マーティンと愉快な仲間たち2 [無断転載禁止]©2ch.net
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平均年齢は2年半、低脳ステマ業者(自称)のホルモン・マーティン君と戯れるスレです ■松山市「50万都市で経営が成り立つのか」
もっとも、中には不安を抱える都市もある。松山市のスポーティングシティ推進課は具体的な悩みを口にする。
「ウチのような人口50万都市で果たしてNPB球団の経営が成り立つのかどうか。新潟市さんや静岡市さんは
地元に大きな企業がありますが、我々にとってはどこまでリアリティーがあるのか……。坊っちゃんスタジアムもそうです。
市民の皆さまも使っている球場ですからね。その意味では仮にNPB球団ができたとして、年間何試合が開催できるのか。
市民の皆さまの利用を制限する必要も出てくるかもしれません。かといって何もしなければ、『なんで松山市は
16球団構想に参加しないんだ』と言われかねませんから……。そうした部分も含めて、勉強中ということです。
もし、我々に声がかかったとき、行政にありがちな『ただいま検討中です』というのも避けたいですからね」
これまでも浮上しては消えてきた、プロ野球の16球団構想。18年7月にZOZOの前澤友作社長(当時)が
大きな願望」として「みんなで作り上げる参加型の野球球団にしたい。シーズンオフ後に球界へ提案するための
プランを作ります」とプロ野球への新規参入をぶち上げたものの、いつの間にか話題にもならなくなった。
バカバカしいが、球団拡張、新規参入には既得権益に固執する既存球団という高い壁があるのも事実。
王会長と古田氏の“OF砲”が岩盤を突き破れば、面白くなりそうだが……。 寝台特急「サンライズエクスプレス」に乗ってみた。1週間前にチケットはほぼ完売?
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200402-01655932-sspa-soci
4/2(木) 8:51配信
1993年以降、夜行列車の廃止が続いた影響で、今や定期夜行列車は東京―高松間の寝台特急〈サンライズ瀬戸〉、
東京―出雲市間の寝台特急〈サンライズ出雲〉のみ。現在も堅調な乗車率を誇っており、当面は安泰と見ていいだろう。
久しぶりに寝台車の旅を味わってみることにしよう。
■23年目を迎えた285系サンライズエクスプレス
寝台特急〈サンライズ瀬戸〉〈サンライズ出雲〉に充当される285系サンライズエクスプレスは、JR西日本と
JR東海が共同開発した寝台電車で、1998年に登場。寝台車はB寝台個室シングルを中心に、ソロ、シングルツイン、
サンライズツイン、A寝台個室シングルDXで構成されている。錠はテンキー方式で、寝台から出る際、4ケタの
暗証番号と#をプッシュすると閉まる。くれぐれも部屋番号と暗証番号忘失に御注意いただきたい。
また、座席車として指定席ノビノビ座席が用意されており、寝台料金不要でヨコになれることから人気が高い。
寝台、ノビノビ座席とも紙コップが用意されているほか、寝台はすべてコンセント、アラーム内蔵のオーディオパネルがつく。
また、シングルDXの乗客に限り、無料でシャワールームを利用できる。車内改札の際、シャワーカードを配布されるほか、
個室内にタオル、歯ブラシなどが入ったアメニティーグッズが用意されている。
それ以外の乗客は3・10号車のシャワーカード券売機でシャワーカード(330円、先着順)を購入すれば利用できる。
ただし、アメニティーグッズは販売されていないので、タオルも事前の用意が必要だ。
■発車約30分前に入線
今回乗車するのは寝台特急〈サンライズ瀬戸〉東京行き。
JR四国予讃線の高松を21時26分に発車し、JR西日本、JR東海、JR東日本を経て、終点東京には翌日7時08分に到着する。
乗車1週間前にみどりの窓口できっぷを申し込むと、空いているのはソロのみ。
それも残りわずか。需要の高さを表している。 21時頃に高松9番のりばへ向かうと、すでに寝台特急〈サンライズ瀬戸〉東京行きが入線していた。
乗車するソロは平屋の車両で、上段個室と下段個室に分かれる。
入ってみると、以前利用したシングルに比べ狭く、テレワークや弁当などの食事もムリだ。加えて、中型のキャリーバッグ
がかろうじて収まるほど。大型の荷物だとベッドに置くしかなさそう。将来、285系サンライズエクスプレスの後継車を
開発するのなら、大型荷物が容易に置けるよう、個室のスペースを広げてほしいところ。これに伴う定員減少はやむを得ない。
しばらくすると、車掌がノックをして車内改札。
寝台はすべて個室ドアが開いた状態にセットされており、閉まっていたら乗客がいることを暗に示す。
■岡山で寝台特急〈サンライズ出雲〉東京行きと併合
寝台特急〈サンライズ瀬戸〉東京行きは、定刻通り21時26分に発車。
鉄道車両なので、音漏れ防止の配慮が必要ながら、個室内はケータイ通話ができるし、イヤホンなしで音楽プレーヤーも聴ける。
オーディオパネルはNHKのFMラジオが聴けるものの、ソロのみイヤホンが必要である。
坂出を発車すると、瀬戸大橋へ。ミニサロンで車窓を眺める。寝台車は片側しか眺められないが、ミニサロンは思う存分楽しめる。
漆黒の空と海、明かりを灯す船が夜行列車としての旅情をかきたてる。
本州へ入り、22時23分、岡山4番のりばに到着。ホームはレールファンが始まり、“儀式”を待つ。しばらくすると、
出雲市からの寝台特急〈サンライズ出雲〉東京行きも姿を現し、寝台特急〈サンライズ瀬戸〉東京行きに併合。
この作業に作業員やレールファンらが固唾をのむ。
ここから1つの列車として、東京へ向かう。
■シャワールーム
22時34分、岡山を発車。私が乗車するソロはまだ空室があり、関西(上り列車は姫路、三ノ宮、大阪に停車)からの
需要が高いことを表している。東京方面の夜行高速バスが出たあとに、寝台特急〈サンライズ瀬戸・サンライズ出雲〉
東京行きが発車するのだろう。 購入したシャワーカードを持って、シャワールームへ。中でシャワーカードを差し込むと、シャワーが使用できる。
お湯が出る時間は6分間で、緑のボタンを押すと制限時間が短くなる仕組みだ(赤のボタンを押すとお湯が出なくなり、
制限時間も止まる)。ちなみに、私が使用したときは約2分余った。
お湯は絶妙な温度に設定されているほか、ボディーソープ、リンスインシャンプー、ドライヤーが備えられており、快適。
使用後はシャワールーム洗浄ボタンを押し、次の人も快適に使えるよう努めておきたい。
■数奇な運命をたどった双方の列車
多くの乗客が就寝したと思われるところで、双方の列車を紐解いてみよう。
鉄道省(のちの国鉄、JRグループ)時代の1947年6月29日(日曜日)、準急〈いずも〉が大阪―大社間の列車としてデビュー。
終点の大社は出雲大社の最寄り駅であった。
3年後、1950年4月1日(土曜日)、今度は急行〈せと〉が東京―宇野間の列車としてデビュー。当時、本州と四国はつながって
おらず、宇高連絡船が“架け橋”を担っていた。奇しくも1956年11月19日(月曜日)より漢字の〈瀬戸〉〈出雲〉として再出発した。
急行となった〈出雲〉は東京―浜田間の運転に変更され、東京と山陰地方を結ぶ役割に変わり、急行〈瀬戸〉は現行通りであった。
また奇しくも1972年3月15日(水曜日)、急行〈瀬戸〉〈出雲〉は寝台特急に格上げ。“「ブルートレイン」という名のナイトスター”
として、九州方面の列車などとともに駆けめぐる。
寝台特急〈出雲〉はのちに東京―浜田間1往復から東京―出雲市・浜田間の2往復体制に変化した。
1987年4月1日(水曜日)の国鉄分割民営化後、寝台特急〈瀬戸〉〈出雲3・2号〉はJR西日本所属の客車で運転されることになった。
1988年4月10日(日曜日)の瀬戸大橋開業により、寝台特急〈瀬戸〉は東京―高松間の運転に変更され、ついに四国直通を果たす。
この頃、ブルートレインは改造による個室車両が相次いで登場していたが、夜行高速バスの台頭、航空機の充実もあり、
乗車率の低下に歯止めがかからない状況に追い込まれた。1993年以降、東北方面の夜行列車を皮切りに廃止されてゆく。 それを危惧したJR西日本とJR東海は、住宅メーカーの協力を得て、新しい寝台特急車両の共同開発に乗り出す。
寝台はすべて個室にし、定員を確保するため、一部の車両を除き2階建て車両とした。また、電車にすることでスピードアップ及び、
途中駅の機関車付け替えという手間を省いた。
1998年、30年ぶりの寝台電車となる285系サンライズエクスプレスが登場。またまた奇しくも、7月10日(金曜日)より
寝台特急〈瀬戸〉〈出雲3・2号〉は、〈サンライズ瀬戸〉〈サンライズ出雲〉に生まれ変わったのである。
■さわやかな朝を迎えて
翌朝6時40分にセットしたアラームが時刻通りに鳴動すると、岡山発車後に中断した車内放送が再開され、車掌が横浜到着を告げる。
発車後、カーテンを上げると、いつもの光景に安堵する。ホテルの1泊とは、ひと味もふた味も違う朝は新鮮な気分だ。
もう1度味わってみたい気にさせてくれる。
7時08分、終点東京8番線に到着。隣の9番線で発車を待つ臨時特急〈踊り子101号〉伊豆急下田行きと並んだ。見慣れた駅とはいえ、
夜型人間の私にとって、「早朝」は心を新(あらた)にしてくれる“スパイス”だ。
夜行列車最大のメリットは、効率的な移動手段であること。例えば、東京―広島・九州間などは寝台特急〈サンライズ瀬戸〉
〈サンライズ出雲〉と新幹線の乗り継ぎにより、スピーディーな移動ができるし、夜行高速バスよりも断然早い。
「サンライズ&新幹線」という割引率の高い企画乗車券を発売するなど、“夜行高速バスに勝てる夜行列車”
を目指してほしいものだ。<取材・文・撮影/岸田法眼>
日刊SPA! 婚活が激変!オンライン婚活に対応できない柔軟性のない人は行き遅れる
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200419-00010005-suitsw-life
4/19(日) 17:03配信
新型コロナウイルスの影響で、婚活が大きく変化しております。いつ終息するかもわからず先が
見えないコロナ禍の中で、この変化に柔軟に対応する人、取り残される人の差がつきます。
今どうすべきかをお伝えします。
■コロナで婚活の在り方も変わる
こんちは。恋愛・婚活コンサルタントの菊乃です。
緊急事態宣言を受けて、飲食店も映画館も休業で、不要不急の外出自粛がより徹底されつつありますね。
こんな時に婚活はどうするのかというと、どうやって行くか判断は非常に難しいです。
首都圏の婚活パーティーは3月後半から中止が相次いでいます。緊急事態宣言前ならば
「お見合いの日程を変更してもらって、コロナが収束してから会う」という予定の方もいらっしゃいましたが、
今のところ収束がいつになるのか先が見えません。コロナの後に会うなんて言っている場合じゃないのです。
そんな中で、出会い方が激変しております。家に居ながらスマホでzoomなどのアプリを使ってオンラインで
お見合いをする、合コンをするというやり方が登場しております。人気マッチングアプリ「ペアーズ」
もビデオ通話機能を追加すると発表しました。
(参照:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58076720V10C20A4XQH000/)
外出自粛だから仕方がなく登場した出会い方ではありますが、家に居ながらできるから楽とか、嫌な相手
だった場合サラッと切り上げられて便利、飲食代と交通費が出ていかないのでコスパがいい等のメリット
もあり、新型コロナ収束後もオンラインお見合いは定着すると見ている方もおります。
■オンラインお見合いを利用する人の割合は?
ただ、結婚相談所で婚活している方全員がオンラインに切り替えているものでしょうか?
大田区で結婚相談所を運営する仲人の山元純子さんに聞くと、間もなくオンラインお見合いに100%移行
完了するそうです。徐々に導入を進めてきて、会員にオンラインお見合い方法やメリットを説明してきたとのこと。 山元さんに結婚相談所で婚活をしている人のお話をうかがったところ、「肌感覚ですが首都圏で婚活する方
の約5〜6割がオンラインお見合いに切り替える予定ではないでしょうか。ただ、仲人の中にも変化に対応しきれて
いない方もおりますし、オンラインに抵抗がある会員さんもいらっしゃるので100%は難しいかもしれません。
もったいないですね」とのことでした。
確かに仲人って、ネットに疎い人も多いよう。家にWi-Fi環境がないなどの理由で、オンラインお見合いに
積極的になれない方もいるでしょう。
■変化に対応しない人が取り残される
多くの人は自分を「普通」と思っています。「〇万人会員がいる」なんて見れば、「私はキレイってわけ
じゃなくても普通だと思うし、誰か1人ぐらい相思相愛の結婚相手は見つかるだろう」と思って婚活を始めます。
実際に婚活を始めて1年以内に結婚して、婚活を卒業していく人はいます。しかし、自称普通女子・自称普通
男子の中には異性から見たらあまり魅力的ではない人や、自己評価と実態に乖離がある人も多いのです。
なぜ、自称普通と思うかといえば、昔から変わっていないからです。同じことを繰り返し、同じような服を着て、
例えば2015年辺りならば周りの同年代がスマホに切り替わっていても「まだ使えるしガラケーでいい」と
機種変更をしないような人が割と結婚も遅れがちなのです。
変わっていないということに危機感はなく、むしろ未知のことを試す方が不安になるような人はいませんか?
30代40代でも、パステル系カーディガンにブラウスといった昔のエビちゃんOLのような服を着るのが男ウケと
思って思考が止まっている方は大勢おります。
今年はまだお会いしていないけれど、2019年でもガラケーの婚活中の人に会いました。今年もLINEを
やったことがない人にも遭遇しております。こういう変化に対応しない人は、社会が大きく変化するであろう
この期間に婚活中の他の方から大きく遅れるでしょう。 ■安心安全が保障された確実な出会いを探して年老いていく
オンライン非対応の方の理由は、ネットに疎い以外にもあります。オンラインお見合いは、今のところzoom
というアプリを使うことが多いようです。個人情報流出などのトラブルの可能性があるからということで、
対面の出会いの方が安全と思う方もおります。
zoomは第三者が勝手に侵入する等が、主なトラブルらしいです。
何度か私も使っているのですが、今のところ一度もそういう被害はないですが。
今婚活で最も多いのがマッチングアプリですが、頑なに「ネットに個人情報を載せて何かに悪用されたくない」
という理由で顔がよく見えない写真を使う方もいるのです。あなたの写真で、どんな悪さができるのと思うのですが…。
それでもまだ、マッチングアプリに登録しているだけマシですが。
婚活実態調査2019(リクルートブライダル総研調べ)によると、結婚意向がある20〜49歳未婚男女の中で
婚活サービス利用経験者は、2019年でもたった23.5%です。
・20代女性で23.1%
・30代女性で32.1%
・40代女性で27.2%
(参照:https://souken.zexy.net/data/konkatsu/konkatsu2019_release.pdf)
つまり、過半数はいつか結婚したいなと思っていても、願って待っているだけで具体的に出会うために行動していません。
実は私のところにご相談に来る方も婚活をしていてうまくいかないという方よりも、婚活すらしていない方が多いのです。
縁結び神社などに行って祈って願って待って努力したつもりになっていた方や、幸せノートを毎日書いて幸せを
引き寄せている途中のつもりの方もおりました。
願掛けやスピリチュアルははっきり結果も出ない反面、失敗もしないので楽なのです。
「婚活パーティーって既婚者がいる可能性があるんでしょう。だから行かない」
「マッチングアプリは危なそう」「結婚相談所って高いけど結婚できるわけじゃないんでしょ」
とおっしゃる方は多いもの。 安心安全が保障された出会いも結婚もないのです。確かにzoomはトラブルはあるかもしれません。
でもあなたが一生独身の可能性と比較して、どっちの可能性が大きいでしょうか?恐れるべきは未知の
トラブルよりも社会の変化に取り残されて、ずっとお1人でいることではないでしょうか。
オンラインの出会いに、今すぐ対応しましょう。
(教えてくれた人/菊乃)
出会いがない女性向けの恋愛婚活コンサルタント。山形県出身、静岡大学卒。29歳まで手抜きと個性を
取り違えていたダメ女。低レベルからの女磨き、婚活ブログが人気になり2011年に出版独立。著書は
「あなたの『そこ』がもったいない。」他4冊。具体的で分かりやすいアドバイスは何からやったら
いいか分からない男女に好評。ブログは今も毎日更新。https://ameblo.jp/koakuma-mt/
◆取材協力
アラフォーからでも始めやすい結婚相談室マルシェ 代表 山元純子
https://www.marcher-kekkon.com/ 消えた西武「70周年」東京D開催 越年でも見届けたい「松坂の伝説 再び」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200417-00000093-spnannex-base
4/17(金) 9:30配信
4月21日が近づいてきた。西武ナインが、80〜90年代の黄金時代のユニホームをモチーフにした
「ライオンズ70周年記念ユニホーム(復刻ユニホーム)」姿でロッテと東京ドームで戦う日、だった。
だが新型コロナウイルス感染拡大の影響で、この一戦も消滅した。
1月29日付け弊紙1面は「松坂伝説 再び」の見出し。
14年ぶり球団復帰の右腕が、復刻ユニホームで登板することを予告した。明るく楽しい紙面だ。
2年ぶり勝利を目指す39歳は、南郷キャンプから好調。開幕ローテーション入りも現実的となった。
予告紙面が実現したかは謎のままだが、Xデーを記者も心待ちにした。
紙面では連日、選手の前向きな自主練習を紹介している。
一方、メモリアルイヤーに多くの企画を用意していた球団サイドには、悲鳴の日々。
東京ドームでは来場者全員にレプリカユニホームを配布予定だったので、心が痛む。
とはいえ、企画する苦労を理解した上で1つ提案したい。
「70周年」の東京ドーム開催を来年に持ち越してはどうか、と。
延期となった東京オリンピック・パラリンピックも「2020」の肩書きをそのまま引き継ぐ。
世情を考慮すれば「70周年」の越年への異論も少ないだろう。
99年4月7日に155キロの快速球を披露してプロデビューした思い出の東京ドームに再度松坂が先発でマウンドに立つ。
当時とはスタイルは変わっているが、熟練した投球術で打者を打ち取る。満員の観衆は「伝説 再び」を見届ける。
浮かない日々が続く中、首を長くして球音を待つ記者の妄想癖をお許し願いたい。
21日が近づくにつれ、思いが強くなる。歴史をつむいだ70周年は、それだけのものと考えている。
(記者コラム・大木 穂高) かつての大物ルーキー、今や「トレード論」まで…ロッテ・平沢大河の逆襲はあるか
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200421-00225668-baseballk-base
4/21(火) 17:29配信
◆ あなたの“イチオシ”教えてください!
「新型コロナウイルス」の問題により、シーズン開幕が見合わせとなっているプロ野球。
17日には5月中の公式戦開催を断念することが決まり、それに伴い交流戦も中止に。
ひとまず「6月中の開幕」を目指して検討を重ねていくことが発表された。
ベースボールキングでは、この開幕延期の期間を利用して全野球ファンに向けたアンケートを実施中。
「プロ野球・2020年シーズン あなたの“イチオシ”教えてください!」と題し、開幕が実現した暁には
この選手のこんな活躍が見たい、今年の我が軍はココを見て、こんなことが起こると良いな……
といった2020年の注目ポイントを募集している。
ユーザーの方からお送りいただいた声を基に、今回はロッテの平沢大河選手(22)について取り上げていきたい。
◆ 「トレードした方が良い選手」に…?
1997年12月24日生まれ、右投左打の内野手。名門・仙台育英高から2015年のドラフト1位でロッテに入団し、今年で5年目を迎える。
高校時代は1年時からメキメキと頭角を現し、3年夏の甲子園では主軸としてチームの準優勝に貢献。
その後行われたU-18・W杯でも木製バットに難なく対応して見せるなど、ハイレベルな打撃技術を武器に
高校球界屈指の内野手として注目を集め、ドラフトではロッテと楽天の2球団が一巡目で競合。
鳴り物入りでプロの世界へと殴り込んだ。
その評判通り、1年目の春からオープン戦に出場を果たすなど、開幕一軍はもちろんのこと、開幕スタメン
というところにも期待がかかったが、“本番”が近づくにつれて徐々にプロの壁に苦しみ、残念ながら二軍降格。
それでも、ファームでは高卒ルーキー離れした成績を残し、5月の時点で早くも一軍デビューを果たす。
しかし、やはり一軍の壁は高く、デビューから23打席連続無安打と苦戦。プロ初安打を記録したのは、
デビューから3カ月が経った8月のこと。計23試合に出場し、打率.149という結果で1年目を終えた。 その後、2年目には50試合、3年目は外野に挑戦したこともあって112試合と順調に出番を増やしていったものの、
持ち味であるはずの打撃は開花の気配が見えず、打率も.176⇒.213という推移に。
“遊撃一本”でレギュラー獲りに挑んだ昨季も、開幕一軍には入りながら定位置確保には至らず。
開幕前に足首を痛めたことや、シーズン中にも太ももの故障など、コンディション面でも苦戦。
前年から大幅減となる51試合の出場で、打率は.198、1本塁打で8打点という成績に終わっている。
昨秋はドラフトの目玉・佐々木朗希の獲得に沸いたチーム。思えばこの平沢もドラフトでは一巡目で指名競合
した逸材であり、その後も安田尚憲や藤原恭大など、近年のロッテには高卒の有望株が続々と入団してきている。
加えて、平沢がレギュラー獲りを目指すショートという点では、最大のライバルである藤岡裕大と三木亮に加え、
ドラフト5位で加入した大卒ルーキーの福田光輝がこの春に猛烈なアピールを見せている。ほかにも、高校の後輩
である西巻賢二が楽天から、そして大ベテランの鳥谷敬も阪神から電撃加入。これまで以上の“激戦区”となっているのだ。
その中で存在感を放っていくためには、やはり自身の武器である打撃でアピールをしていくしかない。
かつてのゴールデンルーキーも、気が付けば“もう5年目”。球団OBには「トレードした方が良い選手」
として名前を挙げられるほど、現状のチーム内での立ち位置は苦しいものになりつつある。
こうした危機感と、外部からの新たな刺激に触発されて、今年こそ真価を発揮することができるか。
2015年ドラ1内野手の逆襲に、期待が高まっている。
◆ 平沢大河・プロフィール
ポジション:内野手
投打:右投左打
身長/体重:176センチ/80キロ
生年月日:1997年12月24日
経歴:仙台育英高−ロッテ(15年・D1)
[昨季成績] 51試 率.198(91−18) 本1 点8
[通算成績] 236試 率.197(548−108) 本7 点46
BASEBALL KING 来年で”還暦”の日比谷線 車両更新は完了し、ただいま激変中〈dot.〉
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200417-00000021-sasahi-life
4/21(火) 17:00配信
東京メトロと東武鉄道は2016年度から日比谷線用車両を18メートル車から20メートル車へ更新(置き換え)
を進め、2020年3月27日に18メートル車の運行が終了し、翌28日から20メートル車に統一された。
しかし、これは変化の一部でしかない。6月6日にはダイヤ改正も予定されている。コロナ禍でなければ
もっと話題になっていたであろう日比谷線は、これからどのように変貌してゆくのだろうか?
* * *
■自動列車運転装置の整備とホームドアの設置
東京メトロはホームドア(可動式ホーム柵)の設置工事と並行し、ATO(自動列車運転装置)の整備を進めている。
ホームドアの設置により、停止位置の精度向上が求められるためだ。ATOの導入は、乗務員の負担を軽減
させることができる。日比谷線では車両更新完了と同時にATO運転化された。
2020年に入ると、工事中の虎ノ門ヒルズ駅を皮切りにホームドアの設置工事が始まり、2022年度に全駅の設置を完了
させる予定だ。また、相互直通運転を行う東武鉄道でも、伊勢崎線北千住〜北越谷間でホームドアの設置工事を進める。
2020年度は北千住3階ホーム、新越谷、北越谷に設置される予定。そのほかの駅は2021年度以降に整備される。
■虎ノ門ヒルズ駅の開業
東京メトロの前身、営団地下鉄は1957年5月に日比谷線の建設計画を発表した際、虎ノ門駅を設け、銀座線との
乗換駅にする予定だった。ところが、いつの間にか立ち消えとなってしまう。
その後、2014年10月14日に実施主体はUR都市機構、設計・工事および供用開始後の運営管理は東京メトロが
それぞれ担うことで、虎ノ門ヒルズ駅の建設が決定した。開業は2020年6月6日の予定。
構想から63年の時を経て、ついに銀座線虎ノ門駅に直結する。
虎ノ門ヒルズ駅の開業に伴い、日比谷線と直通運転をする東武線では6月6日にダイヤ改正を実施する。
北千住〜霞ケ関間で駅ナンバリングが変更され、霞ケ関〜中目黒間の列車が増発される予定だ。
また、虎ノ門ヒルズと臨海副都心を結ぶバス、東京BRTが5月24日に1次プレ運行を開始する予定である。 ■銀座駅と銀座一丁目駅が乗換駅に
6月6日のダイヤ改正では、銀座線、丸ノ内線、日比谷線の銀座駅と有楽町線の銀座一丁目駅が乗換駅となる。
銀座一丁目駅は銀座線銀座〜京橋間のほぼ中間にあり、銀座駅から徒歩2分28秒、京橋駅から徒歩2分52秒(いずれも最短距離)
で、どちらも乗換駅に指定しても差しさわりない。東京メトロが銀座駅を選択したのは、3つの路線が交わることや、
リニューアル工事が完成することによるのだろう。
日比谷線にとっては、2013年に秋葉原駅が都営新宿線岩本町駅、2018年に人形町駅が半蔵門線水天宮前駅、
築地駅が有楽町線新富町駅の改札外乗換駅に指定されており、さらなる利便性の向上が期待される。
また、ダイヤ改正により、改札外乗換駅の乗り換え制限時間が30分から60分に拡大されるので、飲食店などに“寄り道”ができそうだ。
■「THライナー」デビュー
今回の6月6日ダイヤ改正で、日比谷線と伊勢崎線を結ぶ座席指定列車「THライナー」が新設された。
朝方は久喜〜恵比寿間に2本設定、夕方以降は霞ケ関〜久喜間に5本設定され、座席指定料金は区間により大人580円
と680円(小児半額)に分かれる。なお、事前に座席指定券を購入しなかった場合、200円(大人、小児とも)加算
されるほか、朝方の恵比寿行きに限り、霞ケ関から先は乗車券のみで利用できる。
車両は東武鉄道70090型で、東上線で好評を博す「TJライナー」用の50090型と同じマルチシートを採用。
各駅停車運転時は横長のロングシート、「THライナー」運転時は進行方向に向けられる回転クロスシートに設定される。
なお、「THライナー」の新設に伴い、東武鉄道の特急「スカイツリーライナー」下り列車と特急「しもつけ」が廃止される。
■保安装置の更新
利用客の目に触れないところでも、大きな変化が計画されている。東京メトロの保安装置はCS−ATC(車内信号機付き
自動列車制御装置)で、ATS(自動列車停止装置)やWS−ATC(地上信号機式の自動列車制御装置)に比べ、列車の間隔を
短くできるメリットがある。しかし、日比谷線はラッシュ時の遅延が発生しやすく、平日の夕方は東武線に波及することも珍しくない。 そこで東京メトロは、新しい保安装置としてCBTC(無線式自動列車制御装置)の導入に向けた準備を進めており、
2023年度の実用化を目指している。実現すると、列車の間隔をさらに短くできるので、高い遅延回復効果が期待される。
2021年に還暦を迎える日比谷線。新しいステージに向けて、これからも発展してゆくことだろう。(文・岸田法眼)
【著者プロフィール】岸田法眼(きしだ・ほうがん)/『Yahoo! セカンドライフ』(ヤフー刊)の選抜サポーター
に抜擢され、2007年にライターデビュー。以降、フリーのレイルウェイ・ライターとして、『鉄道まるわかり』
シリーズ(天夢人刊)、『論座』(朝日新聞社刊)、『bizSPA! フレッシュ』(扶桑社刊)などに執筆。
著書に『波瀾万丈の車両』(アルファベータブックス刊)。 京葉線全線開業、京王相模原線延伸など〜平成2年春の鉄道動向
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200421-30000231-tetsucom-ind
4/21(火) 18:03配信
30年前の1990年。元号では平成2年でした。令和2年の今、その平成2年春の鉄道はどんな
様子だったのか、当時の写真をもとに振り返ってみようと思います。
1989年には大喪の礼などがあり、自粛ムードが続いていた観がありましたが、1990年の
春先にはそれもなくなり、社会が大きく動き出す雰囲気を感じたものでした。
鉄道でも京葉線の全線開通、京王相模原線の延伸開業など、大きな動きがいくつかありました。
華やかな雰囲気の中で開業初日を迎えたことが思い出されます。
■3月10日、京葉線全線開通
京葉線の新木場〜東京間が3月10日に延伸開業し、同線が全線開通を果たしました。
2020年は30周年にあたる節目の年です。
同線が旅客線として最初に開業したのは、西船橋〜千葉港(当時)間。1986年3月のことでした。
その後、武蔵野線との連絡線(西船橋〜市川塩浜間)などを含め、順次延伸。4年をかけ、全線が開通しました。
東京発着で武蔵野線と直通する列車が運転を始め、東京圏を大回りする外環状線が完成したのもこの日でした。
延伸時に開業した新駅は、潮見、越中島、八丁堀、東京の4駅。越中島、八丁堀、東京の3駅はいずれも地下駅で、
特に地下深くに設けられた京葉線東京駅は、ホームの深度をはじめ、既存の東京駅ホームとの距離や、
連絡通路上の「動く歩道」などが大きな話題になりました。
筆者は、3月10日に延伸区間を訪ね、東京駅を起点に新木場駅まで順に乗り降りをしました。
東京駅コンコースでは、「東京ベイライン開通」を祝す記念パネルの展示がなされ、「Keiyo Plaza」
と称するスポットでは、記念オレンジカードの発売などもあり、盛況でした。
京葉線の東京駅地下ホームは、かつての東京都庁の北側に面した道路下に位置します。
成田新幹線用の用地を活かしてホームを設けたため、立地、深度ともに特異。有楽町駅にも近く、
東京駅として括るのは無理があるように感じたのを思い出します。 そんな地下ホームから、103系などに乗り、東へ。各駅停車での移動でしたが、京葉線内の快速運転が
始まったのもこの日で、潮見駅を通過する快速列車を見送った時は、ちょっとした感動を覚えたものです。
なお、当時の「京葉快速」(平日・土曜運転)の停車駅は、東京から先、八丁堀、新木場、舞浜、新浦安、
検見川浜、稲毛海岸、蘇我でした。休日の快速「マリンドリーム」もあわせ、海浜幕張駅は通過扱い。
幕張メッセはすでに開設され、動員数の多いイベントも数多く開催されていたので、なぜ快速停車駅に
しなかったのか不思議に思ったものです。
その後、快速列車の設定、停車駅も変化し、駅周辺や沿線の風景も変わっていきました。新習志野〜海浜幕張間では、
新駅設置に向けた事業が進められています。全線開業から30年を経て、京葉線はさらなる進化を続けています。
■3月27日、小田急多摩線が延伸
多摩ニュータウンへのアクセス線として整備された小田急多摩線。多摩ニュータウン以西の延伸計画のうち、
その一部にあたる小田急多摩センター〜唐木田間がこの日開業しました。
当初の延伸計画は、多摩ニュータウン西部地区のうち、南側を通って橋本駅をめざすものでした。その後、
住宅・都市整備公団(当時)が建設した小山田界隈のニュータウンを経て、横浜線の矢部駅にアクセスする
計画に変更しましたが、自治体による小山田地区の緑地保全が優先されたことなどから計画の具体化が進まず、
今日に至っています。小山田地区の入口にあたる唐木田駅まで延びてからはや30年。延伸計画自体は存続し、
現在は相模原駅方面に向けた整備が自治体で検討されています。
筆者は、延伸開業から3日後の3月30日に唐木田駅を訪ねました。ホームやコンコースなどに祝賀の装飾が施されて
いたのと、改札付近に「祝 竣功開通」の看板が出ていたほかは、目に付くものはなく、駅周辺にも目立つ建物は
ありませんでした。駅を行き来する人も少数で、記念きっぷもまだ残数がありました。駅舎は立派なものでしたが、
総じてローカルな印象を受ける駅でした。 その年は、唐木田駅を経由する臨時の特急ロマンスカーが運転されました。春には「江ノ島・鎌倉エクスプレス」、
夏には「湘南マリンエクスプレス」が運行。新駅開業を祝う記念列車という見方もできそうですが、詳しいことは
わかりません。筆者は8月19日に、藤沢駅から経堂行きの湘南マリンエクスプレスに乗りました。
3000形「SSE」で、新百合ヶ丘駅、唐木田駅での方向転換を体験。思い出深い旅となりました。
■3月30日、京王相模原線も延伸
小田急多摩線同様、多摩ニュータウンへのアクセスを視野に建設された京王帝都電鉄(当時)相模原線。
JR駅までの延伸が進まない多摩線に対し、相模原線は横浜線、相模線の橋本駅までこの日延伸され、神奈川県
相模原市と新宿・都営新宿線方面を結ぶ新たな東西軸ができました。
相模原線の延伸は、多摩ニュータウン西部地区の北側を経るルートがとられ、京王多摩センター〜南大沢間が1988年3月に開業。
その2年後に同線の全線開通を迎えました。終点となる橋本駅の開業日当日は、駅周辺で式典やパレードが行われるなど、
京王線側の南口、横浜線側の北口ともに大きくにぎわっていました。静かな感じの唐木田駅を見てきた後だったので、より華々しく感じたものです。
京王グループでは、この橋本延伸開業を機に、「リフレッシング京王」をスローガンとする取り組みが始まりました。
「京王ブルー」と「京王レッド」のコーポレートカラーが制定されたのもその一環です。
京王相模原線には、橋本以西の延伸計画がかつてはありましたが、橋本駅延伸の前に免許(橋本〜相模中野間)を
返上しており、計画は白紙に。京王がめざした津久井湖方面への延伸構想はなくなったものの、そのルートをたどるように
リニア中央新幹線の工事が現在進められています。
橋本駅は、同新幹線の「神奈川県駅」が併設される予定で、将来的には新幹線、横浜線、京王線が交わる一大拠点駅になります。
鉄道コムスタッフ 冨田行一 コロナで「在宅勤務」の思わぬ落とし穴、実際にやって分かったこと
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200417-00234869-diamond-soci
4/17(金) 6:01配信
新型コロナウイルスの影響により、「在宅勤務」が一般化してきた。
ただ、実際に家で仕事をしてみると、思わぬ困難に気づく人も多いようだ。
さまざまな人の体験談をもとに、在宅勤務のメリット・デメリットを挙げていく。
(取材・文/フリーライター 有井太郎)
● 在宅勤務をし始めて 初めて気づいたデメリット
近年、リモートワーク(あるいはテレワーク)という言葉が聞かれるようになった。
オンラインで仕事をできるツールが登場し、さらに子どもを持つ家庭の兼業夫婦が増えたことからも、
そういった働き方が推奨されつつあった。
そんな中、新型コロナウイルスの影響により、自宅での勤務をせざるを得ない状況になってしまった。
多くの企業が社員の出社を取りやめ、在宅勤務を推奨。近年発達したオンラインの仕事ツールを活用している。
まさに今、多くの人が「自宅で勤務する」というスタイルに挑戦している最中だろう。
では、実際に在宅勤務をしている人は、この働き方にどんな感想を抱いているのだろうか。
在宅勤務を始めた人に聞いてみると、メリットはもちろん、思わぬ落とし穴や困難に気づいたという声も多いようだ。
おそらく、長期にわたるであろう新型コロナとの戦い。在宅勤務の能率を高めていくためにも、
ここでそのメリット・デメリットを挙げてみたい。といっても、メリットについては各所で
多数取り上げられている。ここでは、デメリットや困難に比重を置いて伝えていこう。
● 「家」という空間での仕事は 息抜きやリフレッシュができない?
在宅勤務の大きな特徴は、自分1人(あるいは家族や同居者だけ)の空間で仕事を1日中することだ。
上司への気遣いやどうでもいい雑談の相手をしなくていいなど、メリットはすぐに思い浮かぶが、
実はこの環境が「デメリット」だと感じ始めた人もいる。
それらの声を紹介しよう。 「在宅勤務をして1週間、特に大変な仕事をしているわけではないのに、気持ちが行き詰まっているのを感じた。
考えてみると、朝から1人黙々と仕事をしているだけ。オフィスでは、同僚との何げない雑談やコミュニケーション
が実は息抜きになっている。それがないために行き詰まっていると感じた」(40代前半/IT)
「朝の10時から仕事を始めるのだが、15時頃には疲れてくる。不思議に思っていたけど、振り返ると昼食の時間
くらいしか休憩を取れていない。その休憩も静かに1人でご飯を食べるだけ。ある意味で生産性は上がっている
のだけど、精神的な疲労は明らか。そこに悩んでいる」(30代後半/デザイン)
「オフィスにいるときは気づかなかったけど、誰かに話しかけられたり、挨拶をしたりすることが自然と
自分の気持ちをリラックスさせていると気づいた。在宅勤務は、気持ちの切り替えやリフレッシュを
自分でやらないといけない」(40代前半/PR)
在宅勤務になると、余計な同僚との会話、特に上司との面倒なやりとりがなくなる。これはよく聞かれる
メリットだが、一方で息抜き的な会話がないことの意外なデメリットが生まれているのだ。
また、同僚がいない点では、こんなデメリットも挙がっている。
「仕事で少し悩んだとき、アイデアが欲しいときに不便を感じる。メールやチャットで聞くほどのこと
でもないし、ちょっと手が空いている人に相談する機会がないのは痛い」(30代前半/編集)
いくらツールが発達しても、何かを相談するとき、デジタルツールに一度乗せて聞くのはハードルが高い。
わずかながら手間もかかる。近くの同僚に相談するというのが難しくなるのだ。
とはいえ、こんな考え方もできるだろう。そういったちょっとした相談も、本当に今まで必要なものだったのか、
実は少し自分で考えれば思いつくことも、すぐ周りの同僚に頼ってしまっていたかもしれない。それは、
他の同僚にとって手間になっていたかもしれない。そういう意味で、自分でなるべく解決する、あるいは
本当に相談すべき課題かどうかを精査するクセをつける機会になるのかもしれない。 ● 手こずるZoomの「背景」 なるべく部屋を映したくない
続いては、在宅勤務の「環境」に対する気づきだ。冒頭で述べた通り、今は仕事のデータやファイルは
クラウドシステムに預ければ、ネットを介してどこからでもアクセスできるし、同僚とのやりとりは
スラックなどのチャットツールでまかなえる。会議や商談は、Zoomなどのテレビ会議ツールを使う人が増えている。
在宅だから「この作業ができない」というケースは減っているはずだ。
とはいえ、やはり在宅ならではの環境面での悩みが出ている。以下に紹介しよう。
「妻と2人暮らしで、そろそろ子どもをつくることを考えて引っ越そうと思っていたので、まだ今の家は狭い。
生活は問題ないが、妻とともに在宅勤務になるとつらい。仕事に適したテーブルがひとつしかなくて、それは
先に在宅勤務になった妻に占拠されてしまった。自分はソファに座ってノートパソコンで仕事をしているが、
どうしても気が乗らない」(30代前半/IT)
「家で犬を飼っているのだが、1日中夫婦2人がいるので大喜び。家で仕事をしていると構ってほしそうにしてくる。
最初は『ダメだよ』なんて言うのだが、やはり断りきれず、遊ぶことに。1度遊ぶとまた求めて来たり、膝の上で
寝ようとしたりする。最初だけとは思うけど、少し悩ましい」(40代前半/マーケティング)
「テレビ会議はすごくいいのだが、背景に映り込む自分の部屋の様子が気になる。うまいポイントを探すのにだいぶ苦労した。
Zoomなどは背景をバーチャルのものに変えられるのだけど、上司や他社との打ち合わせでそれはできない」(30代後半/広告)
意外と、テレビ会議の背景問題を挙げる人は多かった。
「なるべく無機質な背景にしたい」という人がほとんどで、壁際にパソコンを置いてカメラで写すケースがよく聞かれる。
ただし家の間取りや、パソコンを置くテーブルの場所の問題で、どうしても生活感あふれる背景になることもある。
部屋が俯瞰で見えてしまったり、ベッドなどが映り込んだり。
こういったカメラ位置を回避しようと四苦八苦している人は少なくないかもしれない。 ● あの「通勤」にもメリットが? 新たなルーティーンを作る大切さ
さて、在宅勤務のメリットとして大きいのは、やはり「通勤がなくなる」ことだろう。朝晩のいまいましい
通勤ラッシュに巻き込まれることなく、また起床時間もいつもよりゆとりを持てるはずだ。
ビジネスパーソンの中には、オフィスまで片道1時間ほどかかる人も少なくない。となると、往復で2時間を通勤
に費やしていることになる。仮に、この時間を仕事に回せれば、もっと早く仕事を切り上げられる。あるいは、
もっとゆとりを持って仕事ができる。そう考えると、大きなメリットだ。
一方で、通勤時間がなくなったことを意外にも悲しむ人が一定数いる。そのコメントを紹介したい。
「毎朝、駅まで15分ほどの道のりを歩いて通勤していた。この歩いている時間に、体が起きるし、自分が今日
やりたいことをまとめられるし、歩数も増えて健康にもいいし、実は好きな時間だった。それまで考えたこと
もなかったが、今回の在宅勤務で自分に必要なルーティーンだったと気づいた」(30代後半/営業)
「ぎゅうぎゅう詰めの通勤電車はイヤだけど、毎日同じルートをたどる通勤は、実はいろいろな発見があって楽しい。
新しい店ができたり、周りの人たちの服装やツールが変わったり。流行や世相を知る意味でもよかった。
家にいると、受動的に入ってくる情報量が減るので、そこが課題」(30代前半/編集)
「通勤がなくなったのはいいけど、結局それに変わるような運動や体操の時間を仕事前に設けている。
朝起きて、身支度していきなり仕事をしようとしても難しい。家の中でも少し動くとか、軽い運動をしてから
仕事をするようになった」(40代前半/システム)
通勤ラッシュという部分に絞れば、それが無くなることのデメリットを感じている人はほとんどいなかった。
一方、電車以外の部分を含めた通勤については、それが持っている価値を感じている人もいたのだ。
最近はスマホ内に歩数計がついていることが多い。当然ながら、在宅勤務になってからは1日の歩数がガクンと落ちる。
それは健康の意味はもちろん、仕事をする上でのルーティーンとしても実は悪影響になっている人もいるだろう。 だからといって、この状況で強引に通勤をするのはもちろんNG。となると、今の状況でできることを考えなければならない。
通勤はしないが、仕事の前に30分ほどストレッチや運動の時間を作るなど。
在宅勤務に合わせた、新しいルーティーンを作っていくことが大切かもしれない。
新型コロナウイルスにより生活は一変し、つい数カ月前には当たり前だった日常が、今はなんだか輝いて見える。
ニュースもネガティブな報道一色で、見ているだけでも気がめいるだろう。
とはいえ、どう考えてもこの状況は短い期間で終わらない。間違いなく長期戦になってくるはずだ。
ということは、在宅勤務を含めた働き方も、決して一時的ではない“改革”が必要になる。
在宅勤務をした中で気づいたメリットやデメリット。メリットは生かしつつ、デメリットをきちんとつぶしていく、
対処していくことが必要になるだろう。こんな状況は、すべての人にとって初めてであり、未曽有の事態。だからこそ、
一つひとつの課題と向き合って、じっくり対処していくしかない。そうすれば、きっと課題を解決する方法は見えてくる。
有井太郎 東武伊勢崎線はなぜ浅草がターミナル駅? 上野まであとわずか その歴史的背景をたどる
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200418-00095627-norimono-l13
4/18(土) 14:10配信
■あと少しでJR山手線の駅に… 中途半端な感じも否めない浅草駅
東武鉄道は、関東の私鉄のなかで最も営業距離が長く、観光地である栃木県の日光や群馬県の赤城山など
へも路線を伸ばし、「関東の私鉄の雄」ともいわれてきました。その東武鉄道の本線にあたるのが、
浅草駅を発着ターミナルとする東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)です。
同線から東武日光線を経て東武日光へ向かう特急「けごん」も、浅草駅が始発です。
ところがこの浅草駅には、JRの路線が延びていません。他の東京の大手私鉄(東京メトロを除く)6社では、
その本線格の路線は皆、山手線の駅をターミナルとしているのに、東武鉄道だけが異なるわけです
(東武東上線は池袋駅がターミナルですが、伊勢崎線より短く支線も少ないことから、ここでは東武鉄道
の本線格として扱わないものとします)。
地下鉄などが浅草駅へと通じているものの、同駅での地上の鉄道は東武伊勢崎線だけなので、東武鉄道浅草駅は、
「関東の雄」のターミナルとしてはなんとも中途半端と、筆者(内田宗治:フリーライター)は感じてしまいます。
陸の孤島駅といった感じさえします。
東武浅草駅の開業は1931(昭和6)年です。東武鉄道は、なぜ浅草をターミナル駅の地としたのでしょうか。
なお記事中の写真につきましては、東京都による外出自粛要請に従い筆者の判断で現地撮影取材などを
自粛したため、過去の写真を掲載しています。
■かつては新宿や銀座よりも繁華街だった浅草
東武鉄道が浅草をターミナル駅の地とした理由のひとつに、かつて浅草は東京一の繁華街だったことが
挙げられます。
1960年代頃まで、東京の市街には、2020年現在の地下鉄路線よりさらに細かい網の目のように
市電(都電の前身)が走っていました。1923(大正12)年6月7日に行われた東京市電の乗客調査では、
東京市内に360あった市電停留場のなかで、雷門(浅草)停留場が乗降客数1位(5万3716人)となっています。 そのほか、日本橋(3万1518人)、銀座四丁目(2万3415人)、新宿駅前(1万5400人)といった繁華街の市電停留場と比べると、
いかに浅草が賑わっていたか想像できるでしょう。
浅草は特に、娯楽演芸関連の劇場、映画館の多さでも群を抜いていました。1950年代後半がその全盛期といわれます。
その後はテレビの普及で演芸や映画界の斜陽化が進み、新宿など山手線各ターミナルの発展から取り残される形で、
浅草は相対的に、急速に賑わいを失っていきました。
東武伊勢崎線の歴史を振り返ってみましょう。明治時代、日本が外貨を得るための主力は繊維産業でした。
群馬県東部から栃木県西部にかけては、国内でも有数の養蚕と製糸、織物生産が盛んな地帯で、東武鉄道は
この地域と東京を直結する目的で建設されます。
1899(明治32)年、まず北千住〜久喜間が開通しました。次いで1907(明治40)年に織物業の本場である足利町
(現・栃木県足利市)へ、1910(明治43)年に群馬県の伊勢崎へと延伸していきます。
■亀戸を経由し、久喜〜両国橋間を結んだ東武線
東京側では北千住から先、隅田川の東側をそのまま南下し続け東京湾沿いの越中島に至り、そこから西に折れ京橋を経て
東海道線の新橋駅へと向かうルートを計画していました。北千住駅から吾妻橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)までを
1902(明治35)年、途中の曳舟駅から越中島方面へ向けて亀戸駅までを1904(明治37)年に開通させます。
曳舟〜亀戸間が現在の東武亀戸線です。
亀戸駅は総武鉄道(現・JR総武線)との接続駅でした。東武鉄道の列車は総武鉄道へと乗り入れて、久喜方面から北千住、
亀戸を経由し、両国橋(現・両国)行きの列車が運行されていました。現在2両編成の電車がのんびり走る東武亀戸線は、
開通当初、東武鉄道の大動脈路線だったわけです。 亀戸駅から先は用地買収が難しくなったようで、東武鉄道は都心乗り入れルートを変えて、吾妻橋駅
(1910年 浅草、1931年 業平橋、2012年 とうきょうスカイツリーに駅名改称)から西に向かって
上野駅へのルートを申請します。
これが認可されていれば、東武伊勢崎線も山手線駅がターミナルとなったのですが、1923(大正12)年に
関東大震災が起き、その後の東京市の復興都市計画により上野駅へのルートは却下され、ほとんど強制的に、
現在の浅草駅の土地が駅用地として決定されてしまいます。
■なぜ東武浅草駅は急カーブなのか
その駅用地は、すぐ近くの隅田川に並行する細長いものでした。吾妻橋駅を出て隅田川を渡った後、
90度急カーブして浅草駅に入ることになります。しかも東武グループの総帥 根津嘉一郎が、申請書の提出後に、
「何としても浅草にふさわしい立派な駅ビルを建設せよ」と言い出しました。
そうしたこともあり、橋のたもとから駅ビルのなかへ半径100mという、とてつもない急カーブを設けざるをえなくなりました。
両渡り分岐器(隣の線路へ渡るポイント)を、当時としては異例の隅田川橋梁の上に設けるなど、技術陣も知恵を絞ります。
急カーブの様子は、現在でも浅草駅を訪れるとよく分かります。ホームによっては先端付近からこの急カーブは
始まっていて、車両とホームのあいだが著しく開いてしまっています。危険なので列車先頭(北千住寄り)
2両のドアは開閉しない箇所があったり、特急電車では先頭付近ホームと車両の乗降口のあいだに、持運び式の
渡り板を置いて対応したりしています。電車はこの急カーブを、車輪の音をきしませながら15km/hで走行しています。
伝統的な店が多い浅草には、駅にも様々なドラマがありました。
※一部修正しました(4月20日16時20分)。
内田宗治(フリーライター) 浅草と東京スカイツリーを繋ぐ「東京ミズマチ」。東武鉄道に聞く、その狙い
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200417-00298235-bizspa-bus_all
4/17(金)8:45配信
東京都、墨田区、東武鉄道(以下、東武)が連携した「北十間川・隅田公園観光回遊路整備事業」は、
浅草と東京スカイツリータウンのあいだを線路沿いの最短距離で結ぶ“歩くスカイツリーライン”として、
2020年5月にオープンする予定だ。
その概要は、伊勢崎線(浅草・押上―東武動物公園間は路線愛称「東武スカイツリーライン」で案内)の
隅田川橋梁沿いに架設された遊歩道「すみだリバーウォーク」、北十間川沿いの高架下に建設された
商業施設「東京ミズマチ」である(※今回の記事は、2020年4月3日に取材したものです)。
■三位一体で取り組む
東武によると、「北十間川・隅田公園観光回遊路整備事業」のきっかけは、2013年度頃だという。
東京都の北十間川耐震護岸工事、墨田区の隅田公園などの改修工事、東武の高架下耐震補強工事を
同じ時期に実施することとなったからだ。
そこで、「公園、道路、高架下空間、水辺の一体的な空間を整備しよう」という案が浮上し、
東京都、墨田区、東武と考え始めた。
2014年度には、東京都、墨田区、東武、学識経験者で構成される検討会を発足し、北十間川の水辺活用や
にぎわい空間の創出などの検討を開始した。今回の北十間川整備(東京ミズマチ)については2014年度頃、
歩道橋整備(すみだリバーウォーク)については2018年度下期より検討を開始したという。
2012年5月22日に東京スカイツリータウンが開業して8年。「北十間川・隅田公園観光回遊路整備事業」は、
伊勢崎線浅草―とうきょうスカイツリー間、沿線回遊開発の集大成といえよう。
■隅田川橋梁にすみだリバーウォークを併設
伊勢崎線浅草雷門(現・浅草)―業平橋(現・とうきょうスカイツリー)間が開業したのは、昭和初期の1931年5月25日。
以来、89年の長きにわたり、東武の列車が全長155.25メートルの隅田川橋梁を往来した。
ちなみに列車は45秒で通過する。
今まで東武の列車でしか味わえなかった景色が、すみだリバーウォーク(全長約160メートル)
の建設により、存分に楽しめる。 東武の浅草駅北口から約90秒のところに、すみだリバーウォークの出入口があり、階段とスロープを設けた。
一旦、隅田川橋梁をくぐったあと、吾妻橋側に抜ける。線路の一段下に架設されたので、「ダンダン、ダンダン」
という、歩くような列車の走行音、ポイント切り替えの「ウィーン」という音を間近で楽しめる。
鉄道に特段関心のない方は、列車やポイントを“いきもの”という見方で感じていただけたらと思う。
隅田川橋梁は日没後から終電にかけてライトアップされ、夜間はその灯りの中を歩くことになりそうだ。
どういった空間となるのか、注目かつ楽しみにしたい。
隅田川と北十間川の合流地点となる源森川水門で隅田川を渡り終えると、小梅橋梁をくぐり、枕橋へ抜ける。
■すみだリバーウォークのねらい
すみだリバーウォーク建設の発端となったのは、2014年2月、東京都事務局が「隅田川等における新たな水辺整備のあり方」
を公表したことによる。
浅草エリアについては、「浅草・東京スカイツリー間を結ぶにぎわいの水辺」というコンセプトのもと、
浅草寺と東京スカイツリーのあいだをつなぐ動線の形成、回遊性の向上、隅田川を挟んだ墨田区と台東区
の両方に基盤を持つ東武の事業として、それを結ぶすみだリバーウォークを設置することになった。
東武によると、浅草と東京スカイツリーエリアを1つのエリアとして結び、回遊性を高めることがねらいだという。
なお、開通後の開門時間は7時00分から22時00分まで。
基本的に年中無休ながら、季節、イベントの開催、天候などにより、変更されることもあるという。
■先行開業予定の東京ミズマチのウエストゾーン
東京ミズマチは枕橋―源森橋間のウエストゾーン、源森橋―小梅橋間のイーストゾーンに分かれる。
まず、先行開業予定のウエストゾーン。かつて隅田公園駅が所在していたところで、その向かい側に隅田公園を構える。
7店舗中、6店舗は飲食店で、一部は水辺にテラス席を設けている。東京ミズマチは両ゾーンとも親水テラスが整備され、
北十間川を眺めながら、ウォーキング、ジョギングなどができそう。観光、生活の両面で親しまれるのではないだろうか。 また、当該エリアの高架橋、橋梁の多くは、スカイツリーホワイトに塗装され、“新しい街”との調和を図っている。
■イーストゾーンは6月より順次開業予定
三ツ目通りを越えると、東京ミズマチのイーストゾーンに入る。店舗の向かい側は住宅地で、庶民的な雰囲気が色濃い。
また、大相撲の鳴戸部屋(師匠は元大関琴欧洲の鳴戸親方)があり、新型コロナウイルスが終息すれば、
朝稽古の一般見学再開も考えられる。すなわち、観光スポットのひとつに加わる可能性を秘めている。
イーストゾーンも7店舗が用意され、ホステル、コンビニエンスストア、産業交流委拠点、コインランドリー
、テラス席つきのハンバーガーショップ、スポーツ複合施設などを構える。2020年6月に順次開業する予定で、
沿線にお住まいの方々が利用しやすい環境を整えている。
小梅橋付近には2人用ベンチを2脚配し、東京スカイツリーや東武の列車を望める。
ちなみに、ここから、とうきょうスカイツリー駅及び東京スカイツリータウンへは徒歩2分あまり。
■東京ミズマチのねらいと今後の展望
東京ミズマチ建設の発端となったのは、「新たな水辺整備のあり方検討会(事務局:東京都)」が策定した
「隅田川等における新たな水辺整備のあり方」に基づくもの。
浅草および東京スカイツリーの2大観光拠点、隅田川および北十間川が生み出す水辺空間といった特性を
活かしながら活性化を図るべく、墨田区と東武が連携して整備事業を推進することとなり、その一環として
東武では高架下を開発することとなった。
東京オリンピックとパラリンピックの開催が2021年夏に延期されたとはいえ、今回取り上げた事業は、
“東京の魅力的な空間創出への期待”が一層高まる。
今後の展望について、東武にお伺いしたところ、下記のコメントを寄せた。
「歩道橋設置および北十間川・隅田公園観光回遊路整備事業により、浅草周辺と東京スカイツリータウン周辺を
一体のエリアとして捉えてもらうことで回遊性が高まり、両エリア全体の活性化に寄与するものと考えています」 ■開通と開業は延期
当初、すみだリバーウォークは2020年4月13日に開通、東京ミズマチは4月17日に開業する予定だった。
しかし、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、延期が決まった。現時点、5月の開通、開業を目指している。
公共交通機関がかなり打撃を受け、取材後に緊急事態宣言が発出されたが、東武によると、外出自粛要請に伴う
鉄道の計画運休の予定はないという。全世界が一刻も早く、“日常生活”が戻ることを祈念する。
【取材協力:東武鉄道】
<取材・文・撮影/岸田法眼> 京成電鉄「スカイライナー」青砥駅停車を歓迎する
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200421-00000002-mynavin-ent
4/21(火)12:11配信
京成電鉄は4月11日から、「スカイライナー」のうち下り6本・上り6本を青砥駅に停車させている。
青砥駅は京成本線と押上線が接続し、押上線は都営浅草線・京急線と相互直通運転を実施している。
「当面の間」と但し書きが付いているものの、京成押上線・都営浅草線・京急線沿線の人々にとって、
青砥駅から「スカイライナー」に乗り継げるとは朗報だろう。
ご存じの通り、京成電鉄、北総鉄道、芝山鉄道、東京都交通局(都営地下鉄)、京急電鉄の5社局は相互直通運転
を実施している。都営浅草線・京急線から成田空港方面については、従来も速達列車が設定されていた。
京急線のエアポート快特が都営浅草線内も通過運転を行い、押上駅からアクセス特急となって成田スカイアクセス線
を経由し、成田空港駅に至る。
エアポート快特の他にも羽田空港と成田空港を結ぶ列車が設定されているし、横浜・三浦半島方面からも
アクセス特急として成田空港駅まで運転される列車がある。アクセス特急の青砥〜成田空港間の所要時間
は50分前後だ。これに対し、「スカイライナー」の青砥〜成田空港間は30分前後。その差は大きい。
所要時間だけでなく、「スカイライナー」は必ず着席できるし、車内は快適で、荷物置場もある。
海外旅行者は荷物が多く、通勤車両で他の客と混在すると肩身の狭い思いをする。「スカイライナー」は
海外旅行に特化した車内設備だから、青砥駅で「スカイライナー」に乗り継げばほっとひと息つけるはず。
利点を総じて、特急料金1,000円(青砥〜空港第2ビル・成田空港間)の価値はある。
青砥駅に停車する座席指定列車としては、「スカイライナー」の他に「モーニングライナー」「イブニングライナー」
がある。こちらはおもに通勤客向けの列車で、特急料金が420円と安い。ただし、京成本線経由なので所要時間が長い。
朝の上り便、夜の下り便があり、青砥駅停車の「スカイライナー」とは逆の方向へ運転されている。
つまり、「モーニングライナー」「イブニングライナー」と「スカイライナー」の組み合わせによって、
青砥駅と成田空港を結ぶ座席指定列車の運行時間帯が増えたともいえる。 ■京急沿線民として「スカイライナー」を熱望していた
古い話で恐縮だが、筆者が京急線沿線に住んでいた頃、成田空港から海外へ行くため、成田空港行の
快特に乗車した。この列車は京成線内でエアポート特急となった。羽田空港〜成田空港間の列車が設定
された直後で、これに乗ってみたいと思った。それが裏目に出て、飛行機に乗り遅れそうになった。
これはもちろん筆者が悪い。事前に列車の時刻を調べなかった上に、ぎりぎりの出発だった。
当時は成田スカイアクセス線が開通していなかった。「スカイライナー」と比べると、エアポート特急は遅い。
航空会社に連絡した際、JR線の特急「成田エクスプレス」かと聞かれ、「京成の特急だ」と言って絶句された。
「京成なのにスカイライナーに乗っていないのか」と言われたような気がした。
どうして筆者は「スカイライナー」に乗らなかったか。京急線沿線なら、品川駅乗換えで「成田エクスプレス」
を利用するか、品川駅でJR線、上野駅または日暮里駅で「スカイライナー」に乗り換えるルートが常識といえた。
しかし京急線と京成線は線路がつながり、直通列車もある。「なぜ他社線に乗り換えねばならぬか」との思いもあった。
それ以来、「青砥駅でスカイライナーに乗れ換えられたらいいのに」と思っていた。
京急線沿線に住み、「成田空港へスカイライナーで行きたい」という人も多いと思う。従来は品川駅からJR線に乗り、
上野駅または日暮里駅で「スカイライナー」に乗り換えていたが、青砥駅乗換えという選択肢が増えることで、同一ホーム
での乗換え1回で乗車できるようになる。これは本当にありがたい。乗換えのためにコンコースや連絡通路を歩き、
階段等を上り下りする必要がなくなる点も含め、検討に値する。
■特急列車の停車駅増加は「諸刃の剣」だが…
「スカイライナー」の青砥駅停車については、新型コロナウイルス感染症との関連を憶測する向きもある。
海外渡航自粛、航空便の運休によって「スカイライナー」の利用者が減っている。成田空港はついに滑走路2本のうち
1本の運用を停止した。ただし、海外旅行客は減っているものの、成田空港へ通勤する航空関係者、空港関係者がいる。
彼らのために密度の低い輸送手段を提供するという京成電鉄の使命感がうかがえる。 その一方で、「スカイライナー」の停車駅を見直す意向もあった。京成電鉄が2019年5月14日に公開した
「京成グループ中期経営計画E4プラン(2019-2021年度)」では、「スカイライナー車両1編成の増備、20分間隔運転の実現」
を達成した上で、「成田空港利用者の増加を見据えた、輸送力増強の必要性」として、「成田スカイアクセス線の線路容量
の拡大、駅の改良によるボトルネックの解消」「成田空港利用者の増加に対応すべく、スカイライナー車両・停車駅等の
あり方を検討」と明記されている。
「スカイライナー」のような列車の停車駅増加は、鉄道事業者にとって慎重な案件になる。速達型の特急列車において、
基本的なサービスは「所要時間の短縮」である。特別料金を設定する場合、ここに「快適な乗車サービス」も加わる。
特急列車の停車駅を増やすと、それだけ所要時間がかかり、基本的なサービスを削ることになる。
それでも所要時間を増やす理由は、「集客が増える」からだろう。
停車駅をひとつ増やせば、その駅で乗降りする人にとって便利になる。だからといって停車駅を増やしていくと所要時間が延び、
早く目的地に行きたい人にとってサービス低下になる。他の交通手段を選ぶか、格下の特別料金なしの列車に移ってしまう。
停車駅増加は「諸刃の剣」といえる。
「スカイライナー」は当初、京成上野駅から成田空港(現・東成田)駅までノンストップで結んだ。
1991(平成3)年、成田空港地下への乗入れをきっかけに日暮里駅にも停車。JR線との乗換えを便利にすることで集客を増やした。
しかし、2003年に京成成田駅、2006年に京成船橋駅で一部列車が停車するようになる。空港特急として、ライバルである
「成田エクスプレス」や空港直行バスに苦戦した様子がうかがえる。
2010年、京成電鉄は成田スカイアクセス線の開業を機に新型車両を投入し、「スカイライナー」を空港特化型の列車に戻した。
その結果は順調だった。成田国際空港の調査によると、空港利用者の交通手段のシェアについて、「スカイライナー」は2014年に9%、
2016年に14%へと躍進。2018年は13%と1ポイント減だったものの、LCCの増便によって成田空港の利用者は増えていた。
その勢いに乗るためにも、「スカイライナー」の青砥駅停車は必要だったと考えられる。 停車駅が増えると所要時間も増える。「スカイライナー」も例外ではなく、上り列車が1〜2分の増加となっている。
もっとも、飛行機を降りた後の帰路だし、ホテルのチェックイン時刻を変更するくらいだから問題ないだろう。
平日の下り列車は所要時間が変わらない。朝のラッシュ時間帯も都心とは逆方向に運転されるため、ダイヤに
ゆとりがあったのかもしれない。京成上野駅・日暮里駅から乗る人々にとっては所要時間に変わりなし。この采配は見事だ。
ただし、土休日の下り「スカイライナー5号」だけは空港第2ビル駅の到着が9分遅くなり、成田空港駅の到着が8分
遅くなっているから要注意だ。
青砥駅から「スカイライナー」に乗り換える人が増えたら、他の「スカイライナー」も青砥駅に停車するかもしれない。いや、
ひょっとしたら地下鉄乗入れ対応の専用車両がつくられ、羽田空港・横浜方面から成田空港駅へ直行する「スカイライナー」
が誕生するかも……、と妄想した。京急線内発着だから、列車名は「スカイライナー」ではなく、「成田空港ウイング」でどうだろうか。
杉山淳一 東京メトロ丸ノ内線 なぜ「コ」の字型? 見方を変えると放射状 都心を目指した2路線
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200422-00095674-norimono-l13
4/22(水) 6:00配信
■時代が下るにつれ、山手線の範囲を越え広がった東京の街
東京の地下鉄13路線のうち、副都心線を除く12路線が千代田区、中央区、港区の都心3区を通っており、
そのうち大江戸線と丸ノ内線を除く10路線が、都心を東西または南北に貫くように走っています。
比較的新しい副都心線と大江戸線を除いたとき、なぜ丸ノ内線はほかの路線とは異なり、コの字を
描くように走っているのでしょうか。
地下鉄は、おもに人々が郊外から都心へ移動するための手段として計画された交通機関です。
東京で地下鉄建設が始まるのは昭和戦前期のことですが、地下鉄建設に向けた議論は大正時代から始まっています。
明治期までの東京は、現在と比較したら非常に小さな都市でした。住宅地は、西は山手線の内側から、
東はいまの墨田区、江東区のあたりまでしか広がっておらず、交通の主役は路面電車でした。
ところが大正時代に入ると商工業が発展し、東京の街は山手線を越えて、徐々に郊外に広がっていきます。
すると路面電車では輸送力、移動時間ともに不足するようになり、欧米の都市のように地下鉄を建設しよう
という機運が盛り上がりました。
1917(大正6)年に設置された「東京市内外交通調査会」は、東京の交通問題を科学的に調査し、初めて
東京の地下鉄網の整備方針を示します。
■「直通」に似た「スルールート」の考え方 地下鉄も例外ではなかった
東京市内外交通調査会における報告書では、地下鉄網に求められる条件を次のように掲げました。
・地下鉄は郊外から中心地に集中する必要がある。
・地下鉄はできるだけ市の中心地を貫通する「スルールート」を構成する必要がある。
・地下鉄は各路線間の連絡はもちろん、国鉄、私鉄、路面電車との接続が重要である。
「スルールート」とは、郊外からやってきた列車が都心で折返し運転をするのではなく、都心を東西または
南北に貫くように運行される路線という意味です。 JRの事例になりますが、以前は上野駅や東京駅で折返し運転していた東海道線や宇都宮線、高崎線、常磐線が、
上野東京ラインの開業により、各路線が直通運転を開始した事例を思い浮かべるとよいでしょう。これにより、
都心で乗り換えをする必要がなくなるばかりか、車両や乗務員の運用が効率化されるメリットも生まれました。
この「スルールート」という考え方は、2020年現在の地下鉄計画にも受け継がれています。例えば日比谷線は
北千住駅(足立区)から都心方面に向かう路線と、中目黒(目黒区)から都心方面に向かう路線がつながって
できています。都営浅草線は押上駅(墨田区)から都心方面に向かう路線と、品川駅(港区)から都心方面に
向かう路線がつながって1本の路線になっています。つまり、各地下鉄路線は都心から郊外に延びるふたつの
放射状の路線が都心でつながることで、ひとつの
■私鉄のターミナル駅から都心を目指した2路線 その地とは
丸ノ内線の路線図は池袋駅から東京駅を経由して新宿駅に向かう路線として見ると、不思議なコの字型をしていますが、
東京駅を起点に考えてみると、東京駅から池袋駅へ、および東京駅から新宿駅へと、放射状に延びるふたつの路線が
つながった形をしていることが分かります。つまり丸ノ内線も、「放射状の路線を都心で繋げてスルールートを構成する」
という原則から外れた路線ではありません。
では、なぜ池袋、新宿と東京駅を結ぶことにしたのでしょうか。
丸ノ内線は、銀座線に次いで、東京で2番目に古い地下鉄路線です。銀座線は浅草駅を起点に、上野から日本橋、銀座、
新橋まで中央通りの地下を抜け、虎ノ門や青山を経て渋谷まで走ります。銀座線の開通により、東京駅の東側にある、
日本橋を中心とする江戸以来の東京の中心地と、私鉄のターミナルである渋谷が結ばれました。
続いて東京に必要とされた地下鉄は、東京駅の西側、丸の内を中心とする新たな業務地域を通る路線、そして渋谷に
並ぶ私鉄のターミナル駅である、新宿、池袋と都心を結ぶ路線でした。
そこで、池袋と丸の内を結ぶ路線と、新宿と丸の内を結ぶ路線が構想され、そのふたつを接続することで誕生したのが
丸ノ内線でした。「丸ノ内線」という路線名には、実はそのことが深く刻み込まれているのです。 甘利明氏「消費税を何で下げないの? よく頂く質問です」ツイッターで回答
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200423-00010017-encount-soci
4/23(木) 15:16配信
■自民若手議員が減税を求めたが…
自民党の甘利明税調会長が22日、ツイッターを更新。
コロナ不況にもかかわらず、消費税を減税できない理由を説明した。
政府は新型コロナウイルスによる経済への影響を抑えるために、
一律10万円給付を含めた117兆円もの緊急経済対策を打ち出した。
一方、野党のみならず、自民党の若手議員からも消費税を一時的に減税すべき
との意見も上がっていたが、甘利氏はこれを却下した。
甘利氏は「消費税を何で下げないの? よく頂く質問です」
と前置きした上で、減税できない理由を次のように述べた。
「健康保険や年金や介護保険まで完備している日本のような国って実は世界で
数カ国しかないんです。将来に渡って制度が続く為には専用の財源が必要です。
だから社会保障にしか使えない消費税を導入したんです」
消費税1%あたり2.8兆円の計算で、もし5%下げると年間で14兆円、税収が減ると主張。
一時的とはいえ、消費税率を下げた場合、過去の例から元に戻すには時間がかかることを強調し、
「(戻すまで)20年かかったら280兆円穴が空きます。それらは全て子供達の世代の負担となります。
未来の世代に対する責任も踏まえて決断していくのが政治です」
と、日本の未来を考慮しての判断だったとを明かした。
ENCOUNT編集部 「偏見に囚われた人」ほど他人を攻撃したがる訳
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200421-00343634-toyo-bus_all
4/21(火) 15:50配信
偏見を持った人ほど、他人に攻撃的になるのはなぜか? 明治大学教授の堀田秀吾氏が解説。
『「勘違い」を科学的に使えば武器になる』から一部抜粋・再構成してお届けします。
人と話していて、とくにやっかいなのは、ある物事について、極端な思い込みを抱いているときです。
凝り固まった悪い思い込みのある人は、多くの場合、ステレオタイプか偏見のどちらかにとらわれています。
この2つは似たようなものですが、ステレオタイプはマイナスのイメージとは限りません。
たとえば「イタリア人男性は女性にやさしい」といったものです。
一方、偏見は必ずマイナスのイメージを含みます。「日本人男性は女性の扱いがひどい」といったものです。
■「ステレオタイプ」はある意味で健全
まず、ステレオタイプから見ていきましょう。ステレオタイプや偏見にとらわれている人は、
確証バイアスで、自分の見たい情報だけを見ています。
ただ、ステレオタイプ化は、物事を効率的に認識理解するための「単純化」という、ある意味、健全な営みです。
とくに否定的な感情を伴わないために、矯正もしやすいと言われています。
そのため、反証となる情報を伝えて、その情報を納得してもらうことが対策になるでしょう。
信頼できる情報源から得た研究結果や統計資料を見せるなど、できるだけ客観的な証拠や論拠を持って説明することが有効です。
たとえば「池袋で遊んでいるのはみんな埼玉県民」と言う人がいたら、池袋好きな東京都民や神奈川県民の統計的な分布を伝えるわけです。
一方、偏見は、否定的な感情や思い入れ、プライドやイデオロギーなどを伴うものであるだけにやっかいです。
ある対象を「大嫌い」と思っている人に「その考えは間違っている」と言っても、感情的な部分から反発が生じやすく、
効果が出ない可能性が高いでしょう。これを説得するには、否定するよりも、相手のマイナスを塗りつぶせるような、
プラスの新しい情報を伝えることがおススメです。 そこでご紹介したいのが「無効化」という方法です。これは、北海道大学の尾ア一郎氏らの研究です。
偏見を含んだ発言というのは、往々にして対象を攻撃するという意図があります。
たとえば、SNSやネットの掲示板で、隣国の悪口を書く人たちがいます。発言者は、その発言によって、隣国の人たち
を侮辱したり、傷つけたりしたいのです。そういう意図がないなら、わざわざ公の場に書き込まず、自分の日記にでも
書いておけばいいわけですから。無効化という方略は、その攻撃力を削ぐ方法です。
■キング・カズの言葉に張本勲も絶賛!
以前、サッカーのキング・カズこと三浦知良さんが、現役を続けていることに対し、元プロ野球選手で野球評論家
の張本勲さんから、某テレビ番組で「若い選手に席を譲らないと。団体競技だから、伸び盛りの若い選手が出られない。
だから、もうお辞めなさい」などと言われたことがありました。
スポーツ選手の年齢に関する偏見が、もとになった発言です。この発言を受けて、ネットもメディアも炎上しました。
しかし、キング・カズは、やはり役者が違います。次のように返したのです。
張本さんほどの方に言われるなんて光栄です。
「『もっと活躍しろ』って言われているんだなと。『これなら引退しなくていいって俺に言わせてみろ』ってことだと思う」
張本氏の「侮辱」のことばを「激励」ととらえたのです。これには、世間も当の張本さんも絶賛。
アスリートの先輩に対して顔を立てつつ、攻撃の無効化に成功しました。「反動蹴速迅砲(はんどうしゅうそくじんほう)」
というのは、サッカーマンガ『キャプテン翼』の中で、ある登場人物が使う、相手のシュートをそのまま蹴り返すカウンターシュートのことです。
キング・カズの切り返しは、相手の攻撃を見事に返して点を取ったということで、まるで反動蹴速迅砲のようでした。
こういった無効化は、必ずしもすぐに効果が出るとは限りませんし、空振りに終わることもあるでしょう。
でも、そこであきらめてしまっては何も変わりません。
不毛に見えても、少しずつ上書きしていくことで、いつか認識が変わるときが来るかもしれない──。
そう信じて、意識的に偏見に立ち向かい、矯正しようとする姿勢も大切です。 ■「無意識のうち」に人は偏見にとらわれる
もう1つ、偏見で気をつけたいのは、無意識のうちに自分が偏見にとらわれている可能性です。「自分は差別をしない」
と思っている人でさえ、無意識のうちに差別をしてしまうもので、これは「潜在的バイアス」と言われる現象です。
ワシントン大学のグリーンウォルドと、カリフォルニア大学バークレー校のクリーガーによる調査では、ふだんは
人種差別反対主義を訴えている人が42%いたのですが、黒人を見ると無意識のうちに「罪を犯す可能性が高い人々」
と反応するという実験では、中立的な人は半分以下の18%だったのです。
完全に中立的な見方や客観視は不可能と認識した上で、行動することが重要なのです。これを意識するとしないとでは、
結果は大違いです。完全に中立、あるいは客観的な見方は無理でも、できる限り意識して、そこを目指しましょう。
客観的な情報も、他者の主観や主観の集合にすぎないかもしれません。ゆえに、それぞれに考えが違うこと、
自分を含めていかに主観があやふやで、頼りないものであるのかを理解することが大事です。
さらに、潜在的バイアスという見えないワナがあることを肝に銘じられれば、どれだけ自信があることでも、
冷静に、柔軟に物事をとらえられるでしょう。
堀田 秀吾 :明治大学教授 【プレーバック歓喜の瞬間】手繰り寄せた涙の逆転劇。17年の川崎初優勝の舞台裏
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200426-00072321-sdigestw-socc
4/26(日) 21:34配信
■2位で迎えた最終節は…
記者席で一瞬、戸惑った。すべての条件が綺麗に揃い、「あれ、これで優勝なんだよな?」と。
2017年のJ1の最終節。川崎は苦しい立場にあった。首位の鹿島とは勝点2差の2位。
ホームで迎えた大宮との一戦は勝利が絶対条件で、磐田と対戦した鹿島が引き分け以下に終わらなければいけない。
シルバーコレクターと揶揄され、何度もあと一歩のところで涙を飲んできた川崎にとっては、
悲願成就へまたも高い壁が待ち受けているように感じられたのだ。
約1か月前のルヴァンカップ決勝でも辛い現実に打ちのめされていた。
下馬評では川崎有利と臨んだ運命の一戦で、まさかのミスもあり、C大阪の堅守速攻のゲームプランにはまって
0-2で敗戦。ナビスコカップ時代を含めて“4度目の正直”として臨んだ決勝戦で、またも頂点には届かなかったのだ。
「なぜ勝てないのか」
打ちひしがれた川崎陣営の表情は今でも忘れられない。
試合終了直後は「今はちょっと先のことを考えられない」と口にする選手が大半だった。
小林悠は「すごく悔しかった。キャプテンだけど人に気を配る余裕はなかった」と振り返り、
最終ラインのリーダー谷口彰悟も「ルヴァンでひと区切りっぽい雰囲気が出てしまった」と語る。
この時点でリーグは残り3戦。メンタルの切り替えは容易ではなかった。それでもチームは再び前を向いて走り出す。
守護神・東口順昭のビッグセーブに何度も決定機を防がれた32節のG大阪戦は、82分のエウシーニョの値千金弾で制すと、
33節の浦和戦は小林の妻に捧げる“バースデー弾”で首の皮一枚をつなぐ。やや足が鈍って来た鹿島の背中を追走したのだ。
そして迎えた冒頭の大宮戦。
詰めかけた観衆は、シーズン最多の2万5904人。試合前には小林がリーグ200試合出場の表彰として家族と記念撮影し、
その光景に笑顔を見せるイレブンの姿があった。大舞台でプレッシャーに押しつぶされてきたこれまでの姿とは違う
――なにか特別な予感をよぎらす一連のシーンでもあった。 ちなみに小林も「実は試合前はちょっと緊張していたんです。でも上の息子が花束を渡してくれる時になぜか泣いていて。
その姿がなんだか面白くてリラックスできました。そういう意味では息子に助けてもらいました」と述懐する。
■涙のフィナーレを迎える
試合はわずか46秒で阿部浩之が先制弾を奪う最高の立ち上がり。
その後はややペースダウンしたが、前半アディショナルタイムに小林が加点すると、後半もペースを握る。
小林は81分までにプロ初のハットトリックを記録し、得点王レースでもトップに立つ。
「(ハットトリックの後、チームメイトが)異様にはしゃいでいたので、自分は(鹿島戦で)磐田が点を取ったのか
と勘違いしてしまいました。そしたら『(得点ランキングでトップだった杉本)健勇が点を取ってないからお前、
単独トップだぞ』と言われて、そっちかよと(笑)。正直、得点王よりもチームタイトルが重要だったので、
鹿島戦のスコアのほうが気になりました」
実を言うと、川崎は鹿島と磐田の情報を遮断して試合に臨む予定だった。
実際に鬼木達監督は試合終了までその結果を知らなかったという。
しかし、川崎のベンチメンバーの間では「鹿島と磐田の試合は0-0で進んでいる」という吉報が回っていた。
どうしても気になったという小林もベンチの仲間からジェスチャーで鹿島のスコアを聞き、「このままいってくれ」と強く願っていた。
80分をすぎてスコアは4-0。川崎がほぼ勝利を手中に収めた状況下で、多くの人の意識は鹿島の動向に傾いていた。
「逆転優勝を果たせるのはないか」スタンドからも徐々にどよめきが起き始めていた。
試合終盤に表示されたアディショナルタイムは5分。同時刻にキックオフされた磐田×鹿島のスコアはまだ動かない。
そして90+6分、数分前に途中出場していた長谷川竜也がGKとの1対1を制してトドメの5点目を決め、
試合終了のホイッスルが鳴り響いた。
ベンチからは控え選手が一斉にピッチへ駆け込む。
一瞬、長谷川のゴールを祝っているのか、逆転優勝に狂喜乱舞しているのか分からない。
だが、パソコンで随時チェックしていた磐田と鹿島の一戦は0-0のスコアから動かないまま。
そして観客席からは悲鳴のような声とともに「やったぞ!」という雄叫びが響く。 ピッチでは中村がその場で泣き崩れ、多くの選手の目には涙が溢れる。電光掲示板には「磐田0-0鹿島」の文字が浮かび上がる。
悲願のJ1でのタイトルを目指し続けたクラブにとって、創設21年目でついに歴史が動いた瞬間だった。
「ルヴァンカップでも準優勝に終わり、どこかで『勝てないのは自分が原因ではないのか』と考えている部分もあった。
(優勝後は)今までの出来事が走馬灯のように流れていました」と語る中村は人目をはばからず号泣し、小林は
「最初は自分ひとりでぶわーっと泣いて、はっと憲剛さんはどこだろうと我に返って探したら、憲剛さんも顔を
くしゃくしゃにしていて。その姿を見たら余計に泣けてきて」と、ふたりは抱き合って喜びの涙を流し合った。
■優勝シャーレが等々力に
試合後の優勝セレモニーでは、首位の鹿島のゲームで用意されていた優勝シャーレが間に合わず、「CHAMPIONS」
とデザインされたボードや自前の特性の桶を選手たちは掲げた。
それでも試合後の特別インタビューの際、小林の下にシャーレが到着。「来ました!」と呼びかけるクラブ広報に、
満面の笑みで応じる小林。筆者とカメラマンはキャプテンが初めてシャーレを手にする瞬間に立ち会う幸運にも恵まれた。
前述したようにルヴァンカップは決勝で敗れ、ACLでは準々決勝で浦和にまさかの大逆転負けを喫した。
それでもリーグ戦は20節のFC東京戦から無敗(11勝4分)、得点数(71得点)はリーグトップで、失点数(32失点)
はリーグで3番目の少なさという上々の数字だ。1敗のみとホームでの無類の強さも光った。
中村は18年シーズンの開幕前に17年のチームを「15年間所属してきたなかで去年のチームが一番、強いと感じた。
上手いだけでなくて、隙を見せないとか、負け試合を引き分けに持って行くとか、勝負強さがあった」と評している。
風間八宏監督の下で技術力を極めたチームは、この年に就任した鬼木達監督の下で、守備力を強化。
泥臭く、球際の勝負でも負けないチームへと成長した。中村の言葉にもあるように、傍から見ていてもリーグ戦では
“負ける気がしない”強さがあった。この後、黄金期へと入るチームは、17年に記憶に残る歓喜の瞬間を迎えたのだった。
取材・文●本田健介(サッカーダイジェスト編集部) なぜ川崎フロンターレは「物産展」を開いたのか―クラブからの恩返し
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200425-00072104-gendaibiz-socc
4/25(土) 12:01配信
■スポーツ紙に「気になる見出し」
サッカークラブの“恩返し”――。
あるスポーツ紙のサイトに、こんな記事が掲載されていた。
「川崎フロンターレ 公式ホームページで“物産展”」
クラブとつながりの深い地域を対象に、新型コロナウイルスの感染拡大の影響に伴い、減少している物産品の
売り上げに対して少しでも貢献できればという思いから、クラブのサイトで紹介を始めたというのが大まかな内容である。
どんな取り組みなのか詳しく知りたいと思い、公式サイトを覗いた。
対象地域は東日本大震災復興支援活動を続け、スマイルシップ協定を結ぶ岩手・陸前高田市、キャンプ地の
北海道・七飯町、宮崎・綾町、熊本地震の被災地で試合イベントにおける物産展の開催でも交流を持ってきた
熊本・合志市(谷口彰悟ら所属3選手が熊本県出身)の4地域。4月13日から陸前高田の牡蠣や米、七飯のしいたけ、
合志の野菜など物産品を扱う店舗を紹介している。
「この難局をみんなで乗り越えよう!」のタイトルのもと「グッズ編」「物産品編」に続いて翌週には
「スポンサー編」がアップされた。「政府から発表されている外出自粛要請に則した商品に限定」して掲載している。
ここに至った経緯や思いを、企画に携わったサッカー事業部営業部長の井川宜之さんに電話インタビューで聞くことにした。
■選手たちが積極的に協力
――なぜ物産品を紹介しよう、と。
「毎年2回はホーム試合の場外イベント広場で陸前高田の物産展『陸前高田ランド』を開催していました。
今年は4月下旬に予定していたんです。蒸し牡蠣など三陸の食材は非常に人気があって毎回盛況でした。
それが新型コロナウイルスの影響で試合もできないので、どうしようかなと。そう思っていたときでした。 フロンターレは日頃からサポーターと密に連絡を取り合い、様々な意見を反映しているのですが、
札幌商工会議所が経済対策として道内食品関連企業の在庫商品をサイトで紹介しているという話を聞きました。
『これを参考にしてみてはどうか? 』とアドバイスをいただき、確かにそうだなと思いました」
――北海道で2月28日に緊急事態宣言が出された時期。札幌商工会議所の取り組みが参考になったわけですね。
「そうです。陸前高田の担当の方に連絡を入れたら、やっぱり全国各地でやってきた物産展をやれないので非常に
困っている、と。キャンプでお世話になっている北海道・七飯町の役場も同様で、物産品のことで悩んでいました。
フロンターレのサイトで紹介させていただくことくらいしかできないですけど、微力ながらも少しでも手助けになれば
という思いでやってみようと動き始めたんです」
――ただ単に紹介するだけじゃなく、選手が商品を持っている写真を掲載しています。
「掲載を予定しているお店に直接連絡して、先に商品を一つ送ってもらったんです。選手にも協力してもらって、
写真と一緒に載せることでちょっとでもPRになれば、という思いでした。選手も積極的に協力してくれたので助かりました」
■サポーターとのつながり
――販売するのではなく、メッセージだけ掲載するお店もありましたよね。
サポーターへの感謝と、陸前高田ランド開催の折には「よろしくお願いいたします」と。
「サポーターが毎年のイベントを楽しみにしているし、陸前高田のほうもフロンターレのサポーターに
会えないことが何より残念だと言ってくれます。
お互いのつながりが強くなってきて、SNSで購入の報告をしてこの活動を広めようとしてくれるサポーターもいます。
七飯町では地元メディアが今回の取り組みのことを取り上げてくれました。少しでも知ってくれる人が増えて、
広がりを見せてくれたら有難いなって思います」
――物産品編の次はスポンサー編が始まりました。スポンサーからも売り上げが減っているなどという声があったのでしょうか。
「私たちも情報収集をしていくなかで、そういう声も当然入ってきます。物産品編の次はスポンサー編でというのは考えていました。 支援していただいているスポンサーが困っているときに、何かできないことはないか。
サイトに紹介することで貢献できるか分からないですけど、少しでもいいから力になればいいなとは思います。
実際スポンサーさんから『掲載してもらって有難い』という声もいただいております」
――次に準備しているのが川崎の商店街の紹介だとうかがいました。フロンターレは地元商店街との結びつきが強いことでも知られています。
「今ちょうど掲載準備のためにいろいろとリサーチしているという状況です。
特に飲食店からは『大変厳しい』という声を多く聞いています」
■サッカーができなくとも
――年会費をもらってクラブ応援店舗となる「サポートショップ」は現在、約700店舗もあると聞いています。
「フロンターレは大口のスポンサーのみならず、こういった多くのサポートショップのみなさんにも支えられています。
飲食関係の店舗はザッと200くらい。今、お店に人を集めることはできないと思うので、宅配やテイクアウトはやって
いるのかどうかとか、そういった紹介ができればいいと思っています。行政の方針にも照らし合わせなければならないので、
確認作業を済ませてから早急にアップしたいと考えています。
みなさんに支えられて今のフロンターレがあります。感謝の気持ちを強く持って、恩返しをしたい。
そのためにはサポーターをはじめ、いろんな人たちの力を借りなければなりません。
タイトルの『この難局をみんなで乗り越えよう! 』には、そんな思いもこめられています」
フロンターレの中核を担う中村憲剛は自身のブログのなかで、フロンターレの取り組みを紹介するとともに、
あるスポンサーにも言及している。彼はこう綴っている。
「日頃より私たちがサッカーに集中できるようにクラブを応援してくださっているスポンサーのみなさんを
今度は私たちが応援できればと考えています」
無論、地域や商店街に対しても彼の思いは同じである。
サッカーはできなくとも、クラブにとって希望を生み出す意義ある支援活動だと捉えたい。
一緒になって一体となって、この難局を乗り切る。応援してもらう立場から、今度は自分たちが応援する立場へ。
そうやって両者の結びつきは一層強まっていくに違いない。 品川ー仙台4時間半、長距離特急「ひたち」の実情
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200424-00345537-toyo-bus_all
4/24(金) 15:01配信
鉄道ジャーナル社の協力を得て、『鉄道ジャーナル』2020年6月号「常磐線全線運転再開」を再構成した記事を掲載します。
東日本大震災から9年を経過した中、福島第一原発事故の影響で鉄道の再開ができずにいた最後の区間である。
運転再開に伴い、いわき以南で運転されていた特急「ひたち」は3往復が品川・上野―仙台間の運転となった。
初日は各地で記念イベントも予定されていたが、新型コロナウイルス感染症の影響で軒並み取りやめとなった。
それでも、仙台駅ではマスク姿の駅員らが横断幕を掲げて品川行き「ひたち14号」を送り出し、双葉駅で計画された
「ひたち3号」お迎え式が関係者少人数に絞って行われた。それでも赤羽一嘉国土交通大臣も出席、せめてもの
メニューとして行われた和太鼓演奏に試乗や見物に来た人々が遭遇し、横断幕を掲げるなど小さな賑わいを見せた。
■特急の車体に「つながる常磐線」の文字
その改正から2日後、初の平日となる16日月曜に仙台行き「ひたち3号」に乗車した。朝ラッシュ時の上野東京ライン
のダイヤの関係から、同列車は品川ではなく上野始発で8時に発車する。今やますます希少となっている上野駅地平
ホーム発の列車であり、懐かしい感覚で乗り場を目指すと、E657系10両編成の白い車体には、ドアの脇にことごとく
「つながる常磐線」のステッカーが貼付されていた。
発車後の自動放送の後、車掌が案内を引き継いだ。
「この列車は常磐線特急ひたち3号、仙台行きです。常磐線は3月14日のダイヤ改正より品川―仙台間の全線で運転
を再開しており、特急列車は上り下りとも3本ずつを運転しております。東日本大震災以来、お客さまには長い期間
ご迷惑をおかけしましたが、ご協力とご理解ありがとうございました。仙台方面へお出での際は、どうぞ常磐線を
ご利用ください」と、震災の以前から同線に乗務してきたという車掌の、湧き出る思いを込めた放送であった。 水戸を過ぎて日立まで順調に走ったが、そこで大津港駅で発生した信号トラブルにより抑止の憂き目に遭った。
47分が経過してようやく発車したが、行き違い変更や先行列車に頭を押さえられて影響が膨らんでいったことは、
当日のエピソードにしては少々残念であった。
ともかく、満席に近いビジネス客を水戸と勝田で半減させ、問題の大津港を通過して福島県へ。
いわきまでの間でさらに半分、実数は1両に10人内外となった状態で列車はいわき以北に踏み出した。
新幹線が東京―仙台間を1時間半で結ぶ現在、常磐線経由で同区間を行き来する必要性はないが、鉄道ファンだけ
でなくスーツにネクタイのビジネス客もそれなりに残る。
かつて茨城県内と宮城県とは塩釜や大船渡を目的地に漁業関係者が往来していたそうで、震災以前は「ひたち」
も6往復が仙台に乗り入れていた。今回の再開後は3往復に半減したのは状況的に仕方ないだろうが、復旧区間沿線
の自治体や復興事業に関わる役所関係者や事業者がさっそく利用しているようであった。
たしかに、下りの現地到着11時ごろ、上りの現地発17時台や19時台といった設定のあり方は、東京方面から出向く関係者
にとって好適な時間帯と見て取れる。逆に彼の地から東京へ出てくるには11時台が1本目であり、東京着は15時前となっている。
なお、震災前のJR東日本においては、上野―いわき間といわき以北の特急で系統を分け、それぞれの需要に見合った
編成両数の車両を投入する計画だったが、震災でご破算となった。結果、不通期間中に置き換えられた10両編成の
E657系が、首都圏と仙台を直通で結ぶことになった。
■海岸に白い堤防、Jヴィレッジ駅も常設化
四ツ倉から単線となり、速度も目立って落ちる。
やがて消波ブロックに波飛沫(しぶき)が上がるのを見る海岸線に出た。防波堤は全般的に新しく、コンクリートが白い。
広野―木戸間5.4kmは部分的な複線区間だが、その途中で、より間近に真っ白なコンクリートが飛び去ったのが、Jヴィレッジ駅。
日本サッカーのトレーニング施設として開設されたJヴィレッジの最寄りにある。震災・原発事故に伴いいったん閉鎖され
復興基地となっていたが、本来の施設に再生されたことから、2019年4月、臨時駅として開設、それが今改正で常設駅に昇格した。 再び単線区間に入ると新しい住宅が目立ち始め、固まった敷地に同じ姿格好の家々が並ぶ区画もある。復興住宅であろう。
以後、車窓を見るにも自然と身が引き締まる。墓地も、お寺や敷地は古そうだが墓石は多くが新しい。
2017年10月から今改正まで、仮の終点だった富岡に到着すると、海側は堤防内側の広大な更地である。
ダンプや重機が稼働しており、さらに地盤に盛る用土なのか土砂の小山も点在する。駅は新しい。スーツ姿の人が降りる。
そしてこれより今回の開通区間に入ると、夜ノ森あたりで風景が変わった。春間近な内陸の起伏をたどり、家屋も点在し
車も留め置かれているが、生活感がまるでない。よく見れば屋根瓦はまだらに落ち、軒は歪み窓が割れ、そうでなくても
窓の中の障子やカーテンは破れ、ビニールハウスは骨組みを残して草木の中に埋もれている。9年間、自由な立ち入りが
規制されてきた地域に入ったのだ。
今回の再開区間では、富岡、大熊(駅名は大野)、双葉、浪江の各町の駅に停車していく。それぞれわずかな人数がホームに
立ったが、土地で暮らす人の姿ではない。やはり特急停車は今後の街の再生に向け、関係者の往来を支えるための施策でもあるのだ。
車内で再開通区間の旅行を楽しむ様子だった人々から会話が消えた。ただ、大野―双葉間の車窓海側に大きな建物が建設中だった。
大熊町が被災地から発生する特定廃棄物の収集や分別、安全化を図って再資源化するリサイクルセンターと、後で聞いた。
今回再開した富岡―浪江間を含め、原発事故の影響を受けた区間は、ルートは以前のままだが、線路のバラストやまくらぎ、
架線柱などは刷新されているのが、その色からわかる。
■日常生活の光景に安堵して仙台へ
原ノ町は南相馬市の中心駅。野馬追唄の発車メロディを聞いて発車する。
駅周辺は新しい家々が建ち並ぶ。これより先はようやく田んぼにトラクターの稼働を見るなど、春の準備に勤しむ人の姿が戻ってきた。
相馬の到着を前にして、「ひたち」に向けて手を振る親子の姿が見えた。
子どもはまだ未就学の歳と思われ、家の近所で赤帯も鮮やかな10両編成の特急を見ることなど、初めての経験のはずだ。 ダイヤ乱れの影響も含めた運転停車は別にすると、相馬の次の停車駅は、こまめな停車から一転して仙台となる。
この区間では、新地の手前から浜吉田まで高架の新線を走る。
そこは震災で津波の被害を受け、内陸移転を選択した区間である。高架線に入ると海側は新たに造成されたと思しき、
整然とし、かつ“田んぼ”という日本的のどかさとは違った広大な圃場で、住戸は皆無に等しい。
土地は平らかに海岸方面へ広がり、堤防の役割を兼ねた新設道路が続いている。海岸沿いの低地と小高い
土地の境をたどり、真新しいトンネルも2つあるが、仙石線野蒜付近のように山上とも言える高い場所ではなかった。
坂元、山下と高架駅をたどる途中、行き違う普通電車は原ノ町から南の区間で見ていたE531系から、
仙台地区用のE721系と701系の混成となった。新地―坂元間で福島県から宮城県に入っており、行程も終盤である。
浜吉田の手前で既存の家並みの中に入っていったが、旧線との合流は新地側とも定かでなかった。
津波がすべてをさらった後、土地自体がすっかり様相を変えたため、旧線は他の廃線のようには姿を残していないのだ。
■東北本線の定期特急列車も復活
亘理、逢隈を過ぎて阿武隈川を渡る。左車窓に遠望される宮城蔵王にはわずかに雪が残っていた。
ほどなく東北本線と合流して岩沼をゆっくり通過。
東北本線を走る定期特急列車も、首都圏を除き「北斗星」廃止以来のこととなる。
先行する普通列車があったのか、複線に復した東北本線内は加速と徐行を繰り返しつつ、東北新幹線高架が
左に現れて南仙台を通過。市街地の高架に上がって太子堂、長町とゆるゆる走り、仙台は1番線に13時42分に到着した。
定刻は12時31分なので約70分遅れであったが、定時であっても4時間半。上野からの距離(営業キロ)は363.5kmで、
品川発着ならば373.9km。新幹線の開業が相次ぎ在来線特急の運転距離が短くなった現在、
九州の「にちりんシーガイア」や、北海道の「宗谷」に追随する長距離特急になった。
鉄道ジャーナル編集部 東京スタジアムの“光”が消えて……ロッテの“家なき”5年間/プロ野球20世紀・不屈の物語【1973〜77年】
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200428-00000007-baseballo-base
4/28(火) 11:05配信
歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。
ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。
■72年いっぱいで“家を追い出されて”
外出を自粛するのも疲れるものだが、そもそも家がないとなれば、より疲れるだろう。
ロッテが本拠地の千葉に定着していった過程は紹介した。
それまでは川崎球場に本拠地を置いていたことにも触れたが、それ以前、ロッテには
“家なき”時代があった。1973年から太平洋と“遺恨試合”を繰り広げたことは紹介
したばかりだが、その73年こそ、“流浪”の1年目だ。
ロッテは1950年の2リーグ分立でパ・リーグに参加した毎日オリオンズが起源で、
創設1年目にして優勝、日本一に。フランチャイズ制が導入されたのが52年だ。
ちなみに、この52年、まだナイター設備のなかった平和台球場で、毎日は日没ノーゲーム
を狙った遅延行為をはたらき、観客が暴徒と化した“平和台事件”が起きている。
58年には大映と合併して大毎オリオンズとなり、60年にもリーグ優勝を飾ったが、
1球団につき1本拠地球場を基本としながらも、このときはまだ巨人など複数の球団
と後楽園球場に“同居”している状態だった。
単独の本拠地を手に入れたのが62年シーズン途中だ。大映の永田雅一オーナーの夢
でもあった東京スタジアムが、東京は下町、南千住に完成する。下町の風情が現在
も残る町並みに突如として現れた東京球場の威容は、宇宙ステーションが着地した
ような風景となり、ナイターになると暗い下町にポッカリと球場が浮かび上がって、
“光の球場”とも呼ばれた。当時の球場は酔っ払いが転がり落ちるような急勾配の
客席ばかりだったが、スタジアムの内部も一部にはバリアフリーの機能もあったと
いうから、画期的、いや、近未来的でさえあったといえるだろう。 ■チームも62年から東京オリオンズに。
だが、映画産業の斜陽に伴い、69年からロッテが経営に協力して、チーム名もロッテとなった。
翌70年にロッテ初優勝、永田オーナーはグラウンドに乱入したファンに胴上げされて涙。
ただ、それは一時代の“終わりの始まり”だった。永田オーナーが大映の再建のために球団を
手放す苦渋の決断をしたのが、その翌71年。球場の赤字も当時の10億円を超える莫大なものだった。
ロッテは東京スタジアムの買い取りを求められたが、あまりの高値に断念。
72年いっぱいで“家を追い出される”形となって、東京スタジアムも閉鎖された。
そして73年。新たに金田正一監督が就任したロッテだったが、県営宮城球場を準フランチャイズ
としながら、川崎、後楽園、神宮と渡り歩くことに。パ・リーグでは前後期制も始まり、なにかと
新たな挑戦が多いシーズンだった。金田監督の連発した「やったるで!」は流行語にもなったが、
移動に次ぐ移動でロッテのナインは疲労困憊。それでも前後期ともに2位、シーズン通算3位と健闘した。
■流浪2年目の頂点
翌74年も本拠地は定まらないまま。だが、前期2位、後期は優勝という快進撃で、プレーオフでも
黄金時代の阪急に3連勝で4年ぶりリーグ優勝。その勢いのまま日本シリーズで中日を破って、
ロッテとしては初めての、球団としては創設1年目の50年に続く24年ぶりの日本一を決めた。
その後は優勝から遠ざかっていくが、なかなか本拠地が決まらない。事態が好転したのが77年だった。
老朽化して解体された横浜公園平和野球場の跡地に完成した横浜スタジアムへ“入居”を試みたが、
もともと横浜市が隣の川崎市にある川崎球場を本拠地としていた大洋を誘致していたこともあり、断念。
川崎市がロッテに有利な条件を提示したこともあり、大洋の移転で“空き家”となった川崎球場への
“入居”が成立した。 新たに川崎球場で迎えた78年シーズンは、流浪から解放されたこともあってか開幕から好発進。
だが、前期5位、後期は3位もシーズン通算4位と振るわず。80年代も序盤は2度の前期優勝もあったが、
その後は低迷を続ける。ロッテは91年いっぱいで川崎を去ることになるが、結局、川崎での優勝はなかった。
外出自粛の昨今、巣ごもり、つまり本拠地に定着していないほうが快調のようにも見えてしまいそうだが、
そういうわけでもないだろう。ただ、どんな逆境にも好機があることは間違いなさそうだ。
文=犬企画マンホール 写真=BBM 五輪&パラ開閉会式は合同で!森会長が経費削減案
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200428-24270517-nksports-spo
4/28(火) 8:30配信
<東京2020組織委員会・森喜朗会長直伝(4)>
東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(82)が
日刊スポーツのインタビューに応じ、新型コロナウイルスの感染拡大で来夏に延期した
東京五輪の開閉会式を、パラリンピックと合同で開催する案も、演出家メンバーの中で
浮上していることを明かした。
追加経費を大きく削減でき、世界的危機を乗り越えた特別な意味を表現することが狙いで、
実現すれば史上初となる。ウイルスが来夏までに終息しなければ22年への再延期はないとし、
その場合は「中止になる」と断言した。今回の「会長直伝」(不定期掲載)は2日にわたって掲載する。
【取材・構成=三須一紀】
近代五輪124年の歴史で初となる延期が決定した「3・24」から1カ月が経過した。新型コロナの
感染拡大が続き、組織委職員の9割以上がテレワークを行う中、大会会場の再確保など延期で生じた
業務を進めなければならない苦しい状況。森会長に延期による今後の課題について聞いた。
−ほぼ構想ができあがっていた開閉会式の計画変更はあるか
森会長 これまでの計画は「平和時」につくった祝祭がストーリー。今度は人類が新型コロナとの
壮絶な闘いに勝って迎える劇的な五輪であり、根本的に考えなおす必要がある。
−具体的にはどう変更するのか
森会長 野村萬斎さん率いる7人の演出家チームのあるメンバーが、五輪とパラリンピックでそれぞれ
開閉会式を行う「4部作」ではなく「2部作」にする案を考えている。つまり、五輪の開幕時に
五輪・パラの総合開会式をやり、パラの閉幕時に、総合閉会式をやるという案だ。相当な経費削減
になるし、世界的危機を乗り越えた大きなメッセージにもなる。だが簡単なことではない。
まず国際オリンピック委員会(IOC)と国際パラリンピック委員会(IPC)が賛成をするか。
既に販売した五輪閉会式・パラ開会式のチケットをどうするか。さらには放送権の問題と大変なハードルがある。
関係者全てが、2021年に延期をしたことが五輪史上初めてのことだという重大さに気付いてほしいものだ。 −他のアイデアは
森会長 ウイルスと大きな闘いをした後、これまで同様「大名行列」のようなことをやっていて良いのかという意見もある。
以前から長時間の入場行進が選手の負担になると問題視されてきた上、新型コロナが発生し密集、密接
を伴う大行進に再考の余地があるとの考えを示した。
−聖火リレーの変更は
森会長 ランナーが既に決まっているので基本的には変更する必要がない。
−大会後のマンションとして既に販売済みの物件もある選手村が大きな課題
森会長 (特定建築者の代表)三井不動産(レジデンシャル)は、困難ともいえる大変な問題だから
できるだけ協力すると、言ってくれている。一方でマンションに入居する予定の契約者もいらっしゃる。
私たちが直接係る問題ではない。
−追加経費が3000億円以上とも言われている
森会長 まだ全然分からない。初めから4000億円、5000億円と数字だけが独り歩きしたら、計画もそれに引っ張られてしまう。
まだ精査を慎重にやろうと先日、コーツ氏(IOC調整委員長)とのテレビ会議で合意している。
−追加経費について国庫負担は求めていくか
森会長 国は、これまで通り東京都が負担すべきだと言うと思う。都に潤沢な予算があると分かっているから。
新型コロナの休業補償でも都が国を先行した。ただ、安倍総理が延期でリーダーシップを発揮したので、
政府にもお願いはしたい。延期経費は既にある役割分担を踏まえつつ、今後しっかり関係者と協議だ。
−IOCも負担すべきではないか
森会長 我々もそう主張している。精査し、双方納得した上で決めるべきだ。
−マラソン会場の札幌移転のIOC負担金も、あいまいなままだ
森会長 IOCは負担すべきところは負担すると言っており、決まっている。 −来夏、新型コロナの終息が見込めなかった場合、22年への再延期はあるか
森会長 ない。その時は中止。過去にも戦争など、そういう問題が起きたら普通は中止になる。
今回は見えない敵と闘っている。それを何とか押さえ込み平和裏に来夏、五輪を開催しようと決めた。
これは人類の賭けだ。世界中がウイルスに勝利した後、五輪ができたら今までの五輪より何倍も価値のある大会となる。
そう思わないと苦労と努力が報われない。(つづく)
◆森喜朗(もり・よしろう)1937年(昭12)7月14日、石川県根上町(現能美市)生まれ。早大卒。
産経新聞社、議員秘書を経て69年衆院選で初当選。83年第2次中曽根内閣で文部相として初入閣した。
00〜01年に首相。衆院議員を14期務め、12年に国会議員から引退した。東京五輪招致委の評議会議長を務めた後、
14年1月、組織委会長に就任した。 都市部から地方私鉄に再就職 さまざまな譲渡車両たち
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200428-30000236-tetsucom-ind
4/28(火) 18:20配信
新型車両の導入によって置き換えられる車両たち。置き換える理由は、車体や機器の老朽化、設備の陳腐化、
車両規格の統一などさまざまですが、整備すればまだまだ使用できる車両も数多くあります。
そのような車両の中には、地方の私鉄に譲渡され、中古車両として第二の車両人生を始めるものがあります。
■中古車両のメリットとデメリット
中古の鉄道車両を導入する理由として大きなものは、車両価格です。
鉄道車両を新車で導入する場合、価格は1両あたり1億円前後となります。
一方、中古車両を導入する場合、価格は新車の半分近くまで下がります。
三重県と岐阜県を走る養老鉄道養老線の設備・車両を管理する養老線管理機構が、2018年に東急からの
中古車両15両を導入すると発表した際、事業費は6億1000万円と発表されました。これは車両の輸送や
改造も含む金額ですが、1両あたりでは約4000万円。新車の半分以下の価格です。
大規模投資が必要となる新型車両の投入は、経営状況が厳しい地方の鉄道事業者では困難。老朽化が進む車両の
置き換えとしては、新車よりも予算を減らすことができる中古車両は、地方鉄道の救世主とも言える存在です。
一方、中古の車両が購入できるかどうかは、そのタイミングに左右されます。クルマのように、常に中古車の在庫
を持つ取り扱い業者があるわけではないので、前使用者が車両を手放すタイミングでなければ購入できません。
かつて、静岡県の伊豆急行では、親会社の東京急行電鉄(当時)が保有する8000系を中古車両として導入し、
従来車両を置き換えることを想定していました。しかしながら、当時は8000系を廃車するタイミングではなかったため、
購入できる時期までのつなぎとして、JR東日本から113系・115系を導入。2000年から2008年まで200系として使用しました。
■18メートル?20メートル? 人気の秘訣は「長さ」
20メートル級車両が長編成を組んで走る都市部の路線と異なり、地方の私鉄路線では設備も一回り小さいことがあり、
車両も18メートル級までしか入線できない場合があります。 そのような路線で大きな車体の中古車両を導入すると、車体と電柱などの設備が接触してしまう危険性が。
また、わずかながら編成長が長くなるため、駅ホームや車庫の長さが足りなくなる恐れもあります。
もちろん設備を改良すれば対応は可能ですが、それでは投資額が膨らんでしまいます。
そのため、地方の私鉄が求める中古車両は、18メートル級の比較的小型な車両が人気が高くなっています。
東急電鉄は、運営するほとんどの路線が20メートル級対応ですが、池上線と東急多摩川線の2路線では、
18メートル級車両を運行しています。そのため、この2路線で活躍していた車両は、中古車両として大人気。
先の2線のほか、かつては東横線でも活躍していた1000系は、上田電鉄や福島交通など4社に譲渡。
先述の養老線管理機構へ譲渡された7700系は、車体は製造から約50年が経過していますが、腐食しないオールステンレス
車体であることに加え、床下機器は製造から約30年ということもあり、今後30年程度の活躍が見込まれています。
東急線で2000年まで活躍していた18メートル級の初代7000系は、秩父鉄道など5社へ譲渡されました。
このうち、弘南鉄道、北陸鉄道、水間鉄道へ譲渡された車両は、今でも現役で営業運転を続けています。
同じく2000年に営業運転を終了した7200系も、上田交通(当時)と豊橋鉄道、十和田観光電鉄へ譲渡。
現在は、豊橋鉄道、そして十和田観光電鉄からさらに譲受した大井川鐵道が、営業運転に使用しています。
京王井の頭線で2011年まで活躍した3000系は、同線最後の18メートル級車両。こちらは北陸鉄道、上毛電気鉄道、
岳南鉄道(当時)、松本電気鉄道(当時)、伊予鉄道へ譲渡され、現在も各社で活躍が続いています。
また、1996年に営業運転を終了し、京王線最後の18メートル級車両となった初代5000系も、譲渡車両として大人気でした。
伊予鉄道、富士急行、一畑鉄道(当時)、高松琴平電気鉄道、わたらせ渓谷鐵道へ譲渡され、現在は再譲渡先の
銚子電気鉄道、岳南電車を加えた計7社で使用されています。
近年では、東京メトロ日比谷線で活躍していた03系が人気。熊本電気鉄道が2019年に導入したほか、
長野電鉄でも3両編成2本を導入する予定。北陸鉄道でも、2両編成2本を導入する予定だと報道されています。 一方、JRや首都圏の私鉄が主流とする20メートル級車両は、かつては譲渡された例は多くありませんでした。
京王3000系と同時期に廃車が進められていた京王6000系は、20メートル級車両だったということもあってか、
車体の譲渡例は皆無。3000系の改造車である岳南鉄道8000形に運転台が使用されるという、部品単位での使用に
留まりました。2008年に引退した東急8000系も、7000系と同じオールステンレス製車体ながら、国内での譲渡例
は伊豆急行のみとなりました。
ただし、近年ではこの傾向に変化が見られます。2019年まで東急線で活躍していた、20メートル級の8090系・8590系は、
秩父鉄道と富山地方鉄道へ譲渡されています。同じく東急の20メートル級車両である8500系は、長野電鉄、秩父鉄道
などに譲渡例が。JRからも、京葉線などで活躍していた205系が富士急行に譲渡され、2012年に営業運転を開始しています。
これら20メートル級車両の譲受事業者は、20メートル級車両が直通してくる・していた路線で、駅や線路の設備には
問題がなかったため、導入が可能だったようです。
■改造された中古車両たち
譲渡された車両の多くは、譲渡先の路線の状況にあわせて改造されています。
路線の需要にあわせて、編成は2両編成などに組み換え。中間車に運転台を設置し、先頭車に改造することもあります。
譲渡元と譲渡先で線路の幅が異なる場合には、台車を交換します。床下機器を新品に交換することも。
制御装置をVVVFインバータ方式のものに交換し、省エネ性能を高める事業者もいくつか見られます。
このほか、無線設備や保安装置など、導入路線で必要となる装備を搭載していきます。
大胆な改造を伴った例もあります。富山地方鉄道の16010形の車体は、元は西武鉄道の5000系「レッドアロー」のものです。
しかし、西武鉄道は5000系を廃車する際、機器類は10000系「ニューレッドアロー」に流用する方針を立てていました。
そのため、富山地方鉄道では5000系の車体のみを譲受。制御装置や台車、モーターはJR九州の485系から、運転台の
マスコンやブレーキ弁は京急旧1000形から、といった形で、多数の廃車発生品を組み合わせた形となりました。 また、京王の初代5000系のうち、わたらせ渓谷鐵道へ譲渡された2両は、電車ではなく客車に改造。
側面を大きく切り開き、トロッコ用車両としました。
このわ99形は、現在もトロッコ列車「トロッコわたらせ渓谷号」に使用されています。 「使い捨て」ではなかった通勤電車、209系の系譜
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200429-30000235-tetsucom-ind
首都圏の通勤を支える通勤電車。特にJR東日本の通勤電車は、標準化された仕様で各線に投入され、
それぞれの輸送を担う主役です。最新型のE235系や、中央線などで活躍するE233系、常磐快速線のE231系
などなど。そして、これら通勤型車両の基礎となったのは、JR化後第1世代の車両として登場した、209系です。
■寿命半分、価格半分、重量半分
1987年の国鉄分割民営化により誕生したJR東日本。発足直後の課題の一つとして、首都圏で活躍する
通勤電車の置き換えがありました。
JR発足当時、首都圏の通勤電車で主力を担っていたのは、国鉄時代に設計された103系。中央線快速電車や
中央・総武緩行線では201系が導入されており、山手線でも205系への置き換えが進みつつありましたが、
京浜東北線や横浜線など、その他の路線では多くの103系が残存していました。
同社は、山手線や横浜線、埼京線などには205系を継続して投入しましたが、さらなる103系の置き換えには、
車両のコストダウンが求められていました。また、将来の少子高齢化も見据え、車両工場でメンテナンス
に携わる要員を減らすための技術革新も求められていたのです。
そこで同社は、「寿命半分、価格半分、重量半分」というコンセプトを掲げた車両の開発を発表しました。
これこそ、JR東日本が初めて開発した通勤型車両である901系、後の209系です。
寿命半分とは、従来の車両では数十年間の使用を前提としていたものを、法律で定められた減価償却期間
(企業会計において年数が経過するごとに資産の価値を減少させていく期間)である13年間を最低の使用期間
とし、車両の使用年数を約半分に見直したものです。
209系では、「13年/200万キロ非解体」を掲げ、製造後13年経過するか200万キロの走行を終えるまでは制御装置
などの重要機器を分解不要な設計とし、大幅なメンテナンスフリー化によるメンテナンスコスト削減を目指しました。
また、機器類や接客設備が陳腐化した場合でも、更新、あるいは廃車することで、陳腐化した技術の継続使用が避けられます。 もちろん製造段階で13年後の廃車が確定していたわけではありませんが、多くの車両が走る首都圏の通勤電車では、
この「寿命半分」が重要なコンセプトでした。
寿命半分を実現するには、メンテナンスなどのトータルコストはもちろん、車両価格自体も削減しなければいけません。
「価格半分」です。209系では、製造を担当した東急車輛製造(当時)と川崎重工業に対し、それぞれ両社が得意と
する車両製造工法の採用を認めることで、製造コストの削減を図りました。
東急車輛製造では、従来工法を進化させた軽量ステンレス車体を製造。川崎重工業では汎用ステンレス鋼のSUS304
を用い、従来は太く重い柱で担っていた車体強度を、プレス加工による成型板が担うことで重量削減を狙う
「2シート工法」で、軽量ステンレス車体を製造しました。
そして、省エネ化による動力費削減や、線路のメンテナンスコスト削減に寄与するのが、「重量削減」です。
209系では、軽量ステンレス車体の採用のほか、モーター搭載車の削減などにより、大幅な重量削減を達成。
京浜東北線用の10両編成では240.7トン(1次車)と、それまで同線で使用されていた103系の363.1トンよりも
34%もの重量を削減できました。
このほか、新技術も積極的に採用されています。モーターを動かす制御装置は、当時普及しつつあったVVVFインバータ方式に。
これは、過回転を許容する交流電動機との組み合わせによって定格出力を抑え、コストや重量を削減することにもつながっています。
また、運転台には機器を監視するモニタ装置を設置しました。これは651系などに続いて採用されたものですが、
209系では加速・ブレーキ指令の伝送機能も搭載し、運転台からの指令は各車両へデジタル伝送されるよう進化しています。
これはE231系以降の車両が搭載する「TIMS」や、E235系などが搭載する「INTEROS」にも繋がる技術となっています。
なお、209系のコンセプトのうち、「寿命半分」という点は、簡略化された内装も相まって「使い捨て電車」との勘違いを産み、
レンズ付きフィルム「写ルンです」をもじった「走ルンです」という愛称がメディアや鉄道ファンらにより付けられてしまいました。 先述した通り、209系は製造から13年が経過した時点で廃車しても元は取れるよう設計されていますが、後に京浜東北線
を撤退した際にも、約4割の車両は機器を更新し、他路線へと転属しているなど、使い捨て車両として扱われたことは
ありませんでした。もちろん、転属先の需要に応じて廃車された車両もありますが、これらは資源としてリサイクルされています。
余談ですが、写ルンですは現像時にプラスチックの本体を回収された後、整備されて再び流通するリサイクルシステム
が構築されており、こちらも使い捨てカメラではありません。
■新世代車両の躍進
209系量産車に先立って登場した901系では、新機軸の導入のため、さまざまな形態からなる3編成が製造されました。
制御装置はVVVFインバータ方式を採用していますが、各編成で異なる制御方式のものを搭載。1本目のA編成では
荷物棚の一部省略など、2本目のB編成ではワンハンドルマスコンの採用や吊革の非設置など、3本目のC編成では
広告用液晶画面の設置などが盛り込まれました。
吊革や荷物棚の省略は、利用者へのアンケートにより撤回されましたが、ワンハンドルマスコンは賛否があった
ものの本採用。広告用液晶画面も、後に登場するE231系などで採用されています。
901系は、1992年に京浜東北線で営業運転を開始。そして、901系の試験や営業後の評判を踏まえて登場した
209系量産車が、1993年にデビュー。同線で活躍していた103系を、1998年までに全て置き換えました。
901系は、1994年に量産車改造の上、A編成が209系900番台、B編成が910番台、C編成が920番台へ改番されています。
京浜東北線以外では、0番台が南武線に、3000番台が川越線と八高線に、地下鉄直通用の1000番台が常磐緩行線に
投入されました。また、東京臨海高速鉄道では、りんかい線用の車両として、209系をベースに設計した70-000形
を導入しました。この70-000形は、当初は4両編成で導入されましたが、後に6両編成、そして10両編成へと増強
されており、編成組み換え時に余剰となった6両がJR東日本へ譲渡。これらは中間車2両を増備の上、川越・八高線用
の209系3100番台として、209系に組み込まれています。 このほか、209系を基にした車両として、横須賀・総武快速線用のE217系と、常磐線用のE501系が登場しています。
前者は主に足回りが、後者は車体のデザインが209系と共通。その他の部分は異なるものの、後の形式における
標準化につながるグループを築きました。
JR東日本は、209系の発展形として、さらなる新型車両の開発に着手します。1998年に登場した209系950番台、
後のE231系900番台です。209系のコンセプトはそのままに、定員増加を目指した広幅車体や、IGBT素子を
採用した制御装置、モニタ装置をさらに進化させたTIMSなど、新世代の車両として開発されました。
次世代車両の開発を進める一方、老朽化した車両の置き換えは急務となっていました。当時の中央・総武緩行線
では、103系の老朽化が深刻となっており、故障が多発していたのです。そこでJR東日本は、E231系の広幅車体と、
209系の足回りを組み合わせた、209系500番台を製造。1998年に営業運転を開始しました。
編成単位の製造は、2000年に落成した500番台のC516編成をもって終了。2005年に製造された3100番台の中間車2両
を含め、合計1030両が製造されました。
■そして次の活躍の地へ
京浜東北線を主体に活躍していた209系ですが、製造当初に想定されていた「13年」が経過し、次第に老朽化・陳腐化
が目立つようになります。JR東日本は、209系量産車のデビューから約13年が経過した2006年9月、京浜東北線への
E233系投入を発表。翌2007年に置き換えが始まりました。
当初投入された京浜東北線を追われることとなった209系。しかし、開発時の想定にあったように、機器更新をする
ことで新たな路線で活躍することとなりました。転用先となったのは、内房線や外房線、総武本線など、千葉県のローカル線。
10両編成から6両編成と4両編成に組み替えられた京浜東北線の209系は、810両のうち324両が2000番台・2100番台として、
千葉へと活躍の地を移しました。他にも、南武線の車両置き換えや増発のため、6両編成3本が機器更新の上で中原電車区へと転属しています。
事業用車両に転用された編成もあります。クハ209-2以下の編成は、在来線用試験電車「MUE-Train」に改造されました。 車体傾斜装置や地上設備のモニタリング装置、E235系で採用される伝送システム「INTEROS」などの新技術を実証する
ために用いる車両で、現在も試験走行を繰り返しています。また、車籍の無い「機械」扱いではありますが、
2両編成4本の訓練車が改造により登場し、新秋津駅や久里浜駅などで乗務員の訓練などに使用されています。
一方、中央・総武緩行線に投入された500番台は、一部は流浪の経歴をたどることとなります。京浜東北線0番台の
改造工事や検査に備えるため、2000年から2003年にかけて計5本が京浜東北線用として転属しました。京浜東北線用
E233系の投入によってこれらは置き換えられましたが、うち4本は京葉線へ転属。さらに3本は8両編成化の上で
武蔵野線へと転属しました。
中央・総武緩行線に残存した編成も、山手線から転属したE231系500番台によって置き換えが開始され、2019年までにすべて撤退。
現在は10両編成1本が京葉線で、8両編成10本が武蔵野線で、そして、4両編成5本が川越・八高線用の3500番台として活躍しています。
1000番台は、2018年に常磐緩行線用から撤退。そのまま機器更新を受けることなく、中央快速線用として豊田車両センターへ転属しました。
E233系のグリーン車組み込み改造による予備車が必要になったための措置で、2019年に同線での営業運転を開始しています。
南武線で活躍した209系は、E233系の投入によって2017年までに置き換えられましたが、このうち6両編成1本は、自転車を
積載できる「BOSO BICYCLE BASE(B.B.BASE)」に改造されました。始発駅の両国駅などでは自転車を分解せずに車両へ
積載できるというもので、2018年以降、内房線、外房線、総武本線、成田線などで運行されています。 ■209系、まもなく終焉?
京浜東北線や房総各線で活躍してきた209系ですが、まもなく「13年」の倍となる落成26年を迎える編成が表れる時期となります。
機器のみならず車体の老朽化も進みつつある時期で、その将来が気になる頃合いです。
2000・2100番台と同じ房総エリアを走り、同時期に機器更新を受けたE217系は、2020年度以降にE235系へ置き換えられる計画が発表されています。
また、川越・八高線で活躍してきた3000番台は、機器更新を受けることなく、全編成が運用を離脱。中央快速線用として転属した
1000番台も、E233系へのグリーン車組み込みが順調に実施されれば、グリーン車の営業開始となる2023年度末までには引退することが考えられます。
現時点で2000・2100番台の置き換え計画は発表されていませんが、その活躍は長くはないのかもしれません。 【風間八宏コラム/自分に、期待しろ】「あなたは何が見えていますか?」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200427-00072338-sdigestw-socc
4/27(月) 17:11配信
●“見る”は重要なファクター
サッカーダイジェストでは今年1月から風間八宏氏の連載コラムがスタート。その技術論や、サッカー
哲学などを余すことなく語ってもらっている。リーグ中断が続くなか、自身のSNSなどで自宅で試せる
トレーニング法やテクニック動画なども伝えている風間氏の、記念すべき第1回目のコラムを紹介しよう。
――◆――◆――
今回からサッカーダイジェストで連載コラムを始めさせてもらうことになりました。タイトルは教え子たちに
よく送っている言葉「自分に、期待しろ」。どの人にも無限の可能性があり、自分たちの意識次第で世界は大きく変わる。
そう信じ私なりのサッカーの見方、捉え方などを伝えられればと思っています。
さて初回のテーマは“見る”。メッセージは「あなたは何が見えていますか?」です。
“見る”という行為は、“言葉”“触る”というキーフレーズとともにサッカーを伝えるうえで重要なファクターです。
例えば味方にパスを出す時、皆さんはどこを意識しているでしょうか。
ひとつエピソードがあります。先日、名古屋でトレセンの選手20人と、指導者の方約90人が集まってサッカークリニック
を開催しました。テーマは「どうやってペナルティエリアに入るか」。そこで「止める・蹴る」の重要性を説明しましたが、
ゴール前で相手を外すためには、受け手の動きも大切ですが、パサーも相手を外す必要があります。
ではどうするべきなのか。パスの出し手と受け手、そしてDFひとりを置いた練習で、最初は上手くいかなかった選手に、
私がアドバイスしたのは「相手の膝の動きを見てみなさい」ということ。「相手の膝がどちらかに動いたら逆に出してみなさい」と。
パスの受け手も相手の膝と逆に動いてみる。すると相手の体重移動の逆を突き、動きを封じることができるわけです。
“止める・蹴る”を意識するのは重要です。ただ、その言葉に縛られすぎている気もします。
大切なのは、相手の動きをどう見て、“止める・蹴る”を実践するか。そこがベースになります。 その基本をしっかり押さえておかないと、先につながりません。一方でそこを理解できれば、驚きのあるプレーが
たくさん見られるようになるのではないでしょうか。ちなみに現役時代、私は相手のつま先の動きがはっきり見えたので、
そこを確認するようにしていました。そうすると、膝の動きを見るよりも難易度は高いですが、一瞬で次の判断ができる。
そういった自分に合ったやり方を見つけることも大切です。
また現役時代にこんな経験もありました。ジーコさんと対峙した時に、私が一歩足を出した瞬間にスッと、体重がかかった
足の目の前にパスを通された。後にも先にもこの1本だけでしたが、「なるほどな。この人はここがはっきり見えるんだな」
と彼に見えているものを感じることができた。そうした感覚は分かる人には分かって、指導者としてそれをどう伝えていくのか。
そこは考えさせられる部分です。
先ほどのように2対1という状況を抜き取って、膝を見ることを意識してみると、パスは通るようになるかもしれない。
でも実際の試合では、多くの選手がいるなかで、何をどう見るか、いつ見るか、目を揃えられるようにならないといけない。
その感覚をどう養うか。
●大事なのは自分の目で見て何を感じるか
また“見る”重要性はサッカーを観戦する人たちにとっても同様です。
最近はシステムや戦術論などがひとり歩きしている気もしますが、大事なのは自分の目で見て何を感じるか。
例えば、ある選手が一本のスルーパスを出したとする。そのプレーを「あれは凄かったね」で終わらせるのではなく、
「あのパスはどこを見ていつ判断して出したんだろう」と突き詰めて考えれば、世界は広がる。
もし3つ星レストランがあったとして、その店の料理は皆が美味しいと感じるでしょう。
でも1つ星のレストランにだって大きな可能性があるかもしれない。それを見つけることも、楽しいことだと思います。
繰り返しになりますが、重要なのは言葉に惑わされずに自分の目で見ること。
そうすれば、新しい楽しみ方がある。固まっている従来の世界観を捨て、新しい視野を持てば、成長にもつながる。
「あなたは何が見えていますか」。この言葉を意識してサッカーに接すれば、新しい発見が必ずあるはずです。 ■PROFILE
かざま・やひろ/1961年10月16日、静岡県生まれ。現役時代はドイツのレバークーゼンやレムシャイトなどでプレーし、
89年の帰国後にはマツダSC(現・広島)に加入。93年のJリーグ開幕戦(対市原/現・千葉)では、開始1分にチーム第1号
&日本人Jリーグ初ゴールを決めた。97年の引退後は解説者を務め、97年から04年まで桐蔭横浜大、08年から12年まで筑波大を指揮。
12年4月からは川崎、17年1月からは名古屋を率い、魅力的なパスサッカーで大きな話題を集めた。
構成●サッカーダイジェスト編集部
※『サッカーダイジェスト』2020年1月23日号より転載。 風間八宏が選ぶJ歴代ベスト11「伸二と嘉人は日本が生んだ天才」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200429-00072341-sdigestw-socc
4/29(水) 11:46配信
■マスロバルも魅力的な選手
4月23日発売のサッカーダイジェストでは、「Jリーグ歴代ベストイレブン」と題し、現役選手や
元日本代表など総勢50名に“マイベストイレブン”を選んでもらっている。人選の条件は現在までに
登録されたJリーガーで、外国籍選手は3人まで。ここでは、現役時代はドイツや広島などで活躍し、
指導者になってからは川崎で一時代を築き、昨季まで率いた名古屋でも魅力的なサッカーを示した
風間八宏氏の“マイベストイレブン”を紹介しよう。
――◆――◆――
まず外国人枠は、個人的には「助っ人+アジア枠」も考えてみて……。
その場合、右サイドハーフに入れたかったのがマスロバル(市原などで活躍)。
彼は良い意味で“嫌な選手”でした。派手さではピクシー(ストイコビッチ)やリティ(リトバルスキー)
のほうが上とはいえ、技術に加えて、間合いの取り方が独特で、意外性のあるプレーをしてくる。
対応が難しかったことをよく覚えていますね。
ただ今回の企画どおり外国人を3人に絞るとなると、ここに挙げた11人が“ベスト”ではないでしょうか。
編成のポイントは現実的に試合に臨み、お客さんをワクワクさせられるか。
今のサッカーは非常にスピードが上がり、特定の選手に依存して勝てるほど簡単なものではありません。
その背景を踏まえつつ、全員がボールを巧みにコントロールし、失わないことが重要です。
だからこそ最終ラインにもスピードがあって足もとの技術にも長けた選手を並べました。
中盤から前線で印象深いのは(小野)伸二と(大久保)嘉人ですね。
他の選手も相当にレベルは高いですが、彼らふたりは日本が生んだ天才だと思っています。
高校時代から特別なものを持っていました。
それに(香川)真司、(中村)俊輔、乾、(中村)憲剛らもボールを持てて、“相手を攻められる”。
そして正確に「止める・蹴る」を実践でき、ボールを奪えて、素早いパスワークでゴールも挙げられる。 究極を言えば、ボールを自分たちの下に置き続ければ、ゲームを支配できるわけですよ。
それが実現できるメンバーです。現役時代だったら自分も一緒にプレーしてみたいですし、
監督として指揮もしてみたいですね。想像しただけでワクワクしますよ。
■オシムさんとは思考が重なる部分があった
指揮官は最も印象に残っているオシムさんでしょう。
選手時代はテクニシャンとして鳴らしたこともあり、技術を第一に考える方で、私と思考が重なる部分がありました。
それに個性を伸ばす手腕にも長けていて、今回の11人を率いても非常に面白いサッカーを見せてくれるはずです。
ちなみに選んだ11人は、年代的には、Jリーグで現実に集めることが可能だった顔ぶれです。
ただ、海外移籍をした選手も多かった。そう考えるとタレントを国内に残す努力も今後、必要だと感じますね。
そして最後に日本サッカーの底力も信じていると伝えたいです。
大変な時期を迎えていますが、発想次第でなにかできることはあるはず。
今こそ皆で力を合わせ乗り越えていきましょう!!
取材・文●本田健介(サッカーダイジェスト編集部)
※『サッカーダイジェスト』2020年5月14・28合併号より転載。 C大阪 新本拠「桜スタジアム」目指す“日本一の親近感”来年3月完成へ
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200429-00000070-spnannex-socc
4/29(水) 5:30配信
新型コロナウイルスの感染拡大でサッカーチームが軒並み活動休止となっている中、
昨年から始まったC大阪の新たな本拠地「桜スタジアム」の改修工事は今日も進んでいる。
担当者によると、来年3月の完成予定に向け、現在の進ちょく状況は45%。「日本一の親近感」
を基本コンセプトのひとつに掲げるスタジアムの現状と今後を、写真とともに伝える。
かつてのキンチョウスタジアムでは、今なお、新たな姿へと生まれ変わるための改修工事が
続けられている。新型コロナウイルスの影響でリーグ戦やチームの活動が止まっている中でも
「桜スタジアム」と銘打たれたC大阪の新本拠地は、来年3月の完成に向けて今日も作業が進められていた。
クラブの担当者は「屋根も付き始め、工事の進ちょく状況は現在で45%です」と説明する。
完成までの部品等は全てそろえられており、自主的な中断や休止要請などがなければ、
新型コロナウイルスの対策を実施しながら、工事は日々、進んでいくという。
完成後、来年6月から使用開始予定で、ACLにも対応した収容人数2万5000人の球技専用スタジアム。
その新たな本拠地の基本コンセプトのひとつにC大阪は「日本一の親近感を!」と掲げている。
その「親近感」を味わえるのが、メインスタンドの観客席からピッチまで5・7メートルという距離の近さだ。
G大阪の本拠地パナスタで最も近いところが7メートル、神戸が本拠地とするノエスタが6メートル、
J2京都の新たな本拠地サンガSが7・5メートル。関西のJクラブで最も接近しており、臨場感を
味わえる仕様となっている。一方では、特別感を味わえるラウンジなども設置される。
「地域のための都市型スタジアム」というコンセプトもあり、防災拠点としての機能だけでなく、
試合日以外にも地域の人々が活用できる場所を作ろうとしている。レストランやコーヒーショップ
といった飲食店を設置する構想があり、スタジアム内の部屋などは会議室として貸し出す予定。
また、学習塾の教室、子育て支援施設として利用を募る案もある。 クラブのイベントで桜スタジアムについて問われたFW柿谷は「楽しみ」と改修後を待ちわびた。
募金で改修する「桜スタジアム」は、その目標額が66億円。
4月1日現在、集まった額は約34億6000万円となっている。
法人、個人に対して継続して寄附をお願いしつつ、完成の時を目指していく。
○…かつてのキンチョウスタジアムから抜本的に変わるのが、旧バックスタンドとホームゴール裏席。
旧バックスタンドは改修後にメインスタジアムとして使用することになり、かつてのメインスタンドがバックスタンドとなる。
座席数が大幅に増設されるホームゴール裏席とともに屋根が付く。
コンセプトのひとつに「クラブの成長に応じた段階的改修」と掲げており、今後も継続的なバージョンアップを目指す予定。
球技専用スタジアムのため、完成後はラグビーやアメフットなどの試合も誘致する。 Jリーグ公式戦、1クラブ最大40試合に 8月再開なら中2日超強行日程も
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200429-00000073-spnannex-socc
4/29(水) 5:30配信
Jリーグの今季公式戦開催は越年せず、まずはリーグ戦とルヴァン杯を合わせ
1クラブ最大「40試合」とする方針で調整を進めていることが28日、分かった。
新型コロナウイルス禍で公式戦中断中のJリーグはこの日、各クラブの運営、
強化担当らとウェブ会議を実施し、今後の日程変更などが話し合われた。
複数の関係者によれば、ルヴァン杯は全6試合に簡略化される見通し。
4クラブ総当たりの1次リーグは3試合(既に1試合消化)に。
決勝トーナメントは準々決勝からで準決勝、決勝まで全てが1回戦制となる。
現在、リーグ戦(1試合消化済み)の再開は最短で6月13日を目指すが、
関係者によれば準備期間は練習再開後「4週間」となる見込み。
当初、クラブ側から6週間を要望する声もあったが、一方では少しでも
早い再開を望む声も強く4週間で調整された。
深刻なコロナ禍の現状を考慮し、Jリーグは既に6月の他にも7、8月の再開案も想定している。
もっとも現実的とされる7月案でも試合数はさらに削減の可能性がある。
8月案となれば、中2日での試合開催が連続する超強行日程をのみ込んででも
試合消化を優先する方向。シーズン終了の「越年」は反対多数だったという。 【もう君はいない】半年前「コロナ禍」を知らずに逝った妻。笑顔と愛が消えた家で一人戦う日々
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200418-00010002-seraijp-life
4/18(土) 11:05配信
取材・文/沢木文
結婚25年の銀婚式を迎えるころに、夫にとって妻は“自分の分身”になっている。
本連載では、『不倫女子のリアル』(小学館新書)などの著書がある沢木文が、
妻と突然の別れを経験した男性にインタビューし、彼らの悲しみの本質をひも解いていく。
* * *
■健康的な制服姿に一目ぼれした
お話を伺ったのは、皆川憲明さん(仮名・66歳・会社員)。
2歳年下の妻がクモ膜下出血で64歳の生涯を閉じたのは半年前のこと。
「私は本当に妻のことを愛していたんです。
2人の息子たちにも、『お父さんはホントにお母さんが好きなんだね』と呆れられるくらい。
彼女が風呂場で倒れた日のことはよく覚えていて、あの時から自分の半身も死んだような気持ち。
母親からも『時間が薬になるから』と言われるけれど、悲しみなんて時間の経過とともに増幅していくだけ」
妻と出会ったのは、最初に勤めた地元の信用金庫の外回り先だった。
「地元の北関東にある国立大学を出て、地元の信金に採用された。当時、自転車に乗って
得意先を回って、地域の人から『シンキンさん』なんて呼ばれ、御用聞きみたいなことをしていた。
ある印刷会社の事務にいたのが、妻だった。
色が白くて、ふっくらとしていて、笑顔がかわいくて……
健康的な制服姿に一目ぼれしてからデートに行けるまで2年かかったよ」
憲明さんは整った顔の美男子だ。昭和時代なら“ソース顔”と言われていただろう。
背が高くて筋肉質で清潔感がある。
ややカールした癖ッ毛のニュアンスもよく、ミケランジェロのダビデ像に似ている。
「モテたとは思う。でも私は自分から積極的に言い寄ってくる女性が嫌いだった。
何かを奪われそうだし、不潔な感じがする。
私の世代はオクテが多いから、私のような人は多いんじゃないかな」 ■姿を見かけるだけで幸せだった日々。4年間、一筋に思い続け、結婚したきっかけは
妻は全く違った。男性を明らかに回避していた。当時22歳の憲明さんが1〜2週間に1回、
彼女が勤務する印刷会社に行っても、なるべく接点を持たないようにしていた。
「地元の会社のお姉さんからデートに誘われていたから、彼女の反応が心に残った。
聞けば、3姉妹の一番下で、お父さんを早くに亡くしていたこともあったんだよね。
地元の商業高校を卒業後、その印刷会社で経理や事務を担当していた。
男性恐怖症になったのは、新卒のときに職人さんなど男性にからかわれて、とても嫌な思いをしたから。
私に対しても『チャラチャラしている若い男』くらいに思っていたんだそう」
憲明さんが一日千秋の思いで、印刷会社にルート営業に行き、彼女の姿を横目でチラッと見る。
それだけで幸福だったという。オクテ同士の恋愛は、どのように進展したのだろうか。
「社長の奥さんが、『シンキンさん、あなたステディな人、いるの? いないんだったら、
ほら、あの子どう?』と耳打ちしてくれた。『2人で行ってきなさいよ』とスケートリンクの
チケットをもらって、行ったのが初デート」
手を握るどころか、会話もできない2人。スケートは、憲明さんはからっきしダメだが、妻は上手だった。
「ふだんもじもじしているのに、生き生きとキレイに滑るんだよ。彼女のふっくらした手と、
赤い頬が今でも思い出せる。私が転びそうになると、抱きかかえてくれて、手をとって滑り方を
教えてくれた。あれは夢のような時間だったと思う」
中華料理店でラーメンを食べ、ビールを飲み、その日は17時に解散。
「いつまでも、一緒にいたいし、抱きしめたいけれど、きっと彼女はそれを嫌がる。
それからキスをするまで2年かかった。26歳のときに、私に縁談話が持ち上がり、
彼女のことを諦めようと思ったら、彼女が私の手を取って、引き留めてくれた」
今まで、押しとどめていただけに、それからの進展はダムが決壊したかのように怒涛だった。 「4年間も我慢していたからね。彼女以外考えられなかったから、そういうお店にも行かず、
ひたすら彼女のことを想像していた。その体が目の前にあるというのは、衝撃ともいえることだった。
私は大学時代に年上の恋人がいたこともあった。
初めての彼女と、関係を作っていくのは、大変だったけど愛しさが募っていった」
その後、すぐに結婚し、夢のように楽しい30年間の結婚生活が始まった。
最愛の妻を幸せにするために、夜逃げ同然で上京する……【後編に続きます】
幸せな結婚生活の終わりは突然に。冷え込んだ日の朝、風呂場で倒れた妻との別れ
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200429-00010001-seraijp-life
4/29(水) 9:06配信
取材・文/沢木文
結婚25年の銀婚式を迎えるころに、夫にとって妻は“自分の分身”になっている。
本連載では、『不倫女子のリアル』(小学館新書)などの著書がある沢木文が、
妻と突然の別れを経験した男性にインタビューし、彼らの悲しみの本質をひも解いていく。
* * *
お話を伺ったのは、皆川憲明さん(仮名・66歳・会社員)。
2歳年下の妻がクモ膜下出血で64歳の生涯を閉じたのは半年前のこと。
【前編は関連記事から】
■妻と妻の母親を引き離すために上京・転職
憲明さんは現在、東京都心のマンションに住んでおり、勤務している企業も都内にある。
憲明さんは安定志向だ。地元の国立大学卒業後、信金に勤務したのに、なぜそこにいなかったのだろうか。
「妻と26歳のときに結婚してわかったのは、彼女の母親と姉2人が厄介な性格だということ。
妻は結婚してからも仕事を続けていたんだけれど、その給料が奪われていることがわかった。
妻が頑なに男性との交際を拒んでいたのは、男性恐怖症だけでなく、彼女の肉親の問題が大きかったから」
妻は頑なに結婚式を拒んだことで、それがわかった。
「地方の信用金庫に勤務していたので、お金の怖さは知っていた。中でも一番厄介なのは、寄生する親族。
お互いに依存関係になって、共倒れになる。それで、夜逃げ同然で東京に出てきたんです」 誰も知人がいない東京で、2人きりの生活がスタート。
「24歳と26歳だから、毎日が楽しかった。すぐに仕事も決まり、彼女も働き始めた。
29歳のときに息子が生まれ、32歳のときにマンションを買い、33歳で次男が生まれた」
妻は子供を産んでも、仕事を続けていた。
「働く妻が好きだった。だって最初にホレたのは、一生懸命帳簿を見る横顔だからね」
33歳で生まれた次男が熱を出した時は、憲明さんがつきっきりで看病した。
「妻は仕事をどうしても休めなかった。だから私が『息子が熱なので休みます』と連絡したら、
上司に『オマエはクビだ!』って言われたのもいい思い出」
妻はそんな憲明さんに対して「私のせいで申し訳ない」と言い続けていた。
「俺は『ママ、愛しているよ。幸せだよ』と毎日のように言っていた。
夫婦ゲンカはしたことないよ。生活していればいざこざは起こるけれど、話し合って解決した」
■40歳ごろから妻は太り始めた悲しい理由
もともとぽっちゃりしていた妻が太ってきたのは40歳を過ぎたあたりから。
「かなりふっくらして、血圧も上がった。
生活習慣病の兆候があると言われ、気を使っていたけれど、どうしても食べちゃうよね。
一緒にダイエットをすると、痩せるのは私だけ。妻は病院を嫌って、そのままにしていた」
自分のことは二の次、三の次にして、憲明さんと息子たちの面倒を見ていたという。
「息子が生まれたあたりから、添加物や農薬が少ない食材をわざわざ取り寄せて、食べさせてくれた。
ガンのリスクを低くするための勉強会にも参加して、牛乳や卵も“いいもの”を選んでいた。
私の帰りは遅くなることが多くなり、妻と子供たちで食事をしていた。どうも妻は家族には
いい食材を食べさせていたのに、自分はインスタント食品などで適当に済ませていたようなんだ」
妻はずっと母親から搾取されており、「家族にはいいモノを」という習い性になっていたのではないか。
「おそらくそう。だから、安い食べ物を何十年も食べ続けていた。東日本大震災の時も、
私や子供たちへの放射能の影響を過度に心配し、九州から水を取り寄せていた。
それなのに自分は水道水を飲んでいた。自己犠牲が習性ってホントに悲しい」 気持ちが安定している妻が、最もパニックになったのが、震災の時だったという。
「様々なデマに気持ちが揺さぶられ、メンタルがやられていることがわかった。
妻は苦労人だけあって、辛抱強い。でも目に見えない敵にはとても弱い。
震災から元の妻に戻るまで3年くらいかかった」
それから、体調が不安定になり、57歳で早期退職をした。
高血圧やホルモンバランスの乱れがあり、漢方薬やハーブを飲みながら、自己流でケアしていたという。
「頭が痛いということも増え、病院に行くことをすすめても『いいのよ』って。
『もし入院って言われたら、私、泣いちゃう。パパと別れて夜過ごすなんてイヤよ』と言うんです。
いじらしくて、かわいくて、思わず『ママ、愛してる』なんて抱きしめちゃったりしてね」
それは、亡くなる1か月くらい前のやり取りだ。
「11月、冷え込んだ日の朝、風呂場で倒れて、それっきり。
たまたま私が家にいたので、救急車を呼んだのだけれど、明らかに心臓が動いていなかった。
救命する間もないくらい、あっけない最期だった」
葬式には500人以上の参列者があり、葬式会社の人も驚いていた。
「妻の友人が口々に『初めて自慢の旦那様にお会いできたわ。こんな席じゃないところで会いたかった』
なんて言いながら嗚咽している。恥ずかしいけれど私も泣いてしまった。葬式が終わったら、
体重が2キロも減っていた。あれは涙の量だと思う。それから、何をしても楽しくないし、涙がこみあげてくる。
今も仕事以外はずっと家で泣いている。まだ妻が使っていたものに手を付けられない」
ずっと沈んでいたが、ここ最近のコロナ禍で、考え方が変わってきたという。
「妻の性格を考えると、今回のコロナ禍は、彼女にとってとても苦しかったと思う。
自分自身もハイリスク要素を抱えているから、ひたすら怯え、長期間を過ごさなくてはならなかったはず。
見えない敵との長期戦を考えると、彼女はこれを知らず天国に行ってしまい、よかったと思うようになりました。
ただ、私自身は孤独ですよ。でも、いつか死ぬときに、彼女の前に立って胸を張れるように、
この孤独な戦いに耐えていこうと思っています」
サライ.jp なぜか湧き上がる「橋下徹総理待望論」。そこで彼の過去発言を振り返ってみた
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200429-00217853-hbolz-soci
4/29(水)8:32配信
■確かに安倍政権は最悪だが……
先日、ネットで「これが対コロナ最強布陣『橋下総理、小池長官、吉村厚生相』」という記事を見かけた(「PRESIDENTOnline」)。
新型コロナウイルスに対する安倍政権の動きを批判。「今、求められる内閣の『最強布陣』を探った」とのこと。
たしかに安倍政権は最悪だった。われわれは日本が崩壊していく過程をリアルタイムで目撃してきた。
不道徳な政権を7年以上も放置すれば、当然こういうことになる。自称保守やネトウヨ、
安倍信者の一部は見切りをつけて、泥船から逃げ出し始めたが、これで一件落着ということにはならない。
社会の空気が腐っている限り、同じようなものが持ち上げられるだけだ。
災害が発生し、社会が混乱すると、それに乗じて悪事を働こうとする人物が出てくる。歴史を振り返ればそれが常だ。
この記事も怪しい。執筆者は「麹町文子」となっているが、実在の人物なのか?
プロフィールには「政経ジャーナリスト。1987年岩手県生まれ。早稲田大学卒業後、週刊誌記者を経て
フリーランスとして独立。婚活中」とあるが、橋下徹の持ち上げ方が普通ではない。
記事には次のような文言が並ぶ。
「首相は橋下徹、一択だ!」
「歯に衣着せぬ発言は物議を醸し、時に横暴との批判もつきまとうが、批判を恐れずに核心を突いていく
「突破力』は有事のリーダーには欠かせない能力といえる」
その他、官房長官に小池百合子、厚生労働相に吉村洋文、さらには内閣官房参与として、百田尚樹や高須克弥の名前を挙げていた。
どこまで本気なのかよくわからないが、橋下が書いた記事を大量に載せている「PRESIDENTOnline」なので、
政界復帰のタイミングをはかるためのアドバルーンの可能性もある。
私には「最強布陣」というより、現時点で考えられる「最悪の布陣」にしか見えないが、それでも世の中には「橋下総理」を望む声もある。
そこで、橋下の政界復帰の是非を考える上で、参考になる資料を提示することにした。 議論は事実をもとに積み上げなければならない。維新の会支持者の方も、まずは事実を知るべきだ。
以下、橋下の過去の発言を、項目別に分類した。
■橋下の日本に対する発言
「日本国民と握手できるか分からない」(※2013年5月18日ZAKZAKInternetArchive)
「日本をグレート・リセットする」(2012年1月3日※本人Twitterなど)
「国は暴力団以上にえげつない」(2008年11月28日※朝日新聞)
「日本の人口は6000万人ぐらいでいい」(2009年の講演で)
「能や狂言が好きな人は変質者」(2002年5月15日TBS「サンデージャポン」)
「(近松門左衛門原作の『曽根崎心中』を鑑賞して)演出不足だ。昔の脚本をかたくなに守らないといけないのか」
「演出を現代風にアレンジしろ」「人形遣いの顔が見えると、作品世界に入っていけない」
(2012年7月26日、27日※2012年7月28日msn産経の魚拓)
「自称インテリや役所は文楽やクラシックだけを最上のものとする。これは価値観の違いだけ。ストリップも芸術ですよ」
(2012年8月12日 ※本人Twitter)
「(大阪について)こんな猥雑な街、いやらしい街はない。ここにカジノを持ってきてどんどんバクチ打ちを集めたらいい」
(2009年10月29日 ※讀賣新聞のInternetArchive)
「小さい頃からギャンブルをしっかり積み重ね、全国民を勝負師にするためにも、カジノ法案を通してください」
(2010年10月28日※朝日新聞)
■橋下の政治観
「今の日本の政治で一番重要なのは独裁」(2011年6月29日 ※しんぶん赤旗)
「僕が直接選挙で選ばれているので最後は僕が民意だ」(2009年1月 ※毎日新聞2010年1月29日夕刊「検証就任2年 踊る橋下語」より)
「(選挙は)ある種の白紙委任だ」(「朝日新聞」2012年2月12日※InternetArchive)
「なんで『国民のために、お国のために』なんてケツの穴が痒くなるようなことばかりいうんだ?」(『まっとう勝負!』小学館)
「政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ」(『まっとう勝負!』小学館)
「自分の権力欲、名誉欲を達成する手段として、嫌々国民のために奉仕しなければいけないわけよ」(『まっとう勝負!』小学館)
「私は政治家には向いていませんよ。早く弁護士に戻って私利私欲の生活に戻りたい」(2014年11月29日 日本経済新聞) 「そもそも竹島問題も、李承晩ラインを引かれ、その後韓国が竹島に建造物を設置し、着実に実効支配を積み重ねたときに
それを阻止できなかったのも自民党」(2012年11月24日 本人Twitter)
なお、李承晩ラインが引かれた1952年に自民党は存在していない。
「竹島は(韓国と)共同管理すべき」(2012年9月26日 朝日新聞)
「嘘つきは政治家と弁護士のはじまりなのっ!」(『まっとう勝負!』小学館)
「いまの日本の自衛力、軍事力は非常におそまつだ」「米国に強力な外圧をかけてもらいたい」
(「日経新聞」2017年3月28日 日本経済新聞)
「国籍関係ないでしょ」「有権者の意思で、有能な外国人を選んでもいいじゃないか」「政治家は、最後は有権者が
『選ぶ』か『落とす』か決められるから、もう極端なことを言えば外国籍でもいい」(「橋下×羽鳥の番組」2016年9月19日)
■橋下の女性観
「僕は育児に家事、何もしないですよ。子供は単に玩具感覚の可愛さです。(中略)何もしない。完全にキム・ジョンイル体制。
将軍様ですもん。(中略)僕は子供をつくるまでが好きなのかなあ」(「女性自身」2006年10月17日)
「浮気者を責める前に、「自分は性的魅力に欠けているんじゃないか」と考えてみる必要もあるね」(『まっとう勝負!』小学館)
「(沖縄の米軍司令官に対して)もっと風俗業を活用してほしい」「性的なエネルギーをある意味合法的に解消できる場所は、
日本にある」(2013年5月13日 産経新聞InernetArchive)
この発言についてアメリカが激怒すると、「(風俗には)ダンスやパチンコまで含まれる。売買春ではない」
(2013年5月17日 サンスポInternetArchive)と誤魔化し火に油を注いだ。
「(銃弾が飛び交う中)命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている集団をどこかで休息させてあげようと思ったら
慰安婦制度は必要なのは誰だって分かる」(2013年5月13日 WAM)
この発言が問題になると、「僕は慰安婦が必要とは言っていない」と嘘をついた。
女房の妊娠中にコスプレ不倫を繰り返し、それがばれると「娘に制服を着ろと言えなくなった」
(2012年7月19日msn産経westInternetArchive)と発言。 ■人間関係について
「僕が考える友だちの本質とは――
・メリットなし
・面倒ばかり
・いっしょにいてもなにか与えてくれるわけではない
つまり、損をすることはあっても、得られるメリットは特にない」
「だから、グループの動きに足並みを揃えて、誰かをいじめてしまう『世渡り』を僕は『絶対に悪だ』『いますぐにやめるべきだ』とは思いません」
「ほかの子に無視されたくない。いじめられたくない。そのような気持ちから、やむを得ず、いじめに荷担してしまった
のであれば、しかたのないところではあります」
「強いグループに組み込まれるというのは、具体的には周囲の力関係を見ながら、ジャイアンのような強い子についていく
という方法です。もっとわかりやすく言うと、スネ夫のような生き方といえばいいでしょうか」(以上、(『どうして君は友だちがいないのか』)
「だから、自分の位置や他人との関係やヒエラルキーを守るために、いじめてしまうのはある程度、しかたがない」(『どうして君は友だちがいないのか』河出書房新社)
「小泉元首相がやったことと比べれば、僕のやったことなんて鼻くそみたい」(2008年9月26日 朝日新聞InternetArchive)
■橋下の交渉術
「交渉において非常に重要なのが、こちらが一度はオーケーした内容をノーへとひっくり返していく過程ではないだろうか。
まさに、詭弁を弄してでも黒いものを白いと言わせる技術である」
「交渉では“脅し”という要素も非常に重要なものだ」
「私は、交渉の過程で“うそ”も含めた言い訳が必要になる場合もあると考えている。自身のミスから窮地に陥ってしまった状況では特にそうだ」
「正直に自分の過ちを認めたところで、何のプラスにもならない」
「絶対に自分の意見を通したいときに、ありえない比喩を使うことがある」「たとえ話で論理をすり替え相手を錯覚させる!」
(以上、『図説 心理戦で絶対負けない交渉術』日本文芸社)
「どんなに不当なことでも、矛盾していることでも、自分に不利益になることは知らないふりを決め込むことだ」
(『最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術』日本文芸社) ■教育について
「国が事前に危険な奴を隔離できないなら、親が責任を持って危険なわが子を社会から隔離すればいいんだ。
他人様の子供の命を奪うほどの危険性がある奴に対しては、そいつの親が責任を持って、事前に世の中から抹殺せよ」
「苦渋の決断でわが子を殺した親に対しては、世の中は拍手を送ってもいいだろ。国に代わって、世の中に代わって、
異常・危険分子を排除したんだからね」(以上、『まっとう勝負!』小学館)
橋下は子供の挨拶の仕方が悪ければ蹴りを入れるという。子供をバットで殴ったり、長時間にわたり投げ飛ばしたこともある。
「口で言って聞かなければ手を出さなきゃしようがないですよ」(2008年10月の府民討論会朝日新聞 InternetAtchive)
■大阪都構想について
「大阪市が持っている権限、力、お金をむしり取る」(2011年6月29日読売新聞InternetArchive)
「(大都市局の職員らに対して)数字は何とでもなる。見せ方(次第)だ。もっと何か乗せられないか」
「もっとしっかり効果額を積み上げてほしい」(『読売新聞』2013年8月10日)
当初、維新の会は「最低でも年間に4000億円」の財源を生みだすとしていたが、粉飾が発覚。
そのうち、「財政効果はあまり意味がない」と言い出し、最後には「財政効果は無限」と言い出した。
そして、「今回が大阪の問題を解決する最後のチャンスです。二度目の住民投票の予定はありません」
(大阪維新の会の公式HPInternetArchive)と言いながら、否決後3ヶ月もしないうちに、再び「都構想」をやると言い出した。
■人間性
「ウソをつかない奴は人間じゃねえよ」(『まっとう勝負!』小学館)
橋下は破れた革ジャンを仕入れて高値で売り、友人が批判すると「気付かずに買うのはお人よしや」と答えたという。
また、「広がる橋下ネットワーク」という自己紹介パンフレットには、実在しない公認会計士や税理士らの名前が
ずらりと並べられていた。橋下同期の弁護士たちが「こんなもの配ったら懲戒請求されるぞ」と警告すると、橋下は
「だって、本名書いたらバレますやん」と答えたという。(『毎日新聞』2012年4月15日) 一部ではあるが、橋下徹という人物を知る上で参考になりそうな発言をピックアップしてみた。
橋下は繰り返し政界復帰を否定しているが、2007年には大阪府知事選への出馬の準備を進めながら
「(立候補は)2万パーセントあり得ない」と言っていた人物だ。
引き続き、社会全体で監視していく必要がある。
※文中敬称略
<文/適菜収>
ハーバー・ビジネス・オンライン 長澤まさみ 品薄スーパーでパスタあっても買わなかった理由
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200429-00000010-pseven-ent
4/29(水) 16:05配信
東京都から外出自粛要請が出された直後の3月下旬の都内のスーパーマーケットには、自宅での自粛生活に
備えて食料を買い込もうとする消費者が数多く訪れていた。その中に、女優・長澤まさみ(32才)の姿もあった。
マスクをして顔の下半分は見えなくても、170センチの長身でロングコート姿の彼女は、一般人とは違ったオーラを醸し出していた。
午後7時過ぎということもあり、店の中は品薄状態。そんな中、長澤は、仕事の関係者と思しき女性とともに、
食材を買い物カゴに入れていた。運よく残っていた5キロのコシヒカリも片手で抱えて、レジの列に並んだ。
ただ、そんなプチ食品難の中でも、棚に残っていたパスタなど小麦粉系の食品には見向きもしなかった。
そう、抜群のスタイルを維持し続ける長澤は、もう約10年間もセミ・グルテンフリー生活を続けているのである。
最近、ある女性ファッション誌のインタビューでは、美容のための食生活を尋ねられると、「パンはほぼ食べないかな。
グルテンフリー生活をしているわけじゃないんですが、グルテンを取らない方が、調子が良いんです」と明かしていた。
長澤が心がけるグルテンフリーとは、小麦、大麦、ライムギなどに含まれるグルテンを摂取しないもの。
炭水化物ダイエットよりは制限がゆるく、米はOKで、パン、うどん、パスタ、ラーメンなどを控える食生活スタイルだ。
男子プロテニスのノバク・ジョコビッチ(32才=セルビア)や、モデルのローラ(30才)らも実践していることで有名な健康法だ。
長澤は、「(10年前に)始めたころは結構ストイックにやっていたんですけれど、今は主食だけグルテンフリーにしたり、
1日1食はパンか麺類もOKなど、ゆるいルールにしています」と明かしている。
ダイエットなどはストイックになり過ぎることが長続きしない要因ともいわれる。長澤のように上手にスタイル維持をしていきたい。 五輪中止回避へ先手打ち延期提案、森会長語る舞台裏
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200429-24280311-nksports-spo
4/29(水) 8:30配信
<東京2020組織委員会・森喜朗会長直伝(5)>
東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(82)が日刊スポーツの
「会長直伝」(不定期連載)で、五輪史上初の延期が決定した舞台裏を語った。
日本での新型コロナウイルス感染者が増え始めた2月上旬、森会長は組織委の幹部に延期した場合の
シミュレーションをするよう内々に指示していた。中止を回避するため聖火を日本に持ち帰り、
先手を打って日本側から国際オリンピック委員会(IOC)へ延期を提案したことも明かした。【取材・構成=三須一紀】
中国・武漢で新型コロナが感染拡大し、クルーズ船など日本でもその影響が大きくなり始めた2月、
森会長の頭に延期の可能性がちらついた。首相時代に取り組んだ沖縄サミットの感染症対策などの
経験から、新型コロナが「年内には収まらない」と予測した。
森会長 組織委の一部幹部に、大会を半年または1年ずらしたらどうなるかなど、今から考えた方が良いと話していた。
−そんな中、森会長をはじめとした各団体の長は表向き「通常開催を目指す」と言い続けた。理由は
森会長 日本側がその姿勢を崩したら、IOCバッハ会長は喜んで「中止」を選択しただろう。
−3月22日、森会長とバッハ会長の電話会談で延期の方向性が決まった。なぜこのタイミングだったのか
森会長 IOCはこれまでの我々の努力を認めてくれている。だからバッハ会長は中止を避けたい日本の立場
を考えてくれた。その間、IOC理事や各国オリンピック委員会がいろいろなことを言い出した。それでも
バッハ会長は日本のために耐えていたと思う。だから、どこかでバッハ会長に応え、日本も延期を打ち出す
必要があった。国連や他国、他団体から「中止すべきだ」と言われたら、目も当てられない。その前に、
バッハ会長と協調している間に、延期論を出さなければならなかった。 −日本側として中止はあり得なかった
森会長 もちろん。選手たちもガッカリするし、経済もガタガタになる。
−そこからわずか2日後に史上初の延期が決まった
森会長 バッハ会長と急いで会談したいと、安倍首相の意向だった。私の勘で言えばトランプ米大統領、
G7首脳の順で延期の応援を取り付けたことで、24日になったのだと思う。
−安倍首相に対し、2年延期の選択肢も提示した
森会長 感染症がどうなるか分からない。2年の方が安全だと誰もが考える。だから一応、提示したが首相は
「1年にしましょう」と言い、決まった。でも、現実的には選手のこと、大会運営上の問題を考えても
2年延期はありえなかった。22年は北京冬季五輪があるし、その2年後にはパリ五輪がある。2年後なら中止になる。
−来年9月に迎える安倍首相の自民党総裁任期と1年延期の関係は
森会長 関係ない。
−ギリシャでの採火式、引き継ぎ式が縮小される中でも、なんとか聖火を日本に持ってきた
森会長 延期を決める上で、聖火が(20日に)日本に来ていたことは極めて良いタイミングだった。
−聖火が日本に来ていなかったら大会の中止もありえたか
森会長 そうかもしれない。
−延期した東京五輪はどのような大会になるか
森会長 延期前は健常者と障がい者の壁を取り払う「共生」をテーマにしていた。延期後は、人類の危機を
乗り越える戦いとなるため、共生に加えたテーマが必要。皆さんの知恵をお借りして今後、打ち出していきたい。 豊洲で左曲がりに終わる ゆりかもめ 軌道、その先に続く計画ルートは
https://article.yahoo.co.jp/detail/1a3e05f3db553f326d32a0f1e68216ef6adc77ea
4/29(水) 20:45配信
東京2020オリンピック・パラリンピックの競技場が集結する湾岸エリア。
ゆりかもめ の終点 豊洲駅とその周辺は、タワーマンションが次々に立ち並ぶ大人気エリア。
そんな ゆりかもめ の豊洲駅は、軌道の末端部分が左曲がりで終わってる。この続きはどこへ行くのか、どんな計画ルートがあるのか。
そのヒントが↓↓↓の地図。東京都が1990年代に公開した資料で、ピックの点線がゆりかもめ。公表当時は、ゆりかもめは有明まで開業していた。
豊洲はピンク点線の太い点線が細い点線に変わる付近。
この地図上の左曲がりが、いまリアルに残ってる左曲がりプツン断線。
ゆりかもめ は、豊洲の先、大江戸線の勝どき駅と接続する計画だった。それもまっすぐに行かず、コの字型に右へ左へと曲がりながら。
おそらく、豊洲交差点で左折し、晴海通り沿いに軌道がのび、月島警察署前交差点で環二通りへ右折、黎明大橋を渡って
勝どき陸橋交差点を清澄通りへ右折し、勝どき駅へ到達するというイメージ。
が! この計画は、交通政策審議会が2016年に公表した「東京圏における今後の都市鉄道のあり方」から、候補落ち。
豊洲をはじめとする臨海部エリアは、「都心部・臨海地域地下鉄構想の新設及び同構想と常磐新線延伸の一体整備
(臨海部〜銀座〜東京)・東京駅付近において常磐新線と相互直通運転を行う」や、「東京8号線(有楽町線)の
延伸(豊洲〜住吉)」がプロジェクト候補にあがり、ゆりかもめ延伸計画は見事にスルーされてしまった。
――― 豊洲交差点でぐいっと曲がる ゆりかもめ軌道。その構想や、まさかの逆転劇を想いながら、歩いてみて。 京急品川駅が景色が変わるほどただいま大改装中 「連続立体交差化」って何?〈dot.〉
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200419-00000007-sasahi-life
4/29(水) 17:00配信
京浜急行品川駅とその周辺が大きく生まれ変わる。2020年4月1日、東京都建設局が京急本線泉岳寺〜新馬場間
約1.7キロ区間の連続立体交差事業に着手する旨を発表。およそ10年にわたる大事業がスタートすることになった。
* * *
■幹線同士が交差する“開かずの踏切”の解消を目指す
立体交差化されるのは、港区高輪2丁目〜品川区北品川2丁目間のおよそ1.7キロ区間。京急の駅では新馬場〜泉岳寺
の4駅間にまたがる区間だ。高架と地表、地下と3層に及ぶ大規模な計画で、現在は高架駅となっている京急品川駅を
地表に移設することなどが盛り込まれている。事業規模は1247億円。2020年度に着工し2029年度の完成となる計画だ。
この事業により、同区間3カ所の踏切(品川第一、品川第二、北品川第一)が廃止され立体交差化、慢性化している
道路渋滞の軽減をはかる。とりわけ、品川構内に近い通称「八ツ山橋踏切」(品川第一、第二)は、時間帯によっては
1時間あたり40分を超えて遮断機が降りている状況であり、今回の事業目的の柱ともなっている。
一方、京急品川駅の大改装は品川駅周辺開発計画の一環でもあり、利用者の動線を含め大幅に改善される見込みだ。
駅構造は現在の2面3線から2面4線化され、京急本線の輸送力増強が期待できる。駅施設は現在より泉岳寺側に移設
されるほか、全体にJR側に移動する。西側(高輪口側)の1面は現在の1・2番線直下に、東側(港南口側)の1面は、
現在JR1・2番線(山手線)ホームの西側にある留置線部分に設けられる。
京急の改札口やコンコースはJRと同じ2階部分に設けられるため、両社間の乗り換え通路にある段差が解消される予定。
また、京急駅の地表下によって、2階コンコースと自由通路が京急側の高輪口まで延長可能となる。
完成後には、街の東西を結ぶルートとしての活用もはかられるに違いない。
同じく大改装される北品川駅は、現状より東側に移設される形で、2面2線ホームが高架上に設けられるほか、西側に保守線が設置される。 ■起伏に富む地形を地下と地表、高架化で克服
現状では泉岳寺が地下駅、品川と新馬場が高架駅で、北品川が地表駅となっている(泉岳寺から順に地下ー高架ー地表ー高架)。
品川は高架駅ではあるものの、北品川側に向けて地形がせり上がっている関係で、駅構内を抜けるとほどなく地表線となり、
北品川駅へと至る。京急線の下り列車に乗って高架の京急品川駅を発車すると間もなく幅の広い踏切(八ツ山橋踏切)を渡り、
地形の起伏を実感できることだろう。さらに北品川〜新馬場駅間で勾配線を登ると高架線区間に入るという線形だ。
今回の計画はこの部分などが高架化され、周辺の景色も大きく変貌するに違いない。具体的には、地表化した品川駅構内の
北品川側からすぐに勾配線となり、高架の北品川駅へ向かって駈け登る形となる。高架部分には防音壁が設けられるほか、
バラスト軌道とロングレールとするなど騒音軽減がはかられる。泉岳寺側は、現状の高架と地下とを結ぶ勾配が緩和され、
引上線も高架から地表に移設される。
完成後は新幹線を含む大規模駅である品川駅が大きく変貌するとともに、周辺道路環境の大幅な改善が期待される。
また、品川駅ホームが増強されることにより、京急の輸送力も向上することだろう。通勤・通学需要はもとより、
羽田国際空港アクセスなど、多方面への効果を期待したいところだ。(文・植村誠)
植村誠(うえむら・まこと)/国内外を問わず、鉄道をはじめのりものを楽しむ旅をテーマに取材・執筆中。
近年は東南アジアを重点的に散策している。主な著書に『ワンテーマ指さし会話韓国×鉄道』(情報センター出版局)、
『ボートで東京湾を遊びつくす!』(情報センター出版局・共著)、『絶対この季節に乗りたい鉄道の旅』(東京書籍・共著)など。 都心の渓谷「お茶の水」の坂道を走る51年前の都電 江戸期から続く名所の変貌〈AERA〉
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200424-00000058-sasahi-life
4/25(土) 7:00配信
1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに
当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は本郷台地から外濠通りを
水道橋に下るお茶の水坂と、坂下で交差する白山通りを走る水道橋線の都電だ。
* * *
神田川の南岸に位置する駿河台と、これに拮抗する北岸の本郷台がおりなす御茶ノ水渓谷は、江戸城の
外濠として防衛上の重要な役目を果たしていた。御茶ノ水の渓谷美は明治期から絵画や詩に遺されており、
現在でも四季折々の移ろいを楽しめる都心の景勝地だ。
駿河台と本郷台を結ぶお茶の水橋に敷設されていた錦町線の線路遺構の話題は既に配信しているが、
今回は本郷台地の南端を東西に貫く外濠通りに敷設された御茶ノ水線の「お茶の水坂」と、坂下の
白山通りに敷かれた水道橋線を走る都電と街並みの話題だ。
冒頭の写真は「お茶の水坂」の上り勾配を力走する13系岩本町行きの都電。水道橋から本郷元町まで、
230mの上り坂が続く御茶ノ水線の難所だった。画面右側には震災復興公園として1930年に開園された
「元町公園」の樹木が見える。洋風に造園された園内からは神田川の渓谷美と駿河台の街並みを鑑賞できる。
高層建築が無かった時代、好天日には「富士山」が遠望できたため、お茶の水坂も「富士見坂」の一つに数えられていた。
半世紀を経た近景では、神田川寄りに街路樹が植樹された歩道が設置されて、人に優しい緑豊かな「お茶の水坂」
に変貌していた。元町公園の背後の建物が東京都立工芸高校の校舎で、クリエーターの養成校に相応しい際立った
外観をしている。その右奥の高層建築が東京ドームホテルで、前世紀末の1999年から営業を開始している。 ■風光明媚な御茶ノ水渓谷が都電車窓に展開
外濠通りに設置された御茶ノ水停留所から13系統新宿駅前行きの都電に乗車。停留所を発車すると、神田川に
架橋されたお茶の水橋が左手の視界に入ってくる。往時は橋上で折り返す錦町線があったことを思い出す。
右側には東京医科歯科大学の建物が見え、関東大震災までは、この地に東京女子高等師範の学び舎があった。
直近の三差路の交差点を直進すると大きく展望が開け、湯島から本郷元町(現本郷二丁目)に町名が変わる。
右には順天堂大学病院が所在し、少し西側に「日本学生会館(旧・文化アパートメント)」が見えると、本郷元町
の停留所だ。ちなみに、1965年に実施された町名変更にともなって、本郷元町の呼称は順天堂病院前に改称された。
本郷元町を発車して200mくらい進むと、最急勾配が52.6パーミルの「お茶の水坂」に差し掛かる。
頭上には「特別坂路 注意」の標識板が現れ、都電は一旦停止してからブレーキを緩め、水道橋に向けて坂を下って行く。
車窓左手には神田川畔の渓谷が続き、対岸には国鉄(現JR)中央快速・緩行線が並走している。
御茶ノ水駅に向かう中央線上り快速電車と緩行電車がクロスオーバーするファン垂涎のシーンが展開する。
次のカットは本郷元町を発車してお茶の水坂に差し掛かる13系統新宿駅前行きの都電。画面右側の上空には
「特別坂路 注意」の標識板が見える。神田川を挟んだ対面の建造物は、1995年まで駿河台に所在した日仏会館と推察した。
画面左端には東京医科歯科大学を背景にした13系統水天宮前行きも写っている。
■母校・日大経済学部屋上から撮った本郷の都電風景
1968年3月31日に、母校である日大経済学部三崎町校舎前を走る水道橋線の廃止が予定されていた。春休み中の校舎の
屋上から、後述の水道橋停留所と一緒に本郷台方向の都電を撮影した。このカットは、アサヒペンタックスSVにタクマー
200mmF3.5望遠レンズを装填した一コマだ。画面手前が神田川の北岸で、外濠通りにはお茶の水坂を上り順天堂病院前停留所
に接近する13系統水天宮前行き都電が写っている。この13系統も撮影した3月いっぱいで、運転区間が新宿駅前〜水天宮前から
新宿駅前〜岩本町に短縮の予定だった。 画面右端のクラシックなビルが「日本学生会館」だ。この建物は大正期の1922年に竣工した日本初の洋式集合住宅。
本郷のランドマークの一つとして親しまれたが、老朽化したため1986年に解体された。
都電の背景が戦災を免れた本郷元町の街並みで、昭和の雰囲気を醸し出す佇まいが残されていた。
この一隅には、筆者も通った「鉄道模型社」の店舗が盛業していた。同社はHOゲージのC62型やEF58型など、国鉄の看板車両
をいち早く製品化した鉄道模型メーカーで、戦後の鉄道模型業界の原点となった。
次のカットは、タクマー200mm望遠レンズが捉えた水道橋停留所を行き交う17系統の都電だ。17系統は3月31日で、運転区間が
池袋駅前〜数寄屋橋から池袋駅前〜文京区役所前(旧称春日町)に短縮の予定で、水道橋からは姿を消すことになっていた。
画面手前から左奥にかけて、白山通りに敷設された水道橋線の軌道敷が写っている。画面左中央が後楽園前停留所で、戦前は
壱岐坂下と呼称されていた。その奥に営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内線の跨道橋が見えている。
私事で恐縮だが、筆者が東京写真専門学院(現東京ビジュアルアーツ)に在学中、画面右手前に写っている「日本水道会館」
にはスタジオと暗室の教室が設置されていた。二年次には駿河台のお茶ノ水本校舎と共に、この水道会館でも実習授業を受けていた。
建物の二階には喫茶店「舟」があった。供食施設やロビーが整った本校舎と違い、分校舎の水道会館にはその様なスペースがなく、
舟が先生方や学生の談話室になっていた。コーヒーカップを傾けながら、先生方や級友たちと写真論を熱く語った思い出がある。
また、作家・三島由紀夫がトレーニングに通った「後楽園ジム」帰りの飲食に、舟の階下で盛業していた「かつ吉」を贔屓にしていた。
というエピソードも残っている。
最後のカットが水道橋交差点から写した半世紀後の白山通りと本郷一丁目の近景だ。件の日本水道会館は建て直されて、
貸し会議室の全水道会館になっていた。画面左隅の観覧車の見える遊園地は、従来の「後楽園ゆうえんち」をリニューアルした
「東京ドームシティアトラクションズ」で、2002年に開園している。 左奥の東京メトロ丸ノ内線の跨道橋には1988年に登場した02系が写っている。
数年後に全車が新鋭の2000系に置き換えられる予定だ。
1960年代の水道橋交差点は2・13・17・18・35の五系統の都電で賑わった。
最後まで残った13系統が1970年3月に廃止され、交差点から都電の轍が消えた。
温かさや生活感に溢れた本郷の街並みは、半世紀という歳月の中でオフィスビルが林立するクールな街に変貌した。
時の流れの冷酷さを、あらためて痛感している昨今だ。
■撮影;1969年6月9日
◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。
鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、
「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。
2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。
※AERAオンライン限定記事 メールの書き出し「お疲れさまです」が相手にとって迷惑な理由
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200428-00010000-php_s-bus_all
4/28(火)11:44配信
ビジネスチャットツールやオンライン会議ツールの普及で、仕事のスピードアップ化が急速に
進むなかでも、仕事のおける「メール」の存在感はまだまだ大きい。
外部との連絡はメールがベースとなるケースも多いし、そのぶんメール対応に手を取られがちで、
貴重な時間を消費していくことも多々。
新著『仕事が早い人は、「これ」しかやらない』を上梓した石川和夫氏は、同書において
「メールに時間を奪われない方法」を示している。ここではその一節を紹介したい。
※本稿は、石川和男著『仕事が早い人は、「これ」しかやらない』(PHP研究所刊)より一部抜粋・編集したものです。
■あなたはメールに振り回されていないか?
世の中、すっかりネットワーク社会になりました。図書館に行かなくても情報は手に入ります。
必要な情報をスクラップしなくても簡単に保存できます。さまざまな情報が瞬時に手に入るようになりました。
コミュニケーションも、昔は直接会うか電話でした。今はメールでOK。
情報伝達も、SNSを通じて世界中に発信できるようになりました。
しかし便利になった反面、便利な仕組みに振り回されてしまい、かえって仕事が遅くなっている
ケースが多くあります。必要な情報を得ようとネットで探していると、不要な情報まで目に入り、
気がつくと何時間もネットサーフィンをしてしまっていた。離れている相手には、電話か手紙
でしかコミュニケーションが取れなかったのに、今はメールという便利な手段を手に入れた分、
不必要な連絡も入るようになりました。もちろん、メールが便利であることは否定しません。
多忙な相手にも連絡を取りやすい、添付ファイルをつければ多くの情報を送ることができる、記録に
残る、CC機能を利用して多数の人に同時に内容を伝えることができるなど、多くのメリットがあります。
これらのメリットを享受しつつ、仕事を効率的に行ううえで、メールとどう付き合っていくべきか? 私が考える8つの注意点をお伝えします。
■1日のうちで、メールをチェックする回数と時間を決めてしまう
【1】メールをチェックする回数と時間を決める
私はメールを確認する時間を、出社時、13時、15時、帰社前の4回に決めています。
もちろん「部下が取引先を回っていて連絡してくるのに、4回では少ない」「新人なので、頻繁にメール
をチェックする必要がない」など、あなたの職種や立場によって回数は変わります。あなたにあったメール
をチェックする回数と時間を決めてみてください。それだけでも、メールに振り回されなくなります。
ただし「今日は得意先から緊急の連絡が入る」などの予定があれば、臨機応変に対応してください。
【2】緊急のメールはスキマ時間に確認する
メールをチェックする回数と時間を決めても、何か緊急の連絡が入っていないか気になるものです。
私は15分単位で仕事をしています。ジャスト15分より早く終わらせることを目標にしているので、60分の間
にスキマ時間が1〜5分ほどできます。この時間が、私にとっては緊急のメールがきていないかチェックする
時間なのです。ざっと確認し、すぐに返信が必要なものにだけ対応します。後から返信すればいいメールは、
【1】で決めたメールチェックの時間で返信するようにしています。
■決まりきった慣用句は読み手、書き手の双方にとって無駄
【3】開いた受信メールはすぐ返信
メールを開いたら対応は3種類しかありません。「すぐ返信」「すぐ削除」「後で返信する」の3つです。
原則は、「すぐ返信」か「すぐ削除」ですが、返信が必要でも他にどうしても急ぐ仕事があり返信できない
場合は、返信する時間をその場で決めてください。二度読みや返信のし忘れを防ぐことができます。
【4】午前中は重要なメールしか開かない
集中力がみなぎっていて、仕事が進む午前中はゴールデンタイムです。
メールをチェックする必要はあっても、重要ではないメールにまで時間を使うのはもったいない。
メールのタイトルを見て、重要なメールだけを開きましょう。 【5】社内メールでは、無駄を省くルールを決める
私の事務所では、社内メールのやり取りで「お疲れ様」などの慣用句を省略するというルールにしています。
毎回の決まりきった言葉は、打つほうも読むほうも時間の無駄だからです。また、緊急のメールは件名でわかる
ようにすると決めています。このように、チーム内でメールの効率化につながるルールを決めることが重要です。
■受信通知はオフにして集中力をキープ
【6】複雑な内容なら電話で伝える
個人相手に複雑な内容を伝えるとき、メールだと、打つほうも読むほうも大変です。必要に応じて、電話や
テレビ会議システム、あるいは対面で会うなど手段を使い分けましょう。何往復もやり取りしても正しく
伝わらないメールが、電話なら1分で正確に伝わることがありますし、謝罪のメール作成に長い時間をかける
くらいなら、いっそ直接会いに行くほうが短時間で解決につながる場合もあります。
【7】メールの受信通知はオフにする
新着メールが届くたびに通知が届くと、目の前の仕事に集中できませんよね。受信通知はオフにするのがベターです。
【8】メール返信の制限時間を15分にする
1回のメール返信にかける時間を最大でも15分と決めましょう。メールを開く時間を決めている人は多くても、
終わらせる期限を決めている人は少ないはず。私は1回15分(これもポモドーロ・テクニックの進化形です)
と決め、その時間にできるだけ多くのメールに返信するようにしています。15分を過ぎた時点で返信文の作成
が途中のときは、3分まで延長できることにし、その3分間は、しゃれで「ロスタイム」と呼んでいます。参考に
なるものは、個人だけでなく、チーム全体で取り入れて、メールに振り回されることなく、便利に活用してください。
石川和男 「理不尽なダメ出しをする人」に打ち勝つ超戦略
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200430-00346113-toyo-bus_all
4/30(木) 8:01配信
上司や同僚、あるいはお客様のささいな一言で、やる気が下がってしまったことはないだろうか?
「前例あるの?」「やる必要あるんですか?」といった発言で、やる気を下げてくる人物。
経営・組織戦略コンサルタントの西野一輝氏は、そんな人たちのことを”モチベーション下げマン”と名付けている。
こうした厄介な存在に出会ったとき、どう対処したらいいのか?西野氏は、2000人以上の経営者・著名人の
インタビューを通し、やる気が高い人にはある行動・思考の法則があったという。モチベーションを高めるため
の方法論をまとめた初の著書『モチベーション下げマンとの戦い方』から一部を抜粋・再構成して紹介する。
「誰かの一言」によって、モチベーションを大きく下げている人にたくさん会ったことがあります。
ただ不思議と、その一言を発した本人からすれば、モチベーションを下げようと思って発言していないケースが
多々あります。むしろその人のモチベーションを上げようと思って言っているケースさえもあります。
そんな「一言」に対抗する方法を紹介していきましょう。
例えば「仕事に対するこだわりが薄い点がきみの長所だね」というように、自分は相手の気持ちがわかるとか、
自分は相手のことをわかってあげようと努力していると勘違いしている“モチベーション下げマン”(以下、MSM)
はたくさんいます。自分を過大評価しているのかもしれません。残念ながら、この過大な自己評価は今後も変わりません。
「わかってないですよ」と理解させるのは相当に困難な話なのです。
このタイプにはどう反論すればよいのでしょうか。
■MSMとの上手な付き合い方
まず、変わらないのですから自分のモチベーションの下げ幅を最低限にするために、極力その人とのコミュニケーション
の量を減らしましょう。次第にMSMとの距離感を少しずつ離していくのです(この努力が実ると、自分はモチベーション
の下がる機会が減りますが、誰かが犠牲になるリスクは残ることは覚えておきましょう)。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています