【1979】根本時代の西武黄金時代前夜ってどんな感じだったの?【1981】
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【1979】西武黄金時代前夜ってどんな感じだったの?【1981】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/meikyu/1554028335/
壊滅的最下位から急速に強くなったような気がするけど
西武は新生球団として華が欲しかった。
全国区の選手が。
それが田淵選手。
主力3選手と看板料まで小津社長にむしり取られても必要と感じ根本氏が断行した。
血を流す覚悟で大きく舵を切ったトレードだった。
リスクは織り込み済みだった。
だから石毛獲得の前に行沢選手を取ったり捕手も幾人も指名登用もしたし話題作りではあったが育成の後付け意味もあって野村氏も取ったりしている。
真弓は根本氏の本当の出血だったと感じたが若菜は後々素行とかで対立する可能性は秘めていたと思う。
阪神とのトレードは成功とはいえない。
若菜と真弓がいれば1979年シーズンの守備崩壊はあそこまでひどくならなかったはず。
当時はセンターライン重視という考えはなかったのか?
数年後に石毛と伊東が入ったのでというのは結果論でしかない。
昭和50年代前半の巨人は長嶋監督時代だったが話題の提供が多くて優勝の印象が少なかった。
とにかく、王の本塁打世界記録、長嶋監督自身の話題提供、江川事件、後楽園球場の日本初の人工芝敷設くらいしか印象が残っていない。
でも、この頃のプロ野球と高校野球は巨人が優勝しなくても面白かったな。
高校野球は逆転のPLの全国制覇、浪商のドカベン旋風、簑島高校の延長18回を経験した上での春夏連覇。
プロ野球はパリーグは阪急、近鉄、日ハムが強くて、阪急は日本シリーズ3連覇を達成した。
西武ライオンズも、この頃に創設されて、強くなる全盛期の直前の時代だった。古い後楽園球場と比較しても新鮮で斬新な球場だった。
セリーグも、ヤクルトが日本シリーズで初出場で初優勝を後楽園球場で達成した。広島カープの日本シリーズ連覇と江夏の21球の印象が強い。
大洋ホエールズも川崎球場から横浜スタジアムに移転して、新生・横浜大洋ホエールズに生まれ変わった。
とにかく、巨人は話題の提供だけで、色々な球団がリーグ関係なく強くなり、巨人以外の球団と選手に対して関心を持つ時代になった。 西武のユニホーム、昔の明るい爽やかなスカイブルーの方がいい感じがするけどなあ
戻せるもんなら戻してほしい
でもそんなこと言うのはおっさん世代限定かな >>97
本人も自覚してたw
でも、広島の監督時代、猛練習を取り入れたのは
根本だと聞いて意外な感じがした。
関根、広岡をコーチに招へいしたときには既に猛練習だったらしい。 >>102
みんな言ってる、うちの嫁と息子もスカイブルーがいいって
レジェンドブルーは気分が高揚しにくいんだよね
手塚治虫デザインのレオマークも2周回って逆にカッコいいし 昭和50年代前半の当時のライオンズって
特に東京(関東)から見たイメージは惨めなもので
当時公開された【遥かなる山の叫び】だったかな?
シーンの中でライオンズファンの居酒屋で主人公の子供に
これ稲尾のサインボールあげる。と言うやいらない!!
全力で拒否られるものがあったり。女性スタッフのクラウンユニのコスチューム
も何か貧相だったし。
そういうよく言えば地味。悪く言えば存在感の薄い存在だった。
イメージや色すら浮かばない地方の地味なかろうじて体をなしているプロ野球球団。
そんな感じだった。
その後の西武の描くビジネスの規模なら福岡ライオンズの負債12億など
堤氏にとっては安いものだったはず
西武球場の運営も迫られていたし。
組織をしっかりつくってチームを長期わたって運営していくビジョンもあった。
現にその後の畳みにかけるような報道
手塚氏のレオマーク
キャラクター商品の売り上げだけで買収時の負債をペイできたという。
色々あったがライオンズにとっては最良の選択だった。 プロ野球の球団応援歌では、松崎しげるが歌う「地平を駈ける獅子を見た」
がお気に入りの曲だ
当時初めて聴いた人はプロ野球の新時代到来を感じたのではないか
それぐらい勢いとエネルギーに満ち溢れている
俺は後になってから知ったから当時の評判はわからないけど
(幼稚園児だったからリアルタイムで聴いてなかった) >105って他のスレに出てた。題名違ってたよ。
何というか今82年以前を当時の写真とかで振り返ると
ユニフォームの着こなしもちょっとラフに見える
82年から一気に着こなしているという感じ。
その辺から広岡監督の教育が行き届いているのを見て取れる
荒々しいライオンから教育されたライオンへ
そんな感じかな 駅前にナニもなかった小手指がマンションできたりスーパーできたり急激に発展した。 81年の西武って驚くほど印象が無い。
前期2位と言っても。。。。優勝争いで騒がれたわけでもないし
石毛が新人で騒がれた。杉本が出てきた。田淵がケガで長期欠場
印象ねぇ。。。
夏に当時人気のあったエマニエル坊やが球場のイベントか始球式に
来たことくらいかな。
84年より希薄。 西武ライオンズと球場が出来た時
その球場に鉄道を敷き専用の駅を作ったのを聞いて
福岡野球とのあまりものスケールの違いを九州で知らされた。
平和台と違う緑にあふれた今までと違う別次元の新しい球場
横浜スタジアムで先進的な施設に驚く間もなく更に新しい西武球場。
一気にその美しさと独自性に魅了された。
未だに内野から外野の最上段のスロープにかけてのいくつもの三角っぽいテントに見える
モノは何だろうと分からずにいる。
知っている方教えて頂きたく あと子供に強烈なイメージを与えたのは
当時ジャンプで連載していた「悪たれ巨人」ではないか?
すっかり犬漫画家の巨匠の初期マンガ
リトルプロリーグの東地区とかで新生西武チームが颯爽と出てきて
チームキャラや漫画の内容とかよりも西武球場に重きを置いたような
構図が多く凄く引き込まれた。
この漫画で西武のイメージを強く持った子供も多かったと思う。
連載の終わりはいきなりっぽかったけど。 >>110
なんたって当時の会長は
世界長者番付1位の大物
会長が球場にきたら全選手と監督コーチにスタッフが
走って駆けつけ全員両手を前にして御迎える
読売グループなんか話しにならんよ三下扱い 草創期の西武は東京志向が強く、所沢に本拠を置いていたものの埼玉県に根付いたチームつくりは目指していなかった。したがって、ファン開拓は西武線沿線住民を中心に、さらに東京23区への浸透を狙った。1983年の日本シリーズで激闘の末に巨人を倒した広岡は、「これで諸君も全国区だ」と選手を讃えたが、清原を獲得し常勝チームになった1986年以降も人気の上で全国区には届かなかった。
1979年当時のパリーグはどこも不人気で、一方、セリーグは巨人とその人気に寄生する他の5球団という構図が確立しており、その状況の打開を目指して様々な施策は実施したものの巨人ブランドの壁は厚く、ついに、2008年ごろに球団名を”埼玉西武”に変更し、東京への執着は捨てさいたま市を中心に埼玉県全域へファン層を広げる戦略に舵を切った。 >>114
観客動員数は一時
セリーグの阪神と同じくらいだったぞ
阪神が低迷して190万切った
一方で西武は190万突破してた
実質は読売中日に次ぐ人気だった >>115
2000年代前半までの観客動員数はどこも水増し発表だったので当てにならない。
西武球場も、詰めて立ち見席まで入れて35000人くらいの収容人数だが、50000とか発表していた。
後楽園も42000のキャパに対して50000、東京ドームも46000のキャパに対して56000とか(これは有名)。甲子園に至っては、58000とか発表していた。 >>116
阪神って連日満員御礼なったのは最近なんだよ
1990年代は読売戦以外はガラガラ2000人くらい
ナゴヤ球場の方が観客動員が良かったホントに
西武も近鉄戦だとよく入ったね満員だったね >>117
野村就任でヤクルト、星野就任で中日ファンを鞍替えさせたのも一因。
特にヤクルトから大量のファンが阪神へ流出。
国鉄時代からの燕党だった石田純一は野村の人柄に惚れ、
野村が阪神監督に就任すると追って阪神ファンに転向したが、
その尊敬する野村が楽天監督に就任しても追わずに虎党に留まった。 >>118
日曜朝のラジオ番組で、ヤクルトファンの三宅裕司が
ヤクルト→阪神へのファン大量流出に苦言を呈していたっけな
小俣雅子から「三宅さんも阪神ファンになればいいのに」発言には
さすがにムカッときたらしく、生放送の立場も忘れ小俣をドヤしつけてた >>118
ノムさん?西武ライオンズ発足メンバー
ノムさんがあのスカイブルーのユニフォーム着てプレイしてたのが
誇らしいね、そのノムさんが使ってたヘルメットが
清原和博の元へと 30年以上昔の話になるが、プロ野球選手名鑑で西武の選手の住所を見た
際に「所沢市小手指〜」が結構多かった記憶がある 所沢ではないが球団草創期は主力選手も西武線沿線に住んでいた。大田とか東尾とか。東尾は家族を福岡に残して単身赴任(奥さんが福岡で店を持っていた)。
当時、大泉学園在住のライオンズ選手なんて紹介が駅の掲示板にあったのを覚えてる。今じゃ個人情報保護の観点から考えられないこと。 >>115-117
日本の高校スポーツで6万人以上の大観衆を動員させたのは冬の正月の高校サッカーくらいだろう。
阪神甲子園球場の高校野球でも新聞の資料だと昭和30年代から40年代にかけて開会式や決勝戦では7万人の大観衆を集めたとは書いている。
昭和48年の夏の広島商業が全国制覇してから平成の初めくらいまでは甲子園の満員観衆は5万8千人だった。
正月の高校サッカー選手権大会は昭和40年代は大阪の長居陸上競技場で細々と開催されていた。
正直言って、東大阪市の花園ラグビー場の高校ラグビーよりも規模が小さくて、全国で16校しか出場できない有様だった。
昭和40年代後半ごろの高校サッカー選手権大会は、大阪の長居陸上競技場などで試合をしていたが
テレビ放送は、大阪の読売テレビでは無くて、東京の日本テレビの製作著作で全国に向けて放送されていた。
高校サッカーが大阪の長居陸上競技場で開催、昭和40年代当時は
埼玉県の浦和南と静岡の藤枝東が群を抜いて強かった。
昭和50年代に正月の高校サッカーが東京開催に移ってから、帝京、韮崎、清水東が台頭してきた。 西武線の入曽ってとこで生まれて、
近所に永射が住んでいたことをずいぶんあとで知った。
昔住んでいた家ストリートビューで見たら取り壊されて何か野球塾みたいのができて
るわ。 79年はともかく80年とか81年って優勝してもおかしくない戦力だと思う 7月16日(木)午後8時00分〜8時41分
NHK BS4K 新日本紀行 「ライオンズが来た町・所沢の四月」
昭和54年5月16日放送
https://www4.nhk.or.jp/P5123/x/2020-07-16/44/15675/2080053/ >>123
練馬区に住んでた石毛とか工藤とかが品川ナンバーが欲しくて
車庫飛ばしやって問題になったことがあったよな >>127
凄いタイミングの放送だな。外野芝生席のライオンズ球場。隣の今は亡き狭山人工スキー場も映るのかな。 根本監督時代から西武黄金時代は
高校野球の埼玉県大会の開会式、準決勝、
決勝が開催されていた。
あの西武球場の大きさならば50000人の観衆は
不思議ではなかった。 >>130
81年から西武球場を借用。
当初は開会式と直後の試合のみだったのが、翌年からは準決勝、決勝も開催されるようになった。 1988年の西武黄金時代の埼玉県高校野球決勝で浦和市立が優勝して甲子園行きの切符を手にした試合は外野席の芝生まで開放して満員だった。 球団における基盤強化を造ることが上手であった根本監督は、西武以外でも結果と功績を遺している。
サッカーJリーグが出来てから30年以上も経過するが、
西武の根本監督のように基盤強化を造ることが上手な監督や人物は現れていない。
他のプロスポーツからも根本監督から多くのことを学ぶ点は非常に多かった。 サッカーのことはよく知らんが
根本がよくやってたようなズルには厳しそうなので
あんなことはできないんじゃないか Jリーグから見れば根本監督のやり方は
ブラックではないが、グレーなやり方は事実である。
決して褒められたものではない。 西武、ダイエーで監督を勤めた根本氏は
日本プロ野球で功績、実績を残した人であることは確かだが
だからといって、他のスポーツ界から見れば
褒められたものではない点は少なくない。
日本のプロ野球の世界では、根本氏の方針、方法は通じるところはあっただろうが
未だに制度が未熟なJリーグ、プロスポーツとして始まった他のプロスポーツリーグから視点を変えて見てみると
決してクリーンな方法論ではないことは事実である。
日本のプロ野球は歴史が長いから制度が充実している点から、根本氏の方針、方法論は通じただろうが、
どうしても他のプロスポーツリーグから見る限りはブラックな部分、グレーな部分、アウトな部分が多過ぎて、
根本氏の方針、方法論は正面から学ぶことは不可能である。 西武の黎明期の内野守備だが、石毛が入る前の79・80年の二遊間は
結構ひどかったと聞いた >>137
山崎が欠場していた79年序盤はすごかった
二遊間に加え三塁の山村も 基と真弓が抜けたので、二遊間が急激に二線級になったのを覚えている
「西武はなぜこんなトレードをしたのか」当時は疑問に感じた
ロッテから来た山崎が二塁に入るようになって、「やっと見られるようになった」と安心した ていうか、ロッテもよく山崎を出したな
金銭なんだろ
ロッテのフロントと対立でもしたのか? 古賀倉持との1対2だよ
78年は二人合わせて9勝
倉持はその後2年ほどロッテのリリーフエースとして活躍
古賀もめぐりめぐって巨人庄司との交換の駒と成りこれもロッテの一番打者に化けた
だからまあこっちもそれなりの出血はしてる
有藤との仲が良くなくて放出されたらしい
この人は落合ともリーとも仲が良くなくて、まあなんなんだろね >139
79年の途中に吉岡と交換で行沢を取った。
これは西武に大きくメリットがあった。
人望もあったし。どこでも守れるし。
球団内にも残れたし本人にも良かったのでは。
福岡時代の吉岡がまたハムに。。。と思ったがそれも一瞬くらい
山崎との二遊間がそれ以後まともに機能し吹っ飛んだ。
大原とかいう遊撃手は酷かった。 山崎は金田監督と仲が良かったので、金田監督を解任したことも放出の要因になったと思う。
だが、山崎は守備・打撃ともに優れてチームプレーもできる名手であり、どうしても出さなければ
ならない選手ではない。それなのに西武に二束三文で出した印象があった。
いったんヤクルトの安田とのトレードが決まり、放出することが決まってしまっていたので、
ロッテ球団との信頼関係が壊れてしまったのかも知れない。 まあ、石下入団まではライオンズにはショートはいなかったようなもの。 >>141
倉持の娘はakb
親の七光りだろうが。 >>141
>>147
当時の倉持はアデランスのコマーシャルに
出ていて人気は全国区だった。
倉持は当時、歌番組やテレビドラマにまで
出演していた人気者であった。
そう言えば、日本テレビの倉持隆夫アナウンサーが懐かしい。
そうだ全日本プロレス中継の実況である。
西武ライオンズが1979年にパ・リーグのペナントレースに登場した当時は
日本テレビの全日本プロレス中継が
ゴールデンタイムの土曜日午後8時の放送時間帯から引き摺り下ろされた時期だった。 >>148
倉持明氏はアートネイチャーだね、おそらく今もそうだろうけど(苦笑) 倉持と一緒に出された古賀も、
巨人の後さらに大洋にトレードされ史上二番目の全球団勝利を通算わずか38勝で達成した
記録マニアおなじみの投手 >>148
全日本プロレス中継はナイターシーズン中は巨人戦で深夜送りにされることも多く、
反って夕方に移動してくれて、プロレスファンには好都合だったはず。
だが、その後土曜7時に再移動するも雨天Bプロにされる(深夜送りすらなし)など不遇な扱いを受けた。 この時代の西武をリアルタイムで見てみたかった
あまりにも強くなりすぎて「勝利を義務付けられている」という
扱いをされるチーム(実際に90年代前半の西武はそうだった)よりも
今はBクラスでも将来は強くなりそう、と思わせるチームの方が見ていてワクワクする 全日本プロレス中継もゴールデンタイム復活でも
プロ野球中継の時期は放送が少なくて
結局、日曜日の22時30分・午後10時30分に
移動させられたな。
さらに1990年10月改変では深夜のNNNドキュメントの放送時間帯よりも遅い時間帯に移動させられた。
1994年4月からは30分番組になり、2000年には全日本プロレス中継は放送打ち切りになった。 話は変わるが
西武、ダイエーで監督や選手管理の仕事をしていた根本さんは
生涯、野球の仕事では苦労が絶えなかっただろう。
この点では、戦前の阪神監督で戦後は広島の監督を勤めた石本秀一さんの人生に近いものがあるだろう。 >>152
強くなりそうな雰囲気はなかったぞ
勝ち試合を見たければ南海戦に行くのが吉。 >>152
弱いけど楽しいチームという感じだった。
西武グループが動員をかけていたんだろうけど、観客はそこそこ入っていて、弱いのに
盛り上がっていた。弱いのに球場は新しくてきれいで、ユニフォームも格好よかった。
勝つことを期待してピリピリしながら見るんじゃなくて、こういうチームを応援するのも
悪くないかなと思ってファンになった。
そうすると、昭和57年から急に強くなって驚いた。 黄金時代の西武も楽しかった
阪急、南海の2球団は西武というライバルとの戦いに躍動していた
暗転したのは阪急、南海の身売り、そして西武嫌いの仰木近鉄の出現・・・ 阪急はともかく末期の南海は躍動どころか死に体だった
優勝という目標に向かって団結できないチームは強くなれないことが、西武の黄金時代突入で如実になった 南海がライバルとかどこのパラレルワールドだよ
貯金製造マシーンだろ 穴吹南海は西武戦にローテーションを合わせていて、よく苦しめられた 興味深い記事を見つけたからリンク貼っとくよ
根本陸夫が作った恐るべき情報網。西武の元マネージャー「これが人脈か」|プロ野球|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2020/07/31/___split_137/ http://2689web.com/1983/LH/1983LH.html
83年に西武が大独走優勝したときに序盤だけ南海が6勝1敗1分けと
苦しめていただけの話
当然この年もキッチリ西武が勝ち越し
西武が82年からダイエーになってもホークスには02年までずっと勝ち越し
03年にようやくホークスがカード勝ち越しを決める ちなみに広岡森時代に西武に勝ち越したシーズン回数は
B 4
F 2
Bu 1
O 1
H 0 90年以降の森監督時代と伊原監督は比較的オリックスに強いのに
東尾監督時代の西武はオリックスを最後まで圧倒できなかったよな
しかもオリックスのV2の後は徐々に弱くなっていて
西武はある程度強い時期だったのに >>159
近鉄が西武を叩きのめしてくれて嬉しかったよ 仰木さんは、最初三原監督と一緒に近鉄を辞めようとしてたんですがね 三原さんからの忠告を受けて、近鉄に残って正解でしたね 仰木はもちろん名将だけど強運でもあるよね
近鉄では阿波野、野茂を獲得できて格安でブライアントをトレードできて
檻では目をつけて売り出したイチローが大ブレイク
一流になるのは見抜いていたかもだが日本史上で五指に入る選手になるとまでは
想像していなかったんじゃないか 西武ファンとして嬉しかったことは西宮を満員にしたこと
あと大阪球場の三塁側を満員にしたことも思い出深い この時代の西武は弱かったかもしれないが今みたいにFAで出て他の
パリーグ球団に行こうなんて考えはないだろうな。
セリーグならあるかもしれないが。 外国人の事前調査は80年代は西武が卓越していたという評価だったな
技術面だけで無く、生活歴も含めて >>171
既にヘッドコーチでチームの主導権は岡本監督から仰木ヘッドコーチ-中西打撃コーチに移行していたとも。
阿波野・オグリビーが入団しながら最下位転落したのも、ガチガチの南海閥で仰木・中西にとっては目の上のたんこぶみたくなった岡本監督に
引導を渡すべく、石本と心中する格好となっていた岡本監督を「敢て」放置したふいんきも。 この頃の西武球場の客の入りってどうだったんだ?
がんばれタブチくんではまばらにしか入ってない客を解説者のヒロオカが指さして数えるなんてネタもあったが >>177
当時のベーマガ辺りで書かれた憶測記事ですわ(w
>>178
西武グループの動員力が良かったからなのか、100万人突破の球団記録を達成した筈。 TBS、フジテレビ、テレビ埼玉、毎日新聞と上手いことタイアップしたおかげ 土井正博が「くれない族の反乱」に出演して演技を披露したのもこの頃 田淵も本人役でケンちゃんに出演したっけな
この時期のTBSとフジのドラマはストーリーとは関係なく、
劇中に「ライオンズ」「所沢」「西武園」といった台詞が散りばめられていたほか、
「衣裳協力 パルコ」というクレジットさえあった >>181
由紀さおりの元亭主役だったと記憶しているが、
はっきり言って土井の演技はドラマにかなりマイナスだったな。 西武沿線は他の首都圏の私鉄と比べると、駅前が殺風景なきらいがあるけど
そのへんがドラマとかでも使い勝手よかったのかもしれんな 西武のコーチを務めていた土井正博さんは、意外にもTBS金曜ドラマに出演していた。 土井さんは現役時代は試合中にうどんの出前を取ってベンチで食べるようなマイペースな
一匹狼だったのに、ここまで優秀な指導者になるとは思わなかった。
メロドラマに出演しているほうが当時の土井さんのキャラクターに合っていた。 山崎裕之、広瀬が復帰、行沢が移籍してくるまでフライもゴロも捕れなかった内野陣
山村兄、大原、金城、益川…… 基、真弓を放出したのが痛かった
三塁の山村もエラーが多かったので、内野がどうしようもなかった
山崎が二塁に入るようになって、ようやく安心できるようになった 西武球場のこけら落としとなった日ハム戦で1試合7失策
それまでの5試合で計6失策
がんばれタブチくんでネタにされていた たとえ弱くてもこの時代なら西武で野球したいと思う。 2年連続優勝しても近鉄なんて
行きたくないと思うわ。
待遇差が大きすぎる 弱いチームなのに待遇はずば抜けてよかった。
球場や練習施設は整備されているし、新人の契約金も破格に高かった。
長者番付に司馬遼太郎のような人気作家、巨人の王に並んで、松沼兄弟が入っていた。
従来のプロ野球の常識に挑戦するような大胆さ、新鮮さがあった。
エラーばかりでずっこけていても、「すごいチームになるかも」という予感があった。 数年後お金はあるが肉を食わせてくれない玄米食え白米だめ
になることは想像できなかった 松沼兄弟に巨人は1億2000万提示したと聞いたら、1億5000万用意した
開幕一軍を巨人は確約できなかったが、西武は約束した
これで勝負あった >>192
西武グループの社力を誇示するため、とにかく「ウチはヨソと違う」アピールが凄かった
福岡時代があまりにも酷かったせいもあるが、旧態依然として古臭いパ・リーグに新しい風を吹き込んだ
1年目だけビジターユニが藍色に近い青色なんだよね 西武の画期的なイメチェンは
後に亜細亜大の小池ら目玉選手の
意中球団までなった
若田部も西武意中球団のひとつだったしな
パリーグでは異質な球団 バブル時前後は 巨人 ヤクルト 西武が定番
南海 ロッテは蚊帳の外 >>197
2位でも3位でもいいから西武にドラ1候補が希望してたな
鈴木哲とか普通なら他球団の1位クラス
そんだけ西武は別格だった
初代ファミスタでパリーグ唯一単独で収録されるわけだよな >>197
大洋は指名されたら在京セリーグだし行きますだったね。 木田勇・原・
阿波野・小池・噂で江川。 横浜移転以降だけど
>>196
岡田も阪神希望だけど西武なら指名されたら行くコメント
愛甲・原も西武なら行くが原は日ハムなら拒否。
高野・広沢は西武が第一希望。 広沢はハムが引くなと思ってたヤクルトなら
在京セリーグで神宮だから許容範囲
前田幸長は西武希望 石毛は西武ドラ1限定で逆指名、トンネル会社だから当然だけど 中には例外
岡田 関西出身で阪急なら行きたいと思ってた
金村 芦屋に住みたいから阪急希望 近鉄ってなんやと思った
津田 山口出身で広島希望
槙原 中日なら地元だからOK しかしパリーグは嫌
清原 阪神と中日なら行きたい パリーグは嫌
西武の好待遇にひかれて入団に至る
近藤 名古屋出身で中日希望
立浪 母子家庭で関西に残りたくて南海OKだった
今中 中日希望
野茂 西武と巨人ロッテ中日は嫌だ 監督がフォームを変えそうだから
近鉄はOK
長谷川田口 阪神嫌だオリ希望
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