「では比丘たちよ、滅尽した(と知る)智の因由は何か。
それについては解脱であるというべきである。」
(『原始仏典Ⅱ相応部経典二』春秋社、75ページ)

煩悩が滅尽したと知る智慧、つまり漏尽智が生じた理由は、
「解脱であるというべきである」と説明しています。
解脱したことが原因となって漏尽智が生じたと述べていますから、
「解脱→漏尽智」です。
この釈尊本人の説明をこれまでも何度も引用したが、ペテン大作さんの
読解力ではこの釈尊の言葉も「漏尽智→解脱」と読めるらしい。

「かくのごとく心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れなく、柔かで、
巧みで、確立し不動となったときに、我々は汚れを滅す智(漏尽智)に心を向けた。
そこでこの(一切は)苦であると如実に知った。」
(『ゴータマ・ブッダ ー釈尊の生涯ー 原始仏教1』中村元、184頁)

彼が引用した沙門果経↑でも、「よごれなく、汚れなく」とあり、
これは煩悩がないという意味ですから解脱です。
解脱の後に漏尽智が来ますから、これも「解脱→漏尽智」です。
沙門果経はペテン大作さんが引用したのに、彼の読解力ではこの釈尊の
言葉も「漏尽智→解脱」と読めるらしい。
釈尊本人の明瞭な説明さえも、ペテン大作さんは理解できないのですから、
もはや手が付けられない。
読者の皆さんは、私が彼の現実世界の周囲の人たちと同様に、
彼との議論は無理だと十数年前に諦めたのもわかるでしょう。