、それを3Dプリンタで プリントするだけでプロダクトを生成できるそうです。 この場合、パソコンだとか、プリンタだとか、樹脂素材だとかが 天使の仕事をしているわけです。 「言葉が肉となった」という聖書の言葉は こうした天と地との関わりを表現しているものと思います。 【み名が聖とされますように。】 これが、この祈りの中でも一番大切なものだと思います。 だから、イエスは祈りの一番最初に設定したのです。 これについても書くべきことが沢山ありますから、この続きは 明日をどうか楽しみにしていてください。 おや、もう今日になっていますね。。。 【み名】というのは、『わたしはある』ですよね。 これは、「わたし」ということと「存在している」ということとの ふたつが合わさった言い方だと思います。 『わたしはある』というからには、それは主体性を持った存在者です。 まあ、人間存在もかなりこれに近いですが。 石ころには、『わたし』という意識はないわけです。 石ころとしては存在はしているのですが。 そういう意味においては、 『わたしはある』という存在というのは、生きている存在と 言い換えても間違いではないと思います。 もっとも自己意識があり、もっとも存在していることを 客観的に意識できる存在者は、人という生き物です。 つまり、生き物の中で、もっとも神に近いのは人です。 このことを【聖とされますように】というのが 主の祈りの一番大切な部分になります。 もっと簡単に端的に言うならば、『主体性をもって生きていること』は それ自体が聖なることということになります。 なによりも重要なことは 【み名が聖とされますように】ということなのですが、 されますように、という言い方は『み名は聖とされるべきである』と 言っても間違いではないし、『み名は当然のように聖である』と 言っても良いと思います。 しかし、現代のカトリックでの翻訳では 【み名が聖とされますように】という文章になっています。 【み名が聖とされますように】という祈りの文章は、 よくよく考えるとまったく不思議です。 いったい、誰から聖とされますように、と祈っているのでしょう。 神のみ名は、最初から聖なるものです。 もちろん、神はご自身の名前が聖なるものであることをご存知のはずです。 【み名が聖とされますように】 つまり、この祈りは、わたしたちが祈ってはいますが、 神から人に向けての祈りなのです。 神は、ご自身のみ名が聖なるものであることを、 人から認めてもらいたがっておられるのです。 驚くべきことではないでしょうか? これほどの価値がある人とは、いったい何者なのでしょうか。 【み国が来ますように。】 み国というのは、神の国、のことと言っても良いと思います。 では、「神の国」とはいったい何のことでしょうか? イエスは「神の国」について、何と言っているでしょうか。 人がイメージする神の国というのは、 平和で穏やかな人たちが暮らす国のことでしょうか。 人がイメージする神の国とは、すでにどこかにあったり、あるいは 将来、現れたりするようなものでしょうか。 しかし、イエスは次のように語っておられます。 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた。 「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。」 (ルカ伝17章20、21節) 国というのは、支配者である王が統治するものです。 では、民主主義はどうなのか、という疑問があると思いますが 民主主義においては、人民が王である、ということになっていて、 政策などは、人民が選挙によって選んだ代表者に委ねることになっています。 しかし、国といった場合には、基本となるのは王制のことだと 理解していただければと思います。 「神の国」とは、 神の定めた律法を守る人たちが暮らす国のことです。 これが、「神の国」です。 「日本国」に暮らす人々は、日本国の法律を守る必要があります。 これと同様に、「神の国」に暮らす人々は、 神の国の律法を守る必要があるのです。 これは、キリスト教会が決して教えない真実です。 【みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。】 これを読むと、 神の御心は天においては行われていることがわかりますし、 地においては行われていないということがわかると思います。 地を造ったのも神ですが、そこが運営されているルールは 神の御心ではないようです。 誰かは知りませんが、別の主人がいて、地を統治しているようです。 まあ、主人というよりは、本当はただの管理者に過ぎないのですが この管理者が自分の好き勝手にやっているわけです。 これが、わたしたちが住んでいる「地」というところです。 >>【み名が聖とされますように】 『御名を崇めさせ給え』の訳に馴染んでいるのですが原語(アラム語?)は 「聖とされる」又は「崇め奉る」のニュアンスを含んでいるのでしょうか? 「我々が神を聖なる方として常に忘れずにいられます様に」と言った意味の 文を意訳した物ではないかと思っていたのですが、ヘブライ語、ましてや アラム語を読む知識はありませんので確かめる機会がありませんでした >>34 さん >原語(アラム語?)は >「聖とされる」又は「崇め奉る」のニュアンスを含んでいるのでしょうか? イエスは、実際にはアラム語で語っていたと思いますが、 新約聖書の原本はコイネーというギリシア語で書かれていますから、 実際にイエスがどのようにアラム語で語ったかについては、 ある特定の部分を除いては、現在ではわからないということになっています。 ヘブライ語の新約聖書というのもあるにはありますが、 それはコイネーあるいは英語をヘブライ語に翻訳し直したものだと思います。 最初の3連はコイネーで、3人称単数、アオリスト形、受動態、命令形。 問題の箇所は「hagiastheto 聖なるものとされるように」だ。 能動態に直せば「人々が名を聖なるものとしますように」なので、 「崇めますように」と訳しても間違ってはいない。 神を頌栄するもしないも、御旨に従うか否かも、ヒトの自由意志次第なので、 地においては実際に神の名が聖とされるか、御旨が行われるかは不決定。 だから、人々が神の名を聖とし(聖である神の名を正しく知り)、 神の御旨に従いますように(御旨の通りに行為しますように)、という祈り。 神の名が聖であるのに、人々が自由意志によってしばしばそれを認めないという事があり、 そうではなく人々が自由意志によって神の名を聖と認めるように、という祈りなのだよ。 ご回答ありがとう御座います 最も基本的な事を抽出した祈りだけあって、短い中にも学ぶべき事が尽きない深い物ですね >>36 さん >能動態に直せば「人々が名を聖なるものとしますように」なので、 >「崇めますように」と訳しても間違ってはいない。 ご回答ありがとうございます。 その他の部分の内容についても、まったく同意いたします。 >>37 爆同一号さん >最も基本的な事を抽出した祈りだけあって、短い中にも学ぶべき事が尽きない深い物ですね 僕も、そう思います。 イエスが「これだけ祈っとけ!」と教えてくれた祈りなので、 まったく無駄がないし、重要なエッセンスが凝縮されていると思います。 翻訳という話が出ましたので、僕の翻訳についての考え方を述べておきます。 『聖書を原語で読まなければ、その意味はわからない』と主張する人がいます。 確かに、原語でないと、完璧に理解することは出来ないと僕も思います。 しかし、そもそも聖書を完璧に理解した人がイエス以外にいたでしょうか? 僕たちが、聖書を原語でスラスラ読めないと 聖書は本当に理解できないでしょうか? 確かに、100%理解することは出来ないでしょうけれども、 それでは、ネイティブのギリシア人なら聖書を完璧に理解できるのか? というと、そんなことはないと思います。 コイネーという、ちょっと変わったギリシア語で書かれていますから そもそもネイティブということが存在するのかどうかも怪しいところです。 母国語で読んで、95%理解したなら、それでいいと僕は思います。 いや、そもそも聖書を95%も理解できる人は、いないと思います。 つまり、聖書を理解するためには原語を読まなければ、というのは ナンセンスなことです。 人生はそれほど長くはないので、生きている間に聖書を読まなければ ならないことを考えると、原語で完璧に読めるほどの勉強に時間を費やすのと、 母国語+英語などで、すぐに聖書を読んでいくのとではどちらが良いでしょうか。 僕は後者をお勧めしますし、僕自身もそのようにしております。 それでも、僕などは聖書を読む時間が圧倒的に足りないのです。 もちろん原語を学ぶことは悪いことではないし、そうした方たちを尊敬もしますが、 最も重要なことは、聖書の言葉から何かを掴みとることのはずです。 一番大切なことから、始めたらいいと思います。 いつまで生きられるのか、誰にもわからないからです。 『翻訳が間違っていたらどうするのか』という人もいます。 しかし、そうした場合は、それでいいのだと思います。 翻訳が間違っていたなら、もちろんその解釈も当然に間違えてしまうと思います。 それでも、そうした小さなことに目を向けて、それで聖書を学ばないとするなら それは本当にもったいないことです。 完璧でなくても仕方がないのです。 しかし、神にはお出来にならないことは何もありません。 【わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。】 ここからは、『主の祈り』の第二部、あるいは後半と言うべき箇所に入ります。 ここまでとは異なり、自分たちの願いを祈る箇所に入るからです。 【日ごとの糧】 これも本来は原語のコイネーで読みたいところですが、 日本人である僕の観点から見ていくことにいたしましょう。 この部分は、英語では Give us day by day our daily bread. となります。 ディリーブレッド、という言い方が、出エジプトの際の マナを連想させると思います。 マナは、毎日毎日、その日の分だけ降ってきたと書いてあります。 しかし、日本語の翻訳からは、マナを連想し難いですね。 日本人は、こと聖書においては、他国人よりも不利な立場にある気がいたします。 毎日、毎日、その日ごとの新しいマナを降らせてください。 と神に祈るのは、理にかなっている気がします。 マナは、確かに神からのダイレクトな恵みであり、贈り物でしたよね。 しかし、この祈りは、 Dairy Manna ではなく、Dairy Bread です。 わざわざ、『パン』と限定した言い方をイエスはしています。 そうすると、【日ごとの糧】というのは何のことを言っているのでしょうか。 普通に考えると、ディリーブレッドは イエス自身のことだということになると思います。 イエスはご自身のことを【天から下ってきたパン】と言っていましたから (もちろん、この言い方はマナを意識しているはず。) パンというのは、食べ物のことですから、 毎日毎日、イエスを食べて自分自身の栄養とする ということになるのでしょうね。 日ごとの気付き、日ごとの発見、日ごとの何かを 与えてもらいたい、と思って祈るのも良いと思います。 聖餐式とか、ミサとかは、このディリーブレッドのイメージ化というか 儀式なわけですよね。 儀式自体も大切なのですが、すぐに消えてしまう、その日だけの マナみたいなディリーブレッドを、きちんと食べて暮らしていきましょう、 ということだと思うのです。 聖書について考えることは楽しいことです。 イエスの言葉について考えるのは楽しいことです。 楽しいから、このことに一生懸命になっています。 いつもいつも、誰かのことを考えていると、その人のことが大好きになります。 イエスのことをいつもいつも考えています。イエスを愛すれば愛するほど幸せになれます。 楽しさと愛の中に留まることを躊躇する必要はありません。 幸せになることを、ためらう必要はありません。 この先には、美しい毎日が待っています。 【わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。】 以前、とある牧師が「人の罪を赦すことがお出来きになるのは神だけ」と発言 しているのを聞いた憶えがうっすらとあります。 この牧師は、あまり真剣に聖書を読んだことがないのかもしれません。 この牧師の考え方は、律法学者やファリサイ派にそっくりです。 ★ルカによる福音書 5:21 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。 「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、 罪を赦すことができるだろうか。」 ★ルカによる福音書 5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。 地上では罪を赦す権威を人の子が持っていることを イエスは、はっきりと語っておられます。 人の子には、この地上においては、 人の罪を赦す権限さえ与えられています。 ルカ 5:21はむしろそのことによってイエスが神であると示そうという箇所なんだが。 人の罪を赦す権限は、人に与えられている権限の中でも 特に価値がある権限だと思います。 主に対して「わたしの罪をお赦しください」と祈るのであれば、 自分が犯した罪以上に、他の人の罪を赦さなければならないことになります。 イエスが「あなたの計る測りで、あなた自身が計られる」と言っているからです。 人の罪を赦す権限は、人に与えられている権限の中でも 特に価値がある権限だと思います。 主に対して「わたしの罪をお赦しください」と祈るのであれば、 自分が犯した罪以上に、他の人の罪を赦さなければならないことになります。 イエスが「あなたの計る測りで、あなた自身が計られる」と言っているからです。 つまり、他人を赦さないのであれば、 自分も赦されない、ということになります。 煎じ詰めれば、これは 「自分を救うのは、自分自身である」とも言えるのです。 イエスも、「あなたの信仰があなたを救った」と言っています。 プロテスタント信仰の間違いは、 「イエスを信じるだけで罪が赦される」 という、極論を堂々と信じているところです。 これは言葉上では間違いではありませんが、「イエスを信じる」ということの 真意をほとんど理解していないところに問題があります。 【わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。】 これについては、コメントはありません。 指導者的な立場にある人ほど、誘惑に合うということがあるようです。 >>57 「人の子」というのは、文字どおり「人の子」のことであって、 神のことではありませんよ。 間違えました。 上の投稿は、>>58 さんに対するレスです。 イエスは、ご自身のことを固有名詞ではなく、 「人の子」という、まったく固有名詞をはぶいた言い方で語っておられます。 僕たちも、このように「人の子」としての意識で生きていければ 重荷を負うことも少なくなるはずです。 と、ここまで書いてきましたが、 何かご質問があれば、それに答えることにしたいと思います。 何も質問が来なければ、このスレは自然に消滅すると思います。 >「人の子」というのは、文字どおり「人の子」のことであって、 >神のことではありませんよ。 では、当時の人は誰もが自分のことを指すのに「人の子」と言っていたのですか? >>64 >「人の子」というのは、文字どおり「人の子」のことであって、 >神のことではありませんよ。 まさかとは思いますが、 ダニエル 7:13-14を知らないわけではないですよね? 当時、自らを「人の子」と称するのはこの箇所を参照して以外にはありません。 「人の子」という呼称が特にイエスの「人性」を指すものとして 理解されるようになったのは専ら後世のことに過ぎません。 >>68 >当時、自らを「人の子」と称するのはこの箇所を参照して以外にはありません。 イエスは「人の子」とご自身を言っておられます。 しかし、ダニエル書に書かれているのは「人の子のようなもの」と 書いてあります。 よくよくご確認ください。 >>68 >「人の子」という呼称が特にイエスの「人性」を指すものとして >理解されるようになったのは専ら後世のことに過ぎません。 あなたの書いていることの意味がよくわかりません。 おそらく、つまらない神学みたいなものによって頭が固くなってしまっていると思います。 「人の子」がイエスの人性を指すだとかいうことは 聖書に書かれていることとは違います。そうした考えは神学といって、 誰からのアイディアに過ぎないものです。 「人の子」というのは、文字どおり、「人の子」という意味です。 本来、人は誰でも「人の子」なのです。 そうではなく、 「◯◯生まれで◯◯大学で◯◯を勉強して◯◯に就職しました。」というのが 自分だと思っているのが、大多数の人です。 イエスは、当時のユダヤ人から見たら「大工の息子」であり、 「ナザレ出身のイエス」に過ぎませんでした。 こうした認識の仕方が、そもそも間違っているんです。 他人に対してだけでなく、自分に対してまでも、このような 間違った認識を持って生きているのが、大多数の人たちです。 >>71 >「人の子」というのは、文字どおり、「人の子」という意味です。 いいえ、これは黙示文学に於ける基本的な語彙です。 ダニエルほかの箇所の記述から、当時ユダヤ教的文脈で 「人の子」といえば(ダニエルのテクストの「ようなもの」抜きでも)、 ダニエルのこれを指していました。 ダニエル ◆o31oshrvYE がダニエル書を知らなかったとは… >>73 >いいえ、これは黙示文学に於ける基本的な語彙です。 >ダニエルほかの箇所の記述から、当時ユダヤ教的文脈で >「人の子」といえば(ダニエルのテクストの「ようなもの」抜きでも)、 >ダニエルのこれを指していました。 ですから、あなたの書いているこうした内容が意味不明だと言っているんですよ。 「ダニエルほかの箇所の記述から」って、何のことを言っているのかわかりません。 旧約聖書には、創世記にも民数記にも「人の子」という言葉が出てきます。 これらは、ダニエル書とは無関係であり、文字通りの意味です。 ダニエル書の「人の子のようなもの」という記述と イエスがご自身を指して言われた「人の子」が同じだということを 言う人も大勢いますが、何の根拠もありませんよ。 そうしたことを言う人たちは、イエスがダニエル書を引用して 自分が救世主だということを示したのだ、と言うのですが、 僕には、少なくとも聖書を素直に読む限り、そのようには読めないと思います。 どこかで、誰かから仕入れてきた生半可な知識を鵜呑みにして、 聖書を読むから間違えてしまうのです。 そうしたつまらない知識はいったん棚上げにして、聖書が語ろうとしている ことを率直に受け止めるようにしてほしいと思います。 >>73 みたいな人というのは、 典型的なダメな聖書の読み方だと僕は思います。 価値のない、誰かの解釈を受け入れてしまう前に、 自分で聖書を読み、自分でその意味を考え、自分で検証する必要が あります。 聖書とは、そのように読む書物ですから、ユダヤ人には最適ですが 他の民族にとっては、罠のような書物になってしまうのです。 つまらない牧師を受け入れてしまう前に、 つまらない解釈を受け入れてしまう前に、 まずご自身で、聖書を読むようにしてみませんか? 誰かから教えられたように聖書を読むことが楽しいというのであれば 反対はしませんが、そのように聖書を読んだとしても、 得られるものは少ないと僕は思います。 あんまり言いたくないのですが、本当のことだから書きます。 多くの人は、真剣に生きていきたくないのです。 だから、聖書を読むのも面倒臭くて、自分で読もうとしないのです。 楽だから、自分でもあんまり信用していない牧師の解釈を受け入れて それで、なんとなく満足しているのです。 これがほとんどのクリスチャンの姿なのです。 どのような生き方を選ぶにせよ、 その結果は、その人のものです。 僕は、ご自身で真実を選びとる人生を送りたいと 考えている人のために、いつも投稿しています。 2ちゃんねるをやっていると、現代の日本における キリスト教会のレベルがよくわかって興味深いです。 何度も書いたことですが、再度書いておきます。 ユダヤ教のラビの仕事は、人々に聖書について 考えさせることです。 自分の考えを押し付けることではありません。 しかし、キリスト教会の牧師たちのやっていることは まさしく宗教観念そのものであって、自分の解釈のご披露や 他宗派に対する批判、くだくだと祈る祈りなど(イエスはこうした祈りを嫌っていた) ばかりなのです。 あるキリスト教会では、牧師の掛け声によって 皆が一様に声を出して祈り始め、牧師のストップによって 祈りが終わるのです。馬鹿馬鹿しい限りです。 イエスは「一人で祈れ」、「長々と祈るな」と言っておられるのに イエスの言葉は、まるで無視です。 みんな、牧師の言うとおりにするばかりです。 これが一般的なキリスト教会の姿なのです。 長々と個人的な祈りを強いるような牧師には 次のようにイエスが言っていました、と教えてあげてください。 ★マタイ6章 祈る時には、偽善者たちのようにするな。 彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。 よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。 すると、隠れたことを見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。 彼らは言葉かずが多ければ、聞き入れられるものと思っている。 だから、彼らのまねをするな。 イエスに関すること、聖書に関すること どんな質問にもお答えします。 僕は、広く浅く支持されることを一切望んでいません。 そこが、一般の牧師と僕とで異なる点です。 牧師は多くの人から献金してもらって生活していますから 広く浅く支持されるようなことを言うしか出来ません。 しかし、僕はそもそもネットを介して発言しているために、 誰からも献金してもらっていないので(献金してもらいたくないわけではない) ごく一部の本当のことを知りたいと思っている人のために 発言することが可能なのです。 人の子というのはあれじゃないかな、創世記にある女の胤、女が産み出したものという意味が 込められているんじゃないかな。 人の子には人の子という意味しかないんじゃなかったのかねえw >>91 >人の子には人の子という意味しかないんじゃなかったのかねえw もう少し自分の頭を使って考えてみることをしないと、ずっと何もわからないままですよ。 「人の子」に「人の子」という意味しかないのはそのとおりです。 「人の子」という言葉をイエスがどのように認識していたのかについて 考えてみないことには、あなたは「人の子」について何もわからないままなんですよ。 これは「認識」ということについて、もっと深く考える必要がある という話になります。 多くの人は、様々なことを「わかったような気」になっているだけなんです。 このことをまず理解しないと何も始まりません。 なぜイエスが神を「父」と呼んだのか。そのことについても、 何の疑問も持たないようなクリスチャンが多すぎると思います。 人の子は「人類の代表」って意味だと思われ かしら、なわけです >>94 さん イエスが人類の代表なのはそのとおりです。 イエスが復活したということが、わたしたちも復活するという ことの証拠になっています。 イエスがご自身を「人の子」だと主張してくれていることにより、 わたしたちも、イエスのようになれるということを証しています。 ★ダメな聖書の読み方 典型的なパターン たとえば 【わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。】を読んで、 「へ〜」ということで流し読みして終わり。 次に続く聖句を同じように「へ〜」と読む。 そして結局、読んでも何も得ることができない。 自分が言ってることが支離滅裂だということに気が付かず ひたすら自らの妄想を垂れ流すのみ。やはりカルト。 >>97 人のことをカルトだとかなんだとか書くのがお好きなようですね。 支離滅裂に感じるのは、あなたが僕の書いている内容を まったく理解できないからです。残念でした。 支離滅裂な内容など理解すべくもないので、残念でもなんでもないのだよ。 >>99 理解力が足らないというのは残念なことだと思います。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる