生命力学〈Vital Mechanics〉
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現代科学は我々の宇宙に存在するものを2つの物理法則により記述している。
すなわちミクロ系には量子力学、マクロ系にはニュートン力学、あるいは(一般)相対論。
しかし、我々の宇宙に存在するものをミクロ系、マクロ系という2色刷りで
印刷することはできないのだ。
強いて二分法があるとするならば、それは生命系か非生命系かなのである。
そして生命(力学)の目的は、ミクロ系とマクロ系の統一、ひいては生命系と
非生命系の統一でる。 エントロピー増大則は物理学における冒すべからざる神聖なものとされている。
そしてそれにより時間の矢、すなわち時間が過去から未来へと流れ、未来から過去へは
流れないという時間の向きを説明できるとしている。
それに対し表面自由エネルギーは一方的なものではない(例えそれ自身が一方的な力であったとしてもだ)。
例えば疎水性という性質がある。これは葉っぱが水を水滴にして弾く力である。
あるいは水と油は混じり合わない。
すなわち容器に水と油を入れ、例えかき混ぜたとしてもいずれ分離して境界層ができる。
つまり熱力学的には親水性と疎水性という同種同士には引力、異種の間には斥力が作用するということである。 水と油は混じり合わないといっても生命系においては両者は併存している。
そして両者を結び付けたり引き離しているのが両方の性質をもった両親性(両親媒性)、
いわゆる界面活性剤なのだ。
油汚れは水だけでは落ちにくい、それゆえ両親性の界面活性剤、すなわち石鹸を使うわけである。
あるいは牛乳は水に油分が分散したものであり、マヨネーズはその逆だ。
そしてその状態を乳化、エマルションと呼ぶ。女性が乳液を塗って、美しくいられるのもこのおかげだ。 いずれにしろ水と油は互いにバリアを張って混じり合わない。
その様子を物理学、すなわち素粒子の世界に当てはめるとそもそも粒子と反粒子は反重力のバリアが
あるので混じり合わない。
しかし両者は丁度生命系における水と油のように分離、併存している。
そして両者を引き離したり結び付けているのが粒子と反粒子の両方の性質をもった光子であり中間子なのだ。
つまり原子核における強い力はまさに粒子と反粒子の対消滅(結合)と反重力の複合力に他ならない。
>>61-67
まあエントロピック重力理論が熱力学を参照してるならこれくらいのコンセプトを提出して欲しいものだ。
熱力学を使っていながら媒質を無視してるなら、それはかつてのフロギストンやカロリックといった
お決まりのコースを歩むしかないであろう 何度も繰り返すがMM実験でエーテルが否定された歴史的事実はない。
大体アインシュタイン自身、MM実験に対する積極的な関与を否定している。
アインシュタインが特殊相対論を構築するにあたっての出発点は電磁誘導、
すなわち磁石とコイルの相対性だ。
つまり静止したコイルに磁石を近づけても、逆に静止した磁石にコイルを近づけても導体に起電力が生じる。
まさに相対性以外の何ものでもない。
ところがアインシュタインは同じ現象であるにもかかわらず両者に2通りの説明があることに不満を抱いた。
つまりコイルを静止とする座標系では動いているのは磁石であり、それにより磁場が変化する。
ゆえに電場が生じ、それによりコイル内の電子が移動する。
しかし磁石を静止とする座標系では磁石は動いていないのだから電場は生じない。
ところがこの場合は磁場に侵入したコイル内の電子はローレンツ力を受けるからと説明する。
そしてこの非対称性を解消する理論が特殊相対論というわけだ。
しかし図を見る限り、どちらにせよコイルを貫く磁束密度が変化したがゆえとしか見えない。
すなわち磁束に勾配がある。 さて、電磁誘導に対するアインシュタインの考察の致命的な欠陥は、電磁誘導を慣性系、
すなわち等速直線としていることだ。
しかし普通電磁誘導の実験はコイルに棒磁石を急激に出し入れする。
要するに電磁誘導は加減速の世界なのだ。
実際電磁誘導は V= -dΦ/dt で表される。
つまり時間の変化が急激であるほど磁束も急激に変化し、大きな起電力を生じる。
もし速度vでコイルに向かって来た棒磁石が起電力を生じてそのまま速度vで通り抜けたとしたら
それは永久機関の誕生である。 電磁誘導が慣性系でないことは、仮想的に磁石とコイルの上に水を満たしたコップを置けば
分かることである。
すなわち実験するまでもなく動かした方のコップの水がこぼれる。つまり慣性力が作用する。
それは停止、あるいは等速直線で動いている車内では普通に缶ジュースを飲めるが、
それが加減速している状況の車内ならば中身が飛び散り、悲惨な結果を招くことと同じだ。
ところでアルミや銅製の筒を立て、筒の上から強力な磁石を落とすという実験がある。
この場合電磁誘導により、磁石はあたかもブレーキがかかったようにゆっくりと落ちる。
もし電磁誘導が慣性系で記述できるなら、磁石は綱の切れたエレベータのように
自由落下(局所慣性系)するはずである。しかし実験結果はそれを否定する。 上の議論を補足すると、
>しかし磁石を静止とする座標系では磁石は動いていないのだから電場は生じない。
>ところがこの場合は磁場に侵入したコイル内の電子はローレンツ力を受けるからと説明する。
は後の物理学者が付け加えたものであり、元論文にはその記述はない(私の認識不足なら訂正する)。
アインシュタインの主張はもっとシンプルで、要するにコイルを固定し、磁石が動いている立場では
電場のエネルギーが生じて起電力が発生する。
しかし磁石を固定してコイルを動かす立場では電場のエネルギーは生じない(ゆえに起電力は生じない、
としたかは定かでない)。
つまり一方の立場では電場のエネルギーが生じ、一方の立場では電場のエネルギーが生じない。
そしてそれがアインシュタインが言うところの非対称性である。 しかし空間に対し静止、動いているというのは我々の先入観に過ぎず、相対的であるとすればいい。
つまり磁石を固定してコイルを動かす立場においても、コイルと一緒に動く観測者の座標系では
コイルは静止していて逆に磁石が動いているように見える。
ゆえに電場のエネルギーが生じる、というわけだ。
ならばもう一つの対称性、すなわち磁石と一緒に動く座標系では磁石は静止していて、今度は
動いているのはコイルの方ということになり、電場のエネルギーは生じないことになる。
しかしそれは無視する、なぜなら実際に起電力が生じるのだから。
こんなんで光の媒質とされたエーテルを捨てていいのかな?
しかしいずれにしろ電磁誘導には慣性力が作用するのは明白な事実なのだから、
慣性系で電磁気力を扱うという特殊相対論は、スタートからつまずいていることは明らかだ。 エーテルと聞くと今日的にはファンタジーゲームの架空のアイテムということになるが、
元々は水や大気といった実在(実在とは何かの議論はさておき)するモノをモデルにしたものだ。
さらに媒質を直訳するとメディアだ。ちなみに単数形がミディアム。
例えば古くはレコード盤、カセットテープ、フロッピーディスク、あるいは最近ではハードディスク、
CD(DVD)、さらには各種メモリーカードといった記憶(記録)媒体がメディア。
あるいは大手であれクチコミであれ、不特定多数に情報を発信する機関がメディア。
あるいはインターネットやメールという文化もメディア。
要するに送り手と受け手がダイレクトにつながるわけではなく、それを介在する中間形態がメディア。
その意味では光の媒質(メディア)を否定した相対論は、今日的には極めて寂しい理論と言える。 媒質の直訳がミディアム、すなわちメディアならば、光(電磁波)の媒質はメディアでいい。
光の媒質をエーテルと呼ぶかメディアと呼ぶかによって、それを否定することの重大性、意味合いが違ってくる。
すなわちエーテルを否定することに抵抗感がない者も、それがメディアとなれば「それはちょっと、いくらなんでも」
ということになるからだ。
そもそもエーテルは光の波動説の立場からの呼び名だ。
しかし粒と波の二重性を標榜する量子論の台頭により窮地に陥り、そして特殊相対論により息の根を止められた
(かに見えた)
ところが勝利の美酒に酔いしれる相対論と量子論の周りには、エーテルの援軍であるメディアという大軍勢が
幾重にも取り巻いていたということである。まさかの大逆転劇だ。
大体最新のホログラフィック原理であれエントロピック重力であれ、時間や空間、あるいは重力は幻想だ、
ただの情報に過ぎないと主張したところで、紙幣やクレジットカードに印刷されているホログラムには記憶媒体(メディア)が
必要であることは言うまでもないことである。
ならばそれらの理論は、いずれ物理的な記憶媒体という壁にぶち当たることは火を見るよりも明らかだ。 ホログラフィは光の干渉性を利用したものだ。
そもそも干渉とはゼロをはさんで、正と負の量があって初めて意味をもつものである。
すなわち同位相なら正負を問わず加算されて振幅が大きくなり、逆位相なら減算されフラットになる。
さらに電磁波の元である電荷には正負があり、磁力にもN極とS極がある。すなわち相殺項がある。
ところが重力、質量、すなわちエネルギーには正の値しかないとされている。
力学の基礎方程式からは正負の解が対で導出されるにもかかわらずである。
ならば重力、質量をまともに計算すると一方的に加算されて無限大に発散する、
あるいはそれらが量子化されない原因は明らかだ。
つまりそれは正の値を減算すべく基礎方程式の一方の解を惜しげもなく捨て去ったからだ。
ところが物理学者にはその認識がない、はっきり言って愚かと言うしかない。 天然物で最も硬いとされるダイヤモンドを研磨するのは同じ硬度をもつダイヤモンド自身だ。
あるいは光を止めることを可能にするのは同じ速度をもつ光自身だ。
つまり定在波は光の干渉性以外の何ものでない。
結局現代物理学の辞書に、すなわち重力、質量、エネルギーに負の値がないのなら、
ホログラフィック原理で記述できるのはその定義により、せいぜい映像止まりということになる。
もっともそれらの理論は重力及び時間、空間は幻想、錯覚に過ぎないとしているのだから、
その意味では整合性はとれている。 特殊相対論はニュートン力学と電磁気力、すなわちマクスウェル方程式を統一したとされている。
(ただし慣性系という切り口で)
逆に言うと、相対論以前にはニュートン力学と電磁気力は全く別の理論体系であったというわけだ。
しかしここで考えなければならないのは、そもそもエーテル云々以前に、媒質の世界においては
ニュートン力学の神聖な諸法則が成立しないということだ。 例えばこの地上において、同じ高さから同時に落とした羽毛と硬貨は同時に落下しない。
もちろん空気を排した真空下では同時に落ちる。
しかし空気がなければ音波は伝わらない。
つまりガリレオの落体の法則と、音響学は両立しない。
あるいはこの地上において、動くものは摩擦や空気抵抗などによりいずれ停止する。
つまり等速直線、すなわち慣性系は理想郷に過ぎないということだ。
しかし面白いのは、上空から降ってくる雨粒の終端速度は一定らしい。
すなわち重力加速度で速度を増すほど、つまり空気抵抗は速度の2乗で増大するのだから、
両者が拮抗した一定速度に落ち着くということである。 野球のボール及びサッカーのボールは握りや手首のひねり、蹴り方によりその軌道は不規則に変化する。
決して綺麗な放物線を描かない。
高い所から手放したティッシュペーパーは予測不能な挙動を示し、どんな高性能のコンピュータも
その落下位置を特定できない。
それは日食や月食や彗星の回帰のように、現在の位置と運動量が分かればその後の未来の行動は
一意に決まるとするニュートン力学の決定論を嘲笑うかのようだ。
要するに媒質はゆらぐ世界であり、天気予報を持ち出すもなく確率で記述される世界である。 ところで半導体の世界では電子に対して有効質量という用語が使われる。
正孔を語る際には負の有効質量という概念さえ出てくる。
有効質量とは自由電子に比して動き難さが増した電子、すなわちあたかも質量が増大したかに
振る舞う電子に使う用語だ。
つまりニュートンの運動方程式である F=ma が有効質量m* すなわち F=m*a に置き換わる。 さて空気抵抗が速度の2乗で増大するならば、そして質量が動き難さの尺度とするならば、
地上の物体は有効質量m* をもつことになり、速度依存性があることになる。
そしてそれが普通の電車と新幹線の顔つきの違いだ。
もちろん物体の質量と空気抵抗を分離して考えるならば、有効質量m* は不要かもしれない。
しかし物体と物体にまとわりついている空気を一体と見るならば、有効質量m* は文字通り有効である。 加速器で加速される荷電粒子の振る舞いはニュートン力学の F=ma ではなく、速度依存性をもった
ローレンツの変換式を使わなければ記述されないとされている。
すなわち加速される荷電粒子は、光速に近づけば近づくほど加速するエネルギーが質量増大に食われてしまい、
加速が困難になるということだ。
その質量増大を相対論的質量と言うが、現在相対論的質量は使わない方が望ましい、とされている。
しかしそれは相対論側の事情である。
つまり相対論にとって質量増大、すなわち速度依存性が無用の長物ならば、それはエーテル説に
返却するというのがスジというものだ。 以前にも述べたが質量増大は電磁質量といって、相対論以前にあった考えだ。
つまり荷電粒子は電磁場を身にまとっていて、荷電粒子を加速するにはその電磁場をも変化させねばならない。
そしそれは地上の物体を加速させるためには、物体の回りにまとわりついている空気の存在を
考慮しなければならないのとある意味同じだ。すなわちアナロジーが成立する。
ただし電磁質量はその名ゆえに荷電粒子にしか適用されないとされ、一般化されずに忘れ去られた。 さて私の光子エーテル説に従えば、光子は正の質量をもつ電子と負の質量をもつ陽電子の複合粒子だ。
ならば全体としての光子の質量は±0だが、部分的には正負の質量をもつ。
すなわち電磁場を量子化した光子それ自身が質量を有しているのだから、電磁質量は荷電粒子にしか
適用できないとするコンセプトには何の根拠もないことになる。 ちなみに物質に質量を与えるとされるヒッグス機構は、私に言わせるならば電磁質量とよく似ている。
ただし両者は真逆の関係にある。
すなわち電磁質量は電磁場(今日的には光子の集団)との相互作用だが、ヒッグス場は光子と相互作用しない。
ところでヒッグス機構の説明としてよくプールの中での動きにくさに例えられる。
しかしこの場合、抵抗を担う水は同時に音波を伝える量子でもあるのだからこの例えは
むしろ電磁質量に近い。しかしヒッグス場は光の場とは無関係だ。 質量の起源とされるヒッグス場は光と相互作用しないといっても、光はエネルギーを有している。
ならば質量とエネルギーの同等性により、光はヒッグス場と相互作用してもよさそうだが
そうではないということだ。
ちなみにヒッグス機構で説明できる質量は物質のわずか2%らしい。
大袈裟なわりには結構しょぼいw
ちなみに残りの質量はカイラル対称性の破れ。 ところで相対論に批判的な私が言うのも何だが、ヒッグス機構は相対論に対し相当に失礼な話だ。
なぜなら重力質量と慣性質量は区別が付かない、すなわち等価原理が正しいのならば、
さらに重力が時空の歪で説明できるなら、なぜ質量は時空の歪ではだめなのか?ということになるからだ。
要するに時空はどこに行ったんでしょうね。
本来重力と質量はエネルギーの観点からも相対論のテリトリーのはずだ。
しかしヒッグス機構は「重力は時空の歪でいい、しかし質量に関しては別のメカニズムを
導入しますよ」という話だ。
いわば相対論という堅牢な城の外堀を埋められたようなものだ。
さらにエントロピック重力のように、重力それ自体の存在が疑われようとしている。 特殊相対論は競合するエーテル説を何とかの剃刀でバッサリと切り落とした理論と言われる。
要するに同じ数式、同様な帰結をもたらすならば、物理学者はよりシンプルな論理を選択するというわけだ。
そしてその何とかの剃刀というのはこの場合、慣性系である。
しかしそもそも広い宇宙空間であれ我々の身近であれ、厳密な意味での慣性系はユートピアなのだから、
慣性系という切り口で世界を記述するのは最初から無理な話なのだ。 我々の身近には回転系が満ち溢れている。
そして円の1回転は正弦波に対応しているのだから、回転する物体はサインカーブを描いている。
すなわち回転する野球のボールも、コマも、車もエンジンも、そして自転する地球も、
回転するモノ全てがサインカーブを描いている。
さらにレシプロエンジンはピストンの往復運動をクランクを介して回転運動に変換しているのだから、
直線的な加減速する往復運動もまたサインカーブを描いている。 往復運動するには向きを変えなければならない。向きを変えるには一旦停止しなければならない。
それを上死点、下死点と呼ぶが、要するに007は二度死ぬではないが、円の1回転には力の向きが入れ替わる
2つの凪の状態があるということだ。
そしてその空白を補うのがフライホイール、すなわち動きにくさ、止まりにくさ、
すなわち慣性(慣性系と混同しないように)である。
結局サインカーブは加速度系から生じるのであって、慣性系から生じるものではない。
ならば音波であれ水の波であれ電磁波であれ何であれ、それを慣性系を扱う特殊相対論で記述する
意味が分からない。 現代物理は何とかの剃刀でエーテルを切り捨てたと言っても、場という疑似エーテルを使っている。
ならば場はエーテルと同じ矛盾を孕むはずである。
ところが場にはそれを名のれば何でも許されるというアドバンテージが与えられている。
それは何故か?ではそのからくりを説明してみよう。 科学の分野には熱力学と流体力学という2大勢力がある。もちろん両者は緊密に関連しているのだが、
面白いのはどちらもそれを記述するのに2つの流儀があるということだ。
すなわち熱力学においては実在気体と理想気体、そして流体力学においては実在流体と完全(理想)流体。
実在気体とは文字通り実在する気体であり、分子は体積も分子間力もある。
それに対し理想気体は分子に体積はないと規定している。
そしてそれは場及び電子や光子といった素粒子が単なる数学的な点に過ぎないとするのと符号する。
さらに実在流体とは文字通り実在する流体であり、粘性や圧縮性がある。
それに対し完全流体には粘性がない、さらに非圧縮性である。 常温、常圧の下ではある種の実在気体は理想気体として扱っても、さらに水や空気のようなさらさらな流体に
おいては、さらに境界面を無視すれば実在流体は完全(理想)流体として扱ってもそれほど差はないとされる。
そして何より重要なのは、理想気体及び完全流体には神聖な物理法則が成立するということである。
すなわち前者にはボイル・シャルルの法則、そして後者にはベルヌーイの定理、そして慣性の法則。
しかし実在気体及び実在流体にはそれらの神聖な諸法則、諸定理が厳密には成立しない、
言わば俗物、俗世界というわけだ。 さて特殊相対論は慣性系の名の下に、静止と等速直線は同じ物理法則が成り立つという相対性原理、
さらに真空下においては光速度は一定、すなわち不変という冒すべからざる神聖な原理を置いたものである。
要するに理想気体、完全流体がそうであるように、実在性を何とかの剃刀でバッサリと切り落とすことにより
成立する理論体系であるということだ。
しかし理想気体や完全流体が空想の産物であるように、広い宇宙空間であれ我々の身近であれ、
実在するものを支配しているのは非慣性系なのだから、特殊相対論で現実世界を記述することはできない。 結局場がそれを名乗れば何でも許される理由は明らかだ。
すなわちそれは媒質から実在性というオブジェクトを取り去ったものが場であるからだ。
要するに物事のコトを残してモノを切り捨てたということである。
つまり媒質には実在性という強い制約がある。それゆえどんな不可思議な現象にも合理的な説明が求められる。
しかし場には実在性という制約がない、ゆえに数学的に無矛盾ならばどんなに荒唐無稽な解釈であろうと
ミクロの世界は古典的描像では語れない、という言い逃れができるということだ。
いや、そもそも連続体である「場」それ自体、めちゃめちゃ古典的なのだが、 ホログラフィック原理にしろエントピック重力にしろ、その種の理論がブラックホールのエントロピー、
すなわち熱力学を参照しているのならば、必然的にそれは理想気体なのか実在気体なのかという命題が存在する。
もちろんそれらの理論は場の量子論をベースにしているのだから、理想気体ということになる。
間違っても実在気体ではありえない。
もしそれが実在気体となればそれは媒質、すなわちエーテル以外の何ものでもないのだから、
それはそれでセンセーショナルなものとなる。
しかし理想気体ならば、重力は存在しない、幻想に過ぎないとするコンセプトはそれほど奇異な話ではない。
なぜならそもそも場の量子論の書物に質量は出てくるが、重力は出てこないからだ。 結局科学はエーテルを捨てた時点において、マクロ系には重力を記述する一般相対論、そして
ミクロ系においては素粒子論を記述する量子論というように偉大なる棲み分け、領土配分が行われた。
つまりマクロ系とミクロ系は分離され、全く異なる物理法則が成り立つとされている。
しかしブラックホールのような高密度な天体、すなわち特異点においてはマクロ系とミクロ系が融合し、
区別がつかないはずである。
しかしミクロ系を記述する場の量子論は重力を扱う理論ではない、いや扱えない。
ならばホログラフィック原理にしろエントピック重力にしろ、重力は幻想であるという考えは
良く言えば発想の転換、悪く言えば重力の量子化はあきらめたということだ。 いずれにしろ物理学者には相対論という足かせがあるためにエーテルという用語を使えない。
ならば実在気体と理想気体のはっきりとした線引き、テリトリーを明確にしなければならない。
なぜなら物理学は実質エーテルを使っていながら、エーテルは存在しないというダブルスタンダード
で構築されていることになるからだ。 大気中の水蒸気は断熱膨張により温度が下がり、水滴となって雨になる。
さらに温度が下がると雪やあられ雹、すなわち固体になる。
そしてそれを相転移と言うが、相転移は体積も分子間力もある実在気体の特性である。
しかし体積も分子間力もないとされる理想気体には相転移は存在しない。
すなわち圧力を高める、あるいは温度を下げると限りなく圧縮され、圧力無限大、あるいは
絶対零度で体積はなくなり、数学的な点、いわゆる特異点になる。
逆に言うと、宇宙は針の先ほどの点から誕生したとするビッグバン宇宙論を保証していることになる。
しかしいずれにしろ理想気体で相転移を説明することはできない。 >エントロピー的な力、
>エントロピー弾性
エントロピー弾性で語られる代表的なものはゴムである。
しかしエントロピーと言ってもゴムはモノマーという最小単位であるユニットが数多く連なった高分子であり、
体積も分子間力もある実在気体を考慮しなければならないはずである。
さらにゴムは弾性体でありながら粘性ももっている、いわゆる粘弾性。
つまり粘性がないとされる完全流体では記述できない。 >エントロピー的な力、
>疎水効果
疎水効果も体積も分子間力もある実在気体の世界であり、さらに油はさらさらな液体ではないのだから、
実在流体として扱わなければならないはずである。
そもそも疎水性(親油性)と親水性はセットであり、一方のみを語るのはあまり意味がない。
つまり熱力学の立場からは同種同士には凝集力である引力、異種の間には反発力である斥力、
つまり引斥力が存在するということだ。
そしてそれは本来凝集力である重力にも2つの極があり、引斥力があることを示唆する。 結局場の量子論であれ何であれ、相対論を基礎とする理論体系は実在を語ることを放棄したということだ。
そしてそれゆえにそれらの理論はエントロピーとか情報とかの漠然としたものに活路を求めているように見える。
しかし情報と言っても、例えば生命の遺伝現象を考えた場合、場という考えで記述できるのは
3文字から成る遺伝暗号、すなわち塩基配列のアルファベットの羅列であり、オブジェクトであるDNAそのものは扱えない。
あるいは脳を情報処理系と見た場合、入出力する電気信号は扱えるが脳みそという記憶媒体は扱えない。
さらにコンピュータ、あるいはAIが0と1の羅列、あるいはその重ね合わせだとしても記憶媒体というハード、
すなわちメディアは使えない。
それが科学の世界におけるルールであり、エーテルを否定した相対論はそのリスクをとったということだ。 そもそも場の量子論に力の相互作用を担うものとして仮想粒子という用語は出てくるが、
間違ってもそれを実在粒子とは呼ばない。
あるいはサインカーブを見て、それが何で粒なんだ!というのがいわゆる量子論だ。
しかし媒質の世界では、粒以外の何ものでもない。
結局空間から物性を排した最終形態が時間や空間、及び重力は幻想とするホログラフィック原理や
エントピック重力なのであろう。
すなわち世の中上手く出来ていて、ある前提(エーテルの否定)の下にはそれ相応の帰結が導かれるということだ。 >>エントロピー的な力、
>>疎水効果
結局エントピック重力はスタートから矛盾を内包した理論と言える。
つまり重力は一方的な凝集力である。さらにエントロピーはエントロピー増大則により一方的である。
ゆえに重力はエントロピー的な力で記述できる。
しかしエントロピー的な力には親水基と疎水基という2つの極があり、凝集力と反発力がある。
ならば一方を無視する恣意的な根拠は何なのか?
さらに熱力学を参照してるならそれは理想気体なのか、それとも実在気体なのかを明示しなければならない。 そもそも水と油は互いにバリアを張って混じり合わない。
しかし親水性と疎水性の両方の性質をもった、すなわち親水基と疎水基が対になった両親媒性の
界面活性剤が存在する。
そして水に溶けた界面活性剤は水になじむ親水基が外側に、そして水に弾かれる疎水基が内側を向き、
いわゆるミセルを形成する。(私に言わせるならば包囲化、すなわち量子化)
逆に油に溶けた界面活性剤は親水基と疎水基が反転して逆ミセルを形成する。
つまりそれを粒子と反粒子のモデルとすると、界面活性剤はボソンということになる。 結局ミセルと逆ミセルは表裏、裏表が閉じた関係にある。
さらに水-脂質-水-脂質のように層状になったものをラメラ構造(液晶構造)というが、やはり表裏、裏表の関係にある。
つまり複素構造、複素次元をもっているということ。
ちなみにおよそ信じ難いことだが、そもそも物理学の基礎に裏表の概念はない>>142
つまり、電子であろうが光子であろうがクォークであろうが時空であろうが数学的な点とされ、
すなわち大きさと構造を持たないものに裏表は定義できない。
要するに粒々という概念はないということだ。 宇宙空間は何もない真空と教え込まれてきた人々にとって、重力は空間の歪みだ、
あるいは空間は曲がっていると聞かされてもピンとこないであろう。
さらにその歪みや曲がり方には実は2種類あると提案されても、納得しかねるのは当然だ。
しかし空間が曲がるというコンセプトが理解し難いのは、物理学者が真空は何もない空間
であると自他ともに洗脳してきたからである。
それに対し物理学者は「テンソルだよテンソル」と呪文を唱える。 しかしテンソルなる用語は材料系の分野では普通に使う。モノがなければエアテンソルでしかない。
いやそもそも伸びる縮む、曲がる歪む、たわむねじれるは媒質の世界に生きる我々にとっては
日常風景であり、日常用語以外の何ものでない。
実際歪みや曲がり方には2種類あることはミセルや逆ミセルをモデルにすれば何ら不思議はない。
そして我々人間はもちろんのこと、生命はその原理によって形造られ、そして生活が営まれている。 マクスウェル方程式は流体力学を参照して構築されたものであり、慣性系がどうのこうのという話ではない。
そもそもマクスウェルはエーテルの信望者であり、実際エーテルの存在を前提に導かれたのが
いわゆる変位電流だ。
マクスウェル方程式の4つの式にアンペール・マクスウェルの法則がある。
すなわち ∇×H = J + ∂D/∂t
∇×H = J はアンペールの法則、すなわち定常電流の回りには定常磁場が生じるという式だ。
定常であるがゆえに時間の関数ではない。(ある意味慣性系と言えなくもない)
ちなみに静磁場も定常電流とおなじく位置(r)関数であり、位置と時間(r, t)の関数でない。 回路にコンデンサがあると電流は時間変化して定常でなくなり、位置と時間(r, t)の関数で記述される。
さてコンデンサ、つまり2枚の平行板の間は回路が途切れているのだから本来電流は流れないはずだ。
しかしマクスウェルは変位電流が流れているとした。
つまり水の波を考えるならば移動しているのはあくまでも振幅などの変位であり、
水それ自体は流れていかない。
同様に誘電体であるコンデンサの分極の時間変化により電束密度が変化し、電束電流が流れる。 アンペール・マクスウェルの法則は電荷の保存則、すなわち連続の式でもある。
連続の式とは電荷であれ質量であれ、物理量は原因もなく湧き出したり吸い込んだりしないということ。
つまり無から有、有から無への遷移を禁止する物理学の根幹をなす式。
実際一見電荷がゼロの誘電体にプラスとマイナスの電荷が誘起されるのは、電荷がない状態から
湧き出したのではなく、元々実在するプラスとマイナスの電荷が打ち消し合い、中和していたからだ。 さてエーテルの信望者であったマクスウェルは、真空は誘電体であるとすればエーテルの分極が起こり、
変位電流が生じる(必然的に変動する磁場も励起される)、すなわち電磁波の存在を予言し、実際に後に
実験で確認された。
しかし現在、マクスウェルの意に反して真空は誘電体でないとされている。
ならば真空中を電磁波が伝わるということは、原因もないのに電荷 (電場)が無から有、有から無への
遷移を繰り返していることになり、連続の式を満たさないことになる。 ファラデーやマクスウェルらは電磁力線をゴムひも(ゴム管)のような実体的なものとして
イメージしていた。
すなわちゴムチューブは引っ張って伸びる縮むという張力(テンション)が生じる。
さらに同時に細くなったり膨らんだりして圧力が生じる。
それをマクスウェルの応力テンソルというが、要するに空間は弾性体のような性質を
もっているということだ。 そもそも場とは畑のことだ、ATフィールドとか言うと何となくかっこいいが、要は畑だ。
磁石の上に紙を載せ、鉄粉を振りまき、指でトントン叩くと磁力線が可視化されて幾何学模様
を描くが、それが麦畑の麦が風にそよぐ様子に似ていることからファラデーの時代に
フィールドと呼んだのだ。
日本語の場も広場、会場、競技場、市場、工場、出会いの場というように人や物が集まるにぎやかな
空間であり、有機的なものである。
しかし特殊相対論により宇宙空間は更地にされ、場という考えは一旦後退する。
その後場という考えは復活するが、もはや麦畑としてのフィールドでも日本語としての場の意味でも
ない、そこに実体、実在を求めてはならない、単なる数学的な点であり、無機的なものである。 場で記述される世界に実在性がないことは物理学者も明言している。
例えば電子はスピンという属性をもっているが、実在の回転ではないとされる。
つまりフィギュアスケートの選手がフィニッシュで腕を縮めて高速回転するが、
半径を限りなく縮めるとその表面速度はいずれ光速を超える。
いやそもそも数学的な点粒子に回転運動という概念はない。
ならば電子のスピンって何?ということになるが、それに対する答えはないのだ。 電子のスピンが実在の回転でないならば、それをスピンと呼ぶ必然性はないはずだが、
しかし現実には、物理学者は電子のスピンをマクロ系のコマや地球の自転をイメージ
している節がある。
結局連続体を標榜する、すなわち大きさも構造も考えない「場」はそれ自身で閉じていない、
理論独立性のない理論体系ということになる。
要するに、マクロ系という補助輪なしには成立しないということだ。 電子に限らず光子も右回り、左回りというスピンという属性をもっている。
そしてその反映として、光子の集団とされる電磁波は右円偏光、左円偏光というように
偏光面が螺旋を描きながら進んで行く。
つまりマクロ的には光子のスピンを実体的に図示する。
しかし光子を素粒子と見た場合、それは電子と同じ理由で実在の回転ではないはずだ。
このギャップは何なのか?
しかし点粒子とされる光子は実は大きさと構造をもつとすればよさそうなものだが、
物理学者にはその発想はないようだ。 電子は1/2のスピンをもつとされる。1/2の意味は2回転、すなわち円の1回転は360°なのだから、
720°回って元の状態に戻るということだ。
そしてそれが電子のスピンは実在の回転ではないとする理由の一つでもある。 しかし実質2回転して元の状態に戻るというのは幾何学の世界において、メビウスの帯がある。
あるいはテクノロジーの世界においても、4ストローク(サイクル)エンジンがそうだ。
つまり吸気-圧縮-燃焼-排気という4つの過程で1サイクルが完結する。
つまり吸気-圧縮で1往復、さらに燃焼-排気で1往復、そして1往復は円の1回転に対応して
いるのだから、2往復で2回転。
すなわち吸気を初期状態とすれば、元の状態に戻るためには720°回転しなければならない。 ミクロの世界は我々の常識が通用しない不可思議な世界である、いやそうであってほしいという
願望は分からないではない。
なぜならそういう訳のわからない世界に身を置くことは、一種ステータス感があるからだ。
それゆえマクロとミクロを1対1に対応させるというもくろみはその種の人々にとっては面白いはずがない。
しかし私に言わせるならば、ミクロ系とマクロ系の不一致ははっきりしている。
つまりそれは我々の目にするもの全てが大きさと構造、すなわちメカニズムをもっているのに対し、
ミクロ系の素粒子、そして時空さえも大きさと構造というメカニズムがないからだ。
ならば選択肢は2つしかないことは明らかだ。
すなわち従来通り、マクロとミクロを別々の論理で記述するか、
それともミクロ系の素粒子にも構造をもたせて、マクロ系とミクロ系の統一を計るかだ。 パスカルの原理というものがある。
それは図右のように、水や油のような液体を満たした容器の一点に加えた力Nは
容器内の面全てにNという力が作用するという原理だ。
ゆえにパスカルの原理は非局所的な相互作用である。
パスカルの原理は300年以上も前に発見されたものであるが、現在、油圧機器など最先端の
分野で活躍している。
要するに遠隔操作(遠隔作用ではない)を可能にするということだ。
ではパスカルの原理をエーテルを否定した相対論で考えるとどうなるのか?
もちろんその定義から相対論とパスカルの原理は何の関係もないが、あえてやってみる。
さて図左のように、質点Mがある速度vで容器の内部を反射を繰り返しながら動き回ったとしよう。
そしてそれにより容器の面に圧力を及ぼす。
しかしこれではパスカルの原理は説明できない。
なぜならパスカルの原理は容器内の面の全ての点にほぼ同時に力Nが作用するという原理であるからだ。
つまり局所的な質点Mに相対論的因果律を課すと、そしてパスカルの原理を説明しようとすると、
それは自ずと超光速で動き回らなければならない、という実にパラドキシカルな帰結が導かれることになる。 ここでいう相対論的因果律とは、要するに質点Mがある時刻に位置xに存在したならΔt、すなわちその
ちょっと前にはΔx、すなわちその近傍に居た、さらにそのちょっと前にはその近傍にというように
連続的な軌跡を描く、つまり不連続な飛躍はしない。
さらに局所的な質点Mが複数の位置に同時に存在することはないという論理だ。
しかし、そもそもパスカルの原理に質点Mの軌跡なるものは存在しない。
力を伝達するのは流体全体に広がる圧力変化であり、ある意味波動場と似ている。 パスカルの原理を相対論で説明する必要性はないとすればそれまでだが、
しかし非局所的な相互作用は色々な場面において表出する。
例えば原子レベルにおける電子の振る舞いがそうだ。 シュレディンガー方程式は基本的に1粒子を扱う理論だ。
そして電子は質量mをもっているのだから、初歩的には太陽系を巡る惑星をイメージするがよい
(ただし大きさも構造ももたない質点と考える)。
ただ違いは、太陽系の惑星は現在の位置と運動量が分かればその後の未来の行動は一意に決まるのに対し、
1粒子のはずの電子はあたかも波のように空間全体に広がっていて(この時点ですでに人間の理解を越えている)、
確率でしかその位置は語れない。
そして観測という人間の恣意的な行為によって電子は特定の位置に姿を現す。
そしてそれを波動関数の収縮と言うが、注意すべきは観測により位置が特定されたとしても、
だからと言ってそのちょっと前にはその近傍に居たとは限らないということだ。
極端な話、波動関数は宇宙全体に広がっている、ゆえにちょっと前にはアンドロメダ星雲に居た可能性もあった、
そしてそれが波動関数の収縮の位相速度は光速を超えるとするゆえんだ。 結局波動関数の収縮であれ量子もつれ、すなわち量子テレポテーションであれ非局所的な相互作用を
説明しようとすると超光速、すなわち遠隔作用が顔を出す。
なぜなら現代物理は非局所性を裏付ける媒質、すなわち媒体を葬り去ったからだ。
すなわち媒体がなければそれは遠隔作用と考えるしかない。
アインシュタインは量子もつれを気味の悪い遠隔作用として忌み嫌い、その背後には隠れた変数があるとして
量子論に不信感をあらわにした、いやだから、その隠れた変数を葬り去ったのは誰なんだよ?
というお話なのだw wikipediaより引用、非局所性とは、
>この宇宙における現象が、離れた場所にあっても相互に絡み合い、影響し合っているという性質のこと
媒質が非局所性の世界であることは明らかだ。例えば部屋に複数(何台でもよい)のギターがあったとしよう。
そして1台のギターの開放弦を弾く。すると調弦された全てのギターの開放弦が共鳴して振動を開始する。
もし空気という媒体がなければ、1台1台の開放弦を弾いて回らなければならない。
さらにそれぞれの弦が振動したとしても、ギターの音色を聴くことはできないし干渉という現象も起きない。 2つの音叉A、Bがあったとする。そしてどちらかの音叉を叩くともう一方の音叉も共鳴して鳴り出す。
さてもし共鳴という知識が全くない友人に目を瞑ってもらい、そしてどちらかの音叉を叩いたとしよう。
その場合、その友人に音叉A、Bのどちらを叩いた?と質問したなら、その友人は何と答えるだろうか。 つまり二重スリットの謎も共鳴系と考えれば何の不思議もない。
すなわち二重スリットを共鳴系とすれば、分割不能な電子が2つのスリットを同時に通過する必要はない。
どちらか一方を通り抜ければいい。いやそもそも通り抜ける必要性もない。
つまり光子エーテル説に従えば空間には電子がうじゃうじゃと局在しているのだから
(もっとも電子と反対の性質をもった陽電子と対になっているのだが)、
丁度ニュートンのゆりかごのように局在する電子がバケツリレーのようにスクリーンに伝わる。
そしてそれが電子のようなフェルミ粒子が粒と波の二重性をもつという意味だ。 そもそも回折も干渉も水の波や音の波に普通に起きる現象だ。
ところがミクロの世界のそれらの現象はマクロの現象とは別次元とされている。
例えば外村氏の実験(いわゆる二重スリットではないが)のように、
最初スクリーンにポツンポツンとあたかも粒の到達を示す輝点がランダムに現れる。
ところが長時間、すなわち輝点の数が増えるとスクリーン全体に明暗、すなわち波の特性である
干渉縞が現れる。まさに電子は粒と波の両方の性質をもっていることの証であるとされている。 ところが音波における回折及び干渉はそれとは違うとされている。
つまり例え音波の強度を弱くしてもスクリーンに薄ぼんやりした干渉縞が現れるだけであり、
決して粒の到達を示す局所的な輝点は現れない、ゆえにミクロ系とマクロ系との翻訳は不能である。
しかしそれは波長域の問題である。
つまり音波においても指向性の強い超音波を使えば、そして上手い実験を行えば、
音波においても外村氏の実験と似た現象を再現できるはずだ。
そしてその実験が成功した暁には、科学に革命が起きる。
すなわち媒質と場の区別が失われ、マクロとミクロを隔てていた禁断の壁が取り払われ、
光の伝播に媒質は必要としないとする相対論は終焉する。 結局電子のような局所的な質点に相対論的因果律を課すと、電子の振る舞いは説明できない。
つまり非局所的な相互作用を導入しなければミクロの世界は記述できない。
ところが非局所的な相互作用で説明しようにもエーテルという媒質を捨ててしまった現代物理には
もはやそのツールはどこにもない。
それゆえミクロの世界はアインシュタインが嫌悪した超光速やら遠隔作用のオンパレードなのだ。
なんとも皮肉な結果であるとしか言いようがない。 相対論も量子論も間違ってるなら、パソコンもスマホも使うなよ パソコンもスマホもモノの塊、物性論の世界だよ。
もちろんそれらは相対論と量子論をベースにしていることは否定しないが、
理論物理とテクノロジーの世界はイコールじゃない。
後者の方が先行する場合もある。
標準理論に未解決問題がある限り、相対論も量子論も書き換えられる可能性を含んでいるんだよ。 電子等のミクロ粒子はスピンと共に歳差運動、すなわち首振り運動している。
歳差運動は地球やコマのように軸をもったモノの特性であり、マクロな現象である。
ミクロ粒子がスピンだけならまだしも歳差運動を行っているとするならば、
それを実在と認めないとする態度はあまりにも苦しすぎる。
ちなみにスピン波というものがあるが、これは歳差運動の伝播に他ならない。
相対論や量子論はその定義からミクロ粒子が構造をもつことを許さない。
しかし物性に携わる研究者がミクロ粒子をゴースト、ファントムの類として扱って
いるとも思えない。
つまり理論物理とテクノロジーの世界は全くの別物ということ。 そう?
物性論ってはっきり言ってバンドギャップのエネルギー電子密度の計算で電子正孔とは物性論をわかりやすくするための仮のものでしょ。
ただ量子力学では空乏層にはエネルギーが存在できないけど物性論では存在するとしてエネルギー密度を計算してるよ。
そこは量子力学とは違う。 要は複雑系でしょ、無限のマクロと無限のミクロは無限に単純でシンプル、
中間の無限はカオス理論、天気予報は勿論、人間の動きを計算で予測するのは不可能、
つまり中間の無限であり無限に複雑カオスといことだよ、その究極が人間の脳でもあるが、
要するに生命体は究極のカオスでもあるわけだから生命体こそが中間の無限で無限に複雑でカオスだから生命体の動きを計算するのは不可能なんだよ >>606
>電子正孔とは物性論をわかりやすくするための仮のものでしょ。
えっ、そうなの?物性の研究者もミクロ粒子はゴースト扱いなのかな。
まぁ物理の世界には媒質より場がより上位にあるというヒエラルキーがあるからな。
しかしその上下関係をひっくり返すというのがこのスレの目的でもある。 パソコンであれスマホであれ高性能のコンピュータであれ、信号は導体及び誘電体(絶縁体)を伝わるのだから、
つまり真空中の光速度cではないのだから、物性論と相対論は直接関係しない。
要するに、郷に入っては郷に従うということだ。
あるいは物性論はシュレディンガー方程式、すなわち量子力学は使うが場の量子論は使わない、
しかし電子のスピンは特殊相対論と量子力学が結びつくことにより導かれたクライン-ゴルドン方程式、
そしてディラック方程式を経て出てきたのだから、結局物性論も場の量子論を使っている、
などと色々な見方がある。 しかし私に言わせるならこのようなカテゴリー分けは実情を反映していないということだ。
なぜなら物性論では特殊相対論経由でない別系統のクライン-ゴルドン方程式、
すなわち電信方程式を使っているからだ。>>472-474 電信方程式とクライン-ゴルドン方程式は等価である。いやむしろ電信方程式のほうが
正当的なKG方程式なのだ。
そもそもKG方程式とは波動方程式に減衰項を付与した方程式である。
ところが特殊相対論経由のKG方程式には減衰項と共に増幅項がある。
すなわち正負の一方の正の解は減衰項だが、負の解はゼロ点から絶対値の大きな方向を向いている。
ならば相対論的量子力学及び場の量子論はそのような増幅項をもった方程式を自らの理論に据えるべきである。
ところがそのような方程式はどこにもないということだ。 KG方程式は特殊相対論により導出された。さらにKG方程式を一次式にしたディラック方程式から
スピンは生み出された、そしてそれが相対論の心棒者の心のよりどころになっているようだが、
残念ながらKG方程式は相対論ありきの方程式ではない。
半導体の世界では正孔という概念を使う。そして正孔はディラックの方法論を真似たものとされている。
ならば半導体の世界では場の量子論を使っていないということになる。
なぜなら現在ディラック流の考えはボソンを扱えないとされ、遅延解、先進解を使った
ファインマン流の考えにその道を譲っているからだ。
ファインマン流の考えがディラック流より優れているならば、すなわちより一般的ならば、
半導体の世界も正孔を使わずに、電子が時間を逆行するという概念を使えばより良い半導体ができるはずである。 ここで穿った見方をするならば、素粒子の世界は我々からすれば桁違いに遠い世界である。
それゆえ素粒子の世界に先進波が飛び交っていたとしても対岸の火事として呑気に構えていられる。
しかし同じミクロの世界と言っても、半導体の世界はあまりにも我々に身近過ぎて対岸の火事とは言ってられない。
実際、もし半導体の世界に遅延波、先進波が飛び交っているならば、パソコン画面に明日の株価や
明日のスポーツの試合結果が表示されてもそれほど驚くにあたらないことになる。 結局半導体の世界はファインマン流ではなく、正孔という場の量子論のお古ということだ。
半導体における正孔は負の有効質量をもつとされる。
すなわち負の電荷、負の質量をもつ電子、そしてそれを
→正の電荷、正の質量をもつと再解釈するわけだ。
しかしここで問題は、もし正孔が最初から正の電荷を持っていたとすると、負の質量を正の質量に
再解釈できないことになる。
つまり私の疑問は、正負のエネルギー、質量をもった電子の電荷の符号はなぜどちらも負なのか?ということである。
もっともそのように規定しなければ再解釈、すなわち負のエネルギー解を扱えないからだ。
しかし私に言わせるならば負エネルギー、負の質量を正エネルギー、正の質量に再解釈する必要はない。
正孔(陽電子)はダイレクトに負の質量、正の電荷をもつとすればよい。 そもそもディラックの理論はボソンを扱えないということで現在主流からはずれている。
しかしpn接合によるLEDやレーザーの発光は電子と正孔の再結合とされている。
すなわちボソンを扱えないとされるディラック理論は現実には役立っている。
つまり場の量子論のシナリオが正しいのならば、pn接合によるLEDやレーザーの発光は
電子が時間を過去と未来を往還しているのだ、としなければおかしい。
いずれにしろ理論物理とテクノロジーの世界は別物。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、☆
@ 公的年金と生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、
ベーシックインカムの導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば
財源的には可能です。ベーシックインカム、でぜひググってみてください。
A 人工子宮は、既に完成しています。独身でも自分の赤ちゃんが欲しい方々へ。
人工子宮、でぜひググってみてください。日本のために、お願い致します。☆☆ 半導体の世界が正孔を使っているといっても、だからといってディラックの理論と全く同じというわけではない。
そもそもディラックの論理にはトリッキーな部分がある。
つまりディラックは負の電荷をもった負エネルギー電子が抜けた穴が正孔、すなわち正の電荷をもつとしているが、
負の電荷をもった電子が負の電荷を持ち去ったならば残る電荷はゼロであり、正孔にはならない。
それは対生成の逆過程である対消滅を考えても同じだ。
つまり負の電荷をもつ電子が正の電荷をもつとされる正孔を塞ぐと電荷はゼロになる。
しかし正孔が塞がった状態は元の負の電荷をもった負エネルギー電子なのだからこれは矛盾だ。
ちなみに半導体の世界ではいわゆる価電子帯の電子は中性としている。
中性ならば少なくとも代数和は保存する。 さて粒子と対をなす反粒子は負エネルギー解から導出された。
しかし物理学では負のエネルギー、負の質量を扱えない。
ゆえに負エネルギー解から導出された反粒子を何とかして正のエネルギー、正の質量をもつように
改造しなければならない、というのが物理学者のパラダイムであり、道しるべでもある。 現在負エネルギー解から導出された反粒子を正のエネルギー、正の質量をもつように
改造することに成功したのは2例しかない、すなわちディラック流とファインマン流だ。
しかしディラックの海は過去の遺物とされ、実際現在真空は負エネルギーの電子で満たされている
と考えている物理学者は皆無だ、騾馬粒子という用語もほとんど死語に近い。
さらにファインマン流の考えもなぜか半導体の世界からのオファーがないw
素粒子論においては標準理論として現役であるが、マクロよりの半導体にはお呼びがかからないということだ。
要するに先進ポテンシャルを使ったファインマン流の考えはマクロ系には使えない、
なぜならその定義により、物理学者は因果律の問題に忙殺されるはめになるからだ。 結局負エネルギー解から導出された反粒子を正のエネルギー、正の質量をもつように
改造することに腐心した2例ともその先は行き止まり、すなわち通行止めの標識が立っている。
ならば物理学者に残された道の選択肢は2つしかない。
すなわち負エネルギー解から導出された反粒子を正のエネルギー、正の質量をもつように
改造する3例目を模索するか、さもなくばその無意味な行為の愚かさに気付くかのどちらかである。
つまり反粒子は力学の基礎方程式通りに素直に負のエネルギー、負の質量をもつとすればいい。
そしてそれにより何の矛盾のない理論体系を構築できる。
もちろんそれを記述する数学解は複素共役であることは言うまでもない。 今回のH大の入試問題におけるぐだぐだは、いかに媒質を伝わる波を舐めていたかと言うことだな。
そもそも媒質はMM実験や意味不明な量子論で否定されるほどヤワな存在ではないと言うことだ。
逆に言うと、相対論や量子論は音響学者から空気を取り上げ、音波を記述せよという無理ゲーな理論なのだ。
ご苦労さん、としか言いようがない。
いい加減この宇宙からエーテル、すなわち媒質を捨てた愚かさに気づいたほうがいいと思うぞ。 最近の科学界の話題と言えば重力波の観測と量子コンピュータであろう。
しかし私に言わせるならばこれらの話題は終わりの始まりと言える。
すなわちそれは物理学において異彩を放っている「量子」というものが、
本当に物理学者の言う量子なのか?が問われることになるからだ。
つまり重力及び量子コンピュータが、既存の量子の定義と齟齬をきたす羽目に
陥ったならば、異彩を放っていた量子の輝きが失われるということである。 量子の性質は色々あるが、代表的なものは重ね合わせの原理である。
しかし重ね合わせ自体はマクロ系にも普通に適用される原理であり、そこに不思議はない。
つまり不思議でも何でもない重ね合わせの原理を、不思議だと思え!
というのがいわゆるシュレディンガーの猫という仮想実験だ。>>105
しかしシュレディンガーの猫は部分と全体を同一視するトリックであることはすでに指摘した。
ではここでそのトリックの全容を明らかにしてみよう。 スケートのA選手はマスコミの引退か?続行か?という質問に、「ハーフ ハーフ」と答えた。
さてもし仮にマスコミが、A選手は「オール オール」と答えた、と報道したとする。
この場合A選手はどっちにしろ嘘をついた、というのがいわゆるコペンハーゲン解釈だ。
すなわち引退会見を開いたならば続行するは嘘になり、続行会見を開いたならば
引退するは嘘になる。
それに対しA選手は嘘つかない、確かに我々は引退会見を見たが、続行会見を開いた平行世界
がある。すなわち世界は分岐するのだ、というのがいわゆる多世界解釈だ。
もちろんこの場合、コペンハーゲン解釈も多世界解釈も無用である。
なぜならA選手には「ハーフ ハーフ」と言った証拠はあるが、「オール オール」と言った事実は
ないからだ。 結局シュレディンガーの猫の仮想実験も似たようなものだ。
つまりS猫の実験装置において、ミクロ系の放射性物質である膨大な数のラジウム原子の集団の中の一個が
1時間以内に崩壊してα線を放つ確率は50%であり、同時に崩壊しない確率も50%だ。
まさにハーフ&ハーフであって、オール &オールではない。
物理学ではミクロ系であれマクロ系であれ、全確率は合計すると100%、すなわち1になるように
規格化している。
つまりS猫の実験装置においてはあくまでも1時間以内にラジウム原子が崩壊する確率は50%であり、
同時に崩壊しない確率も50%である。ゆえに 50+50=100=1
決して崩壊する確率は100%であり、同時に崩壊しない確率も100%である。ゆえに 100+100=200=2→1
などという主張はどこにもない。
ところがマクロ系の猫に対してはまさに 100+100=200=2→1 という論理を当てはめているのだ。
これはトリック以外の何ものでない。 ではそのトリックを正当化する仕掛けは何か?というとそれは半死半生の猫は考えられない、
というフレーズである。
物理の書物に半死半生の猫は考えられないと記述されると、免疫のない一般読者は
そうだ、半死半生の猫は考えられないと素直に信じてしまう。
しかし辞書を引くと分かるように、半死半生とは瀕死の状態、すなわち生きているものに
対して使う用語であり、
実際、死んでいる猫に対し、半死半生の状態にあると主張するのはどっかの怪しい宗教ということになる。 結局半死半生の猫は考えられないという前提で議論を進めるということは、
それは観客がマジシャンの、種も仕掛けもないという前口上を鵜呑みにするのと同じである。
ならばマジシャンが唐突に鳩を取り出してならば、それは虚空から取り出したことになる。
同様に、半死半生の猫は考えられないとするならば、それはオカルトの世界にようこそということになる。
ちなみに物理学者のいう半死半生の猫とは、実際には全死全生の猫だからな。
この辺を脳内変換してその種の書物を読まないと、コロッと騙される。 物理学もおもしろいけどネットで儲かる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
JSXU3 量子コンピュータの原理を説明するのによくシュレディンガーの猫を登場させる。
すなわち従来型のコンピュータは0と1の羅列であるが、量子コンピュータは0と1の重ね合わせを利用する。
そしてそれはまさにこの世とあの世の二つの世界に併存するS猫そのものである。
つまりS猫は量子コンピュータにとってのマスコット的存在になっている。
要するに科学はオカルトの総本山の看板を掲げたということである。 私は何も重ね合わせの原理自体を否定しているわけではない。
重ね合わせの原理はミクロ系マクロ系を問わず普遍的なものであり、
そこにミステリーの入り込む余地はないと言っている。
そもそもS猫の仮想実験にはトリックが存在するのは明白なのだから、
科学者がS猫を議論するのはMサークルを論じるのと同じレベルだ。
要するにそれが雑誌ムーならネタとして楽しめるだろうが、
それが科学の書物ならば相当に痛いということになる。 量子コンピュータの原理の解説を読むと、量子コンピュータは複素数を使っているらしい。
しかし複素数は電気工学、すなわち交流回路などの波動場に普通に使う数学であり、
ミクロの世界を記述するためだけにあるものではない。
そもそも複素数は複数、すなわち二つで一つの数という意味である。
ただその一方が虚数である、というのがこの世に存在しない、いや存在してはいけない数という誤解を生む要因になっている。 さらに量子コンピュータはブロッホ球という視覚的な図形を使っている。
ブロッホ球は地球をイメージするがよい。
すなわちブロッホ球には北極(北半球)と南極(南半球)が定義される。
そして2つの極に排他的二値である0と1、すなわち|0>と|1>を対応させている。
さらにブロッホ球には緯度と経度が定義される。まさに地球そのものだ。
さらに歳差運動のような回転ベクトルを定義する。
しかしここで注意すべきは、排他的二値である北極と南極は
あくまでも地球という一つの単体の部分系であるということだ。
ならば排他的二値の重ね合わせには何の不思議もないことになる。
要するに、ブロッホ球にS猫の出る幕はどこにもないということだ。 結局重ね合わせの原理とシュレディンガーの猫は何の関係もない。
ただ相対論と量子論を基礎とする「場」の量子は大きさも構造もない数学的な点に基づいている。
数学的な点に部分と全体、あるいは表と裏を定義することはできない。
ゆえに数学的な点に無理やり排他的な状態ベクトルである|ψ>を定義すると、それは自ずとS猫状態になるということだ。
しかしS猫状態と直結しているのはあくまでも数学的な点である場の量子であり、
S猫の仮想実験装置とは何の接点もない。
なぜならS猫の仮想実験装置において、ミクロ粒子が崩壊する確率も崩壊しない確率もどちらも50%であって、
100%ではないからだ。
それは気象予報士が、明日何時に雨が降る確率は100%、同時に降らない確率も100%、
あるいは何月何日に桜が開花する確率は100%、同時に開花しない確率も100%、などとふざけたことを言わないのと同じだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています