禪
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ここに正法及び正法の体得の仕方を記します、お経のように繰り返し読むといいです。 坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。 例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。 「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。 見たり、聞いたりの縁について何か出るうちは、何か引っかかってるいる。 辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。 自分の中に、何かが出た時は自我が立っている証拠である。 一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。 この正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。 例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。 二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。 景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。 動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。 自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。 それには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。 綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。 それを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。 何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。 そうしないと迷いと悟り、煩悩と菩提の涯際を付ける事ができない。 生死の涯際が取れるまで凡情が尽し切れるまで努力しなければならない。 「全て道である」すなわち煩悩即菩提というのは、いたり得た後の話である。 「単」「只管」「即今」「今」も大自然、つまり普遍の真理の異名である。 「解脱」とはクセが落ちて、本当の「真理」に目覚めること。 聞いて分かった今は「考えた今」であり迷いの今である。 だかこの真理を本当に自覚しなければ「今」に生きている本当の喜びも安心もない。 既にみんな「今」であるから、「今」を徹底注意して離さなければ必ず自覚する。 本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。 考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。 多くは「只管」と言う言葉が、「只管」を邪魔している。 「只管」にならねばいけないとか、いう意識が働いている。 余念を入れないように常に自分を見守っていなければいけない。 自己のないことがはっきりすることを「見性」という。 しかし、「見性」しただけでは本当の融通がつかない。 何か自分が過去に学んだものとか、得たものとか、聞いているものとかが邪魔をする。 そうやり続けていると、「悟り」の牢屋から救われる。 自己の無いことは判っても「単」をしょっちゅう練って行くのは容易ではない。 坐禅をする人は自分の癖を取ることを主体にして、常に実践していれば良い。 「今」がどんなことであれ、「心」に留めてはならない。 自分がどんな刺激を受けてもさらさらやっていかなければいけない。 本当にさらさらと、諸々の縁と対立無く人生する事は難しい。 身と心が隔たっている限り不可能である。
心は浮遊状態にあり、勝手に精神を展開するからだ。 この状態である限り、我々の掛け替えのない道具であるこの身体は.煩悩の根源であり苦しみの種である。 隔てが常に縁と対立して、心を惑乱させ葛藤するからだ。 瞬間に忽念として生じ、而もその連続こそが煩悩の根源である。 従って、今、忽念と生ずる心の元を解決する解決策は、隔てを取ることにある。 本当に徹すれば、自ずから隔たりが取れて、心身一如の当体となる。 呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。 それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。 自ずから成るようになるまで練らなければ、本当の安楽も無いし、生死の不安からも救われない。 自分の考えなど入れず、その時のみに成って一心にすこと。 常に、そう努力していると、自然に「隔て」が取れていく。 無目的の坐禅は知らん間に妄想坐禅となり、ぽかんとした腑抜け禅になるから注意せよ。 どうしても本当の菩提心が無ければ邪禅になり、多少の落ち着きが有っても、損得など邪念は一向に取れない。 無明の根本を解決しなければ坐禅修行する意味が無い。 「応無所住而生其心。」この語はみんな知っている大切なお釈迦様のお言葉である。 難しそうに聞こえるこの語も、砕けば「今」「只」のこと。 これは徹底「今」に成り切って、「今」を忘れなければ体得出来ないし、分からない言葉である。 「今」に徹すると、一瞬に今までの妄想が骨身に徹して感じる。 つまり妄想そのままが自分となり、妄想とすべきものが無くなる。 「隔て」が無くなり心身一如になれば何でもない事よ。 これは良いとか悪いとか、すぐ自我を立てるから「隔て」となる。 これは一つのものを立てて認めるから、二つに見たり、三つに思ったり、念が無限に広がって迷う。 比べる物がないのに、自己を立てて比べるからである。 世の中に処しながら、相手と一つに成って自在に変わっていくのを異類中行と云う。 正法は「世界壊せども、この性は壊せず」とお経にある。 一点のみ集中して、正体のいかなるものかを自覚するのである。 本当に「今」が手に入ったら自ずから生死が気に掛からない。 生死透脱というのも、砕いて言えば「今」「只」のことである。 悟れないのは只管に成らねばいけないという意識が働いて、只管が只管を邪魔しているからである。 坐禅をする人は、自分の癖を取る事を主体にして、即今底を実践すれば良い。 一隻眼を具するとは、自己のないことがはっきりすることである。 自己のないところの確証をにぎってしまうと、大抵はそれをひっ下げてしまう。 ・
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・ ここ迄がテンプレです。
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・ とても強い思いがあるようなので、出来れば何かしらの行動で体を使って身近な現実に表現して見た方がいいと思う、書き込みで発散してしまわない方がいいと思う なんていうか、こういうの書いてると自己が落ちるんです、わたしの場合は。 色々書いてますが、
「菩提心のもとに常に「単」を練ること。」
やることはこれだけですね。 だから、また書き込めるんですけどね。
お経みたいなものです。 日常底の単を練ることが大切である。
坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。
常に道であること。
例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。
入って来るままに聞くだけ。
感情も気付きも入れない。
自分を虚にしておく。
「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。
何も無しにあると、そのまま入って聞こえて終わる。
それが「正聞」である。
眼に於いては「正見」と言う。
お釈迦さまがちゃんと言って居られることだ。
見たり、聞いたりの縁について何か出るうちは、何か引っかかってるいる。
つまり自我が有るからだ。 疲れている時、ただ休んでじっとしていればよい。
辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。
辛ければ辛いままであればよい。
病もまた道であり、疲れもまた道である。 自分の中に、何かが出た時は自我が立っている証拠である。
一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。
この正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。 常に「只」するよう努力していればそれで良い。
ポカンとなり夢や幻の馬鹿になるのとは異なる。
そこを誤解しないように。
善悪や損得の気持ちがあった時は、あと残りがする。
その残った上で次の事をしていることが多い。
すると過去と今が重なるので大きな邪魔者になる。
常に自分を注意していないとその事が分からない。
例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。 人と話をする時、云わないで良い事は言わない。
余分な念を使わない。
話は色々な事に渡るものだ。
二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。
一つ心で働けば良い。
「単」は一つ線であること。
一つのもので働けば良い。 車を運転する時、心を虚にすること。
景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。
動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。
自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。
それには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。
綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。
一点を守らないからである。
今は動いている。
それを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。
何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。 「今」がはっきりすれば、大自然に目覚める。
そうすると只管ならざるものなし。
そこまで行くには「今」を守り切らねばならない。
そうしないと迷いと悟り、煩悩と菩提の涯際を付ける事ができない。
生死の涯際が取れるまで凡情が尽し切れるまで努力しなければならない。
凡情に落ちるとは、物に落ちることである。
「全て道である」すなわち煩悩即菩提というのは、いたり得た後の話である。
それをごっちゃにしてはいけない。
そうしないと釈尊の六年間が無意味になる。
努力せずして道が成就するはずが無いでは無いか。
「単」「只管」「即今」「今」も大自然、つまり普遍の真理の異名である。
「解脱」とはクセが落ちて、本当の「真理」に目覚めること。
この自覚症状を「悟り」という。
何億年も「今」だけである。
本当に生きた「今」が大切であり本当の命である。
「今」を説くことはできない。
聞いて分かった今は「考えた今」であり迷いの今である。
世の中は今より他はない。
だかこの真理を本当に自覚しなければ「今」に生きている本当の喜びも安心もない。
仏道は本当の「今」に生きることである。
既にみんな「今」であるから、「今」を徹底注意して離さなければ必ず自覚する。
要は努力の有無である。
菩提心、菩提心。 「禪」は単を示すとある。
単を示した行動でなければ、禅ではない。
禅は要するに、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
不純物の無い「今」が禅である。
これを「只管」という。
本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。
考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。
自己のないことが禅である。
生とか死は観念であり言葉である。
思いにとらわれると思えば良い。
多くは「只管」と言う言葉が、「只管」を邪魔している。
「只管」にならねばいけないとか、いう意識が働いている。
「只」あること、ただ「単」にある。
余念を入れないように常に自分を見守っていなければいけない。
「只」であらねば、禅が禅を教えてくれない。
禅の趣旨や意味が判っても意味がない。
「只管」にあれば、何をやっていても問題ではない。
おおかたは思慮分別が先にでる。
この癖を破ることが、要するに禅修行である。
これが坐禅する眼目である。 自己のないことがはっきりすることを「見性」という。
しかし、「見性」しただけでは本当の融通がつかない。
「悟り」が邪魔をするからだ。
「見性」の力で「見性」を破らねばダメだ。
自分を抜きにして、その時のみであればよい。
何か自分が過去に学んだものとか、得たものとか、聞いているものとかが邪魔をする。
ただ今のみの世界である。
その場でちらっと出るものを問題にしないことだ。
たえず「単」であればよい。
私を挟まないで「単」であれ。
箸を上げて口に運ぶ時も、いつも「単」であれ。
いつもその場その場、「単」であれ。
どうあろうとも、その物と離れなくなる。
そうやり続けていると、「悟り」の牢屋から救われる。
自己の無いことは判っても「単」をしょっちゅう練って行くのは容易ではない。
自己も死もとれて本当に楽になっていく。 坐禅をする人は自分の癖を取ることを主体にして、常に実践していれば良い。
「今」がどんなことであれ、「心」に留めてはならない。
それができないとモノにならない。
自分がどんな刺激を受けてもさらさらやっていかなければいけない。
本当にさらさらと、諸々の縁と対立無く人生する事は難しい。
身と心が隔たっている限り不可能である。
心は浮遊状態にあり、勝手に精神を展開するからだ。
この状態である限り、我々の掛け替えのない道具であるこの身体は.煩悩の根源であり苦しみの種である。
隔てが常に縁と対立して、心を惑乱させ葛藤するからだ。 今、忽念と現れる心が問題なのだ。
瞬間に忽念として生じ、而もその連続こそが煩悩の根源である。
これが隔たりによって起こる事を先ず知ることだ。
従って、今、忽念と生ずる心の元を解決する解決策は、隔てを取ることにある。
如何にして取るか?
問題の焦点は「今・瞬間」に有る。
「今」に二つはない。
「今」その物になればよい。
「今」でない物はない。
従って、「今」だけ。
素直に「今」在ること。
「今」余念無く一心不乱にすること。
要するに我を忘れて成り切ることだ。
本当に徹すれば、自ずから隔たりが取れて、心身一如の当体となる。
否、元よりこの心身本来なり。
これを仏という。
菩提心が無ければ皆ダメだ。 「只」吐き、「只」吸うだけ。
一瞬一瞬を大切にして「只」やる。
どんな事も「只」やる。
呼吸の一瞬一瞬のみ。
呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。
その物と離れないでやれるようになる。
こうなれば大したものである。
ここまで来ねばいけない。
常住不変に一瞬一瞬でなければいけない。
それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。
自ずから成るようになるまで練らなければ、本当の安楽も無いし、生死の不安からも救われない。
願心はあっても、やらなければ駄目である。
相手や環境である境に用はない。
とにかく願心である。
自分の好きな事に時を過ごしてはいけない。
その場その場のみであること。
自分の考えなど入れず、その時のみに成って一心にすこと。
初めはどうかしようとするが、それが要らない。
その場その場のみに任せておく。
その事のみに「心」を置いてする。
常に、そう努力していると、自然に「隔て」が取れていく。
「只」やれる。
何事も淡々とできる。
「只」が純熟してくるから自然と全てと一つに成る。
本当に熟して徹する。
そうしないと大自覚が無い。
これが「悟り」の大事であり証明である。
ここで本当に納得する。
だから悟りを目指して「今」「只」やる。
無目的の坐禅は知らん間に妄想坐禅となり、ぽかんとした腑抜け禅になるから注意せよ。
どうしても本当の菩提心が無ければ邪禅になり、多少の落ち着きが有っても、損得など邪念は一向に取れない。
無明の根本を解決しなければ坐禅修行する意味が無い。
菩提心、菩提心。 「応無所住而生其心。」この語はみんな知っている大切なお釈迦様のお言葉である。
難しそうに聞こえるこの語も、砕けば「今」「只」のこと。
みんなの[本当の心]のこと。
これを自ら證するだけである。
「隔て」がとれると常住不変がわかる。
死んで生きてが無くなり、一杯一杯である。
「今」の正体を知ればよい。
もともと「今」だから「今」はいらなくなる。
これは徹底「今」に成り切って、「今」を忘れなければ体得出来ないし、分からない言葉である。
「今」に徹すると、一瞬に今までの妄想が骨身に徹して感じる。
つまり妄想そのままが自分となり、妄想とすべきものが無くなる。
これを全身の毛穴からも呼吸をしていると云う。
丸ごてと云う意味である。
体と思う念が無くなる。
体の念が有れば体にくくられる。
体の念が無ければ自ら気にならなくなる。
「応無所住而生其心」も、[心]の様子の事。
「今」「只」のこと。
これが浄穢不ニ、自他不ニとなって本当に安心する。
「隔て」が無くなり心身一如になれば何でもない事よ。
これは良いとか悪いとか、すぐ自我を立てるから「隔て」となる。
事はここから起こる。
[心]の衝突である。
これは一つのものを立てて認めるから、二つに見たり、三つに思ったり、念が無限に広がって迷う。
これが無明よ。
比べる物がないのに、自己を立てて比べるからである。
本当に「只」を常に練っていれば良い。
そう努力していると自然に相手が気にならなくなる。
いやでも「隔て」がとれて一つに成る。
これを入我我入という。
世の中に処しながら、相手と一つに成って自在に変わっていくのを異類中行と云う。
私が無いと、天下は自分の姿に他ならない。
この境界が不動心である。
不動心は正法以外にない。
「今」「只」が正法である。
正法は「世界壊せども、この性は壊せず」とお経にある。
同時に二つのことは、考えれない。
一点のみ集中して、正体のいかなるものかを自覚するのである。
一つ事に集中し切らなければ「隔て」はとれない。
菩提心の一点張りだ。 「今」「只」に我は無い。
我れなければ、即菩提。
それを大清淨とも云う。
汚がさるるものがなければ、浄くするものもない。
「今」は生死を論ずる間はない。
本当に「今」が手に入ったら自ずから生死が気に掛からない。
生死透脱というのも、砕いて言えば「今」「只」のことである。 悟れないのは只管に成らねばいけないという意識が働いて、只管が只管を邪魔しているからである。
途中は仕方がない。
それが目標だから。
本当に「只」になればよい。
只管も只も有ってはならない。
菩提心のもとに常に「単」を練ることである。
坐禅をする人は、自分の癖を取る事を主体にして、即今底を実践すれば良い。
「只」は努力の結果である。
ここまで来ると本当に大平和である。
生死はただ「単」である。
生のまま、死のままである。
「今」の様子に過ぎない。
この真理を悟るのが坐禅修行の本当の目的である。
一隻眼を具するとは、自己のないことがはっきりすることである。
しかしそれだけでは何かが引っかかる。
はっきりしていても、引っかかるものがある。
まだ本当に取り尽くされていないからだ。
おおかたの悟ったというところはこの当たりだ。
悟後の修行の大事な所である。
決して油断してはならない。
自己のないところの確証をにぎってしまうと、大抵はそれをひっ下げてしまう。
本当に大悟したものは少ない。
簡単に言えば菩提心が弱いからだ。
それを捨てて単を練ることが足りないからだ。
境涯を得ても、そこが陶治されないといけない。
境涯を持っていては駄目である。
うたた悟れば、うたた捨てよ。
この大法を得ることは容易ではない。
菩提心の鈍い者は到底仏祖の誹りを免れぬ。
努力しかない。
菩提心が仏祖の命、仏法の血肉である。
菩提心、菩提心。 坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。 例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。 「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。 見たり、聞いたりの縁について何か出るうちは、何か引っかかってるいる。 辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。 自分の中に、何かが出た時は自我が立っている証拠である。 一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。 この正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。 書いては消え、書いては消えしてる。
これがいいんだよ。 例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。 二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。 景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。 動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。 自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。 それには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。 綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。 それを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。 何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。 そうしないと迷いと悟り、煩悩と菩提の涯際を付ける事ができない。 生死の涯際が取れるまで凡情が尽し切れるまで努力しなければならない。 「全て道である」すなわち煩悩即菩提というのは、いたり得た後の話である。 まぁ、こう書いてると、この掲示板で禅を語ってる、ろんも鹿野園も明らかに間違ってるね。 「単」「只管」「即今」「今」も大自然、つまり普遍の真理の異名である。 「解脱」とはクセが落ちて、本当の「真理」に目覚めること。 聞いて分かった今は「考えた今」であり迷いの今である。 わたしがこう書いてるのは、自分の為でもあるけど、本当の禅はこうですよと紹介してるのもあるかな。
ちょっと偽物が多すぎるからね。
禅の看板に泥を塗られては困るのでね。
せっかく禅に興味を持った人の芽を摘むような行為をしてる人が多いからね。 だかこの真理を本当に自覚しなければ「今」に生きている本当の喜びも安心もない。 今んところ、ここに鹿野園、ろん、でおーが来てないからいいよね。
あいつらはかなり悪質だからね。 既にみんな「今」であるから、「今」を徹底注意して離さなければ必ず自覚する。 わたしも「今」を自覚した時は嬉しかったな。
ただ、油断してると今が逃げちゃうからね。
気をつけなくてはいけない。 鹿野園なんか単にほど遠いよね。
つまり、彼が語ってることは禅ではないんです。 本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。 自己があるとある時点の今に引っ張られてついて行っちゃって、今からブレるからね。 なので自己を忘れた力がないと、次の今にもうなってるのに、過去を引きずるんだよ。 でおー、鹿野園、ろんなんかはわざと嫌らしい事言って、それを引きずらせようとする。
本当に悪質な奴らですね。 考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。 多くは「只管」と言う言葉が、「只管」を邪魔している。 「只管」にならねばいけないとか、いう意識が働いている。 余念を入れないように常に自分を見守っていなければいけない。 ここら辺を鹿野園は読んでもらいたいね。
もう、手遅れかもだけど。 自己のないことがはっきりすることを「見性」という。 わたしは、まだ、ここがはっきりしてないんだよね。
頑張らないとな。 「今」を自覚したものの、自己のないことがはっきりしてない感じですね、わたしの場合は。 思考以前のわたしを体験したり、見ている風景が自分になったりの経験はあるものの、はっきりしてないですね。 鬼和尚さんは、ここがはっきりしたんでしょうね。
ただ、それが最終境地としてるような気がするな。 しかし、「見性」しただけでは本当の融通がつかない。 何か自分が過去に学んだものとか、得たものとか、聞いているものとかが邪魔をする。 そうやり続けていると、「悟り」の牢屋から救われる。 自己の無いことは判っても「単」をしょっちゅう練って行くのは容易ではない。 わたしは、でおーやら鹿野園やらろんと良く比較されるんですけど、似た者同時とか言われたりしますが、決定的な違いがあります。
わたしはこの3人を全く相手にしてないのに、向こうからストーカーのように粘着して来ます。
そして、わたしに余計な念を出さそうとあれやこれやするんですね。
まぁ、かなり悪質ですね。 でおーなんかわたしに20年も粘着してますからね、もう異常者以外の何者でもないですね。 坐禅をする人は自分の癖を取ることを主体にして、常に実践していれば良い。 「今」がどんなことであれ、「心」に留めてはならない。 ここですね、どんなことであれ、心に留めてはいけないんですけど、あの3人はあれやこれや言って心に留めさせようとするんですね。
修行の邪魔してるだけなんです。 自分がどんな刺激を受けてもさらさらやっていかなければいけない。 まぁ、この3人に何言われてもさらさらやっていければいいんでしょうけど、彼らはある意味さらさらやっていけないような事を言ってくるプロみたいなものですからね。
なかなか難しいものがありますね。
完全に無視するか、あぼーんするほうがいいですね。 本当にさらさらと、諸々の縁と対立無く人生する事は難しい。 この状態である限り、我々の掛け替えのない道具であるこの身体は.煩悩の根源であり苦しみの種である。 隔てが常に縁と対立して、心を惑乱させ葛藤するからだ。 瞬間に忽念として生じ、而もその連続こそが煩悩の根源である。 従って、今、忽念と生ずる心の元を解決する解決策は、隔てを取ることにある。 どうも、邪法にハマった者は正法の邪魔をする習性があるようですね。 正法を継いだ祖師方も結構邪法の者達に嫌がらせを受けてたみたいです、時には命も狙われるくらいに。
正法の祖師方はやっぱり噂を呼んで民衆から人気でるんですね。
そうすると、邪法の者達の立場が無くなるってわけですね。 本当に徹すれば、自ずから隔たりが取れて、心身一如の当体となる。 >>427
これが難しい。
これがずっと出来れば悟れるんだけどね。 みんな「只」をどう受け止めてるか知りませんが、「只」が一番難しいんです。
究極になりますと、息に意識を置く事は「只」ではありませんからね。 呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。 それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。 自ずから成るようになるまで練らなければ、本当の安楽も無いし、生死の不安からも救われない。 自分の考えなど入れず、その時のみに成って一心にすこと。 常に、そう努力していると、自然に「隔て」が取れていく。 無目的の坐禅は知らん間に妄想坐禅となり、ぽかんとした腑抜け禅になるから注意せよ。 どうしても本当の菩提心が無ければ邪禅になり、多少の落ち着きが有っても、損得など邪念は一向に取れない。 無明の根本を解決しなければ坐禅修行する意味が無い。 でおーはアク禁なのか書き込みがない。
ろんは2、3日ばったり書き込みがなくなった。
鹿野園はもう誰からも相手にされてない。
麦の書き込みも急に止まった。
色々移ろいで行くね。 「応無所住而生其心。」この語はみんな知っている大切なお釈迦様のお言葉である。 難しそうに聞こえるこの語も、砕けば「今」「只」のこと。 夕は和を大切にしようとしてるんだけど、わかってないから、人を見る目がないよね。 これは徹底「今」に成り切って、「今」を忘れなければ体得出来ないし、分からない言葉である。 「今」に徹すると、一瞬に今までの妄想が骨身に徹して感じる。 つまり妄想そのままが自分となり、妄想とすべきものが無くなる。 わたしはラピスさんに何故か一目を置かれてる。
宗教の方向も違うと思うんだけどね。
ま、共通点としては二人ともたくさんの粘着ストーカーがいるって事かな。 「隔て」が無くなり心身一如になれば何でもない事よ。 これは良いとか悪いとか、すぐ自我を立てるから「隔て」となる。 これは一つのものを立てて認めるから、二つに見たり、三つに思ったり、念が無限に広がって迷う。 単を練る。
禅はこれしかないんだ。
これが禅の奥義なんだよ。
でもね、もっと他に隠された奥義があるんじゃないかとか思ってしまうよね。
ありませんね。
あるとしたら、単を練る為の工夫とかですね。
これをいかに信じ込めるか。
まぁ、普通は信じられないかもしれないね。 比べる物がないのに、自己を立てて比べるからである。 世の中に処しながら、相手と一つに成って自在に変わっていくのを異類中行と云う。 私が無けれは全てが自分って事ですね。
理屈ではわかっても、これを実感するのは難しい。 ただ、正しい知識は大切なのでね、色んな事言う人多過ぎてね、最初は何が正しい知識なのかわからない。
ここを見てたら間違う事はないでしょう。 正法は「世界壊せども、この性は壊せず」とお経にある。 一点のみ集中して、正体のいかなるものかを自覚するのである。 本当に「今」が手に入ったら自ずから生死が気に掛からない。 生死透脱というのも、砕いて言えば「今」「只」のことである。 悟れないのは只管に成らねばいけないという意識が働いて、只管が只管を邪魔しているからである。
途中は仕方がない。 坐禅をする人は、自分の癖を取る事を主体にして、即今底を実践すれば良い。 一隻眼を具するとは、自己のないことがはっきりすることである。 一隻眼を具するとは、自己のないことがはっきりすることである。 自己のないところの確証をにぎってしまうと、大抵はそれをひっ下げてしまう。 坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。 例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。 「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。 >>558
これらの書き込みもこうならないといけない。 見たり、聞いたりの縁について何か出るうちは、何か引っかかってるいる。 辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。 自分の中に、何かが出た時は自我が立っている証拠である。 一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。 この正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。 せったん和尚さんに自分を見ない、観察しないと教えられた。
しかし、一方で自分を見つめるとか、自分から目を離さないという人もいる。
これ、結構悩みましたね。
自分なりの答えはこうです。
自分を観察しないとは自分で自分の過去を見つめないと言う意味で、つまり、自分で自分の過去を観察させない為に自分から目を離さないよう監視するって感じですね。 せったん師が言ってたのは、心は一つっきり、よって、心が心を見つめること不可能、ということ。。
これは、逆に言って、心が心を見つめること不可能=無心=心が無いとも言える。。
だから、無いものが見える=妄想、有心の人、ということです。。
で、心を見つめている限り解決はない、病気になるよ、といってたよね。。
まさに、今病気、廃人になっているのがあなたです。。w 逆に、心はない、もともと無心である、と言うことに気づいて、明らめれば、それで解決です。。
無いものを観察して、いじくりまわしていたら、二分裂の、キチガイになるだけ。。
今もう、なってますよね。。w 自分から目を離さないなんてのは、自己を忘ずる、の逆だからね。。
まったく道元禅師の禅からは外れた、よこしま、邪道やってるんです。。
自分いい方にもっていきたいという煩悩だけ、我執だけ、俗心だけ。。 いったんは、自分手放す、捨てるしかないってのに、その逆を延々とやっている。。
嘘、デタラメ、妄想しか言ってないのに、自己陶酔、自己催眠にかかって、独り言を連投とか。。w
頭オカシクなっていることに気づきましょう。。w 例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。 有心、有念、だから、ここに書いているんでしょ?w
余計なこと、嘘、デタラメしか言ってないでしょ?
言ってることとやってることが、正反対なのに気づけ。。w
ちょっと、普通じゃないよね、気づかないのは。。w
ちょっと知恵足らず、人より足りないやつにしか見えない。。w おれの話でも、せったんさんの話でも、聞いてもわからないでしょ?
理解できないでしょ?
そこらへん、ちょっと足らないんだよ。。w
気づいているか?w
だから、人に説くとか、できない人なんだよ、もとから。。
やってることは、聞きかじったこと、盲信して成り切りリピートしてるだけ。。w
だから、他からはまるで相手にされない。。
それが見え見えだから。。 二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。 知ったものがあれば、知った自分と二つになります。。
どこまで行っても二分裂になることしかやってない。。w 588 名前:カムイ ◆wxnBcJ8ZogOS [] 投稿日:2023/06/06(火) 23:10:24.85 ID:jLNtVger [1/5]
話は色々な事に渡るものだ。
589 名前:カムイ ◆wxnBcJ8ZogOS [] 投稿日:2023/06/06(火) 23:12:33.92 ID:jLNtVger [2/5]
二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。
これはいったい何?w
日常会話ができない人へのアドバイスですか?w
日常会話が普通にできる人には不要な、あたりまえのことじゃない?
人に言われたことそのままリピートしてるだろ?w
だから、対話ができなんだよ。。w こういうところでは、書かれた文同士だから、すべてのトピックについて、答えることも可能だよね。。
だから、言われた文脈を無視してリピートしているから、他には通用しない、意味ないこと言っているとなる。。 そもそも仏教は、対話、対機説法だよ。。
自分が言われたことリピートしても、他には通用しないことが多い。。
そもそもここは対話の場、それができない人は、去るべきでしょうね。。
独り言連投=ただのアラシですので。。w 対話、議論できない、というところで、もうここの一般平均の人からは、外れている。。
それは自覚した方がいい。。
まともな人に迷惑かけんようにして九九kださい。。 景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。 動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。 自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。 それには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。 心をコントロールしようとしてたら、永遠の二分裂、永遠の我執です。。
デタラメ言ってないで、黙って坐って下さい。。 そもそも、テクニック、手段、方法によって、悟るということはあり得ません。。
それらは、世俗の習い事と同じ、習禅です。。
すなわち、道元禅師の言ってる禅は、まったく違うまがい物。。
嘘、デタラメまき散らしているだkです。。 自己を運びて万法を修証するを迷いとす、と、道元禅師が言われた通り。。
それをどこまでやっても迷い、それで悟ったと思ったのなら、妄想そのものです。。 綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。 それを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。 何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。 対話せずに、殻に籠って、同じこと繰り返して、何百レスもするの、異常だよ。。
他のスレでも、みんなヤバいなって、ささやき合っている。。w
それが、今のあなた。。
病気です。。
自覚しましょう。。 そうしないと迷いと悟り、煩悩と菩提の涯際を付ける事ができない。 生死の涯際が取れるまで凡情が尽し切れるまで努力しなければならない。 自然の中で、カムイ君のような、おかしなことやってる生き物は、どこにもいない。。w
世間にも、そんなおかしなことやってるやつはいない。。w
自分だけ、迷っていることに気づきましょう。。w 「全て道である」すなわち煩悩即菩提というのは、いたり得た後の話である。 「単」「只管」「即今」「今」も大自然、つまり普遍の真理の異名である。 至り得る前から、人の役に立つために働くこと、すべてが道です。。
自分のための、仕事、生活も道です。。
他には、そもそもないです。。
だから、禅や仏教が、最後には不要になる、余計事になる。。
もとから無い、ということも言えるんです。。 「解脱」とはクセが落ちて、本当の「真理」に目覚めること。 聞いて分かった今は「考えた今」であり迷いの今である。 廓然無聖とは、はじめから、日常以外ない、それを超えた神々しい悟りなんてない、ということです。。
言い換えると、もともと迷いもない、ということです。。 要は、言語観念の世界にいるんだよ、カムイ君は。。
坐が足らないから、如実知見を見たことがない。。
あるいは、見たけど、それを悟りとか、今とか、観念で捉えて、また迷ったんでしょうね。。
言語観念の外部=如実知見=リアリティを見れば、迷悟是非善悪、もともと無いってわかるはず。。
それがわからんから、自我の観念妄想の世界をグルグル回っているだけなんでしょうね。。 言語観念知識、自我による認識の世界、では、どんなに努力しても、悟りはわからんよ。。
自分見て、ああなった、こうなった、評価しているのもダメ。。
そういうの全部やめて坐るしかない。。 だかこの真理を本当に自覚しなければ「今」に生きている本当の喜びも安心もない。 坐るだけでいいんです。。
それだけで、コロッと変わる、ガラッと変化するから。。 既にみんな「今」であるから、「今」を徹底注意して離さなければ必ず自覚する。 ちがいます。。w
変な知識捨てて坐って下さい。。w ここで、ワンキャン必死に叫びまくるバカ犬やってて、どこが禅なの?
どこが修行なの?w
ちっとは、バカさ加減に気づけ。。w どんなに努力しようが、菩提心あろうが、やってること間違っていれば、ぜんぶ無駄骨。。
骨折り然どころか、却っておかしくなって終わるだけ。。
もうおかしくなってます。。
気づきましょう。。w 悟りというのは、自覚のないものです。。
だから、悟りが有ったら、迷い。。w
自覚したら、迷いです。。
だから、自己を忘じてあるほかはないんです。。 何が迷いかって、主客の中にある認識が、ぜんぶ間違いだよって、だけの話。。
だから、その中で、どんなに努力しようが、無駄なの。。w 自分一つになったら、自分を自覚できるわけない。。
それが脱落、自己を忘じてあるということ。。
だから、自分見たらダメに決まってるの。。w これが禅の極意、これしかないって信じきれるかかですね。 本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。 考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。 多くは「只管」と言う言葉が、「只管」を邪魔している。 「只管」にならねばいけないとか、いう意識が働いている。 日常で只管にならなければいけないとか、誰も言ってないし。。w
只管打坐ということしか、道元禅師言ってないんだよ。。
ひたすら坐れ、というだけ。。
変ちくりんなこと言わないでください。。w
嘘、デタラメ、自分勝手な解釈を垂れ流さないでください。。 道元禅師がまったく言ってない、変ちくりんな思い込みを垂れ流しているだけ。。w
それに囚われて、犬みたいに、同じこと叫びまくる。。
廃人ですよ。。w まともに坐ったことない、坐れないだけだと思うよ。。
坐れてたら、それだけで、逝ける、死ねるということがわかるから。。
坐が足りないか、坐禅になってないか、それだけでしょう。。
坐って、いったん死ぬしかないんです。。
それができるかできんかでしかない。。
他にはないです。。 悟りという、心理状態とか、意識状態があるんじゃないんです。。
自分、もともと無い、無我であった、ということを明らめて、それに関わらない、そのままであれるかどうかなんです。。
言い換えると、喜怒哀楽、苦楽に浮沈するままです。。
何か特別な悟り状態を妄想するから、オカシクなる、いつまでたっても解決がないんです。。 迷悟もともと無い、法があるだけなんです。。
自分もともと無いんだから、どうこうする必要もともとなかったんです。。
それに気づくか否かだけ。。
仏法は、無我、無一物、無常、です。。
それに反して、自分を捉えて、運んで、悟り状態を維持しようとか、まったく法に反しています。。
それを止めないと、まともになれません。。 自分があるとか、心が有るってのが、間違い、勘違い、であったというだけ。。 只とか、単ではなく、どうあろうがそのまま、仏に任せる、縁に任せるということです。。
そのためには、自分を見ない、見ても、評価しない、どうこうしようとしない、運ばない、ということなんです。。
言い換えると、自分を忘れるです。。
見ないから、一つでしょ?
見てたら、見られる自分と見ている自分の二分裂でしょ?
それをやらないというだけ。。 それが一番楽であり、解脱なんです。。
自己解脱、自分から解脱している、脱落している、ということです。。
その逆やって、自分見て評価して、もっといい方向にもっていこうとか、理想の状態を実現しようって、
それは、仏道じゃない、よこしまです。。
そういうことをやらないということ。。 仏仏にさずけて、よこしまなるなき、これ自受容三昧、その標準なり、と言われる通り。。 余念を入れないように常に自分を見守っていなければいけない。 変てこトレーニング法書いて、禅を騙るのは止めよう。。w
詐欺です、騙しです、有害です。。 自己のないことがはっきりすることを「見性」という。 六祖曰く、境に応じて、思いが次々と起こってくる、菩提が長じるなんてことがあろうか?
これが悟りの様子です。。
カムイ君の正反対ですね。。 しかし、「見性」しただけでは本当の融通がつかない。 妄を除かず、心を求めずの逆をやってたら、邪法、邪禅です。。
いつまでやっての意味ないです。。w
取捨遺順ないのが、悟り。。
取捨遺順あったら、迷い。。 何か自分が過去に学んだものとか、得たものとか、聞いているものとかが邪魔をする。 見性とは、もとのままでよかったんだ、ということです。。
どうあっても、問題ではなかった、ということです。。
何か特別なことあったら、見性じゃねー、それでは終わらないから。。 逆に言うと、これが見性だ、というのがあったら、見性じゃないです。。
迷悟分かれる見性は、勘違い、妄想です。。 そうやり続けていると、「悟り」の牢屋から救われる。 自己の無いことは判っても「単」をしょっちゅう練って行くのは容易ではない。 だから、実際終わらないでしょ?
ずーと、意味のない努力し続ける不自由そのものでしょ?
もともと解脱していたのに、禅をやって却って不自由になっている。。w
やらない方がよかったんです。。w
向いてないんでしょうね。。 祖録で誰も言ってない、オリジナル、なんてありえないですよ。。
それは、単に禅じゃない、思い込みの、空回りしているだけです。。
だから、誰からも相手にされない。。w 生死の他に、悟りを求めるのは、ちがいます。。
正法眼蔵の生死をちゃんと読んでください。。
迷いを抜けて悟り、というのが、そもそもの大間違いなので。。 もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、
おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、
さらに解脱のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、
生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。
このときはじめて生死をはなるる分あり。 迷い即悟り、輪廻即解脱、生死即涅槃、の他に無いんだって。。
それを言い換えると今、になるというだけ。。
今の他にないとはそういうことです。。
他に求めるべきが無いから、解決なんです。。 坐禅をする人は自分の癖を取ることを主体にして、常に実践していれば良い。 「今」がどんなことであれ、「心」に留めてはならない。 自分がどんな刺激を受けてもさらさらやっていかなければいけない。 嘘ばっかり垂れ流すの止めましょう。。w
禅、じゃなくkて、カムイ教、というスレタイに変えてください。。 自分を吹聴して、自己満、オナニーしてるだけですよ。。w
恥を知りなさい。。 本当にさらさらと、諸々の縁と対立無く人生する事は難しい。 この状態である限り、我々の掛け替えのない道具であるこの身体は.煩悩の根源であり苦しみの種である。 隔てが常に縁と対立して、心を惑乱させ葛藤するからだ。 瞬間に忽念として生じ、而もその連続こそが煩悩の根源である。 従って、今、忽念と生ずる心の元を解決する解決策は、隔てを取ることにある。 本当に徹すれば、自ずから隔たりが取れて、心身一如の当体となる。 只、おしゃべり、只、独り言ブツブツ。。w
只管話堕。。w
只管5ちゃんねる。。w ただ坐るだけでは一生悟りは開けない。
坐禅(ざぜん)。
自我滅却(じがめっきゃく)。
自我滅却(じがめっきゃく)。 呼吸の一瞬が続けられれば、自然にすべてに一瞬一瞬のみにできる。 ただ坐るだけでは一生悟りは開けない。
坐禅(ざぜん)。
自我滅却(じがめっきゃく)。 それには涯際が付くまで常住不変に練らねばいけない。 自ずから成るようになるまで練らなければ、本当の安楽も無いし、生死の不安からも救われない。 5ちゃんに貼り付いていると、5ちゃんとの隔てが取れて、5ちゃん廃人となります。。w おれはたいしたものだ~、って吹聴して楽しいですか?w
他にやることないんか?w 私は、カムイさんを反面教師にします。
ただ坐るだけでは一生悟りは開けない。
坐禅(ざぜん)。
自我滅却(じがめっきゃく)。 >>755
わたしのことなどほっといて自分の信じた道を進んで下さい。 自分の考えなど入れず、その時のみに成って一心にすこと。 常に、そう努力していると、自然に「隔て」が取れていく。 無目的の坐禅は知らん間に妄想坐禅となり、ぽかんとした腑抜け禅になるから注意せよ。 どうしても本当の菩提心が無ければ邪禅になり、多少の落ち着きが有っても、損得など邪念は一向に取れない。 無明の根本を解決しなければ坐禅修行する意味が無い。 「応無所住而生其心。」この語はみんな知っている大切なお釈迦様のお言葉である。 難しそうに聞こえるこの語も、砕けば「今」「只」のこと。 これは徹底「今」に成り切って、「今」を忘れなければ体得出来ないし、分からない言葉である。 「今」に徹すると、一瞬に今までの妄想が骨身に徹して感じる。 つまり妄想そのままが自分となり、妄想とすべきものが無くなる。 「隔て」が無くなり心身一如になれば何でもない事よ。 これは良いとか悪いとか、すぐ自我を立てるから「隔て」となる。 これは一つのものを立てて認めるから、二つに見たり、三つに思ったり、念が無限に広がって迷う。 比べる物がないのに、自己を立てて比べるからである。 世の中に処しながら、相手と一つに成って自在に変わっていくのを異類中行と云う。 迷悟があるなら、絶対に他との隔ては取れないよ。。
100パー取れない。。
おれ悟った人、他はそうでない人なんでしょ?w
カムイ君。。
それが妄想。。w 禅はこうだとか、こうするのだ、とか、境界がどうのとか、言ってるやつは、野孤確定です。。w
で、そういう知ったことがあるうちは、隔ては取れません。。
だから、他があるでしょ?
相手がいるでしょ?
で、相手がいる=隔てがあるだよ。。
やってることと言ってることが、まったく正反対なんだよ。。w
他がいるから、必死で連投、バカムイワンワンになるんだよ。。w 隔てを無くしたいなら、何も知らん人になって下さい。。
で、黙って自分の修行をしましょうね。。
他のことではなく自分のこと、と言いつつ、画面の向こうへ向かって、毎晩吠えまくってるのがあなた。。w
オカシイのに気づけ。。w いいですか、仏法は自他不二です。。
もともと、自他はありません、他はいません、相手もいません。。
それがわかるかどうかです。。
相手がいると勘違いして、さらに、隔たりが有ると勘違いして、これからそれを無くしていこうは間違っています。。
で、自分もあると思ってるでしょ?
ぜんぜんお話になりませんよ。。w 正法は「世界壊せども、この性は壊せず」とお経にある。 一点のみ集中して、正体のいかなるものかを自覚するのである。 臨済宗(りんざいしゅう)に於ける(おける)悟り(さとり)とは、共同体の中で要領良く立ち回ってマウントを取り、旨い(うまい)部分を掠め(かすめ)取るスキルを会得(えとく)することである。 本当に「今」が手に入ったら自ずから生死が気に掛からない。 生死透脱というのも、砕いて言えば「今」「只」のことである。 そういう風に必死に主張しているものが我。。
主張する何か、があるうちは、我も隔てもなくならない。。
だから、言ってることとやってることが矛盾している。。w 我も隔ても、必要だから、あるだけ。。
無くす必要はない。。
余計なことしてるだけ。。w
アホかという話。。 あなたにとって大事なのは、自我なんでしょう、宗教的自我とその主張なんでしょう。。w
だから、どこまで行っても解決なく、ドンドンおかしくなっていくだけでしょうね。。
ドンちゃんが出てきたのもその理由。。w もとから解決している、と知らない限り、空回り、苦しみは続く。。
で、もとから解決していると知るならば、仏教や禅が余計となる。。
これは、あなたには受け入れられないでしょう。。
取り柄が欲しいだけなのだろうから。。
他に秀でたいだけなのだろうから。。 結局自我の認識の中で、自分がなくなったとか、また生じたとか、思っているだけなんだよ。。
寝言言ってるようなもんです。。 禅とか仏教とか修行とか忘れてください。。
そうじゃないと、わからないでしょうから。。 それらが執着になっている、我執になっている、ということなので。。
それらを手放さないと、わからないでしょう。。 悟れないのは只管に成らねばいけないという意識が働いて、只管が只管を邪魔しているからである。 機縁が整うということもあるようなので、頑張ってください
さとったら、ただで教えてくださいw 悟りとは今を自覚する事と、自己がないことがはっきりする事のようですね。 坐禅をする人は、自分の癖を取る事を主体にして、即今底を実践すれば良い。 一隻眼を具するとは、自己のないことがはっきりすることである。 自己のないところの確証をにぎってしまうと、大抵はそれをひっ下げてしまう。 坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。 例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。 「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。 見たり、聞いたりの縁について何か出るうちは、何か引っかかってるいる。 辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。 自分の中に、何かが出た時は自我が立っている証拠である。 一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。 この正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。 例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。 二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。 景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。 動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。 自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。 それには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。 綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。 それを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。 何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。 そうしないと迷いと悟り、煩悩と菩提の涯際を付ける事ができない。 生死の涯際が取れるまで凡情が尽し切れるまで努力しなければならない。 「全て道である」すなわち煩悩即菩提というのは、いたり得た後の話である。 「単」「只管」「即今」「今」も大自然、つまり普遍の真理の異名である。 「解脱」とはクセが落ちて、本当の「真理」に目覚めること。 聞いて分かった今は「考えた今」であり迷いの今である。 だかこの真理を本当に自覚しなければ「今」に生きている本当の喜びも安心もない。 既にみんな「今」であるから、「今」を徹底注意して離さなければ必ず自覚する。 本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。 考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。 多くは「只管」と言う言葉が、「只管」を邪魔している。 「只管」にならねばいけないとか、いう意識が働いている。 余念を入れないように常に自分を見守っていなければいけない。 自己のないことがはっきりすることを「見性」という。 しかし、「見性」しただけでは本当の融通がつかない。 何か自分が過去に学んだものとか、得たものとか、聞いているものとかが邪魔をする。 そうやり続けていると、「悟り」の牢屋から救われる。 自己の無いことは判っても「単」をしょっちゅう練って行くのは容易ではない。 坐禅をする人は自分の癖を取ることを主体にして、常に実践していれば良い。 「今」がどんなことであれ、「心」に留めてはならない。 自分がどんな刺激を受けてもさらさらやっていかなければいけない。 本当にさらさらと、諸々の縁と対立無く人生する事は難しい。 この状態である限り、我々の掛け替えのない道具であるこの身体は.煩悩の根源であり苦しみの種である。 隔てが常に縁と対立して、心を惑乱させ葛藤するからだ。 瞬間に忽念として生じ、而もその連続こそが煩悩の根源である。 従って、今、忽念と生ずる心の元を解決する解決策は、隔てを取ることにある。 このスレッドは1000を超えました。
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