Michael F. Atiyahがリーマン予想を証明しました。
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>>196 連続体仮説とかと一緒なんじゃね? ZFCにおいては証明も反証も出来ない 微細構造定数の論文?(17ページの方)を見てさっぱり分からなかったのだけど QED(証明終わりでなく量子電磁気学)がどこにも出てきてないのだが どうやって出してるのん? 何かしら新たな仮定なり何なりが必要なはずだが さいころ転がす博徒から進んでいくんだろうな。数女は。 >>201 >証明が正しいかどうかはわからないが、 >アティヤ先生の主張では、リーマン予想は、 >>202 いやいや だから アティヤはそう書いてるのか?ってことだけど Atiyahの奥さんがこの3月に亡くなったのが大きかったな Lilyが生きていたらこんなことにならなかったよ いやいや だから (ここで全く別のことを言う) ってことだけど これを続けていればいつまでも負けない >>194 > アティヤ先生の主張では、リーマン予想は、 > ZFC公理系に対して独立なformulaということだろう。 > このこと自体は、いかにもありそうなことに思える。 いや、それは殆ど有り得ないね。 そういう主張をAtiyah自身がしていること自体、RHに関するAtiyahの感覚は何か間違っていると思える。 リーマン予想は素数の分布という極めて具体的な問題と直結している。 素数という再帰的(recursive)=決定可能(decidable)な定義を持つ自然数の分布が ZFCという選択公理も含む公理的集合論という極めて強力な公理系から独立というのは 絶対に有り得ないとまでは言えないが、ほとんど有り得ないと言える類の話。 選択公理(AC)はZFに対して独立だし、連続体仮説はZFC (ZF+AC)に対して独立だが、 これら独立になるものを良く観察すると極めて超越的というか人間が有する素朴な感覚とは かけ離れたものがあることが判る。 (例えば実数の集合=連続体Rに選択公理が使えるとすれば、数直線上の全ての点を バラバラにして一列に並べられることになり、実数集合Rのイニシャルセグメントは 常に可算集合という不思議な事態が成り立っていることになる等) だが個々の自然数は誰でも(もちろん算数ができるのは前提だが)素数であるか否かを 正しく判定できる(もちろん判定計算を完了する前に寿命が尽きるケースは現実には幾らでも起こり得るが)わけで そういう決定可能な数の離散的な集合が普通の数学の全てをその上に構築できると看做されている 極めて強力かつ汎用的な公理系ZFCに対して独立というのは考え難いんだよ。 公理系からの独立性の類の問題は数理論理学者(数学基礎論屋)の専門だが、恐らく彼らの中で 「RHはZFCから独立だと思うか?」という質問にYESと答える研究者はほとんどいない。 リーマン予想、あるいは素数の分布に関するかなり強い仮説が自然数の公理系であるペアノ算術に対して 独立というのは別に不思議でも考え難い事態でもないが、ZFCに対して独立というのは考え難い。 数学は自然科学の解明というよりは、科学全般の形式論だろうな だが、自律性があるから直接対応があるとは限らない。ルーツは科学 スタックはミラーやTQFTと一応繋がってるw あーでも形式論といっても真理に近づけるダイナミクスを持っているとは思っている >>194 あのな証明がダメなら意味無いだろが。 あてずっぽなら正しいか間違いか決定不能かただの三択だろが。 >>207 そんな曖昧な予想じゃ研究の足枷にしかならんと思う。 例えば選択公理を仮定するとパナッハ・タルスキーのパラドクスが起こる。 素数分布に決定不能性が出たって別段不思議じゃ無いw バナッハ・タルスキーの逆理って、一つの球を有限個に分割して分割したものをただ組み替えるだけで元の球と同体積の球が二つ出来るわけだぜ? 選択公理を仮定するとこんな凄まじい、まるで数学を否定したかのような結論がでる。 素数分布の決定不能性ぐらいがなんだよw >>203 いやいやだからと言われても>>194 は明らかにそう言ってるし・・・ それをわざわざ>>194 に訊く必要があるのか理解できないね 別に>>194 が正しいとかではなくて信じられないならば自分で確かめればいいのではないかな? ZFCだか選択公理だかしらんが、公理系をいじって与えられた正則函数の零点が あったりなかったりするような公理系なら公理の方がダメだな ZFCとの独立性云々ははっきりいって二の次の話だろうな 少なくとも方針を立てられる程度には色々な構造が関係しているわけだから、自然な証明があると思って間違いないだろう コンヌやデニンガーは証明こそしていないものの、RHに対応するデータ・表現法がちゃんと数学にあると示唆している 何気に難易度で言ったらRHよりコラッツ予想のほうが難しいと思ってる 全く直観が働かないし >>218 BとP間違える猿未満のなにかwwwwwww >>211 > そんな曖昧な予想じゃ研究の足枷にしかならんと思う。 「独立かも」なんて予想こそが曖昧で研究に足枷になるネガティブな思考の最たるもの これは数学基礎論の世界的権威であった竹内外史も「ある重要な数学の問題が集合論の公理系と独立だ、と考えるのは敗北主義だ」という趣旨のことをかつて述べている。 > 例えば選択公理を仮定するとパナッハ・タルスキーのパラドクスが起こる。 > 素数分布に決定不能性が出たって別段不思議じゃ無いw 選択公理から導かれるバナッハ・タルスキーの逆理は連続体なればこその奇妙な性質。 だから連続体濃度やそれ以上の濃度の集合の世界では人間の感覚を超える奇妙な性質が生じたり 集合論の特定の公理(例えば選択公理とか連続体仮説を公理として認めた場合とか)から奇妙な結論が導かれるのは不思議でも何でもない。 だが自然数という可算集合の部分集合で、しかもそれ自体が決定可能つまり再帰的な部分集合である素数の集合が 集合論の公理系からは導けないというのは実際問題としてほぼ有り得ない。 何故ならば、2階の述語論理による自然数の公理系は範疇的、つまりモデルは1つしか存在しないからだ。 もしも素数分布がZFCの公理系に独立であったならば、新しいある公理Xを選ぶと素数分布が成り立つが その公理の否定¬Xを公理として選ぶと、自然数の世界はXを選んだ時と同じ姿に見える(同じモデルを持つ)のに こちらの公理とは素数分布は矛盾するということになる。もちろんZFCと公理Xあるいは公理¬Xのいずれも無矛盾なのにだ。 繰り返すが、全ての素数の集まりは、自然数の集合の部分集合として決定可能なのだ。決定不能な部分集合ではない。 連続体濃度とは全く異なるのだ。 ついでに言っておくと、選択公理は任意の濃度の集合に対して選択関数の存在を主張しており、言い換えれば任意の濃度の集合が整列可能であることを主張している(のと同値だ)が、 選択公理の代わりに選択関数の存在あるいは整列可能性の主張を可算濃度の集合だけに限定した可算選択公理だと、バナッハ・タルスキーの逆理などの奇妙な帰結は起こらない つまり可算濃度とそれよりも大きな濃度、例えば連続体濃度やそれ以上の濃度とでは、全く違った集合の世界になるんだよ。 >>217 > 何気に難易度で言ったらRHよりコラッツ予想のほうが難しいと思ってる > 全く直観が働かないし というか、コラッツ予想は現代数学に組み込まれていないからね 現代数学のどんな道具が使えそうかが全く予測がつかないのがコラッツ予想だ 理論計算機科学での計算の複雑さ理論(計算量理論)の大難問であるP=NP問題にしても同様 現代数学の中に位置づけられていないから、現代数学のどういう道具が使えるかが全く判らない これらの問題の現状は、ちょうどWilesが解決したフェルマーの最終予想がFaltingsによって楕円曲線の志村・谷山予想から導かれるという発見がされる以前の状況だ Wilesは「Faltingsの発見によってフェルマーの問題が現代数学の中にしっかりと位置付けられたと感じた」と解決後に述べていたのがとても印象的だった 「RHはZFCと独立」は流石に草 じゃあRe(1/2)以外に零点どこに取れるんだよと >>224 お前は猿だろだから。 正しくそれが出来るかどうかを証明するにはどうしたらいいかって話しをずーっとしてるんだろが猿w >>222 誰が言ったかなど関係無い。 証明がなされていない以上、勝手に選択肢を「ありそうに無い」などと言う思惑で否定することこそ敗北主義だ。 数学を否定してしまっている。 カントールはデデキントに「自分は証明したはずなのにとても信じられない」と手紙を書き送っている。 これこそが数学の精神。 >>226 ???????? サル未満のなにか(モノ)だぞ? >>222 あとどうもイミフなんだが、ゲーデルが決定不能な命題の存在を証明したのは正しく自然数の体系内でのことだぞ? 大体が、ウソつきのパラドクスや床屋のパラドクスなんかのどこにそんな超越的な要素があるのか? あと可算選択公理だとバナッハ・タルスキーのパラドクスは起こらないってのは証明されたことなのか? >>229 だからそんなところにこだわる猿wwwwwwwww >>232 そんな的外れなことにしつこくこだわってるのはお前だよバカの猿w 「の」と「が」を間違えてる(間違ってない) これを指摘したのはお前 それを的外れだと宣うのなら的外れなのはお前だってアリストテレスも推論するわ いやお前がそれ言っても「パナッハがどうしたって?」としか返されないだろ 高校生数学までしか勉強してないからこの手のはどれを取っても分からないんだけど リーマン予想がライン上に全ての素数があるかどうか確証がなかったってだけなら相対性理論みたいに 「とりあえず今のところ問題ないから今はこのまんま使ってておk」 みたいなことで今までのは使うには使われてたの? それが証明されそうだから今てんやわんやになってる感じ? >>237 ゼータ関数には素数以外の数も使われる ところがゼータ関数には定義領域というものがあって それ以外を別の数式で表現する解析接続なるものを用いてオイラーが素数だけで作った数式に置き換えてしまった これが不幸の始まり ゼータ関数に規則性があるなら素数にも… 数式の零点が何処に存在するかってだから現在使われてる暗号がどうたらってことは無い さすがに 「とりあえず今のところ問題ないから今はこのまんま使ってておk」 はない。 でも 「とりあえず re(z) > A/log(|im z|) (Aは定数) にはない」 のような代用品は見つかってる。 例えば元々はリーマン予想は素数定理の証明のために 「リーマン予想が正しければ素数定理は正しい」 の形でリーマンの論文のなかに表れたんだけど(これがリーマン予想の名前の由来)、先に挙げた形の代替品を用いて素数定理自体は証明された。 その意味では一応当初の目的は達したんだけど、今でもその証明が求められてるのはリーマン予想はそれ以外にも色々応用が効くらしいこともわかった事もあるけど、 何より何億個というオーダーで計算機で計算して反例が見つからない予想をほっとけないという人類の意地でもある。 素数定理自体がなあ 何番目の素数はこれってバッチリ示してくれるのなら有り難いんだけど >>214 アティヤはそんなこと言ってないと思うよ だからどこでそんなこと言ったって思ったかを>>194 に聞いたわけ >>240 あ、re(z)>1-A/log(im(z)) >>236 いやお前が的外れなことにいつまでもこだわる猿なだけw 携帯で「バナ」と打ち込んだら「パナッハ」が候補に出て書き込んでしまっただけだよバカの猿w それがどうかしたかバカの猿www >>236 ↑ こういうバカの猿こそが敗北主義者な。勘違いが甚だしい。 反省の無いバカの猿じゃ結局何も出来んよ。 一時いい感じになることがあっても結局敗北して泣きべそをかくことになる。 いつもいつもそうだろ。今までの猿のお前ら自身の経験から言って。 そんなところは抜け出たところに数学や科学があるのに。 バカかよ。 >>244 予測変換で「パナッハ」が出てくるなんて一度すでに打ち間違えてるのにまた間違える救いようのない馬鹿じゃないか >>240 なるほどなるほど、素人にも分かりやすかった >>239 は流石に(俺が純粋に馬鹿なので)分からなかったけど共にありがとう 名前だけは聞いてたけど中身なんて全く知らなくてただ興味本位で聞いた スレの人たちも普通に頭良さそうだけどそれの更に上のレベルでも分かってなかったことなのね… ゼータ関数に素数以外の数を代入した時ゼロ点に規則性は生まれるのかな >>239 素数だけの式にするのに、解析接続は関係無いだろ >>251 定義領域以外ってことを言いたかっただけ 1+1/x+1/x^2+1/x^3+…=x/(x-1)=1/(1-1/x) が分かっていれば、ゼータ関数の足し算を素数だけの式に変えるのは中学生でも出来る >>253 リーマン予想の証明を知っていれば中学生でも証明できる >>230 > ゲーデルが決定不能な命題の存在を証明したのは正しく自然数の体系内でのことだぞ? ゲーデルの第一不完全性定理は直接的にはペアノの公理系に対するもので、 自然数論で或る命題Gが存在してGもその否定¬Gも、どちれもペアノの公理系からは証明できないというのが第一不完全性定理。 以下、与えられた公理系X(Xは自然数論のペアノの公理系PAを含むもの)に対し上の命題Gに相当する命題(の一つ、Gに相当する命題は無数に存在)を 「公理系Xに対するゲーデル文」と呼びG(X)で表そう。 集合論の公理系ZFCは適切に定数記号や関数記号を定義することで自然数論を展開できるからZFCに対しても不完全性定理は成立するが 公理系ZFCに対するゲーデル文G(ZFC)はペアノの公理系に対するゲーデル文G(PA)とは全く異なる命題だ。 > 大体が、ウソつきのパラドクスや床屋のパラドクスなんかのどこにそんな超越的な要素があるのか? 嘘吐きの逆理に観察される矛盾はタルスキーの定理(真理概念の定義不能性)からの帰結に過ぎず 要するに「この文は偽だ」の類の記述を許す形式的体系は矛盾を含んでいるというだけの話。 床屋の逆理は嘘吐きの逆理の言い替えに過ぎない。「パラドクス(逆理)」という名前に惑わされないように。 > あと可算選択公理だとバナッハ・タルスキーのパラドクスは起こらないってのは証明されたことなのか? もちろん証明されている。バナッハ・タルスキーの逆理に関する以下の専門書に証明がある。 Grzegorz Tomkowicz & Stan Wagon, "The Banach-Tarski Paradox", Cambridge University Press (2016), 特にそのCollorary 15.3 (p. 299) >>228 > 証明がなされていない以上、勝手に選択肢を「ありそうに無い」などと言う思惑で否定することこそ敗北主義だ。 > 数学を否定してしまっている。 普通の数学の基盤である公理系ZFCと独立と考えるということは、普通の数学では不可能だと証明への努力を放棄するに等しい。 つまり今まで幾多の数学者が積み上げてきた従来の数学を否定し放棄するということだ。だから敗北主義と呼ぶ。 公理系との独立性を疑うのは最後の最後の手段。リーマン仮説に対する研究は最後の最後の手段を必要とする段階には全く至っていない。 オイラー定数をγと置く。nの約数の総和をσ(n)と置く。RHは σ(n)<(e^γ)*n*log(log n) (∀n>5040) と同値であることが知られている。こちらの命題をAと置く RHはZFCから独立だと仮定する すなわち、AはZFCから独立だと仮定する このとき、Aはペアノの公理系からも独立である なぜなら、 もしAが真であることがペアノの公理系から証明可能なら、 ZFCの中でペアノシステムを構成して同じ証明を復元すれば、 Aが真であることがZFCからも証明可能になって独立にならない もしAが偽であることがペアノの公理系から証明可能なら、 ZFCの中でペアノシステムを構成して同じ証明を復元すれば、 Aが偽であることがZFCからも証明可能になって独立にならない よって、Aはペアノの公理系から独立である すると、(5040より大きい)どんな「具体的な自然数n」に対しても σ(n)<(e^γ)*n*log(log n)が成り立つ なぜなら、ある「具体的な自然数n」に対して σ(n)≧(e^γ)*n*log(log n)が成り立つなら、 両辺の数値計算を実際に書き下して≧を確かめた時点で、 ペアノの公理系においてAが偽であることが 証明できたことになって矛盾するからだ まとめると、もしRHがZFCから独立ならば、「具体的な自然数」に対しては Aは常に真となることが保証されることになるので、現実世界で 「具体的な自然数」を扱っている場面では、Aは常に真と見なしてよい >>259 RHがZFCから独立かどうかに関して、 どのようにお考えですか。 >>255 コーエンは努力を放棄して(主にカントールの)積み上げてきたものをぶっ壊した敗北主義者だった……? >>261 > コーエンは努力を放棄して(主にカントールの)積み上げてきたものをぶっ壊した敗北主義者だった……? 理解力のない人だね、君って 何か勘違いしているみたいだが、カントール自身の集合論はラッセルの逆理で示されたように最初から矛盾してたので既に終わってたわけだが その矛盾を解消するためにツェルメロが公理的集合論を創始し、 フレンケルが矛盾の発生原因としてツェルメロによって制限を加えられた内包公理をより強力だが安全な置換公理へと改めて公理系ZFCが生みだされ、 (他にもフォン・ノイマンの基底公理も追加) 更に選択公理ACの奇妙さが問題となりZFCからACを除いた公理系ZFを考えたりするようになったわけだ この集合論の場合のように、新しく公理系を作る場合、可能な限り冗長性のない=互いに自分以外の残りの公理群とは独立な公理だけを選ぶのが数学での美的センスというものだよ 言い換えれば公理系を作り上げる時には最初から独立性に対する配慮や深い洞察が不可欠ということだ このACは様々な不思議な(感覚的には納得し難い奇妙な)帰結を与えることが徐々に判明してきた だからACが他のZFの公理と矛盾していないのか(奇妙な現象は矛盾の前触れではないのか)といった心配が起こり、この心配にはゲーデルが問題ないというお墨付きを与えた また公理系のデザインでの独立性の観点からACが残りの公理群つまりZFと独立か?という根本的な興味(ユークリッド幾何での平行線の公準が他から導出できないか?という興味と同じ)に対して 肯定的な答えを与えたのがコーエン そしてコーエンが創造した強制法という手段は実に強力で、選択公理の独立性だけでなく元祖カントール以来ずっと解決できなかった連続体仮説の問題に対しても独立だという証明を与えたわけだ だからコーエンによる選択公理の独立性の証明は、そもそも公理系の各公理の独立性の保証という公理系集合論の開祖ツェルメロからの悲願に応えたものであってぶっ壊したわけでなく建設を完成させたのだ 「敗北主義」と呼んだのは普通の数学の難問に見える類の問題を公理系と独立か、と騒ぎ既存の数学での証明・反証を放棄する態度 公理系の独立性の保証や連続体仮説のように最初から公理として追加する必要あるかも?と考えられた類の命題の独立性を問うこととは全く違う ある高名な数学者が言ってたんだけど、リーマン予想が証明されたら因果律が壊れるんだと >>263 >この心配にはゲーデルが問題ないというお墨付きを与えた これは何の話ですか? 選択公理が認識される前から、数学者は無意識に自明のものとして選択公理を使用していた。 仮にZFCをこえる公理が必要とされるなら、まず数学者は「普通の数学」の展開の中で無意識のうちに「自明なもの」として使い、あとから数学の基礎を固める段階で、 いつの間にか新しい公理を無意識に使っていたと判明するのではないか。 >>263 微妙に違うな 矛盾とはある公理系からφ∧¬φが証明されることであって、カントールの集合論は公理系がないので矛盾の定義に該当しない お前の言う「敗北主義」の定義は公理主義が制定されていることを前提としていて普遍的ではなく、個人攻撃のために定めたもののように見える 仮にそこから公理主義の前提を除くと、カントールが連続体仮説に生涯を費やす所に独立という結論を持ち寄ったコーエンは「敗北主義」となるから、ダブルスタンダードを回避するためなのかもしれないが あらゆる可能性を考えるのが数学本来の姿だ。 この考え方をしてはダメだとかいうのは、賢しらな人間のおごりだ。 個人の価値観から、これまでの経験から、あるいは何らかの合理性から、 検討に優先順位をつけるのはかまわない。 しかし、それを他人に押し付けるべきではない。人それぞれでいい。 人それぞれの優先順位で数学をすべきだ。数学は自由なものだ。 数学の自由さの否定につながる考え方は、個人的敗北主義よりたちが悪い。 数学そのものを埋葬する自傷自殺主義だ。 >>268 > 矛盾とはある公理系からφ∧¬φが証明されることであって、カントールの集合論は公理系がないので矛盾の定義に該当しない ものすごく頭の悪い事を言ってるな >>265 ゲーデルによる選択公理のZF公理系に対する無矛盾性の証明 数学において集合論のような極めて基礎的な理論の公理系を作る場合、重要なのは 1.公理系の無矛盾性 2.公理同士の独立性 の2点だ 公理系ZFCの公理で最も得体の知れない不思議な帰結を生み出す選択公理に関して それと残りの公理群ZFとの無矛盾性はゲーデルによって証明され、 ZFに対する選択公理の独立性はコーエンによって証明された > > お前の言う「敗北主義」の定義は公理主義が制定されていることを前提としていて普遍的ではなく、個人攻撃のために定めたもののように見える > 仮にそこから公理主義の前提を除くと、カントールが連続体仮説に生涯を費やす所に独立という結論を持ち寄ったコーエンは「敗北主義」となるから、ダブルスタンダードを回避するためなのかもしれないが 全く理解力がないね 公理系における公理と目される命題の独立性は無矛盾性と共にメタ理論的な問題だ メタ理論的な問題としての公理の独立性の重要性はメタ理論をやっている以上は避けて通れないし これを証明することはメタ理論の研究における建設的な態度だ だがリーマン仮説は何かの公理系の公理と目されるような種類の命題ではなく 例えばしばらく前に証明された楕円曲線論における谷山予想などと同じく通常の(メタでない)数学として 興味を持たれ価値を有する命題だ だからそういう普通の数学(対象レベルの数学)における価値を有する命題を独立性とか言い出すのは 対象レベルの数学での解決を避けて、メタ理論つまりメタ数学(数学基礎論)に逃避していると言っているのだよ 君がメタ数学と通常の(対象レベルの)数学との違いの存在を理解できないならば、これ以上の議論は無意味だ >>275 なんかで読んだ記憶があるんですが、ある程度以上大きい理論は自身の無矛盾性を証明できないとかいう定理があった記憶があるんですが、それとは矛盾しないんですか? それはZFCより真に大きい立場からの証明という事ですか? 載ってる教科書あったら教えて下さい >>273 数学における矛盾と数理論理学による矛盾の定式化を混同している。 数学の論文の証明が、数理論理学の論文を含めて、数理論理学による「証明」の定義に当てはまらないようなもの。 >>277 > なんかで読んだ記憶があるんですが、ある程度以上大きい理論は自身の無矛盾性を証明できないとかいう定理があった記憶があるんですが、それとは矛盾しないんですか? ゲーデルの第二不完全性定理のことですね。この定理は自然数論(例えばペアノの公理系)やそれを含む理論に対して一般に成り立ちます。 > それはZFCより真に大きい立場からの証明という事ですか? 構文的な証明ではなく、ZFCのモデルを構成して無矛盾性を示すのです。理論が無矛盾であることとその理論がモデルを持つこととは同値ですから。 > 載ってる教科書あったら教えて下さい 田中尚夫さんの『選択公理と数学』という本にゲーデルのZFC公理系の無矛盾性の証明とコーエンの選択公理のZF公理系に対する独立性の証明の解説が載っています。 但し、かなりテクニカルなのは覚悟する必要があります。 >>279 補足 > 田中尚夫さんの『選択公理と数学』という本にゲーデルのZFC公理系の無矛盾性の証明とコーエンの選択公理のZF公理系に対する独立性の証明の解説が載っています。 失礼、上の本の出版社が抜けていましたが 遊星社 です。 >>279 やっぱりそうですか。 つまりZFCのモデルをZFのなかに構成して 「ZFCが矛盾してるならZFがそもそも矛盾してる。」 を示してZFCの危険性がそこまでではない事を示したというあれですね。 それならわかります。 ちょっと「ZFCの無矛盾性を示した。」という文章を見て「えっ?」と思ってしまいました。 >>276 カントールの時代メタ数学の区別はついていなかったわけだが、それ以前の時代は敗北主義は存在しないとでも言うのか なら少々誇大広告が過ぎるな 「対象レベルの数学に独立性を見る主義」とでも変えたほうがいい メタ数学は数学を数学する数学であって、数学ではないのではない 数学の営みの一つだよ >>278 数学者が意図してるしてないに関わらず、数学の証明はメタ的な証明を除いて論理式の有限列ではないのか? というかそもそも、数理論理学の使命の一つが数学の証明といったものを扱うことのはずでは >>282 数学の論文で論理式の有限列であるような証明なんて、コンピューターによる自動証明ぐらいだろう。 >>268 >カントールの集合論は公理系がない というのは言い過ぎ ここにぐだぐだ駄文書いてる暇あったら数学書のひとつも読めよどーせおまえらはライプニッツも知らないんだろ? ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ( ´∀`)< オマエモナー ( ) \_____ | | | (__)_) コーエンの理論は、独立性とか体系の強弱を調べるメタ数学的なシステムだから成功した 独立性の証明自体が自己目的化したらあかんよ >>268 > >矛盾とはある公理系からφ∧¬φが証明されること ではない! (^o^) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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