>>1  >>27
「源流」は『竜二』83なのかなあ?
『竜二』についてはググると色々出てくるけど、、あれは金子正次・川島透の自主制作で
東映セントラル配給で小規模公開したらヒット、そこで東映系拡大公開となったらしいけど、、

東映ヤクザ映画じたいは中島貞夫の『日本の首領(ドン)』三部作77〜78と『総長の首』79
、、この辺で本当は終わってるからねえ、、全てのパターンをもうやり尽くしてしまった。

この時期の東映は黒沢満の東映セントラルアーツで村川透監督・松田優作主演の『遊戯』シリーズ
78〜79を低予算制作させたり、角川春樹と組んだり、色々と模索・迷走していた。

、、そこへ金子・川島が東映に持ち込んできた『竜二』が出てくるのか、、

80〜90年代も東映がヤクザ映画にダラダラと散発的に固執した理由なんか、そんなの親分の
岡田茂に周囲の太鼓持ちプロデューサーたちが「忖度」したから、、それ以外に何の理由もないよ。

岡田茂は往年の東映の「暴力」「裸」映画の成功体験が忘れられなかった人だからね。
それでワンマンでオレは映画の事は何でも分かってると信じ込んでるんだから。
じゃあ岡田の親分のギリギリ理解できるものを持って行こうって、周囲もそれしか考えなくなった。

いっけんヤクザと異なる文芸もの・社会派ものだって結局は大半は「女優の裸が出てくる」
それで岡田を納得させてただけだからね。
ヤクザやノワールものにしてもその枠内でせめて少しでも現代風にしようとか、スタイリッシュなアクション
ものにしようとか、、その辺でギリギリどう作るかって、それだけだよね。

そういう意味ではいま観ると個々の作品としては意外と面白かったり、やっぱ駄目だったり、
まあバラバラだよね。
まあこれは東映に限らず80年代以降の日本映画って「一般客には既にほぼ見離されている、
業界の重鎮やプロデューサーも馬鹿ばっか、その中でいかに個々の監督たちが苦闘したか」、、

、、そこしか見どころはないけどね、、