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【イエス】癒し主 救い主【キリスト】Part365

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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/01/25(水) 10:49:26.52ID:ISVH4cCq
『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
(マタイ 22:37-38)

肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
(ガラテヤ 5:19-24)

だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
(ルカ 9:23)

もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
(ヨハネの手紙第一 1:10)

あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。
(マタイ 28:10)

※前スレ
【イエス】癒し主 救い主【キリスト】Part364
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1673976120/
0848神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/01/29(日) 01:53:19.63ID:ueJ/4iUo
chatgptはまだまだ未成熟なのでこういうのはwikiのほうが賢い

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ハンセン病の歴史

ヨーロッパには中世初期に侵入したと考えられており[1]、300年頃からみられ、民族大移動などによって全ヨーロッパに広がったとみられる。 イエス・キリストがレプラの患者に触れて治癒させた奇跡の記述が『新約聖書』「ルカによる福音書」にあり、イエスの絶対愛のあり方を物語っている[9]。ローマ教会は患者救済のため、「ラザロ」の寓意よりなる「ラザレット(英語版)(らい院)」を設け、患者の救済・保護をはじめた[注釈 5]。11世紀・12世紀にはハンセン病の流行が急速に拡大した。

1096年にはじまった十字軍は、パレスティナの特にエルサレム地域のハンセン病がヨーロッパに蔓延するきっかけとなった。罹患した兵士のためにエルサレムにラザレットが作られ、患者救済が行われた。英邁で知られるエルサレム王国の国王ボードゥアン4世もハンセン病患者とみられている。その後、ヨーロッパ各地にもハンセン病が蔓延してきたため、フランスやドイツなどにもラザレットが建てられた。ラザレットでは、ハンセン病を「ミゼル・ズフト」(貧しき不幸な病)と称して救済が行われたが、当時のローマ教会は『旧約聖書』にもとづき、「ツァーラアト」の措置として「死のミサ」や「模擬葬儀」など祭儀的な厳しい措置が行われることも多かった。また、外出時には自分が患者であることを分かるような服装を強制され、公衆の場に出ることは制限された。
0849神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/01/29(日) 01:53:51.39ID:ueJ/4iUo
『旧約聖書』「レビ記」の13章と14章には、患者と思しき人物を一時的に隔離して祭司が経過を観察する法があるが、これには感染していなかった場合や治癒した場合の復権の規定も含まれており、不治の病であるかのような誤解にもとづく種々の差別とは一線を画している。中世において行われていたのは公衆衛生上の隔離ではなく「風俗規制」による社会的隔離のための患者隔離政策であった。具体的には「現社会からの追放」「市民権・相続権の剥奪」「結婚の禁止、家族との分離、離婚の許可」「就業禁止、退職の促進」「立ち入り禁止などの行動規制」などであった。一方で兵役、納税、裁判出頭の義務は免除されていたが、それは公民としての存在が否定されていたことを意味する。そのため、ハンセン病患者に対する偏見・差別が拡大した。社会的隔離政策の勅令としてはフランク王国のカール大帝によるものが有名で、その後出現した法治国家でも「患者隔離法」や「患者取締令」によりらい院に強制収容された[注釈 6]。

十字軍遠征により、ヨーロッパには多数の天然痘患者とハンセン病患者がもたらされたと考えられている[10]。西欧では13世紀をピークとして流行し、各地にハンセン病の隔離施設ができた。この時代、全ヨーロッパで1万9000か所ものハンセン療養所(レプロサリウム)が建設されたといわれる[3][11]。

ハンセン病患者は、健常者に対し、自分に近づかないよう知らせるためのフラヴェルというカスタネットを携帯することとなっていた[10]。一方、中世ヨーロッパに暮らす人びとは、同胞の苦しみを敬意と共感をもって見つめること、病人に対する嫌悪感や不快感を乗り越えて兄弟に対するような慈愛を示すことを教えられ、そのように行動することを求められてもいた[10]。13世紀のフランス王ルイ9世は、ロワイヨーモン修道院(フランス語版)をたずねるたびに、病毒のために顔がくずれ、人びとの恐怖感の対象であったレプラの患者の食事の給仕をみずから行うことを自身に課しており、また、フラヴェルを鳴らして自分から遠ざかるよう警告した患者に対し、水たまりがあるにもかかわらず彼に近づき、その手に接吻したという逸話がのこっている[10]。アッシジのフランチェスコについても、同様の話は多数のこっている[10]。
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