生命力学〈Vital Mechanics〉
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現代科学は我々の宇宙に存在するものを2つの物理法則により記述している。
すなわちミクロ系には量子力学、マクロ系にはニュートン力学、あるいは(一般)相対論。
しかし、我々の宇宙に存在するものをミクロ系、マクロ系という2色刷りで
印刷することはできないのだ。
強いて二分法があるとするならば、それは生命系か非生命系かなのである。
そして生命(力学)の目的は、ミクロ系とマクロ系の統一、ひいては生命系と
非生命系の統一でる。 >エントロピー的な力、
>エントロピー弾性
エントロピー弾性で語られる代表的なものはゴムである。
しかしエントロピーと言ってもゴムはモノマーという最小単位であるユニットが数多く連なった高分子であり、
体積も分子間力もある実在気体を考慮しなければならないはずである。
さらにゴムは弾性体でありながら粘性ももっている、いわゆる粘弾性。
つまり粘性がないとされる完全流体では記述できない。 >エントロピー的な力、
>疎水効果
疎水効果も体積も分子間力もある実在気体の世界であり、さらに油はさらさらな液体ではないのだから、
実在流体として扱わなければならないはずである。
そもそも疎水性(親油性)と親水性はセットであり、一方のみを語るのはあまり意味がない。
つまり熱力学の立場からは同種同士には凝集力である引力、異種の間には反発力である斥力、
つまり引斥力が存在するということだ。
そしてそれは本来凝集力である重力にも2つの極があり、引斥力があることを示唆する。 結局場の量子論であれ何であれ、相対論を基礎とする理論体系は実在を語ることを放棄したということだ。
そしてそれゆえにそれらの理論はエントロピーとか情報とかの漠然としたものに活路を求めているように見える。
しかし情報と言っても、例えば生命の遺伝現象を考えた場合、場という考えで記述できるのは
3文字から成る遺伝暗号、すなわち塩基配列のアルファベットの羅列であり、オブジェクトであるDNAそのものは扱えない。
あるいは脳を情報処理系と見た場合、入出力する電気信号は扱えるが脳みそという記憶媒体は扱えない。
さらにコンピュータ、あるいはAIが0と1の羅列、あるいはその重ね合わせだとしても記憶媒体というハード、
すなわちメディアは使えない。
それが科学の世界におけるルールであり、エーテルを否定した相対論はそのリスクをとったということだ。 そもそも場の量子論に力の相互作用を担うものとして仮想粒子という用語は出てくるが、
間違ってもそれを実在粒子とは呼ばない。
あるいはサインカーブを見て、それが何で粒なんだ!というのがいわゆる量子論だ。
しかし媒質の世界では、粒以外の何ものでもない。
結局空間から物性を排した最終形態が時間や空間、及び重力は幻想とするホログラフィック原理や
エントピック重力なのであろう。
すなわち世の中上手く出来ていて、ある前提(エーテルの否定)の下にはそれ相応の帰結が導かれるということだ。 >>エントロピー的な力、
>>疎水効果
結局エントピック重力はスタートから矛盾を内包した理論と言える。
つまり重力は一方的な凝集力である。さらにエントロピーはエントロピー増大則により一方的である。
ゆえに重力はエントロピー的な力で記述できる。
しかしエントロピー的な力には親水基と疎水基という2つの極があり、凝集力と反発力がある。
ならば一方を無視する恣意的な根拠は何なのか?
さらに熱力学を参照してるならそれは理想気体なのか、それとも実在気体なのかを明示しなければならない。 そもそも水と油は互いにバリアを張って混じり合わない。
しかし親水性と疎水性の両方の性質をもった、すなわち親水基と疎水基が対になった両親媒性の
界面活性剤が存在する。
そして水に溶けた界面活性剤は水になじむ親水基が外側に、そして水に弾かれる疎水基が内側を向き、
いわゆるミセルを形成する。(私に言わせるならば包囲化、すなわち量子化)
逆に油に溶けた界面活性剤は親水基と疎水基が反転して逆ミセルを形成する。
つまりそれを粒子と反粒子のモデルとすると、界面活性剤はボソンということになる。 結局ミセルと逆ミセルは表裏、裏表が閉じた関係にある。
さらに水-脂質-水-脂質のように層状になったものをラメラ構造(液晶構造)というが、やはり表裏、裏表の関係にある。
つまり複素構造、複素次元をもっているということ。
ちなみにおよそ信じ難いことだが、そもそも物理学の基礎に裏表の概念はない>>142
つまり、電子であろうが光子であろうがクォークであろうが時空であろうが数学的な点とされ、
すなわち大きさと構造を持たないものに裏表は定義できない。
要するに粒々という概念はないということだ。 宇宙空間は何もない真空と教え込まれてきた人々にとって、重力は空間の歪みだ、
あるいは空間は曲がっていると聞かされてもピンとこないであろう。
さらにその歪みや曲がり方には実は2種類あると提案されても、納得しかねるのは当然だ。
しかし空間が曲がるというコンセプトが理解し難いのは、物理学者が真空は何もない空間
であると自他ともに洗脳してきたからである。
それに対し物理学者は「テンソルだよテンソル」と呪文を唱える。 しかしテンソルなる用語は材料系の分野では普通に使う。モノがなければエアテンソルでしかない。
いやそもそも伸びる縮む、曲がる歪む、たわむねじれるは媒質の世界に生きる我々にとっては
日常風景であり、日常用語以外の何ものでない。
実際歪みや曲がり方には2種類あることはミセルや逆ミセルをモデルにすれば何ら不思議はない。
そして我々人間はもちろんのこと、生命はその原理によって形造られ、そして生活が営まれている。 マクスウェル方程式は流体力学を参照して構築されたものであり、慣性系がどうのこうのという話ではない。
そもそもマクスウェルはエーテルの信望者であり、実際エーテルの存在を前提に導かれたのが
いわゆる変位電流だ。
マクスウェル方程式の4つの式にアンペール・マクスウェルの法則がある。
すなわち ∇×H = J + ∂D/∂t
∇×H = J はアンペールの法則、すなわち定常電流の回りには定常磁場が生じるという式だ。
定常であるがゆえに時間の関数ではない。(ある意味慣性系と言えなくもない)
ちなみに静磁場も定常電流とおなじく位置(r)関数であり、位置と時間(r, t)の関数でない。 回路にコンデンサがあると電流は時間変化して定常でなくなり、位置と時間(r, t)の関数で記述される。
さてコンデンサ、つまり2枚の平行板の間は回路が途切れているのだから本来電流は流れないはずだ。
しかしマクスウェルは変位電流が流れているとした。
つまり水の波を考えるならば移動しているのはあくまでも振幅などの変位であり、
水それ自体は流れていかない。
同様に誘電体であるコンデンサの分極の時間変化により電束密度が変化し、電束電流が流れる。 アンペール・マクスウェルの法則は電荷の保存則、すなわち連続の式でもある。
連続の式とは電荷であれ質量であれ、物理量は原因もなく湧き出したり吸い込んだりしないということ。
つまり無から有、有から無への遷移を禁止する物理学の根幹をなす式。
実際一見電荷がゼロの誘電体にプラスとマイナスの電荷が誘起されるのは、電荷がない状態から
湧き出したのではなく、元々実在するプラスとマイナスの電荷が打ち消し合い、中和していたからだ。 さてエーテルの信望者であったマクスウェルは、真空は誘電体であるとすればエーテルの分極が起こり、
変位電流が生じる(必然的に変動する磁場も励起される)、すなわち電磁波の存在を予言し、実際に後に
実験で確認された。
しかし現在、マクスウェルの意に反して真空は誘電体でないとされている。
ならば真空中を電磁波が伝わるということは、原因もないのに電荷 (電場)が無から有、有から無への
遷移を繰り返していることになり、連続の式を満たさないことになる。 ファラデーやマクスウェルらは電磁力線をゴムひも(ゴム管)のような実体的なものとして
イメージしていた。
すなわちゴムチューブは引っ張って伸びる縮むという張力(テンション)が生じる。
さらに同時に細くなったり膨らんだりして圧力が生じる。
それをマクスウェルの応力テンソルというが、要するに空間は弾性体のような性質を
もっているということだ。 そもそも場とは畑のことだ、ATフィールドとか言うと何となくかっこいいが、要は畑だ。
磁石の上に紙を載せ、鉄粉を振りまき、指でトントン叩くと磁力線が可視化されて幾何学模様
を描くが、それが麦畑の麦が風にそよぐ様子に似ていることからファラデーの時代に
フィールドと呼んだのだ。
日本語の場も広場、会場、競技場、市場、工場、出会いの場というように人や物が集まるにぎやかな
空間であり、有機的なものである。
しかし特殊相対論により宇宙空間は更地にされ、場という考えは一旦後退する。
その後場という考えは復活するが、もはや麦畑としてのフィールドでも日本語としての場の意味でも
ない、そこに実体、実在を求めてはならない、単なる数学的な点であり、無機的なものである。 場で記述される世界に実在性がないことは物理学者も明言している。
例えば電子はスピンという属性をもっているが、実在の回転ではないとされる。
つまりフィギュアスケートの選手がフィニッシュで腕を縮めて高速回転するが、
半径を限りなく縮めるとその表面速度はいずれ光速を超える。
いやそもそも数学的な点粒子に回転運動という概念はない。
ならば電子のスピンって何?ということになるが、それに対する答えはないのだ。 電子のスピンが実在の回転でないならば、それをスピンと呼ぶ必然性はないはずだが、
しかし現実には、物理学者は電子のスピンをマクロ系のコマや地球の自転をイメージ
している節がある。
結局連続体を標榜する、すなわち大きさも構造も考えない「場」はそれ自身で閉じていない、
理論独立性のない理論体系ということになる。
要するに、マクロ系という補助輪なしには成立しないということだ。 電子に限らず光子も右回り、左回りというスピンという属性をもっている。
そしてその反映として、光子の集団とされる電磁波は右円偏光、左円偏光というように
偏光面が螺旋を描きながら進んで行く。
つまりマクロ的には光子のスピンを実体的に図示する。
しかし光子を素粒子と見た場合、それは電子と同じ理由で実在の回転ではないはずだ。
このギャップは何なのか?
しかし点粒子とされる光子は実は大きさと構造をもつとすればよさそうなものだが、
物理学者にはその発想はないようだ。 電子は1/2のスピンをもつとされる。1/2の意味は2回転、すなわち円の1回転は360°なのだから、
720°回って元の状態に戻るということだ。
そしてそれが電子のスピンは実在の回転ではないとする理由の一つでもある。 しかし実質2回転して元の状態に戻るというのは幾何学の世界において、メビウスの帯がある。
あるいはテクノロジーの世界においても、4ストローク(サイクル)エンジンがそうだ。
つまり吸気-圧縮-燃焼-排気という4つの過程で1サイクルが完結する。
つまり吸気-圧縮で1往復、さらに燃焼-排気で1往復、そして1往復は円の1回転に対応して
いるのだから、2往復で2回転。
すなわち吸気を初期状態とすれば、元の状態に戻るためには720°回転しなければならない。 ミクロの世界は我々の常識が通用しない不可思議な世界である、いやそうであってほしいという
願望は分からないではない。
なぜならそういう訳のわからない世界に身を置くことは、一種ステータス感があるからだ。
それゆえマクロとミクロを1対1に対応させるというもくろみはその種の人々にとっては面白いはずがない。
しかし私に言わせるならば、ミクロ系とマクロ系の不一致ははっきりしている。
つまりそれは我々の目にするもの全てが大きさと構造、すなわちメカニズムをもっているのに対し、
ミクロ系の素粒子、そして時空さえも大きさと構造というメカニズムがないからだ。
ならば選択肢は2つしかないことは明らかだ。
すなわち従来通り、マクロとミクロを別々の論理で記述するか、
それともミクロ系の素粒子にも構造をもたせて、マクロ系とミクロ系の統一を計るかだ。 パスカルの原理というものがある。
それは図右のように、水や油のような液体を満たした容器の一点に加えた力Nは
容器内の面全てにNという力が作用するという原理だ。
ゆえにパスカルの原理は非局所的な相互作用である。
パスカルの原理は300年以上も前に発見されたものであるが、現在、油圧機器など最先端の
分野で活躍している。
要するに遠隔操作(遠隔作用ではない)を可能にするということだ。
ではパスカルの原理をエーテルを否定した相対論で考えるとどうなるのか?
もちろんその定義から相対論とパスカルの原理は何の関係もないが、あえてやってみる。
さて図左のように、質点Mがある速度vで容器の内部を反射を繰り返しながら動き回ったとしよう。
そしてそれにより容器の面に圧力を及ぼす。
しかしこれではパスカルの原理は説明できない。
なぜならパスカルの原理は容器内の面の全ての点にほぼ同時に力Nが作用するという原理であるからだ。
つまり局所的な質点Mに相対論的因果律を課すと、そしてパスカルの原理を説明しようとすると、
それは自ずと超光速で動き回らなければならない、という実にパラドキシカルな帰結が導かれることになる。 ここでいう相対論的因果律とは、要するに質点Mがある時刻に位置xに存在したならΔt、すなわちその
ちょっと前にはΔx、すなわちその近傍に居た、さらにそのちょっと前にはその近傍にというように
連続的な軌跡を描く、つまり不連続な飛躍はしない。
さらに局所的な質点Mが複数の位置に同時に存在することはないという論理だ。
しかし、そもそもパスカルの原理に質点Mの軌跡なるものは存在しない。
力を伝達するのは流体全体に広がる圧力変化であり、ある意味波動場と似ている。 パスカルの原理を相対論で説明する必要性はないとすればそれまでだが、
しかし非局所的な相互作用は色々な場面において表出する。
例えば原子レベルにおける電子の振る舞いがそうだ。 シュレディンガー方程式は基本的に1粒子を扱う理論だ。
そして電子は質量mをもっているのだから、初歩的には太陽系を巡る惑星をイメージするがよい
(ただし大きさも構造ももたない質点と考える)。
ただ違いは、太陽系の惑星は現在の位置と運動量が分かればその後の未来の行動は一意に決まるのに対し、
1粒子のはずの電子はあたかも波のように空間全体に広がっていて(この時点ですでに人間の理解を越えている)、
確率でしかその位置は語れない。
そして観測という人間の恣意的な行為によって電子は特定の位置に姿を現す。
そしてそれを波動関数の収縮と言うが、注意すべきは観測により位置が特定されたとしても、
だからと言ってそのちょっと前にはその近傍に居たとは限らないということだ。
極端な話、波動関数は宇宙全体に広がっている、ゆえにちょっと前にはアンドロメダ星雲に居た可能性もあった、
そしてそれが波動関数の収縮の位相速度は光速を超えるとするゆえんだ。 結局波動関数の収縮であれ量子もつれ、すなわち量子テレポテーションであれ非局所的な相互作用を
説明しようとすると超光速、すなわち遠隔作用が顔を出す。
なぜなら現代物理は非局所性を裏付ける媒質、すなわち媒体を葬り去ったからだ。
すなわち媒体がなければそれは遠隔作用と考えるしかない。
アインシュタインは量子もつれを気味の悪い遠隔作用として忌み嫌い、その背後には隠れた変数があるとして
量子論に不信感をあらわにした、いやだから、その隠れた変数を葬り去ったのは誰なんだよ?
というお話なのだw wikipediaより引用、非局所性とは、
>この宇宙における現象が、離れた場所にあっても相互に絡み合い、影響し合っているという性質のこと
媒質が非局所性の世界であることは明らかだ。例えば部屋に複数(何台でもよい)のギターがあったとしよう。
そして1台のギターの開放弦を弾く。すると調弦された全てのギターの開放弦が共鳴して振動を開始する。
もし空気という媒体がなければ、1台1台の開放弦を弾いて回らなければならない。
さらにそれぞれの弦が振動したとしても、ギターの音色を聴くことはできないし干渉という現象も起きない。 2つの音叉A、Bがあったとする。そしてどちらかの音叉を叩くともう一方の音叉も共鳴して鳴り出す。
さてもし共鳴という知識が全くない友人に目を瞑ってもらい、そしてどちらかの音叉を叩いたとしよう。
その場合、その友人に音叉A、Bのどちらを叩いた?と質問したなら、その友人は何と答えるだろうか。 つまり二重スリットの謎も共鳴系と考えれば何の不思議もない。
すなわち二重スリットを共鳴系とすれば、分割不能な電子が2つのスリットを同時に通過する必要はない。
どちらか一方を通り抜ければいい。いやそもそも通り抜ける必要性もない。
つまり光子エーテル説に従えば空間には電子がうじゃうじゃと局在しているのだから
(もっとも電子と反対の性質をもった陽電子と対になっているのだが)、
丁度ニュートンのゆりかごのように局在する電子がバケツリレーのようにスクリーンに伝わる。
そしてそれが電子のようなフェルミ粒子が粒と波の二重性をもつという意味だ。 そもそも回折も干渉も水の波や音の波に普通に起きる現象だ。
ところがミクロの世界のそれらの現象はマクロの現象とは別次元とされている。
例えば外村氏の実験(いわゆる二重スリットではないが)のように、
最初スクリーンにポツンポツンとあたかも粒の到達を示す輝点がランダムに現れる。
ところが長時間、すなわち輝点の数が増えるとスクリーン全体に明暗、すなわち波の特性である
干渉縞が現れる。まさに電子は粒と波の両方の性質をもっていることの証であるとされている。 ところが音波における回折及び干渉はそれとは違うとされている。
つまり例え音波の強度を弱くしてもスクリーンに薄ぼんやりした干渉縞が現れるだけであり、
決して粒の到達を示す局所的な輝点は現れない、ゆえにミクロ系とマクロ系との翻訳は不能である。
しかしそれは波長域の問題である。
つまり音波においても指向性の強い超音波を使えば、そして上手い実験を行えば、
音波においても外村氏の実験と似た現象を再現できるはずだ。
そしてその実験が成功した暁には、科学に革命が起きる。
すなわち媒質と場の区別が失われ、マクロとミクロを隔てていた禁断の壁が取り払われ、
光の伝播に媒質は必要としないとする相対論は終焉する。 結局電子のような局所的な質点に相対論的因果律を課すと、電子の振る舞いは説明できない。
つまり非局所的な相互作用を導入しなければミクロの世界は記述できない。
ところが非局所的な相互作用で説明しようにもエーテルという媒質を捨ててしまった現代物理には
もはやそのツールはどこにもない。
それゆえミクロの世界はアインシュタインが嫌悪した超光速やら遠隔作用のオンパレードなのだ。
なんとも皮肉な結果であるとしか言いようがない。 相対論も量子論も間違ってるなら、パソコンもスマホも使うなよ パソコンもスマホもモノの塊、物性論の世界だよ。
もちろんそれらは相対論と量子論をベースにしていることは否定しないが、
理論物理とテクノロジーの世界はイコールじゃない。
後者の方が先行する場合もある。
標準理論に未解決問題がある限り、相対論も量子論も書き換えられる可能性を含んでいるんだよ。 電子等のミクロ粒子はスピンと共に歳差運動、すなわち首振り運動している。
歳差運動は地球やコマのように軸をもったモノの特性であり、マクロな現象である。
ミクロ粒子がスピンだけならまだしも歳差運動を行っているとするならば、
それを実在と認めないとする態度はあまりにも苦しすぎる。
ちなみにスピン波というものがあるが、これは歳差運動の伝播に他ならない。
相対論や量子論はその定義からミクロ粒子が構造をもつことを許さない。
しかし物性に携わる研究者がミクロ粒子をゴースト、ファントムの類として扱って
いるとも思えない。
つまり理論物理とテクノロジーの世界は全くの別物ということ。 そう?
物性論ってはっきり言ってバンドギャップのエネルギー電子密度の計算で電子正孔とは物性論をわかりやすくするための仮のものでしょ。
ただ量子力学では空乏層にはエネルギーが存在できないけど物性論では存在するとしてエネルギー密度を計算してるよ。
そこは量子力学とは違う。 要は複雑系でしょ、無限のマクロと無限のミクロは無限に単純でシンプル、
中間の無限はカオス理論、天気予報は勿論、人間の動きを計算で予測するのは不可能、
つまり中間の無限であり無限に複雑カオスといことだよ、その究極が人間の脳でもあるが、
要するに生命体は究極のカオスでもあるわけだから生命体こそが中間の無限で無限に複雑でカオスだから生命体の動きを計算するのは不可能なんだよ >>606
>電子正孔とは物性論をわかりやすくするための仮のものでしょ。
えっ、そうなの?物性の研究者もミクロ粒子はゴースト扱いなのかな。
まぁ物理の世界には媒質より場がより上位にあるというヒエラルキーがあるからな。
しかしその上下関係をひっくり返すというのがこのスレの目的でもある。 パソコンであれスマホであれ高性能のコンピュータであれ、信号は導体及び誘電体(絶縁体)を伝わるのだから、
つまり真空中の光速度cではないのだから、物性論と相対論は直接関係しない。
要するに、郷に入っては郷に従うということだ。
あるいは物性論はシュレディンガー方程式、すなわち量子力学は使うが場の量子論は使わない、
しかし電子のスピンは特殊相対論と量子力学が結びつくことにより導かれたクライン-ゴルドン方程式、
そしてディラック方程式を経て出てきたのだから、結局物性論も場の量子論を使っている、
などと色々な見方がある。 しかし私に言わせるならこのようなカテゴリー分けは実情を反映していないということだ。
なぜなら物性論では特殊相対論経由でない別系統のクライン-ゴルドン方程式、
すなわち電信方程式を使っているからだ。>>472-474 電信方程式とクライン-ゴルドン方程式は等価である。いやむしろ電信方程式のほうが
正当的なKG方程式なのだ。
そもそもKG方程式とは波動方程式に減衰項を付与した方程式である。
ところが特殊相対論経由のKG方程式には減衰項と共に増幅項がある。
すなわち正負の一方の正の解は減衰項だが、負の解はゼロ点から絶対値の大きな方向を向いている。
ならば相対論的量子力学及び場の量子論はそのような増幅項をもった方程式を自らの理論に据えるべきである。
ところがそのような方程式はどこにもないということだ。 KG方程式は特殊相対論により導出された。さらにKG方程式を一次式にしたディラック方程式から
スピンは生み出された、そしてそれが相対論の心棒者の心のよりどころになっているようだが、
残念ながらKG方程式は相対論ありきの方程式ではない。
半導体の世界では正孔という概念を使う。そして正孔はディラックの方法論を真似たものとされている。
ならば半導体の世界では場の量子論を使っていないということになる。
なぜなら現在ディラック流の考えはボソンを扱えないとされ、遅延解、先進解を使った
ファインマン流の考えにその道を譲っているからだ。
ファインマン流の考えがディラック流より優れているならば、すなわちより一般的ならば、
半導体の世界も正孔を使わずに、電子が時間を逆行するという概念を使えばより良い半導体ができるはずである。 ここで穿った見方をするならば、素粒子の世界は我々からすれば桁違いに遠い世界である。
それゆえ素粒子の世界に先進波が飛び交っていたとしても対岸の火事として呑気に構えていられる。
しかし同じミクロの世界と言っても、半導体の世界はあまりにも我々に身近過ぎて対岸の火事とは言ってられない。
実際、もし半導体の世界に遅延波、先進波が飛び交っているならば、パソコン画面に明日の株価や
明日のスポーツの試合結果が表示されてもそれほど驚くにあたらないことになる。 結局半導体の世界はファインマン流ではなく、正孔という場の量子論のお古ということだ。
半導体における正孔は負の有効質量をもつとされる。
すなわち負の電荷、負の質量をもつ電子、そしてそれを
→正の電荷、正の質量をもつと再解釈するわけだ。
しかしここで問題は、もし正孔が最初から正の電荷を持っていたとすると、負の質量を正の質量に
再解釈できないことになる。
つまり私の疑問は、正負のエネルギー、質量をもった電子の電荷の符号はなぜどちらも負なのか?ということである。
もっともそのように規定しなければ再解釈、すなわち負のエネルギー解を扱えないからだ。
しかし私に言わせるならば負エネルギー、負の質量を正エネルギー、正の質量に再解釈する必要はない。
正孔(陽電子)はダイレクトに負の質量、正の電荷をもつとすればよい。 そもそもディラックの理論はボソンを扱えないということで現在主流からはずれている。
しかしpn接合によるLEDやレーザーの発光は電子と正孔の再結合とされている。
すなわちボソンを扱えないとされるディラック理論は現実には役立っている。
つまり場の量子論のシナリオが正しいのならば、pn接合によるLEDやレーザーの発光は
電子が時間を過去と未来を往還しているのだ、としなければおかしい。
いずれにしろ理論物理とテクノロジーの世界は別物。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、☆
@ 公的年金と生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、
ベーシックインカムの導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば
財源的には可能です。ベーシックインカム、でぜひググってみてください。
A 人工子宮は、既に完成しています。独身でも自分の赤ちゃんが欲しい方々へ。
人工子宮、でぜひググってみてください。日本のために、お願い致します。☆☆ 半導体の世界が正孔を使っているといっても、だからといってディラックの理論と全く同じというわけではない。
そもそもディラックの論理にはトリッキーな部分がある。
つまりディラックは負の電荷をもった負エネルギー電子が抜けた穴が正孔、すなわち正の電荷をもつとしているが、
負の電荷をもった電子が負の電荷を持ち去ったならば残る電荷はゼロであり、正孔にはならない。
それは対生成の逆過程である対消滅を考えても同じだ。
つまり負の電荷をもつ電子が正の電荷をもつとされる正孔を塞ぐと電荷はゼロになる。
しかし正孔が塞がった状態は元の負の電荷をもった負エネルギー電子なのだからこれは矛盾だ。
ちなみに半導体の世界ではいわゆる価電子帯の電子は中性としている。
中性ならば少なくとも代数和は保存する。 さて粒子と対をなす反粒子は負エネルギー解から導出された。
しかし物理学では負のエネルギー、負の質量を扱えない。
ゆえに負エネルギー解から導出された反粒子を何とかして正のエネルギー、正の質量をもつように
改造しなければならない、というのが物理学者のパラダイムであり、道しるべでもある。 現在負エネルギー解から導出された反粒子を正のエネルギー、正の質量をもつように
改造することに成功したのは2例しかない、すなわちディラック流とファインマン流だ。
しかしディラックの海は過去の遺物とされ、実際現在真空は負エネルギーの電子で満たされている
と考えている物理学者は皆無だ、騾馬粒子という用語もほとんど死語に近い。
さらにファインマン流の考えもなぜか半導体の世界からのオファーがないw
素粒子論においては標準理論として現役であるが、マクロよりの半導体にはお呼びがかからないということだ。
要するに先進ポテンシャルを使ったファインマン流の考えはマクロ系には使えない、
なぜならその定義により、物理学者は因果律の問題に忙殺されるはめになるからだ。 結局負エネルギー解から導出された反粒子を正のエネルギー、正の質量をもつように
改造することに腐心した2例ともその先は行き止まり、すなわち通行止めの標識が立っている。
ならば物理学者に残された道の選択肢は2つしかない。
すなわち負エネルギー解から導出された反粒子を正のエネルギー、正の質量をもつように
改造する3例目を模索するか、さもなくばその無意味な行為の愚かさに気付くかのどちらかである。
つまり反粒子は力学の基礎方程式通りに素直に負のエネルギー、負の質量をもつとすればいい。
そしてそれにより何の矛盾のない理論体系を構築できる。
もちろんそれを記述する数学解は複素共役であることは言うまでもない。 今回のH大の入試問題におけるぐだぐだは、いかに媒質を伝わる波を舐めていたかと言うことだな。
そもそも媒質はMM実験や意味不明な量子論で否定されるほどヤワな存在ではないと言うことだ。
逆に言うと、相対論や量子論は音響学者から空気を取り上げ、音波を記述せよという無理ゲーな理論なのだ。
ご苦労さん、としか言いようがない。
いい加減この宇宙からエーテル、すなわち媒質を捨てた愚かさに気づいたほうがいいと思うぞ。 最近の科学界の話題と言えば重力波の観測と量子コンピュータであろう。
しかし私に言わせるならばこれらの話題は終わりの始まりと言える。
すなわちそれは物理学において異彩を放っている「量子」というものが、
本当に物理学者の言う量子なのか?が問われることになるからだ。
つまり重力及び量子コンピュータが、既存の量子の定義と齟齬をきたす羽目に
陥ったならば、異彩を放っていた量子の輝きが失われるということである。 量子の性質は色々あるが、代表的なものは重ね合わせの原理である。
しかし重ね合わせ自体はマクロ系にも普通に適用される原理であり、そこに不思議はない。
つまり不思議でも何でもない重ね合わせの原理を、不思議だと思え!
というのがいわゆるシュレディンガーの猫という仮想実験だ。>>105
しかしシュレディンガーの猫は部分と全体を同一視するトリックであることはすでに指摘した。
ではここでそのトリックの全容を明らかにしてみよう。 スケートのA選手はマスコミの引退か?続行か?という質問に、「ハーフ ハーフ」と答えた。
さてもし仮にマスコミが、A選手は「オール オール」と答えた、と報道したとする。
この場合A選手はどっちにしろ嘘をついた、というのがいわゆるコペンハーゲン解釈だ。
すなわち引退会見を開いたならば続行するは嘘になり、続行会見を開いたならば
引退するは嘘になる。
それに対しA選手は嘘つかない、確かに我々は引退会見を見たが、続行会見を開いた平行世界
がある。すなわち世界は分岐するのだ、というのがいわゆる多世界解釈だ。
もちろんこの場合、コペンハーゲン解釈も多世界解釈も無用である。
なぜならA選手には「ハーフ ハーフ」と言った証拠はあるが、「オール オール」と言った事実は
ないからだ。 結局シュレディンガーの猫の仮想実験も似たようなものだ。
つまりS猫の実験装置において、ミクロ系の放射性物質である膨大な数のラジウム原子の集団の中の一個が
1時間以内に崩壊してα線を放つ確率は50%であり、同時に崩壊しない確率も50%だ。
まさにハーフ&ハーフであって、オール &オールではない。
物理学ではミクロ系であれマクロ系であれ、全確率は合計すると100%、すなわち1になるように
規格化している。
つまりS猫の実験装置においてはあくまでも1時間以内にラジウム原子が崩壊する確率は50%であり、
同時に崩壊しない確率も50%である。ゆえに 50+50=100=1
決して崩壊する確率は100%であり、同時に崩壊しない確率も100%である。ゆえに 100+100=200=2→1
などという主張はどこにもない。
ところがマクロ系の猫に対してはまさに 100+100=200=2→1 という論理を当てはめているのだ。
これはトリック以外の何ものでない。 ではそのトリックを正当化する仕掛けは何か?というとそれは半死半生の猫は考えられない、
というフレーズである。
物理の書物に半死半生の猫は考えられないと記述されると、免疫のない一般読者は
そうだ、半死半生の猫は考えられないと素直に信じてしまう。
しかし辞書を引くと分かるように、半死半生とは瀕死の状態、すなわち生きているものに
対して使う用語であり、
実際、死んでいる猫に対し、半死半生の状態にあると主張するのはどっかの怪しい宗教ということになる。 結局半死半生の猫は考えられないという前提で議論を進めるということは、
それは観客がマジシャンの、種も仕掛けもないという前口上を鵜呑みにするのと同じである。
ならばマジシャンが唐突に鳩を取り出してならば、それは虚空から取り出したことになる。
同様に、半死半生の猫は考えられないとするならば、それはオカルトの世界にようこそということになる。
ちなみに物理学者のいう半死半生の猫とは、実際には全死全生の猫だからな。
この辺を脳内変換してその種の書物を読まないと、コロッと騙される。 物理学もおもしろいけどネットで儲かる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
JSXU3 量子コンピュータの原理を説明するのによくシュレディンガーの猫を登場させる。
すなわち従来型のコンピュータは0と1の羅列であるが、量子コンピュータは0と1の重ね合わせを利用する。
そしてそれはまさにこの世とあの世の二つの世界に併存するS猫そのものである。
つまりS猫は量子コンピュータにとってのマスコット的存在になっている。
要するに科学はオカルトの総本山の看板を掲げたということである。 私は何も重ね合わせの原理自体を否定しているわけではない。
重ね合わせの原理はミクロ系マクロ系を問わず普遍的なものであり、
そこにミステリーの入り込む余地はないと言っている。
そもそもS猫の仮想実験にはトリックが存在するのは明白なのだから、
科学者がS猫を議論するのはMサークルを論じるのと同じレベルだ。
要するにそれが雑誌ムーならネタとして楽しめるだろうが、
それが科学の書物ならば相当に痛いということになる。 量子コンピュータの原理の解説を読むと、量子コンピュータは複素数を使っているらしい。
しかし複素数は電気工学、すなわち交流回路などの波動場に普通に使う数学であり、
ミクロの世界を記述するためだけにあるものではない。
そもそも複素数は複数、すなわち二つで一つの数という意味である。
ただその一方が虚数である、というのがこの世に存在しない、いや存在してはいけない数という誤解を生む要因になっている。 さらに量子コンピュータはブロッホ球という視覚的な図形を使っている。
ブロッホ球は地球をイメージするがよい。
すなわちブロッホ球には北極(北半球)と南極(南半球)が定義される。
そして2つの極に排他的二値である0と1、すなわち|0>と|1>を対応させている。
さらにブロッホ球には緯度と経度が定義される。まさに地球そのものだ。
さらに歳差運動のような回転ベクトルを定義する。
しかしここで注意すべきは、排他的二値である北極と南極は
あくまでも地球という一つの単体の部分系であるということだ。
ならば排他的二値の重ね合わせには何の不思議もないことになる。
要するに、ブロッホ球にS猫の出る幕はどこにもないということだ。 結局重ね合わせの原理とシュレディンガーの猫は何の関係もない。
ただ相対論と量子論を基礎とする「場」の量子は大きさも構造もない数学的な点に基づいている。
数学的な点に部分と全体、あるいは表と裏を定義することはできない。
ゆえに数学的な点に無理やり排他的な状態ベクトルである|ψ>を定義すると、それは自ずとS猫状態になるということだ。
しかしS猫状態と直結しているのはあくまでも数学的な点である場の量子であり、
S猫の仮想実験装置とは何の接点もない。
なぜならS猫の仮想実験装置において、ミクロ粒子が崩壊する確率も崩壊しない確率もどちらも50%であって、
100%ではないからだ。
それは気象予報士が、明日何時に雨が降る確率は100%、同時に降らない確率も100%、
あるいは何月何日に桜が開花する確率は100%、同時に開花しない確率も100%、などとふざけたことを言わないのと同じだ。 シュレディンガー方程式はいきなり虚数iで始まる。
つまりS方程式のフロントグリルは虚数というわけだ。
しかしだからといって、虚数がミクロ系を象徴するエンブレムであるわけではない。
そもそも複素数は二つの数で一つの事象を表す数である。
ただその一方が虚数であるというだけだ。
つまり音波であれ水の波であれ電磁波であれ何であれ、波動は位置エネルギーと運動エネルギーをもった二つの実体からなる。
さらに二つの実体は90°(虚数)の位相差でサイン、コサインカーブを描いているのだから、
波動場に複素数を使わずに他に何を使うんだ?という話なのだ。 エーテルの信奉者であったマクスウェルは真空は誘電体であるとしていわゆるマクスウェル方程式を構築したのだが、
エーテルを否定した現在においては真空は誘電体でないとされている。
要するに真空には、テクノロジーの世界における位置エネルギーを担うコンデンサのような部品、実体はないということだ。
ゆえに必然的に運動エネルギーを担うインダクタ(コイル)という実体もないことになる。
すなわち存在するのは数式のみという思想だ、さらに実在しない数とイメージ化された虚数を駆使することによりその思想は強化される。
しかしこれは明らかに倒錯した世界観であると言わざるを得ない。 正弦波は単位円の回転に対応している。
すなわち円の1回転360°(2π)が一つの波長に、さらに半回転180°(π)が半波長である山と谷、すなわち正の位相と負の位相に対応する。
ではπ/2である回転角90°(虚数)は何か?というとそれは加速期と減速期だ。つまり虚数が位相を90°ずらす演算子とすると、
虚数とは加速と減速を司る最小単位ということになる。
蛇足だが、ではなぜ加減速の最小単位が45°や30°ではなく90°なのか?というと、それは30°を2回掛けようが3回掛けようが
加速と減速が交互に入れ替わるわけではないからだ。 演算子と聞くと単なる数学記号と思われがちであるが、そんなことはない。
例えば車でいうなら加速と減速を実行する演算子がそれぞれアクセルとブレーキだ。
つまり車においてはアクセルとブレーキは二つで一つのセットであり(ゆえに複素数)、
ブレーキのない車などは危なかっしくて乗ってられない。 複素数の意味合いを分かりやすく説明すると、例えば1枚の紙は表面と裏面の2面(複素平面)で1枚と数える。
同様に、1枚のコインは表面と裏面の2面で1枚と数える。
まさに重ね合わせ以外の何ものでない。
そしてそれゆえに例えばコイントスを行うと、表と裏が出る確率がそれぞれ50%であるという確率が定義できる。
ちなみに数学的な点粒子とされるミクロ粒子に表裏、部分と全体といった構造は存在しない。
そしてそれがミクロ系の確率に対する概念が複雑怪奇な理由だ。 虚数がミクロ系マクロ系を問わず普遍的に適用される数ならば、なぜ虚数がミクロ系に使う数とイメージされているのか、
いやなぜミクロの世界は虚数を使わなければ記述できないのか?、
というとそれは逆説的であるが、物理学は負の質量、負のエネルギーを否定しているからである。
しかし虚数単位である i = √−1 を二乗すると−1になる。
つまり虚数を駆使すれば実質負の数を扱えるというわけだ。
ただし注意すべきは虚数と負の数を同一視、ごっちゃにしてはいけないということだ。
なぜなら虚数にも正負があり、すなわち -i^2 =1 すなわち ±i =∓√1
つまり虚数の立ち位置は正の数と負の数に対し同等なのだから、虚数とマイナスの数を同列に扱うのは間違いである。 さていよいよサッカーのWカップが始まる。
サッカーで何であれ、スポーツはひいきのチームと相手のチーム、あるいは個人の選手の
重ね合わせであることは言うまでもないことである。
つまり二つで一つであり、互いに互いの力、ベクトルを打ち消し合う。
まさに競技場は生成消滅の世界以外の何ものでない。
そもそもサッカーのフィールドには両チームを隔てるセンターラインが引いてある。
あるいはテニスであれ卓球であれバレーボールであれ、センターにネットが張ってある。
要するにあらゆるスポーツには動かすことができない基準系があるということだ。
そしてその基準系を挟んでベクトルの向きは入れ替わる。
≪可逆空間≫
・ __┏┓_
/未来 過去/
/○___↓-t
/ ↑t ●/
過去 未来 /
_┏-┓___/
ここで注意すべきは、フィールドにひいきのチームと相手のチームの相反する二つのベクトルが存在するといっても、
あくまでもボールは一つということだ。すなわち二つで一つ。
ゆえにどちらかがボールをキープすると対称性が破れ、一方的な方向性であるベクトル、すなわち時間の流れが生じる。
もちろん相手側がボールを奪い返すとベクトルの向きは反転するのだから、その意味では対称性は保障される。
サッカーの試合においてはボール及び選手はこちらとあちらを行ったり来たりする。
すなわち往復運動するのだから、フィールドは波動場そのものである。 サッカーの試合においてはひいきのチームが攻撃中は相手チームの防御側が励起され、
逆に相手チームの攻撃中はひいきのチームの防御側が励起される。
すなわちこれが複素数の意味。
≪複素ベクトル≫
・ Im__┏┓_
↓i=√-1 /
/○___↑ /
/ ↑ ●/
Re ih*∂ψ/∂t=Hψ
_┏-┓___/
時間の流れ○→
攻撃側(実時間)
―――――――→
←―――――――
防御側(虚時間)
相手チームがボールをインターセプトすると時間の矢は反転する。i^2=-1
←●時間の流れ
攻撃側(実時間)
←―――――――
―――――――→
防御側(虚時間)
結局、時間の流れは4種類あるということだ。
すなわち実の正負の方向性、そして虚±i の2種類である。
そもそもフィールドには攻撃側と防御側の相反する2種類のベクトルがある。
もちろん二つのベクトルを実数のみで記述することは可能だが、
得点する権利はあくまでもボールをキープしている側にあるのであり、
ボールをキープしてない側が相手の陣地に攻め込んでどうやってシュートするの?ということになるし、
そもそも自陣のゴール前がら空きになる。
つまりサッカーの選手を突き動かしている原動力が相手のゴールポストの間にボールを蹴り込みたいという
欲求ならば、ボールをキープしていない側の選手は意に反して後ずさり、すなわち後退することになる。 ここで考えなければならないのは、防御側の選手が後退するといってもそのベクトルは負ではなく虚であるということだ、
すなわち虚ベクトル、つまり攻撃側を実ベクトルとすると防御側は虚ベクトル、ゆえに2つで複素ベクトル。
さらに攻守が入れ替わったのが複素共役、ゆえに2つが2つで結局はベクトルは4種類。
そもそも往復運動は波動場であり、そして波動はバネと重りからなる調和振動子と同相である。
つまりサッカーの試合においては攻撃側の選手は運動エネルギーをもった重り、すなわち質量であり、
さらに防御側の選手は位置エネルギーをもったバネ、すなわち復元力である。
攻撃側の選手が攻め込むと相手の防御側にあたかもバネのように押し返される力が生じる。
しかしその力はあくまでも i =√−1である、すなわち虚ベクトル。
なぜなら相手側のベクトルを反転していないからだ。
つまりベクトルを反転するためには位相をさらに90°進めなければならない。
すなわち防御側がボールをインターセプトして初めてベクトルが反転し、実の負ベクトルになる。すなわち i^2 =−1
もちろん互いに相手チームのベクトルが負であって、誰も自らのベクトルを負とは呼ばない。 >>641
>すなわち -i^2 =1 すなわち ±i =∓√1
これは微妙なので再検討の余地あり。
ところで虚ベクトルで検索してもヒットしない、一般的な用語ではないのかな。
数に実数と虚数があって複素数があるのなら、さらに複素ベクトルが定義できるなら、
実ベクトルに対して虚ベクトルがあってもよさそうなものであるが、いやなきゃおかしいはずだがそうではないらしい。
ひょっとして虚ベクトルという概念は私のオリジナル?
要するに 虚数単位である i = √−1 は減速を担う虚ベクトルであり、同時に加速に転じる実ベクトルでもある。
すなわち虚数iは加速と減速を操る最小単位。 僕の知り合いの知り合いができた在宅ワーク儲かる方法
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検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
M9I ここで物理学における正負のエネルギー、質量をもつモノに対する定義、振る舞いを確認してみよう。
正のエネルギー(質量)をもつ正物質、すなわち通常物質は押すと押した方向に、引くと引いた方向に向かう。
それに対し負のエネルギー(質量)をもついわゆるエキゾチック物質の一つである負物質は、
押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かうとされている。
ちなみに我々の身近に存在する極ありふれたモノであるバネは押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かう
という性質をもっている。
つまり負物質の定義とバネの性質が完全にかぶっている、これは奇妙なことであると言わざるをえない。
なぜならゆえにバネは負のエネルギー(質量)をもつのか?ということになるし、
バネは現実に実在しているのだから、ありえないもの、あってはならないものとする負物質の定義
に正当性はないことになる。
要するにこの意味するところは、物理学者は負の数と虚数の区別が付いていないということである。 結局押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かうという性質はバネに対する定義であり、
さらに数学的には虚数に対応しているということである。
つまり物理学者は高度な数学は知っているが、虚数と実数であるマイナスの数の区別が付いていないという、実にお粗末な状況なのだ。
ゆえに物理学はディラックあたりからやり直しw >>618-620
実は負エネルギー解から導出された反粒子を正のエネルギー、正の質量をもつように
改造する3例目、すなわち第3の道が存在する。
すなわちそれは誰も自らを負とは呼ばないということだ。
誰も自らを負とは呼ばないならば、その意味では負のエネルギー、負の質量は存在しない。
しかし一方を正とするならばその対極にある一方は負とするしかないのだ。
なぜなら両者は相殺し合える量だからである。
ところが負のエネルギー(質量)を否定している現代物理において、エネルギー(質量)に関しては
他の物理量と違って相殺項がない。
そしてそれが重力及び質量が量子化されない原因であり、あらゆる物理量が無限大に発散する要因になっている。
ところが物理学者にはその認識はないということだ。 さて連日猛暑が続いているが、温度計には液体である水が相転移を起こして固体である氷になる温度を0℃と定め、
プラスとマイナスの値が表示される。
しかし温度の基準は任意であり、さらに絶対温度を基準にすればあらゆる温度の値はプラスであり、
温度にマイナスの値は存在しない、ということになる。
しかしここで重要なキーワードは相転移である、これを見逃しはならない。 相転移という現象によって力が発生することは明らかだ。
例えばヒッグス機構は真空の相転移によってヒッグス場が凝縮し、物質は質量を獲得したとするものだ。
あるいは磁石を熱するとある温度で磁力が消失する、逆にある温度以下になると鉄などの強磁性体は磁性を帯びる。
その転移温度の境目に起きる現象も相転移という。
あるいは1気圧の下、液体である水は100°Cで沸騰し、相転移を起こして気体である水蒸気になる。
そしてそれにより発生した力を利用したのが産業革命を推進した蒸気機関であり、
さらにその理論的裏付けを行ったのが熱力学の勃興であることは言うまでもない。
その意味では媒質を無視して熱力学を使うなどという行為(例えばブラックホールのエントロピー)は、
ほとんど空理空論に過ぎないということだ。 現代を生きる我々の生活空間において、エアコンは命にかかわる必須のアイテムになっている。
そしてエアコンもまた媒質の相転移を利用している。
すなわち液体である冷媒が、膨張して気化する過程では周りの空気から熱を奪い、空気を冷却する。
逆に気体である冷媒を圧縮して液体になる過程では熱が発生し、周りの空気を温める。
すなわちエアコンにおいては冷房と暖房は互いに逆過程であり、実際冷媒は互いに逆流している。 エアコンにおける冷気と暖気の価値は、相対的であることは言うまでもないことである。
時間の流れる方向が快不快の原則に従うならば、真夏の暑い日、エアコンの送風口から冷たい風が出てくるのが快であり、
万が一それが暖かい風ならば不快だ。
しかしシチュエーションが変わってそれが真冬の寒い日ならば、室内であろうと車内であろうと今度は暖かい風が快であり、
冷たい風が不快となる、要するに天国と地獄が入れ替わるというわけだ。
つまり本来相対的であるためには何らかの基準系が必要である。
その意味では速度及びエネルギーの基準は任意であるとする相対論は本来、絶対性理論と呼ぶにふさわしい理論なのだ。>>405 >>603
>相対論も量子論も間違ってるなら、パソコンもスマホも使うなよ
この突っ込みは熱力学や流体力学が間違ってるならエアコン使うなよ、に置き換えることができる。
それに対する私の弁明は、エアコンは相転移を考慮する実在気体の世界であり、理想気体の世界ではない。
さらにエアコンは圧縮性をもつ実在流体の世界であり、非圧縮性の完全流体の世界ではないというものだ。
もっともメーカーや業者がエアコンに注入する冷媒は仮想的な理想気体であり、さらに
非圧縮性の完全流体である、と主張するなら話は別だが。 私はヒッグス粒子に懐疑的であるが、しかしヒッグス機構には擁護すべき点はある。
すなわちそれはヒッグス機構は真空に相転移及び粘性といった実在気体、実在流体の性質を持ち込んだことである。
つまりヒッグス機構では質量とは物体の動かし難さ、ヒッグス場の抵抗とされる。
そしてそのメカニズムを説明する際、一般向けの解説として水飴の例えが使われた。
すなわちコップの中の水を棒でかき混ぜた場合、それが水飴ならばより大きな力がいる。
つまり水飴の粘性、抵抗こそが質量に他ならないというわけだ。
ならば必然的に水飴の例えに突っ込む人が現れる。
なぜなら、確かに水飴の例えによると物体の動かし難さ、すなわち慣性は説明できる。
しかし同じ慣性の止まり難さ、すなわち等速直線は説明できない。
もし真空が水飴状の流体で満たされていたならば、地球などの天体は速やかに停止するはずである。
しかし水飴の例えは極端にデフォルメしたものであって、水飴であろうがさらさらな液体であろうが粘性がゼロでない限り五十歩百歩だ。 結局慣性の法則にはいわゆるダランベールのパラドックスが存在する。
すなわちもし真空が粘性ゼロの完全流体とすると、質量をもった物体は等速直線運動するという慣性の法則が成り立つ。
しかし粘性がないとするとヒッグス機構によれば物体に質量は生じない、これは矛盾だ。
まさにダランベールのパラドックスである。 ダランベールのパラドックスは重力を記述する一般相対論にも存在する。
すなわち一般相対論は時空の引きずりを予言する。
そしてその様子を説明するのに蜂蜜とボーリングの玉が使われる。
(どうやら物理学者は水飴やら蜂蜜などのドロドロした甘い誘惑に弱いようだw)
さてもし蜂蜜の中でボーリングの玉を回転させると、蜂蜜はボーリングの玉に引きずられるだろう。
しかしアインシュタイン方程式の右辺である、重力の源とされるエネルギー運動量テンソルは完全流体で記述している。
ゆえに時空の引きずりは起きない、まさにダランベールのパラドックスだ。 結局ダランベールのパラドックスはヒッグス機構にも内在する。
すなわちヒッグス機構が真空に相転移及び粘性を持ち込んだといっても、それらの性質はあくまでも実在気体、実在流体のものである。
しかしヒッグス場はあくまでも場であって、媒質の世界ではない。
要するにエーテルを否定している現代物理においては、間違っても宇宙空間は実在気体、実在流体で満たされているとは言えないわけだ。 結局質量の源がヒッグス粒子ならば、物理学者の四つの力を統一したいという夢は益々遠ざかったと言わざるをえない。
なぜなら二つの質量である重力質量と慣性質量は袂を分かったからだ。
実際重力の源はヒッグス粒子とは言わないだろ?
この場合はあくまでも重力子だ。
じゃあヒッグス粒子と重力子の関係性は?というと何の関係もない。
実際光子はヒッグス粒子とは相互作用しない、完全スルーだ。
ところが光子は重力場と相互作用して曲がる。
いずれにしろ質量と重力が全く別のメカニズムで発現するという考えは解せない、というのが私の主張だ。 >>656
>ならば必然的に水飴の例えに突っ込む人が現れる。
私は水飴に突っ込む人をディスっているわけではなく、極めてまっとうな意見だと評価している。
そもそも水飴の中を、物体が等速直線運動するなどありえないだろw
つまりヒッグス機構により物質が質量を獲得するということは、それは慣性系の否定とセットであるということだ。 実在気体、実在流体で満たされている我々の生活空間において、動くものは空気抵抗や摩擦によりいずれ停止する。
それと同じ様に宇宙空間に実在気体、実在流体の性質を持ち込んだのがヒッグス機構だ。
しかし悲しいかなヒッグス場はあくまでも場であって媒質ではない。
それゆえエーテルを否定している現代物理においては、いまさら宇宙空間がエーテルで満ちていたなどと宣言するのは屈辱であろう。
そこに現代物理学のジレンマがある。 >>474
>>導体中の電磁場の伝播、減衰のある弦の振動などの現象を記述する。
>>場の量子論において、クライン-ゴルドン場φ(x,t )の満たすクライン-ゴルドン方程式は、
>>電信方程式と等価である以下の形で与えられる。
> (波動方程式 + 質量項m)
>導体中であるということは抵抗成分があるということだ。
>あるいは空気中で弾かれたギターの弦は空気との摩擦で減衰する。
>つまり波動方程式に抵抗成分や減衰項を付与したのが電信方程式。
>そして波動方程式に質量項を付与したのが場におけるKG方程式であり、両者は同じ形式。
結局KG方程式の母体は媒質とすると、摩擦や抵抗、質量項といった各種ビーズがあたかもネックレスのように見事につながる。
ところがKG方程式は相対論ありきとすると、各種ビーズは床に転がったままということになる。 私はヒッグス機構は相対論に対して相当に失礼な話だと述べたわけだが、要するにヒッグス機構は
重力は時空の歪でよい、しかし質量に関しては別のメカニズムを採用しますよ、というものだ。
要するに相対論という堅牢な城の外堀を埋められたような話だ。ならば同じ理由で、
すなわち完全流体で記述している一般相対論もいずれ実在流体で書かれた理論に取って代わられるという予測が成り立つ。
つまり難攻不落とされている相対論の内堀も埋められ、相対論は炎上し、落城する。 私は一般相対論の重力は幾何学的に空間の曲がり、時空の歪という概念は悪くないと思う。
ならば質量も時空の歪でいいはずである。ところがそうではないということだ
一般相対論の指導原理は等価原理、すなわち重力質量と慣性質量は区別がつかないとするものだ。
しかしヒッグス機構が正しいとすると両者の区別は付いている。
すなわち光子をプローブとすれば、光子は重力場と相互作用し、曲がる。
しかし光子はヒッグス場とは相互作用しない、そこに何もないかのごとく進む。
ちゃんと区別が付いている、何が等価原理だよw
要するにこの意味するところは、もし等価原理が正しいとするとヒッグス機構は不完全な理論ということであり、
一般相対論も重力場と同じ枠組みで質量が生じる原因を導き出せなければやはり不完全な理論ということになる。 結局科学はマクロ系には重力を記述する一般相対論、そして ミクロ系においては素粒子論を記述する量子論というように
偉大なる棲み分け、領土配分が行われている。
つまりマクロ系とミクロ系は分離され、全く異なる物理法則が成り立つとされている。
ゆえに、両者を統合しようとすると激しく対立し、齟齬をきたす。
我々は普通、質量をもつモノは必然的に重力を及ぼすと思っている。
ならば例えばヒッグス場で重力を記述すると、ブラックホールはまばゆいほどに輝いていることになる。
なぜなら光はヒッグス場とは相互作用しないからだ。
しかしそれはブラックホールからは光さえも逃れられないとする一般相対論と矛盾する。
逆に完全流体で記述している一般相対論で(慣性)質量を記述すると、ヒッグス機構によれば粘性、抵抗がなければ質量は生じない。
つまり物理学者の等価原理は基本的に正しいという想いは虚しいものがある。
逆に等価原理は正しいとするならば、マクロ系、ミクロ系を問わない、より普遍的な高次な理論、高次な対称性があるということだ。 量子医学と言うのがあるそうだが、量子生物学ならあるけどね。で、精神は量子効果
である。というのあるけどね。まあ日本ではみんなで協力し合ってアイデアを出し合
い学問をやって行こうなんて凡人が言ってけどね。画期的なアイデアは出ないよ。そ
れは量子論で証明されちょる。つまりあるレベルに達していない光子(凡人)をいく
ら集めても電子(画期的なアイデア)は飛び出さないが、たった一発のそのレベルの
光子(天才)があれば、電子は飛び出るのさ。そもそも、アメリカでさえ、技術者は
個室を持っておりそこで仕事をしてると言う。日本では大部屋だね。 わしは量子言語学を主張しているのだ。つまり言葉(粒子)では絶対成立しえないことを、
空気を読む(波動)あ、うんの呼吸で成立させる。何故できるのか、それが粒子と波動の
量子言語学なのだ。 量子論をお勉強したら、全く世界観が変わると言われてる。がその通りだ。一つの思想的革命だね。
でこれを医学に生かす試みだと思うが、思うに西洋医学が粒子なら東洋医学など代替医学が
波動でそれを合わせたのが量子医学なんだろう。量力学の思考法の応用だね。だが量子生物学
は量子化学を応用してるが、それが医学にまで及ぶ日は近いね。なんせ時代はコンピュータ
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