【1979】根本時代の西武黄金時代前夜ってどんな感じだったの?【1981】
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【1979】西武黄金時代前夜ってどんな感じだったの?【1981】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/meikyu/1554028335/
壊滅的最下位から急速に強くなったような気がするけど
西武は新生球団として華が欲しかった。
全国区の選手が。
それが田淵選手。
主力3選手と看板料まで小津社長にむしり取られても必要と感じ根本氏が断行した。
血を流す覚悟で大きく舵を切ったトレードだった。
リスクは織り込み済みだった。
だから石毛獲得の前に行沢選手を取ったり捕手も幾人も指名登用もしたし話題作りではあったが育成の後付け意味もあって野村氏も取ったりしている。
真弓は根本氏の本当の出血だったと感じたが若菜は後々素行とかで対立する可能性は秘めていたと思う。
阪神とのトレードは成功とはいえない。
若菜と真弓がいれば1979年シーズンの守備崩壊はあそこまでひどくならなかったはず。
当時はセンターライン重視という考えはなかったのか?
数年後に石毛と伊東が入ったのでというのは結果論でしかない。
昭和50年代前半の巨人は長嶋監督時代だったが話題の提供が多くて優勝の印象が少なかった。
とにかく、王の本塁打世界記録、長嶋監督自身の話題提供、江川事件、後楽園球場の日本初の人工芝敷設くらいしか印象が残っていない。
でも、この頃のプロ野球と高校野球は巨人が優勝しなくても面白かったな。
高校野球は逆転のPLの全国制覇、浪商のドカベン旋風、簑島高校の延長18回を経験した上での春夏連覇。
プロ野球はパリーグは阪急、近鉄、日ハムが強くて、阪急は日本シリーズ3連覇を達成した。
西武ライオンズも、この頃に創設されて、強くなる全盛期の直前の時代だった。古い後楽園球場と比較しても新鮮で斬新な球場だった。
セリーグも、ヤクルトが日本シリーズで初出場で初優勝を後楽園球場で達成した。広島カープの日本シリーズ連覇と江夏の21球の印象が強い。
大洋ホエールズも川崎球場から横浜スタジアムに移転して、新生・横浜大洋ホエールズに生まれ変わった。
とにかく、巨人は話題の提供だけで、色々な球団がリーグ関係なく強くなり、巨人以外の球団と選手に対して関心を持つ時代になった。 チームは弱いのに、球場は豪華で新人選手の契約金は高額で、こんな金持ちの球団を
見たのは初めてだった
自分は地方に住んでいたので、西武鉄道という会社をこのとき初めて知って、こんな
羽振りのいい会社があるんだなと驚いた 福岡から所沢に移転して、ジプシーロッテのような遠征地獄からは一先ず解放されたところは大きいだろう。
かつてのパリーグが西日本4球団だったな。そうだ、ジプシーロッテの時代だよ。 画期的だったな、西武球場の鮮やかなグラウンドに
爽やかなスカイブルーのユニフォーム
都会的で読売よりも洗練されたイメージ
なんで?西武球場をドーム化したのか?
パリーグでは断トツでカッコよかった 1979年(昭54) もう食事の心配なし!真弓明信 新天地で張り切る
https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0801/kiji/K20100101Z00002420.html
新生西武ライオンズの「チームの柱、旗艦がほしい」と根本陸夫監督が
田淵に目を付けて始まった2対4の大型トレード。阪神新監督に就任した
ドン・ブレイザーは、主砲田淵を手放すにあたって交換条件として1人
の選手だけはどうしても譲らず、それがダメならトレードはご破算、
と決めていた。それが真弓だった。ブレイザーは言った。
「彼は今のタイガースに欠けているものを持っている。第一に走れること、
第二に思い切りの良さ、そして体にバネがある。近い将来、チームを
背負って立つことになる」。
ブレイザー監督が予言したとおり、真弓は阪神の1番打者として85年の
日本一にも貢献。トレードで同時に移籍してきた選手の中でも一番息の
長い選手となった。しかし、移籍の時点で30年後に監督に就任するとは、
この時誰も思っていなかったに違いない。 >>2
当時はまだ存在した長者番付に新人選手の松沼兄弟がそろって入っていたのを覚えている
作家の司馬遼太郎、巨人の王選手などと並んで入っていた
これはすごい球団が出てきたと驚いた 真弓選手はハングリー精神も持っていた。
ライオンズ時代
夕食にステーキが出た時切った肉が床に落ちても
10秒ルールみたいな感じで
すぐ拾って【ボクはそんなヤワな胃じゃないです】食べたというエピソード
もあるくらい。
ナイターが終わって【歩いて】球場から中州まで行って
酒のつまみに夜店のウナギ吊りで何匹も野球選手の運動神経を生かし釣って
【キープ】してそれをお店に持って行って捌いてもらい、していたという。
そういうエピソードってその当時のライオンズくらいしかないと思う。
だから余計セリーグの阪神に移りやる気が漲ったのではないかと。 真弓はスレチだからやめろ。
西武ライオンズに全く関係の無い選手なんだから。 >>4
雷雨やにわか雨で中止になることが多かったから 1979年の創設時に江川が入団していたらどうなっていたか… >>8
真弓というカードがあったから、田淵をトレードで獲得出来た 西武ライオンズは、田淵・古沢↔竹之内・真弓・若菜・竹田の大型トレードにより始まる 真弓は全く無関係とは言えないと思う >11
ありがとうございます。
真弓もライオンズOBでもあると福岡のTV特番で語っていたので。
根本氏の言う出血覚悟の本当の血であったから。
そういう意味ではつながりが全くないわけではないと思います。
(現に呼び戻そうとも管理部長時代何度も画策していた) 「すすめ!パイレーツ」で
西武に行くのをぐずってる田淵が西武の職員から連行されるネタがあったが
なにか不気味なくらいの権力がある感じはあったな。 1979年から1981年まで日本テレビも西武球場から西武ライオンズ主催試合のデーゲームで全国放送を中継していた。
1980年・昭和55年は「世界アマチュア野球選手権大会」が西武所沢球場でも会場になっていたので日本テレビ系列で全国に向けて放送していた。
実況の吉田アナウンサーが、「なんて緑のあふれる、素晴らしい球場でしょう」とコメントしていた。
昭和55年の世界アマチュア野球選手権大会のテレビ中継は日本テレビ系列で全国放映されていたが、日本代表の試合以外でも高い視聴率を誇っていた。 >>14
日本テレビ制作の西武主催デーゲーム中継
1979、82年1試合 83年2試合 ノムが亡くなった後、日テレで1980年オープン戦巨人-西武戦
江川対野村の動画が流れていたね。テレビ埼玉は初期の西武戦も
たくさん放送していたのかな >>15
日テレがそんなに西武主催を放映してたのか… 根本
ねもと、こんぽん
苗字とその人の仕事ぶりのイメージが一致してるよね。 いま民放地上波がパの試合を中継するなんて、ありえんな(普通の公式戦) >>1
センターラインの強化という意味ではオリオンズから山崎裕之という好守好打のセカンドをトレードで獲ったな 根本は黄金時代の下地造りが得意なんだな
広島、西武、ダイエー >>21
微妙な話だが、広島で「12球団一の猛練習」というのを始めたらしい。
微妙といったのは、広島に全く縁のない根本が、監督として成功パターンを作った。
広島初のAクラス、スター選手山内獲得、小森、関根、広岡のコーチとしての採用など。特に広岡のコーチ就任は諸刃の剣で幹部候補の上田が去っている。
周りも癖の強い巨人一辺倒の広岡がコーチをするのは意外だった。
ただ答えは簡単で、広岡は広島県出身で兄が広島カープに在籍していたのでうけたらしいが。
西武での田淵獲得、広岡の招聘などかぶってる。 とにかく何から何まで斬新だった
所沢に新球場を建設し
https://imgur.com/V4Bw6mO.jpg
ペットマークに手塚治虫を起用し
https://imgur.com/0Ddmvt9.jpg
スカイブルーのユニフォームが格好良かった
https://imgur.com/7dUnerA.jpg
プロ野球は見て楽しむものだから、
生まれ変わった美しいライオンズにワクワクしたものよ 1982年から野村克也監督時代だったら、西武の黄金期は違っていたものになっていた。 野村氏の引退の引き金が
「自分の代打に打ち損ねろ」と願ってそれを後に恥じて引退を決意した。
本当かどうかは闇の中だが
その後に引退を申し出たら渡りに船で「ご苦労様でした」という対応。
すぐ西武監督というのは想像しにくいし
新生球団にスキャンダルで解任の野村氏を、というのはイメージを優先する中で
考えにくい。
広岡氏は管理野球・スマートさ・先進性・タブチくんキャラと話題性もあった。
当時長嶋氏や古葉氏や上田氏が候補の中そういう時期ではなかった。
仮に野村氏がなったら82年当時ってネアカ・ネクラで何でも分けようとした世相
どっちに振り分けられるか?そのカラーでずっとチームが報道されるということに
なりかねなかった。という可能性もあった。 >>16
>テレビ埼玉は初期の西武戦も
たくさん放送していたのかな
ホームゲームなら録画も含めてすべて放送していたね
TBSが生中継すると基本録画だったけど他だと並列放送だった
開局初年はホームゲームだけでビジターには手付かずで
80年から近県の後楽園や川崎を中心にビジターも手掛けるようになったけど
サンや京都といったローカル仲間からだけでなく関西テレビや読売テレビから同時ネットしたり
遠く平和台にも自社で出向いて群馬や千葉など近県局にネットするなど
テレビ埼玉の難視聴エリアに対してもライオンズファン拡大に向けかなりの努力貢献をしていたね 西武時代の野村克也
1979年→74試合出場、打率.222、5本塁打、22打点
1980年→52試合出場、打率.217、4本塁打、14打点
1979年はスタメンも多かったが、
1980年は吉本博や大石友好が正捕手争いをしていて、野村はほぼ代打か守備固め
往年の三冠王もさすがに限界だった >>28
板年の野村は肩の衰えが激しく2盗はフリーパスという状態だった。したがって守備固めは果たせてない。貢献したのはリード面での経験値のみ。 1980年後期西武はいきなり旋風を巻き起こした。
前期が嘘みたいな快進撃。
優勝も夢じゃないくらい。
当時の西武を見ていてこれが前年パの台風の目と言われた。
【前年は中心過ぎて無風状態だったと皮肉られた】
とは全く違う本当の快進撃だった。
9月に首位をキープしての平和台の盛り上がりは凄かった。
球場に運よく入場出来て主催の南海側なのに95%がライオンズファン。
タイロンが勝ち越し本塁打を打って香川が多分貴重な機会だがホームスチールで
余裕アウトとか鳥肌立つくらい物凄い盛り上がり方だった。
多分福岡の勝てば盛り上がるファン気性が最高に燃え上がった時でもあった。
その時のバッテリーが多分松沼兄と野村
時折絶妙のリードで何回の攻撃を抑えて三塁ベンチに帰ろうとすると
一塁観客席から【もうこっちへ帰って来んでよかっぞーー】声援受けていた。
そして勝利。2位に2.5ゲーム差。
この時が最高に盛り上がったし東尾と田淵が最高に乗っていた。
当時の週刊ベースボールでも西鉄の再来平和台盛り上がるとか載っていた。
まかり間違って後期優勝したら82年の広岡氏の方針とか皆従ったかどうか
怪しい面も考えられる。(違った成功例を植え付けさせるから)
後から考えると最後の最後で近鉄にうっちゃられたことで優勝って簡単じゃないんだ。と思い知らされたはず。
根本氏もそこを望んだと思う。
東尾も近鉄戦の投球は普通じゃなかった。
あれは優勝するための一度は通過する関門だと。そこを通過できるかできないか
その後の月日が必要だった。 最後の年、打率.217だけどオールスターまでは打数少ないとはいえ3割打ってるね
で西本さんがオールスターに推薦してくれた。 野村氏のそうした実戦での生きたリードを
大石氏や吉本氏はその後生かしたのだろうか?
本気でその辺を育成したいなら野村氏をヘッドコーチかバッテリーコーチで
招聘ということも考えていたと思うが。
野村氏のキャリアを尊重して格落ちみたいな事は避けたのだろう。
引退式もしてもらい。選手として最大限尊重してもらったと思う。
そこも2年の在籍とは言え根本氏や西武球団のの深い配慮を感じる。
腐らず若手投手にリード面で投球の幅を持たせ育成や勝利にも少なからず貢献した
のを見ていたのだと思う。 リーグ三連覇したときの西武の記事を読むと
常に5年先、10年先のチーム構成を考えていると知り驚いた。
しかも10年先には当時バリバリの工藤や石毛や秋山の名前は無いという位
清原がかろうじてとか。
先を見るチーム作りをフロントが行っていた。
それが脈々と受け継がれ次々にチームを支える人材も生み出す土壌を作っていった
と思う。
自前の育成でチームを作り且つ勝っていく。
そういう伝統になっている。
だからFAやメジャーに流出しても都度カバーする選手が出てきている。
ただ投手が最近育成がついていってないのが不安材料。
ドライすぎるものでない他の要素も西武は求められている。
でもその中辻監督の采配は凄いと思う。 >>31
80年9月16〜18日の3連戦は西武主催だった。
2戦目こそ2-8で敗れはしたが、1、3戦目をそれぞれ5-3、7-3で勝利。
南海主催では8月23〜24日に大田の活躍など17-3、11-5で連勝。
この年はホーム、ビジター合わせて平和台で10試合を戦い5勝5敗。 >36
そうでしたか!!
西武主催でしたか。
記憶が曖昧で当時中学生でしたから。
でも南海戦だったのははっきり覚えてます。
内野に運よく入れて。
観衆は3万はいたと思います。
観客多いのは何度か経験ありましたがライオンズが首位で試合に臨むなんて
この時が自分では初めての体験。
とにかく物凄い熱気で勝利の瞬間は優勝に近いものがあり
やはりライオンズは博多の人に愛されているんだと思いました。
有難うございます。 >>38
書き忘れましたが、西武×南海で合ってます。
17日は当初、関東でもテレビ中継の予定(情報誌には番組変更の場合ありとの但し書き)でしたが、
当日になって取り消されており、ガッカリした覚えがあります。
しかもTVS(テレビ埼玉)でなくTVKでして、情報誌にもスタッフ表記もなく、
尚且つ、開催球場名も西武ライオンズ球場と誤記載されてた有様。
この幻の中継、今更ながら福岡の局(KBC?)からの同時ネットだったのでは?と思っている次第です。 野村氏も古巣相手に今は別のユニフォームながら
優勝争いの中バッテリーを任され大いにアドレナリンも出まくったかと。
かつての西鉄―南海戦の熱気を思い出したかもしれない。
移籍後一番充実した瞬間だったかもしれない。
松沼兄と誇らしげに勝利後写真に収まっていた。
あの顔は確かに輝いていた。
優勝に本気だったら野村氏をもっと活用しただろう。 肩が絶望的だったのを忘れてました。
リード面なら負けないが致命的ですね。
福本蓑田とか鬼のように走って来ただろうしクイックモーションとか
当時の西武の投手に満足にできるわけないし。
一瞬の光だったという事ですね。 西武球場でも観衆が5万人入ったことがあるのか。
確か、大入り袋が配られた記憶がある。 根本監督時代の西武ライオンズは懐かしいな
近鉄がパ・リーグで連覇した頃だな。
強くなる西武黄金時代の直前は
阪急近鉄日ハムロッテが強くて南海が最悪だった。
巨人が強かったV9時代と違って西武黄金時代は
試合内容も飽きることなく新鮮な時代だった。
西武球場にはライオンズの試合は行けなかったが
高校野球の埼玉県大会の決勝と世界アマチュア野球選手権大会の開催で観戦した。
同じ頃に横浜スタジアム完成と共に
横浜大洋ホエールズが誕生して行ったこともあるけれど、新しいプロ野球の時代を感じた
時代だった。
この頃から巨人以外の球団に興味を持つ野球ファンが増えたと思う。
ただ、野球場は新しくなったが西武はパ・リーグの盟主になって強い球団になったが
横浜大洋ホエールズは新しい野球場でも
成績は低迷していたが、新しい時代の流れに乗った野球ファンが数多く詰めかけていた。
斎藤昭夫、田代、山下、高木、平松など名選手が活躍したのもこの時代である。 関東にあるスタジアムで
西武ライオンズ球場と横浜スタジアムが
唯一アメリカ人に見せても恥ずかしくなかったな
東京ドームなんかアストロドームのパクリで
アメリカ人に鼻で嘲笑われた >>44
アストロドームじゃなく、ツインズのメトロドームだろ。 >>43
1980年の主力野手だと、
・阪急:福本、加藤(秀)、蓑田、マルカーノ
・ロッテ:リー兄弟、有藤、弘田、落合
・近鉄:マニエル、佐々木、栗橋、羽田、梨田
・日ハム:柏原、島田(誠)ソレイタ、クルーズ
こんなところ。本拠地の日生球場が狭かった事もあるが、近鉄の長打力が光った。亡くなったのは佐々木とマルカーノくらいかな。 >>46
ヨッシャーは生きているぞ
ソレイタが30年前土地のトラブルで殺された >>47
勘違いした。なんとなく鈴木貴久と間違えてしまった。 >>45
メトロドームならメジャー不人気スタジアム
更に恥ずかしいわ
ビッグエッグ(笑)
西武球場のドーム取って元に戻せ開場当時の
ままで見栄えいいから 1973年に日本テレビで「ドラえもん」が放映開始されたが、製作者側の制作会社の不祥事で半年で終わってしまったが
西武ライオンズが1979年に登場すると同じ時期にテレビ朝日系列で「ドラえもん」の全国放送が開始された。
西武ライオンズが強くなった1982年以降、テレビ朝日の「ドラえもん」も毎週夜19時・午後7時から30分枠の定番アニメ番組として成長していった。
1973年当時のライオンズは福岡時代で厳しい時代であり、日本テレビ制作のドラえもんは黒歴史の時期だったが、
1979年以降のライオンズの歴史とテレビ朝日系列のドラえもんの発展ぶりは軌を一にするくらい進化を遂げていった。 1982年から西武の監督に長嶋茂雄、金田正一が
就任していたら、黄金時代は
どのような状態だっただろうか。 今の時代だったら、巨人の監督を辞めたばかりの長嶋茂雄は
西武から監督就任の話は行っていたかもしれない。
他に金田正一、武上四郎も該当していただろうか。
まあ、その中に広岡達朗の存在だっただろうか。 あの当時、長嶋茂雄の西武監督就任は
現実として存在していたかも知れない。
引退直後の高田繁でも良かったかも知れない。 タラレバなら ノムさん 一択や!
野村IDライオンズ誕生や!
メジャーリーグに参入しても
優勝や!ワールドチャンピオンや!
野村IDが10年早く見参や! >>46
1980年パ・リーグの成績表を見たけど、ビックリするくらい打高投低だったんだな
リーグ全体の本塁打数が1196本で、優勝した近鉄は239の本塁打数に対して
防御率が5点台に近い数値だし 狭い球場
飛ぶボール
圧縮バット
の三重苦だったからね
ボールとバットは翌年から禁止 栗橋や羽田は2011年にプレーしていたら5本塁打も無理そう 広橋や太田や立花らだったら
130試合フルやったら
30本打てたな、西武のレベルは断トツや もし田淵のトレードがなかったらどうなってたんだろう?
戦力的にはそこまでマイナスにならなかったかもしれない――石毛を獲ったら
真弓を阪神における史実通り外野に回せばいい――けど
人気という側面ではかなりのハンデを背負ったままだっただろうし 長嶋氏の監督招聘はかなり動いていたはず。
環境や選手は揃ってきていて
新生球団から盟主への球団としての【格】が欲しかったはず。
かなりのルートや伝手を使ったかと
それでも首を縦に振らなかった。
広岡氏が退任した後も私の後長嶋氏なら最適とも。
実現は出来なかった
読売のもう一つ伝手を長嶋氏は信じていたのだろう。
その辺が後年根本氏の王氏への招聘に結びついたのでは
思えてならない。
金田氏はありえない。福岡時代の乱闘を仕掛けた人
武上氏なんかしたらチーム自体が空中分解。
長嶋氏だったら連日報道され球場にも観客が詰めかけるだろう。
でも巨人ファンの反発も半端なかったはず
連日YGマークやユニフォームでない長嶋氏をあなたは認めるのか?
とかのマスコミ特集が組まれそう。
新たな怨恨とかも生みそうだし。当時が巨人一極集中だったから
それに唯一対抗しうる西武の戦略も見てみたい気もする。
堤氏も関わるだろうし
ビジネス面から見ても 田淵獲得は西武球場、手塚治虫のレオマーク、西武とプリンスホテルによるアマの有力選手の獲得と合わせ
新しい何かが起きるという予感を与える出来事だったな。
それ以降だとダイエーのホークス買収が一番近いイメージかな。
ツインドーム構想、球団マークはロス五輪のデザイナー、チャーター機で福岡入り、ユニフォームは三宅一生。
野球に関する目玉がなかったのが残念だったが。 その点では広岡達朗さんはカリスマであったし
広岡達朗さんの後任には森祇晶で納得
と言うところもあろう。
根本から広岡達朗に監督が移行した当時、
主に巨人OBを要請したのは事実だが
巨人出身者ではない核心ある大物を据えようと
しても浮かび上がっ上がって来ない。
広岡達朗さんならば別当薫、年齢があるが杉下繁、阪急監督だった上田氏、阪神出身者の村山実と言う選択は無かっただろうか。 >>56
1980年のパ・リーグは、マニエル、ソレイタ、田淵、レオン、門田が40本以上で、タイロン、羽田、リーが30本以上、20本オーバーは多数。
レオンが日生球場の狭さに文句を言っていた記憶がある。川崎球場も狭いが、大洋が本拠地にしていた時代より外野フェンスを高くしてホームランを出にくくしていた。
リーは弟のレオンが日本の投手にも慣れホームランを量産、80年後期からは落合も台頭してきたので、自分は無理にホームランは狙わずヒット狙いで確実に出塁する戦略に変え首位打者を獲得。 上田氏は実は81年オフほぼ西武に決まりかけてた。
直前で阪急に寝返った。
広岡氏は確か4番目の候補
一番目は長嶋氏 二番目が上田氏 三番目が確か古葉氏?で広岡氏だったと
記憶している。
それを知っていてもプライドの高い広岡氏をその気にさせた根本氏の説得と
チーム自体の魅力も相当あったのだろう。 上田の阪急復帰は80年オフな
西武監督候補になったことは事実だけど
長嶋がクビになったのが80年の最終戦終了後だから
この序列自体が存在し得ない ライオンズOBならば、中西太、稲尾の
監督就任は見たかったが
あの当時の西武ならば
広岡、長嶋、上田の選択になるだろう。 古葉も80年が2年連続日本一でまだ退団のそぶりも見せてないしな 解任ショックが癒えてようやく長嶋待望論が出たのが81年シーズンになってから
まず西武が翌年には大洋が(地ならしの形で関根氏が監督就任)
1.長嶋 2.上田 という序列自体があり得なかったというのをいいたかった
上田は梶本があまり上手でない采配でペナントこそ落としてたものの
まだ阪急の実力は十分で、それなら勝手知ったる古巣の方が、と判断したんだろうね
梶本の次がいなくて泣きついた以上78年のやらかしもなかったことにされたわけだし そうでしたね。
上田氏
申し訳ございません。
ただ古葉氏は根本氏繋がりで監督要請はしていたはず。
広岡氏は阪神の監督要請を断っての西武からのもので余計魅力的に映ったのだろう
西武球場の施設などや若手の練習を見せて
どうだい10年でも監督契約可能だぜ。あなたの理想のチームを作る絶好の環境。と。事実そうだった。有望な若手が群を抜いていてしかも優勝の一歩手前まで
前年行ったチーム。
血がその時点で騒いでいたかも たらればなら
長嶋氏が西武の監督になってたら
即秋山氏の英才教育をしていただろう。
巨人の原に対抗して。
長嶋氏の感覚的な表現で別次元のスイングができたかも。
まだパワーも残っているから伊東キャンプのような猛練習を課して若手を
徹底的に鍛え上げたかも。
長嶋氏に鍛え上げられた西武の選手と過去の伊東キャンプで主力になった巨人
因縁の対決
とアンチ巨人と長嶋ファンが西武を応援するようになり快進撃したら
パリーグの潮目も変わるのが早かったかもしれない。
田淵や大田も長嶋氏の好きなタイプの選手。
東尾を上手く操縦できるか?
話題は尽きないし
他チームなら大沢親分との対決も黄金カードになりそう。 広岡は巨人の生え抜きのスター選手でありながら、「巨人を追われた名将」であったことが、
昭和58年の巨人との日本シリーズをドラマチックなものにした。
誰もが巨人と戦う広岡監督を西鉄の三原監督と重ね合わせて見た。
結果として広岡が監督に決まってよかったと思う。 短かったけど、広岡さんの西武監督就任前の2年間の日テレ解説者時代、結構ズケズケと物申していて面白かったです。
特に対ヤクルト戦で、巨人の選手への舌鋒は鋭いものがありましたね、ヤクルトの練習に比べたら巨人の練習なんて眠気覚ましみたいなものですよ、とかね(苦笑)
ただ、藤田巨人が結果を出すにつれて、ややトーンダウンしました。その頃は、色んなところから監督のお話しが来ていたのもあったのでしょうね。阪神とか、近鉄とか。 >>76
広岡監督の良さはプロ意識を植え付けたことやな
仲良しグループじゃ勝てんよ と
西武の選手は一歩グラウンド出たら一切口聞かない連まない
ロッカールームも緊張感がハンパないって
清原和博が言ってた、石毛さん伊東さん秋山さんメッチャ怖いと オーナーからもリーグ優勝しなければ最下位と同じ
つまり給料が上がらんちゅうことやな
日本シリーズで勝って日本一になって給料が上がる
まさにプロ集団
弱小球団はちょっと勝ったくらいではしゃいで粋がる
当時の西武がナンバーワンだろな、内野手が年に一回あるかないかの
内野フライでのタッチアップで殺す練習してんだもん あのノムさんに西武を倒すのが夢だった
と言わせるくらい当時はズバ抜けてた
試合前のシートノックや球回しにしても
大阪桐蔭みたいな緊張感で張り詰めてた
相手チームがこりゃ敵わんわと思わせるほど
将棋やファミコンやってる奴らなんかいない 田尾が週べ増刊で語った回想
西武での1年目は不本意な成績だった。オフの契約更改では酷評されると思っていたが、当日フロントはある試合のスコアを取り出し
『この9対1で敗れた試合、西武の1点は田尾さんが9回に放ったホームランだった。試合は完敗だけど、ライオンズの応援に来た子どもたちはあなたのホームランの印象を抱いて帰路についたはずだ。本当にありがとう』と頭を下げてきた。
中日ではありえないやりとりだった。西武球団はそんなところまで細かく査定してるのかとその凄さを思い知らされた。 広岡達朗さんも西武監督をやめてから
どこの監督もしなかった。
ロッテGMでバレンタインを追い出したことがある。
広岡達朗さんが低迷していたロッテ、広島、横浜の監督をしていたら
流れは変わっただろうか。 長嶋氏
ついに首を縦に振らなかった。
でも何度も就任要請はしていたから
たらればくらいは楽しみたいけど。
就任要請すらガセだったらそうだけど。 2002年には博多から直江津を経て室蘭まで九越フェリーで旅行したことも有る。
博多から那覇まで琉球海運で旅行したことも有る。
サッカーワールドカップ日韓大会開催の年である。
プロ野球も日本シリーズでは巨人が西武を、4勝0敗のストレートで、しかも西武ドームで日本一を達成した。
日本プロ野球界で日本一を達成した球団で外国人選手無しの純国産戦力で達成した球団は2002年の巨人を最後に達成されていない大記録でもある。
巨人の松井秀喜が日本球界で活躍した最後の2002年でもあった。日本一を置き土産にフリーエージェントでアメリカに渡った。
2002年はサッカーワールドカップ日韓大会の年だったが、小泉首相の北朝鮮訪問・日朝平壌宣言・日本人拉致問題で大きく揺れた年になった。
天国で西武ライオンズを見守る根本睦夫氏は2002年と言う一年を、どのように思ったのであろうか。 >>80
金が無ければ出来ない事ですね。
0対9の9回に打ったソロホームランを評価するのは貧乏教団では不可能。
そんなホームランを評価査定していたら、球団経営出来ませんw >>82
当時の根本監督が、盟友で長嶋さんの理解者でもある関根さんや、長嶋さんのブレーンであったニッポン放送の深沢アナウンサーを通じて、長嶋さんに監督就任要請されていたこと、深沢氏の著書で読んだことあります。まあ、長嶋さんが不本意な型で監督解任されたばかりで、とても他のチームのユニフォームは着る気になれないってんで、あっさり断りを入れましたけどね あと、翌81年、出番の少なくなった土井正博がシーズン中に根本監督に相談しに行くと、俺は今年で監督をやめる。来年から監督は長嶋か広岡になる。長嶋の野球だったらお前は合うだろうが、広岡は合わないだろうから、広岡になったらお前は現役引退しろ、と答えたとのことです。交渉相手が広岡さんに一本化されるまでは、引き続き長嶋さんも候補の一人であり続けたようですね このスレを見ていて思い出した。当時、セニョールパという野球漫画があったが覚えてる人いる?
根本時代から広岡時代の西武ライオンズが舞台。選手も監督もみな実名で登場した。現在では肖像権の関係でアウトだろうね。 >>81
広岡は「監督はグラウンドで自ら手本を示して教えなければならない」と考えていた。
だから、まだ体の動く50代前半くらいまでしか監督はできないというのが持論だった。
作戦を立てて指図だけするのでは、監督は務まらないと考えていた。
だから、西武が監督をする最後の球団と考えていたのかも知れない。 月刊ジャンプで「俺がヒーロー」というのもあった
マガジンで西武を舞台にした漫画もあったし、世間が巨人に飽きてきたところに西武が当てはまったという感じ 読売のキャップの売り上げより
西武のキャップが売れまくり
一時的に完売するほど人気だったな
女性ウケも良かった爽やかなスカイブルーで >>87
あぶさんもNPBに金払って書いてたの?アップショーに訴えられたのは知ってるけどその後 >>87
全巻いまでも持ってるよ
当時は小学生だから主人公が通う風俗の意味がイマイチわからんかったw 根本監督時代はリーグ優勝こそ無かったが、球団の基礎固めは確実に行った。
広岡、森、東尾、伊原、伊東、渡辺の監督時代までリーグ優勝、日本一、アジアシリーズ制覇まで達成したことも有る。
広岡、森、東尾、伊原、伊東、渡辺の監督時代までで、リーグ優勝しかなかったのは伊原監督時代、東尾監督時代くらいだろうか。
それでも、1993年から2004年までの11年間・12シーズンで西武は日本シリーズ制覇を達成できなかった。
しかし、1982年から25年以上も連続でAクラス入りを果たした球団は他を見ても見当たらないので根本監督時代の功績は大きい。 >>92
主人公の実家がソープランド(当時は異なる名称)経営じゃなかったか?
東大野球部時代に店の幟を持ってダイヤモンド一周したとかの逸話があった。 >>94
ああ、そんな設定だったね
子どもだから男と女が裸で抱き合ってる場所としかわからんかったんよ
現実のペナントレースをうまく物語の中に取り込んでて
たぶん本気になると無敵なほど打つがたいてい本気にならないので
まあそこそこの成績に落ち着いてあまり西武がチートにならないとこがよかった 1981年の西武だが、61勝61敗4分の4位なのに得失点差
が+86(得点599、失点513)の珍記録を残した
試合運びに問題があったんかな
5月にロッテ相手に22得点した試合もあったが、1点差で勝とうが
10点差で勝とうが同じ1勝だからな
根本監督が自分の監督としての役割はここまで、と考えたのもなんとなく理解できる 1981年は田淵とスティーブが怪我でかなりの試合を離脱したものの、新人の石毛と新外人のテリーが3割を打ち、大田が勝負強さを発揮した。山崎も前年ほどでは無いがコンスタントに活躍し、リーグ一の得点力になった。
投手も円熟味を増した東尾、松沼兄弟、森(繁)に加えて新人の杉本が期待以上の活躍を見せた。
しかし競り合いで大事なゲームを落とす事が多く、やはり根本の采配には疑問符がつくことが多かった。 >>94
さらに細かくいうと主人公は捨て子で、
トルコ風呂のおばちゃんに拾われた実の子ではない、みたいな設定だったような、セニョールパ
広岡、森、大沢監督に堤オーナーまで出てて、森繁がイケメンエースな描写
「愛と美意識の源泉・トルコ大日本」 東尾監督2年目にビジターユニフォーム変えたときはどう感じた? >>99
カッコいいセパレートで歴代で一番いい
力強さが減った感じあるけどよ >>99
良かった
配色が明るめになったのも若々しくて好印象
ホームとビジターは連携したデザインとなるのが理想でそれが損なわれたのは残念だけど、
むしろこのビジターを基本にホームをリニューアルしてもいいと思った ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています