>>250 あかべいさん
> >>249
> ちなみにあなたは愛という心について真剣に考えたことはありますか? どうすれば互いに愛し合えるか、命懸けで愛し合うとはどういうことなのか考えたこてありますか? いろんな宗教の良いところではなく悪いところだけを見てケチをつけて安心し満足していませんか? それは隣人に対してでもそうではありませんか?

これまで 愛と言う日本語に訳されたことについても書いてきましたが、なんにも伝わる事が無かった。のですね。

仏教では渇愛(かつあい)と言って、執着です。

また、愛欲と言う男女の愛欲も差します。

つまり愛は、
明治期、外国文化を日本語化するにあたって、宗教用語は多く禅宗用語から摂り入れました。
たとえば、禅宗がみずからをおおもとに教え、宗教と言っていたことから、宗教と和訳されました。
さて、
愛ですが、
450年前のキリシタンたちは 「おん大切」と言っていました。
それは、最も原意に近い役なのだそうです。

Jesusの言う「」隣人愛、についても、

生まれて育った、それ以来のよくよく知っているむこうさんげんりょうどない向こう三軒両隣の幼馴染やその兄弟たちや、その父母や、祖父母の顔見知りの人を大切にしなさい、と言う教えです。
見も知らない形而上学手に中台ではありません。

愛と言う言葉に 酔っ払っているのでは、ありませんか!?

無意味な、無駄な、形容詞、形容詞句をつけて飾り立てている 虚しさがありますよね。

ン報いのない重度障碍者を看護師さんは、学校を出て2年間で消耗しきってしました。

それで、そこを対処しました。
それほどに反応がなく、底なし沼に手を差し伸べる空虚だけがあって、遂に身も心も擦り切れてしまった、そうです。
が、また、そのあとを学校卒業したばかりの若い人が、変わりに担いでいくのです。
そうやって、1日が積み重なっていくのです。

独りよがりの、~してやってるんだぞ、は、おんきせがましいから、モチベーションが長くは続かないし、いつの間にか、とんでもない正義感に発展しかねませんね。