■チームも62年から東京オリオンズに。
だが、映画産業の斜陽に伴い、69年からロッテが経営に協力して、チーム名もロッテとなった。
翌70年にロッテ初優勝、永田オーナーはグラウンドに乱入したファンに胴上げされて涙。
ただ、それは一時代の“終わりの始まり”だった。永田オーナーが大映の再建のために球団を
手放す苦渋の決断をしたのが、その翌71年。球場の赤字も当時の10億円を超える莫大なものだった。
ロッテは東京スタジアムの買い取りを求められたが、あまりの高値に断念。
72年いっぱいで“家を追い出される”形となって、東京スタジアムも閉鎖された。

そして73年。新たに金田正一監督が就任したロッテだったが、県営宮城球場を準フランチャイズ
としながら、川崎、後楽園、神宮と渡り歩くことに。パ・リーグでは前後期制も始まり、なにかと
新たな挑戦が多いシーズンだった。金田監督の連発した「やったるで!」は流行語にもなったが、
移動に次ぐ移動でロッテのナインは疲労困憊。それでも前後期ともに2位、シーズン通算3位と健闘した。

■流浪2年目の頂点

翌74年も本拠地は定まらないまま。だが、前期2位、後期は優勝という快進撃で、プレーオフでも
黄金時代の阪急に3連勝で4年ぶりリーグ優勝。その勢いのまま日本シリーズで中日を破って、
ロッテとしては初めての、球団としては創設1年目の50年に続く24年ぶりの日本一を決めた。
その後は優勝から遠ざかっていくが、なかなか本拠地が決まらない。事態が好転したのが77年だった。

老朽化して解体された横浜公園平和野球場の跡地に完成した横浜スタジアムへ“入居”を試みたが、
もともと横浜市が隣の川崎市にある川崎球場を本拠地としていた大洋を誘致していたこともあり、断念。
川崎市がロッテに有利な条件を提示したこともあり、大洋の移転で“空き家”となった川崎球場への
“入居”が成立した。