その関東の球団・東映を引き受けたのが日拓ホーム
色々な仕掛けを選手をダシに会社の知名度を上げる事優先に行った。
それはえげつないほどに。
で、t年で放り投げ次はオーナーが属している若手会の会社にやってもらおうと
要は体の良いたらい回し。
選手は激怒。そこを見たコミッショナーも三原を担いで日本ハムに道筋をつけた
のかと思う。
今でこそ七色のユニフォームなど目にするようになったが長い間黒歴史的な扱いで福岡野球と同じく封印されていた。

関東というならクラウン最終年の二軍はたしか東京小田急沿線沿いにあったと
思います。(もうその頃には西武買収の根回しが進んでいたかと)
クラウン一軍選手の東京宿泊も途中からプリンスホテルになってましたし。