カッチャーヤナ(迦旃延)
南伝 相応部経典 一二、一五、迦旃延氏/
漢訳 雑阿含経 一二、一九、迦旃延

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、尊者カッチャーヤナ(迦旃延)は、世尊のましますところにいたり、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。

その傍らに坐した尊者カッチャーヤナは、世尊に申しあげた。
「大徳よ、正見、正見と申しますが、大徳よ、正見とはいったい、どういうことでございましょうか」

「カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、有か無かの二つの極端に片寄っている。
カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間には無というものはない。また、カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。
カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。
だが、聖なる弟子たるものは、その心の依処に取著し、振りまわされて、〈これがわたしの我なのだ〉ととらわれ、執著し、こだわるところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。ここに智が生ずる。
カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。
カッチャーヤナよ、〈すべては有である〉という。これは一つの極端である。
また、〈すべては無である〉という。これももう一つの極端である。
カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、中によって法を説くのである。