禪
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ここに正法及び正法の体得の仕方を記します、お経のように繰り返し読むといいです。 これが禅の極意、これしかないって信じきれるかかですね。 本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。 考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。 多くは「只管」と言う言葉が、「只管」を邪魔している。 「只管」にならねばいけないとか、いう意識が働いている。 日常で只管にならなければいけないとか、誰も言ってないし。。w
只管打坐ということしか、道元禅師言ってないんだよ。。
ひたすら坐れ、というだけ。。
変ちくりんなこと言わないでください。。w
嘘、デタラメ、自分勝手な解釈を垂れ流さないでください。。 道元禅師がまったく言ってない、変ちくりんな思い込みを垂れ流しているだけ。。w
それに囚われて、犬みたいに、同じこと叫びまくる。。
廃人ですよ。。w まともに坐ったことない、坐れないだけだと思うよ。。
坐れてたら、それだけで、逝ける、死ねるということがわかるから。。
坐が足りないか、坐禅になってないか、それだけでしょう。。
坐って、いったん死ぬしかないんです。。
それができるかできんかでしかない。。
他にはないです。。 悟りという、心理状態とか、意識状態があるんじゃないんです。。
自分、もともと無い、無我であった、ということを明らめて、それに関わらない、そのままであれるかどうかなんです。。
言い換えると、喜怒哀楽、苦楽に浮沈するままです。。
何か特別な悟り状態を妄想するから、オカシクなる、いつまでたっても解決がないんです。。 迷悟もともと無い、法があるだけなんです。。
自分もともと無いんだから、どうこうする必要もともとなかったんです。。
それに気づくか否かだけ。。
仏法は、無我、無一物、無常、です。。
それに反して、自分を捉えて、運んで、悟り状態を維持しようとか、まったく法に反しています。。
それを止めないと、まともになれません。。 自分があるとか、心が有るってのが、間違い、勘違い、であったというだけ。。 只とか、単ではなく、どうあろうがそのまま、仏に任せる、縁に任せるということです。。
そのためには、自分を見ない、見ても、評価しない、どうこうしようとしない、運ばない、ということなんです。。
言い換えると、自分を忘れるです。。
見ないから、一つでしょ?
見てたら、見られる自分と見ている自分の二分裂でしょ?
それをやらないというだけ。。 それが一番楽であり、解脱なんです。。
自己解脱、自分から解脱している、脱落している、ということです。。
その逆やって、自分見て評価して、もっといい方向にもっていこうとか、理想の状態を実現しようって、
それは、仏道じゃない、よこしまです。。
そういうことをやらないということ。。 仏仏にさずけて、よこしまなるなき、これ自受容三昧、その標準なり、と言われる通り。。 余念を入れないように常に自分を見守っていなければいけない。 変てこトレーニング法書いて、禅を騙るのは止めよう。。w
詐欺です、騙しです、有害です。。 自己のないことがはっきりすることを「見性」という。 六祖曰く、境に応じて、思いが次々と起こってくる、菩提が長じるなんてことがあろうか?
これが悟りの様子です。。
カムイ君の正反対ですね。。 しかし、「見性」しただけでは本当の融通がつかない。 妄を除かず、心を求めずの逆をやってたら、邪法、邪禅です。。
いつまでやっての意味ないです。。w
取捨遺順ないのが、悟り。。
取捨遺順あったら、迷い。。 何か自分が過去に学んだものとか、得たものとか、聞いているものとかが邪魔をする。 見性とは、もとのままでよかったんだ、ということです。。
どうあっても、問題ではなかった、ということです。。
何か特別なことあったら、見性じゃねー、それでは終わらないから。。 逆に言うと、これが見性だ、というのがあったら、見性じゃないです。。
迷悟分かれる見性は、勘違い、妄想です。。 そうやり続けていると、「悟り」の牢屋から救われる。 自己の無いことは判っても「単」をしょっちゅう練って行くのは容易ではない。 だから、実際終わらないでしょ?
ずーと、意味のない努力し続ける不自由そのものでしょ?
もともと解脱していたのに、禅をやって却って不自由になっている。。w
やらない方がよかったんです。。w
向いてないんでしょうね。。 祖録で誰も言ってない、オリジナル、なんてありえないですよ。。
それは、単に禅じゃない、思い込みの、空回りしているだけです。。
だから、誰からも相手にされない。。w 生死の他に、悟りを求めるのは、ちがいます。。
正法眼蔵の生死をちゃんと読んでください。。
迷いを抜けて悟り、というのが、そもそもの大間違いなので。。 もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、
おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、
さらに解脱のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、
生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。
このときはじめて生死をはなるる分あり。 迷い即悟り、輪廻即解脱、生死即涅槃、の他に無いんだって。。
それを言い換えると今、になるというだけ。。
今の他にないとはそういうことです。。
他に求めるべきが無いから、解決なんです。。 坐禅をする人は自分の癖を取ることを主体にして、常に実践していれば良い。 「今」がどんなことであれ、「心」に留めてはならない。 自分がどんな刺激を受けてもさらさらやっていかなければいけない。 嘘ばっかり垂れ流すの止めましょう。。w
禅、じゃなくkて、カムイ教、というスレタイに変えてください。。 自分を吹聴して、自己満、オナニーしてるだけですよ。。w
恥を知りなさい。。 本当にさらさらと、諸々の縁と対立無く人生する事は難しい。 この状態である限り、我々の掛け替えのない道具であるこの身体は.煩悩の根源であり苦しみの種である。 隔てが常に縁と対立して、心を惑乱させ葛藤するからだ。 瞬間に忽念として生じ、而もその連続こそが煩悩の根源である。 従って、今、忽念と生ずる心の元を解決する解決策は、隔てを取ることにある。 本当に徹すれば、自ずから隔たりが取れて、心身一如の当体となる。 只、おしゃべり、只、独り言ブツブツ。。w
只管話堕。。w
只管5ちゃんねる。。w ただ坐るだけでは一生悟りは開けない。
坐禅(ざぜん)。
自我滅却(じがめっきゃく)。
自我滅却(じがめっきゃく)。 呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。 ただ坐るだけでは一生悟りは開けない。
坐禅(ざぜん)。
自我滅却(じがめっきゃく)。 それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています