そもそも小宮先生が主張しているのは、丹治記者の「(唯一説得力があった)性的役割固定論も、昨年の同企画の聞き手が鈴木福くんで、女性の先生がいた事実の前に簡単に破綻した。」に対して、
「去年があるから配慮してる」という理屈はちょっとおかしいんじゃないの」と批判したのがすべて。
論点は性的役割固定論に限定されており、去年と今年の対比での妥当性が議論されている。

小宮丹治論争において、「(NHKが)キズナアイを(使うことを)否定できる根拠(フェミ脳内の思い込みではなく、実証的・客観的根拠)」 を立証する責任は小宮にはないし、それを否定する責任も丹治にはない
(なぜなら小宮はこの論争において「(NHKが)キズナアイを(使うことを)否定できる」と主張しているわけではないのだから)。
そのような大きな漠然とした論点は論争には出てこないし、小宮氏は学者らしく論点を絞って議論するのが得意だから(だから小宮青識論争で青識は自分の得意の論点(今までフェミニストたちがしてきたこと)に小宮を引きずり込むことができなかった)、
今回も丹治氏に対して「論点が飛びすぎ」と苦言を呈している
(そして丹治氏は青識のようになぜか今回の論点と関係がない「1990年代に私にいろいろ教えてくれたフェミニズムの人たちは…と昔話を始めてしまう」)。

丹治氏は一晩明けて冷静さを取り戻し、現在では元の論点に立ち返って議論が行われているわけだが(この辺はnoteに残る形でフェミ昔話を始めた青識とは好対照であるが)、
これは、丹治氏だけの問題ではなく、今回のキズナアイ論争において議論がこじれた(というか議論にならなかった)理由でもあると思う。
つまり漠然と「キズナアイ擁護」と「キズナアイ否定」という派閥がいて、細かい個々の論点は全く気にならない、全体を通してキズナアイを肯定できたり否定できたりすればいい、という反知性的態度が蔓延した。
だから、「キズナアイは性的だからダメ」とかいう最も叩きやすそうで、しかしほとんどのキズナアイ否定派は理由にしてない論点だけ数万リツイートされて”論破”されていた。

「(NHKが)キズナアイを(使うことを)否定できる根拠」も同様で、例えば「NHKはもう二度とキズナアイを使うな」という強い禁止的要請をする人もいれば、
「今度キズナアイを使うときはもうちょっとジェンダーギャップを踏まえた形で使って」と要望の形でいう人もおり、キズナアイ問題における批判派の主張は様々。
そういった差異を理解せず、反対派を一緒くたに扱い、「NHKがキズナアイを(使うことを)否定できる根拠」を出せ、と迫る態度は、まさに「キズナアイは性的だからいけないとでも言うのか」と誤読して過剰反応してた人達となんら変わらないメンタリティだね。