集合論は人間の外界認識方法に基づいているため、より正しく数学を論ずることができない
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>集合論は人間の外界認識方法に基づいている
妄想だろ おれも今日似たようなこと考えてたわ
公理自体を問うことをやっていると
そう思ったりするよね
でも自分ではどうにもできそうもなくてへこたれてる
全部偽の命題と仮定して議論した方がましなような気がしてくる D.G.ノースコット著新妻弘訳『イデアル論』
この本だと準同型写像について全射を仮定すると書いてある
これは偽の命題で同著者のホモロジー代数学だと
ある対象から対象への射を仮定すると書かれている
これも偽の命題であり
このようなことを詳しく論じている数学者は少ない
またイデアル論において新妻弘のマイナス元の注は間違えである
イデアルとはベクトル空間の条件をいくつか外したものであり
マイナス元は独立に記述されなければならない
これは高校物理を学べばわかる
どうも数学ばかりやっているとマイナスがどの方向を言っているのか
わからなくなるようで困る
実際俺も当時はわからなかった
このように数学は外側から認識するものであるので
わかったつもりになりやすいし偽の命題をどう使うのかが難しい
そしてこのような基礎的な事項だけでも習得するのに時間が掛かるため
たとえば最先端の数論幾何学を理解することは難しい
これはどんなに教育改革をしても無理だと思う
時間が足りない >>16
ある対象とある対象にある関係を入れるには
どうしても偽の命題が必要になる
ってことです
このわかりやすい具体例は
1950年代の位相の本にしか書いてありません
つまりそれ以降は偽の命題であることが前提となって
すべてが証明されています
僕が偽の命題を発見したのは
ノースコットのイデアル論において
方程式を立てるときに写像の一意性を
用いるところで偽の命題が必要でした
まあ圏論などの一般論からすれば自明なことですが
そういうことを知らない間には偽の命題が何なのかわからないというのは
僕も同じです
一番わかりやすい偽の命題は位相の空集合が開集合になることの証明ですが
僕もここから真の命題と偽の命題をきちんと分けて考えるようになりました
しかし残念ながら最近出版されている集合や位相そして代数の本には
こういう偽の命題の明示が一切ありません
ですので1950年くらいの本にしかないものなのでノースコットを挙げました
ちなみに新妻弘が出している代数の本は本人もわかっていないそうです
偽の命題を仮定して偽の命題で記述するという証明(全部ゼロ)だからです なんだただのキチガイか
>一番わかりやすい偽の命題は位相の空集合が開集合になることの証明ですが
それは定義であって証明するものではない
証明するならまず「開集合の定義」を述べよ どうやら新妻弘の代数の本は学生だった当時の山田氏によるものだそうです
その時代は標数ゼロの研究が主流だったそうなので
0を文字で表すことを仮定し以後証明に用いるすべての元の実質は0である
と考えられたみたいです
これを汚い意味のないものと考えるか美しいと考えるのかは
さすが東京理科大学だと思いました
主流とは外れた考えですけど
傍流にしかなれない私立大学ならではの発想で生きてきたのだと思います
ですから新妻弘もそのことをわかっており
翻訳本ばかりを出版していました
僕は英語が読めないので大変ありがたかったです >>18
定義は自らするものですけどね
もちろん現在の主流とは外れていますが
なんでも定義だという公理主義は何れ破綻するし
数学としても汚いです 定義というのは定理があってのものです
定理が変われば定義も変わる(定義は定理に依存する)
そうすると公理が先にあるというのは難しい
きちんと証明できるものしか定義できないという立場を採ることを
既知外というのならそれは視野狭窄ですよ たとえば代数学だと剰余類群において
ウェルディファインドであるかどうかは
よく書かれていることが多い
つまり証明できるものしか定義しないということだ もっというとすべての写像(関数)はウェルディファインドであるか
全部確かめる必要があるともいえる
しかしそういう考え方はあまり受け入れられないようだ
公理主義が通用しないことは
ブルバキが数学を完結できなかったことと
無関係ではないと思うし
あるいは田島一郎の間違ったエプシロンデルタが放置されているのも
無関係ではないように思う
新妻先生はそういう難しいことを数学の流儀だとおっしゃっていた
難しい世界だ なぜか集合論において内田伏一が挙げられることが多いが
この人の位相は僕からすればとんでも本でした
やはりこれもイプシロンデルタの問題です
というよりも任意の元の扱い方に問題があります
もちろん理科大でも任意性について独特な使い方がありましたが
これらすべて流儀の問題として処理している以上
学生や学習者は混乱極まります
それなので僕もこういう問題は記号論理学をきちんと学んでから
もう一度考えようと思っています 何を公理とし
どの公理が真で偽なのかが確定できない以上
それ以下の命題の真偽判定もできません
ですからすべて仮定するものは偽とする
という証明の方針は正しいと言えます
しかしなんでもかんでも偽であるというのもいただけませんので
そこがセンスなのだと思います
未知数の問題にぶちあたっても
まだ公理を先にもってくるという考え方は
僕には理解できかねます
そういう人は関数だけを扱い
すべて既知の問題として偽の命題を立てる空間で
議論すればよいでしょう
おそらく位相空間や完備距離空間などは
すべて関数を既知としてとり扱っていると思います
ですから定義域が先にあり定義は定理に
優先するという考え方も生まれたのかも知れません
しかし関数と方程式はどちらが先に生ずるのかというと
ノースコットによれば方程式です
それは既知のものは値域であるという考えからくるものだと思われます
僕もそう思うので既知のものから逆像で写像を定義するという立場を採りました >>25
ああでも昼間部の講義も受けられるから
横田先生とか功刀先生とかの講義は受けたことがあった
当時はルベーグ積分も丸写しだったし
有限群の表現もさっぱりわからなかったのがよい思い出 >>28
有限群の表現といいつつ代数群的な視点だった記憶、まあ有限群は代数群になるけど
とりあえずトンデモ発言はチラシの裏にでも書いとけよ >>29
まあなw
ここはとんでもスレかと思ってさ
最近思ったことを書いてみた
数学というかトンデモの話し相手もいないしね >集合論は人間の外界認識方法に基づいている
公理的集合論の対の公理は{x 、 x}={x} だけど
電子の場合は「同一な電子が2個存在する」ということになるので
{x 、 x}≠{x}となる
リンゴの場合は{りんご 、 りんご}={りんご}で
リンゴをコップになえても{コップ 、 コップ}={コップ}で
{x 、 x}={x} は変わらない
だけどリンゴを電子にかえると{電子 、 電子}={電子}となり
{x 、 x}≠{x} となってしまう
{x 、 x}={x} や{x 、 x}≠{x} は物の性質に依存してるので
物理的な法則ということになる >>31>集合論は人間の外界認識方法に基づいている
リンゴの確率
ケース1 「 リンゴ リンゴ」 確率4分の1
ケース2 「リンゴ リンゴ 」 確率4分の1
ケース4 「リンゴ リンゴ」 確率4分の1
ケース5 「リンゴ リンゴ」 確率4分の1
電子の確率
ケース1 「 電子 電子」 確率3分の1
ケース2 「電子 電子 」 確率3分の1
ケース3 「電子 電子」 確率3分の1
リンゴの場合は{x 、x}={x}という物理法則に従い
電子の場合は{x 、x}={x}という物理法則にしたがったので
それぞれの確率がことなる
{x 、x}={x}は
同一なら1個ってことでリンゴとかコップはこの物理法則に従ってる
電子の場合は同一な電子が複数あるんで
{x 、x}≠{x}となる
集合は人間の外的認識ってことだけど
人間が目にするリンゴとかコップの認識から{x 、x}={x}となった
リンゴをコップにかえても{x 、x}={x}は普遍ってことで抽象的な概念とてしたけど
リンゴを電子にかえれば{x 、x}≠{x}ってことになり普遍性はない
{x 、x}={x}っていうのは人間が日常的に目にしてるリンゴとかコップが従っている物理法則で
人間の外界認識ってことになる 同種粒子の判別不可能性知らないんですか?
量子レベルでは電子同士は区別をつけることができませんよ
{x,x}={x}ですね 同一な人物が2人いるということは{x 、 x}={x}に反してるから
人間の場合は同一なら1人
電子の場合は同一な電子が2個あるという状態なので{x 、 x}≠{x}となる
人間の場合は{x 、 x}={x}で
電子の場合は{x 、 x}≠{x}となり
{x 、 x}={x} や {x 、 x}≠{x} は物の性質に依存してるということで
物理法則ということになる
物理法則というのは人間の外界認識の対象だ >>35
この文章内で
法
則
物
理
を書け
これができない場合科学犯である
記録係は定義を示せ なあ科挙で思い知ってるよなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
なにしてんだよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
中国に銀行賞やれよwwwwwwwwwwwwwwwww
もうやってるかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
なにしてんだよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ぼくのせんぱいにこういうひとたちがいたとおもう
そのじだいもたのしかったけどもういいや おれは殿上人になりたくてずっと勉強しているけどなかなかなれない
貧乏だけどいいんだずっと勉強してるんだ
もしかしたら受かるかもしれないし
なあ?
古典とかなにやってんだよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
思い知ってるよなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
さっさと記録係は書け 箱の中に「同一の電子が2個」ある場合の量子統計
・ケース1 「 電子 電子」 確率3分の1
・ケース2 「電子 電子 」 確率3分の1
・ケース3 「電子 電子」 確率3分の1
ここでのポイントは
同一の2個の電子はペアで物理的性質や物理量を持ているということで
電子1や電子2が独立して物理量や物理的性質を持っているわけでなない
(電子は同一なので電子1とか電子2とかで区別ができない為)
「同一の2個の電子」はペアで箱の右で観測される確率は3分の1という物理的性質を持つ
(1個1個の電子が独立して観測される確率を持っているわけではない)
「同一の2個の電子」はペアで「観測される確率」を持つことで量子もつれという奇妙な現象が発生する
最初の電子が箱の右側の観測装置で観測されると箱の中には残された電子は1個になる
最初の電子が箱の右の観測装置で観測される確率は2分の1(左右で観測される確率は同じ)
・最初の電子が箱の右の観測装置で観測された場合
・残された電子が箱の右の観測装置で観測される確率は3分の2
・残された電子が箱の左の観測装置で観測される確率は3分の1
・最初の電子が箱の左の観測装置で観測された場合
・残された電子が箱の右の観測装置で観測される確率は3分の1
・残された電子が箱の左の観測装置で観測される確率は3分の2
最初の電子が箱の右で観測されるか左で観測されるかで
残された電子の観測確率が変わってくることが量子もつれとよばれる奇妙な現象
量子もつれの原因は
電子1とか電子2とかの個々の電子が観測確率をいう性質を持って言うのではなく
2個の電子がペアで1つの観測確率を持っている為だ
2個の電子はペアで右で観測される確率は3分の1という確率を持つので
最初に電子が右で観測される確率は2分の1で残された電子が右で観測される確率は3分の2で
2分の1 × ・?=3分の1 で?は3分の2となる)
(3分の1が最初に決まっていて残された電子の観測確率3分の2は後から決まる) >>1集合論は人間の外界認識方法に基づいているため、より正しく数学を論ずることができない
2個のリンゴは位置が異なるので位置で区別がつき
同一なら1個ということになる
公理的集合論の対の公理で{x、x}={x}となり
{リンゴ 、リンゴ}={リンゴ}で同一なら1個となる
リンゴをコップに置き換えても{x、x}={x}は普遍だ
電子は位置も含めてあらゆる物理量が区別できなくなり
同一の2個の電子が存在という状態になる
{電子 、電子}≠{電子}で{x 、x}≠{x}となる
公理的集合論の対の公理の{x 、x}={x}は
普遍性がないことになり
物の性質に依存するということで{x 、x}={x}は物理法則となる
リンゴは同一なら1個なので{x 、x}={x}という物理法則にしたがい
電子は同一な電子が2個あるなので{x 、x}≠{x}という物理法則に従う
{x、x}={x}は人間の外界認識ということで
人間が自然法則を観測した結果だ >>42集合論は人間の外界認識方法に基づいているため、より正しく数学を論ずることができない
人間が自然を観測した結果が外界認識だ
人間が自然を観測した場合に
リンゴをコップなどにかえても普遍な自然の規則が論理とうことになり
数学論理のもとになる
リンゴをコップや電子やそのた全ての存在する物にかえても
普遍的な自然の法則が論理ということになるが
これだと論理と物理の一部が同じものになる >>43
数学の確率は測度論で表現される
リンゴをコップにかえても測度論は不変だけど
リンゴを電子にかえると測度論は成立しない
測度論は物の性質に依存してるということで
物理法則となる >集合論は人間の外界認識方法に基づいているため、より正しく数学を論ずることができない
集合の元は点で表現されるので点集合
物理空間(場)は波の重ね合わせによる波の干渉で擬似的に点集合空間となる
素粒子は波で表現されるが
素粒子が沢山集まって構成されるリンゴは擬似的に点集合とし手表現できる
点集合というのは人間が自然を観測した結果の概念ということ
ということで「集合論は人間の外界認識方法に基づいている」ということになる >集合論は人間の外界認識方法に基づいているため、より正しく数学を論ずることができない
場を構成する波が沢山重なり合って波の干渉が起こった結果が擬似手な点集合空間だ
点集合空空間は擬似的なものなので
点集合に厳密性はない
点は大きさがゼロだが線は点が集まって大きさを持っているけど
これは点集合に厳密性がないから起こる事だ
とゆうことから点集合をベースにした数学で
厳密な正しさを求めてみても仕方のないことだ 集合論って、物理学や物理化学みたいな一番数学に近い自然科学分野ですら十分に表せない欠陥学問だよ。
「集合論で生物学の種の分類について記述する」とか絶対に無理だから。 >>47
それは「集合論をそのままの形で素朴に使っても素直には記述できない」
というレベルの低い話にすぎない。記述しようとする対象に応じて、
集合論から上手い記述の仕方をプログラミングのように実装すれば、
集合論で普通に記述できる。実装の仕方の一例としては、
・ 計算可能な関数はチューリングマシンで記述可能
・ チューリングマシンは集合論で記述可能
・ ゆえに、計算可能な関数は集合論で記述可能
であるから、計算可能な事象を扱う限りは、その事象は集合論で
実際に記述可能ということになる。この実装の仕方では、
・ 記述したい事象をまずチューリングマシンで表現する
・ そのチューリングマシンを集合論で表現する
という二段階の翻訳過程を経るので、最終的に得られる集合論での記述は
非常にテクニカルな記述になっており、読者は「機械語」を
そのまま提示されているかのような感覚を覚えることになるだろう。
バカが考えるところの「集合論で記述する」とは
「集合論をそのままの形で素朴に使って記述する」でしかないので、
このような高度な変形は最初から無いものとして扱っており、
あるいはそもそもそんな記述の仕方が存在することさえも
理解していないということであり、要するにバカなだけ。 いやそれはプログラミングを使っているだけでしょ。
配列とかを使えば、いくつかのデータを入れ込むことはできるのは知っているが。
未発見の素粒子とか物質とか生物はどうするのかとか、
分類はどうするのか(集合論で分類はできない)とか、
全ての例を挙げることができずに「など」といった表現を使わざるをえないときとか
はどうすれば良いわけ? >>47はそもそも「分類」と現実の整合性の問題であって
集合論とは関係ないな 例えば元素を集合論で表しても、加速器で新元素が作られたりすれば即うまくいかなくなるでしょ。 現実世界に存在する集合っていうのは、
{x|xの条件}や{x|A,B,C,D,E}みたいにきれいに書けるものは少なくて、
{x|A,B,C,…}(…は「など」でもいい)みたいなものばっかりだ。
条件を指定しようとしても厳密には定義できなかったり、定義が複数あったりする。 現実の物事から考えると、
A,B,Cってあった場合に、
A,B,Cに共通する性質を抜き出す。
{x|A,B,C,…}という集合を考える。
新しく発見された元が集合に共通する性質を持つ場合、集合に加える
というプロセスを踏むように思うんだよな。
要素だけを列挙するというのも、性質だけ列挙するというのも不完全で両方記述する必要があるんじゃないだろうか? 分類については、集合のなかに部分集合を作ればいいんじゃないかな。
元素={{金属元素},{非金属元素}}みたいに。 1960年代ごろ、初等中等教育の段階で集合論を教える「新しい数学運動」があって失敗した。小平邦彦先生はこれを厳しく批判していたけど。
現代数学の到達点をいきなり教えても理解できるわけはなく、数学が発展してきた道筋を追体験しないと理解できない、ということでよろしいでしょうか?
集合論・論理から入るのは大学数学になってから、ということでよろしいでしょうか? 何がどうdoubtなのかな?
「元素は金属元素と非金属元素にきれいに分けられるわけではない」ってことを言いたいのかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています