自己言及としての自然科学 ~自然過程説の展開~
終活やらないといけない時期になりましたんで、いろいろと手を付けています。
このスレの目的は味噌も糞も一緒くたのインターネットを更にと。 ry
ゆっくり、ちんたらとやることにします。
若い時から雑読してきただけなんですが、自然について考えてきたことを概観しようとこのスレを建てました。
認識論畑からの自然科学概観です。
興味のある方にと。
自然科学は自然認識ですから、認識の在り方もまた考察しても損は無いかと思います。
人間は自然の一部ですから、自然認識は自己言及が基本だと理解しています。
科学革命は自己言及の性格があります。
そのことを論じる前に次のことを。 ウイルスは生物非生物と分類困難
物理としては差異であり否定関係では無い
宇宙非宇宙?
ワインバークは三十年ほど前に宇宙の始まりまであと僅かに迫っていると語ったが、今でもそのグループは達成していない
科学者は死がいつからと指示特定するのは困難だと語る
ブリゴジン学派の若き研究者の時間理解が面白いが、紹介したホーガンはやれやれと呆れていて否定的だった
宇宙非宇宙という規定はウイルス分類を思いだす
さて、此処からは存在するのだろうか?
そして此処までは?
認識とはを科学者は問うべき段階だとわたしは主張する
ビッグバン仮説は認識=自然という素朴認識論の系譜の一つではないかと 科学の基本から見直したいということ
目の前の自然は認識器官の在り方に結ぶ像でありそのままの自然では無いというのがわたしの理解
見たものがそのままの自然ではないことを科学は地動説を端緒に繰り返し示してきた
地動説は立場の相対化
光速度一定の原理、量子力学、観測問題、不確定性原理は認識の在り方の基本を示す
ビッグバン仮説は認識の在り方を示し続けた科学の歴史の否定 ビッグバン仮説は確実な証拠は皆無
わたしは自然は無矛盾で理解可能だと主張する
ビッグバン仮説 科学
前提 宇宙非宇宙 光速度 絶対座標無し 無矛盾
生滅 有 無
終始 有 光速度で終始否定
粒子 有 終始無し→無
次元 有 光速度→ 無
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発して新たな物理状態を生成していく過程という理解
進化論はこの自然観が裏付ける
物理としては何も生まれない無くならない
宇宙は誕生しないし無くならない
ただ在るだけ 自然科学は対象が無矛盾であることをすでに証明しているというのが私の理解
静止、生死、無、終始は自然には実在しない
静止、生死、無、終始・・・すべて同じなんだけど w 三十万+三十万=三十万
三十万−三十万=三十万
絶対座標の実在は否定される
これで自然は無矛盾、つまり自然科学は成立することが証明される
理論は仮構の下で展開されるということ
これらが何を意味するかを科学者は考察すべきだろう
出発点、終始、無は実在しない
論理もまた
規定は否定、つまり対象には実在しない
地動説はそれを示した端緒
分類は人間の側であり自然には存在しない
ウイルスは生物非生物と分類困難
自然には関係がない
生死、終始は何処からと特定できない
自然には実在しないから
論理は自然の在り方からの抽象ではあるが論理は自然には存在しない
光速度一定の原理が語ることは極めて豊穣です ブルトマンはわたしの信仰と学問は関係が無いとした
三浦つとむは共産主義を否定する基となった自分の論文から導いた
滝村隆一の結果を受け入れられなかった
ヒルベルトはゲーデルの結果をとにもかくにも受け入れた
結論を出したブルトマン、導いた三浦つとむ
思想と信仰と何処が変わりがないのかと
田川健三は神無きキリスト教徒と名乗った
物理学の結論は西洋の学者辺りは受け入れるかなと
イギリスの学者たちとかは読んでいると可能性がある気がする
・・・宗教関係、一神教は峻拒するだろうなあ
ルターの地動説への憎悪、キリスト教徒の進化論への嫌悪
イスラム教徒の日本、アメリカ、いや世界での行状
アメリカで著者を刺し、日本では翻訳者を殺害
第二のコペルニクスもまた死後に発表することをお薦めする 建三でした
校正がいい加減だからなあ
全集で欲しい人かな
滝村さんもかな
板倉さんは多いから選集で
三浦さんは選集がでていますが重要論文が無くて
ただ思想関係は微妙
言語学の冒頭はヘーゲルの理解が展開され、ああこりゃ俺には無理だと諦めさせてくれました
励みになったのは真理はとても単純だという指摘でした
素人にも卓見があり、学者は耳を傾けるべきものもあるからと注意を促していました
ファイアアーベントも似たことを述べていました
で、いろいろ考えてきたわけです
吉本さんのは最初のはともかく親鸞論辺りからついていけなくなり、反核異論あたりでは違和感ありまくりで
その後の全集は図書館で当たることもある程度です
いや時代の流れはいろいろ淘汰します
板倉さんは石の中にも宝石が有る著書もあると書いていました
ある人の指摘で啓蒙され原著を読んで・・・
いたって指摘した人の慧眼に感服したと書いたのは板倉さんだったかな
個人的にはいろいろ啓蒙してくれた学者さんでした
「新哲学入門」では論理の性格の指摘が参考になりました
スピノザの規定は否定の理解に繋がり有り難かった
大学者ではありますが、三浦さん同様相対化される、いや学者はたいていそうですね w 人の世は夢 ですか
なんか身に沁みます
歳なんですね 人の世は夢 ですか
なんか身に沁みます
歳なんですね 宇宙の始まりとしてのビッグバンはないですよ
誰だったかな、宇宙の片隅で起きたのがビッグバンかもと書いた人がいました
ボスロウだったかな
これじゃないかと
宇宙は無限です 共同幻想論は吉本氏の難解な書物でした
これに文化人類学の山口氏が噛みつきました
新約聖書学の田川さんがやはり理解出来なくて後年あることを前提としていると気が付き否定的な評を展開していました
読解力がある学者がわからなかったんだからと当時納得したものです
数学である概念が理解できず数学者も解決していないということを匂わせていました
それで物理学を読んでいたら重力が理解出来ず理系をドロップアウト
考えてみるとそこから右往左往したんですね
けっきょく、究極的には前提として受け容れるのが学問なのだと
有を無で規定するからということに気がついたのは少し前の事だったりします w いろいろ科学の結論と認識とはズレがある
何も生まれない無くならない→生死という認識
運動は普遍→静止という認識
終始、無は存在しないが終始、無という認識
不確定性原理は有を無でということから
三十万+三十万
三十万−三十万
答は同じ
これで対象が無矛盾となる
これが何を語るのか
認識の相対化の終点かと そして現代科学の事象理解も相対化されていくわけです
天動説の理解が相対化されたように
見た限りでは天動説は真実
それが太陽中心で規定し直される
最終的には規定そのものが相対化される 物理として終始は無い
ワインバークグループは未だ宇宙の始まりに到達できず、科学者は死の時点を特定できない
何故か
それは物理として終始が無いから
エネルギー保存則、絶対座標が存在しないことが何を意味するのかを現代科学は理解していない
物理として生滅は無い、終始は無いということを現代科学が理解するのはいつなんだろう 速度は相対値です
光速度一定の原理が示すことです
30+30=30
30−30=30
絶対座標の否定→自然が無矛盾であると証明される
静止が実在しないということは自然の存在形態が運動ということを導く
絶対座標、つまり始まりは実在しない、つまりビッグバンもまた 論理が相対化され、対象である自然が無矛盾、つまり理解可能だと示される
理解の相対化を絶対にしたのが光速度一定の原理なのかなと思い始めています 対象に宇宙非宇宙は実在しない
宇宙非宇宙で規定する
有を無で、の言い換えです カントは偉大でしたがヘーゲルに相対化されました
それをマルクスが相対化して、また彼の思想も相対化された
三浦さんも板倉さんもまた
相対化するだけの価値が有ったということですか
人類が滅びればまた w
自然はただただ運動変化しているだけです
或る意味全ては幻、幻自体が現実ともいえるのかと
全ては幻説にも根拠はいちおう在りますね
賛同はしませんが
ああ、静止で認識するから静止は実在するとする理解と同じ係累なのかも わたしは納得出来る自然理解から人間とはを考えたいだけです
納得できればなんでも
・・・まあ結論は人間には苛酷なそれになりますが 第二のコペルニクスもまた死後に発表することをお薦めします
とてもヤバいし大部分の人間には受け容れ難い結論になるでしょう 人間の感覚器官に結ぶ像の相対化の歴史が自然科学の一側面です
認識の相対化ということです
さてどう生きるべきだったのか
これからの人たちはどう生きるべきか
わたしはゼノンに拘ってしまいました
それでもそれなりの結論を得て満足しています
こういうことに拘り廃人みたいになった人がいると哲学スレで警告した人がいました
三浦つとむ、板倉、山川諸氏の学はわたしなりの理解にとても役に立ちました
これが無かったら自身も廃人と自覚して一生を終えていたでしょう
現代日本の学に感謝します
欧米に居たら自分なりの結論は得られなかったでしょう
先駆的なアルヴェーン、進化は万能であるの著者、タレブでも認識論では現代日本の学には及ばない 某スレで時間の理解についての議論で新たな視点を獲得しました
議論には参加してみるものです 時間とは運動量
一光年 光 地球の運動量
時間の定義は運動量が普遍
此処から此処までという運動量
0次元は運動という有を静止という無で規定する言葉
今、此処と指示すると今、此処は飛び去るとヘーゲルは語る
今、此処とは座標原点
今、此処とは運動を静止で規定する言葉
有を無で規定する、だから運動は量で理解するしかない
直接では捉えられないから
現在には過去も未来も実在しない
現在=運動しか実在しない
つまり時間は認識の在り方が要請する次元
パルメニデスは自然は一であるとした
一は多で規定される
ゼノンの逆説は数が実在しないことを証明した
絶対座標は自然には実在しない
時間は実在しない 自然の一部を此処と指示する点、静止
此処、今とは認識の在り方に結ぶ自然の像
うーん、やはり認識の在り方の問題だな
徹底しなきゃな
もう27年以上経過しているが
困難だが出来るところまでやりたい
基本に還ることにより新展開がある 時間は運動量に還元できる
運動量は認識の在り方を媒介にしている
運動という有を静止という無で規定する
0に限りなく近いが0ではないという決定不能の定義
現在は直接には理解できないから量、時間で規定するしかない
今は運動を静止で規定するということ
時間は運動量、つまり認識を媒介にした自然の在り方を媒介にした観念的存在
0次元、出発点が存在しないのだから 自然科学の現在は未だその基礎は確立していない
時間非在説は前世紀末から科学者がその可能性を指摘されている
現在ではテレビで紹介され、科学雑誌で一潮流として特集が組まれていたりする
現在主義だったかな、つまり今しか実在しないという理解が
重力も非在説があるが、違う理解が可能ということ
酸素を発見した科学者は燃素説を生涯信じたことで解る様に観測発見した対象を必ずしも正確に理解しない
天動説は典型で、火星に運河を発見した天文学者がいたりする
天動説を維持しようと周転円は積み重なる
重力は実は未だに定説はなかったりするがライプニッツは方程式に敬意を表したが概念は魔術的と否定した
見たものがそのままの自然ではないことを地動説は示す
物理とした生死は実在しないが、わたしたちは生まれる、死ぬと規定する
フラットアース説はよく知らないが、地球が静止しているとするのなら、対象が矛盾したら理解はできないという論理の前提を否定するからノー
対象が、ということの意味が重要
対象に静止、生死は実在しないが生死、静止で規定するということ
いわゆる矛盾、決定不能が導かれるが、それは規定するから
対象にはそれらは存在しない
その原因は規定するから
静止は運動の一形態、生死は物理状態の遷移等々
人間も金属も物理状態の差異
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発してまた違う濃淡を生成する過程
いわば海だが認識には淡は像を結ばないから多と成る
自然科学は自然認識だから認識の在り方は考察すべきかと
カントの二律背反は対象とそれを規定する論理の問題
終始で規定するが終始は対象には無い
形で規定するが形は対象には無い
フラットアース、球体説、いずれも認識の在り方は考えられていない
フラットさんは視覚=自然
球体説は構造理解としては正しいが
武谷三男氏の三段階理論の検討を両派にお勧めする 自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反発でまた違う差異を生成していく過程でしかない
次元も諸力も実在しない
最小単位から成らない
素粒子、生物、金属、地球、銀河系、大構造等に成る
認識器官の在り方に自然は像を結ぶ
一は多として像を結ぶ
静止、生死、無は実在しない
自然科学は認識の在り方の相対化という側面がある
時間は運動量に還元できる
運動は直接理解できないために多、つまり量が必要となる
時間は実在しない
今とは運動
現在、現に在る 目の前の自然は目、つまり認識器官の在り方に結んだ像でありそのままの自然ではない
一を多で規定する、規定は否定
時間もまた一を多で規定するから必要になるということ
ここから全ては演繹可能 時間は基本運動量に還元できそうだな
・・・まあ自然の存在形態が運動だから当たり前か
認識の在り方で一は多で規定する
今だけが存在する、有は無で規定され、一である運動は多、量で規定するしかない
時間は認識の在り方が要請する観念的存在
運動は静止で規定されるから
0に限りなく近いが0ではないという規定の根拠
不確定性原理の原因
それで規定するがそれは実在しない
静止、生死、無は実在しないがそれで規定する 次元も実在しないだろう
今、此処と指示すると今、此処は飛び去るとヘーゲルは指摘する
今、此処とは運動する自然を静止で規定する言葉
現在主義とか唱える科学者たちが居るとか
有を無で規定するから、四次元、時間が必要となる
四次元が実在したら無限の静止する自然と観測者が実在することになる
一は多で規定されるということ
一ではあるが濃淡である自然を認識器官はその在り方から多として像を結ぶ
物理状態の差異を否定関係、つまり生物非生物、有無、生死と規定する
それらは認識の在り方であり、自然に否定関係は存在しない
一は多、つまり数で規定されるが多は実在しない
一は多となり、多は一となり
認識の在り方は考えられなければならない
カントの二律背反、へーゲルの運動定義などは対象と規定の関係の話
不確定性原理、観測問題、不完全性定理などなどもまた
クレタ人の逆説は否定で規定するから決定不能に
対象である自然は無矛盾だが、規定は否定
規定が自然には存在しないことで自然は無矛盾であることになる
ウイルスは生物非生物と分類するから分類困難に
同様に規定するからいろいろ困難なことになる
素粒子、生物非生物に成るということ
最小単位から成らない
紐に成るのであり、紐からは出来ていない
条件が生成可能ならいくらでも小さくなるということ
そして粒子は認識器官の在り方に結ぶ波の渦の状態 言語過程説と重ねることが出来そう
対象ー認識ー表現ち・・・ 不確定性原理
小さな物質は粒子として振舞ったり波として振舞ったりする二重性を示す。これを何らかの観測手段を使って調べようとすると測定結果に不確定性が生ずる。具体的には、一個の電子の一と運動量を同時に正確に測ることはできず、一方の正確度が増せば他方の正確度は減る傾向にある。〜略
ハイゼンベルクが提起したこの不確定性原理からはミクロのゲ現象は決定不能であるという結論が導かれ、これまでの科学が疑いもしなかった前提ー物質の実在そのものーがぐらつくことになった。
科学の危機 P160頁注 不確定性原理
小さな物質は粒子として振舞ったり波として振舞ったりする二重性を示す。これを何らかの観測手段を使って調べようとすると測定結果に不確定性が生ずる。具体的には、一個の電子の一と運動量を同時に正確に測ることはできず、一方の正確度が増せば他方の正確度は減る傾向にある。〜略
ハイゼンベルクが提起したこの不確定性原理からはミクロのゲ現象は決定不能であるという結論が導かれ、これまでの科学が疑いもしなかった前提ー物質の実在そのものーがぐらつくことになった。
科学の危機 P160頁注 不確定性原理
小さな物質は粒子として振舞ったり波として振舞ったりする二重性を示す。これを何らかの観測手段を使って調べようとすると測定結果に不確定性が生ずる。具体的には、一個の電子の一と運動量を同時に正確に測ることはできず、一方の正確度が増せば他方の正確度は減る傾向にある。〜略
ハイゼンベルクが提起したこの不確定性原理からはミクロのゲ現象は決定不能であるという結論が導かれ、これまでの科学が疑いもしなかった前提ー物質の実在そのものーがぐらつくことになった。
科学の危機 P160頁注 自然科学は自然認識です。
認識に結ぶ像がそのままの自然ではありません。
地動説は見たものがそのままの自然ではないことを示します。
静止は運動の一形態です。生死は物理としては存在しません。
生れるとは物理状態の変化であり死ぬということもそうです。
科学者は死の瞬間は特定困難と語りますが、物理としては実在しませんから当然です。
生死は物理として否定関係ではありません。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止、此処からの実在を否定します。
この原理は自然の存在形態が運動であり、量子力学の自然観である運動するエネルギーの濃淡という理解を裏付けます。
なぜなら運動を前提に有と無という否定関係は導けないからです。
自然は濃淡はあるが一、海ということです。
濃淡のエネルギーが親和反撥して新たな濃淡を生成していく過程ということです。
しかし認識器官に結ぶ自然の像はそのままの自然ではありません。
静止、生死、無は実在しませんが認識器官には像を結びます。
運動は静止で規定されます。
つまり有を無で規定するということです。
0に限りなく近いが0ではないという不可思議な規定の根拠です。
わたしたちはそのまま自然を認識できません。
運動量も近似値です。
また此処と指示しても此処は運動していますから、やはり正確には指示できません。
生死が何時からとかはやはり近似でありそのまま指示できないのです。 不確定性原理もまた対象を規定する認識の在り方の問題です。光速度一定の原理は絶対座標、静止、規定は実在しないことをもって自然が無矛盾であることを証明します。
ウイルスは生物非生物と否定関係で分類するから分類困難な対象となるだけで、ウイルスがどちらかと悩むことはありません。
規定するからこその不確定性原理です。
これは対象と規定の関係を語るものです。
実在が前提であり、実在がぐらつくことはありません。 決定不能
対象が無矛盾であり、それを否定で規定する
決定不能と決定する
理解可能だからこそ決定不能
対象に論理自体は存在しない
三浦つとむ氏は法則性と法則を区別している 時間も運動量に還元出来ます
運動する自然の差異がその状態である間隔を測る
光の運動量が基準になる
地球、太陽等々の運動量・・・
変わらない基準を求めた結果
時間で測るが時間は実在しない 自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発してまた違う濃淡を生成する過程
次元、終始、生死、無・・・
同じことです
力も実在しません 時間がイメージできるようになりました
認識、附随現象
認識の在り方に結ぶ像
うーん隔靴掻痒 対象ー認識ー表現
表現は認識の在り方に拠る
自然科学は自然認識であり自己言及でもある
理系は認識論を軽んじているので不確定性原理、不完全性定理の理解に苦しんでいる
それは対象が無矛盾、理解出来るからこそなのだということ
何故定理なのか、原理なのか
真理はとても単純なのだとある認識論の大学者は語る
対象は無矛盾で単純だが認識の在り方で複雑になっている
一が多と成り、多が一と成り
多は認識が媒介するから。
科学はその認識を相対化して一に辿りついた
科学の諸成果はその証拠を示している
「十の証拠からは十の理論が
正しいのは一つだ」
チェスタトン ブラウン神父の純智 「イザエル・ガウの厳正さ」 認識の在り方の自己言及ということになるのかなあ
地動説はそういうことを示す端緒なのでは?
次の科学革命はこのことを究極にまで突き詰めることで為される 意識問題か
ミュンヒハウゼントリレンマってやはり規定理解ということに収斂する? 新約聖書学、数学、共産主義の結論は論理から一元的に理解可能かもしれません
創造神なら無矛盾
数学は規定は否定、自己言及
共産主義はトップダウンではなくボトムアップ
この観点から結論が導けるのだと
論理の在り方、成立条件からです 新約聖書学、数学、共産主義の結論は論理から一元的に理解可能かもしれません
創造神なら無矛盾
数学は規定は否定、自己言及
共産主義はトップダウンではなくボトムアップ
この観点から結論が導けるのだと
論理の在り方、成立条件からです 認識器官に結ぶ像=自然ではない
地動説、進化論、光速度一定の原理
言葉はそのまま自然を表現しない
物理として、静止、生死、終始、無は自然には存在しない
認識の在り方を相対化してきたのが自然科学
静止、生死、終始、無で規定することを自然科学は明らかにしている
〈わたし〉は貴方では無いが、人間
人間はサル、犬0、植物、金属、水ではない
物理状態の差異を否定で規定する
わたしは産まれてから現在に至るまで同一であることは無いが同一のわたしと規定する
自然の全ては同一であることは無い
同一であることはない自然を同一として規定する
クリスティーはミス・マーブルに
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
両方ともに真理だと語らせる
規定とは否定だから 素案です
自然科学の一側面として認識の在り方の相対化の歴史があるとわたしは理解している
天動説は見たもの=自然という理解
この素朴認識論というべき理解は現代科学はまだ払拭していないのではないかということ
地動説、進化論、エネルギー保存則、そして光速度一定の原理は素朴認識論の終わりでもある
不確定性原理は測定値の相対性を示す
それは運動を静止で規定するから
0に限りなく近いが0ではないという規定
観測問題は認識器官に結ぶ像の相対化、つまり観測したものがそのままの自然では無いという地動説の系譜
自然の一部である人間の自然理解は自己言及
自己を他として認識する、クレタ人の逆説、不完全性定理
光速度一定の原理は静止で運動を規定し、静止は実在しない、つまり認識の在り方の自己言及
否定で規定し、静止は実在しない
有を無で、一を多で
ウイルスが分類困難なのは分類するから
決定不能もまた規定するから
自然は無矛盾であり、規定するから決定不能に
決定不能と決定する
自己を他で規定する
有を無で・・・
自然科学は自然が無矛盾だとすでに示している やはり触発されないと論は進みませんね
某スレでは少しずつ前進しています たとえば観測事実は天動説で理解された時代がある
それが地動説で読み替えられる
学問はそういう側面がある
言語学でも似た展開があったと記憶している
新たな視点が同じ事実を違う理解に読み替えられる
たしかに不確定なのだろう
しかし視点を変えれば不確定ということが確定しているから原理と冠されるのではないのだろうか
不完全性定理も然り
実在しないという理解もまた天動説ではなかろうか
運動は静止で規定されるから0に限りなく近いが0ではないとする
それは有を無で規定するから
この原理は対象と規定が=ではないことを語る
カントの二律背反は終始で規定するが終始は対象に実在しないということ
形で規定するが形は実在しない
此処から此処までが実在しないのだから
認識器官に結ぶ像には存在するが対象には実在しない
不確定性原理も不完全性定理も認識の在り方の自己言及の性格を持つ
対象が無矛盾だからこそ決定不能になる
認識=実在ではないことを科学は地動説を端緒に示してきた
エネルギー保存則、光速度一定の原理、観測問題、不確定性原理・・・
生死、静止、粒子は認識には存在するが自然には存在しない
そして認識は自然をそのまま反映しない
測定値は近似値でしかないし、有は無で規定するからこそ不確定性原理となる
科学の歴史は認識の相対化の歴史でもある 体調崩しました
ちと離れます
わたしは自然認識は自己言及が本質だと理解しています
つまり自己を他として認識するということです
否定で規定するということです
三浦言語学の観念的な自己分裂ということです
体調の都合でここまでにします