ところが奇しくも同じ日、

日野富子が将軍後継から外した

清晃のために義尚の住んでいた

小川御所(小川殿)を譲渡すること

を決めた[5]。将軍の象徴である

邸宅を清晃が継ぐことを知った

義視は義材を軽視するものと激怒して、

翌5月には富子に無断で小川御所を破却し、

その所領を差し押さえた[5]。

富子が清晃のために小川御所を

譲渡しようとした背景には、

いきなり権力の座に就いた義材や

義視が暴走しないように牽制する

意図があったとされる[5]。その後、

富子はこれを義視の約束違反と反発して

義材との距離を置くようになり、

義視の病死後も関係は改善されなかった。

7月5日、義材は正式に朝廷から将軍に

任命され[6]、義視も准三宮の地位を与えられ

、しばらくは父子による二頭体制が続くかと思われた。だが、

11月に義視が腫物を患い、

必死の看病も虚しく、延徳3年(1491年

)1月7日に死去した[7]。

将軍就任間もない義材にとって、

大乱中に西軍の盟主として政治的経験を積んできた義視は頼もしき存在で