自己言及としての自然科学 ~自然過程説の展開~
終活やらないといけない時期になりましたんで、いろいろと手を付けています。
このスレの目的は味噌も糞も一緒くたのインターネットを更にと。 ry
ゆっくり、ちんたらとやることにします。
若い時から雑読してきただけなんですが、自然について考えてきたことを概観しようとこのスレを建てました。
認識論畑からの自然科学概観です。
興味のある方にと。
自然科学は自然認識ですから、認識の在り方もまた考察しても損は無いかと思います。
人間は自然の一部ですから、自然認識は自己言及が基本だと理解しています。
科学革命は自己言及の性格があります。
そのことを論じる前に次のことを。 十九世紀のある学者はみたものそのままが自然なら科学は要らないと記しました。
つまり認識器官に結ぶ像は認識の在り方を通しての自然でありそのままの自然ではないということの指摘です。
認識器官は諸生物により違いますし、能力というかその範囲も違います。
視覚、聴覚、味覚、触覚などその認識器官の態様に従い像を結びますが対象である自然は一、つまり同じです。
喩えは不味いですが食材は様々な料理の仕方で態様を変えるようなものです。
自然科学の場合は光、音波を媒介にしますから態様変容はありますがごく僅かで考慮しなくても良いと理解しています。
また規定の在り方を考えるべきだとわたしは主張します。
わたしはあなたでも植物でも金属でもありませんが物理としては状態の差異であり否定関係ぶつはありません。
つまり物理としては同一ですが否定で規定します。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止の実在は否定しますから、自然の存在形態は運動です。
つまり自然は静止することがありません。
わたしは産まれてから現在に至るまで大きく変化していますし、同一であることは無いということです。
それを同一のわたしと規定します。
宇宙もまた同一である事はありません。
それを同一の宇宙と規定します。 地動説はわたしたちが観測している地球もまた運動しているという自己言及です。
地球もまた諸天体の仲間です。
光速度一定の原理は静止の存在は否定しますから、静止は認識の在り方に結ぶ運動の在り方、つまり静止は運動の一形態です。
進化論は人間もまた諸生物の一部だとする自己言及です。
つまり自然の一部ということです。
光速度一定の原理は運動認識の在り方の自己言及です。
静止で運動を認識するということです。
地動説もまた諸天体同様に運動していると自己言及して、また静止という仮定で認識しているという、認識の在り方の自己言及です。
進化論もまた、人間も諸生物の一部であるという自己言及です。
これらもまた基本として地球は諸天体と否定関係で規定しますし、人間もまた諸生物と否定関係で規定しますが、物理としては差異です。
ウイルスは生物非生物と分類困難ですが、物理としては差異であり否定関係ではありません。
分類困難である対象が出来するのは分類するからであり、なんら対象の問題ではありません。 生死は物理としては存在しません。
何も生まれない、無くならないのですから。
死ということが指摘できないのは物理として死は無いからです。
わたしたちが認識する生まれるとは物理としてではなく状態の遷移です。
死もまた物理状態の遷移です。
これは運動していて同一である事が無い物理を同一と規定するからです。
生物学者の福岡氏は生物は生きつつかつ死につつあると語ります。
それは物理として同一ではないのですが同一で規定するからです。
光速度一定の原理は自然に静止は存在しないと証明して、自然の存在形態は運動である、つまり無矛盾であるということを導きます。
スピノザは規定は否定だとしました。
運動は静止、同一は非同一、非同一は同一で規定します。
静止は自然には存在しませんが静止で規定します。
静止が存在しないことで、つまり規定は対象とは否定関係ですから対象には存在しません。
光速度一定の原理は自然認識の在り方の自己言及です。
以降では規定は否定という視点から自然科学の未解決問題と認識論分野での未解決問題を考察することにします。 >>4
訂正
死がいつからかを指摘できないのは物理として死は無いからです。
独り言スレなんで終わるまで基本として質疑応答はありません。 先年テレビで物理学者が人間は何処からきて何処に行くのかを知りたいと語っていました。
ゴーギャンも我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのかと言ってました。
わたしは人間とはを自然科学を通して知りたいというか解りたいだけです。
ただし認識論も科学も上澄みだけ掬ってという感じです。
ファイアアーベントは専門家の過ちを素人が正すことはよくあることだと書いています。
またある学者は素人の指摘には傾聴に値するものがあることがあると語ります。
わたしのがそうであるとは言いませんが。 自然科学の結論は不吉な予感がします。
いろいろ先例があるからです。
数学は自らの無矛盾性は自身では証明できないと証明しました。
二十代の時に新約聖書学を読んで机の前で呆然としたことを覚えています。
わたしは信者ではないのですが、イエスはキリストではなく、キリスト教の思想と対立する可能性があると結論しているのは衝撃でした。
ブルトマンは学問の結論とわたしの信仰は別だと表明せざるを得ませんでした。
新約聖書学はカトリック信仰の在り方を否定しプロテスタントの信仰の在り方が正しいと示そうと出発したものだそうです。
七十年代には共産主義者である三浦つとむ氏が展開した論文からその弟子筋である滝村隆一氏は共産主義は成立しないと論じ、ソ連崩壊を予測してその通りになりました。
彼はまた1992年にECは遅かれ早かれ崩壊すると語っていますがどうなるでしょうか。
「進化は万能である」という本でも共産主義は不可能だと指摘されています。
滝村氏は人が死から逃れられない限り宗教は不滅だし、また地域利害がある限り国家は不滅だと語っていたと記憶しています。
かなり前に共産主義はキリスト教の楽園思想の変種だとある学者が指摘していたと記憶しています。
最後は自然科学が人間のいろいろな幻想に幕を下ろすような気がします。 >>7
>最後は自然科学が人間のいろいろな幻想に幕を下ろすような気がします。
キリスト教徒も共産主義者もその結論に関係なく存在し続けています。
数学者はさすがに結論を受け入れますが。
共産主義もキリスト教も夢想家が絶えないように不滅なのかもしれません。
自然科学者はその結論に慄くような気がしますが、ブルトマンみたいに学問とは別だとする人も多いかも。 人間は自然の一部です。
認識器官は物理条件で自然の一部ですし、その物理状態に結ぶ像はそれぞれの在り方に拠る像です。
認識器官には存在しますが自然には存在しないのが静止、生死です。
その逆もあります。
空気中に在るもの全てが像を結ぶわけではありません。
認識器官の在り方に結ぶ像≠自然ではないことを知らしめたのが地動説です。
此処から、は認識器官には存在しますが自然には存在しません。
科学は認識論として言えば自然認識ですから自己言及であり、また上にあげたように認識の在り方は理解すべきではないでしょうか。
自己言及は自己を他者として認識することです。
わたしという表現の認識構造は理解されるべきでしょう。 訂正
認識器官の在り方に結ぶ像=自然では無いことを知らしめたのが地動説です。 科学の歴史を概観すると、否定関係と理解していたことが差異だったとすることが出来ます。
地球ー諸天体
人間ー諸生物、金属など
静止は運動の一形態
生死は物理状態の遷移
無は有の一形態、自然の存在形態は運動
けっきょく認識の在り方が相対化されていくわけです
光速度一定の原理は運動は絶対座標、つまり静止で、ということです。
つまり認識の出発点は自然には存在していないのです。
静止、生死、無で規定するがこれらはいずれも自然には存在しないのです。
観測問題は粒子ー波が否定関係だとわたしたちは理解しているからです。
わたしは粒子は波の渦の状態で、差異であり否定関係ではないのではと予想しています。
何故なら科学の歴史は否定関係と理解してきたことが差異だったということに収斂してきたからです。
死が何時かということは指示困難だと科学者は語ります。
物理として死は何処にも在りませんから当然ではないでしょうか。
このことは物理として終始は無いことになります。
死は他の物理状態の遷移、つまり死は同時に誕生です。
生死は人間の認識の在り方がもたらします。
静止、生死、無はそのようなものとして在り自然には存在しないのだとわたしは理解します。
自然科学は自然認識ですから認識の在り方は考察されるべきです。 自然の存在形態は運動です。
自然は運動するエネルギーの濃淡であり、その親和反撥の過程で新たな濃淡が生成していく過程として在るわけです。
運動するエネルギーからなり、粒子、最小単位からは成りません。
~に成るという理解です。
物理条件さえ出来ればいくらでも小さい粒子、つまり渦に成るというこ
光速度一定の原理は此処からの存在を否定します。
つまり此処までも存在しないのです。
此処、今は運動を静止で規定するということです。
0に限りなく近いが0ではない、この規定は有を無で規定するからです。
つまり決定不能の謂いですが、規定は否定だからです。 0次元は大きさが在りません 光速度一定の原理が存在を否定します
1次元は幅が在りません。2次元は厚みが在りません。
3次元は運動しません。
4次元が在ったら静止する3次元が無限に在ることになります。
人間も自然の一部ですから当然静止するわたしも無限に在ります。
四次元は運動を静止で、つまり有を無でということから直接には理解できず量として、ということから必要ということで存在しません。
規定は否定です。
有は無で規定されます。
自然という対象、有は無で規定されます。 あっ、書いてなかったな。
あちこちに書き散らしているんで w
わたしはあなたでも、植物でも金属でもないと規定しますが、物理としては差異です。
物理としての同一を非同一で規定します。
わたしは物理、つまり運動していますから同一であることはありません。
生れてから今に至るまで、というかこの今も同一であることは在りません。
非同一を同一で規定します。
宇宙は同一で在ることはありませんが同一の宇宙と規定します。
わたし以外、つまり他は非同一ということですが、他という否定関係は物理としては存在しません。
わたしは自己自身に対しては非同一を同一で規定します。
他に対して、自己に対していずれも否定で規定します。
アガサ・クリスティーはミス・マープルという小説の主人公に「変われば変わるほどますます変わらない。変わらなければ変わらないほどますます変わる。両方とも真理だ。」と語らせます。
宇宙は運動変化しますが、運動変化することは変わりません。
運藤変化することは変わらないのですが宇宙は変わります。 ビッグバン仮説
この仮説は宇宙背景放射で裏付けられたと言われています。
これに対して、ある天文学者は違う理解が可能だとした論文を書き、スムート博士は否定できないとコメントしました。
天動説を典型に科学者は観測発見した対象を必ずしも正しく理解するわけではありません。
酸素を発見した科学者は酸素がフロギストン仮説を否定するものだとは生涯気がつきませんでした。
十九世紀にアメリカの天文学者は火星に〈運河〉を発見しましたが、それと同じ間違いの可能性があると記事は締めくくります。
この仮説は前提として対象に宇宙非宇宙という否定関係を想定します。
対象に否定関係が存在したら理解は不可能です。
生物、非生物は物理としては差異であり否定関係ではありません。
否定関係は分類するからで、対象、つまり自然には否定関係は存在しません。
またエネルギー保存則、つまり物理として何も生れない無くならないことを否定します。
生死もまた否定関係ですが、これも物理状態を規定するからです。
光速度一定の原理は始まりを否定しますがこの仮説はこれも否定します。
始まりがあるというのなら、それは宇宙の前の状態の終わりです。
始まりはまた終わりです。
宇宙に始まりが無いということは終わりも無いということです。
終始は人間が規定するのであり、対象である自然には存在しません。
わたしという物理状態は運動していて同一である事はありません。
物理としては何もなくなりませんし何も生まれません。
それは規定するからです。 ある物理状態に生成、遷移することが誕生であり、有る物理状態に遷移することが死ですが、物理として生滅することはありません。
(脳は睡眠で活動が沈滞しますし、炎天下という環境でその能力はかなり低下して、破壊されたら意識は無くなります。意識はある物理状態に附随するのであり、その物理状態に左右されますから破壊されたらなくなります。)
ビッグバン仮説はこれらを否定した仮説です。
いわゆる宇宙の大構造にかかる時間はビッグバン仮説が想定する時間の数倍は必要で、この問題は未解決です。
無限宇宙はオルバースのパラドックスという未解決問題があります。
ガリレオは地球がまるいならば裏側の人たちは地球にどうしがみついているのだと反論されますと、それは後世の人が解決すると言いました。
ビッグバン仮説もまたこのように主張できます。
わたしは自然科学の前提、原理原則を守る無限宇宙論に与します。 物理としては生滅は無い
規定は否定で、同一であることはない対象を同一で規定する
であって、ではないをであると規定する
であるは静止で運動を規定するということ
だから生滅という認識になる
物理状態は遷移、つまり生滅するが物理自体は生滅しない
問題があるのは対象の自然では無く規定すること自体に在るとわたしは理解する 自然科学は否定関係だと理解していた対象が差異であることを発見していくことだと思えてきました。
自然科学は自然認識です。
自然認識の在り方を考察すべきだとわたしは主張します。
認識して規定する、このことがどういうことかを光速度一定の原理は示しています。
有を無で、否定で規定して、その否定は当然対象には存在しないわけです。
なにしろ対象の否定ですから。
規定することが否定されて自然が無矛盾であることが示されます。 纏めるのは苦手です
今まで考えてきたことをぶちまけるだけです。
自然は運動するエネルギーの濃淡であり、その親和反撥であらたな濃淡が生成する過程です。
認識器官の在り方から濃淡の海は多として像を結ぶ。
多を否定で規定しますが、科学はそれは差異であることを示していく。 次はゼノン、カント、ヘーゲルを取り上げます。
これも規定が否定ということが本質になります。
わたしという表現、自己言及の認識論としての解明は三浦つとむ氏がやっています。
「弁証法はどういう科学か」とか「日本語はどういう言語か」、図書館で詠めると思います。
ちなみに、矛盾の説明には違和感を感じました。
氏は真理は単純であるとどこかで書いています。
板倉氏も優れた業績があり、江戸時代の農民は米をけっこう食べていたことを証明し歴史学に足跡を遺しています。
むろん本職は他分野に影響を与えています。
いま考えると矛盾は決定不能の謂いです。
次は認識の本質を考えていくことにします。 >>17
物理状態は遷移、つまり生滅するが物理自体は生滅しない
生滅すること自体は生滅しませんね
運動変化の謂いですから わたしは科学は対象を否定関係と規定するが差異でしたということを示しつづけてきたと理解している
見たものがそのままの自然ではないのだと
認識器官に結ぶ像はその認識器官の在り方による
どれが正しいということはない
物理状態の差異によりその像が違うというだけ
科学者は哲学を軽視するがその実最悪の哲学に囚われているという指摘は今も生きている
だから物理として死を指摘できるとまだ思っていたりする
保存則があるのに
不完全性定理の定理、不確定性原理の原理が何を示すのか
不完全ということが完全に示されての定理
不確定であることが確定しているから原理
理数系はいろいろ前提に還るべきだと提案します 自然は無矛盾
自己言及 決定不能
規定は否定
認識の在り方
これだけかな
極めて単純 極めて豊穣
纏めるのがなあ
ただ、これでわたしの懸案は全て解決出来るんで 認識は人間が、ということですね
自分自身を相対化するということの理解
わたしーあなたー地域ー地球ー太陽ー宇宙
人間というか基準は必要だが基準は相対化される
自然という絶対を相対で認識する
決定不能か
認識において相対が絶対 とりあえず書いていることを投稿します
意識問題も一条の光が見えてきたような気がしますが 人間の認識器官の態様に従い自然は像を結ぶ
色盲といってもそれはその認識器官の態様に従った自然の像という意味でなんら異常ではない
様々な生物の様々な認識器官の在り方、差異に従った像というだけ
それがイコールの自然では無いということ
もしイコールならば生物の数だけ自然が在ることになる
不確定性原理は近似値が必然ということ
運動を静止、有を無で規定するから
イコールということは認識の在り方からは有りえない
光速度一定の原理は静止を否定するから、量子力学の自然観である運動するエネルギーの濃淡を導く
此処から此処までが存在しないが、認識器官は真空、つまりエネルギーの一形態の像を結ばない
エネルギーの濃淡はあるが海であり多ではなく一として自然は在る
認識器官には多として像を結ぶがそれはイコールの自然ではない
静止、生死、無などは認識器官の在り方に結ぶ自然の像
多で、静止で、無で認識するがそのままの自然では無い
此処、今と運動をその否定で規定する
有を無で、運動を静止で規定する
座標原点、此処からで規定するがそれは認識の在り方だから
形は此処から此処までということ
それは認識の在り方からで必然だがそれは自然そのままではない
形で認識するが形は自然には存在しないということ
座標原点は存在しないのだから
カントの二律背反が意味するところです
観たものがそのままの自然ではない
平面も球体も自然に存在するわけではない 地動説の本質は見たものがそのままの自然ではないということ
自然科学は自然認識だから認識の在り方もまた考察すべきだとわたしは主張する とにかく書いてきたことを投稿します
重複だらけですがとりあえず
認識を相対化していくのが自然科学です
最初に地動説が登場します。
大地は平面で諸天体は運動しているように見えます。
地動説は地球が諸天体同様に球体で太陽系の諸惑星は太陽を中心に動いていることを示します。
その後の展開で宇宙の何処にも静止、つまり絶対座標が無いことが光速度一定の原理で示されます。
自然の存在形態は運動で無矛盾であることがこの原理で示されます。
運動が普遍で、前提にしますから否定、対立関係はありえません。
進化論では人間もまた諸生物の仲間で生物として特別ではないことが示されます。
人間は植物、金属とは物理状態の差異であることも示されます。
量子力学の自然観は運動するエネルギーの濃淡ですが、光速度一定の原理は自然の存在形態が運動であることを示します。
運動を前提に否定関係は導けませんからこの原理は量子力学の自然観を裏付けます。
いわゆる真空はエネルギーの基底状態とするデイラックの海であり無ではありません。
この原理は自然は濃淡はあるが海であることを示し、座標原点は存在しないのですから、此処から此処までは存在しないこととなります。
観測問題はこの理解からは波が渦の状態が粒子ということになります。
科学は人間が否定関係で規定しているものが差異であることを示してきた歴史です。
静止は運動の一形態、生死は物理状態の遷移であり否定関係ではありませんし、無は有の一形態であり自然は無矛盾で否定関係は存在しないのだと示したわけです。 自己言及という観点から理解したい
自然の一部である人間の認識、規定などの在り方を認識、相対化する
自己言及の在り方の認識、論理の在り方
規定は否定という本質の理解
いろんな分野の学問の結論は学者を呆然とさせてきましたが
科学も突き詰めるでしょう
良い予感はしないのですが、科学者の方々、学問の宿命だと諦めてください 自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反撥して新たな濃淡を生成する過程として在るとわたしは理解しています
此処から此処までは自然が生成した認識器官に生成された像です
淡は真空であり像を結ばず一ではあるが濃淡である自然は認識器官に多として像を結ぶ
運動するエネルギーの濃淡の渦の状態が粒子として像を結ぶ
此処から此処までが無いということは粒子も有限も存在しないということ
物理として何も生まれないし無くならない、宇宙もまた同じ
一である自然を多で規定する、つまり否定で規定する
次元で理解するが次元は存在しない
重力というか諸力も存在しない
重力は運動関係変更に必要なエネルギーであり他の力はある物理状態に生成するエネルギー量となる
自然は一であり無矛盾
濃淡を否定で規定する
ゼノン、カント、ヘーゲル、観測問題、不確定性原理、不完全性定理などはこの観点から解決可能だとわたしは思っている
自然科学は自然認識であり、自己言及だというのがわたしの理解です
対象である自然は無矛盾、可知であるが故に不可知です
有は無で規定されます 科学革命が展開するのを目撃したいのですが
なんか無理そうなんで
わたしのは一試案です
無矛盾だから自己言及、それで決定不能ということに
科学革命は自己言及ではないかと
差異を否定で規定してきた
というか規定は否定
地動説は自己言及
進化論も
光速度一定の原理は静止で運動を規定するが静止は存在しないという、自然とその規定の在り方の自己言及
わたしには科学革命の準備はすでに為されているように映ります
科学者は自然科学は自然認識であり、やはり認識の在り方は多少でも考察すべきではないかと提言する次第です 自然が運動変化の展開で人間という物理状態を生成して、認識器官が結ぶ像を手掛かりに自然を認識する。
その像は認識器官の態様に従い結ぶ像であり、そのままの自然ではない。
認識器官の像には静止、生死、無が存在するがそれらは存在しない。
認識器官には存在しないが自然には存在する。
また自身が自然だから、自然認識は自己言及の性格を持つ。
自己言及は自己を他者として認識すること。
自然科学は自然認識だからこのような認識の在り方も考察すべきかと。
自然科学は自然認識の在り方の相対化の歴史でもあるのだとわたしは理解している。
光速度一定の原理は絶対座標、座標原点、静止で運動を規定するがその存在を否定して自然が無矛盾であることを示す。
規定自身を否定することで無矛盾であることを示す。
ウイルス分類が困難なのは分類するから。
規定は否定なのだということ
静止、生死、無など
無は存在したら無にならない
静止、運動の否定は無の存在の否定でもある
運動を前提にしたら無は存在しない 自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反撥して新たな濃淡を生成する過程として在る
規定は否定であり、決定不能と決定する
だから不確定と確定する
認識の本質です
これだけです
新約聖書学、共産主義、数学
これらの結論にまた自然科学が加わる
希望を託して邁進した者が痛々しく映ります
ブルトマン、滝村隆一、ゲーデル
彼らの思いはと思います
幻想の中で生きている方が幸せなんでしょう
わたしの母は宗教は嫌いだが心というか思いは在るのだと信じていました
両親は苦闘した一生ですが尊敬できます
親ガチャは良かったようです
萩尾望都の「アメリカン・パイ」の唯物論的な主人公は病で亡くなった少女の思いは何処に行くのだと嘆きます
「海に・・・」でしたか、愛する男性に出逢い、自殺して過去に戻りその時々を見守るというのがあります。
怪異譚でもありますが、思いという意味では昇華しているのかなとも
人類もまた違う何かに生成していく、つまり滅亡します
ただそれだけです
だからこそ、なんでしょう 物理や数学に対して興味ない
何故なら、神が決めた法則だから
人生が一抹劇だとしたら、やることがないのでね
なので、乱数の人文系のが面白い
生理も同じで、余地は大してないのだが
その余地を味わうのが不完全の人間の楽しみ 自然とは何かを通して人間を理解したいだけです。
生きるとは、も考えたい。
・・・まあヤバい結論になりそうですが。 地球はたしかに丸いし、それでいろいろ説明がつく。
生物だと規定してそれで理解はできるがそれは非生物とは差異であり否定関係ではない。
物理の一状態であり生物非生物という理解の正当性は相対化される。
それは認識の中の正当性ではないのか。
地球は丸いというのはそれはそのまま自然だという理解には疑問がある。
わたしたちもまた自然の運動変化の過程の産物です。
認識器官というか自身にも物理の在り方の理解を適用すべきではないでしょうか。
認識器官に結ぶ像はその認識器官の態様に従い結びます。
この態様だとこのような像を結ぶ。
つまり認識器官は物理条件です。
食材はその料理法で態様を変えます。
どれが正しいということではありません。
認識器官には無いものが像を結び、在るものが像を結ばない。
コペルニクスは大地は静止して見えるが運動しているとしなければならないことに気が付いた。
デイラックは真空が無ではないのだと。
認識器官には自然に存在しないものがあり、存在するものが無い。
科学は自然認識だから認識とはという問題意識が必要ではないかと
認識そのものを相対化してきたのが科学の歴史なのだと。
人間も植物も金属も真空も宇宙もすべてが差異であり否定関係は存在しない。
静止、生死、無は存在しない。
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反撥して新たな濃淡を生成する過程として在る。
粒子は波の渦の状態であり条件が生成可能なら素粒子でも紐でも超紐にも成るだけ。
最小単位など無いのだとゼノンは語り、パルメニデスは自然は多ではないと主張する。
光速度一定の原理はその自然理解を裏付けている。 認識って基準設定が必要なんだよな
あくまでもその中での正当性
けっきょくそれは相対化される
光速度一定の原理は絶対座標の存在を否定する
でも運動は無いもので規定する
つまり認識自身が相対化される
生物非生物と分類するからウイルスという分類困難な対象が出来する
いろいろな問題は規定するからでありなんら自然の問題ではない
不確定、不完全てのは対象の問題ではなく規定するから 纏めるのは難しいですね
本質自体はとても単純なんですが
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反撥して新たな濃淡を生成していく過程として在ります
意識という自己言及可能な物理状態が生成される
それだけです
自己言及とは自己を他者、つまり否定で規定するということです
いわゆる矛盾、決定不能です 長い間お世話になった「はんおかるとぶんしつ」のけんけんさんにお礼を言っていないんですよね
本当にお世話になりました
心より御礼申し上げます
他にもたくさんいらっしゃいました
わたしを引き戻したオカルト野郎さんとか
こばぴーさんには失礼言ったなあ
いや、彼の青春に嫉妬したんですよね w
まったく相手にしてくれず裏でいろいろ言ってた方もいました
でも生死は物理としては存在しないですよ、岩清水さん
自然科学は自然認識ですから認識の在り方は考察する必要があります
晴明さん、規定は否定ということがあの時点では突き詰めて考えられていませんでした
また認識器官が物理条件で様々な態様の像を結ぶということにも
地動説が示す見たものがそのままの自然ではないということが本質にまで徹底しなかった
いずれにしてももう少しではないかと
四半世紀前はまだまだ徹底していなかった
・・・まあ今でもそうなんですが 小林明さん、娘さんたちはいかがですか
退職されてけんけんさんに会いに行かれた方、どうしていますか
いやはや多士済々でしたが
時間非在論、未だに納得されていない方も居るでしょうね ・・・うまく纏めたいんですが
いや単純そのものなんですが
だから複雑なんですが ペッパー少将さんでしたね、思いだしました
どうしているかなあ
わたしと同じ破滅型の匂いがしました
いや、なんかお迎えが近いかも
走馬灯のように w
母はあとニ、三年と言いましたがそれから十八年生きました
それは生きる理由ができたからでしょう
個人的には、自分なりの自然観、論理、人間理解ができたんで満足しています
極めて単純、極めて豊穣、この言葉のまんまです
あとは意識問題がイマイチ納得していないんです
朧気ながら形は出来つつあるんですが
いずれにしてもわたしの能力からすれば出来過ぎであり満足至極です 小学校の時の同級生が二十代半ばで交通事故で亡くなっていたことを最近しりました
中学校の時に受験で不安になっていた時競争率が20数倍だったかな、友人が受かって悪い冗談を言ってしまいました
いろいろバカばかりでした
小板橋君、市川君、許してはくれないかも知れませんが自分の無神経さ、馬鹿さ加減に呆れています
個人的には普通の家庭に生まれたかったなあ
・・・まあこんな問題に囚われましたから、普通の生き方は困難だったでしょう
出来ることは限られますよね
やりたいことが出来たんで満足はしています
さて、うまく纏めて、人生も纏めることができるかな
マジ迷惑掛けっぱなしだったかな
でも致命的にわたしは迷惑を掛けられたんです
それがいたってわたしのやりたいことができることとなったんですが
人生は皮肉です
わたしを関心をもってくれた何人かの女性には深謝します
本当に申し訳ありませんでした
さて、残った人生でまとめますか 専門家の過ちを素人が正すことは良くあることではないか ファイアアーベント
真理は単純である 三浦つとむ
わたしがそうであるとは言いませんが 笑 人間は何,処から来て、何処に行くのか
なんか嫌な予感しかしません
ってそれは人間の勝手な思いなんでしょう
自然は理由も無くただ在るだけなのだと
わたしたちもまた
バッハの思い出を読むと、ああ、こういう幻想のなかで生きたかったとも思います
「進化は万能である」読むと、中世辺りの野蛮さはけっこうヤバい
修道院の女性たちが歌う聖歌は清らかで美しい
上澄み液なんでしょうね
共産主義は成立はしないということは繰り返し社会が示す
そしてこの幻想もまた社会への在り方の不合理性の産物なんでしょうか
ということは宗教とともに共産主義幻想もまた不滅ということかもしれません わたしの自然観は単純なんですよね
無矛盾というだけなんです
ただそれだけです
否定関係は一切存在しません 物理として生滅はありません
自然科学は自然認識であり自己言及です
有を無で規定します
規定は否定ということです 四次元は一である自然を多で規定するから必要なんですね
基本を忘れるんですよねえ・・・
反省しきりです 光速度一定の原理で全てを導けますね
自然、認識の在り方・・・ 光速度一定の原理で全てを導けますね
自然、認識の在り方・・・ 構成に苦労しています
科学と認識
認識もまた相対化しなければならない
観たものがそのままの自然なら科学は要らない
これは本質なんですね
諸生物の諸感覚器官に結ぶ像は物理条件に生成されて差異がある
自然に無いものが認識器官に像を結ぶ
在るものが像を結ばない
認識の在り方は考えられなければならないということかと 光速度一定の原理が基礎ですね
直接間接、すべて導けます
ただすっきりとは展開できない
悩んでいます パルメニデスに還るべきですね
一をその否定の多で規定するということです
飛ぶ矢の逆説は大きさの無い点が実在したら運動は不可能だと理解します
岩波文庫でのパルメニデス哲学の解説が合点がいかない
それはともかく自然は一です
それを多で規定するから次元が必要なのです
無限は有限で規定され、その有限は無限で規定されます ワインバークは宇宙の始まりまであと僅かにまで迫っていると1990年代のムック本だったかにありました
物理として生死は存在しません
宇宙もまた
宇宙に終始はありません
無限は有限で規定しますから
静止で運動を規定します
終始は存在しません
このことはいろいろ参考になるかと 理数系はすこしでも認識論を考察すべきです
科学は認識の相対化の歴史でもあります パルメニデス的に言えば四次元もまた一を多で、ということです 結論だけ書いておきます
自然は運動するエネルギーの濃淡で、その親和反撥の過程として総てがあります
わたしたちもまたそのような存在です
自然は無限であり〈一〉です
力も最小単位もありません
次元も在りません
認識器官は物理状態であり、その在り方に自然は像を結びます
ですからその在り方を理解する必要があります
光速度一定の原理は静止で運動を規定し、静止は存在しないことを示します
規定は否定です
有は無で規定されます
決定不能の所以です
不確定性原理の所以です
0に限りなく近いが0ではないという定義の所以です
一は多でということです
規定は存在しないことをもって無矛盾だと示される
規定することが様々なアポリアとなるわけです
自然に理論はありません
自然はただ在るだけです
人間も地球も、目の前のものと変わりはありません
運藤変化の過程で生成され、運動変化の過程で違うぶつり状態に生成されていくだけです
宇宙は運動変化の過程として在るだけです
無限は有限で規定されますが、有限は認識器官に現象する像です
極めて単純、極めて豊穣、ということです 生きることは一期一会ということでしょうか
それを空しいとするか、だから良いものにしようとするのかはその人の考え次第ということかも知れません
人間は何処から来て何処に行くのか
此処に居て此処に、ということでしょう
人間喜劇、あるいは悲劇
わたしはというと、ますむらひろしの漫画に〈傍観者〉というのが出てきますが、そんな感じでしょうか
いえ、いろいろな条件が重なり主人公にはたりえませんでしたが
それでも自分なりの自然観、学問観、人間観を獲得できて満足です
わたしにはそれしか出来なかったんですが、また出来たことに驚いています
或る意味不幸を呪いますが、或る意味そうでないとここまでできなかったのですから わたし自身は学問としてのマルクスは基本的に正しいのではないかと考えています
しかし思想としては結論は出ていると理解しています
「コンドルは飛んでいく」という歌の中で人は大地に縛られるとあります
「イマジン」はその束縛から逃れたいという願望でしょうか
残念ながら楽園は実現しないでしょう
マルクスは進化論が意味することを当時の学の状況では仕方ないことですが、本質としては理解しなかったということでしょう
何故この物理条件にこの物理はこうなるのかは究極としては解らない
マドレーの学問は基本としてボトムアップでトップダウンではないのだという指摘は大切です
計画経済は本質として成立しないということです 地動説で一番重要なことは観たものがそのままの自然ではないということではないかと
周りが膨張していることは宇宙も膨張しているという理解は天動説的ではないかと
静止、生死、無は認識には在りますが、自然には在りません 十九世紀の思想家が、静止は運動の一形態だと指摘している
これはわたしには衝撃だった
いろいろ考えてきたが、認識器官に結ぶ多としての自然は一なのだということと結論した
つまり一としては在るが濃淡である自然は認識器官の在り方から多として像を結ぶということ
地動説の語るかなり重要なことは見たものがそのままの自然では無いということではないか
わたしには自然科学の本質は認識の相対化に映る 一は多となり、多は一となり、は古代中国だったかな
ググったが出てこなかった
やはり古代ギリシャかな
それはともかくこの言葉はいろいろ面白く、検討に値するかと 現代科学の在り方は絶対ですか?
完成形ですか?
観測対象の理解は未来永劫変わらないですか?
現代科学の在り方もまた相対化される可能性はありませんか?
天動説を主張する天文学者の観測結果は地動説で読み替えられました
日本の学徒たちに現代は科学革命を切り拓くこれ以上無いチャンスなのではと思えます
いや、科学革命を日本人にやって欲しいのです
宗教、数学はドイツ人がケリをつけました
共産主義は日本人がケリをつき、そして次は科学を日本人がケリをと願うものです 半世紀以上に及ぶ格闘は自身の寿命で終わりを告げそうです
満足しなきゃいけませんが、やはり若干不満は残ります
でも出来過ぎとも言えますからやはり満足しなきゃいけませんね
ゼノンから出発して数学、物理は???となりました w
現代の学問の在り方を相対化できていればペンディングして、取り合えずという形で学べたのかな
いろいろ問題が浮き彫りになりますが
因みに母は後二、三年かなと語りましたが、生きる糧が生じ結局十八年後に亡くなりました
わたしは多分・・・ 半世紀以上に及ぶ格闘は自身の寿命で終わりを告げそうです
満足しなきゃいけませんが、やはり若干不満は残ります
でも出来過ぎとも言えますからやはり満足しなきゃいけませんね
ゼノンから出発して数学、物理は???となりました w
現代の学問の在り方を相対化できていればペンディングして、取り合えずという形で学べたのかな
いろいろ問題が浮き彫りになりますが
因みに母は後二、三年かなと語りましたが、生きる糧が生じ結局十八年後に亡くなりました
わたしは多分・・・ うまく纏められないなあ
でも科学革命があることは疑っていません 座標原点という基準を設定して規定します
個別理論は終始の相対性を理解しなければなりません
始まりは無いのです、終わりはないのです
座標原点は無い、規定自身を否定して無矛盾ということに
生物非生物という分類も相対化されます
認識を理解することは必須だと ビッグバン仮説は観たものがそのままの自然という天動説だろう
静止、生死、無があるというのは科学の否定
認識に必要だが自然には存在しない
自己言及は自己を他、つまり否定で規定するということ
科学は自己言及であり対象である自然にその否定は存在しない
対象の否定が対象に存在したら否定ではなくなるし
自然を非自然で規定する
認識器官に結ぶ像は一をその在り方から多として結ぶということ
此処からが存在しないということは此処までも存在しない
終始は存在しないが終始で規定する
つまり一を多で規定する
自然科学は自然認識
認識の在り方を絞殺する必要がある 自然は一であり、それを多で、つまり否定で規定する
次元は多で一を規定するということ
現在しか無い
運動を静止で規定する
有を無で
0に限りなく近いが0ではないというのはそういうこと
現に在る運動は静止、無で規定される
だから四次元という多で規定する
一を多で規定する
否定は規定
運動は直接理解できないので多、運動量にしなければならない
時間は一である自然を多で規定するからであり、自然には存在しない ヘーゲルは何処かで、今、此処と指示すると、今、此処は飛び去ると書いている
太宰治も「女生徒」で、今、此処は面白いと主人公に言わせている
ヘーゲルの影響下にあったのかもしれない
または偶々?
いずれにしても対象と認識の関係を如実に表していて面白い指摘だと思う
今、此処とは座標原点
板倉氏は「新哲学入門」では論理は静的だと指摘している
というか運動を静止で規定しているということ
スピノザは規定は否定とした
多分エッカーマンだと思うが、君はスピノザしか読まないのかとゲーテに言っている
いろいろ読んでなるほどスピノザは読むに値するのかもと思い始めている
チラッと読んだだけだが w 武谷三男氏は「嘘をついてはいけないか」とかいうエッセイで嘘をついてはいけないと教育すると他人は嘘をつかないと思う様になると書いている
ここから板倉氏は仮説実験授業を展開する
わたしも嘘をついてはいけないという教育の毒を浴びた一人
教科書には真理しか書いていないと思い込んだ
歴史を振り返れば、そんなことはないことは一目瞭然
科学者というか学者はそんなことを金科玉条にしたら知は停滞するわけで
地動説がそうであったように、科学は分岐点に差し掛かっているのだと思う
因みに金科玉条は略したらいかんと先輩に言われてぽかんとした思い出 わたしはあなたではないし、植物でも金属でも無いと否定で規定する
物理としては差異
ウイルス分類の困難性は物理としての差異を否定で規定するから
わたしは産まれてから現在に至るまで大きく変化しているが同一のわたしで規定している
というか同一であることは無いわけで
それは全てそう
宇宙は同一であることは無いが同一の宇宙と規定する
ミス・マープルは変われば変わるほどますます変わる
変われば変わるほどますます変わらない
両方とも真実だと語る
認識の性格を言い当てているかと
いずれにしても、認識器官に結ぶ像から出発しているわけです 訂正
ミス・マープルは変われば変わるほどますます変わる
→ミス・マープルは変われば変わるほどますます変わらない なんどでも言いたい
自然科学は自然認識
その歴史の一面は認識の在り方の相対化
無矛盾であることは規定は自然に存在しないことで証明される わたしは現代科学の理解は天動説的だと考えている
地動説の顰に倣い古代ギリシャのパルメニデスの自然観から考えなおしたい
前にも書いたが、岩波文庫のパルメニデス理解の紹介は飛ぶ矢の逆説と折り合いがつくのかなとは思うんだが、専門家ではないので
いずれにしても理系の学徒たちに、野心が有れば認識論を齧ることをお薦めします
最小単位、粒子から成るのではない、粒子に成るのだとわたしは理解します
粒子は認識器官の在り方に結ぶ波の渦の状態の像です 現代科学の理解をそのまま信じられないということ
対象は無矛盾
エネルギー保存則
光速度一定の原理が示す絶対座標の否定
つまり運動は自然の存在形態、終始の否定、つまり無限ということ
粒子の否定、静止で運動、否定で規定ということ
不確定性原理
この原理は自然と規定の自己言及
否定で規定→決定不能、クレタ人の逆説、矛盾
不完全性定理
規定を否定することで無矛盾は証明される
規定自身が矛盾で、その規定が存在しないことで無矛盾ということ
極めて単純、極めて豊穣 〈一〉である自然を〈多〉でということ
対象は〈一〉
それは以下の理由で〈多〉として像を結ぶ
濃淡の差異である物理状態に結ぶ像
認識器官そのものの特性、そして諸生物の認識器官の差異 新たに書き直しています
わたしの主張の概要です
地動説は見たものがそのままの自然ではないことを明らかにします
静止、生死、無は認識器官には存在しますが自然には物理として存在しません
目の前の自然は自身も含めて認識器官の在り方に結ぶ像です
認識器官に結ぶ像がそのままの自然ならば、諸生物の認識器官の数だけ自然が存在することになります
いわば自然という食材が様々な料理法により形を変えるようなものです
この物理条件、つまり認識器官には、この自然の状態はこのような像を結ぶということであり、どれが正しいということではないのです
ですからそれぞれの認識器官に結ぶ像を手掛かりに自然を理解していくのが自然科学ということになります
認識器官に結ぶ像は差異がありますが、対象である自然は同一です
認識器官に結ぶ像を相対化してきたのが自然科学だとわたしは理解します 自然科学は否定として規定してきたことが差異であることを示し続けてきました
地球と諸天体、人間と諸生物、金属などは物理状態の差異です
ウイルスは生物非生物と分類困難ですが、生物非生物は物理としては差異であり否定関係ではありません
規定とは否定です
わたしはあなたでも植物でも金属でも無いと規定しますが、物理としては差異であり否定関係ではありません
わたしと規定しますが、生まれてから現在に至るまで、いやこの今も運動変化して同一であることはありませんが、同一のわたしを規定します
運動は座標原点、つまり静止で規定します
生死は物理状態の遷移であり物理としては否定関係ではありません
座標原点を設定、つまり始まりを設定しますが始まりは存在しません
始まりと終わりは物理としてはありませんが終始で規定します
否定は規定です 地動説は自己の立場の自己言及
光速度一定の原理は認識そのものの在り方の自己言及
対他ー対自という感じかな
まだ深まるかなと ウイルスは生物非生物と分類困難
物理としては差異であり否定関係では無い
宇宙非宇宙?
ワインバークは三十年ほど前に宇宙の始まりまであと僅かに迫っていると語ったが、今でもそのグループは達成していない
科学者は死がいつからと指示特定するのは困難だと語る
ブリゴジン学派の若き研究者の時間理解が面白いが、紹介したホーガンはやれやれと呆れていて否定的だった
宇宙非宇宙という規定はウイルス分類を思いだす
さて、此処からは存在するのだろうか?
そして此処までは?
認識とはを科学者は問うべき段階だとわたしは主張する
ビッグバン仮説は認識=自然という素朴認識論の系譜の一つではないかと 科学の基本から見直したいということ
目の前の自然は認識器官の在り方に結ぶ像でありそのままの自然では無いというのがわたしの理解
見たものがそのままの自然ではないことを科学は地動説を端緒に繰り返し示してきた
地動説は立場の相対化
光速度一定の原理、量子力学、観測問題、不確定性原理は認識の在り方の基本を示す
ビッグバン仮説は認識の在り方を示し続けた科学の歴史の否定 ビッグバン仮説は確実な証拠は皆無
わたしは自然は無矛盾で理解可能だと主張する
ビッグバン仮説 科学
前提 宇宙非宇宙 光速度 絶対座標無し 無矛盾
生滅 有 無
終始 有 光速度で終始否定
粒子 有 終始無し→無
次元 有 光速度→ 無
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発して新たな物理状態を生成していく過程という理解
進化論はこの自然観が裏付ける
物理としては何も生まれない無くならない
宇宙は誕生しないし無くならない
ただ在るだけ 自然科学は対象が無矛盾であることをすでに証明しているというのが私の理解
静止、生死、無、終始は自然には実在しない
静止、生死、無、終始・・・すべて同じなんだけど w 三十万+三十万=三十万
三十万−三十万=三十万
絶対座標の実在は否定される
これで自然は無矛盾、つまり自然科学は成立することが証明される
理論は仮構の下で展開されるということ
これらが何を意味するかを科学者は考察すべきだろう
出発点、終始、無は実在しない
論理もまた
規定は否定、つまり対象には実在しない
地動説はそれを示した端緒
分類は人間の側であり自然には存在しない
ウイルスは生物非生物と分類困難
自然には関係がない
生死、終始は何処からと特定できない
自然には実在しないから
論理は自然の在り方からの抽象ではあるが論理は自然には存在しない
光速度一定の原理が語ることは極めて豊穣です ブルトマンはわたしの信仰と学問は関係が無いとした
三浦つとむは共産主義を否定する基となった自分の論文から導いた
滝村隆一の結果を受け入れられなかった
ヒルベルトはゲーデルの結果をとにもかくにも受け入れた
結論を出したブルトマン、導いた三浦つとむ
思想と信仰と何処が変わりがないのかと
田川健三は神無きキリスト教徒と名乗った
物理学の結論は西洋の学者辺りは受け入れるかなと
イギリスの学者たちとかは読んでいると可能性がある気がする
・・・宗教関係、一神教は峻拒するだろうなあ
ルターの地動説への憎悪、キリスト教徒の進化論への嫌悪
イスラム教徒の日本、アメリカ、いや世界での行状
アメリカで著者を刺し、日本では翻訳者を殺害
第二のコペルニクスもまた死後に発表することをお薦めする 建三でした
校正がいい加減だからなあ
全集で欲しい人かな
滝村さんもかな
板倉さんは多いから選集で
三浦さんは選集がでていますが重要論文が無くて
ただ思想関係は微妙
言語学の冒頭はヘーゲルの理解が展開され、ああこりゃ俺には無理だと諦めさせてくれました
励みになったのは真理はとても単純だという指摘でした
素人にも卓見があり、学者は耳を傾けるべきものもあるからと注意を促していました
ファイアアーベントも似たことを述べていました
で、いろいろ考えてきたわけです
吉本さんのは最初のはともかく親鸞論辺りからついていけなくなり、反核異論あたりでは違和感ありまくりで
その後の全集は図書館で当たることもある程度です
いや時代の流れはいろいろ淘汰します
板倉さんは石の中にも宝石が有る著書もあると書いていました
ある人の指摘で啓蒙され原著を読んで・・・
いたって指摘した人の慧眼に感服したと書いたのは板倉さんだったかな
個人的にはいろいろ啓蒙してくれた学者さんでした
「新哲学入門」では論理の性格の指摘が参考になりました
スピノザの規定は否定の理解に繋がり有り難かった
大学者ではありますが、三浦さん同様相対化される、いや学者はたいていそうですね w 人の世は夢 ですか
なんか身に沁みます
歳なんですね 人の世は夢 ですか
なんか身に沁みます
歳なんですね 宇宙の始まりとしてのビッグバンはないですよ
誰だったかな、宇宙の片隅で起きたのがビッグバンかもと書いた人がいました
ボスロウだったかな
これじゃないかと
宇宙は無限です 共同幻想論は吉本氏の難解な書物でした
これに文化人類学の山口氏が噛みつきました
新約聖書学の田川さんがやはり理解出来なくて後年あることを前提としていると気が付き否定的な評を展開していました
読解力がある学者がわからなかったんだからと当時納得したものです
数学である概念が理解できず数学者も解決していないということを匂わせていました
それで物理学を読んでいたら重力が理解出来ず理系をドロップアウト
考えてみるとそこから右往左往したんですね
けっきょく、究極的には前提として受け容れるのが学問なのだと
有を無で規定するからということに気がついたのは少し前の事だったりします w いろいろ科学の結論と認識とはズレがある
何も生まれない無くならない→生死という認識
運動は普遍→静止という認識
終始、無は存在しないが終始、無という認識
不確定性原理は有を無でということから
三十万+三十万
三十万−三十万
答は同じ
これで対象が無矛盾となる
これが何を語るのか
認識の相対化の終点かと そして現代科学の事象理解も相対化されていくわけです
天動説の理解が相対化されたように
見た限りでは天動説は真実
それが太陽中心で規定し直される
最終的には規定そのものが相対化される 物理として終始は無い
ワインバークグループは未だ宇宙の始まりに到達できず、科学者は死の時点を特定できない
何故か
それは物理として終始が無いから
エネルギー保存則、絶対座標が存在しないことが何を意味するのかを現代科学は理解していない
物理として生滅は無い、終始は無いということを現代科学が理解するのはいつなんだろう 速度は相対値です
光速度一定の原理が示すことです
30+30=30
30−30=30
絶対座標の否定→自然が無矛盾であると証明される
静止が実在しないということは自然の存在形態が運動ということを導く
絶対座標、つまり始まりは実在しない、つまりビッグバンもまた 論理が相対化され、対象である自然が無矛盾、つまり理解可能だと示される
理解の相対化を絶対にしたのが光速度一定の原理なのかなと思い始めています 対象に宇宙非宇宙は実在しない
宇宙非宇宙で規定する
有を無で、の言い換えです カントは偉大でしたがヘーゲルに相対化されました
それをマルクスが相対化して、また彼の思想も相対化された
三浦さんも板倉さんもまた
相対化するだけの価値が有ったということですか
人類が滅びればまた w
自然はただただ運動変化しているだけです
或る意味全ては幻、幻自体が現実ともいえるのかと
全ては幻説にも根拠はいちおう在りますね
賛同はしませんが
ああ、静止で認識するから静止は実在するとする理解と同じ係累なのかも わたしは納得出来る自然理解から人間とはを考えたいだけです
納得できればなんでも
・・・まあ結論は人間には苛酷なそれになりますが 第二のコペルニクスもまた死後に発表することをお薦めします
とてもヤバいし大部分の人間には受け容れ難い結論になるでしょう 人間の感覚器官に結ぶ像の相対化の歴史が自然科学の一側面です
認識の相対化ということです
さてどう生きるべきだったのか
これからの人たちはどう生きるべきか
わたしはゼノンに拘ってしまいました
それでもそれなりの結論を得て満足しています
こういうことに拘り廃人みたいになった人がいると哲学スレで警告した人がいました
三浦つとむ、板倉、山川諸氏の学はわたしなりの理解にとても役に立ちました
これが無かったら自身も廃人と自覚して一生を終えていたでしょう
現代日本の学に感謝します
欧米に居たら自分なりの結論は得られなかったでしょう
先駆的なアルヴェーン、進化は万能であるの著者、タレブでも認識論では現代日本の学には及ばない 某スレで時間の理解についての議論で新たな視点を獲得しました
議論には参加してみるものです 時間とは運動量
一光年 光 地球の運動量
時間の定義は運動量が普遍
此処から此処までという運動量
0次元は運動という有を静止という無で規定する言葉
今、此処と指示すると今、此処は飛び去るとヘーゲルは語る
今、此処とは座標原点
今、此処とは運動を静止で規定する言葉
有を無で規定する、だから運動は量で理解するしかない
直接では捉えられないから
現在には過去も未来も実在しない
現在=運動しか実在しない
つまり時間は認識の在り方が要請する次元
パルメニデスは自然は一であるとした
一は多で規定される
ゼノンの逆説は数が実在しないことを証明した
絶対座標は自然には実在しない
時間は実在しない 自然の一部を此処と指示する点、静止
此処、今とは認識の在り方に結ぶ自然の像
うーん、やはり認識の在り方の問題だな
徹底しなきゃな
もう27年以上経過しているが
困難だが出来るところまでやりたい
基本に還ることにより新展開がある 時間は運動量に還元できる
運動量は認識の在り方を媒介にしている
運動という有を静止という無で規定する
0に限りなく近いが0ではないという決定不能の定義
現在は直接には理解できないから量、時間で規定するしかない
今は運動を静止で規定するということ
時間は運動量、つまり認識を媒介にした自然の在り方を媒介にした観念的存在
0次元、出発点が存在しないのだから 自然科学の現在は未だその基礎は確立していない
時間非在説は前世紀末から科学者がその可能性を指摘されている
現在ではテレビで紹介され、科学雑誌で一潮流として特集が組まれていたりする
現在主義だったかな、つまり今しか実在しないという理解が
重力も非在説があるが、違う理解が可能ということ
酸素を発見した科学者は燃素説を生涯信じたことで解る様に観測発見した対象を必ずしも正確に理解しない
天動説は典型で、火星に運河を発見した天文学者がいたりする
天動説を維持しようと周転円は積み重なる
重力は実は未だに定説はなかったりするがライプニッツは方程式に敬意を表したが概念は魔術的と否定した
見たものがそのままの自然ではないことを地動説は示す
物理とした生死は実在しないが、わたしたちは生まれる、死ぬと規定する
フラットアース説はよく知らないが、地球が静止しているとするのなら、対象が矛盾したら理解はできないという論理の前提を否定するからノー
対象が、ということの意味が重要
対象に静止、生死は実在しないが生死、静止で規定するということ
いわゆる矛盾、決定不能が導かれるが、それは規定するから
対象にはそれらは存在しない
その原因は規定するから
静止は運動の一形態、生死は物理状態の遷移等々
人間も金属も物理状態の差異
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発してまた違う濃淡を生成する過程
いわば海だが認識には淡は像を結ばないから多と成る
自然科学は自然認識だから認識の在り方は考察すべきかと
カントの二律背反は対象とそれを規定する論理の問題
終始で規定するが終始は対象には無い
形で規定するが形は対象には無い
フラットアース、球体説、いずれも認識の在り方は考えられていない
フラットさんは視覚=自然
球体説は構造理解としては正しいが
武谷三男氏の三段階理論の検討を両派にお勧めする 自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反発でまた違う差異を生成していく過程でしかない
次元も諸力も実在しない
最小単位から成らない
素粒子、生物、金属、地球、銀河系、大構造等に成る
認識器官の在り方に自然は像を結ぶ
一は多として像を結ぶ
静止、生死、無は実在しない
自然科学は認識の在り方の相対化という側面がある
時間は運動量に還元できる
運動は直接理解できないために多、つまり量が必要となる
時間は実在しない
今とは運動
現在、現に在る 目の前の自然は目、つまり認識器官の在り方に結んだ像でありそのままの自然ではない
一を多で規定する、規定は否定
時間もまた一を多で規定するから必要になるということ
ここから全ては演繹可能 時間は基本運動量に還元できそうだな
・・・まあ自然の存在形態が運動だから当たり前か
認識の在り方で一は多で規定する
今だけが存在する、有は無で規定され、一である運動は多、量で規定するしかない
時間は認識の在り方が要請する観念的存在
運動は静止で規定されるから
0に限りなく近いが0ではないという規定の根拠
不確定性原理の原因
それで規定するがそれは実在しない
静止、生死、無は実在しないがそれで規定する 次元も実在しないだろう
今、此処と指示すると今、此処は飛び去るとヘーゲルは指摘する
今、此処とは運動する自然を静止で規定する言葉
現在主義とか唱える科学者たちが居るとか
有を無で規定するから、四次元、時間が必要となる
四次元が実在したら無限の静止する自然と観測者が実在することになる
一は多で規定されるということ
一ではあるが濃淡である自然を認識器官はその在り方から多として像を結ぶ
物理状態の差異を否定関係、つまり生物非生物、有無、生死と規定する
それらは認識の在り方であり、自然に否定関係は存在しない
一は多、つまり数で規定されるが多は実在しない
一は多となり、多は一となり
認識の在り方は考えられなければならない
カントの二律背反、へーゲルの運動定義などは対象と規定の関係の話
不確定性原理、観測問題、不完全性定理などなどもまた
クレタ人の逆説は否定で規定するから決定不能に
対象である自然は無矛盾だが、規定は否定
規定が自然には存在しないことで自然は無矛盾であることになる
ウイルスは生物非生物と分類するから分類困難に
同様に規定するからいろいろ困難なことになる
素粒子、生物非生物に成るということ
最小単位から成らない
紐に成るのであり、紐からは出来ていない
条件が生成可能ならいくらでも小さくなるということ
そして粒子は認識器官の在り方に結ぶ波の渦の状態 言語過程説と重ねることが出来そう
対象ー認識ー表現ち・・・ 不確定性原理
小さな物質は粒子として振舞ったり波として振舞ったりする二重性を示す。これを何らかの観測手段を使って調べようとすると測定結果に不確定性が生ずる。具体的には、一個の電子の一と運動量を同時に正確に測ることはできず、一方の正確度が増せば他方の正確度は減る傾向にある。〜略
ハイゼンベルクが提起したこの不確定性原理からはミクロのゲ現象は決定不能であるという結論が導かれ、これまでの科学が疑いもしなかった前提ー物質の実在そのものーがぐらつくことになった。
科学の危機 P160頁注 不確定性原理
小さな物質は粒子として振舞ったり波として振舞ったりする二重性を示す。これを何らかの観測手段を使って調べようとすると測定結果に不確定性が生ずる。具体的には、一個の電子の一と運動量を同時に正確に測ることはできず、一方の正確度が増せば他方の正確度は減る傾向にある。〜略
ハイゼンベルクが提起したこの不確定性原理からはミクロのゲ現象は決定不能であるという結論が導かれ、これまでの科学が疑いもしなかった前提ー物質の実在そのものーがぐらつくことになった。
科学の危機 P160頁注 不確定性原理
小さな物質は粒子として振舞ったり波として振舞ったりする二重性を示す。これを何らかの観測手段を使って調べようとすると測定結果に不確定性が生ずる。具体的には、一個の電子の一と運動量を同時に正確に測ることはできず、一方の正確度が増せば他方の正確度は減る傾向にある。〜略
ハイゼンベルクが提起したこの不確定性原理からはミクロのゲ現象は決定不能であるという結論が導かれ、これまでの科学が疑いもしなかった前提ー物質の実在そのものーがぐらつくことになった。
科学の危機 P160頁注 自然科学は自然認識です。
認識に結ぶ像がそのままの自然ではありません。
地動説は見たものがそのままの自然ではないことを示します。
静止は運動の一形態です。生死は物理としては存在しません。
生れるとは物理状態の変化であり死ぬということもそうです。
科学者は死の瞬間は特定困難と語りますが、物理としては実在しませんから当然です。
生死は物理として否定関係ではありません。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止、此処からの実在を否定します。
この原理は自然の存在形態が運動であり、量子力学の自然観である運動するエネルギーの濃淡という理解を裏付けます。
なぜなら運動を前提に有と無という否定関係は導けないからです。
自然は濃淡はあるが一、海ということです。
濃淡のエネルギーが親和反撥して新たな濃淡を生成していく過程ということです。
しかし認識器官に結ぶ自然の像はそのままの自然ではありません。
静止、生死、無は実在しませんが認識器官には像を結びます。
運動は静止で規定されます。
つまり有を無で規定するということです。
0に限りなく近いが0ではないという不可思議な規定の根拠です。
わたしたちはそのまま自然を認識できません。
運動量も近似値です。
また此処と指示しても此処は運動していますから、やはり正確には指示できません。
生死が何時からとかはやはり近似でありそのまま指示できないのです。 不確定性原理もまた対象を規定する認識の在り方の問題です。光速度一定の原理は絶対座標、静止、規定は実在しないことをもって自然が無矛盾であることを証明します。
ウイルスは生物非生物と否定関係で分類するから分類困難な対象となるだけで、ウイルスがどちらかと悩むことはありません。
規定するからこその不確定性原理です。
これは対象と規定の関係を語るものです。
実在が前提であり、実在がぐらつくことはありません。 決定不能
対象が無矛盾であり、それを否定で規定する
決定不能と決定する
理解可能だからこそ決定不能
対象に論理自体は存在しない
三浦つとむ氏は法則性と法則を区別している 時間も運動量に還元出来ます
運動する自然の差異がその状態である間隔を測る
光の運動量が基準になる
地球、太陽等々の運動量・・・
変わらない基準を求めた結果
時間で測るが時間は実在しない 自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発してまた違う濃淡を生成する過程
次元、終始、生死、無・・・
同じことです
力も実在しません 時間がイメージできるようになりました
認識、附随現象
認識の在り方に結ぶ像
うーん隔靴掻痒 対象ー認識ー表現
表現は認識の在り方に拠る
自然科学は自然認識であり自己言及でもある
理系は認識論を軽んじているので不確定性原理、不完全性定理の理解に苦しんでいる
それは対象が無矛盾、理解出来るからこそなのだということ
何故定理なのか、原理なのか
真理はとても単純なのだとある認識論の大学者は語る
対象は無矛盾で単純だが認識の在り方で複雑になっている
一が多と成り、多が一と成り
多は認識が媒介するから。
科学はその認識を相対化して一に辿りついた
科学の諸成果はその証拠を示している
「十の証拠からは十の理論が
正しいのは一つだ」
チェスタトン ブラウン神父の純智 「イザエル・ガウの厳正さ」 認識の在り方の自己言及ということになるのかなあ
地動説はそういうことを示す端緒なのでは?
次の科学革命はこのことを究極にまで突き詰めることで為される 意識問題か
ミュンヒハウゼントリレンマってやはり規定理解ということに収斂する? 新約聖書学、数学、共産主義の結論は論理から一元的に理解可能かもしれません
創造神なら無矛盾
数学は規定は否定、自己言及
共産主義はトップダウンではなくボトムアップ
この観点から結論が導けるのだと
論理の在り方、成立条件からです 新約聖書学、数学、共産主義の結論は論理から一元的に理解可能かもしれません
創造神なら無矛盾
数学は規定は否定、自己言及
共産主義はトップダウンではなくボトムアップ
この観点から結論が導けるのだと
論理の在り方、成立条件からです 認識器官に結ぶ像=自然ではない
地動説、進化論、光速度一定の原理
言葉はそのまま自然を表現しない
物理として、静止、生死、終始、無は自然には存在しない
認識の在り方を相対化してきたのが自然科学
静止、生死、終始、無で規定することを自然科学は明らかにしている
〈わたし〉は貴方では無いが、人間
人間はサル、犬0、植物、金属、水ではない
物理状態の差異を否定で規定する
わたしは産まれてから現在に至るまで同一であることは無いが同一のわたしと規定する
自然の全ては同一であることは無い
同一であることはない自然を同一として規定する
クリスティーはミス・マーブルに
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
両方ともに真理だと語らせる
規定とは否定だから 素案です
自然科学の一側面として認識の在り方の相対化の歴史があるとわたしは理解している
天動説は見たもの=自然という理解
この素朴認識論というべき理解は現代科学はまだ払拭していないのではないかということ
地動説、進化論、エネルギー保存則、そして光速度一定の原理は素朴認識論の終わりでもある
不確定性原理は測定値の相対性を示す
それは運動を静止で規定するから
0に限りなく近いが0ではないという規定
観測問題は認識器官に結ぶ像の相対化、つまり観測したものがそのままの自然では無いという地動説の系譜
自然の一部である人間の自然理解は自己言及
自己を他として認識する、クレタ人の逆説、不完全性定理
光速度一定の原理は静止で運動を規定し、静止は実在しない、つまり認識の在り方の自己言及
否定で規定し、静止は実在しない
有を無で、一を多で
ウイルスが分類困難なのは分類するから
決定不能もまた規定するから
自然は無矛盾であり、規定するから決定不能に
決定不能と決定する
自己を他で規定する
有を無で・・・
自然科学は自然が無矛盾だとすでに示している やはり触発されないと論は進みませんね
某スレでは少しずつ前進しています たとえば観測事実は天動説で理解された時代がある
それが地動説で読み替えられる
学問はそういう側面がある
言語学でも似た展開があったと記憶している
新たな視点が同じ事実を違う理解に読み替えられる
たしかに不確定なのだろう
しかし視点を変えれば不確定ということが確定しているから原理と冠されるのではないのだろうか
不完全性定理も然り
実在しないという理解もまた天動説ではなかろうか
運動は静止で規定されるから0に限りなく近いが0ではないとする
それは有を無で規定するから
この原理は対象と規定が=ではないことを語る
カントの二律背反は終始で規定するが終始は対象に実在しないということ
形で規定するが形は実在しない
此処から此処までが実在しないのだから
認識器官に結ぶ像には存在するが対象には実在しない
不確定性原理も不完全性定理も認識の在り方の自己言及の性格を持つ
対象が無矛盾だからこそ決定不能になる
認識=実在ではないことを科学は地動説を端緒に示してきた
エネルギー保存則、光速度一定の原理、観測問題、不確定性原理・・・
生死、静止、粒子は認識には存在するが自然には存在しない
そして認識は自然をそのまま反映しない
測定値は近似値でしかないし、有は無で規定するからこそ不確定性原理となる
科学の歴史は認識の相対化の歴史でもある 体調崩しました
ちと離れます
わたしは自然認識は自己言及が本質だと理解しています
つまり自己を他として認識するということです
否定で規定するということです
三浦言語学の観念的な自己分裂ということです
体調の都合でここまでにします