それぞれの宗教における絶対者が単に有的であれば、諸宗教はけっして両立しえない。
また、絶対者が単に無的である宗教においては、他宗教との真の対論というものがない。

従来、聖書の神は単に有的に理解されてきた。そのために、他宗教の全面否定に走った。

しかし、単に有的にではなくて、無的にも理解されるようになったことによって、真の対論が原理的に可能となった。
相互否認に終わる偽りの対論ではなくて、相互承認に終わる真の対論の原理的可能性は自己の無性の自覚に存するのである。
けっして有限性の自覚に存するのではない。

人は言うかもしれない。自己の有限性を自覚して、自己絶対化を慎むならば、相互の平和共存は可能となろう、と。

しかしそうではないのである。
そこでは徹底した真の対論も真の相互承認も起こらないのである。

各宗教は自己の絶対性を主張すべきである。

しかしながらそれでいて、この絶対性を単に有化しないことが肝心なのである。
信仰に関しても、それが単に有的であれば、他の信仰を審くことになる。
すなわち、他の有的信仰に対しては、自分の信仰と異なる、と言って。
また、他の無的な信仰に対しては、信仰が無的である、と言って。

しかし、信仰が無信仰の信仰であるならば、信仰を有的に絶対化し、他の信仰を審くことはないであろう。

(宗教哲学入門 (講談社学術文庫)  量 義治  )