石原プロ維持に当時誰もが踏み込めなかった「全国縦断リサイタル」を敢行。
全国23都市公演で20万人を動員した。この実績をベースに三船共演映画
製作費資金を確保。又、三船に追いつき追い越せ意識で黒澤映画を意識した
「城取り」製作公開したり、兄慎太郎原作本の映画化「敗れさるもの」或いは
初の海外作品「素晴らしきヒコーキ野郎」出演等意欲的に世界の三船を意識していた。

実際三船との共演話は水面下で進行していて「馬賊」監督岡本喜八まで決定して
いたが、日活堀社長から横槍が入り頓挫。それでも諦めなかったのは邦画低調期に
入っていた事もあり「五社協定」の払拭だ。
三船共演話が途中で頓挫したが方向性を変え「黒部の太陽」製作発表を三船・裕次郎
監督熊井啓立会いの元で強行に発表した。
裕次郎は資金稼ぎに「第二回リサイタル」を東京・大阪・京都・名古屋の四都市公演
で実施。大成功を収め黒部資金に投入。既に日活主演ローテーションから離脱して
裕次郎・日活の関係が益々悪化したが・・