草柳:  しかし如何にブッダと雖も、お腹が空いたら、やっぱり「お前、ほんとに困るだろう」という悪魔の囁きというのは、実に人間臭いですね。
 
奈良:  よくわかる気がするんですね。ところがこの重要なことは、この今のエピソードが、実は修行している時の釈尊ではなくて、悟りを開いた後の釈尊に出てきているということが、大変大きな意味をもつと思うんですね。
 
草柳:  普通悟りを開いたら、もうそういう悪魔は普通だったら出てこないんじゃないかと思うんですが。
 
奈良:  というのが、普通の考え方と思うんですね。何故かと言いますと、いろいろ仏典を見ましても、必ず降魔成道(ごうまじょうどう)と出てくるんですね。「降魔」というのは、悪魔をくだす、という。
(略)
常識的には悟りを開いた後の釈尊には、悪魔が出てこないというのが常識的なんですね。事実、大乗仏教の時代になりますと、悪魔は悟りを開いた後のブッダには出てこないんです。
 
草柳:  大乗仏典というと、大分後の世になって編まれたものですね。
 
奈良:  ずっと後になるわけですね。大乗仏教というのは、西暦前後ぐらいから起こりました新しい仏教の運動ですから。
その時には、悪魔は悟りを開いた後のブッダには出てこないんですね。ところが原始仏典には、悟りを開いた後の釈尊にも姿を現して、釈尊に語り掛ける。
ということは、釈尊の心の中に、悟りを開いた釈尊であっても、悪魔が出てきているということですね。
問題はその意味を少し考えていかなくちゃいかんと思うんですけどね。
 
草柳:  どんなふうな形で出てくるんですか。
 
奈良:  結局これは欲望というものの形に、考え方によってくるんですけれども、またいろいろな例の中でそうしたことがずっと後で出ると思うんですけれども、端的に言いますと、欲望というものは人間に本能的なものなんですね。
本能的なものですから、本能はやかり本能で、人間生きている限り出てくるわけですね。
ところが釈尊は、そういう欲望を抑制することを教えていたわけなんです。
ですから抑制することがほんとに熟して、もうスッと抑制はしているわけですけれども、しかし本能的なものですから出てくる。
その辺のことを原始仏典は正直に出しているわけですね。
大乗仏教の方になりますと、それが非常に形式的と言いますか、悟りを開いたブッダに悪魔は出てくる筈がないというんで、実は出てこないんですね。
 
草柳:  つまり後の世の仏典になると、かなりそういう意味ではブッダ、お釈迦様が神格化されて表されているという。

平成十一年八月十五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」