生命力学〈Vital Mechanics〉
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現代科学は我々の宇宙に存在するものを2つの物理法則により記述している。
すなわちミクロ系には量子力学、マクロ系にはニュートン力学、あるいは(一般)相対論。
しかし、我々の宇宙に存在するものをミクロ系、マクロ系という2色刷りで
印刷することはできないのだ。
強いて二分法があるとするならば、それは生命系か非生命系かなのである。
そして生命(力学)の目的は、ミクロ系とマクロ系の統一、ひいては生命系と
非生命系の統一でる。 >>492
>粒子も反粒子もそのエネルギー、質量の符号は正ですよ、これは実験事実
それは解釈の一つ、つまり反粒子は時間を逆行する粒子という解釈による帰結。
そして使っている数学解が遅延解・先進解、すなわちフィルムの順送りと逆回し。
しかし先進波が発見された事実はない、つまり実験的な裏付けはない。
ただそう考えても矛盾がないというだけ(実際には矛盾だらけ)
>あと負の質量をもった物体を発見してから色々ほざいて下さい
物理学者の言う負の質量をもつモノとはいわゆる騾馬粒子。
すなわちエネルギーを失えば失うほど元気になる、速度を増すという物理学者の脳内にだけ生息する架空の存在。
私にそれを発見する義務はない。
つまり電子に対する陽電子、陽子に対する反陽子、水素に対する反水素、クォークに対する反クォーク、
すなわち既知の反粒子(物質)は負のエネルギー、負の質量をもっているとすればいい。
そしてそれにより何の矛盾のない理論体系を構築できる、そしてそれを記述する数学解が複素共役。 素粒子論の書物を読んだことのない人には騾馬粒子と聞いても何のことか分からないだろうが、
騾馬とは馬とロバを掛け合わせた動物で、機嫌をそこねると飼い主に逆らった行動をとるらしい。
すなわち御主人様がいくら手綱を引こうとも後ろに踏ん張って、梃子でも動かぬということだ。
さて我々が日常目にする物体は押すと押した方向に、引くと引いた方向に動く。
ところが物理学の定義によると、もし負の質量を有する物体があれば押すとこちらに向かい、
引くとあちらに向かうとされている。
そしてその天の邪鬼な様子があたかも騾馬の行動に似ていることから、
負の質量、負のエネルギーをもつモノに対して騾馬粒子と命名したのだ。 ところで押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かうという性質をもった物体は一見常識に反している。
ところが驚くなかれ、そのような物体は現実に存在する。すなわちそれはバネである。
すなわちバネは押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かうという性質をもっている。
結局物理学者は二重の意味で間違いを犯していることになる。
つまり押すとこちらに向かい、引くとあちらに向かうという性質をもった物体は架空のモノではなく
現実世界に普通に存在するということ、そしてそれは負の質量をもつモノにはではなく、
バネに対しての定義であるということだ。(ひょっとして物理学者はバネを見たことがないのかなw) クライン-ゴルドン方程式から正のエネルギー解と負のエネルギー解が出てくる。
そしてKG方程式を一次式に変換したディラック方程式から導かれたのが物質を構成するフェルミ粒子
であり、正のエネルギーをもつ通常粒子と負のエネルギーをもつ騾馬粒子だ。
しかしここで問題が生じる。
つまり通常粒子を電子とすると、電子は光子を放出してエネルギー準位を落とし、最低状態で安定する。
しかしそれが負のエネルギーをもつ騾馬電子ならば、そしてエネルギーはより低い方が安定なのだから、
さらにゼロより低い負のエネルギーを認めると、騾馬電子は光子を放出しながらマイナス無限大に向かって
とめどもなく落ちていくことになる。
そしてそれは我々の見るもの全てがまるで底が抜けたように騾馬粒子に遷移して奈落に沈むということだ。
しかしそんな馬鹿な話はない。
そしてそれが物理学者が頑なに負のエネルギー、負の質量をもつモノを否定し続けている理由だ。 負エネルギー解の困難は物理学者の頭を悩ませた。
ところがディラックは真空は負のエネルギーをもつ騾馬電子で満たされているというアイデアを提出した。
つまり真空は騾馬電子ですでに満席とすれば、パウリの排他律により通常の電子は負のエネルギー状態
に落ち込めない、すなわち真空の安定性は保たれる。
そして騾馬電子で満たされた、すなわちディラックの海に開いた穴こそが正のエネルギー、
正の質量をもつ陽電子であるというわけだ。 ディラック流の考えは一見合理的であるが現在主流でない。なぜならボソンを扱えないからだ。
しかしそれはある意味当たり前である。
つまりディラックは騾馬粒子を物質を構成するフェルミ粒子とした。
しかし実際は騾馬粒子に対応しているのは力を担うバネ、すなわちボソンなのである。
ゆえにディラック流の理論ではボソンを扱えない、実に分かりやすい帰結だ。
要するに真空は負のエネルギーをもった電子の海ではなく、正の質量をもった電子と
負の質量をもった陽電子が対になったボソンである光子、すなわち光子の海であるということだ。 そもそも正の数も負の数もゼロを挟んで、同一数直線上に割り振られた実数である。
ではなぜ物理学では負のエネルギー、負の質量を否定しているのか。
それは図を使うとよく分かる。
図1のようにプラスのエネルギーはプラス無限大が最もポテンシャルが高く、そしてゼロ点が最も低い。
そしてエネルギーのベクトルはより低い方向を向いている。
ではマイナスのエネルギーの世界があったなら、そのポテンシャルはゼロ点よりも低く、
そしてマイナス無限大が最も低いと物理学では規定している。
ゆえに負のエネルギー、そして負の質量の存在を認めると、我々の見るもの全てがゼロ点を越え、
マイナス無限大に向かって落ちていくことになる。
ここで注意すべきは図1はあくまでも恣意的概念であり、実験的な裏付けはないということだ。
なぜならそれが実験事実とすると、物理学者は少なくとも一度は負の質量をもった試料を実験台に載せたことになる。
しかしそれは負の質量をもつモノは存在しないという物理学の定義に反する。
要するに図1はあくまでも物理学者たちの約束事、すなわちパラダイムに過ぎないということだ。 さて波動方程式から導出される音波における正負の解は空気の疎密、密疎だ。
すなわち正圧と負圧が交互に絡み合いながら進む。
そしてそのベクトルは上の図3のようにどちらもゼロ点を向いている。
すなわち媒質の世界においては正の圧力と負の圧力が同等に定義できる。
実際エンジンの技術者や空調の関係者は普通に正圧と負圧、あるいは陽圧と陰圧という用語を使う。
ではなぜそれがトンデモ扱いされないのか、というとそれは1気圧という基準系が存在するからだ。
つまり波動方程式から導出される正負の解とは、その基準系からどちら側にずれるかの違いでしかないのだ。
つまり復元力をもったバネには自然長Lを基準に押すと引くという2つの任意性がある。
同様に大気圧にもバネの自然長Lに相当する、自然圧Pと呼ぶべき基準系が存在するということだ。
ちなみに同じ波動方程式から導出される電磁波には、バネの自然長Lに相当する基準系は存在しないらしい。 現代物理学では力学の正負の解に対して上の図2を採用している。
すなわち先進ポテンシャルを使った、反粒子は時間を逆行する粒子という考えだ。
先進ポテンシャル、すなわちフィルムの逆回しを使うと負の物理量を消せる。
例えば音波は正圧で拡散、そして負圧で収束という過程で伝わるが、
先進ポテンシャルを使うと負圧のポテンシャルは必要ない。
すなわち正圧1/2遅延波で時間を順行して拡散、そして正圧1/2先進波で時間を逆行して収束、
とすれば音波は伝わる。ただ欠点は、現実世界とは対応していないことだ。 要するに負エネルギー解から導出された反粒子は時間を逆行する粒子であり、正のエネルギー、
正の質量をもつとする解釈は、某電気メーカーが「弊社の掃除機には負圧のポテンシャルは
使っていません、使っているのは先進ポテンシャルなのです、弊社の掃除機は
時間を逆行するブロワーなのです」と主張するようなものだ。
だとしたら眉唾もんだwだからちょっとは疑ってかかれよ、という話なのだ。 もっとも先進ポテンシャルを使ったファインマン流の考えをマジで受け入れている物理学者は
少数派だろうが、なにしろディラックの海に変わる、負エネルギー解の騾馬粒子を正のエネルギー、
正の質量をもつように再解釈する方法が他にないのだからしょうがない、というところか。
かつてコペルニクスは地球と太陽の位置を交換するという簡単な操作で宇宙をあるべき姿に変えた。
同様に上の図1を図3に置き換えるという簡単な操作で閉塞感漂う物理学に風穴を開けることが出来る。
いずれにせよ物理学者の頭の中に、反粒子は負のエネルギー、負の質量をもっているという
発想はないらしい。 生命系、とりわけ経済の世界においては上の図3を採用していることは言うまでもないことである。
例えば我々が外出した場合、財布がお金で膨らんでいれば各種買い物をしたり、食事をしたり
各種乗り物を利用することができる。
では財布の残金が0になったら、何の行動もできないのか?というとその限りではない。
すなわちもしクレジットカードがあったならば、0からお金を創出できる。
さてもしそのクレジットカードが「返さなくてもいいから金を借りてくれ!」をうたい文句にする
金融機関が発行する騾馬カードなら、借金すればするほど豊かな生活を送れるというまるで夢のような
この世に天国が出現する。しかし現実世界は非情だ。
実際各種ローンや公共料金は期日にはしっかりと銀行口座から引き落とされるということだ。 よく負のエネルギーがあれば空間から無尽蔵のエネルギーを取り出せるというが、
それは負のエネルギーの世界が上の図1に従っていればの話である。
しかし架空のロジックで、架空の論議をしても話は始まらない。それはSF作家の仕事だ。
要するに、生命系の営みが上の図3で規定されているように、正であろうが負であろうが
そのベクトルは0点を向いているとすれば、負の物理量を否定する理由はどこにもないということだ。 お金で幸福は買えないとしても、我々の現実世界はそのお金により動き動かされていることもまた
事実なのである。
すなわち我々の身の周りにはお金が遍満している(もっているいないにかかわらず)。
ある意味マネーエーテルと言ってもいいだろう。
そしてそれは投資先を求めてあたかも気流のように絶えず流動している。
しかしマネーはプラスとマイナスの2つの側面をもっている。
すなわちコインの表と裏のように2つの顔が背中合わせに張り付いている。
それゆえ高値を誇っていた株価や紙幣が、一夜にしてただの紙くず同然になる事態が起こり得るのだ。
ところで経済物理という分野があるらしい。すなわち物理学の知見で経済を記述するということだ。
しかし負債の文字を知らない物理学者がどうやって経済を語るのか?
すなわち生命系の経済学が物理学を語れたとしても、非生命系の物理学が経済を語るなどは間違ってもあり得ない。 ボーアは不正確な測定をして混迷した末に量子力学なる逃げを思いついた? 光子は波動エネルギーそのものであり
エネルギーには質量がある
その証拠に光速という限界を生じる
質量が0なら光速を超えなければならないが
質量0は存在しない事を意味し『無』を意味する
つまり光速を超えるものは『無』であり存在しない 光子は波動エネルギーそのものであり
エネルギーには質量がある
その証拠に光速という限界を生じる
質量が0なら光速を超えなければならないが
質量0は存在しない事であり『無』を意味する
つまり光速を超えるものは『無』であり存在しない 光子は波動エネルギーそのものであり
エネルギーには質量がある
その証拠に光速という限界を生じる
質量が0なら光速を超えなければならないが
質量0は存在しない事であり『無』を意味する
つまり光速を超えるものは『無』であり存在しない 光は重力で曲がる・・・( ^ω^)・・・光には等価質量がある https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%90
騾馬、そしてその片方の親であるロバは日本では馴染みが薄いが、諸外国では畑を耕す、あるいは
荷物を遠くに運ぶといった人間にとっては苛酷な労働を担っていた。
もちろん今では内燃機関の発達により、その役割はトラクターやトラックに置き換わったが、
かつて諸外国において騾馬は普通に日常風景に溶け込んでいた動物である。
一説にはあのナポレオンが乗っていたのは馬ではなく騾馬、もしくはロバであったという話もある。 ところで人間にとって強大なパワーを発揮する馬に対しては馬力、すなわち仕事率の単位に
その名を付与している。
ところが騾馬に対してはそのへそ曲がりという性格ゆえに、マイナス無限大に向かうという
架空のモノにその名を付与している。散々騾馬を利用してきたにもかかわらずである。
あまりの理不尽さに涙が止まらない。
要するに物理的にへそ曲がりの騾馬はバネ、すなわちバネ定数を騾馬定数と呼べばいいのだ。
少なくとも騾馬を物理用語として使うなら。
ちなみに騾馬の騾の旁は、螺旋の螺の旁と同じ累である。
バネは螺旋の一種であることは言うまでもない。
漢字は今でいうアイコンに近いものであるが、まあそういうことだ。 時間、空間共に2階の微分方程式であるクライン-ゴルドン方程式を因数分解して一次式にしたのが
ディラック方程式だ。ゆえに必然的に正負の解が出る。
早い話 √4が±2、すなわち2と−2の2つの解があるのと同じだ。
そして紆余曲折を経て、最終的にあらゆる物理量が互いに反対(ただし質量だけは例外)の
粒子と反粒子に対応するとされて今日に至っている。 ところでダランベールの解というものがある。
これは時間、空間共に2階の微分方程式である波動方程式を因数分解して
一次式にしたものであり、ある意味ディラック方程式と手法は同じだ。
ちなみにダランベールの解は u(x,t) = f(x−vt)+g(x+vt) で表される。
ダランベールの解は一次元の式とされている。
なにしろダランベールはマクスウェルの時代より100年前に活躍した人物であり、おそらくは
リュートなどの弦楽器を伝わる波動をその研究対象にしていたのであろう。 さてダランベールの解 u(x,t) = f(x−vt)+g(x+vt) において、
正負の一方の解である f(x−vt) を正方向の波とすると、g(x+vt) は負方向の波ということになる。
といっても単に正方向を左から右に進む波とすると、負方向は右から左に進む波であり、
どちらも実在する波である。
ちなみに正負の2つの波を重ね合わせるといわゆる定在波が出てくる。
定在波は英語でスタンディングウェーブというように、人間的な例えで言うとその場で足踏み
している状態だ。
余談だがアインシュタインは少年の頃、光を光の速度で追いかけたら止まった光が見えるのか?
という問いを発し、いやそれはあり得ない、そしてそれが後の特殊相対論につながったとされている。
しかし「光を光の速度で追いかけたら」という問いは、今日的には普通は相手にされない。
いずれにしろ少年時代のアインシュタインは定在波を知らなかったらしい ダランベールの時代に遅延波・先進波というコンセプトがあったのかは分からない。
しかし少なくともダランベールの解には遅延波・先進波を当てはめてはいない。あくまでも実在する波だ。
ところがディラック方程式から導出された正負の解にはディラックの海を経て、
現在は非物理的な遅延解・先進解に対応させている。
一体ダランベールの時代とディラックの時代に何があったのか?
それは言うまでもなく物理学者は実在の象徴であるエーテルを否定した相対論の門をくぐったという
歴史的な事実である。
要するに空間から実在性を排除したなら実在は扱えない、
ゆえに我々は、魔術師としての物理学者たちのパフォーマンスをとくと鑑賞しようではないか。 エントロピック重力理論が話題になっている。
エントロピック重力理論とは、重力は物体の位置に関する情報量の変化によって生じるエントロピー的な力らしい。
エントロピー的な力 [wikipedia]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%94%E3%83%BC%E7%9A%84%E3%81%AA%E5%8A%9B
>エントロピー的な力、英語:Entropic force またはエントロピー力とは、
>主として熱力学的なエントロピーの増大による力や相互作用の総称である。電磁気力のような単一の分子の間に働く力ではなく、
>多数の分子における統計的性質として説明される巨視的な力である。
>目次 [非表示]
>1 熱力学
>2 浸透圧
>3 エントロピー弾性
>4 疎水効果
熱力学、浸透圧、エントロピー弾性、疎水効果って思いっきり媒質の世界じゃねーかw
>>468-470
ダークマターがエーテルの二の舞いならエントロピック重力理論はエーテルの三の舞いっぽいな。
要するに宇宙空間は何かで満ちているってことだろ?
ならまず一の舞いであるエーテルの否定を疑えよ、そこまでに相対論を守りたいのかな。 エントロピック重力理論はホログラフィック原理とセットらしい。
ホログラフィ、すなわちホログラムは2次元に記録されたものが3次元の像を結ぶというものである。
そしてそれを拡大解釈すると、ゆえに我々が認識する3次元世界は錯覚、幻想に過ぎず、
単に2次元にエンコードされた記録、情報に過ぎないということになる。 しかし2次元に記録されたものが3次元の像を結ぶという現象は他にも左右の目による立体視がある。
あるいは音響の世界において、左右の耳にイヤホンを差し込めば音楽が臨場感をもって聞こえる。
いやそもそも我々の現実世界において、レンズ(眼)、あるいはマイク(耳)が1つならば3次元世界を
2次元としか切り取れない。
しかしレンズ(眼)、あるいはマイク(耳)が2つあれば、3次元を3次元として認識できる。
つまり、我々が認識している3次元世界は2次元に記録された情報に過ぎない、というロジックを
積極的に支持する理由が見当たらない。 エントロピック重力理論のもう一つのキーワードはブラックホールだ。
すなわちBHにエントロピーが定義できるとすると、それは体積ではなく表面積(事象の地平線)に
比例するとされている。
そしてそれが我々が認識している現実世界は2次元に記録された幻影であるとする
ホログラフィック原理の思想背景であり、指導原理である。 ところで熱力学から表面自由エネルギーという概念が導かれる。
すなわち固体と液体、液体と気体といった相の異なる界面に蓄えられるエネルギーであり、
水の表面張力がよく知られている。
つまり水滴が丸くなる、すなわち球体になろうとする傾向は膨大な数の水分子において、
その体積ではなくその表面積を最小にしようとする性質による帰結であり、力である。
つまり表面張力は純粋に分子間力から導かれるあくまでも力であり、経験則的な
エントロピー増大則とは異なる。 エントロピー増大則は物理学における冒すべからざる神聖なものとされている。
そしてそれにより時間の矢、すなわち時間が過去から未来へと流れ、未来から過去へは
流れないという時間の向きを説明できるとしている。
それに対し表面自由エネルギーは一方的なものではない(例えそれ自身が一方的な力であったとしてもだ)。
例えば疎水性という性質がある。これは葉っぱが水を水滴にして弾く力である。
あるいは水と油は混じり合わない。
すなわち容器に水と油を入れ、例えかき混ぜたとしてもいずれ分離して境界層ができる。
つまり熱力学的には親水性と疎水性という同種同士には引力、異種の間には斥力が作用するということである。 水と油は混じり合わないといっても生命系においては両者は併存している。
そして両者を結び付けたり引き離しているのが両方の性質をもった両親性(両親媒性)、
いわゆる界面活性剤なのだ。
油汚れは水だけでは落ちにくい、それゆえ両親性の界面活性剤、すなわち石鹸を使うわけである。
あるいは牛乳は水に油分が分散したものであり、マヨネーズはその逆だ。
そしてその状態を乳化、エマルションと呼ぶ。女性が乳液を塗って、美しくいられるのもこのおかげだ。 いずれにしろ水と油は互いにバリアを張って混じり合わない。
その様子を物理学、すなわち素粒子の世界に当てはめるとそもそも粒子と反粒子は反重力のバリアが
あるので混じり合わない。
しかし両者は丁度生命系における水と油のように分離、併存している。
そして両者を引き離したり結び付けているのが粒子と反粒子の両方の性質をもった光子であり中間子なのだ。
つまり原子核における強い力はまさに粒子と反粒子の対消滅(結合)と反重力の複合力に他ならない。
>>61-67
まあエントロピック重力理論が熱力学を参照してるならこれくらいのコンセプトを提出して欲しいものだ。
熱力学を使っていながら媒質を無視してるなら、それはかつてのフロギストンやカロリックといった
お決まりのコースを歩むしかないであろう 何度も繰り返すがMM実験でエーテルが否定された歴史的事実はない。
大体アインシュタイン自身、MM実験に対する積極的な関与を否定している。
アインシュタインが特殊相対論を構築するにあたっての出発点は電磁誘導、
すなわち磁石とコイルの相対性だ。
つまり静止したコイルに磁石を近づけても、逆に静止した磁石にコイルを近づけても導体に起電力が生じる。
まさに相対性以外の何ものでもない。
ところがアインシュタインは同じ現象であるにもかかわらず両者に2通りの説明があることに不満を抱いた。
つまりコイルを静止とする座標系では動いているのは磁石であり、それにより磁場が変化する。
ゆえに電場が生じ、それによりコイル内の電子が移動する。
しかし磁石を静止とする座標系では磁石は動いていないのだから電場は生じない。
ところがこの場合は磁場に侵入したコイル内の電子はローレンツ力を受けるからと説明する。
そしてこの非対称性を解消する理論が特殊相対論というわけだ。
しかし図を見る限り、どちらにせよコイルを貫く磁束密度が変化したがゆえとしか見えない。
すなわち磁束に勾配がある。 さて、電磁誘導に対するアインシュタインの考察の致命的な欠陥は、電磁誘導を慣性系、
すなわち等速直線としていることだ。
しかし普通電磁誘導の実験はコイルに棒磁石を急激に出し入れする。
要するに電磁誘導は加減速の世界なのだ。
実際電磁誘導は V= -dΦ/dt で表される。
つまり時間の変化が急激であるほど磁束も急激に変化し、大きな起電力を生じる。
もし速度vでコイルに向かって来た棒磁石が起電力を生じてそのまま速度vで通り抜けたとしたら
それは永久機関の誕生である。 電磁誘導が慣性系でないことは、仮想的に磁石とコイルの上に水を満たしたコップを置けば
分かることである。
すなわち実験するまでもなく動かした方のコップの水がこぼれる。つまり慣性力が作用する。
それは停止、あるいは等速直線で動いている車内では普通に缶ジュースを飲めるが、
それが加減速している状況の車内ならば中身が飛び散り、悲惨な結果を招くことと同じだ。
ところでアルミや銅製の筒を立て、筒の上から強力な磁石を落とすという実験がある。
この場合電磁誘導により、磁石はあたかもブレーキがかかったようにゆっくりと落ちる。
もし電磁誘導が慣性系で記述できるなら、磁石は綱の切れたエレベータのように
自由落下(局所慣性系)するはずである。しかし実験結果はそれを否定する。 上の議論を補足すると、
>しかし磁石を静止とする座標系では磁石は動いていないのだから電場は生じない。
>ところがこの場合は磁場に侵入したコイル内の電子はローレンツ力を受けるからと説明する。
は後の物理学者が付け加えたものであり、元論文にはその記述はない(私の認識不足なら訂正する)。
アインシュタインの主張はもっとシンプルで、要するにコイルを固定し、磁石が動いている立場では
電場のエネルギーが生じて起電力が発生する。
しかし磁石を固定してコイルを動かす立場では電場のエネルギーは生じない(ゆえに起電力は生じない、
としたかは定かでない)。
つまり一方の立場では電場のエネルギーが生じ、一方の立場では電場のエネルギーが生じない。
そしてそれがアインシュタインが言うところの非対称性である。 しかし空間に対し静止、動いているというのは我々の先入観に過ぎず、相対的であるとすればいい。
つまり磁石を固定してコイルを動かす立場においても、コイルと一緒に動く観測者の座標系では
コイルは静止していて逆に磁石が動いているように見える。
ゆえに電場のエネルギーが生じる、というわけだ。
ならばもう一つの対称性、すなわち磁石と一緒に動く座標系では磁石は静止していて、今度は
動いているのはコイルの方ということになり、電場のエネルギーは生じないことになる。
しかしそれは無視する、なぜなら実際に起電力が生じるのだから。
こんなんで光の媒質とされたエーテルを捨てていいのかな?
しかしいずれにしろ電磁誘導には慣性力が作用するのは明白な事実なのだから、
慣性系で電磁気力を扱うという特殊相対論は、スタートからつまずいていることは明らかだ。 エーテルと聞くと今日的にはファンタジーゲームの架空のアイテムということになるが、
元々は水や大気といった実在(実在とは何かの議論はさておき)するモノをモデルにしたものだ。
さらに媒質を直訳するとメディアだ。ちなみに単数形がミディアム。
例えば古くはレコード盤、カセットテープ、フロッピーディスク、あるいは最近ではハードディスク、
CD(DVD)、さらには各種メモリーカードといった記憶(記録)媒体がメディア。
あるいは大手であれクチコミであれ、不特定多数に情報を発信する機関がメディア。
あるいはインターネットやメールという文化もメディア。
要するに送り手と受け手がダイレクトにつながるわけではなく、それを介在する中間形態がメディア。
その意味では光の媒質(メディア)を否定した相対論は、今日的には極めて寂しい理論と言える。 媒質の直訳がミディアム、すなわちメディアならば、光(電磁波)の媒質はメディアでいい。
光の媒質をエーテルと呼ぶかメディアと呼ぶかによって、それを否定することの重大性、意味合いが違ってくる。
すなわちエーテルを否定することに抵抗感がない者も、それがメディアとなれば「それはちょっと、いくらなんでも」
ということになるからだ。
そもそもエーテルは光の波動説の立場からの呼び名だ。
しかし粒と波の二重性を標榜する量子論の台頭により窮地に陥り、そして特殊相対論により息の根を止められた
(かに見えた)
ところが勝利の美酒に酔いしれる相対論と量子論の周りには、エーテルの援軍であるメディアという大軍勢が
幾重にも取り巻いていたということである。まさかの大逆転劇だ。
大体最新のホログラフィック原理であれエントロピック重力であれ、時間や空間、あるいは重力は幻想だ、
ただの情報に過ぎないと主張したところで、紙幣やクレジットカードに印刷されているホログラムには記憶媒体(メディア)が
必要であることは言うまでもないことである。
ならばそれらの理論は、いずれ物理的な記憶媒体という壁にぶち当たることは火を見るよりも明らかだ。 ホログラフィは光の干渉性を利用したものだ。
そもそも干渉とはゼロをはさんで、正と負の量があって初めて意味をもつものである。
すなわち同位相なら正負を問わず加算されて振幅が大きくなり、逆位相なら減算されフラットになる。
さらに電磁波の元である電荷には正負があり、磁力にもN極とS極がある。すなわち相殺項がある。
ところが重力、質量、すなわちエネルギーには正の値しかないとされている。
力学の基礎方程式からは正負の解が対で導出されるにもかかわらずである。
ならば重力、質量をまともに計算すると一方的に加算されて無限大に発散する、
あるいはそれらが量子化されない原因は明らかだ。
つまりそれは正の値を減算すべく基礎方程式の一方の解を惜しげもなく捨て去ったからだ。
ところが物理学者にはその認識がない、はっきり言って愚かと言うしかない。 天然物で最も硬いとされるダイヤモンドを研磨するのは同じ硬度をもつダイヤモンド自身だ。
あるいは光を止めることを可能にするのは同じ速度をもつ光自身だ。
つまり定在波は光の干渉性以外の何ものでない。
結局現代物理学の辞書に、すなわち重力、質量、エネルギーに負の値がないのなら、
ホログラフィック原理で記述できるのはその定義により、せいぜい映像止まりということになる。
もっともそれらの理論は重力及び時間、空間は幻想、錯覚に過ぎないとしているのだから、
その意味では整合性はとれている。 特殊相対論はニュートン力学と電磁気力、すなわちマクスウェル方程式を統一したとされている。
(ただし慣性系という切り口で)
逆に言うと、相対論以前にはニュートン力学と電磁気力は全く別の理論体系であったというわけだ。
しかしここで考えなければならないのは、そもそもエーテル云々以前に、媒質の世界においては
ニュートン力学の神聖な諸法則が成立しないということだ。 例えばこの地上において、同じ高さから同時に落とした羽毛と硬貨は同時に落下しない。
もちろん空気を排した真空下では同時に落ちる。
しかし空気がなければ音波は伝わらない。
つまりガリレオの落体の法則と、音響学は両立しない。
あるいはこの地上において、動くものは摩擦や空気抵抗などによりいずれ停止する。
つまり等速直線、すなわち慣性系は理想郷に過ぎないということだ。
しかし面白いのは、上空から降ってくる雨粒の終端速度は一定らしい。
すなわち重力加速度で速度を増すほど、つまり空気抵抗は速度の2乗で増大するのだから、
両者が拮抗した一定速度に落ち着くということである。 野球のボール及びサッカーのボールは握りや手首のひねり、蹴り方によりその軌道は不規則に変化する。
決して綺麗な放物線を描かない。
高い所から手放したティッシュペーパーは予測不能な挙動を示し、どんな高性能のコンピュータも
その落下位置を特定できない。
それは日食や月食や彗星の回帰のように、現在の位置と運動量が分かればその後の未来の行動は
一意に決まるとするニュートン力学の決定論を嘲笑うかのようだ。
要するに媒質はゆらぐ世界であり、天気予報を持ち出すもなく確率で記述される世界である。 ところで半導体の世界では電子に対して有効質量という用語が使われる。
正孔を語る際には負の有効質量という概念さえ出てくる。
有効質量とは自由電子に比して動き難さが増した電子、すなわちあたかも質量が増大したかに
振る舞う電子に使う用語だ。
つまりニュートンの運動方程式である F=ma が有効質量m* すなわち F=m*a に置き換わる。 さて空気抵抗が速度の2乗で増大するならば、そして質量が動き難さの尺度とするならば、
地上の物体は有効質量m* をもつことになり、速度依存性があることになる。
そしてそれが普通の電車と新幹線の顔つきの違いだ。
もちろん物体の質量と空気抵抗を分離して考えるならば、有効質量m* は不要かもしれない。
しかし物体と物体にまとわりついている空気を一体と見るならば、有効質量m* は文字通り有効である。 加速器で加速される荷電粒子の振る舞いはニュートン力学の F=ma ではなく、速度依存性をもった
ローレンツの変換式を使わなければ記述されないとされている。
すなわち加速される荷電粒子は、光速に近づけば近づくほど加速するエネルギーが質量増大に食われてしまい、
加速が困難になるということだ。
その質量増大を相対論的質量と言うが、現在相対論的質量は使わない方が望ましい、とされている。
しかしそれは相対論側の事情である。
つまり相対論にとって質量増大、すなわち速度依存性が無用の長物ならば、それはエーテル説に
返却するというのがスジというものだ。 以前にも述べたが質量増大は電磁質量といって、相対論以前にあった考えだ。
つまり荷電粒子は電磁場を身にまとっていて、荷電粒子を加速するにはその電磁場をも変化させねばならない。
そしそれは地上の物体を加速させるためには、物体の回りにまとわりついている空気の存在を
考慮しなければならないのとある意味同じだ。すなわちアナロジーが成立する。
ただし電磁質量はその名ゆえに荷電粒子にしか適用されないとされ、一般化されずに忘れ去られた。 さて私の光子エーテル説に従えば、光子は正の質量をもつ電子と負の質量をもつ陽電子の複合粒子だ。
ならば全体としての光子の質量は±0だが、部分的には正負の質量をもつ。
すなわち電磁場を量子化した光子それ自身が質量を有しているのだから、電磁質量は荷電粒子にしか
適用できないとするコンセプトには何の根拠もないことになる。 ちなみに物質に質量を与えるとされるヒッグス機構は、私に言わせるならば電磁質量とよく似ている。
ただし両者は真逆の関係にある。
すなわち電磁質量は電磁場(今日的には光子の集団)との相互作用だが、ヒッグス場は光子と相互作用しない。
ところでヒッグス機構の説明としてよくプールの中での動きにくさに例えられる。
しかしこの場合、抵抗を担う水は同時に音波を伝える量子でもあるのだからこの例えは
むしろ電磁質量に近い。しかしヒッグス場は光の場とは無関係だ。 質量の起源とされるヒッグス場は光と相互作用しないといっても、光はエネルギーを有している。
ならば質量とエネルギーの同等性により、光はヒッグス場と相互作用してもよさそうだが
そうではないということだ。
ちなみにヒッグス機構で説明できる質量は物質のわずか2%らしい。
大袈裟なわりには結構しょぼいw
ちなみに残りの質量はカイラル対称性の破れ。 ところで相対論に批判的な私が言うのも何だが、ヒッグス機構は相対論に対し相当に失礼な話だ。
なぜなら重力質量と慣性質量は区別が付かない、すなわち等価原理が正しいのならば、
さらに重力が時空の歪で説明できるなら、なぜ質量は時空の歪ではだめなのか?ということになるからだ。
要するに時空はどこに行ったんでしょうね。
本来重力と質量はエネルギーの観点からも相対論のテリトリーのはずだ。
しかしヒッグス機構は「重力は時空の歪でいい、しかし質量に関しては別のメカニズムを
導入しますよ」という話だ。
いわば相対論という堅牢な城の外堀を埋められたようなものだ。
さらにエントロピック重力のように、重力それ自体の存在が疑われようとしている。 特殊相対論は競合するエーテル説を何とかの剃刀でバッサリと切り落とした理論と言われる。
要するに同じ数式、同様な帰結をもたらすならば、物理学者はよりシンプルな論理を選択するというわけだ。
そしてその何とかの剃刀というのはこの場合、慣性系である。
しかしそもそも広い宇宙空間であれ我々の身近であれ、厳密な意味での慣性系はユートピアなのだから、
慣性系という切り口で世界を記述するのは最初から無理な話なのだ。 我々の身近には回転系が満ち溢れている。
そして円の1回転は正弦波に対応しているのだから、回転する物体はサインカーブを描いている。
すなわち回転する野球のボールも、コマも、車もエンジンも、そして自転する地球も、
回転するモノ全てがサインカーブを描いている。
さらにレシプロエンジンはピストンの往復運動をクランクを介して回転運動に変換しているのだから、
直線的な加減速する往復運動もまたサインカーブを描いている。 往復運動するには向きを変えなければならない。向きを変えるには一旦停止しなければならない。
それを上死点、下死点と呼ぶが、要するに007は二度死ぬではないが、円の1回転には力の向きが入れ替わる
2つの凪の状態があるということだ。
そしてその空白を補うのがフライホイール、すなわち動きにくさ、止まりにくさ、
すなわち慣性(慣性系と混同しないように)である。
結局サインカーブは加速度系から生じるのであって、慣性系から生じるものではない。
ならば音波であれ水の波であれ電磁波であれ何であれ、それを慣性系を扱う特殊相対論で記述する
意味が分からない。 現代物理は何とかの剃刀でエーテルを切り捨てたと言っても、場という疑似エーテルを使っている。
ならば場はエーテルと同じ矛盾を孕むはずである。
ところが場にはそれを名のれば何でも許されるというアドバンテージが与えられている。
それは何故か?ではそのからくりを説明してみよう。 科学の分野には熱力学と流体力学という2大勢力がある。もちろん両者は緊密に関連しているのだが、
面白いのはどちらもそれを記述するのに2つの流儀があるということだ。
すなわち熱力学においては実在気体と理想気体、そして流体力学においては実在流体と完全(理想)流体。
実在気体とは文字通り実在する気体であり、分子は体積も分子間力もある。
それに対し理想気体は分子に体積はないと規定している。
そしてそれは場及び電子や光子といった素粒子が単なる数学的な点に過ぎないとするのと符号する。
さらに実在流体とは文字通り実在する流体であり、粘性や圧縮性がある。
それに対し完全流体には粘性がない、さらに非圧縮性である。 常温、常圧の下ではある種の実在気体は理想気体として扱っても、さらに水や空気のようなさらさらな流体に
おいては、さらに境界面を無視すれば実在流体は完全(理想)流体として扱ってもそれほど差はないとされる。
そして何より重要なのは、理想気体及び完全流体には神聖な物理法則が成立するということである。
すなわち前者にはボイル・シャルルの法則、そして後者にはベルヌーイの定理、そして慣性の法則。
しかし実在気体及び実在流体にはそれらの神聖な諸法則、諸定理が厳密には成立しない、
言わば俗物、俗世界というわけだ。 さて特殊相対論は慣性系の名の下に、静止と等速直線は同じ物理法則が成り立つという相対性原理、
さらに真空下においては光速度は一定、すなわち不変という冒すべからざる神聖な原理を置いたものである。
要するに理想気体、完全流体がそうであるように、実在性を何とかの剃刀でバッサリと切り落とすことにより
成立する理論体系であるということだ。
しかし理想気体や完全流体が空想の産物であるように、広い宇宙空間であれ我々の身近であれ、
実在するものを支配しているのは非慣性系なのだから、特殊相対論で現実世界を記述することはできない。 結局場がそれを名乗れば何でも許される理由は明らかだ。
すなわちそれは媒質から実在性というオブジェクトを取り去ったものが場であるからだ。
要するに物事のコトを残してモノを切り捨てたということである。
つまり媒質には実在性という強い制約がある。それゆえどんな不可思議な現象にも合理的な説明が求められる。
しかし場には実在性という制約がない、ゆえに数学的に無矛盾ならばどんなに荒唐無稽な解釈であろうと
ミクロの世界は古典的描像では語れない、という言い逃れができるということだ。
いや、そもそも連続体である「場」それ自体、めちゃめちゃ古典的なのだが、 ホログラフィック原理にしろエントピック重力にしろ、その種の理論がブラックホールのエントロピー、
すなわち熱力学を参照しているのならば、必然的にそれは理想気体なのか実在気体なのかという命題が存在する。
もちろんそれらの理論は場の量子論をベースにしているのだから、理想気体ということになる。
間違っても実在気体ではありえない。
もしそれが実在気体となればそれは媒質、すなわちエーテル以外の何ものでもないのだから、
それはそれでセンセーショナルなものとなる。
しかし理想気体ならば、重力は存在しない、幻想に過ぎないとするコンセプトはそれほど奇異な話ではない。
なぜならそもそも場の量子論の書物に質量は出てくるが、重力は出てこないからだ。 結局科学はエーテルを捨てた時点において、マクロ系には重力を記述する一般相対論、そして
ミクロ系においては素粒子論を記述する量子論というように偉大なる棲み分け、領土配分が行われた。
つまりマクロ系とミクロ系は分離され、全く異なる物理法則が成り立つとされている。
しかしブラックホールのような高密度な天体、すなわち特異点においてはマクロ系とミクロ系が融合し、
区別がつかないはずである。
しかしミクロ系を記述する場の量子論は重力を扱う理論ではない、いや扱えない。
ならばホログラフィック原理にしろエントピック重力にしろ、重力は幻想であるという考えは
良く言えば発想の転換、悪く言えば重力の量子化はあきらめたということだ。 いずれにしろ物理学者には相対論という足かせがあるためにエーテルという用語を使えない。
ならば実在気体と理想気体のはっきりとした線引き、テリトリーを明確にしなければならない。
なぜなら物理学は実質エーテルを使っていながら、エーテルは存在しないというダブルスタンダード
で構築されていることになるからだ。 大気中の水蒸気は断熱膨張により温度が下がり、水滴となって雨になる。
さらに温度が下がると雪やあられ雹、すなわち固体になる。
そしてそれを相転移と言うが、相転移は体積も分子間力もある実在気体の特性である。
しかし体積も分子間力もないとされる理想気体には相転移は存在しない。
すなわち圧力を高める、あるいは温度を下げると限りなく圧縮され、圧力無限大、あるいは
絶対零度で体積はなくなり、数学的な点、いわゆる特異点になる。
逆に言うと、宇宙は針の先ほどの点から誕生したとするビッグバン宇宙論を保証していることになる。
しかしいずれにしろ理想気体で相転移を説明することはできない。 >エントロピー的な力、
>エントロピー弾性
エントロピー弾性で語られる代表的なものはゴムである。
しかしエントロピーと言ってもゴムはモノマーという最小単位であるユニットが数多く連なった高分子であり、
体積も分子間力もある実在気体を考慮しなければならないはずである。
さらにゴムは弾性体でありながら粘性ももっている、いわゆる粘弾性。
つまり粘性がないとされる完全流体では記述できない。 >エントロピー的な力、
>疎水効果
疎水効果も体積も分子間力もある実在気体の世界であり、さらに油はさらさらな液体ではないのだから、
実在流体として扱わなければならないはずである。
そもそも疎水性(親油性)と親水性はセットであり、一方のみを語るのはあまり意味がない。
つまり熱力学の立場からは同種同士には凝集力である引力、異種の間には反発力である斥力、
つまり引斥力が存在するということだ。
そしてそれは本来凝集力である重力にも2つの極があり、引斥力があることを示唆する。 結局場の量子論であれ何であれ、相対論を基礎とする理論体系は実在を語ることを放棄したということだ。
そしてそれゆえにそれらの理論はエントロピーとか情報とかの漠然としたものに活路を求めているように見える。
しかし情報と言っても、例えば生命の遺伝現象を考えた場合、場という考えで記述できるのは
3文字から成る遺伝暗号、すなわち塩基配列のアルファベットの羅列であり、オブジェクトであるDNAそのものは扱えない。
あるいは脳を情報処理系と見た場合、入出力する電気信号は扱えるが脳みそという記憶媒体は扱えない。
さらにコンピュータ、あるいはAIが0と1の羅列、あるいはその重ね合わせだとしても記憶媒体というハード、
すなわちメディアは使えない。
それが科学の世界におけるルールであり、エーテルを否定した相対論はそのリスクをとったということだ。 そもそも場の量子論に力の相互作用を担うものとして仮想粒子という用語は出てくるが、
間違ってもそれを実在粒子とは呼ばない。
あるいはサインカーブを見て、それが何で粒なんだ!というのがいわゆる量子論だ。
しかし媒質の世界では、粒以外の何ものでもない。
結局空間から物性を排した最終形態が時間や空間、及び重力は幻想とするホログラフィック原理や
エントピック重力なのであろう。
すなわち世の中上手く出来ていて、ある前提(エーテルの否定)の下にはそれ相応の帰結が導かれるということだ。 >>エントロピー的な力、
>>疎水効果
結局エントピック重力はスタートから矛盾を内包した理論と言える。
つまり重力は一方的な凝集力である。さらにエントロピーはエントロピー増大則により一方的である。
ゆえに重力はエントロピー的な力で記述できる。
しかしエントロピー的な力には親水基と疎水基という2つの極があり、凝集力と反発力がある。
ならば一方を無視する恣意的な根拠は何なのか?
さらに熱力学を参照してるならそれは理想気体なのか、それとも実在気体なのかを明示しなければならない。 そもそも水と油は互いにバリアを張って混じり合わない。
しかし親水性と疎水性の両方の性質をもった、すなわち親水基と疎水基が対になった両親媒性の
界面活性剤が存在する。
そして水に溶けた界面活性剤は水になじむ親水基が外側に、そして水に弾かれる疎水基が内側を向き、
いわゆるミセルを形成する。(私に言わせるならば包囲化、すなわち量子化)
逆に油に溶けた界面活性剤は親水基と疎水基が反転して逆ミセルを形成する。
つまりそれを粒子と反粒子のモデルとすると、界面活性剤はボソンということになる。 結局ミセルと逆ミセルは表裏、裏表が閉じた関係にある。
さらに水-脂質-水-脂質のように層状になったものをラメラ構造(液晶構造)というが、やはり表裏、裏表の関係にある。
つまり複素構造、複素次元をもっているということ。
ちなみにおよそ信じ難いことだが、そもそも物理学の基礎に裏表の概念はない>>142
つまり、電子であろうが光子であろうがクォークであろうが時空であろうが数学的な点とされ、
すなわち大きさと構造を持たないものに裏表は定義できない。
要するに粒々という概念はないということだ。 宇宙空間は何もない真空と教え込まれてきた人々にとって、重力は空間の歪みだ、
あるいは空間は曲がっていると聞かされてもピンとこないであろう。
さらにその歪みや曲がり方には実は2種類あると提案されても、納得しかねるのは当然だ。
しかし空間が曲がるというコンセプトが理解し難いのは、物理学者が真空は何もない空間
であると自他ともに洗脳してきたからである。
それに対し物理学者は「テンソルだよテンソル」と呪文を唱える。 しかしテンソルなる用語は材料系の分野では普通に使う。モノがなければエアテンソルでしかない。
いやそもそも伸びる縮む、曲がる歪む、たわむねじれるは媒質の世界に生きる我々にとっては
日常風景であり、日常用語以外の何ものでない。
実際歪みや曲がり方には2種類あることはミセルや逆ミセルをモデルにすれば何ら不思議はない。
そして我々人間はもちろんのこと、生命はその原理によって形造られ、そして生活が営まれている。 マクスウェル方程式は流体力学を参照して構築されたものであり、慣性系がどうのこうのという話ではない。
そもそもマクスウェルはエーテルの信望者であり、実際エーテルの存在を前提に導かれたのが
いわゆる変位電流だ。
マクスウェル方程式の4つの式にアンペール・マクスウェルの法則がある。
すなわち ∇×H = J + ∂D/∂t
∇×H = J はアンペールの法則、すなわち定常電流の回りには定常磁場が生じるという式だ。
定常であるがゆえに時間の関数ではない。(ある意味慣性系と言えなくもない)
ちなみに静磁場も定常電流とおなじく位置(r)関数であり、位置と時間(r, t)の関数でない。 回路にコンデンサがあると電流は時間変化して定常でなくなり、位置と時間(r, t)の関数で記述される。
さてコンデンサ、つまり2枚の平行板の間は回路が途切れているのだから本来電流は流れないはずだ。
しかしマクスウェルは変位電流が流れているとした。
つまり水の波を考えるならば移動しているのはあくまでも振幅などの変位であり、
水それ自体は流れていかない。
同様に誘電体であるコンデンサの分極の時間変化により電束密度が変化し、電束電流が流れる。 アンペール・マクスウェルの法則は電荷の保存則、すなわち連続の式でもある。
連続の式とは電荷であれ質量であれ、物理量は原因もなく湧き出したり吸い込んだりしないということ。
つまり無から有、有から無への遷移を禁止する物理学の根幹をなす式。
実際一見電荷がゼロの誘電体にプラスとマイナスの電荷が誘起されるのは、電荷がない状態から
湧き出したのではなく、元々実在するプラスとマイナスの電荷が打ち消し合い、中和していたからだ。 さてエーテルの信望者であったマクスウェルは、真空は誘電体であるとすればエーテルの分極が起こり、
変位電流が生じる(必然的に変動する磁場も励起される)、すなわち電磁波の存在を予言し、実際に後に
実験で確認された。
しかし現在、マクスウェルの意に反して真空は誘電体でないとされている。
ならば真空中を電磁波が伝わるということは、原因もないのに電荷 (電場)が無から有、有から無への
遷移を繰り返していることになり、連続の式を満たさないことになる。 ファラデーやマクスウェルらは電磁力線をゴムひも(ゴム管)のような実体的なものとして
イメージしていた。
すなわちゴムチューブは引っ張って伸びる縮むという張力(テンション)が生じる。
さらに同時に細くなったり膨らんだりして圧力が生じる。
それをマクスウェルの応力テンソルというが、要するに空間は弾性体のような性質を
もっているということだ。 そもそも場とは畑のことだ、ATフィールドとか言うと何となくかっこいいが、要は畑だ。
磁石の上に紙を載せ、鉄粉を振りまき、指でトントン叩くと磁力線が可視化されて幾何学模様
を描くが、それが麦畑の麦が風にそよぐ様子に似ていることからファラデーの時代に
フィールドと呼んだのだ。
日本語の場も広場、会場、競技場、市場、工場、出会いの場というように人や物が集まるにぎやかな
空間であり、有機的なものである。
しかし特殊相対論により宇宙空間は更地にされ、場という考えは一旦後退する。
その後場という考えは復活するが、もはや麦畑としてのフィールドでも日本語としての場の意味でも
ない、そこに実体、実在を求めてはならない、単なる数学的な点であり、無機的なものである。 場で記述される世界に実在性がないことは物理学者も明言している。
例えば電子はスピンという属性をもっているが、実在の回転ではないとされる。
つまりフィギュアスケートの選手がフィニッシュで腕を縮めて高速回転するが、
半径を限りなく縮めるとその表面速度はいずれ光速を超える。
いやそもそも数学的な点粒子に回転運動という概念はない。
ならば電子のスピンって何?ということになるが、それに対する答えはないのだ。 電子のスピンが実在の回転でないならば、それをスピンと呼ぶ必然性はないはずだが、
しかし現実には、物理学者は電子のスピンをマクロ系のコマや地球の自転をイメージ
している節がある。
結局連続体を標榜する、すなわち大きさも構造も考えない「場」はそれ自身で閉じていない、
理論独立性のない理論体系ということになる。
要するに、マクロ系という補助輪なしには成立しないということだ。 電子に限らず光子も右回り、左回りというスピンという属性をもっている。
そしてその反映として、光子の集団とされる電磁波は右円偏光、左円偏光というように
偏光面が螺旋を描きながら進んで行く。
つまりマクロ的には光子のスピンを実体的に図示する。
しかし光子を素粒子と見た場合、それは電子と同じ理由で実在の回転ではないはずだ。
このギャップは何なのか?
しかし点粒子とされる光子は実は大きさと構造をもつとすればよさそうなものだが、
物理学者にはその発想はないようだ。 電子は1/2のスピンをもつとされる。1/2の意味は2回転、すなわち円の1回転は360°なのだから、
720°回って元の状態に戻るということだ。
そしてそれが電子のスピンは実在の回転ではないとする理由の一つでもある。 しかし実質2回転して元の状態に戻るというのは幾何学の世界において、メビウスの帯がある。
あるいはテクノロジーの世界においても、4ストローク(サイクル)エンジンがそうだ。
つまり吸気-圧縮-燃焼-排気という4つの過程で1サイクルが完結する。
つまり吸気-圧縮で1往復、さらに燃焼-排気で1往復、そして1往復は円の1回転に対応して
いるのだから、2往復で2回転。
すなわち吸気を初期状態とすれば、元の状態に戻るためには720°回転しなければならない。 ミクロの世界は我々の常識が通用しない不可思議な世界である、いやそうであってほしいという
願望は分からないではない。
なぜならそういう訳のわからない世界に身を置くことは、一種ステータス感があるからだ。
それゆえマクロとミクロを1対1に対応させるというもくろみはその種の人々にとっては面白いはずがない。
しかし私に言わせるならば、ミクロ系とマクロ系の不一致ははっきりしている。
つまりそれは我々の目にするもの全てが大きさと構造、すなわちメカニズムをもっているのに対し、
ミクロ系の素粒子、そして時空さえも大きさと構造というメカニズムがないからだ。
ならば選択肢は2つしかないことは明らかだ。
すなわち従来通り、マクロとミクロを別々の論理で記述するか、
それともミクロ系の素粒子にも構造をもたせて、マクロ系とミクロ系の統一を計るかだ。 パスカルの原理というものがある。
それは図右のように、水や油のような液体を満たした容器の一点に加えた力Nは
容器内の面全てにNという力が作用するという原理だ。
ゆえにパスカルの原理は非局所的な相互作用である。
パスカルの原理は300年以上も前に発見されたものであるが、現在、油圧機器など最先端の
分野で活躍している。
要するに遠隔操作(遠隔作用ではない)を可能にするということだ。
ではパスカルの原理をエーテルを否定した相対論で考えるとどうなるのか?
もちろんその定義から相対論とパスカルの原理は何の関係もないが、あえてやってみる。
さて図左のように、質点Mがある速度vで容器の内部を反射を繰り返しながら動き回ったとしよう。
そしてそれにより容器の面に圧力を及ぼす。
しかしこれではパスカルの原理は説明できない。
なぜならパスカルの原理は容器内の面の全ての点にほぼ同時に力Nが作用するという原理であるからだ。
つまり局所的な質点Mに相対論的因果律を課すと、そしてパスカルの原理を説明しようとすると、
それは自ずと超光速で動き回らなければならない、という実にパラドキシカルな帰結が導かれることになる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています