生命力学〈Vital Mechanics〉
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現代科学は我々の宇宙に存在するものを2つの物理法則により記述している。
すなわちミクロ系には量子力学、マクロ系にはニュートン力学、あるいは(一般)相対論。
しかし、我々の宇宙に存在するものをミクロ系、マクロ系という2色刷りで
印刷することはできないのだ。
強いて二分法があるとするならば、それは生命系か非生命系かなのである。
そして生命(力学)の目的は、ミクロ系とマクロ系の統一、ひいては生命系と
非生命系の統一でる。 結論を先に言ってしまえばS猫にミステリーもパラドックスも何もない。
なぜならS猫の仮想実験にはトリックが含まれているからだ。
そもそもミクロ系の対象である放射性原子とマクロ系の対象である猫は1対1の対応がついている。
例えば、特定の一個の放射性原子が何時崩壊するのかは確率でしか記述できない。
ただ多くの集団に対しては半減期のように定量的に語れるだけである。
それは特定の一匹の猫(人間)が何時死ぬかは不確定であるが、より多くの人間を集めると
その国(地域)の平均寿命に収束するのと同じだ。そしてそれは生命保険の手法でもある。 さて、一言で猫と言っても猫は部分からなる全体だ。例えば猫の絵を描くとしよう。
その場合、頭、胴体、足、尻尾、さらに顔に目鼻、ついでにヒゲを加えるといよいよ猫らしくなる。
すなわち猫はそれらの部分からなる全体なのだ。
さらに猫は全身毛で覆われているし、さらに皮膚、肉、骨、脳に五臓六腑、
さらにそれらを繋ぐ神経や血管、そして筋肉ときりがない。しかし最終的に細胞という最小単位にぶち当たる。
もちろん細胞も部分からなる全体だ。
すなわち細胞はDNAを納めている核やミトコンドリヤ等の複雑な構造をもっている。
そして細胞はさらに分子・原子に分解される。
ようするに猫は部分が集まって全体になり、その全体がさらに大きな全体集合の部分になる、
といった階層構造をもっている。もちろん猫が全体集合と言っても猫の集団(社会)から見れば
猫一匹は部分である。 マクロ系の猫が階層構造をもっているように、ミクロ系の原子もまた階層構造をもっている。
すなわち原子は原子核と電子に分割される。さらに原子核は原子番号に応じた幾つかの
陽子と中性子、そしてそれらを仲立ちする中間子に分割される。
さらにそれらのバリオンやハドロンは標準理論によるとクォークへと分割され、
さらに電子やクォークの周りにはいわゆる4つの力を媒介するゲージ粒子が取り巻いている。
さらにそれらのモノは超ひもに分割されるという説もある。
ちなみに超ひもはスーパーストリングと単数形で表されているが、
超ひもも分割されてハイパーストリングスと複数形で呼ばれるかもしれない。
ようするに、部分が集まって全体になり、その全体がさらに大きな全体の部分になる、
という図式は猫も原子も同じなのだ。
ところがS猫において比較されているのは部分と部分ではなく、ましてや全体と全体ではない、
部分集合と全体集合なのだ。 なぜならS猫の仮想実験において、毒ガス入りのビンを割る引き金を引くα線は電子を剥ぎ取られた
ヘリウムの原子核だからだ。さらにそのα線はどこから来たのか?というとラジウム原子が
放出したものだ(その結果としてラジウムはラドンに変わる)。
さらにそのラジウム原子はどこに在ったのか?というと、それは元々1時間以内にα線を放出
するかしないかに調整された微量(微量といっても無数個ある)のラジウム原子の集団である。
ようするにミクロ系からエントリーされているのはあくまでも部分集合の部分集合の
そのまた部分集合なのだ。
そして部分と全体を対応させるならばオカルトが出現するのは当然なのである。 例えば致命的でなければ人間の体の一部が欠損したからといって必ずしも死ぬとは限らない。
実際盲腸や胃、あるいは病巣を切除することは普通に行われている。
つまり、S猫に対比されたマクロ系とは、腹痛で苦しむ人間の盲腸を摘出した意味合いでしかないのだ。
あるいは不幸にして地雷を踏んで左足を失った人がいたとする。
この場合部分と全体を同一視すれば、右足を観測すれば生きてこの世にいる。しかし左足を
観測すれば非存在であり、その人間はあの世にいる、という奇妙なことになる。
あるいは人間の細胞はおよそ60兆個と言われている。
もちろんその中には生まれたてのモノもあれば盛んに活動しているモノもある。
さらに死んでいく細胞もある(老廃物として排泄される)。
この場合も部分と全体を同一視すれば奇妙な結果を得る。
すなわち生きている細胞を観測すればその人間は生きている。しかし死んだ細胞を観測すれば
その人間は死んでいる、ということになる。
もちろん人間の一生はただ一度だけとしても、その内部においては無数の生死のドラマが
演じられているのだ。 ところで、人間の血液の中の赤血球の寿命はおよそ3〜4ヶ月と言われている。
ならば便宜上100日とすると、2400個の赤血球を集めると1時間以内にその中の一個が死滅する
確率は50%である。だとしたら、S猫の仮想実験装置の微量の放射性原子を微量の細胞に
置き換えてもS猫の仮想実験は成立する。
だからと言って、人間とその部分である細胞との間に越えてはならない一線を引く必要があるだろうか? S猫の仮想実験装置にはさらに別の不備がある。すなわち毒ガスの量だ。
つまり、S猫においては毒ガスが放出されると猫は確実に死ぬという前提になっている。
にもかかわらず蓋を開けるまでは猫の生死は決定されない、などと訳の分からないことを主張しているのだ。
つまり、あらかじめミクロ系には確率が、マクロ系には決定論が成り立つというトリックを忍ばせている。
確かに無防備の猫に致死量を遥かに越えた毒ガスを浴びせれば確実に死ぬだろう。
では猫にガスマスクを装着する、あるいは毒ガスの量を致死量ギリギリに抑えたならばどうなるのか?
その場合死ぬ猫もいるだろう。しかし中にはしぶとい猫がいて、全く平気な猫もいるだろう。
あるいはもがき苦しんでいる猫がいるかもしれない。
結局のところ一刻も早く蓋を開けて猫の生死を確認しなければならない、
というごく当たり前の結論しか得られないのだ。 ところで致死量でググると半数致死量という用語でてくる。
ようするに致死量には個体差があって絶対的な数値は決められない。
そこである量を与えて半数が死に至る量を半数致死量と呼ぶことらしい。
まさに確率と統計の世界である。結局、マクロ系の猫に対してもあらかじめ確率を導入しておけば、
マクロ系の猫に対しても不確かなことしか言えない、という状況に変わりない。 結局S猫の仮想実験は、ミクロ系には確率ありき、マクロ系には決定論ありきなのである。
ならばS猫の仮想実験装置の放射性原子を、確率で記述されるマクロ系の事象に置き換えても
S猫の仮想実験は成立する。
例えばインターネットと毒ガス発生装置をケーブルで繋ぎ、どこどこに地震が起きた、
どこどこに雨が降った、あるいは超新星が発見されたという情報が流れると毒ガスが
発生するようにセットすると、猫の生死はそれらの事象とリンクすることになる。
だからと言ってそれをミステリーと思い悩む必要があるだろうか? 細胞は細胞を維持しようとする免疫系と細胞を破壊しようとする異物や細菌、ウイルスと
いった正負のベクトルの重ね合わせである。
地震がプレートの歪みによる跳ね返り(解放)ならば、大地は歪ませようとする力と解放
されようとする相反するベクトルの重ね合わせである。
地球の大気は高気圧と低気圧、あるいは寒気と暖気の重ね合わせ(前線)である。
天体は重力により一点に壊縮しようとする力と、核融合反応による熱により拡散しようとする
相反するベクトルの重ね合わせである。
つまり天文学者は我々の銀河系において、超新星の出現は数十年に一度あるかないかとしか言えない。
もしミクロ系が我々の常識が通用しない不可思議な世界ならば、量子力学者はピンポイントで
地震が起きる日時と震度、超新星が出現する日時と方向を予測できるはずである。
ならばぜひともやってほしいものである。 さて、言うまでもなくS猫は仮想実験である。
しかし今回の原発の損傷により、仮想実験が仮想でなくなった。
すなわち、まさに我々自身がS猫状態に置かれているということである。
ならば致死量に満たないはずのα粒子一個を猫を死に至らしめるように増幅する毒ガス入り
のビンの役割は何なんだ?
つまり、仮想実験においてはα粒子一個と猫一匹の死が対応している。
しかし現実の世界では原発から放射線が出まくりなのに健康には影響しない、
とアナウンスする。この差異は何なんだ?
もちろんその答えは明らかである。
すなわち本来放射線物質の崩壊も猫の生死も確率と統計でしか語れない。
ただし猫の生死は外的要因によりコントロールできる。そしてそれはS猫で言えば
毒ガスの量である。そしてそれは原子の世界も同じである。
すなわち核物質に浴びせる中性子の量により核反応をコントロールできる(はずだ)。
そしてそれがまさに原発の原理ではないのか? . / | \─`-
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l. './, ,ハ | | ヾミこ彡'ヽ| ||
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/////レ'´,. -‐-'、,ノ´ v / 7 _/.
{ ( /l/' K「 '´ ̄ ヽ.`) / / r'ーf 俺はS猫(埋葬される運命にある状態と、じゃれて愛くるしい状態にある猫が併存)は
部分と全体を同一視するトリックだと述べた。
だが、だからと言ってS猫を完全に葬り去ったわけではない。
なぜならその論理は、その定義により構造をもたないモノに対しては適用できないからだ。
ところで電子や光子などの素粒子は現在、構造をもたない点粒子とされている。
それゆえ素粒子の世界にはS猫をはびこらせる土壌がある。
もっとも、原子は構造体なのは明らかなのだから、原子レベルではS猫は存在しない。 現代物理においては何も無い真空、あるいはエネルギー最低状態の基底を |0>で表す。
そして生成演算子を作用させて真空を埋めていく。すなわち |n>
それに対して媒質、すなわち水の世界における電荷は |0>であり、|H2O>であり、|±0>である。
コップ一杯の水には想像を絶する電荷が満ちている。しかしそれが水である限り±0である。
水分子は水素と酸素が反応した生成物であり、いわゆるボソンである。
水分子は粒であり、振動する能力を有しているのだから波でもある。
すなわち粒であり波でありそれ以外の何物でもない。
つまり、水分子における重なり合っている排他的2値である水素と酸素はあくまでも部分系である。 電子と陽電子が対消滅すると光子に、逆に光子から電子と陽電子が対生成される。
ならば媒質をモデルに、光子は電子と陽電子の複合粒子とすればよさそうなものであるが、
電子も光子も構造をもたない点粒子とされているのだから、既存の物理ではそれはない。
ならば、例えば光子の反粒子は光子自身と言う時の光子はまさにS猫状態である。
つまり、部分系をもたない光子は絶えず光子全体が粒子と反粒子という排他的2値の間を
揺らいでいることになる。 結局、連続体の場が無限大の困難を内在するように、構造をもたない点粒子という素粒子論は
S猫の存在を内在する。
そして、それゆえにミクロの世界は我々の常識が通用しない不可思議な世界である、とするか、
それゆえに構造をもたない点粒子として電子や光子を規定している標準理論には限界がある、
とするかは議論の別れるところである。 構造をもたない点粒子という概念が必然的にS猫の存在を許容すると言うことを見てみよう。
例えば医者が、細胞を量子力学的表示で記述したとする。すなわち
|細胞ψ>=|がん遺伝子↑>+|がん抑制遺伝子↓>
実際誰もが細胞にがん遺伝子とがん抑制遺伝子を併存させている。
がん遺伝子があるからと言ってがんになるとも限らないし、がん抑制遺伝子があるからと言って
がんにならないとも限らない。
そのメカニズムは複雑であろうが、要はスイッチオンオフの関係であろう。
すなわち <正常細胞φ|ψ> そしてその複素共役として <がん細胞φ|ψ> さて、では細胞を構造をもたない点と考えたらどうなるのか?
すなわち粗視化して人間は構造をもたない点である細胞の集まりとするのである。
ならば細胞を|ψ>のように状態ベクトルで記述すると、細胞は生まれながらにしてがんに
冒されている細胞と、絶対にがんにならない細胞の重ね合わせになる。
さらにそれを人間全体に当てはめると、人間は生まれながらにしてがんに冒されている人間と
絶対にがんにならない人間の重ね合わせになる。
ならばがんになっていない人間は、がんに冒されているもう一人の自分はどこにいるんだ?
あるいはがんに冒されている人間は、絶対にがんにならないもう一人の自分はどこにいるんだ?
ということになる。
そしてその解決法として、互いにもう一人の自分は分岐、すなわち多世界解釈で説明しようと
するのは必然の流れなのである。 S猫は猫である必要はない。要は排他的2値があればよい。
例えば猫を裁判に置き換えてみる。すなわちシュレーディンガーの裁判だ。
|判決ψ>=|検察側↑>+|弁護側↓>
言うまでもなく裁判は、裁判の名において検察側も弁護側も部分集合である。
すなわち検察側は罪を重くしようとするベクトルをもち、逆に弁護側は罪を軽くしようと
するベクトルをもっている。
この場合も部分と全体を同一視、あるいは部分と全体が定義できなければ奇妙な結果を得る。
すなわち検察側が裁判そのものならば、そして死刑を求めたならば、被告は死刑だ。
同様に、弁護側が裁判そのものならば、そして無罪を主張したならば、被告は無罪だ。
ならば被告はあの世とこの世を往還しなければならない。
しかし現実には裁判長が判決を言い渡した瞬間(いわゆる波動関数の収縮が起こり)
、刑が確定する。
そして死刑であろうと無罪であろうと懲役何年であろうと、検察側と弁護側の主張が
重ね合わされたものに違いない。だとしたら判決結果はΨである。
さらに判決に不服な方が控訴すれば、そしてそれが認められたならば、刑は再び不確定になる。 結局、S猫は存在しないとするならば、ミクロ系とマクロ系を隔てる禁断の壁は存在
しないのだから、波動関数ψも状態ベクトルも汎用性をもつことになる。
つまり、それはマクロもマクロ、すなわち宇宙全体も波動関数で記述されなければならない。
つまり、我々の宇宙は排他的2値である物質と反物質が実と虚の関係で重なり合っている。
ある意味3Dの世界だ。
すなわち |ψ宇宙>=|物質>+|反物質>
そして我々が認識している世界が <物質優位|ψ宇宙> であり、その複素共役として <反物質優位|ψ宇宙> の世界がある。
床に落として2つに割れた洋皿の片方を拾い上げたならば、そのギザギザにぴったり合う
もう一つの片割れがある。
もし数学が科学の女王ならば、科学の女王は複素共役のもう一方の片割れをどこかに
産み落としているはずだ。
もし数学が信用に足る学問ならば、それはいずれ発見されるであろう。 S猫がマジシャンの、魔術を演じるためのトリックを仕込んだ小道具だとしても、
そこで問われているのは可逆と不可逆の関係である。
我々は生きている猫が死ぬことはあっても、死んだ猫が生き返ることはないと思っている。
しかしもし時間が可逆ならば、死んだ猫もゾンビのように生き返る。
すなわち、例え箱の蓋を開ける10分前に猫が毒ガスを吸って死んだとしても、
そこにゾンビ猫がいるかもしれない。
ところで、ミクロの世界は時間を逆行させると上手く記述されるらしい。
ならば、ミクロ系にはゾンビ化した猫がうようよいるということになる。 さて、このスレの目的がミクロ系とマクロ系の統一であると大きくでたからには、
マクロ系においても時間の逆行が有効である、すなわち時間が可逆であることを
証明しなければならない。 ところで、S猫を解説する書物は判で押したように半死半生の猫は考えられない、
という前提で論理を展開している。
しかしこれは明らかに間違いである。
なぜなら半死半生とは辞書を引くまでもなく実在する状態であるからだ。
すなわち生きるか死ぬかの境界にある様を半死半生というのであり、
どっちに転んでもおかしくない状態である。
つまり、半死半生の猫は考えられない、という前提の下で話を進めるということは、
生命系における日常用語としての半死半生、あるいは定量的意味での半死半生(部分死部分生)
を暗黙のうちに奪っていることになる。
そしてそれは同時に、ミクロ系における生命系のような生と死の中間状態にある
可能性を排除しているということになる。 例えば誰かが交通事故を起こし、多量の出血をしたとする。
もしすぐに発見され、適切な処置をされたならば助かるかもしれない。
しかし発見が遅れ、そのまま放置されたならば命を落とすだろう。
その状態を半死半生と言わずしてなんと言うのだろうか?
あるいは普通風邪で命を落とすとは思わないだろうが、
毎年多くの人間がインフルエンザなどで死んでいる。ようするに、程度の差はあれ、
あの世とこの世の階段に続く踊り場にある状態を我々は病気や怪我と呼んでいるのである。 もちろん、物理学者の言う半死半生とは日常用語としての半死半生ではなく、
定量的意味での半死半生(部分死部分生)でもない。
ようするに医学的に生きている状態と死んでいる状態が明確に区別される対象が
併存しているとするものである。
ならばそれは揚げ足をとるようだが、全死全生の猫は考えられない、と言うべきである。
いや、全死全生の猫も厳密には正しくない。
なぜなら死んだ猫も、DNAさえあれば遺伝子操作で生き返る可能性がないとも言えないし、
生きている猫も定量的に部分系として死んだ細胞を含んでいるからだ。
しかし、日常用語としての半死半生が現実に存在する以上、その対語として
全死全生を使うことにする。 さて、先ほど挙げた交通事故のように重傷を負うということは、
時計の針が狂ったようにグルグルと回り始めるということである。
そして適切な処置をするということは、時計の針に逆向きのトルクをかけることである。
すなわち生命系はあくまでも可逆なのである。
もし生命系が不可逆ならば、病気や怪我が治るなどということはありえないことである。 生まれた人間(生命)が死ぬのは外的であれ内的であれ死の因子(ベクトル)がある
からであり、簡単に死なないのは同時に生の因子(ベクトル)があるからである。
すなわち生命系とは正負のベクトルの重ね合わせなのだ。
死の因子
―――――――→
←―――――――
生の因子
そもそも我々の身の回りには細菌やウイルスなどの病原体が取り巻いているのだから、
その限りにおいては人間は生まれたとしてもすぐに死んでしまうはずだ。
しかし簡単に死なないのは病原体に対して貪欲な白血球や免疫系が機能しているからだ。 生命系が可逆であることのよい証明は、あたかもフィルムの逆回しのような現象が存在することだ。
例えば包丁で指を切ったとしても、ちょっとした傷ならばいつのまにか元の状態に修復する。
つまり、人間の体、組織には元の状態に戻ろうとする復元力があるということだ。
あるいはよく古いビルを爆破して解体する映像があるが、その映像を逆回しすると、ガレキが
スーっと集まってきて解体前の状態に戻るという奇妙な映像になる。
しかしそれが重要文化財ならどうだろう。すなわち何らかの原因で破壊されたとしても、
住民(国民)の合意さえあれば復元する。実際、火災で消失した金閣寺は元の状態に復元されている。
もちろんフィルムの逆回しとは直接には関係ないが。 その状況は今回の震災現場も同様である。
もし生命系が不可逆ならば、ガレキはそのままであり、町は廃墟と化すであろう。
しかし現在ガレキは撤去され始めており、被災地は復興という名の下に甦るであろう。
もちろん同じ状態に復元する必要はないが、新しく生まれ変わるということだ。
つまり、被災地はあくまでも日本という国の部分系なのだから、そこに生と死、
あるいは破壊と再生という排他的2値があっても不思議はない。 さて、もし物理学者の言うS猫が全死全生の猫ならば、放射性原子であるラジウムの状態は
|崩壊しない>+|崩壊する>=|生きている猫>+|死んだ猫>
となる。さらに書き換えると
|生きている猫>+|死んだ猫>=|ラジウム原子>+|ラドン原子+ヘリウムの原子核>
となる。しかしこれは明らかにおかしい。
なぜなら上の式が正しいのならば、ラジウムは絶えずα線を放出し、そして放出されたα線は
絶えず時間を遡ってラドンに吸収されるという過程を繰り返していることになる。
そしてラドンがα線の吸収を停止した時点においてラジウムがα崩壊した、ということになる。 結局、原子核内において重なり合っている排他的2値はあくまでも部分系とすれば
何の問題もない。
すなわち重なり合っている排他的2値とは、α粒子を原子核内に繋ぎ留めている
強い力であり、そしてα粒子が原子核内から飛び出そうとする力である。
そしてしきい値を超えた時にα崩壊が起きるのだ。
ちなみに俺の解釈よれば、強い力とは粒子と反粒子の対消滅と反重力の複合力である。
いずれにせよ原子は構造体なのだから、原子レベルにおいてはS猫は存在しない。 ポケットの中の小銭入れから硬貨を取り出し、親指で弾いて空中に放り上げる。
そして右手でつかみ取った瞬間、表か裏に収束する。
言うまでもなく一枚の硬貨は表と裏から成っている。
もちろんどちらを表と呼ぶかは任意であるが、一応日本国の文字が刻まれた方が表だ。
ところで、一枚の硬貨こそがまさに半死半生の猫ならぬ、半裏半表のコインなのだ。
仮にこれを極ありふれているという意味で「古典的コイン」と呼ぶことにする。 さて、では古典的コインに対する「量子的コイン」とは何なのか?と言うと、
S猫は全死全生なのだから、全裏全表のコイン、ということになる。
ようするに空中に漂っているコインは、表も裏も表側のデザインが刻まれたコインと、
裏も表も裏側のデザインが刻まれたコインが併存している。
そして右手でつかみ取った瞬間、そのどちらか一方、例えば表も裏も両面表側の
デザインが刻まれた面に収束する。これがいわゆるコペンハーゲン解釈である。
さらに、いや、この場合たまたま表側のデザインが刻まれた世界を選択しただけであり、
両面裏側のデザインが刻まれたコインを選択したもう一つの世界がある、すなわち
世界は分岐したのだ、というのが多世界解釈である。 ではコペンハーゲン解釈と多世界解釈のどちらが正しいのか?
というと、それはコインをひっくり返せばわかる。
すなわち、もし上を向いた面の反対側に全く違うデザインが刻まれていたとするならば、
コペンハーゲン解釈も多世界解釈も間違っていたことになる。 そもそも古典的コインは必ずしも古典的ではない。
例えば表側と裏側を青と赤の2色に色分けし、そして机の上に立てて回転させる。
すると紫色に見えるだろう。
さらに指で押さえると青と赤の面のどちらか一方に収束する。
しかし裏と表を何度ひっくり返そうとも紫色はどこにもない。
すなわち排他的2値が重なり合った状態と、そのどちらか一方に収束する現象が
古典的コインにおいて実現している。
そしてそれは日常用語としての半死半生の猫が実在するように、
実在するコインはまさに半分表であり、半分裏であるからだ。 そもそも物理学に裏側という概念はない。
信じがたいと言うべきか当然と言うべきか?
例えば以前レスしたように既存の理論による重力場は常に引力、すなわちゴム膜で
言えば表側しか使っていない。
図1
____ ____
\○/
 ̄
図2
_
__ _/●\__
\○/
 ̄
しかし、もし物理学に裏側の概念が存在するならば、当然図2のように正負の
2種類の重力場、そして引斥力が導かれるはずだ。 あるいは
WORM HOLE
A面/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
↓ ▼ ▼
/ : :
───┬──┬─
↑ └──┘
B面 BLACK BLACK
HOLE HOLE
上の図はいわゆるワームホールであり、BHとBH(WH)を繋げたものだ。
しかし、それはあくまでもA面の世界での話しであり、B面は何の係わりもない。
もし物理学に裏側の概念が存在するならば
・ ┌──┐
EXIT │ │
↓ │ │
/ ̄ ̄│ ̄ ̄△\
/▼ : \
: : \
 ̄│ ̄ ̄│ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
│ │ ↓
└──┘ EXODUS
上の図のようにA面とB面を繋げた幾何学構造が考えられるはずだ。 いや、粒子と反粒子は表・裏の関係にあるのでは?と思われるかもしれない。
しかし既存の物理では素粒子は構造をもたない点とされてるのだから、
つまり内部構造をもたないのだから、表・裏は意味をなさない。
強いて表・裏を定義するならば全表全裏である。
例えば構造をもたない光子の反粒子は光子自身と言う時の光子は、
まさに全表全裏、すなわちS猫状態である。
すなわちミクロの世界はゾンビ猫が住まう世界だと言うのだ。既存の理論によると… 素粒子の世界では、反粒子は時間を逆行する粒子とされている。
これはボソンを説明できなかったディラックの海に変わる、負エネルギー解から
導出された反粒子を正の質量に改変するための苦肉の策である。
マクスウェル方程式から2つの解が出る。
そして何故かそれは時間を順行する遅延解と時間を逆行する先進解とされている。
普通物理学者は一方の解を無意味なモノとして無視する。
しかしファインマンは時間の対称性に意味があると考え、先進解を積極的に利用した。
そして、実際反粒子は未来から過去に走る粒子とするとミクロの世界を上手く記述出来るらしい。
しかし、それがマクロの物体ならば当然因果律に抵触する。
ミクロの世界ならば何でも許されるというものでもないだろう。
物理学者は負の質量には冷たいが、こと時間の逆行には寛容なようだ。 さて、陽電子は時間を逆行する電子とすると、そしてそれにより光子の対生成・対消滅が
説明できるなら、まさにそれはS猫のストーリーそのものである。
すなわち生きている猫が時間を順行して死ぬ、そして死んだ猫が時間を逆行して生き返る。
つまり、猫がこの世とあの世を往還する状態が波動場である。
ならば、まさにミクロ系は我々の常識が通用する世界ではない。
これはあまりにも奇妙なので、波動関数は実在しないとも言われている。 翻って生命が住む媒質はミクロ粒子のフィールドである場のような困難はない。
例えば水の世界は電離して酸性の場とアルカリ性の場に分離する。
酸性 アルカリ性
-t→ ←t
────┼────
0 7(中性) 14
すなわち水素イオン濃度が高いのが酸性であり、水酸イオン濃度が高いのがアルカリ性だ。
酸性は金属を、アルカリ性はタンパク質を溶かすという性質をもっている。
さらに酸性の場を好む生命がいればアルカリ性を好む生命もいる。
しかしいずれにせよ、どちらも中性になる方向のベクトルをもっている。
そして、時間を担う水素イオンと水酸イオンは水分子の部分系である。
すなわち、時間の順逆を同じ対象に担わせるならば因果律の問題が発生するが、
媒質においては時間の矢は2本あるのだから、因果律云々は関係ない。 その様子は大気をフィールドとする生命も同じだ。
[呼吸]→
↑ O2 ⇔ CO2 ↓
←[光合成]
動物は酸素を吸い、炭酸ガスを吐くというリズムを刻む。
逆に植物は炭酸ガスを吸い、酸素を吐くというリズムを刻む。
すなわち呼吸と光合成は過去と未来、原因と結果、入力と出力が入れ替わっている。
だからといって因果律に抵触しているわけではない。
この場合の時間の順逆を保証する数学解は複素共役である。
円の一点を一周させた軌跡を平面座標に射影するとサインカーブを描く。
その場合右に回すか左に回すかによって位相が半波長πずれる。
そして、さらに複素平面上に射影したものが複素共役だ。 ある意味呼吸と光合成はエントロピーの増大を互いに消し合っているとも言える。
もし地球上に植物がいなければ、地球温暖化などと生易しいものではなく、
動物はとっくの昔に窒息死していたはずだ(まあ、それ以前に動物は生まれていないかも)。
逆に植物からすれば酸素とは鉄などを赤く壊縮させる毒々しいモノであり、
さらに森林を消失させる悪魔的存在である。
その酸素を植物にとっては有用な炭酸ガスに変えてくれるのだから、
植物からみれば動物は忠実なる僕なのである。
つまり大気の組成は循環している。
そしてそれはあたかもメビウスの帯のように表と裏を往還するねじれた円環だ。 もし呼吸(光合成)が大気を吸って大気を吐き出すものなら、すなわち変数が1つならば、
どちらが過去なのか未来なのかの区別がつかない。
しかし実際には酸素と炭酸ガスという変数が2つある。
つまり呼吸は余分なものとして炭酸ガスを捨て、光合成は余分なものとして酸素を捨てる。
すなわち呼吸と光合成においては酸素と炭酸ガスの役割が実と虚として入れ替わっていて、
まさに複素共役の関係にあるということである。 もちろん動物と植物が互いにエントロピーの増大を消し合っているといっても、
元々は太陽からのエネルギーがあってこその話だ。
さらに元をたどれば水素ガスが重力場により凝集したからだ。
その意味では時間の流れは一方的である。
しかしもし我々はこの宇宙の部分系しか知らないとしたらどうだろう。
すなわち我々は物質優位の世界にどっぷりと浸かっているから時間の矢は一本しか
認識できないのだ。
つまり、もし複素共役のもう一方の片割れである反物質優位(反物質自身は自らを
反物質とは呼ばない、自虐的でない限り)の世界があるならば、時間の矢は互いに
逆行する2本あることになる。
すなわち物質の根源は循環している。 もし我々が茫漠たる宇宙空間を俯瞰できるならば、さらに悠久の時間の流れをビデオの
早回しのように見れるならば、我々は物質優位と反物質優位の世界を往還する波動場と
しての目まぐるしいダイナミズムを見ることになるであろう。
案外観測技術が進展すれば、ある日唐突に宇宙の壮大な交代劇を鑑賞できるかもしれない。
そしてその時我々は目撃するであろう。
宇宙全体に描かれた天井画が次第に色あせていき、全面的に描き直される様を、 ここで断っておくが、俺は何もファインマンの「反粒子は未来から過去へ走る粒子」
というフレーズを否定しているわけではない。ただニュアンスが違うと言っている。
つまり、例えば植物は動物から見れば未来から過去へ走る、としても構わない。
あるいは、サッカーの選手を突き動かしている原動力が相手のゴールポストの中に
ボールを蹴り込みたいという欲求ならば、つまり相手のゴールポストが未来の方向ならば、
相手チームの選手はまさに未来から過去へ走っていることになる。 もしグラウンドに相手チームの選手がいなければ、ひいきのチームは望むだけ、
好きなように点が入るだろう。しかし実際はイライラするほど点は入らない。
それは逆向きのベクトルをもった相手チームの選手がいるからである。↓●○↑
≪可逆空間≫
・ __┏┓_
/未来 過去/
/○___↓-t
/ ↑t ●/
過去 未来 /
_┏-┓___/
≪複素共役≫
・ Im__┏┓_
↓i=√-1 /
/○___↑ /
/ ↑ ●/
Re ih*∂ψ/∂t=Hψ
_┏-┓___/
サッカーの試合においてはひいきのチームが攻撃中は相手チームの防御側が励起され、
相手チームの攻撃中はひいきのチームの防御側が励起される。
時間の流れ○→
攻撃側(実時間)
―――――――→
←―――――――
防御側(虚時間)
相手チームがボールをインターセプトすると時間の矢は反転する。i^2=-1
←●時間の流れ
攻撃側(実時間)
←―――――――
―――――――→
防御側(虚時間)
結局、時間の流れは4種類あるということだ。
すなわち実の正負の方向性、そして虚のそれぞれの2種類である。 もし我々の宇宙が物質だけで構成されているのなら、そして正の重力場という
一方通行の力しか存在しないのなら、物質の形成する重力場は一瞬にして
この宇宙を崩壊に導くであろう。
すなわちエネルギーというものは本質的に暴走するものである。
しかしそのエネルギーの流れを制御するものが有るはずである。
すなわち我々の宇宙においては物質と反物質に働く斥力により時間の流れは制御されている。
〈物質優位〉
正の重力場〈引力〉
―――――――→
←―――――――
虚の重力場〈斥力〉
そしてその複素共役として
〈反物質優位〉
負の重力場〈引力〉
←―――――――
―――――――→
虚の重力場〈斥力〉
そしてそれを記述する数式として
◇ i*ST*∂ψ/∂t=Hψ
_ _
◆-i*ST*∂ψ/∂t=Hψ
ただしSTはSPACE TENSION(空間張力)
以上をもってミクロ系とマクロ系は統一される。
そしてそれは量子重力、あるいは量子宇宙論に他ならない。 すみません、まだ若輩モノのためできれば量子宇宙論についての説明をお願いします
菅「理由はともかく、菅直人を降ろしたい。そういう力学が感じられる」
<菅首相>批判に不満 「週刊朝日」の単独インタビューで
毎日新聞 8月8日 19時10分配信
菅直人首相のインタビュー記事が9日発売の「週刊朝日」に掲載される。現職首相が週刊誌の単独インタビューに応じるのは異例。
首相は自身の退陣時期について「どうにか原子力行政の抜本改革の道筋はつけたい。これが今の率直な思い」と述べるにとどめ、
与野党に強まる首相批判には「理由はともかく、菅直人を降ろしたい。そういう力学が感じられる」と不満を示している。
http://headlines.yahoo.co.jp/smartphone/hl?a=20110808-00000052-mai-pol シュレーディンガーの猫をアレンジしたものに、ペンローズが紹介したいわゆるペンローズ版がある。
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光源―――/――光子検出器-ピストル→猫
↑
ハーフミラー
すなわち、光源から出た光子はハーフミラーを反射する状態と透過する状態の重ね合わせにある。
|ψ>=|↑反射>+|↓透過>
ハーフミラーを透過した先には光子検出器があり、光子を検知するとピストルの引き金が引かれ、猫は死ぬ。
すなわち
|ψ>=|↑生>+|↓死>
つまり、ハーフミラーによってミクロ系にリンクされたマクロ系の猫は、生と死の重ね合わせの
状態ベクトルψにあることになる。 ちなみにペンローズは、量子力学を信じるならば |ψ> をマジに受け入れることはできない、と言っている。
確かに、あの世に逝った猫とじゃれて愛くるしい猫が一匹の猫に併存しているのがミクロ系の実態ならば、
それを素直に受け入れることはできないであろう。少なくともオカルティストでない限り。
それゆえ状態ベクトル|ψ>は実在しないとも言われている。
しかし、そもそもがトリックなのである。
それはオリジナルのS猫と同じトリックである。 つまり、ペンローズはピストルの引き金が引かれると猫は必ず死ぬという状況設定している。
(すなわちマクロ系に対しては決定論)
ではなぜ猫は確実に死ぬのか?
それは猫を身動きできないようにぐるぐる巻きに縛りつけ、さらに猫の急所に銃口を
当て続けているからに他ならない。
ではミクロ系に対してそのような拘束条件を課しているのだろうか?
大体ドラマのヒーローにピストルの弾はなかなか当たらない。
仮に当たったとしても致命傷にはならない。
つまり、ピストルから発射された弾と標的という因果関係からは、まず当たるか
当たらないかの確率が定義される。
さらに仮に当たったとしてもそれが致命傷か致命傷でないかの確率が定義される。 結局、オリジナル版にしろペンローズ版にしろマクロ系に対しては常に決定論が成り立つ、
という前提の下に論理を展開しているのがシュレーディンガーの猫である。
しかし、そもそもハーフミラー自体が反射と透過が50対50になるように造られたモノである。
もしハーフミラーの半メッキを完全にメッキしてしまえば反射と透過は100対0になる。
すなわちハーフミラーは文字通り半死半生の猫であり、全死全生の猫ではない。
あるいはハーフミラーは半裏半表の古典的コインであり、全裏全表の量子的コインではない。 ようするに、オリジナル版にしろペンローズ版にしろ、マクロ系の猫に対しあらかじめ
確実に死ぬように拘束条件を課せば、マクロ系の猫は確実に死ぬと主張しているに過ぎない。
つまりそれは、ハーフミラーをあらかじめ完全に反射するように全メッキすれば、
やって来た光は完全に反射するのと同じだ。
その状況は偏光を分割する、あるいは位相をずらすビームスプリッターも同じである。 そもそも偏光板は偏光した波の一部を透過させるモノであり、
全透過と全遮蔽の重ね合わせでないことは明らかである。
あるいは位相と言えば波長に対し半波長が定義される。
例えばどんな複雑な波形も多くの正弦波(の和として)に分けられる、
というのがフーリエ変換の原理だ。
正弦波は正の位相(山)と負の位相(谷)の単調なくり返しである。
つまり一つ一つの波長は半波長という部分系から成っている。
結局問題は、マクロ系において半分何々で半分何々である、と記述されるモノが、
ミクロ系に遡る過程おいてどの時点でそれが全何々で全何々である、に移行するのか?
という問いである。 さて、上の問いに対する答えは明白である。
すなわちそれは構造をもたない連続体である場と、その場を量子化したとされる
構造をもたない点粒子である素粒子だ。
例えば電磁場を量子化したのが光子である。
しかし構造をもたない光子がなぜ調和振動子としてのバネの性質をもつのか?
あるいは構造をもたない光子がなぜ半波長という部分系をもつのか?
つまりなぜフーリエ展開できるのか?
もっとも光子が粒と波の二重性の粒的側面を表す、とする見方もあるが、
ならば粒と波の二重性は永遠に不可知の領域であり、理解不能である。 ところが媒質の世界にはそのような不可思議はない。
すなわち我々は媒質が何であれ原子の集団であることを知っている。
そしてその原子と原子がバネで繋がったモデルが分子だ。
ようするに媒質は(調和)振動子の集団であり、原子は正弦波、すなわち
サインカーブを描いているのだから、粒であり波であり、それ以外の何物でもない。 いずれにせよ波動というものは最終的に粒的なモノに還元される。
その様子は競技場のウェーブを考えれば分かる。
すなわちウェーブは観客席に陣取る個々の人間が起こす現象だ。
もし波というものが粒に還元されなければ、ウェーブが起きている競技場の観客席には
観客は誰一人としていない、というアナウンサーの意味不明な実況を聞かねばならない。
よくエーテルは波だから必要だとか、光子は粒だからエーテルは必要ない、とか言うが、
エーテルは粒だから必要なのである。これがエーテルの正しい定義だ。
さらに光子は電子と陽電子の複合粒子とすると、その光子の集団こそがエーテルの正体である。 競技場のウェーブが人間という粒的なモノに還元できると言っても、人間はいわゆる剛体ではない。
すなわち人間は少なくとも立つ(伸びる)と座る(縮む)の2値をもっている。
ようするに波動とは質量をもったモノが対極にある状態を加速と減速を交互にくり返しながら往復するものである。
その観点からすると構造をもたないとされる質量ゼロ(実際には質量1として計算している)の光子は、
波動場の量子としての資質が備わっていない。 しかし、もし光子を媒質をモデルにするならば、光子は自ずと粒と波の二重性をもつ。
例えば音波は大気の疎密(密疎)だ。
この場合、一対の正圧と負圧を音の量子とすると、すなわち↓●○↑、
一対の音の量子の質量(密度)は時間平均すると正負の値は相殺されてゼロであるが、
(すなわち1気圧-バネにおける自然長Lに相当する)
Δtにおいてはあくまでも正負の圧力をもつ。
同様に、光子は正質量の○電子と負質量の●陽電子が対になったモノとすると↓●○↑、
光子の質量は時間平均するとゼロであるが、Δtにおいてはあくまでも正負の質量をもつ。
いずれにせよ波動場を調和振動子の集まりとすると、絶対静止ではないにしろ、
自然長Lというエネルギー原点とも言うべき基準系があることは確かである。 現代科学はエーテルを過去の遺物としている。
しかしエーテル否定には明らかな誤謬がある。
そもそもエーテル、すなわち媒質は光の波的側面を説明するためにお呼びがかかったのであり、
そして光は粒的側面をもっているということでチェンジされたのだ。
しかし今日的知見からすれば媒質は粒的側面ももっているのだから、
エーテル否定は正当性を欠いている。
ようするに物理学者がエーテルに突き刺した剣はエーテルの心臓ではなく、
エーテルの幻影だったということだ。 かつて光は粒か波かの論争があった。
この場合光を粒とするとエーテルの存在は必ずしも自明でない。
なぜなら粒それ自身が進んでいくとすればそれを伝える媒質は不要だからだ。
しかし光は波とすると、じゃあその波を伝えるモノは何?、ということになる。
そして、もしそれを伝えるモノが存在するならば、それをエーテルと呼んだのである。 さて、やがて光は波であるとする状況証拠が次々と見つかり、
光=波説が最終的に勝利を納めるかに思われた。
ところが前世紀初頭に、光は粒の性質をもっているといういわゆる粒と波の二重性を標榜する
量子論の台頭があり、媒質の存在を自明としない光の粒説が勢力を盛り返した。
そして物理学者の間に、「光が粒ならエーテルいらなくね?」という雰囲気が蔓延し、
波としての商品価値しかなかったエーテル説は潮が引くように衰退した。
しかしこれは明らかにボタンの掛け違いである。
つまり、本来光に粒的性質が見いだされ時点で、エーテル派は驚喜乱舞すればよかったのだ。
なぜなら今日の知見からすれば媒質が何であれ粒々の集合体だからだ。
つまり、もしエーテルが光の粒的側面を説明できなくて棄てられたのならば、
じゃあ既存の媒質は波的側面だけで記述できるのか?という話になるからだ。 そもそも光、すなわち電磁波と媒質を伝わる波は波長領域で比較するとよく符合する。
我々が普通水の波を見て、それを波と認識するのは比較的波長が長いからだ。
しかし波長の極めて短い超音波は光の性質によく似ている。
例えばコウモリは指向性の強い超音波で外界を認識していると言われているが、
ひょっとしてコウモリは、母親の胎内の胎児を診るエコーの映像のように、
我々が思い描いている以上に鮮明な像で外界を捉えているかもしれないのだ。
あるいは超音波洗浄は振幅ではなく波長に依存する現象である。
すなわちいくら大きな音(振幅が大きい)を当てても短波長成分がなければ汚れは
落ちないが、それが超音波なら落ちる。
その様子は振幅ではなく波長に依存する光電効果とある意味同じだ。 あるいは甲高い声でワイングラスを割るというパフォーマンスがある。
あるいは超音波で結石を破壊するという医療分野がある。
この場合、石が破壊する現象は現象論的には弾丸をぶつけたイメージにより近い。
ようするに超音波はエネルギーがギュッと圧縮されたモノであり、分子結合を
ぶったぎるのに充分のエネルギーをもっているからであろう。
いずれにせよ物体は原子・分子から形成されたモノであり、波を伝える媒質も原子・分子
から成るのだから、単に本性を現したに過ぎない。
さらに、媒質の世界の生成消滅を記述するのが化学だ。
もちろん化学反応を普通生成消滅とは言わないが、原子・分子の性質に着目するならば、
生成消滅という表現もそれほど悪くはない。 電磁波を伝える場と(ところで場って何だ?、電磁波を伝える媒質はダメだが、
電磁波を伝える場はいいのか?)波を伝える媒質はよく似ている。
しかし決定的な違いは場はあくまでも連続体であるが、媒質は構造をもった原子・分子
からなる離散的なモノであることだ。
それゆえ真空が真実連続体ならばエーテルの出番はない。
しかし真空に離散的な兆候が見いだされたならば媒質、すなわちより
バージョンアップされたエーテルは万雷の拍手のもとに凱旋する。 音波を伝える媒質が単に音波を伝えるだけのために存在しているわけではないことは明らかだ。
もちろん人間は大気の振動を利用してコミュニケーションをとっているわけだが、
時として家屋を破壊し、木をなぎ倒す台風やハリケーンもまた大気の仕業である。
つまり、媒質にとって波を伝える能力は媒質の能力の一部でしかない。
ならば、光を伝えると想定されたエーテルが単に光を伝えるだけのために存在する
わけではないとすると、物理学者の4つの力を統一したいという夢は虚しいものがある。 さて、媒質の優位性の一つは力学の基礎方程式の正負の解に完全に対応していることだ。
例えば地上における音波の疎密は大気圧を基準に定義される。
ところで圧力の単位系には絶対圧とゲージ圧の2種類ある。
絶対圧とは密閉容器の空気を理想的に排した状態、すなわち真空を0とするものである。
つまり絶対的な無、すなわち絶対無の世界であり何もない。少なくとも無以外は。
そしてその容器に空気分子を一個、二個と付加していくことにより圧力は増え続ける。
つまり、0より低いマイナスの圧力は存在しない。 それに対してゲージ圧とは大気圧を0とする単位系である。
つまりゼロと言っても存在する無、すなわち存在無の世界だ。
実際大気は1p^2あたり1sの重さをもっている。
人間の体の表面積をアバウトに2uとすると、人間は2dの応力を受けている。
つまり、人間は小型乗用車10〜20台分の重さを身にまとっている計算になる。
(トランスフォーマーかよ!、っていう話だ)
あるいは数p^2の吸盤は数sの重りを吊り下げることができる。
ようするに大気はそれだけのポテンシャルをもっているということだ。
もちろんそんな重さ、力を感じて生活している人間はいない。
我々が認識できるのは気圧の変化、すなわち1気圧からのズレなのだ。 さて、音波の疎密の密の位相を容器に閉じ込めたとしよう。
すると基準値0である1気圧よりも密度が高い分、見かけ上正の質量をもつ。
そして拡散しようとするベクトルをもち、エネルギーとして解放される。
すなわちまさに質量とエネルギーは等価なのである。
逆に疎の位相は密度が低い分見かけ上負の質量をもつ。
そして収束しようとするベクトルをもち、やはりエネルギーを解放する。
すなわちどちらも実のエネルギーであるが、ベクトルの向きが反対なのだから、
一方のエネルギーを正とするならば一方は負と呼ぶしかない。
↓ ↑
→●← ←○→
↑ ↓
負圧(収束) 正圧(拡散)
ちなみに負圧の位相で発生した泡粒は膨張し、正圧の位相で圧縮される。
すなわち短い周期で膨張と圧縮をくり返し、最終的に破裂するのがキャビテーションだ。
ならば、余談だが、もし真空下でキャビテーションのような現象が見いだされたならば、
それはエーテル理論の有力な証拠になる。 そもそも反粒子はディラックが、特殊相対論と量子力学を結婚させたことによる
負エネルギー解から産み落とされたものである。
ではなぜ量子力学と特殊相対論が結びつく必要があったかというと、
それは電子などのミクロ粒子は光速近くで走っていると思われたからだ。
すなわちガリレイ変換からローレンツ変換への書き換えだ。
しかし結婚指輪がローレンツ変換ならば、量子力学はエーテル説と結びつく可能性もあった。
すなわち未だ見ぬ幻の媒質の量子論の存在である。 ところで、負のエネルギー解が導出されるのは相対論だからというわけではない。
なんでもかんでも相対論のロゴマークを貼るのはよくない。
負のエネルギー解が導出されるのは波動場に特有なものなのである。
そもそも場の量子論は結果的に、孤立してると思われていた電子を空間的広がり、
すなわち電磁場と同じように多体系として扱うものだ。
そしてそれはある意味媒質への回帰である。 さて、波動場から正負の解が導出されるのは明らかである。
例えば光速は c=√1/ε0μ0 から、音速は c=√p(k)/ρ から、
ちなみに弦を伝わる波の速度はc= √T/ρ から導かれる。
すなわち波の速度を表す式は全て同じ形式だ。さらに波の速度は全て平方根である。
平方根であるということは、簡単に、√4が2と-2の正負の解をもつということなのだ。
ならば、プラスの速度は分かるがマイナスの速度は何だ?という話になる。
そして物理学者(数学者か?)はパズルの空隙に遅延解・先進解というピースをはめ込んだ。 遅延解とは普通にサッカーのボールを蹴った時の方程式である。
それに対し先進解とはフィルムの逆回し、すなわち後ずさりする選手の爪先めがけて
ボールが転がるという現実には有りえない、奇妙な方程式である。
普通物理学者は一方の解を無意味なものとして無視する。
しかしファインマンは先進解を積極的に利用し、ボソンを説明できなかったいわゆる
ディラックの海に変わる、負エネルギー解から導出された反粒子を正のエネルギー(質量)
に改変することに成功した。 ところで、もし波動方程式の正負の解が遅延解・先進解ならば、
じゃあ現実に存在する正の周波数・負の周波数は何なんだ?ということになる。
正負の周波数とは、例えば発電機を左右に回した時に、位相が半波長πズレた波である。
さらにそれを複素平面上に射影したものが複素共役だ。
ようするに、波動における時間の順逆とは半波長の位相のズレのことなのだ。 媒質においては正負の解をダイレクトに使わなければ媒質の世界を正しく記述できない。
すなわち上でレスしたように正圧は拡散しようとするベクトル(→)をもち、
負圧は収束しようとするベクトル(←)をもつ。
すなわち媒質においてはプラスとマイナスの2つの速度が定義できる。
つまり正圧と負圧は互いに時間を順行する状態と逆行する状態の関係にあり、
そして元の状態に戻ろうとする。元の状態とは基準値0である。
もちろんフィルムの逆回しとは直接には関係ない。 ファインマン流の時間の逆行という概念を使うと、負の物理量を代用できる。
例えば音波は空気の疎密(密疎)であるが、すなわち正圧で拡散、そして負圧で収束、
という過程を交互にくり返しながら音波は伝わる。
さて、では負圧は時間が逆行する正圧と定義すると、負圧のポテンシャルは必要ない。
すなわち1/2遅延波で時間を順行して拡散、さらに1/2先進波で時間を逆行して収束、
つまりこの過程を交互にくり返すとやはり音波は伝わる。
そしてそれは実際の音波と数学的にも現象論的にも同じ結果を与える。
(実際には同じではないだろうが)
言うまでもなくこの場合の音波は空気の疎密、すなわち縦波であるから、
拡散と収束を正負の解に対応させたわけであって、粒子と反粒子がそれぞれ拡散と収束の
ベクトルをもっている、という意味ではない。あくまでも例えだ。 正のエネルギー解から導出された粒子も、負のエネルギー解から導出された反粒子も、
どちらも正エネルギー、すなわち正の質量をもっているとされている。
しかし本来負エネルギー解の反粒子が正の質量をもっているということは、
ファインマン流の先進ポテンシャルを使った時間の逆行とセットだということだ。
逆に、もしファインマン流の時間の逆行に対する信頼が失われたならば、
もはや反粒子を正の質量をもつように再解釈する理論はどこにもないということである。 ≪複素平面≫
表(実)
________
\ \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
裏(虚)
__
表? / _ \
___//_\_\
/_______/
\ \//
\_/ 裏?
光子(ボソン)
俺は光子は数学的に、すなわち位相幾可(トポロジー)におけるメビウスの帯
(クラインの壺)であると述べた。
さらに論理学における嘘つきのパラドックスであり、力学的にバネであり、
さらに電子回路におけるコンデンサである。
そしてそれを視覚化したのが囲碁の劫なのだ。
光子は極少のワームホールでもある。
すなわち表であったものが裏に、真であったものが偽に、さらに
勝っている状態から負けている状態に、というように対極にある状態を往復する。
すなわち光子は絶えず電子(粒子)と陽電子(反粒子)の間を揺れ動いている。 では、位相幾可学におけるメビウスの帯が複素平面であるということを説明してみよう。
まずメビウスの帯のある位置に↑の印をつける。そしてその矢印を帯に沿って
移動させる。すると丁度一周したところで↑の印をつけた裏側に到達する。
ただし矢印は↓のように反転している。
そしてさらに一周して初めてスタートした位置に戻り、矢印の向きも一致する。
すなわち一周するということが元の状態に戻ることだ
とすると、メビウスの帯は実質2周しなければならない。 次に単振動する系を見てみよう。
○A
↓|
+ 加|減
速|速
―――↓0↑―――
減|加
− 速|速
|↑
●B
さて、Bの位置にあるバネに繋がった重りは加速しながら0点に向かい、
0点を越えた時点で今度は減速しながらAに向かい、さらに反転して加速しながら
0点に向かう。
つまり、0点にあった重りは+の領域を丁度1往復した時点で0点に到達する。
そしてそれはメビウスの帯をある地点から指でなぞった場合、丁度一周した時点で
スタートした場所とすれ違うのと同じだ。
すなわち、0点にあった重りが元の状態に戻るためには、−の領域をもう1往復
しなければならない。
ところで、単振動は複素平面上の単位円の一点の回転と同相である。
すなわち、メビウスの帯はまさに複素平面そのものなのだ。 光子が位相幾可におけるメビウスの帯(クラインの壺)ならば、
光子は複素数で記述されなければならない。
すなわち光子は絶えず実と虚の間を揺らいでいる。
その様子を理解したければ囲碁の劫をモデルにすればいいだろう。
つまり劫は白の地であり黒の地でもある。
すなわちそのどちらでもあってそのどちらでもない、といった
まるでパラドックスを絵に描いたようなオブジェだ。
さて、今白が劫を取ったとしよう。すなわち白が実で黒が虚。
しかしそれは同時に次に黒に劫を取り返す権利を与えることでもある。
すなわち黒が劫を取り返すとi^2で黒が実(−)となり、白が今度は虚となる。
もちろん、白と黒のどちらをプラスとマイナスと呼ぶかは任意である。
結局、虚数とはエネルギーの巻き上げ、時間の巻き戻しなのだろう。 複素平面における単位円上の軌跡はz=r(cosθ+isinθ)で表される。
すなわち実部と虚部、加速と減速、コサイン波とサイン波が交互に入れ替わる。
ようするに単振動において、加速されて最大速度になった重りは0点を
越えた瞬間減速に転じる。
では減速によって落ちた速度、すなわち運動エネルギーはどこへ行ったのか?
というとそれは位置エネルギーに変換されたのだ。すなわちバネの歪みに蓄えられる。
そして純虚数になったところで重りの速度は0となる。
さらに次の瞬間再び虚数項は実部である加速に変換され、0点で最大速度となり、
0点を越えた時点で再び虚数項が鎌首をもたげる。以後無限ループ。
ようするに、複素平面上の単位円の一点の回転の軌跡は実部と虚部、加速と減速、
コサイン・サインカーブが90度の位相差をもって入れ替わるということである。 バネと錘から成る素朴な機械仕掛けのオブジェが複素平面、すなわち複素数で
表されるならば、現代物理学の倒錯した手法、カラクリが見えてくる。
すなわち物理学では負のエネルギー、負の質量、さらに虚数をまず有り得ないモノ
と定義する。
にもかかわらずミクロの世界はその有り得ないはずの負エネルギー解を使い、そして
数式にこれまた有り得ないはずの虚数iをちりばめる。
それゆえミクロの世界を探求する物理学者は、俺達はこんなにも得体の知れない化け物
と日夜対峙している、という自己陶酔に浸っているのだ。
しかし、それは明らかに滑稽な姿である。 ようするに、負のエネルギー及び質量、さらに虚数に対して正しい定義づけをするならば、
それらはミクロ系マクロ系を問わず普遍的なモノとなる。
例えば虚数の正しい定義は位相を90度ずらす操作、あるいは演算子
(これは普通に言われていることであるが)
さらにはエネルギーの巻き上げ、あるいは時間の巻き戻しである。
とするならば、虚数は有り得ないモノであるという前提は崩れる。 そもそも固有振動するバネと錘は2つの振動する系から成る。
すなわち錘が上下運動する振動とバネが伸び縮みする振動だ。
そして2つの実体は90度の位相差でコサイン・サインカーブを描いているのだから、
複素数で表されるのは当然である。 電気工学の分野では複素数を使う。
それに対し、本来虚数は実在しないが、計算上便利だからという理由で複素数を
使うという見方がある。しかしこれはとんでもない解釈である。
そもそも固有振動する電磁気的なコイルとコンデンサから成るLC回路は、
固有振動する力学的な錘とバネから成る系と同相である。
すなわちバネが自然長Lを基準に伸び縮みすることにより、正負のベクトルをもった
エネルギーを蓄えるように、コンデンサは正負の電荷を蓄える能力がある。
さらにコイルに交流電流を流すと電流を流すまいとする一種の抵抗、すなわち慣性
のような力を生じる。逆に電流が途絶えると、今度は電流を流し続けようとする。
そしてそれは質量をもった錘が慣性をもっているのと同じだ。
さらにコイルとコンデンサ、あるいは電流と電圧は90度の位相差をもって
コサイン・サインカーブを描いているのだから、LC回路が複素数で記述されるのは
当然である。 結局、複素平面において、実軸(コサイン)は錘や電流の運動エネルギーの大小を表し、
虚軸(サイン)はプラスからマイナス、逆にマイナスからプラスに反転する為の
位置エネルギーの巻き上げ、時間の巻き戻し、そしてその解放、再生を表している。
(ちなみに半径rは全エネルギー)
その限りにおいては虚数は実在する。
つまり、虚数は実在しないと言ってる者には、「お前は虚数に対してどんな妄想を
抱いているんだ?」と問うしかない。 虚数というものが実体をともなって初めて意味をもつならば、
むしろ訳が解らないのは、何の実体のない場に対して虚数を使うことだ。
すなわち構造をもたないとされる点の集まりである場のどこをどう探しても
調和振動子のメカニズムを見いだすことはできない。
ただ数学的操作をすると調和振動子と同じ形式に書けるというだけである。
結局はそのメカニズムは媒質をモデルにするしかない。 有り得ないモノと定義しているのは時間の逆行もそうである。
すなわち物理学では時間の順逆に対して遅延解・先進解を当てはめている。
先進解とは明日の新聞を見ることができるならば、株で大儲けできる世界であり、
未来のスポーツ年鑑をゲットしたならば、ジャグジー付きのバスで美女をはべらせる
ことができる世界である。
それゆえ賢明な物理学者は先進解を頑なに拒否する。
ところがにもかかわらず物理学者はその有り得ないはずの先進解を使い、
さらにこれまた有り得ないはずの負エネルギー解の反粒子を正のエネルギー、
正の質量をもつように改変した。
これは明らかに二枚舌である。
もし先進ポテンシャルを使うことが許されるならば、いわゆるタイムマシンを
実現したいと願う者たちに勇気と希望を与えていることになる。
ならば物理学者は彼らに対する責任を負う義務がある。 ここで注意すべきは時間の順逆を保証する数学解は2種類あると言うことだ。
一つは一般的に認識されている強力なドクマであるフィルムの順送りと逆回し、
すなわち遅延解・先進解である。
これはいわゆる親殺しのパラドックスに代表される因果律の問題が発生する。 時間の順逆を保証するもう一つの数学解は複素共役である。
複素共役とは、複素平面上の単位円の半径を反時計回りに回転させるか時計回りに
回転させるかの違いだ。
すなわちそれにより位相が180度ずれる。
ならば一方を正の周波数とするならば一方は負の周波数である。
そして正の周波数をf=1/Tとすると、負の周波数は -f=1/-Tとなり、
時間のtと-tが必然的にでてくる。
複素共役は因果律の問題は発生しない。
すなわち左に回すのも実の力、右に回すのも実の力、どちらにせよ原因があって、
結果として位相が180度ずれた波が生じるだけだ。
もっとも、だからといって何時いかなる場面においても因果の糸を手繰り寄せられる、
というものでもない。
すなわちもつれにもつれて複雑に絡み合った糸をほどくのは容易ではない。
それゆえどこかで断ち切る必要もあるだろう。
つまり何が原因で何が結果か不確定になる。
しかしいずれにしろ因果律を放棄する必要はないし、それについて悩む必要もない。 結局、時間の順逆を保証する数学解のどちらを採用するかによって世界観は変わってくる。
すなわち負エネルギー解から導出された反粒子は正のエネルギー、正の質量をもつ、
とするならば、それは先進ポテンシャルの注意書きをよく読んで、さらに同意した
上での話しなのだから、物理学者は因果律の問題をクリアしなければならない。
しかし複素共役を採用するならば、それは因果律の問題とは無縁なのだから、
物理学者は時間の逆行に対して口ごもる必要はない。
すなわち物理学者は上から目線で一般の人々に、時間の逆流する世界は存在する、
と言えばいいのだ。
そしてそれは俗に言うタイムマシンとは何の関係もない、と言えばいいのだ。
もちろんその代償として、反粒子は正のエネルギー、正の質量をもつ、
という根拠は失われる。 そもそも物理量を複素共役で表すということは、その絶対値、あるいはその2乗を
とることである。ならば -5も5も正の値だ。
その限りにおいては符合の正負を問うてはいないことになる。
例えば波のエネルギーは振幅の2乗とすると、正の位相も負の位相も正の値になる。
音波で言えば正圧も負圧も正のエネルギーをもつことになる。
しかしだからと言って、正反対のベクトルをもつ正負の圧力を同じエネルギーで
くくるのはアバウト過ぎる。
つまり、複素共役においてはその違いを抽出するのが偏角θである。
すなわち左に回すのを+θとするなら、右に回すのが-θだ。
すなわち初期位相によってエネルギーの形態は異なる。
その様子はバネで言えば、最初に伸ばして振動をさせるか、縮めて振動させるかの違いだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています