生命力学〈Vital Mechanics〉
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現代科学は我々の宇宙に存在するものを2つの物理法則により記述している。
すなわちミクロ系には量子力学、マクロ系にはニュートン力学、あるいは(一般)相対論。
しかし、我々の宇宙に存在するものをミクロ系、マクロ系という2色刷りで
印刷することはできないのだ。
強いて二分法があるとするならば、それは生命系か非生命系かなのである。
そして生命(力学)の目的は、ミクロ系とマクロ系の統一、ひいては生命系と
非生命系の統一でる。 生命力学3大法則
◆この宇宙に存在するものは全て生命系か非生命系かで説明できる。
◆生命系にとって媒質(エーテル)の存在は絶対条件である。
◆生命系とは力学の基礎方程式の正負の解に完全に対応した世界である。
参考URL
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/sci/1142171928/ 普通、初歩的には原子は太陽系をモデルとして扱う。すなわち太陽の周りをいくつかの惑星が回るように、
原子核の周りをいくつかの電子が回る、という描像だ。
しかしその後我々は、原子と太陽系とは似て非なるモノである、と思い知らされる。
すなわち太陽系は日食や月食などを秒単位まで予測する決定論的な世界であるが、
原子は位置と運動量の不確定性を標榜する確率論的な世界である。 原子の世界に分け入った物理学者達は、そこで展開される確率や統計、不確定性といった振る舞いに面食らった。
しかし、本来確率や統計、不確定性は我々の日常生活においては普通のことである。
例えば天気予報、株価や様々なリスクによる各種保険のメカニズム、さらにギャンブルと不確実性に満ちている。
つまり、物理学者は原子の世界は我々の日常世界のように確率が支配する世界であった、と言えばいいのだ。
ではなぜ物理学者は確率が支配する原子の世界に驚愕し、苛立ちを覚えたのか?
それはニュートン力学の圧倒的な成功体験があったからである。 近代科学はニュートン力学の定式化により成立したことは間違いない。
科学を科学たらしめていたのはその高い予言能力である。すなわち秒単位で日食や月食を予測する。
約76年周期で回帰するハレー彗星は、2061年に再び人々の前にその姿を表すであろう。
これは全財産を賭けても失うことはないほどの信頼性の高いものである。
空気抵抗を無視すれば、同じ高さから落としたトンカチと羽毛は同時に地面に落ちる。
放り投げた野球のボールも石ころも放物線を描いて飛んでいく。
そこに不確定性の入り込む余地はない。
つまり還元論の立場からすれば、世界を原子までに分解したのならば、さらに原子を原子核と電子に分解したのならば、
物理学者はミクロの世界にニュートン力学よりもさらに精緻な確実性を手にすることができると期待された。
ところが意に反して、ミクロ系はニュートン力学とは対極の世界であったというわけだ。
そしてそれはミクロ系とマクロ系が乖離した瞬間でもある。 さて、ここで見逃してはならないのは、この地上において空気抵抗を無視すれば、というフレーズである。
確かに、アポロ宇宙飛行士が月で落としたトンカチと羽毛は同時に落下した。
しかし、同じ実験をこの地球上で行うと同時には落ちない。木の枝から離れた枯れ葉は不規則な軌跡を描く。
野球のボールやサッカーのボールは握りや手首のひねり、蹴り方によって不規則に変化する。
つまり、厳密にはニュートン力学に従ってはいないように見える。
もちろんだからといって、ニュートン力学が間違っているというわけではない。
すなわち石ころやボールなどの質点を一次系、空気などの媒質を二次系とすれば良い。
つまり、一次系の質点はあくまでもニュートン力学に従っているのだが、二次系である媒質が邪魔をする、
つまり運動の本質はあくまでも質点であり、媒質は亜流であり俗物である。
一流の物理学者がやることはあくまでもより還元されたモノの振る舞いであり、
二次的なモノの振る舞いはいずれ一次的なモノから演繹されるだろう。
しかしこの方法論は明らかに倒錯している。 そもそも月の世界に羽毛はミスマッチである。大体、地球上に空気がなければ木は育たない。
ならばリンゴは落ちないし葉っぱも散らない。当然人間も存在しないのだから野球のボールも存在しない。
無機的な石ころも元々は、水素ガスの媒質から恒星を介して生成されたモノである。
つまり、本来媒質こそが一次系であって、運動の対象である質点こそが媒質からの派生物なのだ。 現在、ミクロの世界を扱う量子力学は、場という考えで記述している。
場とは空間の各点に定義された量であり多体系である。
すなわち電子などの素粒子は場が励起されたモノとして捉えられている。
さらにそこでは絶えず粒子の生成・消滅が起こっている騒がしい世界であり、
欧米の物理学者はしばしば生きのいい虫が詰まった缶詰のようだと揶揄する。
つまり、還元論が悪いわけではないが、宇宙からエーテルを排し、幾つかの部品に
分解したのはいいが、その周りには得体のしれない何かがまとわりついていた、
ということである。ゲームは振り出しに戻ったと言うべきか。
では生命系からの観点から、太陽系には決定論が成り立つという概念がそれほど自明ではない、
ということを説明してみよう。ただし以前別スレにレスしたものを投稿する。 われわれの太陽系はニュートン力学が理想的に成立する舞台である。
実際宇宙ロケットの軌道計算は位置と運動量の不確定を標榜する量子論によるものではなく、
ましてや空間の曲がりを考慮した相対論によるものでもない。
ではなぜ太陽系においてはニュートン力学(決定論)が有効なのか。
それはわれわれの太陽系が非生命系だからである。
いや、非生命系というのは言い過ぎかもしれない。
確かに太陽は盛んに活動している。地球の内部ではマグマがうごめいている。
しかし太陽系というシステムは非生命系なのである。メタボリズムが停止した系と呼ぶべきか。
もしわれわれの太陽系が普遍的にニュートン力学で記述できるのなら、
それは誰かが出来上がりの太陽、出来上がりの地球、そして慰みにハレー彗星のような天体を
ピンセットで慎重につまみ、適当に配置し、初速度を与えた故である。
しかし、われわれの太陽系はチリとガスがいわゆる万有引力で凝集したものと言われている。 デカルトは宇宙に存在するものを物質なるモノと精神的なモノに分けて説明した(二元論)。
しかし、デカルトは思想おけるフリーズドライを行ったのである。
そしてそのフリーズドライされた空間を最終的に定式化したのがニュートンなのだ。
つまり、ニュートンは一杯のコーヒーをいつでもどこでも好きなように飲めるようにしたのだ。
コーヒーの正しい飲み方はカップの中にお湯を注ぎ込むことである。
そして好みに応じてミルクや砂糖を加える。
同様にわれわれの太陽系を味わいたければ太陽系に水素ガスを注ぐなり、
太陽系を取り巻いていると言われているいわゆるオールトの雲を太陽目掛けて落下させることだ。
(シミュレーション) 太陽系に無数の彗星が飛び交うということは、ハレー彗星の回帰が世紀のイベントでなく
見慣れた光景になるということである。
その状況は人類にとって最悪の事態に違いない。
しかし各種天体にとっては干天の慈雨である。
そもそも地球であれ月であれ、そのような獲物を獲得して現在のような体躯に成長したのだ。
そして月のあばたはまさに成長の証しなのである。
以前、シューメーカー・レビー彗星が木星に衝突するという天体ショーがあったが、
あれはまさにカメレオンが長い舌先で虫を捕らえるがごとく、
木星が重力の爪で獲物を鷲掴みにした瞬間をわれわれは目撃したのである。 さてそのような状況下において、いわゆるニュートン力学の決定論が成り立つだろうか?
仮に天文学者が日食や月食の予測をしたとしよう。
しかしその間に地球や月には無数の彗星が衝突するのである。
すると当然天体の自己エネルギーや軌道は揺らぐ。そして日食や月食の予測がハズレるという事態に陥る。
つまり、天文学者は確率や統計のノウハウを学ばなければならないだろう。
そもそも現在の太陽系は太陽系の一生の時系列の一断面に過ぎない。
ならば太陽系には決定論が成り立つ、というのはそれほど自明なことではない。 結局われわれの太陽系は中性代、地上をわが物顔にのし歩いていた生きた恐竜ではなく、
大地から掘り出される恐竜の化石なのだ。
われわれの太陽系はジャングルをかき分けていって忽然と現れる古代の遺跡であり、
今では崩れかけた壁を修理する者も誰もいない廃墟なのである。
(もちろん地球のようにダイナミズムを維持している個々の天体はある)
つまり、現在の太陽系においてニュートン力学の決定論が成り立つのは、
かつて満ちていたであろう水素ガスや微小天体がいまや希薄になったからである。 よく太陽系の運行をビデオに撮り、逆回ししても状況は変わらない。
そしてそれゆえに運動方程式は時間反転に対し対称であると言われている。
しかし、もしビデオテープに流れ星が映っていたならば、逆回しの映像は明らかに不自然である。
その意味ではチリやガスは時間の素であり、時間の矢なのである。
太陽系はチリやガス(媒質)から生まれ、育まれた。
そもそも媒質が時空そのものであることは明らかである。
例えば水を凍らせると近似的に時間は止まる。そしてそれを利用したのが冷凍食品だ。
あるいは水そのものを取り除いても時間は止まる。そしてそれを利用したのが乾燥食品である。
密封したカップ麺は時間の流れが停止している。
しかし蓋を開け、お湯を注ぎ込むと時間の流れが生じる。もはや食べるしかない。
よく時間は幻想だとか、パラメータの一種に過ぎない等と言われるが、
俺に言わせるならば時間こそが唯一の実在なのである。 天文学者は星の一生という言葉を使う。あるいは宇宙のどこそこに星の赤ちゃんを見つけたと報告する。
星に誕生の瞬間があり、さらに成長、進化があり、そして最終的に死を迎えるならば、
それを生命系と言わずに何と呼べばいいのだろうか?さらに星は世代交代をする。
つまり、我々の地球に存在する鉄より重い元素は超新星の爆発により造られたと言われている。
さて、もし天文学者が天体に対して生命用語を使うのが単なる便宜上の比喩でしかないのならば、
天文学者はテレビドラマの「この番組はフィクションであり、実在のものとは関係ありません」
というテロップに倣って、「我々が生命用語を使うのは単なる比喩であり、実際の生命とは何の関係もない」
と注釈を付けるべきだ。
その状況は素粒子の世界も同じで、例えば素粒子には寿命という属性がある。
さらには生成消滅という言葉は生命系を連想させる。
つまり、無機的な世界とイメージされている物理学も、案外生命用語を多用している。 化学とは電荷(+−)の相殺を扱う学問である。
物理学とは質量(+−)の相殺を扱う学問である。
経済学とはマネー(+−)の相殺を扱う学問である。
ならば負の質量を知らない物理学者とは、電荷の±の一方を知らない
化学者であり、負債の文字を知らない経済学者みたいなものだ。 地上の生物はそこら辺の土くれから自らの体を造り、やがて土に還る。
化学者はどす黒い原油からプラスチックや化粧品や医薬品などの各種製品を造る。
塩素もナトリウムも猛毒である。単体でそれを口に入れるのは危険だ。
しかしそれらが結合した塩は人間にとって必須のモノとなる。
つまり化学者が見かけ上モノを出したり消したりという魔法を使えるのは、
電荷には+と−の量があることを知っているからである。
その様子はマジシャンが、鳩を出したり消したりできるのはテクニックによるものであって、実際に虚空から出し入れしてないのと同じだ。
ところが物理学者は+の質量を相殺すべき−の質量を知らないという。
ならば物理学者の演じる魔術は文字通り種も仕掛けもない、実際に虚空から時計や
ネックレスを取り出したり消し去っていることになる。
すなわち物理学が採用している「場」とはオカルトと親和性が高い世界である。 [水溶液]
酸性 │アルカリ性
H+イオン│ OH-イオン
濃度が高い│濃度が高い
─────┼─────
1 ph7 14
(中性)
塩酸と水酸化ナトリウムの反応式は
HCl + NaOH → NaCl + H2O
あるいは水が電離する様子は
H2O ⇔ H+ + OH-
つまり、化学反応における
A+B→C あるいは C→B+A といった化学式があった場合
AとBあるいはCは全くの別物であるが、だからといって影も形もない
状態から生成わけではなく、実体その物が消滅したわけではない。
生成消滅するのはあくまでも元々の性質であり属性である。 素粒子物理においては、電子と陽電子が対消滅すると光子に、
逆に光子から電子と陽電子が対生成されるとされている。
すなわち、e- + e+ → γ あるいは γ → e- + e+ (符合は電荷)
さて、陽電子等のいわゆる反粒子は負エネルギー解から導出されたわけであるが、
もし反粒子が負の質量をもっているならば、素粒子物理学は一夜にして化学と
同列に扱うことができる。
すなわち、電子(+) + 陽電子(-) → 光子(±0) あるいは光子(±0) → 電子(+) + 陽電子(-)
(符合のプラス・マイナスは質量) 化学者が見かけ上モノを出したり消したりできるのは化学者は電荷には+と−があることを
知っているからである。
ならば物理学に負の質量を導入すると、物理学者は素粒子を実体として把握することができる。
すなわち水が水素と酸素の結合体であるように、光子は電子と陽電子の複合粒子とすればよい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています