【仏教】悟りを開いた人のスレ675【天空寺】
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悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
>>970が次スレを立てる。無理なら有志諸氏にお願い。
初代管主 鬼和尚
現在管主 カムイ
後見役 ヒマラヤ修行僧Yuki
✳︎鹿野園と麦は、立ち入り禁止!
◎前スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ674【天空寺】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1684963291/1-10 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。 更にコピペじゃ。
未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。
感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、
「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、
今、感じている感覚を観察するのじゃ。
その鐘の音によって生じる感情も、「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと
巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。
物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて、
「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。
このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、
最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。 【鬼和尚天空さんの体験と見解】
わしは金剛経を読んでいる時、観照が起こった。
観照によってわしの自我は消え去った。
そして静寂と安心が起こった。
もはや守るペき自我が無いことにより、緊張と不安が消えたためじゃった。
そして、智慧が湧いた。
自我が消えた故に、自我の歪みを受ける事の無い、平等性智が起こったのじゃ。
わしはその智慧に問うた。
(ここでは言葉を使う必要上わしという主語を使うが、その時の心にわしは無かったと覚えておくのじゃ)
この境地が最後のものであるのか、すると自然に智慧が湧き起こり、答えが湧いて出た。
この境地が最後のものではない、未だ安心と静寂を認識するものが残っている、と。
そこでわしは更に認識するものを観察し、それが実体が無く、空であると観じた。
自我が消えてしまえば認識を破壊するのは容易であった。
空であると観じていると、認識するものが消えた。
そして、認識するものがなくなると、言葉やイメージで表せるものが全て消え去った。
そこにおいてはもはや見る者も、見られるものも、見るという事も無かった。
言葉もイメージも、記憶さえも無かった。
全てが無かった。
そして無でさえも無かった。
今、何年も経ってからでさえ語るべき言葉の無いものじゃった。
わしはそこで全ての技を捨てた。空であると言う観も捨てた。
そこでは為すべきことは無く、為す己が無く、為すという行為さえ無かった。
わしは再び問うた。(本当はもうわしは無いんじゃよ、わかっとるね?)
この境地が最後であるかと、智慧が答えた。
この境地が最後である。何故ならもはや為すべき事も、為すべき者もおらず、為す事も無いのだから。と、智慧が答えた。 (続き)
そこには智慧があった。平等性智、大円鏡智、妙観察智等の智慧が全てあった。
無為にして坐り続けるわしの前に、一切の神秘が開かれた。
わしは世の一切が平等であり、空間さえも一つの同じ意識を共有しているのを感じる事が出来た。
わしは死の意識を知り、死がもはや無い事を知った。
死は意識の消滅ではなく、変化に過ぎないことを知った。
わしは経典の言葉が理解出来るようになった。お釈迦さまが何を言わんとしていたのか、判るようになったのじゃ。
世界は全て一つの意識で出来ており、それは唯一なるが故に、一つと数える事さえ無いものであった。
わしは長らく坐っていたようじゃ。
永遠の安らぎである涅槃がそこにはあったのじゃ。
わしは菩薩の誓いを思い出した。
悟りを得たら、再び地上に返って人々を導くと言う菩薩の誓願が、わしを押し止めた。
わしは定を解き、ここに帰ってきた。
自我は無くなっていた。
人と話をする為に擬似的自我を作り出したのじゃ。 じゃ、鬼和尚さんこれは?
鹿野園や麦のようなタイプはどう対処したらいいんですかね。
みなくてよいのじゃ。
お釈迦様も他人のしたこととしなかったことを見ず、自分のしこととしなかったことを見よ、と言っているのじゃ。
他人の言動をいくら見ても修行は少しも進まないのじゃ。
限りある時間を自分の実践に向けるとよいのじゃ。
邪悪でおろかな者たちは自ら滅んでいくに任せるのじゃ。 418 名前:鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 [sage] :2021/12/24(金) 23:40:36.46 ID:QgMqQ6hN
臨済宗天龍寺派のジャンキーの鹿野園は、
一 嘘をつく、
二 自作自演をする。
三 他人をののしる。
という三悪業を重ねたからみんなに嫌われたのじゃ。
お釈迦様の言葉どおり、うそつきが生きながら地獄にいく過程をみるがよいのじゃ。
実によい反面教師なのじゃ。
今までのことを謝罪して、懺悔告白すれば許されることもあるかもしれんがのう。
そうでなければ生きて地獄、死んでも地獄という永遠の地獄なのじゃ。 ・
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・ テンプレは、ここ迄なのじゃ
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