虚数の実在性@物理板
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虚数は物理学的に「実在」しているでしょうか?
もしそうなら、具体的に、様相をお示し願います。
数学なら、無矛盾な体系ができる故に在りですが。
物理での実在の様相(せめて具体例)を知りたい。 物理として生まれる瞬間は無い
死もまた
科学者は死がいつかを特定するのは困難だと語る
それは物理としては実在しないから当たり前では? 19世紀のガウス、アーベル以前の人びとは、虚数自体が在るか無いかを議論していた
このスレタイの様に
ガウス、アーベル以降は有理数、実数、複素数の定義とはその集合に対する
四則演算の公理によって定義される数であると理解した。 目の前の自然は認識器官の在り方に結ぶ像でそのままの自然ではない
自然科学は自然認識だから認識の在り方を考察すべきかと
静止、生死、絶対座標は実在しないがそれらで規定する
科学は認識の在り方を相対化してきた歴史でもある
実在しないもので実在を規定している >>1
数は実在しない
…この意味では無矛盾か
無限を有限で規定
有限を無限で規定
わたしは物理としては他の物理状態の差異
つまり同一を非同一で
自身は同一であることはないが同一で
〈わたし〉は認識器官に結ぶ像を媒介にした規定
クレタ人の逆説
対象をその否定で
決定不能
ヘーゲルの運動規定、不完全性定理
無矛盾は対象に否定が存在しないことで
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止の実在を否定
自然の存在形態は運動
自然は無矛盾 >>853
そんなことは、カントが200年前に考察してるわ。
それ以上のことを言ってみろ。 >>840
だから>>839で、それを言ったんじゃないか。
読解力ゼロ。
>>841
いや、複素数でなければ理解できない現象があると主張する論文もある。
"Quantum theory based on real numbers can be experimentally falsified"
https://arxiv.org/abs/2101.10873
(但し、ピアレビューはサれていない) 静止で運動は規定されるが静止は実在しない
数で規定されるが数が実在するわけではない わたしのは二律背反の解決
規定とその対象の関係の話
静止、生死、無で規定する
〜で規定することは〜の実在を意味しないのだということ 有は無で規定されるということ
次元は実在しない
此処からは実在しない
此処までも
わたしたちが認識する自然は認識器官に結ぶ像
静止、生死、無は実在しないが認識器官には像を結ぶ
数で規定するが数は実在しないというだけ 複素数で理解出来るから複素数は実在するということにはならない
座標原点は必要だが座標原点は存在しない 自然と規定、つまり認識の在り方を多くの科学者は意識しない
自然科学は自然認識
地動説は見たものがそのままの自然ではないことを示し、以降の科学は認識の相対化の歴史でもある
数で規定するがそのことは数の実在を意味しない 対象である自然が無矛盾であることは座標原点、つまり静止という規定が実在しないことで示される
規定は否定であるから対象には当然その否定,静止は実在しないことで無矛盾であることとなる
自然が理解可能ならば数は実在しない それで理解可能だからそれは実在する、という理解はどうなんだろうという疑問です それで理解可能だからそれは実在する、という理解はどうなんだろうという疑問です 自然、論理とかの理解が前進すればそれでOK
まあアマチュアですから、面目なんかどうでもいいわけです
納得できればなんでも w 多くの物理学分野で複素数が使われるのは、それが便利な道具だからだ。
しかし、煩雑さを厭わなければ、実数だけで同じ結果を得られる。
科学的な意味で「数学が存在する」とは、観測結果を記述するために、
それが必須である場合。
通常の量子力学では、観測結果は実数値をとる。
しかし、ある種の量子もつれでは実数値で観測結果を表せない
と主張するのが>>856の論文だ。 自然科学は自然認識
科学はそのまま自然を認識できるわけではない
あくまでも認識の在り方を媒介にしている 認識には自然には存在しない基準設定が必要
認識の在り方の認識が必要 「科学による自然認識」と言う場合、それは受動的なものではない。
科学は自然に働きかけ、その反応を予測する。
つまり、科学はヒトが行動するための有利な予測を与える。
これが科学が尊重されるゆえんだ。 「占い」も予測を与える。
「占い」よりも「科学」が重んじられるのは、結局のところ、
予測能力が格段に優れているからだ。 自然が解答する
対象が答える
対象が真偽を決める
どんなにもっともらしい論理でも自然がノーならアウト いずれにしても、それで理解可能だからそれが実在するという理解には疑問がある 静止で、生死で対象を理解する
しかしそれらは実在しない
数で、虚数で理解可能だから数一般が実在するという理解には疑問 ゼノンの逆説は自然は数で規定するが、それは実在を意味しないということ
実在したら目的地には到達しないしアキレスは亀を追い抜けず運動は実在しないこととなる 絶対座標、此処からは存在しない
此処までもまた
なぜ測定値は近似値なのか 「実在」に過度に、「真の」とか「恒久の」とかといった
負荷を負わせるのは不毛だ。
あらゆる現象は変化する。
その中で、かなり安定して使える「エンティティ」があれば、
それを「実在」と呼んでよいだろう。 わたしは同一であることはない
生きつつ死につつある
科学者は認識の在り方を掘り下げるべきかと だが変化すること自体は変化しない
運動変化は恒常
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
認識の在り方を考察しないとミス・マーブルの後塵を拝しそう 飛ぶ矢は必ず一点に存在する
静止もまた一点に存在することだから飛ぶ矢は飛んでいない
運動は静止で規定するから
これは対象とその規定の問題 静止で運動を規定する
静止は実在しない
対象とその規定の問題
静止で規定するが静止は実在しない
数で規定するが数は実在しない 対象とその規定の在り方が様々な問題を出来するだけ
運動とは存在すると同時にしないこと
存在という規定の問題 今日は疲れた
中島みゆき聴きながら寝るわ
あしたの昼までは残って居るよな 変化と時間は別ものだ。
変化はプロセスであり、時間は数のつらなりである(連続か、不連続かはともかく)。
物理学としてのゼノンのパラドックスでは、このことを意識するべきだ。
でないと、文学的言説に終わってしまう。 前にも書いた
現在、今には幅が無い
現に在る、過去は過ぎ去り、未来は未だ来たらざるで、過去も未来も現在、今には存在しない
今には幅が無い
今、此処と指示すると、今、此処は飛び去る
自然の存在形態は運動であることは、絶対座標、つまり運動の否定、静止が実在しないことで示される
座標原点は実在する今、此処を静止で規定するということ
規定は否定であり、今、此処という規定も運動を静止で規定する言葉
運動という有を静止という無で規定している
今には幅が〈無〉い
0に限りなく近いが0では無いという不思議な規定の所以
有を無で規定するから測定は≒でしかなく、近似値でしかない
不確定性原理の所以
0次元、座標原点は実在しない
無を無限に集めても無
静止である三次元を無限に集めても運動するわけではない
運動は直接理解出来ないから量で、0に限りなく近いが0では無いとしなければならない
四次元も0次元同様に実在しない
それは認識の在り方が要請する観念的存在で実在しない
現在しか実在しないし、現在、今の正体は運動
年、月、日、秒・・・
それらは太陽の周りを地球が一周、1回転、1回転を24で割り・・・
つまり時間は運動量
年、月、日、秒は運動量で実在しない
実在したらどんな風にわたしたちの前に展開するのか
米が苗から実るまでが一望のもとに存在する?
蝉の羽化から死ぬまでが一望のもとに?
時間は認識の在り方が要請する観念的存在で物理として実在しない
静止で運動を規定するが静止は実在しない
時間で規定するが時間は実在しない
生まれるとは物理状態の変化、死もまた
生滅で規定するが物理として生滅は実在しない
対象は認識の在り方からそのままでは規定、理解出来ない
〜で理解するが〜が実在するわけではない 自然は多か一かということ
ゼノンの逆説は自然が多、数で出来ているとしたら運動は不可能ということを示した
しかし多で規定、認識することは否定しない
自然を多で規定するが自然は多ではないことを示した
多で出来ていると仮定したら最小単位の半分があることを示す
数に大きさが無いのなら目的地に到達することはなく
アキレスが亀を追い抜くことは無く、飛ぶ矢は静止していることになる
あくまでも対象はそのままでは規定できないということ
運動は静止で、物理状態の遷移は生死で
静止、生死で規定するが実在しない
〜で規定するが〜は実在しない
時間もまた 自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反撥してまた新たな濃淡を生成していく過程
淡は認識の在り方から像として結ばず、自然は多として認識器官に像を結ぶ
次元はその抽象
多で規定するが多はあくまでも認識器官に結ぶ自然の像でしかない
自然科学は自然認識の相対化の歴史という側面がある
静止、生死、無、此処からで自然を規定するがそれらは実在しない
時間で規定するが時間は実在しない
数で規定するが数は実在しない
ゼノンの逆説は光速度一定の原理で裏付けられている 自然科学は自然認識
認識の在り方は考察されるべきだと理系の学徒に提案したい
認識の在り方に結ぶ像がそのままの自然ならば諸生物の数だけ自然が存在することになる
ああ、繰り返しだな
んじゃ午後にやることが無ければ午後にまた わたしは自然とは、科学とはを通して人間とはを理解したいだけ
納得できれば良いだけ
わたしの理解が間違っていることを納得できる形で示してくれたら直ちに撤回します
わたしの目的は人間とは?、ということ
科学もその手段です 有を無で、対象をその否定で
決定不能の所以
クレタ人の逆説は否定で規定するから
嘘つきであると嘘つきが正直に言うから
自然は無矛盾であることは規定、否定が対象に存在しないことで示される
無矛盾であるが否定で規定するからいろいろな問題が
生物非生物と物理状態の差異を否定で規定するからウイルスのような分類困難な対象が
つまり分類すること、規定することが原因でなんら自然という対象の問題ではない
規定すること自身の問題
認識の在り方を考察しなければならない所以 わたしの理解だが
光速度一定の原理は対象である自然が無矛盾であることを証し、規定の本質を示している
極めて単純、極めて豊穣とタゴールは歌った
この原理の評言として相応しいかと んじゃ
朝から中島みゆきはちとキツいかな w
・・・わたしの自然理解の結論はちとナニ
宗教や共産主義幻想は人間が人間である限り不滅なんだろうな
迷惑かけない限り何を妄想しても勝手だが。迷惑をかけるのが思想や宗教かなと
人間は社会的動物だからなあ
とりあえず納得出来る形では解決できたが、新約聖書学、数学、マルクス主義みたいに
究明すると目的と真逆の結果が出て来たりする
さてと、どうしようかなと 学問の為の学問もアリかな
芸術至上主義が成果を産まないなんてことはないし
わたしの立場は究極として人間理解
そうそうマタイ福音書の動機はかなりいかがわしいが思想としては高く評価されている
バッハのマタイ受難曲という西洋音楽の金字塔まで
いろいろ皮肉だ
バッハが苦手な母が私が映像版で視聴していたらいつの間にか横に座り
三時間最後まで観て、良い曲だねと台所に戻ったことを昨日のことのように思いだす
いや、学問に少しでも寄与できればわたしの願いは叶う
いろいろな視点、理解があることを理系の徒にということです
素人ですが、ファイアアーベントは専門家の過ちを素人が正すことはしばしばあるとその著書で述べ
わたしが傾倒する言語学者もまた素人だからというのは違うと書いている
わたしの理解がそうであればとは思いますが
いずれにしてもこれからの学問が、自然が回答するかと 宇宙の妄想だけなら人畜無害だが、人間社会に関わると有害となる 神戸5人殺傷事件の男は”他人が人間と同じ姿で自我や感情を持たない哲学的ゾンビ”
と称する被告の妄想が裁判で認定され無罪判決。 反駁がないのが残念です
あとIDが・・・
あたいの夏休み
調子がいい曲だからかな
三十年以上前の曲だがよく覚えている
中島みゆきと美空ひばりは正座して聴くといった著名な批評家がいた
美空ひばりは苦手なんだが、ラジオから流れてきた「さくら」には聴き惚れた 自然には次元、諸力は実在しないと理解している
対象と規定の関係の問題
対象は無矛盾、規定は否定
自然はただただ運動変化しているだけ 対象と規定の関係
認識論
認識の在り方を考察してください 科学革命が必要な段階なのではないかと
地動説を知ったルターは一人の馬鹿者が天の世界を変えようとしていると述べたそうです
そのくらいの展開が必要なのではないでしょうか
見たものがそのままの自然ではないという地動説が示すことを深めることが必要な段階ではないでしょうか 「進化は万能である」はなかなか面白い指摘をしているが不満はある
まだ西洋文化圏から基本として逃れていないのではないかと 新約聖書学、数学はドイツ人が
共産主義は日本人がそれぞれケリをつけています
わたしは科学もまた日本人がケリをつけて欲しいと願うものです 新約聖書学、数学はドイツ人が
共産主義は日本人がそれぞれケリをつけています
わたしは科学もまた日本人がケリをつけて欲しいと願うものです ・・・まあほとんどの人間の怨嗟の的になりそうな結論が待っていそうですが わたしの論は地動説などの認識論からの理解
静止して見える地球
球体には観えない地球
見えるものがそのままの自然ではない
鵺的な存在は規定するから
対象であるウイルスは生物非生物どちらかというのは悩まない
分類するから、規定するから
認識の在り方は究明されるべきかということ
絶対座標は実在しないが・・・
対象をその否定、静止、生死、無で規定する
それはどういうことなのか
ゼノン、カント、ヘーゲル、スピノザ・・・ 観るということは自然が生成した認識器官の在り方に結ぶ像ということ
認識の在り方は考察されるべきかと
静止、生死、無は物理としては実在しない
どういうことを示すのか
静止は運動、生死もまた物理状態の差異、無は有の一形態
否定関係は存在しないが否定で規定する 〜に成る
最小単位からは成らない
物理条件が生成できればいくらでも小さくなる、大きくなる
親和反発して新たな濃淡の生成する過程が自然 対象ー認識ー表現
認識を挟みます
対象をそのまま認識できるのかということ 認識の在り方、認識論が必要なのだとわたしは主張します
認識に結ぶ像はそのままの自然ではないのだと 自然科学は自然の一部である人間の自己言及という側面がある
自己言及はフォイエルバッハを経て言語学者三浦つとむが語っている
街の地図を描く場合、観念として空中から眺める
場合により日本、地球、銀河系も描くことが出来るのはこの能力
また古今東西に頭の中で立ち会える
小説や映画の主人公にも成れる
〈わたし〉という表現は自己を他者として認識するということ
対象ー認識ー表現ということ
三浦つとむは野球中継を例に挙げている
意識というか精神は寝ているときは意識が低下するし、炎天下というか環境にかなり影響され、脳が破壊されたら無くなるからある物理状態の附随現象と理解できる
窓も何もない白い部屋にいると時間差はあるが百パーセント幻覚を見るという実験結果がある
これは感覚に刺激があまりない場合勝手に励起するのではないかと
空耳があるのだから視覚もというのは当然の帰結かと
宮沢賢治がこの体質らしい
簡単に言えばぶっ壊れやすいということではないかと
機能不全にかんたんに陥る
休めばまた正常にということ
わたしも幻覚体質で自覚したのは十代初めから
曲がり角でバイクが目の前に現れびっくりして立ち止まったが直ぐに消えた
大人になって仕事で疲れた時に三夜連続で体験したが試験勉強で疲れた時もいろいろ体験した
たぶん丑三つ時かな、深夜に布団の周りを人が歩く、触られたら嫌だなと思うと脹脛を触ってきたり、観たら嫌だなと思ったら隣の部屋に人影が
空耳もヤバくて、同僚がえっという顔をしたりした
精神科医が雪山での集団幻覚体験を報告している本を読んだ
物理条件で見るということかと
幽霊は西洋では足があるとか
ハムレットにそんな描写があるとか
文化形態でいろいろあることを指摘した本があったな
母が無くなり数か月後に部屋に出てきてすぐ消えた時はまた来てねと呟き、幻覚体質に感謝した 全ては幻覚というのは否定するが根拠はある
・・・まあ全ては幻覚なら、その認識も幻覚であるわけで w
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
両方とも真理だ
アガサ・クリスティー ミス・マーブルの言葉
この逆説的ものいいも認識の在り方の問題
わたしたちも含めてこの多様な自然はエネルギーの一形態が認識器官の在り方に結ぶ像
認識器官もまた自然の一形態
極めて単純、極めて豊穣 タゴール
その通りではないかと いろいろ不思議なことはある
それは雷という自然現象理解の歴史を振り返るとどのように対応したら良いのかが判るのではないかと
雷は神鳴りと理解された
人間は解らないことを解らないとはなかなか出来ない
神鳴りと理解してしまうが、それは未解明事象だということ
解らないことはなんの根拠にならない
科学では判らないと言う人が居るが、現在の科学では不明というだけ
雷解明の歴史から判る
それは未来の学問も解明できないのかということを示さなければ科学は解明できないということにならない
個人的には自然が何故存在するのかは解明できないと考えている
自然はただあるだけ
自然が無矛盾、つまり理解可能であることは、規定、否定が自然に存在しないことで証明されるということ
つまり自然に論理自体は存在しない
・・・ここからはあまり立ち入りたくないわけで
ドイツ人なら立ち入りそう
共産主義は成立しないという結論を導く論文をものした三浦つとむは、弟子の結論に最期まで抵抗したが、論拠が薄弱で、もう良いよ三浦さんと思ったことがあった
科学の結論はちと
物理学者が人間が何処から来て何処に行くのかというゴーギャン風の問題意識をテレビで語っていたが、論理としては納得するが感情は納得しない結論になるだろうなと思った 「進化は万能である」は認識の在り方も示していて出色だと思った
共産主義がなぜ成立しないのか違う方向で語っている
新約聖書学のブルトマンはイエスはキリストではなく、思想としてキリスト教と対立する可能性を示したが、学の結論とわたしの信仰は別だと語った
ネットでこれを読んだキリスト教徒が、あんなのはだなあと書いていたことがある
哲学サイトでも、マルクス主義者があんなのはだなあとマルクスの学的方法で共産主義を否定した政治学者に反発して、ああ思想、宗教は同じなんだなあと痛感した
数学者は愕然としたが不完全性定理の結論は受け容れ前提となったわけで
理数系学徒はやはり違うなとは思った
ただ科学の結論はかなり衝撃になりそうだからどうなのかなと
生きているうちは示されないだろうから、混乱は目の当たりにはしないだろうが、見てみたい気もする
星新一のショートショートにいろいろ解って世界が静まるようなのがあったと記憶している
ヒューゴー賞受賞の「地獄行列車」だったかな、あれは愉快な短編だった
絶望の果てがもたす愉悦ってことかな
どこかにあったな、中学生の時に読んだから記憶が曖昧 w
わたしは生とはとを理解したかっただけだが、結論から逃げたくなった
竹宮恵子の「地球へ・・・」の最後のコマを思いだしてしまう 数とは何かを解明する前提を考える必要があるのではということ
わたしの主張です
論理内部では解決できないのでは、ということです 人は感情で生きているからなあ
科学者も信じて居るものが否定されたら反発するのは当然で
わたしは自然を理解したいという感情を優先したらそれも克服できるかと
言うは易く行うは難し、ですが w 五チャンネルという辺境ですから、気楽に放言できます
実生活で言えないことを言い散らせる自由な場ですし
この数十年の流れだと科学革命が俟たれていると妄想しているド素人です
どなたが納得できる論を提供することを願っています わたしの結論は対象である自然に論理は存在しないということです
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反撥してまた新たな濃淡を生成していく過程です
数も力も無い
・・・なんか宗教も共産主義も無碍に否定するのはとは思います
人は感情で幻想で生きていくわけで
ある知識人が宗教に回帰していくのを描いた小論がありました
ただやはり宗教は絶対だと思うから強制が伴うわけです
人間が人間である限りの背反
これまでの、これからの宇宙の何処かで繰り広げられる永遠の悲喜劇ということかも
シェークスピアも古代ギリシャ悲劇も、ニュートン、アインシュタインももそこにいるわけで
イエスもまた 科学の為の科学もアリかと
それが自然、人間理解に繋がるのなら
仮面の告白は印象に残りました
これもまた人間なのだと思えます
ここでの意見というか認識の開陳もまた 納得できればなんでも
未だ納得出来るそれは無いわけです
それ以外ではありません
悪意などはありません
ただただ納得したいだけなのです 少しだけでも認識論やった方が良い>理数系
十九世紀のある学者は科学者は哲学を軽視するがその実最悪の哲学に囚われていると書いた
ある理系会議室で生死の瞬間は特定が甚だ困難だと反駁された
いや物理として生滅は無いから無理なんだと返したら理数系沈黙
時間は在るだろうと返された
いや0次元がないんだからさ
時間は運動(量)に還元される
仮に実在したら静止する自然、そしてわたしたちも自然だから無限に実在することになるだろう
否定で規定している
一を多で、だから四次元が必要
〜で規定するが〜は実在しない
静止、生死、無、終始・・・ 対象が宇宙非宇宙と否定関係を想定している
エネルギー保存則、光速度一定の原理を無視している
赤方偏移はアープの異説、背景放射は違う理解が可能だと天文学者が論文をだしスムート博士は否定出来ないと語った
大構造はビッグバン仮説が想定する時間の数倍が必要
無限宇宙論も未解明項がある
ガリレオは重力が発見されていない時に地球の裏側の人たちはどうしがみついていると言われ
それは後世の人が解決すると言った
現在の科学から裁断するのは疑問がある
無限宇宙論でないと科学の前提を否定することになる それはともかく
数一般は存在しない
数で規定するが数は実在しない
規定は否定
有は無で規定される
一は多で 繰りかえすが、わたしの興味は人間とはで、科学と論理はその手段
無矛盾な自然観からということで
残念ながら現在の学問は未だの観がある
未解明事項はあるにしてもここまでは言えるのではと思えることをということです
邪馬台国論争はまだまだ決着はないようだが、その時に大学者は此処までは言えるということが解かっている人だとある方が書いていた
この論争は三割くらいが確かなことで後は未確定なことばかりだと
四十年以上前のことです
わたしは現在どこまでが確かなのかを考えたい
ビッグバン仮説は確かな証拠は皆無だと認識しています
わたしは科学の成立前提と科学が確立してきたことから自然、論理を考えたい
NHKがアメリカの政治学の講義の人気シリーズに続いて物理学教室やってその中でエネルギー保存則が一番重要と言っていたが、ならばビッグバン仮説はいろいろ怪しいわけです
また数一般の実在ははなはだ疑問なわけです まあ残念ながらわたしたちは大学者ではないことは確かなわけで
籔にらみでも言いたいことは言いたいわけです w 竹内、茂木の共著では現在の学の在り方から科学理論を裁断する危うさを説いている
気象学者もと学会の否定の在り方に疑問を呈している
竹内は新たな視点が求められている現在で、この批判、否定の在り方はと疑義を呈している
それはともかく、ビッグバン仮説は周転円を重ねに重ねているという理解もある
今世紀中には片が付くと予想しているのだが、それまで生きてはいないし
うん、コペルニクスが気取れるから、幸せかも www 竹内、茂木の共著では現在の学の在り方から科学理論を裁断する危うさを説いている
気象学者もと学会の否定の在り方に疑問を呈している
竹内は新たな視点が求められている現在で、この批判、否定の在り方はと疑義を呈している
それはともかく、ビッグバン仮説は周転円を重ねに重ねているという理解もある
今世紀中には片が付くと予想しているのだが、それまで生きてはいないし
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気象学者もと学会の否定の在り方に疑問を呈している
竹内は新たな視点が求められている現在で、この批判、否定の在り方はと疑義を呈している
それはともかく、ビッグバン仮説は周転円を重ねに重ねているという理解もある
今世紀中には片が付くと予想しているのだが、それまで生きてはいないし
うん、コペルニクスが気取れるから、幸せかも www あっ、気象学者の論拠はガリレオかも
重力は発見されていなかったが後世の人たちが説明してくれるとした
地球も諸天体と同じで静止ー運動という否定関係ではないということ
ビッグバン仮説は宇宙非宇宙前提にしている
つまりこの否定関係の実在が前提
さてと もっと自由を!
社会ではともかく
そういや科学者が大学などを辞めてから、いや、実はと書くことがけっこうあるとある理系サイト運営の方が述べていた
文系でも●●超特急というのがあり、愛弟子はすぐ教授になれたとか w
人間だもの、ってことですが
文系のある泰斗は自分の論文を批判訂正した弟子に、なるほどと受け容れたそうです
そういやある方も、なるほどと受け容れたなあ
自分にはできる自信がないので尊敬しました w 仮説はさておき
理解可能ということを前提にする
科学が確立してきたことを前提にする
数の実在には疑問が在ります
ビッグバン仮説はもっと無理です 自然が生成した認識器官に結ぶ像はそのまま自然ではないことを科学は示してきた
わたしは自然は一、つまり無矛盾だが濃淡であり、淡は認識器官に像を結ばず多として像を結ぶというものです
数で規定するが数は実在しないのだと
静止、生死、終始、無、存在しないもので規定する 自然が生成した認識器官に結ぶ像はそのまま自然ではないことを科学は示してきた
わたしは自然は一、つまり無矛盾だが濃淡であり、淡は認識器官に像を結ばず多として像を結ぶというものです
数で規定するが数は実在しないのだと
静止、生死、終始、無、存在しないもので規定する 今のところはこれだけしか言えないから
フラットアース否定のスレでは得るものがあった
四半世紀前から比べると理解は深まった気がします
あとは意識問題ですが
「進化は万能である」で始まりについてちと疑問が出てきた
いや、進化論しかないとは思っているのだが
文庫本を手に入れたが、やはり大判の方が読みやすい w 今のところはこれだけしか言えないから
フラットアース否定のスレでは得るものがあった
四半世紀前から比べると理解は深まった気がします
あとは意識問題ですが
「進化は万能である」で始まりについてちと疑問が出てきた
いや、進化論しかないとは思っているのだが
文庫本を手に入れたが、やはり大判の方が読みやすい w 今のところはこれだけしか言えないから
フラットアース否定のスレでは得るものがあった
四半世紀前から比べると理解は深まった気がします
あとは意識問題ですが
「進化は万能である」で始まりについてちと疑問が出てきた
いや、進化論しかないとは思っているのだが
文庫本を手に入れたが、やはり大判の方が読みやすい w 今のところはこれだけしか言えないからとりあえず終わりかな
フラットアース否定のスレでは得るものがあった
四半世紀前から比べると理解は深まった気がします
あとは意識問題ですが
「進化は万能である」で始まりについてちと疑問が出てきた
いや、進化論しかないとは思っているのだが
文庫本を手に入れたが、やはり大判の方が読みやすい w わたしも含めて自然はエネルギーの一形態ではないかと
無、真空さえも
ディラックの海は真空はエネルギーの基底状態だということだと
絶対座標、始まりは実在しない
ならば終わりも
わたしたちが認識する始まりはある物理状態の終わり
宇宙は無限、無矛盾なのだと示すのがこの原理とわたしは理解している 対象と認識の関係を
自然科学は自己言及
認識の在り方もまた考察されるべきだというのがわたしの理解 天・気板のフラットアーススレで暴れてた現象クンがやって来てるな 今までのをまとめていたんですが、フラットアースで二律背反を思いだし、また新たに深められた
今は書き直しの最中です
あまり余裕がないのでちと焦り気味
纏めるのは苦手だから
此処でとぐろを巻いているのはいろいろ書いていることでヒントがあるかもということです
迷惑をおかけしています レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。