黒澤明 どん底
長屋で展開される人間模様の悲喜劇、
ユーモラスに転調するかと思えばまた絶望へ。
この映画にはあらゆることが詰まっている。
三井弘次や千秋実といった名脇役というイメージの役者が、
一世一代ともいえる演技をみせてくれるのも魅力。 オープニングからして凄い。
ここまで絶望的な状況から始まる映画は他にないかも。
とにかく傑作ですわ。 >>109
これをリメイクできる監督、スタッフ、俳優がいないんじゃないの 11月23日(金)14:00から、日本映画専門チャンネルにて「どん底」が放送されます。
未見の方はこの機会に是非。 この映画、舞台劇のリズムの取り入れ方が半端じゃない。 これが黒澤最高傑作だと思うけどあんまり人気ないねぇ
映画会社の縄張り争いとかが評価に影響してるのかな 三船の肉体美を求めて見た〜
からみつく山田五十鈴ウラヤマシス 黒澤作品で一番"粋"な映画だ。
主役は三井弘次と言っていいでしょう。
中村鴈治郎のインパクトも凄。 そういえば、三船敏郎を山田五十鈴と京まち子とで取り合った云々のスキャンダルをどこかで聞いた覚えがあるぞ。
いい男を取り合う女優の話題は、クラーク・ゲーブルと鶴田浩二みたく、色男の代表格ぐらいじゃないと、女優にもプライドがあるからなかなか公表されないだろうけどね。
三船クラスだと大女優もメロメロなのは判るわ。
山田五十鈴と京まち子って女の中でも気の強そうなタイプだから、さぞかし取り合いの際には
爪立てて引っかきあったり酷い喧嘩を想像させるよね。WWW その気の強い二人のキーキーやってる喧嘩を見て三船が引くの図が思い浮かぶわ。 これリズム取ろうという意図なのかず〜っとシクシク泣かせるところがなければ完璧なんだけどな〜
やっぱり女の感情を演出させると駄目だな、黒澤は
どうしても過剰になる 香川京子の雄叫びは凄まじかった。
まあ確かに細やかな女性の感情表現は無いかな?
女性の内面表現はあんまり興味なかったんじゃないの。
そんなの面倒臭え、とか思ってそう。 社会の底辺に置かれた人々の絶望と幻想(明確な救いは無い!)
リズムは歌舞伎的、シクシク泣いてる所も、それの和事だと思えばいいし。
演出もストーリーも、とてつもなくスタイリッシュな映画。 ず〜っとシクシク泣かせるところってのは、具体的にどのシーンですか?ちょっと思い出せないな。 こういうテーマの映画って、カメラを地面にすえて同じ目線で撮るのはよくあ
るんであって(鉄道員とか道とかみたいに外国でもね)、そうじゃなくて、
逆にカメラを空高い所にすえて俯瞰的に撮るのもおもしろいと思うがな。まあ
黒沢はいつでもヒューマニズムが前面に出てくるところがいいのだろうけど。
でもちょっと構造が簡単すぎる感じがしないでもないな。そこがいいのかな? >黒沢はいつでもヒューマニズムが前面に出てくるところがいいのだろうけど。
でもちょっと構造が簡単すぎる感じがしないでもないな。そこがいいのかな?
?
「どん底」てわかりやすい映画じゃないだろ。
たとえば「赤ひげ」ならそういう感想もわかるけど。
「どん底」にわかりやすい構造なんて感じられるかな。 この映画をふつうの人が見たら「わけわからん」というのが
普通の反応だよ。
「赤ひげ」にしても前半はけしてわかりやすくはないけどね。 スタイリッシュでありつつ、どん底で生活する庶民のありのままの
生き方を表現する事に力を入れているとこが凄いと思う 「どうせ、掃き溜めだー」
初見のときは、いまいちピンとこないまま映画が進んでいったけど
2回目以降この台詞を聞くだけで背筋がゾクゾクっとなる 何回もスマソ。
オープニングだけで
今、物凄い映画を観てるんだなって気持ちになる。
お囃子のノリがなんかJazzっぽい、結構カッコイイとおもった そういえば音楽ないんだよねえ、この映画。
だからこそ部屋に入ってくる隙間風や、馬鹿囃子、あとラストの拍子柝の効果が生きる
あと台詞の掛け合いが音楽的かも(志ん生の落語を笑わずに聞いた成果でしょうね)
馬鹿囃子は音楽の佐藤勝が作ったオリジナルって・・いい仕事するよなあ 確かサントラもクレジットバックの鐘の音と馬鹿囃子が2パターン、ラストの拍子木の4曲(?)だけだった >>151
普通の店では多分取り扱ってないですが、東宝ミュージックで注文できます。
ちなみに、さすがに4曲では少なすぎるので同じく曲数の少ない「生きる」(22曲)と「生きものの記録」(9曲)との抱き合わせになってます。
http://www.thm-store.jp/cnts/st03-02.html iPodに馬鹿囃子を入れて持ち歩きたい今日この頃。 とんだ道行きだな
中村鴈治郎は三船に物凄いスピードでブン投げられすぎだw
ちゃんと弟子が受け止めてたらしいけど。 >>154
あだ名が「コホンコホン」とは田中春男も酷いなぁ >>152のサントラの解説書に、ラストの馬鹿囃子は佐藤勝が三井弘次の吹き替えをやったと書いてある。元々声質が似てるのか、物真似がうまいのか、どちらにしても言われても判らないほどそっくり。
それから、一回目の馬鹿囃子をよく聞いてると、三井弘次が「コーンコーンコンチキショー」って言っているとき、誰かが小声で「あっ、まだか」って言ってる。誰だろう? 中村鴈治郎の、所作に通じた部分が欲しかったんでしょうね。黒澤監督。 黒澤は変に完全主義だよな
歯を抜かせた意味とか全くないし それの是非はともかく、歯を抜いたことで、全く無駄な訳はないだろう。
良い見方をすれば、芸への執念の凄まじさだし。 えっ?
鴈治郎の歯を抜いた、ってのは
入れ歯をはずした、ってだけのことじゃなかったの?? >>165
やったことの効果が出ないなら執念の意味が無いだろうよ
アホだな 効果が出る出ないの価値判断の基準は?
自分の主観以外である? >>167
俺も歯を抜かせた意図っていうのはよくわからないけど、
いやだったらできませんって断ればいいだけの話だし、
本人が承知してやったんだから別にいいんじゃないの。
お前がとやかく言うことじゃないよ。 >>169
アンカー間違った。>>164へだった。 言い返せないからってそんな小細工使うなよw
>>165=>>169くん まず、ソースが知りたい。
言い返せないって・・・そんなご大層な主張か? そんなたいそうな主張じゃないのならとやかく言うなとお前が言う筋合いこそがないんじゃない?
自分は関係ないいちゃもんつけておいてそれはないだろうよ >>173
>いやだったらできませんって断ればいいだけの話だし、
断らなかったから歯を抜かせた意味があるのか?
歯を抜かせた意味が分からないと言っておきながら
こういう関係の無い話もちだす意味こそがこっちには分からないんだが 歯抜いた事で業突張りな雰囲気出てんじゃん。
だいたいが、「歯抜けますか?」って聞いただけで抜こうって決断したのは
中村鴈治郎自身なんだからさ。まるで強要して黒澤がそうさせたみたいな
感じで話が展開してるようだけど。 日本語分からん。自分の意見の正当化がしたいなら、文法をもっと。 >>172
俺は165じゃないよ。お前は>>170=>>164か?
まあいずれにしてもしょうもない奴だ。 >>176
黒澤嫌いのアンチがそういう展開にしてるんでしょうね。 香川京子のキンキン声が気に入らん。
だめだよ、この女優さん。なぜか大監督に人気だが。
いいじゃん、京子。
長澤まさみちゃんみたいな雰囲気で >186
ある時、朝から土砂降りで今日は撮影無し、と旅館に通達があった。
馬の調教もしていたエキストラ?(一応クレジットされている)の人と
仲良くなっていたんで、いろんな話を聞こうと出向いたら衣装部屋
みたいな開けっ放しの広い所に数人固まって何かしている
その輪の中に仲良くなった人もいたので入っていったら
みなロウみたいな物を使って服を汚していた、その集団の中に監督もいた。
で、その人に何で監督がいるのか話を聞いてみると朝早くから
監督が一人でしていたらしい。
その人が私がやりますと言うと、
「イヤいいんだ!こうやっていると色んな事考えられるから、
楽しみを取らないでくれ」と言われたらしい。
しかし監督が一人黙々としているので他所にはいけず
手伝いますと言って
山積みになっている充分古着感は出ている衣装を手に取り、汚しにかかると
監督が「この人は物売りだから右肩の所がすれているんだ、
だからそこを破れないくらい汚してね」と言われたらしい。
「え!役名がある衣装なんですか?」と聞き返したら
「そう考えると汚しも楽しいだろ!」
「僕はね、常にそういう風に考えるんだよ」
「理にかなった汚しはウソっぽく見えないからね」
と応えられ、また黙々と襟首にロウで汚しを再開された。
私はそんな話を聞きながら石で裾の所を恐る恐るこすっていたりしながら聞いていました。
ふと顔を上げるといつの間にかその広間いっぱに人があふれみんなゴシゴシしていた。
監督は笑いながら「だから僕の楽しみを取らないでくれ」と言っていたのが印象的だった。
それから余程気分がよかったのかまたは本当に休みだったのか、
お昼を挟んで夕方までいろんな話をしてくれた。
しかし私があのとき汚した衣装は何度映画を見ても確認できない。 >>188
自分の置かれた状況を直視したからと解釈するのは自然だと思う。
どん底にいる人間は「嘘でつっかえ棒」しなきゃ生きてゆけない人間ばかりだ。
つまり、今の自分が置かれた状況から目をそらしつつ生きているってことでもある。
しかし遍路(左ト全)から与えられた希望によって、逆に今自分が置かれた救いよう
のない現実に向き合わなくいけなくなった。その絶望的状況から咄嗟的に自殺してし
まったのだと思う。
遍路はどこかに酒毒で侵された体を治してくれる寺があるという。もちろん役者も
それが情けからの嘘だろうということはわかってる。でも一方で、もしそんな寺が本当に
あったらという希望にすがりたいという思いもある。本当の底辺にいる人間、本当に絶望
的で救いようのない人間にとって、希望を抱くということがどれだけ危険なことか、という
ことではないかな。
途中、ステ吉(三船)からも遍路は「死神」なんて言われていたから、最後の結末は十分
暗示されていた。
「どん底」は黒澤の中でも傑作の一つだと思う。黒澤作品の中であまり話題にならないのが
不思議なくらい。というか....、どう観たって傑作でしょww どこかの批評で評価点40と
あったけれどとても信じられない!! ゴーリキーの戯曲は完璧に表現か
底辺で暮らす人々の絶望感や幻想の考察
舞台を江戸時代の長屋に設定して、落語や舞台劇の要素を取り入れることで
魅惑的な映画の魔法が発生してるんじゃね。つーことで傑作 これで存命なのは山田五十鈴、香川京子だけなんだな・・・ 加藤は長屋の住人じゃないし…。
それを言ったら佐田豊だって存命だよ。 >>196
加藤さんはノンクレで正式な出演者じゃないから除外。 >>199
3〜40年前なら子供でも感覚的に知っていた歴史の判断力も
ないようだから、もう少しおべんきょしてから見直してみな 外で揉み合うシーンで五十鈴さんの胸元が見えそうになるよね。 >>188,>>191
どうしようもない現実をあたらめて直視したのと、突発的な現実逃避による自殺。
これは、伏線として「あの世にいったら楽になれる」と諭されて亡くなった
鍛冶屋の妻の伏線も効いている。
そこで病気治療を越えて一気に楽になりたかったのでは。
さらに、突発的な死の報告によって、この映画の見せ場の一つである即興ライブが
中途で途切れ、最後の捨て台詞でブチッと切断されて終わる。
どん底という環境からして、どうしても救いようのないしみったれた結末になりがちな
ところを、この潔いまでに切断した終わり方ゆえにスタイリッシュとなる。
(あくまで俯瞰的視線に徹し、情を避けてニヒルな視線を交える方法)
さらに、ウソで固めて現実逃避している者同士なりの妙な連帯感が、ふっきれた
までに潔いあの即興的な音楽となる。
音楽は調和(ハーモニー)だ。
この調和が様々な境遇を経てどん底に辿り着いてここで生きざるをえない者たちの
互いの慰めとなる重要なファクターだ。
口では互いに冗談交じりに罵りあい、信用していないし自分も同じように信用されて
いないが、同じ社会的弱者として互いの傷をなめあう同族意識が心底にある。
それが即興的な音楽となって現れる。
どん底においてこれが彼等なりのストレスの発散であり唯一の救いとなっている。
だが、結果として誰がどん底を抜け出し希望通りになったか。
鍛冶屋の妻は、「あの世へ行けば楽になる」と諭されたとたん、
楽になるならもう少しこの世にいたい、と執着して意に反して亡くなった。
どん底を一番抜け出す意欲のあったその夫は、妻の死で気が触れた。
将来に希望を見出した捨吉も、どん底という環境で培われた疑心(女の裏切)
によってようやく芽生えた信頼も覆された。
ウソでもいい、ただきちんと話を聞いてくれ、同上して慰めてほしかった夜鷹は
遍路によって一応満たされた。(が、現状は変わっていない。)
最初から変化を諦めていた者は当然、現状維持だ。
すると、突発的に死ぬことで現状から「楽になれた」役者が一番希望がかなった
(少なくとも自分の意志で現実を変えた)のではないのか。
そう考えると、死ぬことでしか現状を抜けだせないほど、どん底という環境は
人の心を蝕むという恐ろしい話ということになる。
そこまで頭で難しく制作側は考えていないだろうけどね。
制作側の感覚的根詰めの作業を理性的に言葉で表せばそうなるのかもしれないが。 特別難しい考えとは思わんがな。
考えを文章にまとめる作業は簡単じゃないと思うが。
というか、最低限このくらいのものがないと
映画として成立しないだろ。 「死にたい」と言ってた鍛冶屋の妻がお遍路さんに慰められて「でも、も少し生きたい」
と心変わりするくだり、あそこはブラックユーモアのつもりで入れたのかな?
俺は観るたびにあそこでクスッと笑ってしまうのだが… >207
ブラックユーモアにもとれるし、実際笑いを取れる場面ではあるが、
もっと深いものがある。
それはお遍路が会話の中でさり気なく話す、数々の含蓄ある台詞によって
宗教的な視点を含むものとなる(もちろん「お遍路」自体がそうした存在だ)。
つまり、どんなに酷い環境や境遇であっても、あの世が楽になると知っていても
人間というものは、現世において欲深い存在である、ということだ。
それが死を目前にし、自ら死を望む者でさえ、いざとなればその執着を捨てきれない、
という描写によって見るものに語られる。
前後するが、お遍路の台詞は非常に禅的要素を含むものだ。
どん底という、絶望の淵にあって、そこから自力で出るには、希望を持つことだ。
前レスにもあるが、それがトリックスターとしてのお遍路の役目。
死を境とする絶望に対する、生への希望を持たせること。
そのきっかけは与えるが、それをどう解釈し、どう生かすか殺すかは本人次第。
他力を説く仏教もあるが、禅はあくまで自力による悟りだ。
ここに厳しい視点がある。(だから本作品において音楽が唯一の活力であり救いなのだ。) 書き忘れたが、本作品は禅が主だと思うが、これは当時の現代思想における
「生の哲学」(ショーペンハウアー/ニーチェ/ハイデッガー/サルトル)の系譜にあたる。
戦後思想が吹き荒れた中において、時代的・思想史的に、『生きる』を作って「生」そのものへと
直接対峙した黒澤、もしくは脚本家や周辺スタッフがこれを知らないわけがないのでは。