>>265
テオピロは実在の人物であったかどうかも分かっていないということですね

このときの弟子たちの認識では、実際のイスラエルが終末において
世界を支配する国家を復興させるというものであったが、
ルカとしては具体的なイスラエル国家の復興ではなく、万物の更新というはるかに壮大なスケールでの
見通しであった、ということですね

預言の成就という叙述形式は、事実としてのイエスの刑死という絶望的な状況を
ヘブライ語聖書の再解釈によって新たに意味づけし、イエスを予言された救い主として再構成する意図が
あった、ということですね
わたしはイエスは少なくとも自分を苦難の僕と同一視し、当時のユダヤ教的な意味とは異なっていても
ひとつの救い主あるいはそれに準ずるものとして自らを認識していたように考えていますが
弟子たちや福音記者たちは同邦のユダヤ人たちにイエスが救い主であることを
「立証」するためにヘブライ語聖書の預言の成就という形式に拘ったのだろうと考えています
イエスの自己意識に関しては先生と考えが異なるかもしれませんが、福音記者たちの意図に関しては
おおよそ同じ方向性の解釈だと思いました

さて2章ですが、ペンテコステの聖霊降臨の箇所ですね

前半は聖霊降臨によって使徒たちが異言を話し出しますが、ここでは実際の異郷の言葉(外国語)です
今では異言と言えば、一般に意味不明の言葉らしきものを発する際も異言と言われることが
多いと思うのですが、この意味不明語を異言とするのは、とこかに聖書的な由来があったんでしたっけ?

14節以降はペテロの演説ですが、まさにヘブライ語聖書の預言の成就という形をとってますね
特に34-35節の『主はわが主に〜』の箇所は、詩篇の筆者がダビデだという「常識」に則って
ダビデが「わが主」と言っているのだから、これはキリストにほかならないと
ペテロは考えたようですが、少なくとも詩篇のこの箇所はダビデ配下の他の著者の作であると
しか考えられません
ペテロの解釈ではここでの「主」はヤハウェ、「わが主」がキリストですが
ダビデの言に唐突にヤハウェ以外の主が出てくることは考えられないので
実際は別の著者がダビデを指して「わが主」と言ったのだと思います
先生はこの箇所をどのように考えますか?