小津安二郎 『小早川家の秋』
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東宝での最初で最後の作品『小早川家の秋』について、話しましょう。 垢抜けたイメージの東宝と小津監督は相性いいと思う
しかもそこに雁治郎さんと浪花千栄子はんのコテコテ大阪弁おっちゃんおばはん
最強コンビが加わる不思議なテイストがたまらん
>>4
いや 画面に独特の明るさが感じられて好きだな
桶のショットとか 小津はやっぱり厚田でないと駄目だなとこの映画を見て思った。
大阪城の見えるオフィスで司葉子と白川由美が夜の予定について話してるシーンが良かった
二人ともほんと美人で、こんなOL達と飲みに行きたいなw 酒樽が壁に寄りかかってる空舞台のシーンは
ポップアートとか、エドワード・ホッパーとか
アメリカ的な意味でクール! 「若者に媚びている」と吉田由重から批判された映画だな。 正確には、東宝系宝塚映画制作。
おれ、28歳でスタッフの端くれ、パートはっと‥ゴメン。
いい思い出です。
当時28歳?
小津映画のスタッフとはすごいですね! >13
ごめん、年齢を感違いしてました。もう少し、若かったようです、24才
ぐらいかな、お察しのように、今は、只のじーさんです。
でも、5〜6年前迄で現役でしたよ。
、 厚田さんそんな若くないし亡くなってる。
そもそもこの映画の撮影は中井さんだし。
永井健児さんはもうちょっと若かった(当時24歳)のかな? じゃあ、吉田喜重さんじゃないか?
小津さんに説教された気分はどうでしたか?>>14 撮影に参加してない。
大体監督デビュー後だし。
(一度助監督に格下げされたけど、時期が違うし、行ったのは木下組) 現場は、悪くない雰囲気。
中井さんと石井さんは、砧で何度もやってるし、監督ともまあまあ
でしたよ。
俺は、撮影所入って、5,6年ってとこかな、ま、ペイペイも
いいところ。 石井さんは照明の石井さんですか
それにしてもあの超豪華キャストの映画のスタッフだったとは本当に凄いですね そうですね、筆頭は鴈次郎と原節子、先輩に二人の前では
走るな、つて注意された覚えがあるな。
でも、あの時のスタッフ、キャストもたくさんいなくなったし
考えると、俺は一番若かつたような気がするよ。 何度も落ちてるスレたてんじゃねーよと思って開いてみたらスタッフ光臨してて吹いた >>22
先日の小林桂樹さん始め、男優の方はほとんどお亡くなりになってしまいましたね
ご健在なのは宝田明さんと子役だった島津雅彦さんくらいですかね
と思ったらなんと(失礼)遠藤太津朗さんもご健在だった!
女優さんでは原さん、司さん、白川さんでしょうか
司さんと白川さんはごく最近でもテレビで見ましたが、相変わらずお綺麗でした いまはなき宝塚映画製作所…東宝傍系ながら関西色が濃厚で、かつ阪神間モダニズムも表した不思議な会社でしたね。 小津映画スタッフが降臨とは
すげええええええええええええええええ >二人の前では走るな
おぉ、超大物が出演している映画ならではの緊張感が伝わる貴重なエピソードですね
世界の小津に伝説のヒロイン原節子
東宝、大映、松竹の大御所である森繁、鴈次郎、笠智衆が同じ映画に出てるつーのもスゴイ
度々来ると、スレ立てた人に悪いかな‥ま、高齢者とゆうことで‥。
正直言うと、この作品は、楽しい仕事ではなかったな、なんせ、回りは
雲の上の人だらけだし、冗談も言えない雰囲気でペェペェの俺は、カメラ前
など近ずく事も出来なかった、若かったんですね、思えば勿体無い話です。 >25
よくご存知で、でわ、今わ無き宝塚映画を、ちょつぴり語ります。
創立者は、小林一三翁です。特異な場所にあった撮影所でしたが
いい、スタッフが居たのですよ、撮影監督の岡崎幸三、照明技師の下村一夫
お二人とも、日本映画史に残る活躍をしました。 阪急系列の会社は独特の雰囲気があるように感じます
>>29
ただでさえ上下関係が厳しい業界でしょうし、その上小津監督初の東宝系での
撮影という点や役者さんも普段と違う組み合わせだったり、普通以上にピリピリ
していたのは想像出来るような気がします
今でも、見る度に胸をうたれますね、この作品。
残念ながら、当時、興業的にはいまいちだったそうですが、なんせその頃
裕次郎が暴れまくっていた時代でしたからね。
でも、いつまでも皆さんに忘れられずに残っていくのは、小津監督
会心の一作だと思います。
出演者皆さんの関西弁が耳に心地よい。
雁治郎や浪花千栄子、森繁はネイティヴだし関西物が得意だから当然だけど、
司さんの「ハイ、百円!」や新珠さんが父をたしなめるシーンも良かった。
小林桂樹は関西弁をマスターするのにすごく苦労したそうだが出来上がりは自然で、さすが名優。
…とカキコんでたら山茶花究の「ちゃうちゃう」もビミョーに変化して良かったのも思い出した。 この映画は映画(邦画)好きでいろんな映画を見てる人ほど楽しめる映画だと思う 演出にはボロクソ言ってたが、映画には言ってたのか? 小津があと10年生きたら、成瀬に代わって東宝か宝塚映画に移っていた気がする。 小津は五社協定反対の急先鋒でもあったから、
フリーになっていた可能性も高い。
復活直後の日活で撮らずに、
代りに田中絹代に撮らせたのは残念だった。 この映画の中で原節子の兄役の笠智衆。なんと語り口が速いこと速いこと。
晩年のゆったりした語り口からは考えられない。 >>43
失礼↑の発言は「麦秋」と勘違いしていました。 東宝色との中和点でもなかろうが、
既に「早春」で出ていた加東大介が冒頭というのが興味深い
どこでも器用で気に入られたか、「秋刀魚の味」で忘れがたい役をゲット 亡くなった雁治郎さんを、司さん達がそれと知らずに迎えに来る場面
その前に流れる邦楽が、しっとりしていて本当に良いと思います
曲名が知りたいのですが、何方かご存知ないでしょうか? 司葉子と宝田明が駅のホームで語り合うシーンは実際に阪急十三駅で終電後、ロケをしたんだとか。
関係ないが宝塚映画では照明などに使う電力は阪急電鉄から直接引っ張ってたそうだよ。 原節子と司葉子はなぜしゃがんで会話をするのだろうか? 原節子と司葉子の百円云々のエピソードを見て、関西人ってがめついなあ、と思った。 今度5月からラピュタ阿佐ヶ谷で宝塚映画作品ばかりの特集上映があるそうだよ。
小津の「小早川家の秋」もいいが初期のプログラムピクチャーも楽しみ。
トニー谷の「家庭の事情」シリーズやアラカンが最後に出た鞍馬天狗など…
新珠美千代や八千草薫など当時の宝塚歌劇団生徒たちの初々しい姿が見られるのも嬉しい。 雁治郎さん、伏見(京都市内)から京都の街中?の愛人宅にはどうやって行ったのだろう?
JR?
京阪?
たいした量がないので>>1から読んでみたが凄いスレですね。
元スタッフが書き込みとは。 関西に住んでるのに、宝塚映画なんていう会社があったなんて知らなかったわ。
東宝と一緒だと思ってた。
恥の書き捨て。 東京映画は、東宝の二本立て興行対策、組合対策で作られた会社。
東宝本体だけで二本立て興行に突入するのは危険と判断した。
宝塚映画は、戦前にあったのを戦後(1951)に復活した。
目的は宝塚劇団の劇団員が映画界へ流出するのを食い止めるため。
劇団に所属しながら映画に出られるようにした。
関西人のスタッフ、特に脚本家を使って、
関西文化の映画を撮る目的もあった。
この板にいる人は、50年以上も前のことを昨日のことのように解説できるのですか。
感心するわ。 違和感を感じた点。
伏見の人が「京都に行く」とか京都を伏見とは別の生活圏のように話している。
伏見市が京都市に編入されたのが昭和6年だけど
もともと京都と伏見とは歴史的には別の町だったから
昭和36年でもそんな感覚だったのかなあ?
よくわからん。
自分は麦秋スレで「大和」という表現が変だ、違和感を感じたと書き込んだ某関西土着民でした。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/rmovie/1162640547/313-331
>>61
隣県から練馬区辺りに行くのに東京に行くとは言わないのと一緒では? 京都からは、今でも「伏見に行く」は言う。
もっと詳しく「伏見稲荷に行く」の方が多いが。
稲荷と醍醐寺など複数行くなら「伏見に行く」となるかね。
(伏見在住経験ないので)逆はあまり知らないけれど、
もっと詳しく「京極に行く」「四条に行く」ということが多いはず。
ただ、ご近所のごく簡単な時候の挨拶ならば、
大雑把に「京都に行く」でも何の不思議もない気がする。
複数場所行く時も同様。
洛外の伏見から見たら京都とは洛中を指すということですね。
行政区分は別として、文化的、感覚的な区分ですね。 行政区分を言うと、「八王子のレッド・ツェッペリン」って本に、
「東京都民でありながら、都心に行く時には『東京へ行く』という」とある。
ユーミンも同じようなことを言っていた記憶がある。
(もちろん相当昔の人なら八王子村は東京市ではないので当然であるが)
さらにそれにインスパイアされたブログに、
「八王子市に住んでいるのに、八王子市内に行く時には『八王子に行く』という」
というのがあった。
しかしそれを言うなら「八王子の市街地に行くのに」だろうと思うが、
(市内に住んでいて市内に行くとはこれいかに)
こういうのは修辞表現なので、曖昧性や不正確性は通常問題にならない。
京都市以外の生まれのもんを京都人とは認めん!
っていうオッさんがいっぱいいます 撮影は暑かっただろうな。
毎晩のように飲み会やったらしい。 >>69
撮影中に司葉子と原節子は須磨か垂水のほうへ海水浴に出かけたこともあったらしい。 >>70
今は須磨は不良だらけでいく気にならないね。
舞子海岸がお勧め。 俺の爺さん(故)は漁村出身で、若い頃神戸の会社へ就職した。
休みの日は船遊びをよくした。
爺さんは艪が漕げるので皆から重宝されたと。
記念カキコ(スマ)
登場人物の人間関係が複雑で途中で
わからなくなりそうだったw >>74
小津先生の作品は大体そうです。
事前にあらすじでも読んでないと。 新聞小説の映画化だから
筋書き、人物は皆知ってることが前提。 >>75
そんなことないよ。
すごく単純な人間関係。
まあこの作品はちょっと詰め込み過ぎかもしれないけども。 自分(関西人)が見て不自然だと思ったことの一つ。
小早川家の秋
本編1h35m頃
社員達が葬儀の準備をしているカット。
花輪が映っているが、関西、京都ではありえない。
葬儀では花輪ではなく樒(シキビ シキミ)を使います。 こういうのは、細部まで先に決めてしまって、
他の人の意見を一切、入れなかったからですね。
小津映画としての完成度は悪くないのでは・・・
原節子が関西弁じゃないという前提な以上、細かい点は言ってもきりがない
小津のファンじゃないけどね
原と司の座ったポーズ、俺もやってみたけどきつかった >>87
松竹以外で撮った映画は小津にはバイトみたいなもんだから。 小津は死んだとき松竹に借金がたくさん合ったらしい。
香典も差し押さえられたとか。 >>89
全然違うぞ。
>>90
助監督だった井上和男がその場は追い返してる。
そのために彼はクビになった。 >>86
花輪なんか使うものか。しきびを使う。
小津監督の周りに関西の事情がわかる人がいなかった証拠。 本当は怖い昭和30年代 〜ALWAYS地獄の三丁目 送別会でみんなで「雪山讃歌」を歌うシーンで
宝田明はいやいや歌ってるように見えた。
こんな歌を歌わせるなって感じ。 >>79
そこに「ただの小早川家じゃないぞ」というこだわりがある
らしい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています