で、そのアートマンなる終極的な認識主体は

あるのか(真我)!?
ないのか(無我)!?

……それは一旦置いといて、逆の発想で「そもそもなんでそうした有る無し議論が起こるのか?」って事を考えた時、その原因の一つとして「ことば」に着目する訳です。

仏教が言語哲学って言われるのもそうしたところにあるのでは?

龍樹なんかがそうなんじゃないんですか?
法身(理致)の公案もそこでしょ。